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2013年3月30日 (土)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その30 誰が米国追随だったのか・・・

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p275
「キッシンジャー国務長官は、同じ時期に、米中外交の道がひらけた
ことで、アジアにおける日本の役割は変わりつつあって、身の程
知らずの背伸びは同盟国の秩序を乱す
、という意味のことを語り、
日本がアメリカに対して対等外交から従属へ転換すべきだと
示唆しているという」

==>> キッシンジャーは、ここで日本あるいは日本人に
対して、非常に差別的な言葉をつかっていたことを
この本に書いてあるのですが、それは本で読んでください。
ここに書きたくはありません・・・・

福田政権は・・・米国が「対米追随」を強要しないとき、いかに
日本が立派な自主外交ができるかを示しているのです。

p277
福田氏はアメリカとだけ仲良くするとはいっていません。
「・・・もっと広くさまざまな地域の問題に働きかけていく」

その代表が対中国政策と、対ASEAN政策でした。
米軍がベトナムから撤退したあと、東南アジアには不安感が
ただよっていたのです。

p278
かつて外務官僚が自主的に知的研鑚を行っていた時期がありました。
その教養が「福田ドクトリン」につながっていたのです。

==>> いわゆる福田政権の「全方位外交」なんですが、
これは言わば、最近の鳩山政権に似たようなところが
ありますね。
「アジアとの心と心のふれあい」というような文言が
この「全方位外交」」に書いてあります。
あの「ほ~ほ~ほ~~」という福田節を思い出します。

p279
大平首相は・・・・カーター大統領との会談でも「日米同盟
関係」という言葉を使い、「日本は良きにつけ悪しきにつけ
どこまでもアメリカを支持し、良きパートナーとしての役割
を果たします・・・」

p280
・・その外交路線は吉田、池田ラインを継承した「対米追随」
路線でした。・・・・この流れが、中曽根政権をへて
のちの小泉政権で大きな変化をもたらすことになるのです。

==>> 「良きにつけ、悪しきにつけ・・・」という
言い方は、まったくもって、追随一辺倒なんですね。
右派というのは独立派のことかと思っていたら、
なんと追随派のことだったんですねえ。

p283
1979年の段階で、鈴木(首相)と米国の立場は明確に
異なっています。 米国は日本が一段と軍事的貢献をする
ことを望んでいます。 しかし鈴木は「軍事的な協力は
行いません」と言い切っています。 

p284
(鈴木首相)「私はアジア外交と、アジアの善隣友好関係という
ものを強化することを、外交の最大の眼目にしておった
わけですよ」

p288
米国はソ連との軍備競争の中で、本当の意図を説明しないまま、
日本の海軍力を使おうとしていたのです。 そのことを
日本側は正確に理解していませんでした。

==>> 鈴木首相は「田舎の村長」というような国際政治音痴
という評判が定着していたとされているようですが、
著者は、ここで、いやいやそんなこともないよ、と
日米共同声明での「同盟」問題のことを書いてあります。
読売新聞が、米国よりの記事でそれを煽ったようなことが
あったようです。

その31へ続く

 

 

 

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2013年3月29日 (金)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その29 田中首相は日中国交回復で政治生命を絶たれた?

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p260
米国が政治的に葬った政治家といえば田中角栄です
中曽根元首相も田中首相は米国に葬られたと判断しています。

つまり中曽根元首相はここで、ロッキード事件が米国の謀略
あり、キッシンジャーはその裏側の事情を知る立場にあった
ことを示唆しているのです。

「田中君は、国産原油、日の丸原油を採るといってメジャーを
刺激したんですね。 そして彼はヨーロッパに行ったときに
北海油田からも日本に入れるとか、ソ連のムルマンスクの天然
ガスをどうするとか、そういう石油外交をやった。
それがアメリカの琴線にふれたのではないかと思います。」

日本では、「田中首相は石油で独自外交を展開したから米国に
やられた」というのがほぼ定説
になっています。

==>> へえ~~、それが本当だとすると、米国の石油
メジャーが田中首相を葬ったってことになるんでしょうか。

私は昔、その米国メジャーのひとつであるガルフ石油の
日本法人に勤務していました。 その会社の同じビルに
田中角栄の事務所があって、一度だけ、エレベーターの中で
出くわしたことがあります。
もちろんボディーガードが一緒でしたけどね。
随分背が低くて、色が黒い田中首相でした。

さて、しかし、ここでこの著者は そのことに疑問をいだいて
いるんですね。

p261
田中首相は次のような考えをもっていました。
「戦後の復興と繁栄は、農山漁村の犠牲のうえになりたつ
ものであったはならない。 大都市と地方が共存共栄できる
均衡のとれた国土の再編成、再利用を実現すべきだ」

「日本列島改造論」

p262
1974年・立花隆氏が「文芸春秋」・・に「田中角栄研究
その金脈と人脈」
という評論を発表しました。
これが田中首相降ろしの始まりです。

p263
この評論は発表時には、ほとんど政治的影響力をもちませんでした。

しかし、田中首相が日本外国特派員協会へ講演に出かけます。
ここでアメリカ人記者を中心に徹底的に「田中角栄研究
その金脈と人脈」の問題が追求されたのです

これは非常に不可思議な動きでした。

p264
・・もちろん首相辞任などという事態にはなりませんでした。
ところが朝日新聞と読売新聞が・・・一面トップで大々的に
報じます。・・・なんのことはない。 またもや朝日新聞と
読売新聞が火をつけているのです。

米国、新聞、政界がいっしょになって動く構図がここで
また登場します。

p266
三木氏が首相として、田中前首相を有罪にするために採用した
訴追手法は、過去に例のない異常なものだったからです。

ロッキード事件・・・・の裁判で田中元首相は有罪となり、
政治生命が絶たれてしまうことになったのです。

p267
田中首相が関与しているのでは・・・決定的な証拠がなかった。

p269
日本の検察が米国にいき、嘱託尋問を行い、その証拠がもとで
田中首相は有罪になり、政治生命が絶たれました。

p270
「司法処理も法治国家という点からみて疑問が残る裁判でした。」

「・・・弁護士を立ち会わせ、反対尋問をさせなかった。
時代の空気というものに、つまりジャーナリズムの作った
雰囲気に法の番人までが冒されたということは、司法にとっても、
戦後日本にとっても大変な恥辱だったと思います。

中曽根氏はこのロッキード事件というのおは、米国によって
意図的に作られた事件だとみているのです。

p271
なぜアメリカは田中角栄首相を政治的に葬りたかったのでしょうか。
私は日中国交回復が米国を怒らせたのだと思っています

==>> この著者は、このように書いているんですね。
どうも、石油の自主的外交じゃなくて、日中国交回復をやった
田中首相に怒ったから、米国発の不可思議なロッキード事件を
使って 田中首相を葬った。

この著者の読みが本当であるとすれば、今の尖閣諸島を
めぐる日中の問題は米国としては都合がいいってことに
なりそうですね。
先に、中国と米国の間には尖閣諸島について何か秘密合意
があるのではないか、という話も出てきましたし。

その30に続く

 

 

 

 

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2013年3月28日 (木)

久々の労働・・・変な夢を・・ナイトクラブ探検隊 <その2>

我々三人は、カラオケ棟からディスコ棟へ移動した。
店が二つの棟に分かれていて、どちらへも飲み物や食べ物
と一緒に移動ができる。
ディスコ棟からカラオケ棟へは、指名した女の子と一緒に
移動もできる。

ここは、バギオの飲み屋が何軒か並んでいる中心部とは
違って、ちょっと外れたところにある。
タクシーの運ちゃんに聞いたところ「マグサイサイ通りと
ブカオカン通りが交わっている辺りに数軒あるけど、
あそこはちょっと危ないよ・・」との話だった。

10時を回っていたが、ほとんど客はいなかった。
ショーをやっているはずの時間だったが、それもなかった。

そして、三人が一番まえのソファーに座ってしばらくすると
やっとショーが始まった。
7~8人の女の子たちが、腰のところに番号札を付けて
ファッション・ショーのように歩く。

お客さんがその番号で指名する仕組みである。

店のウエイターが注文を取りに来た。

「だれかお気に入りの女の子いましたか?」

「いや、番号があるって気が付かなかった・・・」

「じゃあ、日本語が話せる子をひとりと英語が出来る子
 を一人でいいかな・・、
 一番最後に出てきた29番の子は英語が出来るでしょ?」

「今日は 日本語出来る子は 一人だけいますよ。」

年配三人組は、おしゃべり攻撃・探検隊である。

予算の都合上、男三人の間に女の子二人が座った。

ビールをお客が飲むと 1本70ペソくらい。
女の子が飲むと 1本340ペソである。

10年位前は300ペソくらいだったから、世の中の物価上昇
と比べると、あまり高くはなっていない。

フルーツを一皿頼んだら、大盛りで200ペソだった。
割とリーズナブルである。

一番端の私の隣には、「日本語を話せる」子が座った。
向こう側には、「英語を話す」子が英語留学中の年配者の
隣に座った。

「日本はどこで働いていたの?」

「浜松な。ちびまる子ちゃんの・・・」

そうなのか、ちびまる子は浜松なのか・・・

(調べてみたが、よく分らない・・http://www.mapple.net/spots/G02201292902.htm )

「何年前?」

「8年前な」

彼女の語尾には「な」が入った。
浜松の方言は そうだったのか・・・・
そう言えば、名古屋出身の人も 「な」がついていたような・・・

(調べてみると、静岡弁で「ね」を「な」ということがわかった・・・http://homepage1.nifty.com/zpe60314/kotobahogen22.htm )

「私は踊りじゃなくて、歌手な・・。大学での専攻は会計学だから・・」

「あらら、会計学を勉強して、この仕事をやってんの?」

「会社の会計の仕事は 給料少ないだから・・。」

浜松で働いていた時には、店の関係の翻訳の仕事もやっていたという。
英文の契約書なども・・・

「ビールは1本 340ペソだけど、この内あなたはいくらもらうの?」

「5本飲むと 1,200ペソな・・・」

つまり、1,700ペソの7割が女の子の収入になるらしい。
飲んだ本数によって、微妙にその割合が変わるという。

「一か月の給料は フィリピン大統領よりも多いときあるな・・」

「フィリピン大統領の公式の給料は 5万ペソくらいだったっけ?」

「だから、月給5万とか6万とか・・・
 でも、マニラに三か月に一回帰ると、全部なくなっちゃうだから・・」

店に出ている女の子は数名しかいない・・・

「ホーリー・ウイークは 田舎に帰らないの?」

「このお店は35人くらい女の子がいるだけど、
 今日はほとんど田舎 帰っただから・・・
 私はマニラな  帰らないよ。」

日本で翻訳の仕事をやっていたと言うが、かなり怪しい・・・
英語の契約書は作れるとは思うのだが。

「このお店は やっぱり韓国人のお客さんが多いんでしょ?」

「ほとんどフィリピン人、日本人のお客さん 少しだけ。
 韓国人 あまりないな。」

「へえ~、珍しいね。」

「韓国人 Hだからな。 このお店 厳しいだから。」

「韓国人は 若いからでしょう。 日本人は爺さんばっかりだから。」

このお店は、過激な接待はご法度であるらしい。
ご法度破りは首にされるのだという。

「あの子は 日本人な。 お父さん日本人。愛子。」

彼女は ステージで踊っている子を指して言った。

・・・と言うことは、その愛子は 日本語は話せないってことか。

おそらく、母親も同じような仕事をしていたのだろう。
そして、その娘もこの仕事をせざるを得ないことになった・・・

・・・・

深夜ちかくになって、店を出た。
なぜか悪酔いしていた。

酔い覚ましにテレビをみて、メールをチェックして、
ベッドに入ったのは3時ごろだった。

寝る前に NHKテレビで 気力が失せた40代の主婦が
スーパーのレジのパートをしているアニメをやっていた。
亭主はリストラをされ、やっと転職を果たしたが、その主婦は
亭主の気配りの無さをボヤキ、娘の外泊に何も言えず、
「私はお母さんみたいになりたくないの!」と悪態をつかれ、
そして、プッツンきた主婦は 息子を張り飛ばす。

・・・・

そして、9時に起きたのだが、身体がまだ寝ていた。
毛布をかぶってソファーでうとうとしてしまった。

そして見たのが その夢だった。
夢の中でも 身体が重く、朦朧としていた。

これを二日酔いと呼ぶのだろう。

 

 

 

 

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久々の労働・・・変な夢を・・・ナイトクラブ探検隊

ふっと意識が無くなって、
そして、意識が戻ると、私は、どこかの学校の校舎あるいは講堂
の隅っこにある椅子に座っていたんです。

そこには椅子や机が積み上げられていて、壁との間に一人が
やっと通れるほどの通路になっていて、
その通路の奥には部屋があって、どうもそこは何かの部室の
ようで、たまに人が出入りしているんです。

私はなぜそこに寝ていたのかを思い出せない。
多分、その朝家を出たのは、その学校で何かのイベントをする為
だったように思うんです。
そして、そこで何かの準備を始めた途端に意識がなくなった。

そして、気が付いた時には、もう夕方に近い雰囲気だったんです。
「ああ、先生に今日は欠席しますって連絡しなくちゃ・・・」
どうも、自分自身が未だ学生ということみたいでした。

「保健室で休んだ方がいいかな? それとも家に帰った方がいいのかな」

そんなことを考えながら、なにが身の回りにあるのかを、なにか
無くした物がないかをチェックし始めたんです。

何故かその雑然とした場所で、毛布を掛けて椅子に座って寝ていた
んです。 時計は・・・机の上を手探りで探すと、時計が4つか5つ
出て来たんです。でも、自分の時計は無い。

「誰かが盗んで来た時計を、ここに隠していたんだろうか・・・」

「もしそうだとしたら、今さわってしまったから、自分の指紋が
ついちゃったかな・・・」

・・などと思いながらも、時計はそのままにして、
朦朧としたまま、その学校を出ていく。
どうも、その学校はハイスクールであるようだった。
「ハイスクール」ということは、日本の高校ではなさそうだった。

もう夕暮れだった。
そのハイスクールの門を出たばかりの道路で、向こう側から黒塗りの
高級車が右折しながら出て来て、私の目の前をゆっくりと
通っていく。

それが救急車だったのか、霊柩車だったのか、それは分からない。
そのバン・タイプの荷台の部分に、乗客の肩越しに、
仰向けに横たわった男の裸の腹が ちらりと見えた。

ここで、私は目が覚めた。 身体がだるい・・・そして、まだ眠い・・・

・・・

昨日は久しぶり、1年振りか、2年振りかで、日本語教師養成講座
を引き受けることになって、その初日だった
3時間立ちっぱなしの授業である。

授業が終わった夕方前、バギオで数か月前に知り合った某氏の
送別会の会場へ、時間つぶしをしながら歩いていた。

「なんか、足が重いな・・・」

考えてみれば、何も不思議なことはない。3時間立ちっぱなしだったのだ。

そして、バギオで一番と巷の噂がある焼肉屋に入った。
ここは肉屋で、店に入るとすぐ右側で肉をスライスする機械が忙しく
働いている。
夕食の買い物だろう、お客が並んで待っている。
その多くは韓国人。 応対をする店の男の韓国語が響き渡っている。

焼き肉を腹いっぱい食べた。
男三人で2時間ほど食べて飲んで、まだバギオでディスコなる
場所には行ったことがないという話になり、現役時代にお客の
接待に使っていた店を探検することになった。

そのディスコのフロアーには、お客はだれもいなかった。
8時過ぎというのは、まだまだ、この手のお店にとっては
早過ぎる時間だった。
「ショーは 9時半からです・・・・」

我々は隣のカラオケ棟に移動した。
そこにもお客らしき姿はひとつも無かった。
明日から巷はホーリー・ウイーク(聖週間)の休暇に入ることを
考えれば、当たり前かもしれない。

日本の古い歌の競演となった。
1~2年前にここに来た時とは、カラオケ装置が違っていた。
日本語の曲も少し増えていたように思った。

店に雇われているのだろう、若い男が 日本のロック調の歌を
にぎやかに歌ってくれた。 画像にはローマ字で歌詞だけが
表示されていた。
日本語の歌詞だったが、それが日本語だと気付いたのは
我々3人の中で私だけだった。
それほどに、彼の歌は英語のようにロックしていた。

時計の針が10時を指していた・・・・
我々探検隊は ディスコへと移動した。

<だらだらと書きすぎて、長くなってしまいました、
 その2に続きます・・・>

 

 

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2013年3月27日 (水)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その28 鳩山・小沢は「自主外交」をめざした

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p255
2010年 ・・・鳩山首相が「米軍の有事駐留」という案
を口にしました。・・・小沢幹事長もその少し前に、
在日米軍について、「米海軍の第七艦隊だけで、米国の
極東でのプレゼンスは十分だ
」と発言していました。

・・・「日米同盟をまったく理解していない人間」として
自民党や評論家、メディアから激しく批判されました。

・・すでに1940年代後半、芦田均外務大臣がこの考え
をもち、米側に提言していたことを見てきました。

p256
「在日米軍基地は逐次縮小・整理する」
「米国の走狗にならない」
という考えを、1969年の日本の外務省はもっていたのです

p257
この「わが国の外交政策大綱」は、米国依存を減少させ、
自国の防衛力を高める、かつ国連との協調をはかることを
原則としています。

この理念は今日の外務省の方針とまったくちがいます

昭和20年代から30年代にかけて、外務省内で「自主」
路線の流れは強かったのです。

p259
ニクソン大統領のの突然の訪中が発表になりました。
・・・もうひとつ・・・突然、ベトナム戦争の終結を
発表することです。

外務省は・・・「二度も米国にバカにされてたまるか
と、南東アジア一課のグループはベトナムと直接交渉できる
ルートを探します。

日本にはなにも教えない。 独自に動けばおどす。
これが日本の政財界が現在でも指南役として頼っている
キッシンジャーの1971年から72年にかけての動きです。

==>> 今の政治の流れを見ていると、一見「自主外交」
「独立的」と見えるのが自民党であって、民主党は突拍子も
ないことを考えている国際政治が分かっていない政党みたいな
扱いを大手のメディアがしてきていますが、
こういう戦後の歴史の流れの中でみると、民主党の方が
「自主外交」「独立派」ということになるわけですね。

米国にすりよる自民党か、米国にペコペコしない民主党か
という視点も必要だってことですね。
しかし、日本の自主防衛力を高めることが前提ってことに
なりますか。

それに、中国との距離感も問題ですね。
少なくとも、日本の知らないところで、米国と中国は
尖閣問題にしても繋がっているとみるべきなんでしょうから。

しかし、首相がだれになるにせよ、外務省には、幅広い
柔軟な発想の人たちにいて欲しいですね。
今の現状は、この本によれば、米国べったり派だけだって
ことになっていますからねえ。 それはマズイでしょう。

その29に続く

 

 

 

 

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「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その27 佐藤首相の裏切りで、尖閣問題が・・・

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

p235
(1962年)この当時の日本の対中貿易の比重は、まだ
全体のわずか0.6%と非常に低い段階にありました。
それなのにケネディ大統領が、すでに日本と中国の関係
改善に一歩でも米国の先に行くことは、米国大統領が
警戒するレベルの大問題
になるのです。

p236
1965年1月、佐藤首相は訪米します。
・・・ベトナム戦争に対する日本の態度でした・・
日本の消極的な態度にジョンソン(大統領)は大きな不満
を感じていたのです。
米国の同盟国の多くはベトナムに自国軍を派遣していました。

p237
われわれは日本を守っているが、日本はなにをしてくれるのだ
という言葉もよく使われます。

p238
(日本は)核兵器を保有する国に規制を求める動きをして
いるでしょうか。 していません。

p239
1968年・・「非核保有国の安全保障に関する安保理決議」・・
「核兵器をもっている国は、核兵器をもっていない国に対して
核兵器を使ったり、使うとおどしたりしてはならない」

日本は核兵器をもたない国の代表として、核保有国に行動を
慎むことを求めたのです。

まさに「自主」路線です。
かつてはこうした世界をリードするような政策を、日本の
外務省が立案した時代があったのです。

p240
日本は米国にむかって、堂々と異なる意見をいっていた
時代があったのです。

==>> つまり、今は なんと情けないことになって
しまったのだ、日本の外交は・・・ってことですね。

p241
1965年の「沖縄の祖国復帰が実現しないかぎり、我が国
にとっての戦後が終わっていない
」という発言は、沖縄返還
に向けての佐藤(首相)の決意表明にとどまったのです。

p242
「ニクソン(大統領)は沖縄のことを、いつ爆発するかもしれない
火薬庫だと評した。・・・・」

1969年・・国家安全保障会議は、日本の要求をこばめば、
琉球列島と日本本土の双方で基地をまったく失ってしまうことに
なるかもしれないと報告した。

p245
1969年11月の首脳交渉で、ニクソン大統領と佐藤首相
ふたつの密約を結んでいます。 ひとつは核兵器の持ち込みに
関する密約、もうひとつは繊維に関する密約
でした。

p249
その密約を、結局佐藤首相は国内事情によって守ることが
できなかったのです。

当然、ニクソン大統領は怒ります。

p250
繊維問題は・・・・ニクソンにとっては、大統領選挙の公約
ともいえる大問題だったのです。

p251
実はニクソンが、1961年7月に突如、中国訪問計画
発表したとき、日本に事前通告しなかったのは、佐藤首相へ
の報復だったのです。

==>> 確かに、そういう騒動がありました。覚えています。

「頭越し外交」とか呼ばれていた騒動ですね。

p254
・・報復は続きます・・・
「ニクソン訪中のあと、尖閣諸島について国務省は日本の
主張に対する支持を修正し、あいまいな態度をとるようになった

佐藤の推測によれば、ニクソンと毛沢東のあいだでなにか
が話しあわれたことを示すものだった。」

それから30年以上たって、このとき密使として動いた
若泉敬氏は、1996年7月に自殺します。・・・

==>> おやおや、佐藤首相がニクソン大統領との間に
起こした裏切り行為が、様々に後世に影響を及ぼして
いるんですね。

しかし、この「尖閣諸島について あいまいな態度を
とるようになった」というところが、今もそのまま残って
いるってことですね。 日本は知らないところで、
当然、中国側は毛沢東時代に何が米国との間であったのかを
知っているってことになりますよね。

さて、尖閣問題について、アメリカは今どうするつもり
なんでしょうか。

その28に続く

 

 

 

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2013年3月26日 (火)

「なんで 私が 東大に・・・」  「なんで」「どうして」「なぜ」

東大のところが、早大や慶大に置き換えられているポスター。

予備校の宣伝文句

この「なんで」? って言葉が フェイスブックでちょっと
議論になっていました。

これを書いた人は、「なんで」にはネガティブな感覚があるから、
意味が取りにくかったと書いているんですね。

なんで、こういうことに興味をもったかって言うと・・・
一応日本語教師なもんで、こういう疑問詞をどう教えるべきか
てことに関心があるんです。

例えば、「どう?」とか「どんな?」とか
「なに?」や「なん・・」の使い方って、結構教えるとなると
面倒なんですよねえ~~。

一番シンプルな疑問文だと、
「これは なん ですか?」
なんですけど・・・

「これは なに ですか?」
とは言わないですよね。

でも、
「これは なに か?」 とか 「これは なに?」
とは言いますよね。

逆に、
「これは なん か?」 とか 「これは なん?」
とは言いませんね。 (地方によってはいいそうな気も・・・)

基本的に 「なん」=「なに」 のはずなんですけど・・・

これを「何」と漢字で書いてあると、どっちに読んだらいいかを悩みますよね。

二つ目の例:
「今日の体調は どう ですか?」
とはよく使うと思うんですけど、

「今日の体調は どんな ですか?」
とはあまり言いませんね。
(私の故郷では、昔 こういう言い方をしていたような記憶が
あるのですが・・・)

でも、
「今日は どんな体調 ですか?」
とは言えても、

「今日は どう体調 ですか?」
とは言わないですもんね。

「あれは どんな色 ですか?」
「あれは 赤い色 です。」

というように、名詞の前に「どんな」をつけて、形容詞の答え
を引き出す時に使う疑問詞のはずですよね。

「この映画は 面白いけど、その映画は どう ですか?」
「はい、 その映画も 面白い ですよ。」
とはよく使うと思うんですけど、

「この映画は 面白いけど、その映画は どんな ですか?」
とはあまり聞きませんよね。

・・・つまり、形容詞の答えを引き出すための疑問詞と
いうことでは同じはずの 「どう」と「どんな」なんですけど、
使い方に関しては 同じように使うわけにはいかないんですね。
「どう」=「どんな」とは言えない。

さて、最初の 「なんで?」 に戻りましょうか。

「なんで 私が 東大に・・・」

種明かしは後にして、
一番最初に書いた言葉がどういう意味に取れそうかを思いつく
ままに書き出してみます。

1. なんで 私が 東大に (行かなくちゃいけないの?)

2. なんで 私が 東大に (合格できなかったの?)

3. なんで 私が 東大に (合格できたの? 変だな・・・)

確かに、「ネガティブ」な意味合いに理解してしまうというのは
自然なことに思えますね。

じゃあ、ポジティブな文は どうなんでしょうか・・・

4. なんで 私が 東大に (合格できたのか、その秘密を教えましょう。)

5. なんで 私が 東大に (行くと 決めたのか。)

これも、一応 大丈夫みたいですね。

しかし、こういう意味で使う場合は、どちらかと言えば
下のように 言いませんか?

4A どうして 私が 東大に 合格できたのか、・・・

5A どうして 私が 東大に 行くと 決めたのか。

「どうして」の方が 「どのようにして」という背景、経過、方法、
手段など
を聞く場合の疑問詞として すっきりするような気がします。

しかし、まだ、何かしっくりこないような気もしますね。

4B どうして 私は 東大に 合格できたのか、・・・

5B どうして 私は 東大に 行くと 決めたのか。

文として見たときには、助詞「が」を 「は」にした方が
しっくりくるような気がしませんか?

しかし、後ろの部分がなくなると・・・・

4C どうして 私は 東大に・・・
5C どうして 私は 東大に・・・

「どうして 私が 東大に・・・」

という中途半端の文と比べても ニュアンスが異なる感じですね。

さて、このポスターの種明かしですけど、
要するに、この「なんで 私が 東大に・・・」の後になにが
書かれているかといいますと、
この予備校の教え方やカリキュラムのいくつかの特徴。 他の学校
とは異なる素晴らしいところを紹介してあるわけです。

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だから・・・

「こんな 私でも 東大に (合格できたんです。)」という意味で、

なんで 私が 東大に 合格できたんだろう。」

という宣伝のストーリーなんですね。

こういうストーリーであることを前提として考えてみますと、

6.「どのようにして 私は 東大に 合格できたのか、教えましょう。」

っていう事なんですね。

これを、ポスターの宣伝文句にするためには、どのように
短くすればいいのか、ってところです。

6A 「どうして 私は 東大に 合格できたのか、 教えましょう。」

まず、「どのようにして」を「どうして」と短くします。

そして、後ろの文を 省略してみます・・・・

6B 「どうして 私は 東大に ・・・」

この省略された文を読むと、

「どうして 私は 東大に いるんだろう??」

って雰囲気になっちゃうんですよねえ・・・不思議だな。

ここで、助詞「は」を「が」に戻してみると・・・

6C 「どうして 私が 東大に・・・

ふむふむ・・・、「どうして この私が」 というニュアンスが出ますね。

さて、いよいよです・・・

6D 「なんで 私が 東大に・・・」

と一気に理屈をつけたいんですが・・・難しいな。

困ったときには辞書ですね:

「なんで 入れたの?」
「どうして 入れたの?」
「なぜ 入れたの?」

似たような疑問詞ですけど・・・

「なんで」: どのような原因・理由で、 どういうわけで、
       どうして、
       「なぜ」に比べてやや口語的な表現。
       反語にもちいて強い否定の気持ちを表す。
       「今さらなんで、おめおめと・・」

「どうして」: どんな方法で、どのようにして、どうやって、
        どのような原因・理由で、なぜ、
        反語表現・・「どうして・・・できるだろうか」

「なぜ」: どのような原因・理由で、どういうわけで、

基本的にはすべて同じ意味があるんですが、
「なんで」と「どうして」を比較すると、
「どうして」の方が、方法やどのようなやり方をしたのかの
具体的な内容を聞いているような感じですよね。

じゃあ、これはどうでしょうかね?

7. 「なにで ここまで 来たの?」
8. 「なんで ここまで 来たの?」
9. 「どうして ここまで 来たの?」
10.「なぜ ここまで 来たの?」

上記の意味を考えてみると:

7. なにを使って、なにに乗って、ここまで来たのか。
8. なぜ ここまで来たのか、その理由。
   なにを使って、なにに乗って、ここまで来たのか。

9. 上記8に同じく2つの意味。
10.8と同じく理由の意味。

よって、やっぱり、「なんで」と「どうして」は手段という
意味においても、かなり似た使い方ができますよね。
しかし、上記の辞書にあるように、「なんで」の方には
ことさらに手段を意味することはとりあげてなくて、
ただ単に「どうして」と同じとありますから、
どちらかと言えば、「どうして」の方が方法・手段に
ついては少しばかり的確かなという感じでしょうか。

だから、

「なんで 私が 東大・・」
って言うよりも、
「どうして 私が 東大・・」
の方が 良さそうな結論になるんですけど・
・・

ただ、おそらく、より口語的にするために、「なんで」という
疑問詞を採用したんじゃないかな・・・ということにしましょう。

・・・・

ただし、もう一つの考えかたがありますね。

「なんで 私が 東大に 合格できたんだろう。 不思議だな。」

「それは何故かっていうと、こういう理由なんですよ。 説明します。」

というように二段階にすれば、「なんで・・・だろう?」と
本人もびっくりという その理由・原因を不思議がっていることに

とれば、辞書による意味がもっともだ、ともいえますね。

ってことで、今日のところは終わりです。 

ちなみに、いろんなサイトで、いろんな説明があります。

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/thsrs/3351/m0u/

このサイトにもいくつかの文例が書いてはあるのですが、「なぜ」「なんで」「どうして」を入れ替えてみると、それなりに通じるようですので、明確なこれという決定版はなさそうな感じですね。

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの出稼ぎは 世界を救えるか・・・・

面白いニュースを発見しました:

http://www.sankeibiz.jp/macro/news/130326/mcb1303260800030-n2.htm
フィリピン、人口増で「新たな力」享受 労働力、消費、本国送金が後押し

「フィリピンでは国民の10%以上が国外に居住している。国外居住者の
送金は、12年に同国経済の70%を占めた消費を活性化させ、国の経常
収支を支えるなど、同国経済の重要な柱となっている。」

これだけならば、今までの私なら、
「まあ、出稼ぎで自分の家族を、母国を支えているのだなあ。
しかし、その力を どうしてフィリピン国内の産業育成に使え
ないのだろうか・・・」
という感想で終わっていたんです・・・が、

「フィリピンはアジア地域で最も出生率が高く、女性1人当たりの産児数は
3.1人だ
。高い出生率を背景に労働力が増し、同国の2010年から
20年までの労働人口増加率はアジアで最高の31.3%になると試算される。」

人口のピークを迎える時期は、アジアの平均が32年、東南アジア諸国連合
(ASEAN)の平均が42年と推測されるが、フィリピンは77年まで
人口が増え続ける見通しだ。」

・・・という話になってくると、物凄いフィリピン・パワーが
今後長期に渡って世界を席巻するという話になりそうです。

そして、その具体的な話がありました。

以下は、フェイスブックでシェアされたサウジアラビアの新聞記事です。

「もし フィリピン人が この世界にいなかったら・・・」

なんと、「世界の看護師の数の 23%がフィリピン人」だと
書いてあるじゃないですか。

「フィリピン人のいない 自分の人生なんて 考えられない。」

「サウジアラビアには 100万人のフィリピン人が働いている。」

世界には120万人のフィリピン人船員がいる。」

「フィリピンには、190の看護師育成の機関があり、毎年9,000人
の卒業生がいる。」

もしも、このフィリピン人船員やフィリピン人看護師がいなくなったら、
この世界はどうなってしまうのか?
と書いてあるんです。

もちろん、別にフィリピン人家政婦、ベビーシッターなどの仕事も
あります。
ということは、フィリピン人は世界中の国のことを、家庭内のことまで
知り尽くしているってことです。

最近の国家間のギクシャクした状況を振り返ってみると、
もしかしたら このような国と国との人的、生命に関わる、家庭に
関わる依存関係が、国家間の緊張関係を和らげる大きな武器に
なるのではないか、と思うんです。

NBBC

IMAGINE A WORLD WITHOUT FILIPINOS

By Abdullah Al-Maghlooth | Al-Watan, almaghlooth@alwatan.com.sa

Muhammad Al-Maghrabi became handicapped and shut down his flower
and gifts shop business in Jeddah after his Filipino workers
insisted on leaving and returning home. He says: “When they
left, I felt as if I had lost my arms. I was so sad that I lost
my appetite.”

Al-Maghrabi then flew to Manila to look for two other Filipino workers
to replace the ones who had left. Previously, he had tried workers of
different nationalities but they did not impress him. “There is no
comparison between Filipinos and others,” he says. Whenever I see
Filipinos working in the Kingdom, I wonder what our life would be
without them.

Saudi Arabia has the largest number of Filipino workers — 1,019,577 —
outside the Philippines. In 2006 alone, the Kingdom recruited more
than 223,000 workers from the Philippines and their numbers are
still increasing. Filipinos not only play an important and effective
role in the Kingdom, they also perform different jobs in countries
across the world, including working as sailors. They are known for
their professionalism and the quality of their work.

Nobody here can think of a life without Filipinos, who make up
around 20 percent of the world’s seafarers. There are 1.2 million
Filipino sailors.

So if Filipinos decided one day to stop working or go on strike
for any reason, who would transport oil, food and heavy equipment
across the world? We can only imagine the disaster that would happen.

What makes Filipinos unique is their ability to speak very good
English and the technical training they receive in the early stages
of their education. There are several specialized training
institutes in the Philippines, including those specializing in
engineering and road maintenance. This training background makes
them highly competent in these vital areas.

When speaking about the Philippines, we should not forget Filipino
nurses. They are some 23 percent of the world’s total number of
nurses. The Philippines is home to over 190 accredited nursing
colleges and institutes, from which some 9,000 nurses graduate
each year. Many of them work abroad in countries such as the US,
the UK, Saudi Arabia, the United Arab Emirates, Kuwait and Singapore.

Cathy Ann, a 35-year-old Filipino nurse who has been working in
the Kingdom for the last five years and before that in Singapore,
said she does not feel homesick abroad because “I am surrounded
by my compatriots everywhere.” Ann thinks that early training
allows Filipinos to excel in nursing and other vocations. She
started learning this profession at the age of four as her aunt,
a nurse, used to take her to hospital and ask her to watch the work.
“She used to kiss me whenever I learned a new thing. At the age
of 11, I could do a lot. I began doing things like measuring my
grandfather’s blood pressure and giving my mother her insulin
injections,” she said.

This type of early education system is lacking in the Kingdom.
Many of our children reach the university stage without learning
anything except boredom.

The Philippines, which you can barely see on the map, is a very
effective country thanks to its people. It has the ability to
influence the entire world economy.

We should pay respect to Filipino workers, not only by employing
them but also by learning from their valuable experiences.

We should learn and educate our children on how to operate and
maintain ships and oil tankers, as well as planning and nursing
and how to achieve perfection in our work. This is a must so that
we do not become like Muhammad Al-Maghrabi who lost his interest
and appetite when Filipino workers left his flower shop.

We have to remember that we are very much dependent on the
Filipinos around us. We could die a slow death if they chose
to leave us.

Source: Arabnews

Thank you for reading
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2013年3月25日 (月)

あなたの街には、行商のおばさんはいませんか? フィリピン・バギオ

フィリピンにいると、「懐かしいなあ」と思う風景に時々出会います。

001

もちろん、街の路上にもたくさんの露天商の人たちがいろんなものを売っているんですが、これは行商のオバサンが運んできた野菜たちです。

002

バギオ市はベンゲット州に囲まれているんですが、この行商のオバサンは、野菜、肉、魚、おやつ、等いろんなものを、隣の州であるパンガシナン州から わざわざ山の上のバギオまで運んでくれるんです。

私の下宿のお婆ちゃんと何十年ものお付き合いなのだそうです。

003

こんな籠にいろんなものを詰め込んで、ジプニーに乗って、やってくるんですね。

大家さん家族は、ほとんどが肉類を食べるようなんですが、下宿人の私は、「野菜と魚を毎日食べたい」と特別注文しているんです。

我が儘と言えばわがままな下宿人です。

005

思えば、私が小学生の頃までだったか・・・50年くらい前の話ですね。 長崎県の我が家にも時折行商のオバちゃん達が美味しいものを持って来ていました。

魚肉を使った練り物、丸天は美味しかった。 ムツゴロウの佃煮は、骨っぽくて子供の口には面倒だった。 辛子レンコンは、子供ながらに好物だった。 

オバちゃん達が担いで持ってくるブリキの箱は、玉手箱みたいだった。

それに、行商とは別に、もちろん 豆腐屋さんもラッパを吹きながらやってきたし、納豆屋さんだって 「なっと~~、なあっとなっと~~~」と来ていたし、お花屋さんのお姉さんの呼び声は、張りがあって澄み切っていて、遠くまで聞こえた。 今でもあの呼び声が聞こえてきます・・・

「は~~な~~、 よ~~ございますか~~~~~」

(花、よう御座いますか)

(花は いかがですか)

天秤棒の両側の大きなザルに、たくさんの花を積んで、そのお姉さんはユッサユッサとリズムよく歩いていたけど、とても重そうだった。

・・・・・・

高齢者ばかりの地域も多くなってきた日本。

おそらくいろんな宅配会社などがもうやっていることなんでしょうけど、

行商のおばちゃん、お姉さん、あの呼び声、復活しないかな~~~。

 

 

  

 

 

 

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2013年3月24日 (日)

「戦後史の正体」 孫崎亨著 : その26 ライシャワー大使なかりせば・・・

「戦後史の正体」 孫崎亨著 を読んでいます。
==>>の部分は 私のコメントです

第五章 自民党と経済成長の時代

p222
60年安保・・このあと約半世紀のあいだ、日本から米国
に対して日米関係を根本的に変化させようとする動きは
なにも起こりません。

「米国からの圧力」とそれにともなう「政権の崩壊」に
ついても、基本的なパターンはすべてこの時期までに
出ています。

==>>つまり、根本的な解決が出来ないことが
身に染みるほどに分かったから、その後は経済一本やり
で進むことに決めちゃったってことのようです。

1950年代後半 ・・・三種の神器(テレビ、洗濯機、冷蔵庫)
1960年 ・・・ 池田首相「所得倍増計画」

p226
国力に雲泥の差がある時代に、ライシャワー(駐日大使)の
「イコール・パートナーシップ」は心理的に対等な関係を

もてと日本人を励ますところに重点がおかれていたのです。

p227
(ライシャワーは)1941年夏から9月まで米国国務省
極東課に勤務しますが、ここでは日本を開戦に追い込んだと
される1941年夏の対日石油禁輸政策に反対しています。

p229
日本国内では沖縄問題への対応は大きくふたつに分かれて
いました。 どちらかというと反政府的な人々は沖縄の
返還を求めていました。 しかし、政府の中枢にいる人たち
は「そんなことを口にしたら政治的に抹殺される」と

考えていました。

ライシャワー大使がもっとも頼りにしていたのは
ロバート・ケネディです。彼はケネディデイ大統領の弟で
司法長官でした。

p230
・・・しかしこの段階では、日本側はまだなにも知りません。
次にライシャワー大使は日本側と接触を開始します。

佐藤栄作首相は大変に慎重で、返還の要請を口にしようと
しませんでした
。・・・岸信介なども非常に慎重でした。

こうしてライシャワー大使の働きかけにもかかわらず、
・・・大使在任中は沖縄返還問題は動きませんでした。

==>> おやまあ、日本の外交は、なにから何まで
米国におんぶに抱っこだったと言う事ですか。

p232
大使が労働界と接触するのと、CIAが労働界と接触するの
とでは任務が大きくちがうということです。
大使の目的は相互理解です。 CIAの目的は裏工作です。

p233
米国は安保騒動で「労働界や野党に工作する必要性」を
学びました。 

2009年に自民党から民主党に政権交代が起こった際にも、
当初米国にきびしい姿勢をとった鳩山由紀夫や小沢一郎に
代わって、
いつのまにか、野田義彦氏、前原誠司氏など、
米国との関係を重視する松下政経塾出身者が民主党内で
勢力をもつようになります。
米国がいかに長期的戦略をもって日本に対応しているかに
ついては、実に感心させられます。

==>>  あ~~あ、まあ、感心している場合じゃあ
ないんですが、認めざるを得ないってことですね。
そういう長期的視点をもった日本の政治家がいてくれる
ことを夢にでも見たいものです・・・・

その27に続く

 

 

 

 

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「日本人は 美味しいもの 食べ過ぎだよ」 って どういう意味?

以前にも、「~~過ぎる」について日本語教師症候群が出たと
書いたことがあるんですが、

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/01/post-7c09.html

テレビを見ていて、こんな日本語が出てきたんです。
「美味しいもの食べ過ぎだよ。」 (A)

これが気になっちゃって・・・

辞書にこんな表現があるんですけど:
http://ejje.weblio.jp/sentence/content/%E9%A3%9F%E3%81%B9%E3%81%99%E3%81%8E/2
その料理がおいしすぎて、私は食べすぎてしまいました。
That food was to delicious so I ate to much. 

そこで(A)の文は、どっちの意味なんだろうと思ったわけです。
これを、書き言葉的に言えば:

japanese are eating too delicous food.
日本人は美味しすぎるものを食べている (味が過ぎている

japanese are eating too much food.
日本人は食べ過ぎている。  (量が過ぎている

つまり、「美味しすぎる」のか「食べすぎる」のどっちなんだ、ってことです。

(A)をそのまますんなり読めば、
「食べ過ぎている」ことに重点があるように思うんですが、
テレビの番組の中での状況としては、「美味しすぎる」ことを
言っていたように思うんです。

だから、日本語で正確にそれを表そうとしたら、どう言えばいいのかな
とふと気になってしまったわけです。

つまり、
「日本人は美味しすぎるものを食べている」
という書き言葉的な表現を、
「美味しいもの食べ過ぎだよ」という
スタイルの口語的な表現で、正確に言えるのか、ってことです。

例えば、
「日本人は 美味しいもの 食べすぎだよ」
と言うと、「食べ過ぎ」の方に重点があるように聞こえる。

「日本人は 美味しすぎるんだよ」
と言っちゃうと、日本人=美味しい になっちゃう。

「日本人は、美味しすぎるもの 食べてんだよ」(B)
「日本人が食べてんのは 美味しすぎるんだよ」(C)

と言えなくもないし、このように言う方が意味が正確に伝わるとは
思うんですけど、日常生活の中で、こういう言い方をしているかって
いうと、あまり聞かないと思いませんか?

どっちかと言えば、(C)の方が正確で自然かなとは思うんですが、
日常的には やっぱり(A)を「美味しすぎる」という意味で
使っていることが多いんじゃないか
と感じます。

あなただったら、「美味しすぎるものを日本人はたべている」という
意味合いで、日常の会話体では どう言っていますか?

(A)、(C)、はたまた それ以外??

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ 日本語教師 日本語教育 学校 教室 文語体 口語体 過ぎるの使い方 用法

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