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2013年6月22日 (土)

ややこしい日本語-4 「進めている」は どっち ?

これは、日本語教師症候群にかかった男の「たわごと」です。(笑)

テレビで、なんの番組だか分からなかったんですが、
誰かがプールで泳いでいる場面があって、解説の人が

「よく進めていますね。」

って言ったんです。

「進めている」? と、またまた ひっかかってしまったんですねえ。

なにがひっかかったかって言うと、
A.他動詞「進める」の「ている」形なのか、
B.自動詞「進む」の「可能形」の「ている」形なのか・・・
  (「読む」の可能形は「読める」、「読めている」ですね)

A.他動詞だとすれば、
文型は 「 xxは xxを xxする」ですから、
「あの人は 体を 速く前に 進めています。」
と書き換えることができるし、

B.自動詞だとするならば、
文型は 「 xxは xxできる」なので、
「あの人は 速く前に 進むことが出来ています。」
と読み替えられると思います。

・・・何が言いたいかっていうと、
「進めている」という同じ形の文章なのに、ふたつの意味に
とれるという言語でいいのか? 
ってことなんですよねえ。

どっちでもいいじゃないかと放っておけばいいようなもんですけどね。
なんで、日本語はこんなに「ややこしく」なってしまったんだろう
って思いませんか。

他に似たようなふるまいをする動詞があるかなと調べてみました。

C.他動詞 「落ち着ける」ー「落ち着けている」
D.自動詞 「落ち着く」ー「落ち着ける」-「落ち着けている」

その意味を文にしてみると、
C.「彼は 気持ちを 今 落ち着けている。」
D.「彼は 落ち着くことが 出来ている。」

本でみた限り、こういう形になる動詞というのは少ないみたいですね。

例えば、
E.他動詞 「始める」ー「始めている」
F.自動詞 「始まる」-「始められる」-「始められている」

G.他動詞 「曲げる」-「曲げている」
H.自動詞 「曲がる」-「曲がれる」-「曲がれている」

まあ、そんなに多くなさそうだから、心の片隅で大事に
「例外的なものがある」としておきゃあいいかな?(笑)

その5は こちらです

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ややこしい日本語-3 「監督にもメッセージをもらっています。」って?

なぜ「ややこしい日本語」ってものを始めたかって言いますと、

「日本語の論理」って本を読んでいて、いろいろインターネットで検索したら、「日本語は非論理的なのか」なんていう議論が やっぱり巷にはあるみたいなんです。

だから、身近なところで どんな「ややこしい」日本語があるのかな、と思ったわけ。

では、その3をどうぞ・・・・・

========

NHKのテレビで 俳優とのトーク番組をやっていたんです。
そのトークの中で、司会者が、
「監督にもメッセージをもらっています。」
って言ったんですね。

あなただったら、この「監督にも」っていう言葉をどちらの意味に
理解しますか?

A「あなた(出演している俳優)に対して、監督からもメッセージをもらっています。」

あるいは、

B「ある人(俳優でも監督でもない人)から、監督へもメッセージをもらっています。」

これがどちらの意味であるかを、あなただったらどうやって見分けますか?

Aだったら、このトーク番組に監督が出演していないことが前提ですよね。
あるいは、監督もトーク番組に俳優といっしょに出演しているんだけど、
直接番組の中で口に出すのは恥ずかしいからわざわざメッセージの形に
して、司会者に読んでもらうことにしたか(まず、ほとんどあり得ない
でしょうけど)。

Bだったら、番組に監督も出演していて、俳優と一緒にいることが前提。

・・・

結論から言えば、このトーク番組の状況としては、Bだったんです。

テレビを途中から見たもんで、そこにいる人が監督だとは知らなくて、
「監督にももらっています」と聞いた時に、当然、俳優に対して
監督からもメッセージが来たんだと思い込んだんです。

それで、なんか「変だなあ」と思ったわけです。

で、辞書にはどういう解説があるかチェック

「にも」

1.<時・場所・方向・相手など>
  「田中さんにも教えてあげよう。」
  いろいろな意味を表す句を取り立てて、「それだけでなく、
  他のものについても同じことが言える」

2.<尊敬の対象>
  「皆々様にもご健勝にお過ごしの由、お慶び申し上げます」

このふたつしか説明がないんですけど、これは明らかに1の意味ですね。
ただし、「にも」が、「から」の意味なのか、「へ」の意味なのか
その方向性については何も解説がありません

方向性を書いた辞書はないか・・・
「にも」は「に」+「も」ですから、ここでは「に」をチェックしてみます。

「監督にメッセージをもらった」という文で考えてみましょうか。

国語辞典によれば:

「に」

1.いる(ある)場所を表す。
2.範囲を表す。
3.主体を表す。
4.時を表す。
5.割り当てを表す。
6.動作・作用の行きつくところを表す。
  「中に入れる」 
7.動作・作用の対象を表す。
  「あなたにあげます。」===>> 対象
8.方向を表す。
  「北に行く。」
9.変化・決定の結果を表す。
10.目的を表す。
11.原因を表す。
  「蚊に苦しむ」
12.比較の標準を表す。
13.連用修飾語をつくる。
14.取り合わせ、列挙を表す。
15.引き続きおこなわれることを強めてあらわす。
16.しようとするのに・・・
17.「として」の意味

さて、7は明らかに「対象」ですから
「監督に対してメッセージをもらっています」だから、上記のBという
理解になります。

問題は、Aの「監督から・・・」なんですけど・・・
それらしきものを上記から拾うと、3、11ぐらいしかなさそうなん
ですが、どんな文例が辞書にかかれているかっていうと、

3は、主体をあらわす。「私には出来ない」
11は、原因をあらわす。「蚊に苦しむ」

なんだか、どちらも、「監督からもらう」の「から」とはしっくり
来ませんね。

監督からなので、監督が出発点、動作の原因?だと考えても
上の17の意味内容には該当するものがありません。

なぜだ~~~~!!!

で、日本語の文法の本でさらにチェック:

「もらう」のページに例文があるんです。

「私は ジョンさんに 本を もらいました。」

こういう文型にもしっかりある「ジョンさんから」の意味の「に」
なんですけどねえ。

ありました、ありました、「受け身」の章にありました。

「行為者を示す助詞について」

例文は:
「太郎は先生に叱られた。」
「だれかにデータを盗まれた。」

「行為者を示す助詞は、大方は「に」でいいのだが、その外に
「によって、から」となることがある。」

と解説があります。

これでほっとしました。
・・・が、なぜ国語辞典には この「に」が書いてないのか。
もしかして 「3.主体をあらわす」=「行為者を示す」と
理解すべきなんでしょうか。

 

 

 

 

 

フィリピン バギオ 日本語教師 日本語学校 直接教授法 the blue files japanese language school philippine baguio city japanese language teacher

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ややこしい日本語-2 「多いそう」 VS 「ありそう」

一応日本語教師をやっていまして、日本語教師症候群というのに
罹っているんです。
だから、時々発作的に 「どうでもいいこと」が頭を襲うわけなんです。
例えば、テレビを見ていて、そこで話されている日本語が
やたらと気になったり・・・

これらはその発作の内容です。

<< 「そう」って どんなん? >>

テレビの旅番組で、
「この町には XXが 多いそう」
ってナレーションが入ったんです。

まあ、普通にそう言うんでしょうけど、なんとなく引っかかっちゃって。

「この町には XXが 多いそうです。」
って言うんじゃなかったっけ? 

それと同時に 「それ ありそう」とか、「猫ちゃん 可愛そう」とかが
頭に浮かんできたわけです。

で、ちょっとここんとこをはっきりさせたいな、と思います。

「多いそうです。」
ってことは、「多いと聞きました。」と同じですよね。

「ありそう。」の方は
「有るような気がする。」ってことですね。

この「・・そう」というのを文型辞典でチェックしてみると
「・・そうだ」として載っていました。

.「暖かいそうだ」 <伝聞>
  自分が直接得たことではなく、どこかから入った伝聞情報。 

  (「暖かそうだ」とは違うんですね。)  

.「おもしろそうだ」 <様態>
  話し手が見たり聞いたりしたりしたことから判断した様態を表す。

.「死にそうだ」 <生起の可能性>
  そのような出来事が起こる可能性が大きいという判断を表す。

この辞書の説明に沿えば、
「多いそう」は 1.で、 「ありそう」は 2.でしょうか。

でも、2.の方は今一つピタッとした感じではないですね。

国語辞典で追加チェックをしたところ、ありました。

「そうだ」
1. 人から聞いた、ということを表すことば。(伝聞の助動詞
2. 推量される傾向や事実をあらわす。(様態の助動詞

この国語辞典にはこのふたつしか書いてないですね。
「ありそう」は この2.に該当しそうですね。

<様態>という位置づけですけど、どちらかと言えば
「ありそう」の場合は 説明の中にある<推量>と考えた方が
よさそうですね。

はい、お疲れ様でした。

 

 

 

 

 

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ややこしい日本語-1 「りんごは 赤いです。」 日本語教師症候群

一応日本語教師をやっていまして、日本語教師症候群というのに
罹っているんです。
だから、時々発作的に 「どうでもいいこと」が頭を襲うわけなんです。
例えば、テレビを見ていて、そこで話されている日本語が
やたらと気になったり・・・

これらはその発作の内容です。

<< 形容詞の展開の仕方に じぇじぇじぇ・・・ >>

日本語教育では、形容詞ってのを「い」形容詞と「な」形容詞
分けて教えるんですけど、その時に気付いたこと。

い形容詞 = 赤い、汚い、細い、大きい、等

  赤いリンゴ --> りんごは 赤いです。 (A)

な形容詞 = きれいな、真面目な、詳細な、過小な、等

  きれいな人 --> 人は きれいです。  (B)

ここで何がひっかかってきたかって言うと、(A)の文は
すんなり通り過ぎていけるんですけど、(B)は、あれっと
思ったわけです。
すんなりいく為には、「あの」人は きれいです。 などと
「あの」をつけないと不自然ですよね。

で、い形容詞の他の言葉もやってみると。
X 人は 汚いです。
X 人は 大きいです。

な形容詞はどうか・・・・
X 人は 真面目です。
X 説明は 詳細です。

やっぱダメですね。
ってことは「赤い」ってのが特殊なのか?

「リンゴは 赤いです。」
何故すんなり通ったのか・・・・

考えてみたら、リンゴだって 赤の他にも、黄色いのやら、緑っぽい
のやら、いくつかあるにはある訳ですよね。
ただ、リンゴというものは赤いのだ、というワンパターンな意識
が埋め込まれているってことのようです。

だから、本当は、
「このリンゴは 赤いです。」
と言わなくちゃいけないところなんですね。

じゃあ、逆に「な」形容詞で「リンゴは赤い」と同じように言える
言葉はあるのかな?

巨大な怪物 --> 怪物は 巨大です。

ほほほ~~~、これならいけそうですね。
怪物と聞けば、イメージとして「怖い、大きい」があって、
「一寸法師みたいな怪物」って聞いたことないですもんね

そうか、ここでのルールは、
世間一般に あるイメージが出来上がっているものについての
形容詞については 「 XXは XXです。」の文型が
指示代名詞を追加しなくても成立するってことかな?

・・・いかがでしょうか。

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その7 日本語には文章の原型がない??

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 です。

p35
「文章構成の原理 - 日本人の文章」

日本人はどうも一般に文章が下手なようである
・・・だれも政治家に文章の書けることを期待していない・・
学者は悪文であることを誇りにしているのではないかと思われる
ほどである。
・・・イギリスなどでは学者が実によい英語を書く。
ことに歴史家に名文家が多く、ペンクラブの会長が歴史家
であったりする。 ・・・ある程度わかりやすい文章が
書けないと偉い学者とは見なされないのだから、日本とは
ひどい違いである。

===>> まあ、どんな文章が上手で、どんな文章が下手か
ってところが難しいところですけどねえ。
私が理解し易い、納得のいきやすい文章は上手だ、とまで
言えるほどの自信もないですしね。(笑)
開き直って言えば、私に「なるほどなあ」と思わせるような
首尾一貫したロジックがある文章だったら上手だと
感じるんだろうと思います。

p36
わが国では文学者ですらあまり文章がよくないのではなかろうか。
・・・例外は漫画家と科学者で、概して達意の文章を書く人が
多いようである。
・・・日本人は文章の下手なためにどれくらい損をしているか
わからない。
・・・明治以来、文章表現に依存する人文系諸学問が自然科学
に比べてどうもぱっとしない
のは、この文章下手と無関係では
あるまい。

===>> このあたりになると、私には知識がありませんから、
著者が言っていることが本当なのか勘違いなのかは判別できま
せんけど、ちょっと断定しすぎのきらいがありませんかね?

日本語の論理ってのが問題なんだとすれば、自然科学系の
学者はうまくやっていて、人文科学系の学者はダメだと
いうのは筋が違っていませんか?
文章の上手・下手というのが個人の問題だとするならば、
上のような分け方は変じゃないかと思うんですけど。
それに、漫画家の文章って読んだことありますか?
漫画は読みますけどね・・・・

p37
「原型の欠如」

どうして多くの日本人、しかも、相当教育のある人たちの
書く文章が骨なしになってしまうのであろうか。

・・・原型とはなにか・・・

幼児が言葉をどうして覚えるのか、まだよくわかっていない
ところが多い・・・

数歳になればたいていのことは言えるようになる。
そのときの幼児の頭には、話しことばの原型がほぼできあがって
いると見てよい。 

p38
・・・何らかの事情で原型形成期に言語学習を受けない幼児は、
あとになってどんなに努力しても一人前の言語生活はできなく
なってしまう。
これは、かの有名なアヴァロンの野生児の例によっても
明らかである。

・・この話しことばの原型は、そのままでは文章を書くときの
原型としては役立たない。
 雄弁家が名文家とはかぎらないし・・・
話しことばと書きことばでは論理が違うのである。

===>> この辺りは、日本語教師としても興味のある
部分ですねえ。 特に話言葉と書き言葉ですけど。
ここで、著者は座談会記事を例にあげて述べていくんですけど・・・

p39
日本語では言文はまだ不一致であると言ってよい
・・日本語には、かんたんには言文一致が実現できないような
両者の言葉の原型に違いが厳として存在しているらしい。

(話しことばの原型とは別に)文章の原型をつくり上げる
努力が必要なのに、これがなおざりにされている。

===>> これは、小学校からの国語の勉強では
遅すぎるってことを言っているんでしょうかねえ?
それとも、小学校以降の義務教育でも なおざりにしている
ってことなんでしょうか?
確かに、いわゆる国語の授業と、日本語の授業を比較した
場合には、国語の授業で文章の作り方というのを教えて
もらった覚えはほとんどないような気もしますけど。

日本語教育の場合は、まったく白紙の状態の外国人に
文の作り方を教えないと、本人が言いたいことを表現でき
ないですから、文型を中心にして文の組み立て方を
教えるんですけどね。

いずれにせよ、著者の言いたいポイントの部分がはっきり
していないように思うんです・・・私だけ??

p41
言葉の教育における目下の急務は、日本人の文章感覚に
対する自覚を高めることでなくてはならない。
・・・原型の欠如というふしぎな事態を発見するであろう。

==>> その認識ができれば問題はもはや半ば以上
解決したと言ってもいいと著者は書いているんですけど、
私が読むかぎり、その「文章の原型」とはなにかとか、
どういうことをやったら問題が解決するのかとか、
そういうことは全く書いてないんですよねえ。

だから、私には 原型の欠如と言われても具体的な
イメージが出来ません。
せめて、英語に文章の原型があるというのであれば
それを例示して欲しいもんです。

なんだか、突っ込みどころばかりで、愚痴っているよう
ですけど、本当に私は 日本語の論理なるものが
知りたいんです…

今、ふっと思い出したんですけど・・・
戦前のエリートたちの常識、素養として重要だったものに、
漢文の素読ってものがあったやに聞いているんです。
よく言われる
「読書百遍意自ずから通ず(どくしょひゃっぺんいおのずからつうず)
ですけど、著者がこういうのをイメージしているんでしょうか。

もし、私に文章を書くときの原型が少しでもあるとするならば、
ひょっとして この漢文の素読が下地になっているかも
しれません。
小学校の高学年の時に、詩吟を習っていましたんでね。
ただ、これは漢文を読み下すというやり方ですから、
日本語の文章を作るということとは別なんでしょうかね。
日本語としては不自然な読み方ですもんね。

その8に続く

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その6 日本語と創造性 日本語は坊さん向き??

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 です。

では、真面目に読みましょう。

p27
「日本語と創造性」

日本語と創造性の関係については、ほとんど論じられていない。
・・・青い鳥を海の彼方に求めようとするのが、日本の知識階級
の伝統的通弊である。・・・創造性について日本語が両刃の剣で
あることを、得失両面から考察
してみることにする。

・マイナスに働いていると見られる部分・・・

p28
名詞構文は、中心概念を名詞に託すが、動詞構文法では動詞に
それがあずけられるのである。
こういう日本語の性格は、思考の中心をはっきりさせるのに
不便である。
名詞で表現されれば明確になるであろう概念が、動詞で
あらわされるために、輪郭がぼやけてしまう・・・・

===>> ふむふむ、確かにものの概念を考える時には
名詞を使うことが多いように思いますね。
いわゆる漢語動詞と和語動詞にもそれが表れているのかも
しれません。
「読書する」と言うか、「本を読む」というのか。
読書と言った方が概念はすぱっと丸ごと入ってくる感じですよね。

p28
日本語の動詞は、外国語の動詞と同じ性格のものか、・・・
結論をさきに言ってしまえば、日本語動詞は、英語動詞などとは
きわめて大きく異なった点をもっている。

p29
日本語は、室内語として発達した面が多いこともあって、
表現しなくても当事者で理解できるような文法的要素は脱落
している。第一人称、第二人称の主語はもちろん、一般の
主語も・・・主語の欠落した文が普通になってしまうのである。

「明日が彼女に幸福をもたらす」というような、抽象名詞や
無生物が主語になる文は、日本語では普通あり得ない。

・・・人間中心の動詞とも言うべきものなのである。

===>> ん?? そうだっけ??
「室内語」ってのの説明がないので、ちょっと気になるんですが、
人間が主語となる動詞が中心・・・ですか。
「ご注文の ナポリタンになります。」
「日の出が この窓から 見えます。」
「むこうから 東京行きのバスが 来ているよ。」
・・・こういうやつは 違いますかね??

p29
日本語は、西欧の言語にくらべて比喩が乏しい、という指摘が
行われている・・・
比喩こそ創造性へのきわめて重要な方法的エネルギーである
ことを、われわれは、ほとんど気づかずにいる。

==>> ここも具体的な解説がないので、分かりにくいなあ。
そんなに比喩が乏しいんでしょうか?
いきなり「乏しい」って言われてもピンと来ないんですけど。

p30
創造性に対してプラスに作用している・・・日本語の特質・

日本語が非創造的だという命題はまだ確立していないらしい。
・・・要するに、日本語と創造性の関係はまるで手がついて
いないということである。

日本語は、仮名と漢字を併用することによって、・・・・
一般に、文字言語は統一的論理をつくりやすく、聴覚言語は、
多点的遠近法によって流動
していて、いわゆる論理をもちにくい
のである。

二原理が衝突し、互いに相殺し合って、言語のもつ論理的
拘束力を弱めている。 これが、表現上に独特の自由さを
生み出すと想像される。

日本語は、平然と飛躍し、泰然と超論理的になり得る。

===>> なんだか、この辺りになると、著者の論理が
分からなくなって来ます。
「多点的遠近法によって流動」とか、なぜそれが
「論理を持ちにくい」のかとか、「独特の自由さ」とか
言うのが具体的にどういうことなのかが分からんのです。
著者も「想像される」って言っているんですけどね、
私には想像されないんです。
論理的じゃないから、独特の自由さが、多分でるだろうってこと??

p31
俳句の文法は、こういう日本語の自由な表現性をもっとも
よく示している。

スペースの関係で、ここでは俳句の文法を詳説することは
できないが、
名詞の性、数、格、動詞の人称、自制などに
がんじがらめにされているような言語を使っている人間では、
どんなに努力してみても決して、本当のところはわかるものではない。

禅の発想にも、ある程度似たことが言えるのではあるまいか。

===>> う~~ん、むちゃくちゃ飛躍していませんか、
この著者の話の「筋道」は・・・・
それに、「スペースの関係で・・・」って、そこが大事な
ところじゃないのかなあ?

p32
日本人は無常という仏教観が好きだが、頭の中にも、無常の
風が吹いていて、しっかりした体系の構築を妨げている。

日本語はどうも、俳句や短編や珠玉のような随筆に見られる
点的思考に適している。 ・・・「ひらめき」をもつのには、
日本語はなかなか好都合
なのである。

p33
日本人は言語を使用しながら、ともすれば、伝達拒否の
姿勢をとりやすい。 
他人のちょっとした言葉にも
傷つく繊細さをもっていることもあって、自分の殻に
こもって内攻する。 発散しない表現のエネルギーは
鬱積して・・・・爆発するのである。

===>> 確かに日本人は無常ってのが好きですけど、
元々のお釈迦様の仏教ってのはかなり哲学的ですよね、
宗教的と言うよりも。
俳句は最近海外でもやっている人が多いらしいし、
海外の短編やら随筆っていいものが結構あるんじゃないんですか?
「爆発する」のところは、確かに日本人によくあることだと
思いますけどね。

先日NHKの番組、クール・ジャパンで「ストレス」について
やっていましたけど、日本人はストレスをある程度ないと
いけないものみたいに思っていて、一方海外ではストレスは
自分で解消するようにコントロールするものだというような
話でした。
日本人は内にこもってストレスを鬱積させるってのは
本当だと思います。
しかし、それが日本語の非論理性と、「ひらめく」創造性と
関係あるっていうのは、論理が飛躍しすぎていませんか?
まあ、論理的じゃないから、言葉で自分をコントロール
できないってことはあるかもしれないけど・・・

p33
日本語は、どうも出家的創造性に適していると言うことが
できそうである。 論理に行き詰まった西欧の知識人が、
禅に絶大な魅力を見出しているのも故なしとは言えない
ように思われる。

p34
日本語が、いわゆる論理的でないと言われる、まさにその点に
日本語の創造的性格が存する
ということは、われわれを
勇気づけるに足る逆説である。

===>> 「出家的創造性」ですか。
この言葉自体は私は好きですけど。 日本語がそういう言葉だ
っていうことなら、それは嬉しいことですけどね。
私自身は仏教は哲学だと思っていますからね。
たしかに真言密教みたいなのもありますけど。
キリスト教だって、「ひらめき」だとか、「啓示」だとか、
そういう神がかりなものはあると思うんですよねえ。
だから、この辺りの著者の論理は かなり非論理的なものに
感じるんですけど、いかがですか、みなさん。

その7に続く

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その5 日本語と英語 翻訳ってなにさ・・

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 です。

本に入る前に、こんな遊びはどうですか。

次の英文を日本語に翻訳しなさい。
If you have crazy friends, you have everything.

この英文はFACEBOOKで見つけたんですけどね、
写真がありまして、猫が草原を歩いていて、その上を
もう一匹の猫が飛んでいる
んです。ムササビみたいに。

これを逐語訳する場合と 日本語らしい日本語にする場合とで
どんな違いがあるか・・・

逐語訳だと:
「もしあなたが変わった友達を持っていたら、あなたはすべてを持っている。」

確かに、日本語っぽくないですね。

ここで、日本語らしくするにはどう考えたらいいのか、ですよね。

まず、crazyのニュアンスが問題ですよねえ。
辞書を見ると次のような日本語訳が出てきます:

頭がおかしい[変で・どうかして]、気が狂って[違って]、正気でない、
正気を失って、発狂して、まともじゃない、常軌を逸した
・Are you crazy? ばかじゃないの?/頭[どっか]おかしいんじゃない?
・You're crazy. まともじゃないね。
(~に)熱狂する、夢中になる、熱中する
(話〉怒った、イライラした
・Argh, he's driving me crazy!
  もー、あいつ頭に来る!/何あいつ、むかつくー!
〈俗〉素晴らしい、最高の、すごい

この中から選ぶっていったら至難の業じゃあないですか。

それを決めるには、後段の文に頼るしかないですかねえ~。
「あなたはすべてを持っている。」ってのは悲観すべきことなのか、
あるいは喜ぶべきことなのか。

・・・まあ、雰囲気的には喜ぶべき、嬉しいことと考えるのが
いいんでしょう。
少なくとも、この本で今まで読んで来たことを踏まえていうと、
英語は線状の理論だそうですから、直線的に繋がっているはず。

その肯定的な後段に続くためには、前段はどういう雰囲気でなくちゃ
いけないか・・・
勿論肯定的なものってことになりますよね。
しかし、上の訳をみると、あまりないですね。

熱狂する、夢中になる、熱中する、
素晴らしい、最高の、すごい

辺りは言葉として良さそうですけど、これを前段に持ってきても
あまり面白くはないですね、文全体としては:

「熱中している友達がいたら、あなたはすべてをもっていることになる。」
「すごい友達がいたら、あなたはすべてを得たことになる。」

でも、せっかくCRAZYっていう言葉を使っているんだから、
ちょっとひねった意味にした方が味が出るってもんでしょうね。

「正気じゃない友達がいたら、あなたは完璧です。」
「まともじゃない友達がいたら、あなたはお宝を持っているってことです。」

FACEBOOKに出ていた写真は 猫が飛んでいる写真でしたから、

「ぶっとんでる友達がいたら、あなたは幸せ者です。」

ってのはどうですかね?

・・・はあ~~、ことほど左様に、シンプルな英語にしたって、
日本語に訳すってのはえらい作業なわけですなあ。

たった今、NHKの番組で日本と英国のハーフのアーティストが出演していまして、次のような英語をモットーとしているという話になりました。

Rules are for breaking.

どう日本語にしますか?

彼女は「ルールは破るためにある。」と書いていました。

さてさて、じゃあ、本題の読書にいきますか・・・

・・ちょっと長くなり過ぎでしたね、では又次回・・

その6に続く

 

 

 

 

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2013年6月21日 (金)

「日本語の論理」 その4 日本語は「とらえどころがない」

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 です。

本を読んでいる内に、そもそも言葉の「論理」ってのは何だ?
ってことが気になりだしたんです。
今さらですけどね。
それで、辞書をひいてみますと・・・・

ろん‐り 【論理】 
考えや議論などを進めていく筋道。思考や論証の組み立て。思考の妥当性が保証される法則や形式。「―に飛躍がある」
2 事物の間にある法則的な連関。
3 「論理学」の略。

・・・平たく言うと話の筋道が妥当か、理屈・法則に合っているか、ってことですね。
前回は「連想の論理」をいうところを読みましたが、今回は「多元論」です。

p22
「多元論」

外国語には二者択一とか総てか無かというような思考法がある。
・・・これはキリスト教という一神教の影響であるという説も
あるが、絶対的対立が強調されている。

わが国では本来ならば併存できないはずのものが何ら矛盾も
感じられないで共存している。

一般の家庭で神棚と仏壇とが同じ部屋にあって・・・
仏も神も認める。多元的、復元論である。

p23
日本語は多元論的文化の中で発達してきたものであるから
一元論的一貫性、対立の原理をはっきりさせない。

===>> つまり、日本の八百万の神々が原点だってことですかね。
それじゃあ、インドなんかはどうなんでしょうかね?
インドの宗教は ヒンドゥー教が8割くらいだそうです。
「土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。」
とされていますし、日本の神々の中にはこれらを元祖とする
ものもたくさんあるらしいし。

インドの公用語としてはヒンディーと英語らしいです。
こちらのサイトに「ヒンディー語は文法も発音も日本語と似ているので,
言葉としてはそれほど難しくはありません。」と書いてあります。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/staff/challenge/int40.html

・・・ってことは、文化が先か、言葉が先かってこともありますが、
日本とインドの状況は似ていると思ってもいいんでしょうかね?

p23
多元論のメリット・・・多元論では立体的な論理を追求することが
できる。 一元論の論理では芸術とか生命現象をとらえにくいが、
多元論は感情の比較的こまかいヒダにまで入って行くことができる。
・・一元論の論理が平面幾何学的であるとすれば、多元論の論理は
生物学的である
といえよう。

p24
一見矛盾するものを調和させる多元論にとって、不可欠の方法は
「とり合わせ」である。 同種のものや筋のとおったものを
集めるのではないーーそれでは月並みで退屈になる・・・・

日本語はこういう柔軟な論理を表現するのに適しているし、
逆に言えば日本語の論理はそういうとらえどころのない性格
のものにならざるを得ない。

===>> むむむむ・・・ 「とらえどころのない」ですか。
だから日本の政治は混沌としたままなんですねえ。困った。

p25
言葉に即して考えるならば、やはり連句において日本語の示し
得る最高の論理の姿を見出すことができる
であろう。
前の句がAという世界を詠んだとする。・・・・
つけ句をする人はAを作者とちがった角度から眺めて
別種の趣きに解し、それと調和するような句をつける。
・・・両句の関係は線状に結ばれるのではなく、・・・点の論理
によるとされる。

p26
日本語の中に眠っている論理の正体については、まだ、ほとんど
何もわかっていないと言うべきである。

・・日本語の論理が明らかになるためには、当然、日本語そのものが
よりいっそう明確に理解されなくてはならないし、日本語の
文法も再検討を
受けなくてはならないように思われる。

===>>  じぇじぇじぇじぇ・・・ですね。
日本語教師としても困っちゃうなあ。
何もわかっていないと断言されちゃったよ。

別の角度なら眺めて別の発想で話をするから、話がすれ違うってことか?

p26
日本語文法が日本語の本質にもとづいてできたものではなくて、
周知のように明治になってヨーロッパ語の文法の枠組みに
合わせて日本語を臨時にその中へ押し込めた
ものだからである。

===>> この著者は「日本語文法」と言っていますが、
ここでは「国文法」とすべきところでしょうね。

日本語教師の間では、「国文法」と「日本語文法」を
別の物として扱っています。

日本人が学校で習うのは「国文法」であって、
外国人が習うのはそれとは異なる「日本語文法」です。

私自身が過去10年ほど日本語を教えてきて感じているのは、
「国文法」は分析的、帰納的であり、
「日本語文法」はその反対に、発展的(あるいは創造的)、
演繹的であるということです。

たまたま偶然なんですが、今 次の章のタイトルをみたら
「日本語と創造性」とありました。
どんな話が展開するのが楽しみです。

その5に続く

 

 

 

 

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「日本語の論理」その3 - 日本語は「島国形式」「あいまい」「解明されていない」

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 です。

p17
「連想の論理」

p18
点的論理が通用するところでは、・・・・
かりにAという言葉があるとする。 それを聞き、あるいは、
読む人は、それにゆかりのあるさまざまなものを連想する。
・・・一見無関係と思われるAとBとが引き合って脈絡
をつくり上げる。

この連想はかならずしも意味の次元にかぎらない。
音が似ていることも連想の重要なきっかけになる。

アイランド・フォーム(島国形式)の文化をもった社会では、
ひとつひとつの言葉の連想領域が大きくなっている。

コンティネンタル・フォーム(大陸形式)の文化における
言語は派生語やイディオムのすくない単語のように
語義の範囲が限定されていて、それが喚起する連想の領域も
おのずからかぎられている。

===>> この辺りは、そうなのかな~~という感じですね。
特に例示もデータも掲載されていないので、私には納得という
感じにはなりませんが・・・

ここでは、ヨーロッパ大陸と日本という島国を想定して書いて
あるように思いますが、じゃあフィリピンという島国にも
上記のようなことが当てはまるのかなと少々疑問なんです。
フィリピンには主な言語だけで8つくらいあると言われていて、
バギオの周辺だけでも、普通に使われている言語としては
公用語としての英語、タガログ語、そして、地域の共通語で
あるイロカノ語、そして地元の言語 カンカナイとイバロイの
ふたつの言葉。
まあ、英語以外は 島国形式なのかもしれませんし、
裁判所での言語は英語だということを考えれば、確かに
硬い線的言語でフィリピン国内の見知らぬ人たちを
繋ごうとしていると言えないこともないのかな・・・

そして、著者は 日本語という言語は海綿のようなものだと
言っているんですねえ。
ヨーロッパ言語が洋紙と譬えた場合の対立概念として。

p19
海綿状に発達した言語においては、直接的でつよい表現を
与えることはむしろ効果的でない。 ごく軽い、間接的な、
あるいは象徴的な表現がよく利くのである。
したがって、そういう表現は多少ともあいまいになる傾向
をもっている。

===>> 出ました!! あいまいな日本語。
よく日本で言われていることですよね。
特に政治的なもの言いがこれです。
論理的じゃなくて玉虫色みたいな、噛み合わない議論。
・・・で、著者はこれを否定的に述べるのかと思いきや・・・

p19
ヨーロッパにおいてはあいまいさは明晰な論理の敵であると
考えられてきたけれども、親密な伝達におけるあいまいさは
表現の生命にプラスするものである
ことが、二十世紀になって
からようやく認識されるようになった。

あいまいさは論理と対立するものではなくて、一種の論理で
あることを承認できるようになるには、社会が言語的に
ある成熟に達していなくてはならない。

===>> う~~ん、文学的にはそれでいいような気も
しますけどねえ。 一種の論理と言われても、それが
内内の者にしか通用しない論理だとすれば、他者との伝達
においては結局論理的であることはむずかしいってことに
なりませんか。
日本国内で本当ははっきりさせなくちゃいけない論点などが
政治的にはうやむやになっているのはそこじゃないのかって
話なんですけど。

特に外交においては、日本語は絶望的ってことになっちゃうの??

p20
外国語ならば、「のべる」とか「伝える」とか「表現する」と
いった語であらわすようなところに、日本語は、「におわす」
「ほのめかす」「それとなくふれる」といった言葉を
多く用いるのも・・・・表現が間接的にやわらかく相手に
当たるようにとの配慮・・・

===>> あああ、ここもねえ。 本当にそうなの?
って感じなんですけど。 日本語だけなんですか、後者の
3つの言葉は・・・ヨーロッパの言語にもありそうな気が
するけどなあ。

におわす  = Shadow
ほのめかす = Imply
それとなくふれる = さりげない言及 = Allusion

表現がやわらかくなるようにってのは大陸形式にもあるような
気がするんですけどねえ。
いまひとつ疑問が残ります。

でも、日本語がやたらに敬語を重ねたり、妙に言葉をひねるような言い方になっているのは事実ですけどね。 表現をやわらかくするようにという配慮なんでしょうね。

例えば、 「 お~~させて頂いております。」とか、「こちらが本日の特別展示品になります。」とか、レストランなんかのいわゆるマニュアル言葉とか・・・

これも「「言語的な成熟」って呼ぶのかなあ・・・

p21
連句における、前句と次の句のつながり方もまた、日本語の
論理の一面をよくあらわしているように思われる。
・・・これを連句では「うつり」とか・・・呼んでいる。
「うつり」「匂い」「ひびき」が形式論理における論理でない
ことははっきりしているが、だからと言ってこれをただちに
非論理と決めてしまうことも乱暴である。

むしろ点的論理のもっとも洗練されたものだと考えるべきで
あろう。 

日本語の論理についてはまだまだ明らかにされていない部分
がきわめて多い
けれども、このさきもさらに外国人によって
教えられるようなことがないようにしたいものである。

日本語の論理はいわば連想の論理で、それを解明するには
詩歌、とくに俳句がもっとも有力な手がかりを提供するように
思われる。

===>> ありゃりゃ・・・
ついに論理というのが俳句になってきちゃいましたか。
ああ、文学的な、あまりにも文学的な・・・
こりゃあ政治家の間の明確な議論ってのは将来に渡って
噛み合わないまま行っちゃいそうですね。
翻訳もますます難しくなりそう・・・・・

日本語の論理は解明されていないんですね。 そうだったのか・・・

なんだか、突っ込みどころ満載で、うざいでしょうが、
これも何とか この著者の論に「日本語は論理的なんだ」
という光明をみたい
がためのイライラだと思ってください。

<付録>

日本語は論理的である

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/6f7cc3b6a4b704e7b9573f8812f4d5e1

「世界の他の言語をみても同じで、主語が不可欠なのはインド=ヨーロッパ語族の一部に限られる。」

「時枝文法や三上章など、「日本語の論理は英語とは違う」とする議論も多い。」

「日本語の「象は鼻が長い」といった文が表現しているのは主体と客体の関係ではなく、象という全体集合の中に鼻という部分集合があるという包含関係だから、命題論理に近い。」

その4に続く

 

 

 

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2013年6月20日 (木)

日本語の論理(外山滋比古著)を読んでいます -その2

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 です。

日本語にはどのような論理があるのか・・・

p13
「点的論理」

論理についてわれわれは三つの次元を考えることができる。
ひとつは論理学で問題とする形式論理である。
多くの日本人は知識としてこの論理を知ってはいても、
生活には融けこんでいない。

もうひとつは、日本語に即した論理で、これは日本語を
使っているときには多少ともたえず作用しているはずのものであるが、
ほとんど意識されることがない。

この硬軟二つの論理の間に、さきものべたことと関係する
和訳文の論理が考えられる。 これは、外国語と母国語を
比較して外国語の発想と表現が母国語といちじるしくちがう
という実感にもとづく、比較論理とも言うべきものに
よって育てられる論理の意識である。

==>> ここで、著者は、「形式論理は一応問題から外して」
って書いているんですよねえ。
私は名称だけは知っていても、それが何だか知らないので
ちょっと寄り道します。

まず辞書には:

けいしきろんり【形式論理】
命題や推論について,その内容にかかわらず,ただその形式面から真偽を問う論理。

けいしき‐ろんりがく【形式論理学】
正しい思考の構造および過程を、思考の内容を捨象してもっぱらその形式・
法則の面から取り扱う学問。一般に、アリストテレスに始まり中世を通じて
演繹(えんえき)的論理学の体系としてまとめられた伝統的論理学をさすが、
現代では記号論理学をもさす。

・・・・スミマセン、さっぱり分かりません。
実例を見てみましょうか・・・・

「形式論理テスト」
http://www.osu.ac.jp/~kazuto/newpage3.html

要するに、意味の上で実際にそういう人がこの世に「いる・いない」は
全く別にして、言葉の論理の面だけで、数学的にどうか、ってこと
なんですね・・・多分。(笑)

確かに、これは生活には融けこんでいませんねえ。

p14
どんな場合でも、言葉に筋道が通っていなければ、伝達は
成立しようがない。
 「筋」とか「筋道」とかいう語が示して
いるように言語に内在する論理性は何か「線」のようなものと
感じられているのが普通である。

送り手と受け手が未知の人間であるような場合、筋道は
しっかりした線状
をなしていて、受け手がそれから脱落しない
ようになっていなくてはならない。
・・・その典型的な例は法律の表現で・・・

これと反対に、・・代表的な例は家族同士の会話で・・・・
第三者が聞けば何のことかまるでわからぬような省略の多い
飛躍した言い方
をしているが、・・話は通じ合っている。
形式論理から見れば没論理と言えるかもしれないが、
まったく論理を欠いているというわけでもないであろう。

・・要点は注目されるが、それ以外の部分はどうでもよい。
・・・方々が風化して線に欠落ができると、線的な筋が
点の列になって行く。 ・・・

==>>つまり、これが「点的論理」だっていうわけです。
「おい、あれどうなった?」
「あれってなんですか?
「あれだよ、あれ!」
「ああ、あれね。 あれはあれでよかったみたいよ。」
「そうか、あれでよかったのか。」
「いいんですよ、あれで。」

まあ、これは日本語ではよくあるパターンなんですけど、
これって英語にするとどうなんの??

p16
日本語は、・・・島国の言語である。
・・・家族語におけるような論理が社会の広い範囲に流通していると
考えてよい。・・・点的性格の方がよく発達しているのは自然の
ことである。

成熟した言語社会の点的論理を認めるならば日本語はそれなりの
論理をもっていることがわかる。

p17
点的論理の背後には陥没した線的論理がかくれて下敷きになっている

==>> これは、日本語を教えている時に私が心がけている
部分なんです。

最初の内は、その「かくれた下敷き」を入れてフル・センテンスで
教えるんです。 日本語の構文を理解させる為と、将来書き言葉にも
困らないようにするためです。
もちろん、大学なんかに留学する人たちは、大学で使うしっかりした
文章で書かれた教科書やら文献を読む必要もありますからね。

しっかりと日本語の構成を分かったうえで、文のあちこちを
省略しながら、会話に入っていくようにしています。

いきなり日常会話から入っていくと、後で苦労するんじゃないかと
思うんですけど、どうですかね?

その3に続く

 

 

 

 

 

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日本語の論理(外山滋比古著)を読んでいます -その1

この書名「日本語の論理」というのも見て、すぐに思うのは
日本語は論理的ではない」という話なんです。

004

私も日本語を教えていて、もしかしたらそうなのかもしれない
って思っているんですけど、この書名からすれば
そうじゃないよ、日本語も論理的なんだよ、って言いたいのかな
と興味を引かれたわけ。

で、そういう事が書いてあることを期待しながら読んでいきたい
と思います。

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 です。

初版は1987年となっています。

p9
ほとんどなんの根拠もなく日本語は非論理的であると思い込んで
いる人がかなり多い。しかしおもしろいことに教育を受けた人
ほどそういう考えがつよいように見受けられる。

ヨーロッパの原語にくらべて、日本語が非論理的であるという
印象を与える原因のひとつは、翻訳にあらわれる日本語にある
のではないかと思われる。

難解な翻訳で見るかぎり日本語が非論理的であるという評も
当たっていると認めざるを得ない。 非論理的であるどころか
まるで意味をなさない部分もあるのだから・・・・

====>> 私もたまに翻訳の仕事を受けているので、
難しさは分かります。 特に日本語で書かれたものを英文に
翻訳する場合は、日本語側の意味をまずしっかり理解して、
何が主語なのかなどを付け足しながら英語を考えたり
しています。

で、さっそくこの本への不満なんですけどね(笑)、
こんなことを著者が書いているんです・・・

p10
ここで論理的文章の翻訳の具体的問題に立ち入る用意も
余裕もない
が、ただ、外国語の翻訳があまりにも形式的
でありすぎたことは指摘しておいた方がよいであろう。

==>> 何が不満かっていうと、この後もずっと
そうなんですけどね、具体的な文例が出てこないんですよ。
だから、ざっと前半を読んだんですけど、理解がなかなか
難しいんです。

p10
形式的でありすぎるというのは誤解されやすい言い方だが、
要するに、単語や成句に訳語を与えて、語順を日本語風に
変えてやればそれで翻訳になる
という考えである。
そのように考えている翻訳者は現在でもかなり存在して
いるにちがいない。
・・・語順をかえなくては日本語らしくならないのなら、
文順も適宜変更しなければ日本語らしくならないはず
ではなかろうか。
・・・そういう翻訳を手掛かりに日本語は論理的でない
などと言われたのでは、日本語が迷惑する。

===>> これは私も時々翻訳をしながら悩むところです。
英語から日本語にいわゆる逐語訳をやると、結局何を言って
いるのか分からなくなる場合が多い。
かといって、日本語らしい翻訳をするっていうのは
なかなか難儀で、英語原文のニュアンスまで理解して、
さらに、日本語となった時の受けとめられ方がどうなるかを
考えておかなくちゃいけないんですよねえ。
だから、結局逐語訳をする方が原文に沿ったより正確な
翻訳なんじゃないかと思ってしまうわけなんです。
完全にバイリンガルな人であれば出来ることなんでしょうけどね。

ただ、さらに言えば、同じ英語であっても、その英文を
書いた人がどこの国のどんな人かによっても、その背景の
違いで意味は変わってくることもあるでしょうから、
バイリンガルと言えども、なかなか困難な作業であろうと
思うんです。

同時通訳なんかで日本語を聞いていても、頭が痛くなる
だけで、結局何を言いたいのかってポイントが掴みにくい
ですもんね。

p11
西欧の言語が名詞中心構文であるのに日本語は動詞中心
性格がつよい。
「この事実の認識が問題の解決に貢献する」というのが
名詞構文なら「これがわかれば問題はずっと解決しやすくなる」
とするのが動詞構文である。

==>> 名詞構文の「構文」という言い方が今一理解できない
んですけど・・・
名詞文という意味ではないですね。
「貢献する」というのは動詞ですからね。
普通には、どちらの文も動詞文なんで、名詞構文の意味が分からん。

そこで、これをインターネットで調べてみました。
便利ですねえ。

http://www4.ocn.ne.jp/~cozy-opi/englishgrammar24.html

「例えば「彼は英語を上手に話せる」という文を英訳する場合、
どう表現するでしょうか。  多くの日本人は、
He can speak English well.」とやって
しまいますね。しかし、英語圏の人間ならおそらく
He is a good speaker of English.」とやるでしょう。

名詞のみで表現された句、とりわけそこにSV関係が見られるような
物を名詞構文と言います。」

なるほどねえ~~、ひとつ利口になりました。

日本語にしちゃうと動詞文になっちゃうけど、英語でみると
確かに動詞は使われていませんね。

これをそのまま日本語に訳すと、
彼は良い英語の話し手である。」
ってことになりますよね。

「この事実の認識が問題の解決に貢献する」(動詞文)っていう文例を
名詞構文らしい日本語(名詞文)に書き換えるとすると、
「この事実の認識が問題の解決に貢献するものである。」
あるいは、
「この事実の認識が問題の解決への貢献要素となる。」
英語にすると、
「The recognition of this fact will be the contributor to
  solve the problem.」

・・・ってことでしょうか。

だから、英語から日本語への翻訳の際は、

p11
名詞構文から動詞構文への転換も必要である。

・・・ってことになるわけですね。

p12
論理はそれを表現している言語と不離の関係にあるのではないかと
いうことである。 抽象的、普遍的な論理というものが、存在する
のではなくて、特定な言語によってあらわされた論理があるだけ
なのではないか。
われわれが論理と考えているものは、ヨーロッパの原語、その
文章法が表現するのに適した特殊相の論理
にすぎないのでは
なかろうか。
それならば日本語で完全に表現できなくてもむしろ当然である。

日本語には日本語の論理があるはずで、もし、まったく論理が
なければ、日常の言語生活にも支障がおこってくるにちがいない。

===>> ってことで、日本語特有の論理ってものを
著者は探っていこうじゃないかと言っているわけですね。
期待しています。

その2へ続きます

 

 

 

 

 

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2013年6月16日 (日)

フィリピンのお葬式  バギオで死んだらどうしよう?

「死んだらどうしよう」なんてことを考えても本人には
どうしようもないことなんですけど、周りにどうしてもらいたい
のかってことを自分の意志として考えておくことは必要なんだろう
なと思うわけです。

日本だったらまだ家族親戚が近くにいますけどね。

昨日の夜、バギオでお通夜に行ったんですが、不思議な話
聞かせていただいて、その他に フィリピンの通夜やお葬式
についても話を聞かせていただいたんです。

実は北ルソン日本人会の中で「極楽往生クラブ研究会」ってのを
作っていまして、「バギオで死んだらどうすんべ」ってことを
考えているんですけどね。
その研究調査の一環ってことなんです。

以下 昨夜の通夜の雰囲気を出しながら書いて見ます。

・・・・・・

たもつが アンナのFACEBOOKからメッセージをもらったのは
夕方であった。
彼女の義理の父 レイモンドが亡くなったとの案内である。

His wake is at Baguio. Memorial Chapel.
His internment will be june 24,

たもつはこのメッセージの意味が分からなかった。
WAKE(ウェイク)って「起きる」だよな

INTERMENTは埋葬である。 BURIAL(ブリアル)と言うことが多い。

葬式関係で WAKEってどういう意味なんだ。

二つの考えが保の頭に浮かんだ:
1. 死者が起き上がる、つまり蘇生する。
2. 親族が起きている、つまり寝ずの番をする。

考えていてもしょうがないので、辞書をひいてみると:

WAKE 通夜
Vigil  通夜 【名-1】寝ずの番、徹夜の看病、夜警、通夜
      【名-4】《vigils》《キリスト教》徹夜祭の祈り  

ウェイクの意味は「通夜」だった。
過去に何度かフィリピンで葬式に出たことはあるが、
この言葉を聞いたのは初めてだった。

保の下宿のお兄ちゃんに聞いてみると、
本来なら WAKEは通夜で、FUNERALは日本で言う告別式の
ことを指すのだが、実際にはこの二つの言葉は FUNERALという
言葉ひとつになってしまっていると言う。

保は通夜の席で 喪主であるジュンの隣に座り
フィリピン人の通夜に対するイメージを尋ねていた。

「日本には、通夜と言えば、その漢字の意味のとおりに
夜を通して死者を見守るという意味があるんです。
でも、WAKEという言い方は、二つの意味が思い浮かぶんです。
フィリピンの人たちが持っている WAKEという言葉への
イメージはどうなんですか?
死者が蘇生するということなのか、それとも親族が夜通し
起きているということなのか。」

日本の通夜については、インターネットのサイトにもいろいろと
昔からの考え方を含めて解説を探し出すことができる。

当時の人々は
「 一度肉体を離れた霊魂がまた肉体に戻ってきてくれるかもしれない 
と思い、なんらかの方法で魂を呼び戻して
蘇生させようと試みをしていました。
これを 「 魂 よ ば い 」といいます。
http://korobehashire.blog86.fc2.com/blog-entry-332.html

「神式では、死者の蘇生を願う通夜祭と、御霊を霊璽(仏式での位牌
にあたる)に移す遷霊祭が行われます。」
http://iディレクトリ.com/%E9%80%9A%E5%A4%9C%E3%80%80%E8%91%AC%E5%BC%8F/

保の質問に、ジュンは少し考えてから

「英語で WAKEというのは 別の言葉でいうと Vigil だから
その意味は 親族が寝ないで一晩中見守るということになるね。」

「日本には 死者の魂が肉体に戻って生き返るかもしれないっていう
思いがあって通夜をやるんですけど。 そう言う意味での WAKE
ってことではないんですね。」

「おお、生き返ることがあるんだねえ・・・」

保は自分自身が幼い頃に、崖から落ちて医者から「瞳孔が開いて
いるから、もうダメですね。」と死を宣告されたことがある。
伯母が「たもちゃんは こんなに小さいのにもう逝ってしまうの・・」
と言って泣いてくれたと聞いた。
いわば生き返ったようなものである。

保にはもうひとつ尋ねたいことがあった、それは遺体の防腐処理
のことだった。

「日本じゃあ 棺にドライアイスを入れて遺体を保管するんですよ。
死者が蘇るかもしれないという考えがあるからなんだと思うんです。」

「へえ~~、ドライアイスをねえ。 フィリピンは24時間以内に
EMBALMING(エンバーミング、死体防腐処理)
をしなくちゃ
いけないことになっているからね。」

・・・・・・

日本の法律ではどうなっているのかを探していたら次のサイトが見つかりました。

「なるべくおおぜいの人で死体の見張りをしようじやないかということになります。
死の確認ができるまで見ていようというわけです。これが「お通夜」です。
ですから、昔は四十八時間たたないと埋葬を許可されませんでした。
それが今では二十四時間に短縮されましたが、そのようにして死の判定を
遅らせてきた
のです。」
http://www.chimneysolutionsinc.net/hantei.html

日本では 24時間以上は見守るということですね。
だから、フィリピンの24時間以内に防腐処理をしてしまうということとは
考え方がかなり違うと言ってもいい。
だから防腐処理ではなく、ドライアイスにするのか?

・・・・・・

「防腐処理は、内臓などの腐りやすい部分を取り出して、綿などを遺体に
詰め込んで、防腐剤を注射したりするんだよ。」

ジュンは 妻のアンナに 
「日本じゃあ防腐処理じゃなくてドライアイスを使うんだってよ。」
と話しかけた。

アンナは目を丸くした。

「こちらの通夜は10日間ぐらいですね。 随分長いですね。」

「パンガシナンの親戚やら、アメリカにいる兄弟なんかが帰って
くるのに日にちが掛かるからね。 しばらくはこの斎場でこのまま
ですよ。 日本じゃあ通夜は何日ぐらいなの?」

「そうですねえ、3~4日かな。 長くて4日くらい・・・」

保は自分の父親が逝った時の葬式の記憶を引っ張り出そうとしていた。

しかし、最近の通夜事情は 当時とは少し違ってきているようだ。

「(4) 一般的には、死亡したその日のうちに納棺し(死亡が夜なら翌日)、
  通夜は第二夜というのが普通
のやり方です。
(5) 葬儀が友引きに当たる場合に、第二夜を近親者だけの通夜(仮通夜)
  に当て、第三夜を一般弔間客の通夜(本通夜)にすることもあります。
  いずれの揚合も、葬儀、告別式は通夜の翌日に行います。」
http://www.osoushiki-plaza.com/library/tejun/nagare07.html

いずれにせよ、日本の通夜は短くなる傾向があって、
フィリピンの通夜は 海外出稼ぎや移住組の家族親戚などが
葬儀に参列するために若干長くなっているのかもしれない。

「父は埋葬するんだけど、最近はフィリピンでも火葬(cremation)もあるんだよ。」

「マニラなんかだと土地が狭いから火葬が増えているそうですね。」

「特に若い人たちは火葬でも受け入れられているね。」

「でも、日本だと火葬をしても、骨がちゃんと形になっているんです
けど、フィリピンの場合は火力が強すぎてほとんどが灰になって
しまうらしいですね。」

「いやいや、そんなことはないよ。 前に親族が火葬したときは
火葬場の釜で焼いて、3~4時間後に一度見せてくれるんだけど
その時にはちゃんと骨の形を保っていて、その後に骨を砕いて灰に
している
んだよ。」

「へえ~~、最後に砕くんですか。 それは知らなかった。」

保は 亡くなった父レイモンドが、孫娘のマリアンを通じて
ジュンの白っぽいスーツを着せてくれと伝えた話が
頭を離れなかった。

「フィリピンでは亡くなった人にどんな服を着せるのか決まって
いるんですか?」

「うん、正装であればだいたい何でもいいんだけどね。
スーツとか、バロンタガログとか、女ならドレスとか・・・。
日本の場合はどうなの?」

「日本は白い着物ですね。」

保は日本のいわゆる「死に装束」を思い浮かべた。

「この世からあの世へ旅をするための 伝統的な和服ですね」

「ああ、なるほどねえ。」

ジュンとアンナは納得したようにうなづいた。

・・・・・・

「日本においては、納棺(遺体を棺に納める)前に故人に対して施される
ものであるが、多くは仏式で巡礼者または修行僧の衣装である。これは、
古くから葬儀は仏式で行われ、死者が浄土へ死出の旅または善光寺などへ
巡礼することを想定して用意されたもので、死出の旅を説かない浄土真宗
では死に装束は施されない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%BB%E3%81%AB%E8%A3%85%E6%9D%9F

ところで、フィリピンでの葬式参加者の服なんですが、
これは全くの日常的な服です。
日本のように黒一色になることはありません。

これについては、面白い記事がありました。
日本の喪服は何故黒いのか・・・・

「その頃までの日本では死者の「死穢」(=シエ)が他人に伝染しない様
親族は白装束が正しい色でした。」

「•洋装での正式な喪服礼装は【燕尾服】ですが、今は、略礼服と呼ばれる
「ダブルかシングルの背広型」の黒の上下服になっているが、海外の人から
観ると”一種の特定団体”の様に見え”異常な姿”に感じるらしいです。
•黒色が使われたのは日露、日中戦争から第二次世界大戦にかけて戦死者
が多く出た為に頻繁に葬式が行われる事に依り洋服の汚れが目立ない様に
との配慮からとも云われています。」
http://blog.livedoor.jp/kurowasai/archives/428775.html

・・・・・・・

たもつは通夜の会場に設けられた記帳台で署名をし、その横に
備えられたドネーション・ボックスに香典を入れ、
棺に向かって念仏を唱えて Baguio Memorial Chapelの斎場を
後にした。

ちなみに、バギオ近郊での火葬場はひとつだけらしい。
バギオ市の隣町、マルコス・ハイウエイ沿いの
ベンゲット州トゥバ町にある 
Beyond The Sunset Memorial Columbary Park である。

ところで、バギオで葬式をやったらいくらかかるか・・ですけど。
ちょっと古いデータで申し訳ありませんが・・・こちらを
ご参考までに。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2008/11/post-78a0.html

南無阿弥陀仏・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

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やっぱり死者の霊は存在する・・・バギオのお通夜での話

あの~、別に信じてもらわなくてもいいんですけど、
こういう事は実際にこの世にはあるってことで
聞いてきた話をできるだけ忠実に書いてみます。

出て来る名前はすべて仮名です。

「ジュンに伝えてくれ。私は黒いスーツは嫌だって。」

その伝言を受けたのは、ジュンの娘マリアンであった。
マリアンは日本に住んでいる。

伝言を伝えたのは、ジュンの父レイモンドだった。

ジュンはその日午前5時30分に父レイモンドが
およそ6年間の闘病生活を終えて、天に旅立ったため
早朝から通夜の準備に駆け回っていた。

フィリピンの葬式では、死者に正装をさせる習わしである。
ジュンは父に黒いスーツを着せようと考えていた。

そこへ突然、娘からの国際電話が入ったのだ。

「お爺ちゃんが 黒いスーツは嫌だって言っているの。」

マリアンはジュンの子供たち6人の中で一番霊感が
働く子だった。

ジュンはマリアンの言葉に従って、
「分かった、じゃあフィリピンの正装バロン・タガログ
の淡い色
のものを探すよ。」

ジュンはSMバギオが開店する時間を待ちながら、
通夜の準備をあたふたと続けていた。

そこへ又日本のマリアンからの電話。アリアンは泣きじゃくっていた。
「お爺ちゃんが、バロン・タガログも 好きじゃないんだって。」

「じゃあ、どんなのがいいんだ。」

「お父さんが持っている白っぽいスーツを貸してくれって
お爺ちゃんがいっているんだけど・・・・」

ジュンは 始めはなんのことか分からなかった。
そして、自分の服が入っているクローゼットを開けてみた。

そこにはなんと、8~9年前にマニラで買ったイタリア製の
スーツが掛かっていた。

ジュンは、その淡いクリーム色のスーツを取り出した。
そのスーツは、ジュンが買ったことに間違いはなかったが、
買ってから今日の今日まで 一度も袖を通したことがなかった
スーツだったのだ。
値札がまだ付いたままだった。

ジュンは 「ぞっとして、怖くなったんだよ。」と言った。

何故一度も袖を通さなかったのかはジュン自身にも分からないという。
そして、そんなスーツがあることを なぜ父が知っていたのか。
父と母はずっと前からジュンの家ではなく、ちょっと離れた別の家に
彼の姉妹と同居していて、そんなスーツのことを知っているわけが
ない
のだった。

ジュンの妻アンナは、そのスーツを持って仕立て屋に走った。
寸法の調整をしてもらうためである。

前日のレイモンドは、とても元気だったとアンナは話した。

病院に過去6年間、出たり入ったりの常連さんだったのだが、
昨日は今までになく元気で、際限なくしゃべり、冗談をいい、
歌まで聴かせてくれたのだ。

そして、90歳のレイモンドは、11歳下の妻にキスまでして
みせた。 アンナはそれをスマート・フォンで撮影までしていた。

レイモンドは1950年代にパンガシナンからバギオにやって来た。
会計士であった彼は、仕事をしながら、バギオ大学の前身であった
専門学校の時から会計学を教えていたという。
そして、バギオ大学となった時の草分けの教授の一人となった。

彼の教え子はバギオに大勢いて、バギオ市役所の要職を務める
中にも昔の教え子たちがたくさんいる。

棺に納められたレイモンドは 90歳とは思えない美男であった。
おそらく天に昇ってまでも ダンディーな自分を演出したい男だったのだろう。

たもつは棺に向かって南無阿弥陀仏を唱えた。
合掌

 

 

 

 

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