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2013年1月12日 (土)

その45 中村元著「龍樹」ー 「中論」 日本へは三論宗として伝来

    

中村元著「龍樹」の中の、
「 IV. ナーガールジュナ以後 」を読んでいます。

「中論」についての話のあと、「ナーガールジュナの著作」を
飛ばして、次の章に入ります。

「1. ナーガールジュナの思想の流れ

今まで読んで来た「中論」で、龍樹さんは、「般若経」に説かれている
空の思想を体系化した
ので、中観派の祖と呼ばれているそうです。

また、日本で八宗の祖と言われているように、後世の大乗仏教に
様々な影響を残しているとのこと。

以下、著者は、この中観派の流れを解説しています。

p430
龍樹の弟子はアーリヤデーヴァ(提婆)170-270年ころ
「百論」「四百論」などを著した。

p431
ふたたび中観派が活発となるのは五世紀のころになってからであった。
・・このころにブッダパーリタ(仏護 470-540年ころ)と
いう人が現れた。
・・その基本は、そのような主張であれ、それはかならず
誤謬(プラサンガ)に帰着するとし、徹底的な誤謬の指摘を
通じて、存在の空であることを相手にさとらせようとすること
である。

p433
シャーンティデーヴァ(寂天、650-700年ころ)・・・
かれは有名な「さとりの行いへの入門」を著した。
この書は、大乗仏教の求道者にとって奉仕の精神がいかに重要か
を詠じた。

p434
ナーガールジュナの思想の流れは中国にも伝えられた
それは、クマーラジーヴァ(鳩摩羅什)の翻訳による
ナーガールジュナの著作「中論」「十二門論」および
アーリヤデーヴァの「百論」にもとづく宗派として成立した。
それは三論宗と呼ばれる。

・・・・おお、いよいよインドから中国に入りました。

p434
この派の大成者は嘉祥大師吉蔵(549-623年)である。
・・「華厳経」と「法華経」の思想をふまえつつ、中国思想
の地盤の上にユニークな思想を展開した。

日本にはナーガールジュナの伝統は、やはり三論宗として伝来した。
それは高句麗出身で、吉蔵の弟子でもあった慧灌が625(推古33)
年に来日して伝えたものである。

三論宗について:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%AB%96%E5%AE%97

・・・三論宗の三論とは、中論、十二門論、百論の3つのことだそうです。

p435
「中論」や「大智度論」などをもととして、空・仮・中の
三諦円融、一心三観にはじまる教理を持つ天台宗ーー智顗によって
大成されたーーもナーガールジュナの思想にもとづくといえよう。

天台宗について:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%8F%B0%E5%AE%97

p435
ナーガールジュナの著した「十住毘婆沙論」の浄土教関係
部分は、後世の浄土教の重要なささえとなり、
またさらに密教も「華厳経」などの影響を受けてはいるが、
ナーガールジュナの思想の延長の上に位置づけることも
できよう。

・・・おおお、やっと浄土教につながってきましたね。
私がこの本を読んでいる理由は、インド仏教であるブッダから
どのように親鸞さんまでがつながっているのかの思想の
流れをみていくことなもんですから・・・・

次回は、最後の章「比較思想からみたナーガールジュナ」を
読んでみます。

==その46に続く==

 

 

 

 

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2013年1月11日 (金)

その44 中村元著「龍樹」ー 仏のすがたをとやかくいうのは誤り

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「8. 否定の論理の実践」
「2.ブッダ」に入ります。

著者によれば、中論のブッダ論は「一般の仏教徒にとっては
恐ろしくショッキングなものである」と 断ってから始まります。

p300
「中論」においては、ニルヴァーナについて説かれたのと
ほとんど同じことが如来(修行を完成した人)、ブッダに
関しても述べられている。
ナーガールジュナは、「如来は本体の無いものである」といい、
第二二章(如来の考察)において種々の論法をもって
これを説いている。

p301
当時の教義学者たちがブッダの本体を、ああだ、こうだ、と議論
していたのは全部誤っているということになる。
それは教義学を否定することになる。
当時は・・・・美麗細微な仏像が盛んに造られていた。
しかし仏のすがたをとやかくいうのは誤りなのである。

「金剛経」の説くところは徹底している。
ーー身相をもって仏を見てはならない。あらゆる相は
皆虚妄であり、諸の相は相に非ず、と見るならば、
すなわち如来を見る。 かかる如来には所説の教えがない。
教えは筏のようなものである。 衆生を導くという目的を
達したならば捨て去られる
ーーと。

p301
真実のブッダとは何であるか。
それはわれわれの経験している世界にほかならない。

p302
如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である
如来は本質をもたない。 この世界もまた本質をもたない」

・・・こういう表現は、「光には質量がない」と言っているような
雰囲気を感じます。イメージだけですけど・・・

それに、仏像という偶像崇拝のことを言っているんでしょうか。
龍樹さんは、偶像崇拝をするな、ってことを言ったんでしょうかねえ。

p302
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである
これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において
一致しているという「般若経」の説を受け継いだものであろう。

「中論」の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身
(仏の真実の身体)を意味している。
・・・この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味
あるという。そうしてこれらの諸語は・・・縁起と同一の意味
であるから、・・・縁起の理法そのものを意味するに違いない。

・・・まあ、生身のお釈迦様のことを言っているんじゃなくて、
形而上学的なブッダのありかたのことを言っているんですね。
神格化ってことでもなさそうですね。
ブッダ=空 だなんてことを言っていますし。

p303
ひとたび縁起の理法すなわち相依性の意義を体得するならば
凡夫はただちに覚者となり、一切諸法即如来ということが
成立するのである。

「3.縁起を見る」のところです。

p303
諸法の縁起せる如実相を体得した場合に初めて「さとりを
開いたもの」(覚者)
といわれるのであるから、「縁起を
見る」ということはきわめて重要な意味を有する。

p304
「縁起を見るものは、すなわち法を見る」の後に、
ときには次に「法を見るものは、すなわち仏を見る」という
句が附加されていることがある。

・・・そして、この辺りで般若波羅蜜が出て来ます。
「般若心経」でおなじみの言葉です。

この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(般若)である
「大智度論」においては、諸法実相を知る智慧が
般若波羅蜜であると説明されているが、結局縁起を見る智慧
を意味していることに変わりはない。

そして、この般若波羅蜜については、以下のように解説しています。

p307
般若波羅蜜に関しては古来種々に説明されているけれども、
要するに諸法が互いに相依って起こるという縁起の如実相を
見る(さとる)ところの智慧
であるといってさしつかえないであろう。

さらに、縁起と無明について、

p307
「この縁起の如実無顛倒なる修習の故に無明(無知)は
断ぜられる」

この般若によって縁起を見るならば、無明が断ぜられる

p308
十二因縁を説いた後で、「また次に菩薩が無明の体(本質)を
求むるに、即時に是れは明なり。 いわゆる諸法実相を、
名づけた実際(究極の根拠)と為す」

無明とは「諸法実相を解しないこと」である。
無明を断ずるというのは、人間存在の根源への復帰を意味する

p309
「(十二因縁のもろもろの項目のうちで、)それぞれの(前の)
ものの滅することによって、それぞれの(後の)ものが
生じない。 このようにして、たんなる苦蘊(苦しみの個人存在)
は完全に滅する

縁起を見ることによって無明が滅することは了解しやすいが、
何故に、無明が滅することによって十二因縁の各項がことごとく
滅することとなるのであろうか。

われわれが自然的存在の領域と法の領域とを区別するならば
縁起の逆観の説明も相当に理解しうるように思われる。

p310
法の領域においては諸法は相関関係において成立しているもの
であり、その統一関係が縁起と呼ばれる。
その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象
が全然別のものとして現れる。

・・・・この「統一関係を体得する」なんですけど、 おこがましいことながら、私が二十歳のころに、ショーペンハウエルの本などを読んでいたことがありまして、その時 大袈裟に言うならば「この世界の体系が分った」みたいな感慨にとらわれたことがあったんです。

それで、上に書いてある「無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる」ってところが、なんだか そんな雰囲気なのかなあ~~、と感じたところです。 まあ、気持ちの問題ですからねえ、こういうものは。

この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期
の仏教において説かれている。

・・・だから、著者は、この龍樹さんは、最初期の仏教の
正統な発展
を理論的に継承した人ではないかと言っているんです。

実は、私はこの「中論」に関する本を読むまでは、
最初期の仏教といわゆる小乗仏教にくらべて、大乗仏教というのは
大きな飛躍というか、かなり変質したものではないかと
思い込んでいたんです。
そして、その変質を理論づけたものが龍樹の「中論」だったのかな
と、ある意味期待していたんです。
龍樹が どのように釈迦が作ったものを飛躍させたのかを
知りたかったということなんです。

たとえば「大乗仏教は仏教じゃない」という議論があるんです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC

これは曹洞宗のお坊さんが書いたサイト。
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/49e5a881a152c6fb96871267cce22cde

こちらのサイトでは、キリスト教からの影響なども議論されています。
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/bukkyokirisuto02.htm

これらの大乗非仏教説なるものの根本のところに龍樹がいたのかな
と思ったんですが、どうも、これまで読んできた中では、
そういうところがあるようには、私には理解できないんです。

議論の核心部分がどこにあるのか、そこが問題ですね。
もっと調べなくちゃ・・・

==その45に続く==

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その43 中村元著「龍樹」ー 眠ろうと思わなければ眠れる=解脱

    

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「8. 否定の論理の実践」
「1. ニルヴァーナ」(涅槃)を読んでいます。

p297
ニルヴァーナは種々に説明されているけれども、その趣旨は
みな同一である。
相依って起こっている諸事象を、無明に束縛されたわれわれ
凡夫の立場から眺めた場合に輪廻とよばれる。


これに反してその同じ諸事象の縁起している如実相を撒見する
ならば、それがそのままニルヴァーナといわれる。

輪廻とニルヴァーナは全くわれわれの立場の如何に帰する
ものであって、それ自体は何ら差別のあるものではない。

・・・そして、ここに「大胆な立言」と書いてありまして、
あっと驚く説明が続いています、

われわれ人間は迷いながらも生きている。
そこでニルヴァーナの境地に達したらよいな、と思って、
憧れる。 しかしニルヴァーナという境地はどこにも存在
しないのである。
ニルヴァーナの境地に憧れるということが迷いなのである。

・・・涅槃に憧れること自体が迷いなのだそうです。
むむむむむ・・・
じゃあ、修行僧はなんのために修行をやっているのか???
「憧れる」ってことが問題なんですかね?
「憧れる」ってことは執着だからいかんよ、ってこと?
ただただ、淡々と修行をしろってことなのか・・・

p298
したがって繋縛も解脱も真に有るものではない。
一切は無縛無解である。

「もろもろの形成されたものは生滅の性を有するものであって、
縛せられず、解脱しない。 生あるもの(衆生)もそれと
同様に縛せられず、解脱しない。」
という。 ニルヴァーナに入るということを人々は
ややもすれば神秘的に考えやすいが、それはありえない
ことである。

・・・う~~ん、訳が分からん。
これはいわゆる密教的な神秘主義なんかも否定しているん
でしょうかね??

p299
「束縛と解脱とがある」と思うときは束縛であり、「束縛も
なく、解脱もない」とおもうときに解脱がある。

・・・そして、これを著者は次のような分かりやすい例に
たとえています。

われわれが夜眠れないときに、「眠ろう」「眠ろう」と努めると、
なかなか眠れない。 眠れなくてもよいのだ、と覚悟を決めると、
あっさり眠れるようなものである。
・・・結局各人の体験を通して理解するよりほかに仕方がない
のであろう。

・・・なるほどねえ。そういうもんですか。

確かに、私なんかも、夜眠れない時には、あえて眠ろうとは考えないようにしていますけどね。 だいたいそういう時って、なにか今やっておかないと忘れてしまいそうなことがある時なんですけどね。 だから、その気になることを、ベッドから起き上がって、パソコンなんかを使って、終わらせてしまう。 そうすると、疲れて眠れる。

さて、次回は「ブッダ論」です。
あっと驚く衝撃のブッダが出てくるそうですよ・・・

==その44に続く==

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NHK 100分で名著 「般若心経」 なるほど分りやすい

テレビをつけっぱなしにしていたら、たまたま始まったんですけど・・・

002

BSプレミアムでみたんですけどね、1月10日。

007

今回が一回目なんですけど、二回目はマニラに行かなくちゃいけないんで、見逃すことになりそうで、残念なんですが・・・

008

案内役はこの先生。 佐々木閑氏。仏教学者で花園大学教授だそうです。

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玄奘三蔵さんがインドから中国に持ち帰った経典の中に「般若心経」が含まれていて、多くの経典がインドの言語から中国語に翻訳されたという解説がありました。

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一番最後の「ギャーテー ギャーテー・・・」のところは呪文であって、その音のままに写し取る音写であるとか。

017

「五蘊」の解説もシンプルで分りやすいものでした。

本を読んでいると、理解するのがなかなか大変なんですけど・・・

018

なるほど、「概念に囚われた生活」ですか。 本でよく出てくる「執着」ってことですかね。

「間違った行動をとる」っていうのは「煩悩に苛まれる」ってことになるのかな?

それはともかく、このシリーズ 「般若心経」の全体の意味をコンパクトに理解するのには良さそうな感じです。

全部みたいんだけどなあ・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 








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「隠れ家」が「秘密の庭園」に、そして、ボンゴレ・ビアンコが登場、バギオ初 ?

久々に 以前ご紹介した RED ORANGE に、私の「隠れ家」に行ってみたんです。

・・・すると、

040

Red Orange の看板は未だ残っていたものの、裏口には SECRET GARDENの看板が・・・

041

以前は この戸口を入ると、両側に木々が鬱蒼として、まるで日本の茶室に導かれるような風情があったのに・・・

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/01/red-orange-391b.html

どうなってしまったんだ・・・

046a

お店に入ってみると、インテリアには大きな違いはない。

ウエイトレスに聞いてみると、マネジメントが変わったのだという。

不安を抱きながっら、メニューをチェックしたところ・・・・

044a

パスタ、スパゲティーと ピザが主体のメニューであることに変化はなし。

ところが・・・

044

なな、なんと! 

以前のメニューにはなかった ボンゴレ・ビアンコ・スパゲティーが !!

バギオには無いとおもっていた ボンゴレさんが ここにはあったのだった。

バギオにないから、マニラで必死に探したボンゴレ。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/10/post-2fd2.html

・・・しかし、マニラの味と比べて どうなのか。

057a

「うっ、旨い!」

アルデンテ !

オリーブ油とガーリックが効いている。

こんなに旨いスパゲティーが出せるシェフは そんなに何人もいないはずだ・・・

051

「シェフも変わったの?」

「いいえ、シェフは同じです。」

「ああ、そう。 前と同じで美味しいもんね。」

060

庭の木々がバッサリ取り払われて、窓から見える外の景色を優先してしまったのは残念だが、このスパゲティーが、ボンゴレさんが食べられるのなら、許してあげようじゃないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年1月10日 (木)

その42 中村元著「龍樹」ー げげっ! 涅槃や解脱は凡夫の迷妄なの??

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「8. 否定の論理の実践」
「1. ニルヴァーナ」(涅槃)」を読んでいます。

輪廻と涅槃(ニルヴァーナ)はどういう関係にあるのか、のところです。

p294
互いに相依って成立している諸事象とニルヴァーナとはどのような
関係にあるのであろうか。

「もしも<五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を>取って、
あるいは<因縁に>縁って生死往来する状態が、縁らず取らざる
ときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷する
のを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と
名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナ
である。

人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場
に立つときがニルヴァーナである。

・・・つまり、凡夫が生まれたり死んだりして行ったり来たり
するのが、凡夫から見れば、「輪廻」って呼ばれるわけですね。
そしてそれは相互作用、相依関係で「縁起している」んだけど、
それが高みの視点からは「涅槃」だってこと?
言い換えれば、有=生存、無=死、空=涅槃? 解脱?

p294
輪廻というのは人が束縛されている状態であり、
解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。

両者は区別して考えられやすいけれども、その根底をたずねる
ならば両者は一致している。

この思想は独り中観派のみならず、大乗仏教一般の実践思想
の根柢
となっているものである。

・・・そして、ここまでを読むと、そういう解脱の世界が
あるんだなあ~~、なんてことを凡人は思うわけですが、
ここで こんなことが書かれています。

p295
ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えては
ならない。
ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の
迷妄である。

故に「般若経」においてはニルヴァーナは「夢のごとく」
「幻のごとし」と譬えている。
それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない

・・・ありゃりゃりゃりゃ、ですね。
さんざん期待させておいて「実在しない」ですか?
「凡夫の迷妄だ」なんて言われて黙っていられますか?
まるで詐欺みたいなもんじゃないですか。(笑)

p295
諸事物の成立を可能ならしめている相依性を意味する
諸法実相がすなわちニルヴァーナであるとも説かれている

「諸法実相即ち是れ涅槃なり」

p297
最初期の仏教においては、個人存在を構成する一切の事象が
縁起のことわりに従う如実の相を「真如」とよび、さらに
この真如を<無為>とも称したのであるが、決して無為
という実体を想定したのではないと考えられている。
中観派はその無為という語の原意に復帰して論じている
のであるから、この点からみても空観は最初期の仏教の
或る種の思想を受けついだものであり、或る意味において
正統派であると考えてさしつかえないであろう。

さらにニルヴァーナは空であるとも説かれている。
「空即ニルヴァーナ」といいうるであろう。

・・・空=涅槃、当たりでしたね。嬉しい。

しかし、なんでもかんでもが「空」だったり「縁起」であったりで
ひとつひとつの言葉の概念が複雑すぎて 訳が分からないですねえ。

==その43に続く==

 

 

 

 

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その41 中村元著「龍樹」ー 生きることに執着するのも虚無主義もダメよ

    

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「8. 否定の論理の実践」
「1. ニルヴァーナ」に入ります。

ニルヴァーナってのは涅槃のことだそうです。

まず、一般的な国語辞典でその意味をチェック:
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/170568/m0u/
一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地

wikipediaでもう少し詳しくみますと:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
中村元は・・・「安らぎ - ( 涅槃)声を荒らげないだけで、
ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナ
は後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、
心の平和によって得られる楽しい境地
というほどの意味であろう。」
としている。

そして、その中村元さんの この「龍樹」では、説一切有部や龍樹などの
考え方を詳しく述べてあるんです。

p285
有部によれば・・
「煩悩と業と苦しみとの連続のはたらくことを決定的に妨げる
ところの、滅を本質としているものであり、水の流れを妨げる
堰に相当するものである」

説一切有部の教学によると、智慧のはたらきによる滅(択滅無為)
という独立の実体がニルヴァーナを可能ならしめる
のである。

・・・これに対して、龍樹(ナーガールジュナ)さんは、反論する
わけです。

p287
もしもニルヴァーナが有(存在するもの)であるならば、ニルヴァーナ
はつくられたもの(有為)となるであろう。 何となれば無為である
有は決して存在しないからである。

・・しかし、この反論は的を外していると著者はいっているんです。
何故かっていうと、

p288
有部の意味する「有」は(ニルヴァーナに関していえば)、時間的
空間的規定を超越した有であるにもかかわらず、ナーガールジュナ
の意味する「有」は時間的空間的規定を受けている現実的存在
である。

ここではニルヴァーナを有なりとなす場合の「有」の概念に関して、
二種の異なった解釈が対立
しているという事実は、・・・

p289
ニルヴァーナは無であるという説を排撃している。
これは・・・経部のニルヴァーナ論を排斥しているのであろう。

p290
ナーガールジュナは・・・
「・・もしもニルヴァーナが無であるならば、どうしてその
ニルヴァーナは(他のものに)依らないでありえようか。
何となれば(他のものに)依らないで存在する無は存在しない
からである。」
<無>というからには、何ものかの無なのである。
つまり無は有を前提としている。

p291
形式論理学的立場からいうならば、もしも有でなければ、無で
あることはさしつかえないけれども、相依説の立場に立つ
から一方が否定されるならば他方も否定されねばならないのである。

「師(ブッダ)は生存と非生存とを捨て去ることを説いた。
それ故に「ニルヴァーナは有に非ず、無に非ず」というのが
正しい」

われわれは生存に執著して、妄執によりあくせくしてはならない。
しかしまた非生存(断滅)にとらわれて、人生を捨てて虚無
主義になってはならない、と原始仏教が説いていたことは
事実である。

・・・ここで、著者は、龍樹さんはかなりの飛躍をしているって
言うんです。 原始仏教が上のようなことを言ってはいたけど、
それをいきなり「有に非ず、無に非ず」って、強引によく持って
いけるよね~~、ってわけです。

でも、これは当時のインドだから飛躍できたんだろうって
いうわけです。 それはその言葉の語源が同じだったから
だってことらしいです。

つまり、
有 - 生存
無 - 非生存

が語源的には対応関係にあるそうなんです。

・・ってことはですよ、そういう語源つながりでインドの人に
とってはすっと行ける論理も、他の言語だったら論理の進め方
に無理があるってことですね。

ってことで、龍樹さんは、結構言葉の魔術を駆使している、って
中村元さんは言っています。

次回は、「輪廻」とか「涅槃(ニルヴァーナ)」というのが
どういう意味なのかを読んでいきます。

==その42に続く==

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの事件捜査・司法・裁判の暗部をえぐり出したドキュメンタリー

Give Up Tomorrow というドキュメンタリー映画を バギオ・シネマテックで観た。

031

タイトルを敢えて訳せば、ストーリーの内容から判断して
今日も諦めない」と言えるかもしれない。

英語、フィリピン語、スペイン語が飛び交う映画で、英語字幕が入って
いたのだが、ニュアンスまで理解できるほどの英語力はない。

033

この映画は、下の「事件の内容」を読んでいただければ分かるが、
1997年にフィリピンで実際に起こった 誘拐、レイプ、殺人事件である。

中国系フィリピン人と思われる二人の娘が姿を消した。
そして、スペイン系フィリピン人(フィリピンとスペインの二重国籍)の男
他6名が加害者だとして死刑を言い渡された

029

私が映画から受けた印象・感想は以下のようなものだった:
(英語力が不足していて正確には聞き取れていないので、ご容赦)

1.この事件には、証拠らしい証拠がない
  フィリピン警察の科学捜査力の不足を感じた。
  遺体が別人のものだというような信じられない捜査内容。

2.裁判官と裁判所の粗雑さを感じた。
  日本のような(映画などで見るイメージだが)整然とした中で、
  理詰めでやるような雰囲気がなく、裁判所の中の様子も
  マスコミなども大勢入り込み、騒然とした状態である。
  法廷の中が信じられないほど混み合っている。

3.「疑わしきは罰せず」というような日本人的常識は
  通用しないような雰囲気
である。

4.事件はセブで起こったが、犯人とされた男はマニラに居た
  と多くの人間が証言している。
  証拠とされたアリバイ写真に対して、偽造と判断されたようだ。
  そういう判定すら、警察では出来ないのか・・

5.フィリピンの刑務所の中が映像として映し出されたが、
  その過密ぶりや劣悪さは 日本人には想像を超えている。
  ほとんど貧民窟のような状態にみえる。
  もっとも、食事があるだけ、外の世界のホームレスよりも
  ましかもしれない。
  ただし、刑務所の中に、お金があればだろうが、
  一定の部屋を確保して、家族などの訪問を受け入れることも
  出来るようだった。

6.7人の男たちが死刑判決となったが、ドキュメンタリーの
  主役となったのは二重国籍のスペイン系フィリピン人。
  そのため、フィリピンとスペインの国際問題となった。
  つまり、刑事事件が 政治問題となって、大統領レベルでの
  政治判断が入った。

7.二重国籍の男は、スペインの刑務所に移送された
  フィリピンでの死刑を回避するための手段のようだったが、
  本人は家族とほとんど会えなくなって寂しいと告白している。

8.その政治判断が理由かどうかは不明だが、
  最高刑が死刑であったフィリピンの司法システムが、
  2006年に死刑廃止となった。  

予告編
http://www.youtube.com/watch?v=JuQZG-Tq_18

事件の内容
http://en.wikipedia.org/wiki/Chiong_murder_case

裁判の経緯
http://www.pbs.org/pov/giveuptomorrow/photo_gallery_background.php

私の結論:

日本でも最近は 様々な冤罪がマスコミで報道されているが、
フィリピンの場合は、このドキュメンタリーを見る限りは
空恐ろしい感じさえする。
証拠らしい証拠もないのに死刑とは・・・
それに、弁護側の証人が大勢いるのにその検証もされないという
のが信じられない。

以前、日本がフィリピンに対して、科学捜査力を付けるための
技術援助をやっているという話を聞いたことがあるが、
それが実を結ぶことを心から望みたい。

このケースは、たまたま犯人の一人がスペイン国籍も持っていた
ということでマスコミを賑わす「世紀の刑事事件」ということに
なったようだが、フィリピン人だったらこうは行かなかっただろう
と思うと、背筋が寒くなる。

いずれにせよ、死刑制度はフィリピンからはなくなった。
人が人を裁くということの難しさも感じたが、
捜査や裁判の不明瞭さ、不確実さを 死刑制度の廃止ということで
カバーしたのかな、という疑問も残る。

日本の裁判員制度の運用がどのように行われるのか、他人事ではない。
フィリピンだったら少なくとも死刑になることは無くなったわけだが・・・

026

バギオ・シネマテックでは、1月の終わりころまで、ドキュメンタリー映画祭をやっています。

こちらの日程表でチェックしてください:

023

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ シネマテック ドキュメンタリー映画祭 フィリピンの刑事事件 裁判制度 司法制度 警察 捜査  philippine baguio city  cinematheque  documentary film festival casa vallejo  hill station 

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2013年1月 9日 (水)

フィリピンは今 凄いらしい・・・・けど、変わらないで欲しいこともある

昨日1月7日の夜の経済ニュース番組で フィリピンのことをやっていたんで、ちょっとパソコンから離れてみたんですけど・・・

002

最近、日本企業のフィリピンへの進出が勢いづいているという話。

知識集約型産業もフィリピンにアウトソーシングしているそうな。

003

つまり、製造工場の現場みたいなものだけじゃなくて、オフィスワークも増えているってことですね。

004

英語はフィリピンの公用語ですからね。 グローバル企業のいろんな書類に限らず、私が知っているバギオの例で言うならば、アメリカ相手のコールセンターとか、アメリカのお医者さんが録音した処方箋の内容を音声から書類に起こすとか、そういう仕事も増えているようです。

残念ながら、日本相手の日本語のコールセンターの仕事とかいうのは未だないですけどねえ。

005

これは船舶会社みたいですから、グローバルに仕事をしているってことでいえば、やっぱ英語なんでしょうね。 

日本人も英語、大事ですね、若者よ。

007

これは、建築会社かな。 日本向けの家の設計をこういうCGにして、お客さんに見せるというソフトみたいです。

008

はい、日本語はやっぱり壁にはなっているでしょうね。

こういうニュースになる時は、日本語はそんなに必要ないとかやるんでしょうけど・・・

IT関係だったらまだ、共通語が英語という部分で、日本人もいくらかは英語が出来るんでしょうし。

日本語教育は是非 私にお任せください。

バギオで格安でお引き受けいたしますです、はい。

電話番号は OOO-OOOO-XXXX です。 おまちしてま~~す。(笑)

009

こういう風に、IT関係だと、ちょっとした日本語・英語マニュアルでやれると思うんですけど。

016

なんで、今フィリピンが再評価されているのかという理由なんですがね・・・

最低賃金なんですって。

2008年には 上海、マニラ、バンコク、ジャカルタの中で、マニラが一番高かった。

だから、日本企業も他の国に進出したんだけど、

2013年は他の国が賃金が伸びちゃって、フィリピンが一番安くなっちゃったから・・・ってんですよ。

悲しいねえ・・・

それしかないのか? って感じですけどね。

5年間で 一番高かったのが、一気に一番下ですよ

こういうのを今後も繰り返すわけ??

003_2

これは今夜の時論公論なんですけどね。

私が昔から好きな道傳愛子さんです。

002_2

これで安倍首相が考えるべき課題というのをやっていました。

特にフィリピンということではなかったんですけど、やはり共通する部分はありますね。

法制度については、

おそらくフィリピンの場合は、法はあるけど、その運用はどうなのかってとこが問題ですかね。 地域の親分の力が大きくて法の支配ってのが機能していないらしい。

人材の育成については、確かに必要なんですけど、それが長続き、持続しない。

それは、職があったとしても、すぐに失業あるいは転職しちゃうってところが問題みたいです。

だから、企業にしても技術などが蓄積しないし、例えば機械装置のメンテナンスなんかもなかなかレベルアップが出来ない。

日本がODAなんかでいろいろなものを持ち込んでも、メンテが出来ないし、維持費がなくて期待される機能が動かない、等など。

日本に呼び寄せて、研修をやったとしても、元の職場に戻ったとおもったら、日本研修でついた箔を武器にして、給料のいいところへ転職しちゃう。

医療サービスなんかは、都市部はともかく、田舎にいくと必要みたいですね。

お金がなくて、十分な医療を受けられない人たちは、私が住んでいるバギオ市辺りでも大勢いるようです。

・・・だから、日本企業のフィリピン進出は大歓迎。

一方で、こんな新聞記事もあります。

人口抑制法-経済成長と大家族主義の狭間で揺れるフィリピン社会

http://sankei.jp.msn.com/world/news/130108/asi13010822220008-n1.htm

「フィリピンの人口は2000年の約7700万人から、現在は約9500万人と急激に増加している。出生率は3・27と、世界平均の2・1を大きく上回る。」

私は、日本の現状をみていると、出生率が3.27だったら、それを維持してほしいと思うんですけどねえ。

少子化になってしまった日本、子供の姿が町の中から消えてしまったような国の真似をすることはないと思うんです。

フィリピンの方が、日本よりも、幸福度指数は高いそうですからね。

貧しくても幸せな大家族主義。いいじゃないですか。

そこに仕事が増えればいいんじゃないかと思うんです。

おそらく、日本からフィリピンンに仕事を求めてくる若者も増えるんじゃないかと思うんですけど、そういう日本の若者が 今からの日本を、メンタルを病んだ日本を変えていくヒントを学んでくれるんじゃないかと、期待しています。

 

 

 

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2013年1月 8日 (火)

その40 中村元著「龍樹」ー 言葉じゃ表現できないんですってよ!

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「7. 空の考察」
「2. 中道と空見ーー三諦偈の解釈に関連して」を読んでいます。

さて、「空見」の排斥、ってところですが、
そもそも「空見」って言葉の意味はなんじゃろ

p272
「三諦偈」の考察において、・・縁起、空、仮名、中道という四つ
の概念が同義
であることを・・・
ヘーゲル流の否定の否定の考えは述べられていない・・・

しかし「中論」においては空見を排斥している箇所がみられるし、・・・

p273
「空亦復空」(くうやくぶくう)とはクマーラジーヴァの訳した
青目(ピンガラ)釈において処々に散見する・・

「もしも何か或る不空なるものが存在するならば、空という
或るものが存在するであろう。 しかるに不空なるものは何も
存在しない。 どうして空なるものが存在するであろうか

「一切の執着を脱せんがために勝者(仏)により空が説かれた。
しかるに人が もしも空見をいだくならば、その人々を
「何ともしようのない人」とよんだのである」

・・・ここで「空見」ってのは二つある、って出てくるんです。

p274
空は一切の見を滅すことであるにもかかわらず、その空を
有と解すること
であり、他にもこのような解釈がみられる。

ところがこれに反して空見とは空を無の意味に解すること
すなわち「無に執着すること」であると説かれている場合もある。

p275
空見とは、本来非有非無の意味であるべきはずの空を誤解して、
それを有の意味に解するか、また無の意味に解するか、
いずれかであり、・・・

次に「一切皆空」を「一切皆無」と解する説を誤った見解(邪見)
であるとして、・・・

すなわち空そのものは対立を絶しているにもかかわらず、これを対立の
立場において把捉しようというのが空見
である。
・・・空見には、空を有と解するものと無と解するものとの
二種類があるのも当然である。

・・・ここで、なんで空見というものが二種類あるのに、ひとつの
空見という言葉で呼ばれているのか、って議論が続くんですが、
訳が分かりませんのでスキップ(笑)。

p278
結局、空見とは空という原理を想定する考えであるといえるであろう。

しかるにこの縁起説の真意を体得しないで、空を特殊のもの、
あるいは原理とみなしやすいのが凡夫の立場である

・・はい、まことにもって、左様でございます。

p278
故に中観派は種々の譬喩を用いて空見に陥ることを警戒している。

・・すなわち薬は病を療すために飲むのであるが、もしも
病が癒えて後にもなお薬が体内にとどまっていて外に出ない
ならば、やはり病を起こすことになるのと同様に、
空は煩悩を滅すために説かれているのにその空に執着する
ならば、かえって目的とは逆な結果を生ずることとなる

いって、「空見に陥るなかれ」と説いている。

p279
要するに空見とは、空が縁起の意味であり、有と無との対立を
絶しているにもかかわらず、これを対立の立場に引き下ろして
考えることである。
「空亦復空」とはこの空見を排斥しているのであるから、
通常いわれる否定、たとえばスピノーザの・・・あるいは
ヘーゲルの・・・とはかなり相違しているというべきであろう。

・・はあ~~~ん。
なんとなく分かったような気になってきました。
「空」は相依りの関係、縁起の関係、中道なんだけど、
それを有とか無の概念でとらえる考え方に陥りやすい、
それが「空見」というものなんですね?

そして、その「空見」にはまってしまった人たちは、もう救いよう
がないよ、ってことを言っているみたいですね。

p279
当時、空を誤解した人々が非常に多かったということが明らか
であるとともに、中観派が極力空見の排斥に努めたこともわかる。

・・・ふ~~ん、仏教のご当地のインドの当時であっても、
こういう状態だったってんだから、何百年もかかって、インド
から中国、朝鮮、日本へ、言葉の壁を越える努力をしながら
伝わっていったんですから、そりゃあ変質もしますよねえ・・・・
学者の説がいろいろあっても、それも自然なことなんでしょう。

p281
故に「般若経」の中にたびたびもろもろの事物の無が説かれて
いるけれども、
それは対立のうちに終始している凡夫の立場
脱せしめるために仮に説かれたのであって、空と同義であり、
有と対立した無とは区別する必要がある。

・・・だから「空を説く」ということも実は一つの方便である。
空を絶対視するならば、その瞬間に空は失われてしまうのである

p283
「諸法実相」の原語は多数ではあるが、結局は同一の趣意、
すなわち、諸法が互いに相依り相互に限定する関係において
成立している如実相を意味し、「縁起」と同義である

・・・したがって諸法実相は「他のものによって知られる
のではなく」であり、すなわち、言語によって表現されえない
ものだということになる。

・・・あっちゃ~~~~~!!!
言語では表現できないそうです。
こういうところから密教のようなものに発展していくんでしょうか。
言葉じゃ分からないって、偉い人たちが言っているわけだから、
凡夫に分かるわけないですよね。
ってことは、こういう本を今読んでいる意味があるのか・・?(笑)

まあ、いいでしょう。 分からないってことが分かったってこと
だけでも・・・

p284
なお従来中国、日本の仏教教学においては縁起と諸法実相とは
互いに対立する概念であるかのごとく取り扱われてきたけれども、
その両者は本来同一趣意のものであることは十分留意さる
べきであろう。

・・・あれれれれ、我々凡人だけじゃなく、日本の仏教界そのもの
が考え方を変えなきゃいけないって、おっしゃってるわけ ???

それとも、葬式仏教を旨とする日本の仏教界には、もはや
関係はないのかな?

==その41に続く==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本の恐ろしい現状を変える手立てはあるのか: うつ病、メンタル不調者

以前から、うすうす聞いていたことは聞いていたんですが・・・

これほどの恐ろしい状況になっているとは、知りませんでした。

「性格が原因?」 メンタル不調者に張られるレッテルの恐怖

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20130107/241893/?P=1

「過去1年間にメンタルヘルス不調を抱えた労働者がいる」企業は全体では13.9%だが、従業員300~499人の企業では78.5%、同500~999人では86.9%、同1000~4999人では93.0%、同5000人以上では95.5%と9割を超え、大企業ほどメンタル不調者が多いことが分かる。

・・・これって、うつ病などの精神的問題を抱えていることが「当たり前」ってことじゃないですか。

フィリピンのバギオに英語留学という名目でやってくる人や移住目的でやってくる人たちもいるんですが、そういう人たちに最近の日本の状況を聞くにつけ、日本の閉塞感やうつ病などの精神的トラブルを抱えている人たちが多いという話は聞くことがあります。

その中には、留学してきたご本人自身がそういう日本から抜け出してきたというケースもあるようです。

しかし、90%にもなるほどにそういう人たちがいる、日本人のほとんどがそういう状態だというのは、そりゃあ個人の性格って話じゃあないでしょう。 国民性ですか?

ここで、普通なら「フィリピンはいいよ」って話を展開したいところなんですけどね。

でも、そういう「癒し」の場に来なさいっていうレベルを超えた日本の状況を見せつけられると、そんなことは言ってられなくて、やっぱり子供の時からの学校、家庭、地域を含めた教育環境から 根本的に変えていかないことには 無理でしょうってことですね。

・・・こんなことを言うのは、たまたまこんな映像を見たからなんですけど、

「オランダ教育の凄さ!」

http://www.youtube.com/watch?v=d3_T8vPKoGE&feature=share

これは、凄すぎて、ま~~ず、日本の政治家や役所、教育関係者は 「こんなの日本じゃ出来ない」 って開口一番言うんでしょうね。

出来ない理由を山ほど 明晰な頭脳で考え出して、論理的に「出来ない」ことを証明してくれるんでしょう。

でも、こういうのをやらないと、日本沈没ですね。

今の政治の低迷、閉塞感も、おそらく教育の失敗の結果なのでしょう。

私もその失敗作の典型的なひとつの例なのかも。(笑)

最近は 民主党がずっこけちゃって、自民党がイケイケ状態ですけど、

どうも、教育にしたって、「日本の誇りを取り戻すような」教育をやろうとか、「道徳が大事」だとか、「自虐史観じゃない歴史」を教えようとか、要するに「教えてやろう」ってスタンスなんですよねえ。

それが、根本的な間違いじゃないかと思うんです。

言っておきますが、日本人としての誇り、道徳、歴史は大事だと私も思っているんですよ。

しかし、誇りなんてのは自分が自立して考える力があってこその誇りでしょうし、道徳だって人から押し付けられるもんじゃないし、歴史にしたって日本だけで歴史が成り立つわけじゃない、世界的な視点で周囲の国々が日本とどうかかわってきたかっていう様々な視点を理解してこその歴史でしょう。

愛国心は私も大切だと思いますよ。 だから、フィリピンで日本文化の様々な交流をフィリピンの地元の人たちと一緒になってやっている。

日本国内の偏狭な考えで、日の丸とか君が代はやらない、なんてことは私はとりません。

海外にいる人ならおそらくどなたでも思うでしょうが、自分の国の国旗や国歌は 海外に出れば それをリスペクトするのは当たり前のことです。

フィリピンの人たちが、国旗にむかって、胸に手をあたて、国歌を大きな声で歌うのは 観ていて素晴らしいと思いますし、自分も日本の国旗と国歌にたいしてそうありたいと常々思っているからです。

片や、ビートルズの「イマジン」みたいに、国や宗教やらが無ければいいのに、と思うことだってあるんですけどね。

さて、話を元に戻しましょう。

教育ってのは、「教える」じゃなくて、「学ぶ力を付けさせる」ってことだと思うんです。

そこで、このオランダの教育をみていて、ちょっと私も 思い起こすことがあるんです。

それは、私がやっている日本語教育の中で ちょっとだけ感じることなんですけどね。

正に、「学ぶ力をつけさせる」なんです。

日本の学校教育とちがって、国語教育と違って、日本語教育の場合は ほとんどが大人が相手ですからね。 子供に教えてやる、じゃない。 会社の社長さんだって学習者なんです。

それも、ある一定の短い期間に、日本人だったら幼稚園、小学校、中学校、高校などと 12年以上も掛かって覚えていく日本語ってものを勉強していくわけで、

外国人学習者に それを半年や1年で「教え込む」ことなどどだい無理ですから、「自分で学んでいくやり方」を訓練していかないといけないってことになります。

先生がしゃべる じゃなくて 学習者にしゃべらせる

先生がやる じゃなくて 学習者がやる

先生がリーダーシップをとる じゃなくて 学習者がリーダーになる

・・・だから、学習者自らが読み、書き、聞き、話し、行動する、ような仕掛けを、場面設定をしていくんですね。

こういうのを ファシリテーターとかコーディネーターとか呼ぶんでしょうか。

日本の教育は素晴らしいと言われた時代もありました。

品質のよい、均一なレベルの、高い教育をうけた「労働者」、バラつきの少ない高品質の「労働者」を「効率的」に「大量生産」してきた すばらしい オートメーションシステムだったのだと思います。

でも、最近の世界情勢を観ていると、それはもう、いわゆる発展途上国の教育システムではあっても、世界をリードしていく立場である日本の教育システムとしては 制度疲労を起こしていると言ってもいいんじゃないでしょうか。

日本のどこかの田舎、小都市から、新たな教育システムが生まれることを 大いに期待したいと思います。

その前に、フィリピンのバギオで、私立の小学校を覗いてみると 面白いかもしれませんよ。 たぶん、学ぶべきことが たくさんあると思います。

 

 

 

 

 

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初めての NARDA'S バロン : フィリピン山岳民族の織物デザイン

フィリピンの男性の正装は、ご存じ バロン・タガログなんですけど・・・

どんなもんか、というのは下のサイトでご覧ください。

http://harana.ocnk.net/product-list/19

下のサイトには、アロヨ大統領と安部首相のバロン・タガログ姿があります。

http://cebu.jocv.net/blog/index.php?eid=743

普通は、白っぽい生地で、スケスケの涼しい感じのものなんですけど・・・

016

今回は 私はこういうのを買ったんです。 これが三着目。

初めて買ったのは、シンプルなものをテーラーで作ってもらったんですけど、それは私が駐在員だったころ、1998年ころの話。

2着目は、数年前に、SMバギオで、結構高いバナナ・ファイバーっていうのかな、植物繊維のちょっと豪華なやつを買ったんです。 しかし、失敗でした。 2~3回結婚式に呼ばれて着て行った後は、元々白に近い色だったものが真っ茶色に「錆びた」っていうのか、変色してしまって・・・・

017

だから、今回は、ちょっと長持ちしそうなものを選んだんです。

スケスケだと、中に真っ白のTシャツみたいなのを着なくちゃいけないから、シースルーじゃないやつ。

もちろん、植物繊維の繊細なものはご勘弁。

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でも、今回は NARDA'S っていう有名ブランドなんです。

ナーダさんの独自ブランドなんですけどね、素敵なオバサマなんです。

004

こういう方です。

何年前の肖像だかは 分りませんけど・・・・

012

このブランドの何が特徴かっていうと、フィリピンのルソン島北部山岳地帯の伝統的織物を使ったデザインなんです。

上の写真に説明が書いてあるように、このナーダさんは バギオ市の北方にある マウンテン州ボントック町の出身だそうでして、山岳民族の織物などのパターンを 現代風にいろいろとデザインして、世界的に事業展開して、成功しているそうです。

私が買ったものは、1,550ペソ(おおよそ3千円)でした。

008

拠点は、バギオ市と隣町のベンゲット州ラ・トリニダッド町ですけど、マニラの国際空港にもお店があるようです。

ここには男性用のバロンしか写真を載せていませんけど、女性用のファッションが多くて、フィリピンの歴代大統領夫人の御用達デザイナーだという話もあります。

さて、その元々の山岳民族の織物なんですけど・・・・

003

こういう感じの機織りなんです。

005

そして、これが山岳民族の伝統的民族衣装です。

バギオにお越しの折は、是非 SMバギオとビクトリー・ライナー・バスのターミナルの間にあるお店でお土産でもいかがですか?

あるいは、バギオのキャンプ・ジョン・ヘイの中にある高級ホテル Manor Hotel のロビーの横にお洒落なお土産ショップがあります。

ナーダさんの国際的活躍については、こちらの新聞記事でも紹介されています。

007

バギオ市で一番発行部数が多い地元紙、バギオ・ミッドランド新聞の記事です。

ちなみに、ナーダさんデザインのバロンは、バギオの市議会議員など有力者の皆さんがご愛用になっています。

そういうデザインのものを私が着るっていうのも、ちょっとためらいもあるんですけど、たまにマニラに下りて大使館の公式行事に出たりというのもあるので、バギオ市の宣伝も兼ねていいんじゃないかと思いましてね。

ナーダさんのバロンの中でも、一番おとなしいものを選んでおりますです、はい。

ところで、

このNARDAさんですけど、個人的にも知り合いでして、最初にお会いしたのは バギオ市の市制100周年記念イベントの委員会でした。

そして、その後、彼女がパトロンにもなっているバギオ博物館で、日比友好月間などに日本文化の紹介をやるようになって、時々お会いするようになったんです。

そのナーダさんが、ある時、私の携帯にメールをくださいまして、私の家でパーティーをやるから来ませんか? ってお誘いを受けたんです。

私はその時期、たまたま日本語教師の仕事があって すっぽかすわけにはいかなかったんです。

でも、後で聞いた話で、行っておけばよかった!!

って後悔したんです。

何故かっていうと、そのパーティは 前大統領のアロヨさんが来るというやつだったんですねえ・・・・

流石に歴代大統領の御用達のデザイナー、大御所なんでありました。

ああ、今思い出しただけでも 失敗失敗・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

NARDA’S のホームページはこちらにあります。

http://nardas.com/

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年1月 7日 (月)

その39 中村元著「龍樹」ー 「霊魂と身体は同一」とか「異なる」とかも空である?

 

中村元著「龍樹」の中の、
「 II. ナーガールジュナの思想 ー 「中論」を中心として 」
を読んでいます。

「7. 空の考察」
「2. 中道と空見ーー三諦偈の解釈に関連して」を読んでいます。

p258
中道の思想はすでに原始仏教聖典のうちにこれを見出すことができる。

・・・純粋に理論的な意味において「中」または「中道」を説いて
いる箇所がある。 「如来は二辺をはなれて中によって法を説く
といわれている。

・・そして、ここで、著者は、縁起説が何故中道を説くことになるのかを展開します。
その概略の例を書き出しますと:

苦しみについて、

苦しみが自ら作られたものであることを説くもの
= 常住を執する見解(常見)= 「一切は有である」思想
= 「霊魂と身体とは同一である」という主張

苦しみが他のものによって作られたことを説くもの
= 断滅を執する見解(断見)= 「一切は無である」思想
= 「霊魂と身体とは異なっている」という主張

これらは二つの一方的な見解(二辺)である。

上の二つに対して、縁起はどちらでもないから、中道である

・・と言う事らしい。
ここで初めて、霊魂と身体について書いてあるところを見ました。
ここで言う「霊魂」ってのは何のことなんでしょうか。

p261
(説一切有部は)「一切が有る」ということを主張したので
あるから、仏教の本来の立場と矛盾することとなる。
したがって・・・なるべくこの矛盾に触れないように、
中道に関しては沈黙を守っている。

p261
中観派は中道を中心問題として扱い、それを縁起の意味で
あるとした。 この点においては中観派は仏教の最初期の
立場に復帰した
といいうる。

p265
したがって空は中道と同義であり、有と無との対立を離れて
いることである。 空を無と同一視し有と対立させるのは、
ナーガールジュナの原意に適合していないと思われる。

p266
空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
すなわち「実有」の意味である。

仏教の経論の中において有が空と対して使ってある場合には、
「実有」の意味に解してよいと思う。
・・・実有と空とは全く仏教的な概念であるといいうる。

p266
ところがこの空という語は否定的な響きをもつから、インドに
おいても空と中道とを別な概念とみなし、空は無に近い意味
のものと考えられるに至った。

したがって中道も非有非空の意味であるとされた

・・・ああ、おいおいおい、またまた複雑な話になっちゃって。
まあ、普通の日常語だって時代によって意味が変化していくん
だから、こんな複雑な形而上学の言葉なんてそりゃあ翻訳の問題
もあるし、誤解が誤解を生んでも当たり前かもねえ。

p266
さらに、唯識関係の書においてはこの傾向が強く現れている。
そうして中観派にとっては二つの対立的見解を離れているはずの
空がここでは一つの極端説(一辺)とみなされている。

・・・こんなに意味がごちゃごちゃと入り組んできちゃうと
どの経典が龍樹さんの原意をちゃんと反映しているのかって
最初に疑ってかからないといけないじゃないですか。
まあ、学者の意見が定まらないのも無理はないってことに
なりますよねえ。

そして、一応そういう問題があるってことを横に置いておいて、
著者は話を進めます。

p267
中道が非有非無の意味であるならば、・・・どのような哲学的
意義を有するかを、さらに考察したい。

p268
西洋近世の哲学は、大まかにいえば、自我の自覚に立って
自我を追求する運動の歴史である。 したがって最初の、そして
最後の問題は常に主観と客観との対立であった。
ところが仏教は最初から主観と客観との対立を排除した立場に
たって、「ありかた」としての種々の法を説いたのであるが、
有部はその法を実有と見なし、中観派はこれを空と説いた。

p270
実に多くの相互に対立した概念に関して中道が説かれている。
故に中道とは一言でいえば非有非無であるが、それを拡大して
いえば、あらゆる対立した一組の概念に関して陳述することが
できる。

==その40に続く==

 

 

 

 

 

 

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NHKワイルドライフ オオミミギツネ: 見るに忍びない人も多かろう

昨日も観たんですけど、今再放送でやってるんです。

NHKの「ワイルドライフ・ オオミミギツネ・大家族の物語

http://www.nhk.or.jp/wildlife/program/p092.html

「家族の絆」って言葉が何度も出てくるんです。

それがちょっと気になるっていうか・・・

はっきりいって、ちょっと イラッと来るんですけど。

こういう動物ものっていうのは、確かにいわゆる「癒し系」の番組だと思うんです。

見ていて可愛いなあと思うし、凄いなあ自然の動物って・・・などと感動するもんです。

・・・・

ただね、こういう番組に限らないんですけど、

癒しだと思ってみている番組の内容が、人によっては逆に ひどく心を気づ付けるっていうのか、見るに忍びないことって たくさんあるんだろうなあ、なんてことを時々感じるんです。

このオオミミギツネの中では、

いろんな苦難から母狐と父狐がチームワークで6匹の子供たちを守るっていうストーリーになっているんですけどね、

Batearedfox

その内の1匹が天敵の動物に、アリ塚である巣穴に侵入されて、どうも喰われてしまったみたいなんです。 赤ちゃんが襲われてしまったわけ。

そして、二回目と思われる侵入があった時に、父キツネが敵を牽制している間に、母キツネが子供たちを誘導して避難し、無事に助かったって話なんです。

実に素晴らしい対応なんです。

・・・・

しかし、こういう癒し系、教育系とでも言えるような番組って、ある意味 観ている人にとって残酷だなあと感じるんです。

東日本大震災で家族を亡くした人たち、特に小さい子どもを無くした親にとっては、耐えられないほどの心痛を思い出させるんじゃないかって・・・・

大震災のドキュメンタリーだと言うんなら、観たくないと思えばみなくて済むでしょうけど、 動物番組だからって安心して観ていたら 逆に無くした子供のことを思い出させられて、なぜ子供を守れなかったんだろうという気持ちに苛まれたりするんじゃないかって思うんです。

・・・・

世の中には幼い子供を無くしたという親も多いと思うんですけど、テレビの娯楽番組をみているつもりが、それによって心の傷をえぐられるようなことも多々あるんだろうなあ・・・と思うとたまらない気持になることもあるんです。

私は幸運にも、二人の娘たちが既にそれぞれ独立して、それぞれに孫も授かったんですけどね。

それって、本当に幸運なことなんだってしみじみと感じるんです。

誰に感謝するっていっても、誰だかわかりませんけど・・

敢えて言えば、運命に感謝する、ってことしかないのかもしれませんね。

あるいは、

たまたま仏教の本を読んでいるところですから、

それに感化されたってことで言うならば

「相互作用の空」に感謝とか、

「縁起」に感謝とか、

「仏様」に感謝とか、

そういうことにしておきましょうか。

又は、それをまとめて、

一応実家が浄土真宗だったんで、

私自身は不信心で、門徒とか信徒じゃあないんですけど、

南無阿弥陀仏」とか・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2013年1月 6日 (日)

NHKクール・ジャパン:日本語は難しい:「ため口」で親近感

NHKのクール・ジャパン COOL JAPAN を時々みているんですけど、
昨日は正月特番みたいな形でやっていまして、
日本人はなぜ年齢を聞きたがるのか」ってことをやっていました。

http://www.nhk.or.jp/cooljapan/

実験的な映像も出てきて、その中で10人ぐらいの20代の人たち
がバーベキューをやるんですが、初対面で年齢も分からない状態
の時は、会話も行動もなかなか円滑に進まないのに、年齢が名札に
明記されるや、
急速に雰囲気が打ち解けたものになっていく
様子を流していた。

日本語教育に関わっている者としては、これはやっぱり
日本語という言語の問題があるなあ、と感じたんです。

敬語の壁、ですね。

相手の年齢が微妙で分からないと、若い人たちの間であっても
丁寧語などの敬語しか使えず 親近感がもてない会話になってしまう。

ところが、一旦年齢が分かるや、年齢がひとつでも上の人間は急に
目下に対して普通語などのくだけた言い方になる。
それが、立場や役割をはっきりさせて、一緒に何かをやる際の
潤滑油のように機能していたようだった。

それまでは、例えば、
「火はこの上で起こせばいいんですよ。」
と言っていたものが、
「火はこの上で起こせばいいんだよ。」
となったり、

「肉はこれを使えばいいんでしょうか。」

「肉はこれを使えばいいんだよね。」

になったりする。

それまでは、お互いに
「もしかしたら、この相手は自分よりも年上かもしれない。」
と思いつつ、無難な言い方である丁寧語を双方が使ってしまう
ということなのだ。

私が日本語を教える場合は、フィリピンから日本へ仕事を求めて
行くひとたちがほとんどであるので、限られた研修期間でもあり、
丁寧語を基本にして教え、彼等が雇用する側に対して
失礼のない、誤解されない日本語
を使えるよう教えることにしている。

簡単な例で言えば、
「おはよう!」と言ってはいけない
「おはようございます!」と言いなさい、などなど。

貴方が働く会社の工場長は、あなたに対して
「おはよう!」と言うだろうけど、
あなたは「おはようございます。」と言わなくてはいけない。

もし「おはよう!」なんて工場長に言っちゃったら、
即刻首になっちゃうからね。

・・などと、笑いながら教えるのである。

何年か前に、テレビ番組をみていたら、日本国内の日本語学校での
話をやっていた。

そして、そこで学生たちが、日本語教師に対して、
「普通形を教えてください。」
とやっていた。
その理由は、日本人の友達などと話をする際に、「です」「ます」調
の丁寧語だと、友達の中で浮いてしまうと言う事らしい。

確かにそういうことはあるだろう。
そして、そういう希望に応じて普通形を教えることも必要であろう
とは思う。

しかし、何故だろうか。
外国人が普通形でいわゆる「ため口」で話すと、違和感がある
もちろん、日本人の若者が60を超えた私に「ため口」でしゃべると
違和感を感じることもあるが、私の場合は左程気に障るということは
ないようだ。

こちらの「語源由来辞典」には、「ため口」について下のような
説明がある。
http://gogen-allguide.com/ta/tameguchi.html
相手と対等な口をきくこと
敬語を使わず、なれなれしく話すこと
「ため」は、博打用語で「「ぞろ目(同目)」をさした語。

自分が若いつもりでいる為なのか、あるいは20歳のころから
ず~~っとアメリカ系の会社で働き、社内での呼び方も
「XX課長」とか「XX部長」などという社風もなく、逆に
上司・部下に限らず「XXさん」と名字で呼びなさいというルールまで
あったからかもしれない。

上に「相手と対等な口をきく」とあるが、
それは対等ということだけでいうならば、お互いに敬語・丁寧語を使えば
対等なわけで、普通形でお互いにしゃべるということの方が
ため口の要件なのだろう。
つまり「なれなれしくしゃべる」の意味と取るべきだろう。

「なれなれしくしゃべる」というのは、確かに仲間内という
雰囲気にもなるし、打ち解けるということがあるのだろう。

しかし、これは、結構危険なんじゃないかと思うことがある。

過去・現在を含めて、私よりもかなりの年配の方が私に対し
丁寧語で接してくださることがある。
そういう方は概ねいわゆる「紳士」「淑女」である。
・・というより、「品がある」の方が近いか・・・

そういう人に接すると、確かにやや緊張もするのだが、
年下の人たちに対してもこのように接することができる
年配者でありたいと思うことも事実である。
元々、私に品はないですけどね。(笑)

NHKの クール・ジャパンの中では、外国人出演者から
年齢などは関係がない、相手にどう接するかはその人の
知性がどうかということによる
、というような発言があった。

話の中で知性を判断するというのはなかなか難儀なことで
あろうと思う。
それに、知性で判断するということは、年齢での差別よりも
内容的に厳しいことである。
それは、いわゆる学歴や身分による社会での差別にもつながって
いるのかもしれないと感じる。

日本人は、いろいろと知性の分野はあっても、年齢が上ならば
それに伴う知恵というものが備わる
ということを腹の底で
信頼しているのかもしれない。

仮に、技術が学歴に基づく知識、技能は経験による年功ということが
正しいとするならば、日本の場合はその年功を尊重する傾向が
強く、韓国などを除く多くの海外諸国では知識を重んじる
社会・文化の背景があるのかもしれない。

・・・といいつつ、年功の方が楽でいいかな、ってのが本音かも。

お後が宜しいようで・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ 日本語教育 日系人日本語研修 日本文化 日系人互助財団 the blue files japanese language training baguio city philippines japanese culture

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コスプレ、着ぐるみの効用・・・・自分がモテていると勘違い?

時々このブログで登場しているコスプレやら着ぐるみなんですけど。

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こういうのとか・・・

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こういうちょっと可愛い系とか・・・

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いろいろとコスプレもあるらしいんです。

漫画、アニメ、ゲームなどのキャラクターですね。

・・・でも、私なんぞは、なにが何の、どういうキャラクターなんてのは知らないわけ。

3~4年前なんかは、どうせ一時的なブームなんでしょ・・・

なんてことでバカにしていたんです。

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しかしね、こういう公共の場でのイベントには、か~~なり欠かせない目玉になってきているんですよねえ~~。

2~3年前に、某国際的機関の人から、「漫画とかアニメ、コスプレにしたって、なかなか馬鹿にできないほど凄いんですよ。 一時的な現象じゃないと思いますよ。」

なんてことを聞かされまして。

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(photo by Elaiza san)

コスプレがフィリピンのバギオで目につくようになる前から、ピカチューとかドラえもんの着ぐるみはパレードなんかで使ってはいたんです。

コスプレって、着ぐるみとどう違うのかな? なんてことをふと思ったわけ。

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(photo by Elaiza san)

要するに、こういう風に着ぐるみじゃなくてコスチュームを自分で工夫して、キャラクターに成り切るっていうのかな・・・・

いわゆるコスプレーヤーと呼ばれる彼らは、よ~~く勉強しているっていうか、調べているんですよねえ。

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バギオのコンベンションセンターで、こんなに多くのコスプレ・ファンを集めて、驚くほどの七夕イベントをやってのけるパワーがあるんですねえ。

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それも、単なるコスプレだけじゃなくて、ご覧のとおり、日本の昔っからの遊びなんかを研究して、道具立てもちゃんと調べて、自分たちで作ってしまうんです。

これには、参りました。

日本人である私なんかが出る幕なんてありまっせん。

Photo_by_kosaka_san_2

・・それに目を付けた・・・って言うと言葉が悪いんですけどね、このカンナム・スタイルを踊っているオバサマですね。 市議会議員なんですねえ。

まあ、このオバサマが、コスプレにご執心なんです。 市長にも是非見せたいなんて言いましてね・・・ お声が掛かるわけです。

別に、私がコスプレ・グループを率いているわけじゃなくて、たまたま知り合っただけの、2~3の大学を中心にした大学生たちなんですけど。

まあ、行きがかり上 コーディネートをするってことになっちゃった訳でして。

Photo_by_kosaka_san_3

(photo by Mr. Kosaka)

元々嫌いじゃないっすからね・・・ 着ぐるみをかぶっているだけで、モテるわけですよ。

まあ、自分がモテているわけじゃなくて、ピカチューやら、ドラえもんやら、スティッチが 人気があるわけなんですがね・・・

倒錯の世界とでも申しましょうか・・・

気分はいいわけです。

そこまでは、いいんですけどね、

実は、これに味をしめた(?)オバサマが、これをフィリピン・バギオ市の恒例行事として制度化するって条例を通しちゃったんです。

詳しくは こちらのサイトでチェックしていただくとして・・・

http://janl.exblog.jp/17105914/

ともあれ、そういうことになったそうなんで・・・・

いや、名誉なことですよ。

誇らしい、嬉しいことですよ。

国際交流のイベントを、日本文化をフィリピンの山の上で、尊重してもらえるってことですからね。

・・・でもねえ・・・何事もいつまでも続けられるってもんじゃあないっすからねえ・・・

色即是空・・・

諸行無常・・・

やる前から こんなに弱気じゃしょうがないっすね。

このフィリピンの若い人たちに期待して・・・

日本からバギオにやってくるあなたにも・・期待して・・・

Photo_by_kosaka_san_4

こういう、いい思いが出来ることを 励みにして・・・

頑張りましょう~~~!!

(しかし、美女に囲まれちゃうと、小心者の、純情な男としては、身体が縮こまっちゃうな。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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