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2013年6月28日 (金)

只今 下宿屋 改装中・・・ どうなっちゃうの?

バギオの我が下宿屋。 改装工事が始まった・・・

001

これが我が家なんですが、この写真に写っていない右の方にドアがふたつありまして、我が寝床の部屋と仕事部屋があるわけなんです。

写真に写っているドアの側には 3つの部屋がありまして、下宿なんですけどね。

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この一番左側の部屋は物置みたいになっていて、そこから この洋服ケースなどを引っ張りだしておいてあるんです。

と言うのも、このドアのあるところを全部壁にしてしまって、私が占拠している側と 向こう側3部屋の間を 分断しようって話です。

ベルリンの壁。。。

左側に廻って中を見ると・・・・

004

このように、部屋が3つありまして、すでに壁に穴が開けられております・・・

3つの部屋がつながってしまった。

005

中に入ると部屋の左側はこんな感じ。

006

奥の二部屋はこんな感じです。

3つの部屋がつながると 今までよく知っているはずなのに、妙な感じがするもんですね。 ちょっと見る角度が変わっただけなのに。

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下宿屋想定ですから、こんな勉強机もあるわけです。

011

奥の方から 振り返ってみると こうなります。

左側のドア2つが壁になってしまうってことですな。

私の方は、3食付きで 自炊なんかはやらないんですけど、

こちらの新しくできる独立したユニットには 簡単なキッチンも付けるんだとか・・・

どんな人が住むのでしょうか・・

只今 住人募集中らしいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 














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2013年6月27日 (木)

「日本語の論理ー日本語点描」を読む その2 国語は何の為に教えるのか

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「日本語点描」を読んでいます。

p113
(日本の高校の教科書は)小説中心、演劇軽視は歴然たるものがある。
・・・とにかく戯曲らしいもののほとんどないことはイギリスの場合
といちじるしく異なる。

p115
対立点の解消、調和、説得などが言語を通じて行われる重要な
活動
になろうとしている。・・・むしろ、日常生活に即した
演劇的感覚こそ国民的関心でなくてはならないのである。

教育で考えている言語は、依然小説を中心とする”独白の言語”である。
これではこれからの社会に生きて行く人たちに適切な言語的訓練を
与えるのはおぼつかない
のではなかろうか。

p116
国語教育は文芸批評家や国文学者の卵をこしらえるのでは
ないはずである。

対立を積極的に解消していく力に欠けていることはすぐわかる
はずである。

===>> これは、国語教育に何を期待しているのかという
重要なポイントなのでしょう。 イギリスの戯曲というのは
ほとんどがシェイクスピアだそうです。
演劇をつうじて、言葉を通じて、人々のコミュニケーションの
能力を上げることこそが大事だということでしょう。
それがなければ、社会の中での対立は解消できないと。

p119
イギリス人もお世辞にも外国語の上手な国民とは言いかねる。
しかし、英語を世界語にしたおけげで、外国語の苦労から
解放された。 おまけに英語の(書籍の)輸出までできる。

p120
みんな外国語の勉強に相当なエネルギーをつかっている。
それにくらべると、日本語をひとりでも多くの外国人に
理解してもらおうという努力
は何とすくないことであろう。

だいたい、外国人に日本語を教えられる人が極度にすくない。

==>> イギリスは確かにいいですよねえ。
英語で書かれた本をたくさん輸出して儲けているんですもんねえ。

日本語を教えるということについていえば、
一番大きな問題は、日本語教師の給料が安いってことですね。
私は「日本語の先生になりたい」と言ってくる若い人に対しては
基本的には「止めておきなさい」と言うことにしています。
それは日本語教師では喰っていけない、生活が成り立たない
という現実問題があるからです。
もちろん、リタイアしたような人なら「楽しいですよ、頑張りましょう」と言いますけどね。

その3に続く

 

 

 

 

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子犬ちゃんと子猫ちゃん、 段ボール箱のベッドで・・・

たった今、驚くような光景を目にしました。

ガレージの隅に段ボール箱が置いてあるんです。

崩れかけたボロい段ボールです。

そこに子犬ちゃんが一匹入って寝ているんです。

そこへ子猫ちゃんがやってきて 段ボールの中を 覗き込みます。

そして、子犬ちゃんの臭いをかぎながら、ゆっくりと箱の中に入ります。

子犬ちゃんがふっと起きて 「あれれ」ってな顔をします。

でも 子猫ちゃんは ひるまずにゆっくりと 子犬ちゃんの横に入り込みました。

子犬ちゃんは 顔を伏せて 諦めました。

子猫ちゃんは ちょっと顔をふせています。

そこへ もう一匹の子犬ちゃんがやってきました。

段ボール箱に手(前足)をかけて 入ろうとします。

・・で、中に 子猫ちゃんがいるのに気が付いて びっくり。

子猫ちゃんも 箱越しに 子犬ちゃんの顔が現れてびっくり。

でも 子猫ちゃんは動きません。

子犬ちゃんは諦めて、箱の別の角から 兄弟寄りの隙間に入ろうとします。

でも、隙間が小さすぎて 子猫ちゃんには 睨まれるし 諦めます。

箱から 離れていきます。

お母さん猫が 子猫ちゃんを探しにきます。

そして、ゴロゴロと声を出しながら 子猫ちゃんを探します。

子猫ちゃんは段ボール箱から ちょっとだけ頭を出して 外を見ています。

お母さん猫が段ボール箱の中を覗きこみます。

そして、子犬ちゃんの臭いを嗅ぎました。

そして、箱から離れて 側溝の方に行きました。

ネズミちゃんを探しに行ったみたいです。

・・・・・・・

それから15分くらい経ってから

その後 二人は一緒に 寝ているのかなと 様子を見に行きました。

段ボールの中を覗きこもうと 近づいたところ、

何を勘違いしたのか、 子犬ちゃんが 突然起き上がり

慌てて 段ボール箱を 飛び出し、

私の方へやってきたんです。

別のところに寝ていた 親犬や兄弟犬も 全員 私の周りに集合して

どうも ご飯をもらえると 犬一族が 勘違いしたみたい。

何もないよと説明をして、

犬たちは すごすごと元の 寝床に戻りました。

段ボールに寝ていた 子犬ちゃんも 戻ろうとしました。

でも、箱の縁越しに 子猫ちゃんと目があっちゃいました。

子犬ちゃんは びびりました。

一回、二回、三回、四回・・・

すぐ横にある薪が置いてあるところに 寝ようとしたり

また段ボール箱に戻ったり、

何度も行ったり来たり。

でも、どうしても 段ボールの中に 入れません。

薪が置いてある場所も ぐらぐらしていて落ち着きません。

心を段ボール箱に残しながら、

テーブルの下にもぐりこんで行きました。

お母さん猫は  段ボールの前に置いてある ほうきの上に座って

この様子をじっと見ていました。

そして 子犬ちゃんが諦めて遠ざかると

ゆっくり段ボール箱の中を 覗き込みます。

そして、ゴロゴロゴロと声を出しながら

段ボール箱の中に ゆっくりと入ります。

子猫ちゃんは 仰向けになって 喜んでいます。

子猫ちゃんの 粘り勝ちでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「日本語の論理ー日本語点描」を読む その1 思考力を鍛える抽象語

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「日本語点描」を読んでいます。

p107
言語学では話しことばが基本で、それを書き記したものが書き
ことばであると教えるけれども、・・・文字の方が音声言語よりも
ずっと表現性がかぎられているのである。

日本語はヨーロッパの言語と比べてみても話しことばと書きことば
の懸隔がいちじるしいように思われる。

p109
日本語では、聞いておもしろい表現と、読んでおもしろいものとが
どうもすこしちがうらしい。

書きことばの優位が日本的得失であったと書いたのは、近年、
書きことばが話しことばに歩み寄って事情がすこし変化している
からである。

==>> 日本語を教えている立場から言えば、
この違いはなかなかやっかいで、教える人によってどちらに
重点を置くかが違うのだろうと思います。
私の場合は、日本の大学に留学するという目的を持った生徒たち
であったということもあって、書き言葉から入って構文能力が
ある程度できた段階で、書き言葉を崩していくような進め方で
話し言葉を教えることにしました。

ただ、多くの場合は、日常会話を習いたいという希望があるので、
挨拶や慣用句など話し言葉重視になっているのではないかと
思います。
そうなると、どうしても、丸暗記することになってしまい、
単純な発声の繰り返し訓練になってしまいがちです。

p110
外国語のうち訳語がつくられたのはほとんどが名詞であった。
・・・ことに学術書の訳書は申し合わせたように日本語として
悪文で、原書よりも難解だが、これは訳者だけの責任ではない。
翻訳に使える日本語のきめが荒いから原文の密な組織を
すくうことができないのである。

===>> それはそうでしょうね。元々日本にはなかった
概念を表現しなくてはいけないわけだから、きめが荒いのは
仕方がない。そういう開拓者がいたと言うこと自体が
素晴らしいことだと思います。

p112
具体的表現が尊重される結果、言葉と具体の関係が密接に
なりすぎ、言葉が現実に拘束されすぎるようになったのである。
・・・あまりにも生活的になってしまった。 言葉が経験の
わくから出られないのである。
・・・どうしても、高等な数学に相当する抽象的言語を
発達させなくてはならない。
・・思考力の養成をも考えているのであれば、抽象語への
習熟は不可欠の条件と言ってよいであろう。

==>> 成程ねえ。 おそらくこれは、専門用語に
習熟すると同じような作業になるのでしょうね。
私自身は、若い頃には一時期哲学書みたいなものを読んで
いましたが、その時にはひとつひとつの概念語を理解するのに
哲学用語辞典が手放せませんでした。

仕事の現役時代には、アメリカの本社でつくられた様々な
社内のルールやマニュアル類の翻訳を担当したこともあります。
抽象語ということでなくても、アメリカの現場の実情を
知らない者が そのような翻訳をやるというのは 概念が
分からないという意味では抽象語と似たようなものを
翻訳するような困難があったと思います。

その2へ続く

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2013年6月26日 (水)

やる気の無い店・・・フィリピン・バギオのSMモールで・・・

まあ、普通は「この店いいよ!」ってのをやるんでしょうけど、たまには、「ここはやめといた方がいいよ?」ってのも いいかな、と思いまして。

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SMバギオの最上階・・・いちばん隅にある この店・・・ SMを一応全部歩き廻った方ならご存知でしょう。

そう、煙草が吸える数少ないお店です。

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日本に発送したい郵便物があったんで、SMバギオの同じ階にあるDHLに行ったついでに 昼ごはんを食べたんです。

ビールもあるしね。

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何が旨いのかしりませんけど、昔風のハンバーガー、コーヒー付きって書いてあったんで、試しに食べました。

ここは、以前にも何度か来たことがあるんですけどね、お客が席についても、メニューすら持ってこないんで、今回は店員らしき人も見当たらないんで、自分でメニューを取りに行って、厨房の方から一人男が出てきたんで、「ビールちょうだい」。

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ここは、気楽な感じが嫌いじゃないんですけどね。 屋外にこんなテーブルがあって。

しばらくビールを飲みながら、注文したものが出てくるのを待っていたんです。

すると、映画館のある方から ぞろぞろと 20人以上の男女が出て来ましてね。

なぜか手に手に、コカコーラのボトルと、紙に包まれたハンバーガーをみんなが持っているわけ。

なんの集団ですかね? コーラとハンバーガーの集団。

そして、このお店のテーブルの内、テーブルを5つばかり占拠したんですねえ。

フツーは、お店の人が 営業の邪魔だから 座らないでください・・ってやりませんか。

まあ、厨房に一人くらい担当者がいて、フロアーも一人って雰囲気でしたから、まあ、そこまで手が、声が、廻らないんでしょうけどね。

他の店には、だいたい暇そうなフロアー係が2~3人いて、おしゃべりしていたりするもんなんですけど。

そう思いながら見ていたら、その後も人数が増えて、40人くらいになっちゃった。

そして、フィリピンでは珍しい光景が・・・

その40人ぐらいの内の3分の2ぐらいが 煙草を吸いだした・・・

20代から30代くらいの連中でしたけどね。 こんなに喫煙率が高いってのは珍しい。

どんなグループなんだ、これは。

そして、その中のちょっと齢かさの女が、「すみません、いいですか?」って言って、私のテーブルに置いてある灰皿に 吸い殻を入れた。

まあ、断ったから いいですけどね。

ビールを半分以上飲み終わったころに、やっと古典的ハンバーガーってのが出てきました。

中身は、お子様ハンバーグが3枚と、マッシュト・ポテトがどっさり。

・・・これだけ?    ・・・はい、それだけ。

これが古典的なものなのか。 勉強になった。

そして、食事も終わり、ビールも飲み干し、お勘定かな・・・・・

例によって、店員の姿は見えない。

食後のコーヒーは 期待どおり 出て来ない。

まあ、いいんですけどね。

しばらく待ったけど、来ない。

厨房に声を掛けると、男が出て来て、お勘定。

確か、前回は、同じような状況で、私の前にお勘定をしようとしていたカップルがいて、

「お勘定を待っているんですか?」って聞いたら、

「はい、なかなかお釣りが出てこないんだよ・・・」。

「そうですか、順番待ちですね。。。。ははは」ってことがありました。

お店の名前知りたいですか? いいですよ。

001

お勘定を無事にすませ、無事にお釣りをもらい、お店を離れました。

屋内の映画館の前の角を廻って、右側にふっと視線を向けたら、そこのカメラ屋さんがありまして、3人の女性がいました。

2人の女性が カメラを構えていたんです。

カメラ屋さんだから、まあ、不思議な光景ではないんですけどね。

どうも、店員みたいなんです。

そして、カメラが並んでいるショーケースの前に、もう一人の女性が立っていまして、フィリピン人らしい ポーズをとっていたんです。

視線ってのは面白いもんですね

別に それをジイ~~っと見ていたわけじゃあないんですよ。

歩いて通り過ぎようとしていて、たまたま、右の視界に入ってきただけ。

その視線を その3人の女性が 一斉に感じたんですね。

カメラを抱えていた2人が気づいて、ちょっと恥ずかしそうに ニコッと微笑んだんです。

それに気づいたポーズをとっていた女性も。

こっちもつられてニコッとしちゃいましたけどね。

その間 多分 3秒ぐらいですかねえ。

そして、エスカレーターに乗りました。

007

以前からあったかどうか、気が付きませんでしたけど、今日はなぜか気が付いたんですね。

な~~んでかって言うと、私の前にいたカップルのうち若い女性が エスカレーターの階段に座ったんです。

一階から二階、二階から三階へ乗り換えるたびに、腰を下ろしたんです。

へえ~~、こういう人もいるんだなあ~~、って新鮮な感じでした。

008_2

この貼り紙に、「子どもさんを座らせないでください。」って書いてあるんですね。

・・・・そうか、大人は座ってもいいんだ・・・ って、変に納得・・・・・

 

カメラ屋さんの店員らしき女性たちにしろ、腰を下ろした若い女性にしろ、

この「やる気のなさ」 が フィリピンの魅力でしょうかねえ~~。

 

 

 

       

 



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「日本語の論理」 その19(完) 英語は島国言語だったじゃないか・・・

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p99
「受け手の尊重」

これからの日本語の問題点・・・・

p100
翻訳文化というものはどうも独自の伝統や定型をもち得ない
ものではないかと思われる。

夏目漱石は・・・
「・・漢学に所謂文学と英語に所謂文学とは到底同一定義の
一括し得べからざる異種類のものたらざる可からず」

p101
頭でいろいろのことを考え、心にさまざまなことを思っても、
それを表現すべき、安定して、成熟し、社会的に承認された
言葉のスタイルがはっきりしないために、思うように考えた
ままを発表することができない
ことを絶えず経験している。

文章の専門家である作家が、自分は悪文家であると告白
していることがめずらしくないのもわが国の特殊な現象
と言ってよかろう。

漢文が国民の教養から姿を消すにつれて次第に文章が
まずくなってきたのではなかろうか。

ヨーロッパの言語と日本語と、性質の違う二つの言語を
同じように考えたところからおこった混乱で、これは
かなり深刻な問題である。

p102
もともと日本語は受け手に対する思いやりがあり、
受け手尊重が建て前になっていたのである。

p103
文学作品も読者なくしては存在し得ないという当然の理が
納得されるようになるであろう。

===>> この部分は、文学少年、青年でなかった私には
日本の文学の歴史も含めて さっぱり分かりません。
ただ、日本の作家が悪文家であると悩んでいるというところは、
もし本当にそうなのであれば、それが日本語の限界のような
ことはあるんでしょうね。

中国語と英語という言語がすべての言語の中で どのように
異種言語としてのポジションにあるのか知りませんが、
少なくとも日本語と英語は 学習するという立場でいうと
ほとんど対極にあるような相互の難しさがあると読んだことが
あります。
英語と中国語はそれに比べるともっと文法的には近いんじゃ
ありませんか?

((下の付録で、日本人にとって易しい外国語は何かをチェックしてみてください。))

受け手に対する思いやりというのが今一つピンと来ません。
敬語に敬語を重ねるような過剰な、変な丁寧さを言っているんでしょうか。
読者なくして作家はあり得ないというのはもっともですが、
文学作品までが変な思いやりをもって欲しくはないなあ~~
って思うんですけどね。
著者の意図はそういうことじゃあないんでしょうね。

p103
「日本語の未来」

送り手と受け手の理想的関係がすでに連句において実現されて
いたということが、これからさき、われわれの社会だけでなく、
外国でも見直されるときがこないともかぎらない。

p104
エイゼンシュタインというソ連の映画監督は映画の新しい
編集理論を作るのにいろいろ苦心していたとき、たまたま
日本の連句を知り、その論理にヒントを得て、有名な
モンタージュ論理を創り上げた
と言われている。

これがきっかけになって、わが国でも、寺田寅彦とか
能勢朝次といった先覚者が、連句の豊かな可能性を明らかに
するようになった。

受け手として表現を理解する場合にも、その人でなくては
できないような理解の仕方という点に着目するならば読者の
スタイル
は当然なくてはならない・・・

===>> この論は 「羅生門」を思い出させますね。
芥川龍之介も読みましたが、黒沢明のふる~~いフィルムで
みて、改めて妙な視点の交錯に感心しました。
しかし所詮言葉ってものはひとたび口から出たら、
文字となったら、それを聞く人、読む人の個別の個人的理解に
なるわけだから、それがどの程度スタイルってものに
左右されるのかは疑問だと思うんですけどねえ。

モンタージュ理論と連句の関連というのがどの程度のものだったかは 残念ながら探し出せませんが、こちらのサイトには 以下のように書かれています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%86%E3%82%A4%E3%83%B3

モンタージュ理論が確立されたのはエイゼンシュテインが一時期、日本人教師に漢字を習っていたからだという。漢字という象形文字の持つ抽象的な概念を描写的デザインに表現しているという基本コンセプトから、「身」と「美」で「躾」に、「口」と「鳥」で「鳴」になるなど、全く別の意味になるということに興味を持ったという。このコンセプトを基にモンタージュ理論を開発したという。」

一方で寺田虎彦さんは「連句雑俎」で以下のように書いています。

http://iaozora.net/ReadTxt?filename=eiga_geijutsu.txt&card_id=2469&person_id=42&from=34741&guid=ON

「エイゼンシュテインは、日本の文化のあらゆる諸要素がモンタージュ的であると論じ、日本の文字でさえも(?)、口と犬とを合わせて吠(ほ)えるというようにできあがっていると言い、また歌舞伎(かぶき)についても分解的演技の原理という言葉を使って、役者の頭や四肢(しし)の別々な演技がモンタージュ的に結合されるというふうに解釈した。」

「その後エイゼンシュテインの所論を読んだときに共鳴の愉快を感ずると同時に、彼が連句について何事も触れていないのを遺憾に思った。おそらく彼はほんとうの連句については何事も知らないからであろう。 」

http://iaozora.net/ReadTxt?filename=renku_zasso.txt&card_id=2461&person_id=42&noruby=1&from=33843&guid=ON

「われわれの足元に数百年来ころがっているこのきわめて優秀なモンタージュ映画の立派なシナリオの存在には気づかないように見える。あるいは気がついても認めたくないのかもしれない。そうしてプドーフキンがどう言った、エイゼンシュテインがどう言ったと言わなければ収まらないように見える。」

実際にエイゼンシュテインがどういったかは分らないみたいですが・・・・

p105
日本の言葉はその特色は特色としながら、外国人が理解
しようとしたときのことも
すこしは考慮する必要があろう。

言語を異にする二国人間の意志の疎通は双方の言語的歩みより
による二言語伝達が理想であろう。

ここ百年くらいの間に、ヨーロッパにおける唯一の島国言語
である英語が、フランス語のような言語にかわって代表的な
国際語になってしまった。

日本語の研究者と外国語の研究者とが緊密な連携をとって、
国学としての性格の日本語とインターナショナルな言語と
しての日本語が矛盾しない大いなる日本語を構想することに
努めなくてはならない。

==>> なるほど、著者の結論かここに来ましたか。
外国人が理解する際のことも考慮したほうがいいっていうのは
そうかもしれませんね。
しかし、書き言葉はともかく、話しことばは放し飼いの
猫みたいに気まぐれですからねえ。

言文一致になることが最終的に理想形なのだとするならば、
もちろん書き言葉は話し言葉にひっぱられるのでしょうから
書き言葉側から日本語を話す人たちをコントロールするって
いうのもほとんど絶望的だと思うんですが・・・・

国語審議会みたいなところだって、結局時代の流れのなかで
変化していく日本語を後追いで認めているようなもので
しょうからねえ。

しかし、日本語教師の端くれとしては、このような壮大な
構想というものが考え得るということを知っただけで
勇気が出て来る思いです。

・・・・・・・

この本は、この後に「日本語点描」という章が続くのですが、
本の全体を見回したところ、「日本語の論理」という意味では
ここまでのところで、一応の著者の結論らしきものが
出て来ているようですので、一旦 私の「日本語の論理を読む」
という内容でのブログ記載を終わりたいと思います。

この後の読後感は、「日本語点描を読む」というような
分け方でブログにアップしたいと思います。

では、さいなら、さいなら・・・・

=============

<<付録>>

外国語難易度ランキング

(1) 日本人にとって易しい外国語は・・・

英語は難易度3になっています。(ニューズウィーク日本版2006年4月26日号 マルチリンガル英会話入門P42 から)

http://worldtravel.blog51.fc2.com/blog-entry-10.html

(2) アメリカ人にとって易しい外国語は・・・・

こちらのサイトの 「回答No.9」 (「アメリカ人にとっての難易度が国務省の外郭組織であるFSI(外務研修所)から出されています」から)

http://okwave.jp/qa/q237687.html

グループ4:アラビア語、朝鮮語、中国語、日本語

アメリカ人にとっては、日本語は「かなり難しい」のグループに入っているそうです。

要するに、アメリカ人、日本人双方にとって、お互いにかなり難しい言語となっているようです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年6月25日 (火)

「日本語の論理」 その18 日本語のナショナリズムが必要だ

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p92
「翻訳文化の展開」

島国は文化的成熟度が早い。 すぐ覚える、すぐ馴れる、
すぐ飽きる。 また、新しいものを求める。
大陸言語の社会ではこういうことがおこりにくい。

p93
われわれの国は明治以来、西欧先進国の言葉や文化を学んで
きたから、翻訳文化の国であった。

p95
遣唐使覇権から平安朝女流文学に至るまでの中国文化の輸入
摂取がやはり、・・・翻訳文化の展開にほぼあてはまる・・・

大正から昭和へかけての時代で、外国文化、思想の輸入が
さかんに行われ・・・外国文化の生活化がはかられ・・・
第三期になる・・・伝統文化の再発見と、外来文化と
在来文化の調和の時代である。

===>> 翻訳については、自分の経験からは
英語から日本語への翻訳は比較的易しく、日本語から英語への
翻訳は難儀するという感じです。

何故ならば、すでにこの本にも出てきたとおりで、
日本語をどう理解すればいいのかというところで苦労するからです。
いろんなものが脱落しているわけです。 主語がなかったり、
本来説明しておかなくてはいけないような言葉がなかったり。
全体の意味、文脈を理解した上で、それらの脱落したものを
補って英文に再構築しなくてはいけないんですね。

英語から日本語へは、英語がしっかりしていますから、そのままを元に翻訳すれば大きな間違いはでません。 ただ、日本語らしい日本語になるかは別問題ですが。

ここにちょっと興味深い記事がありました:

「英語で「がんばります」は要注意?
「お先です」「お疲れさま」も英訳不能」

http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20130607/249352/?P=5

はっきり「I don’t agree with you.」と言われます
しかし、それはその人を否定しているのではなく、その人の意見や情報に
異を唱えているだけなので、さばさばしたものです。アメリカの高校留学中に、
先生に対して「I don’t agree with you.」と言う生徒がいたのには驚きました。」

「日本の「がんばります」「よし、がんばれよ」はLow Contextのカルチャー
では通じません。いったい何をするのかというところまで踏み込んで説明
すべきです。」

外国人の方には、「がんばってください」も言わない方がいいでしょう。
Low Contextの世界では、「Please do your best.」と言うとベストを
尽くせば結果はどうでもいいのね、と受け取られかねません。日本の滞在が
長い外国人の方であれば、ニュアンスを理解してくれるでしょうがそれは
例外です。」

===>> 私は現役時代はずっとアメリカ系の会社だけで働いて
来ましたので、仕事上のやり方、スタイルは、割と日本人的ではない
かもしれません。

フィリピンでの駐在員という時代もありましたので、通訳という
立場になったことも多々あります。
その時に悩んだのが、やっぱり上のような話の内容をどのように
フィリピンの仕事仲間に伝えるかでした。

日本人のお客さんがバギオに出張してきて、現場の人たちに質問を
する際に、日本人が質問した言葉をそのまま直訳で通訳しても
どういう意味なのか、なにが具体的に必要なのかということが
分からないようなことが多々あるのです。

その質問の背景までも含めて通訳をしないと、質問された人は
どんな趣旨で、どんな答えをお客が期待しているかが分からない。
すると、どうしても 日本語1に対して英語が5とか10に
なってしまうこともある訳です。
すると、日本人側としては、「こいつは本当に正確な通訳を
やってくれてるんかいな?」って雰囲気になっちゃうわけですねえ。

直訳が正確なのか、意訳が正確なのか、の問題ですね。

p96
「言語のナショナリズム」

明治のはじめの文化も漢語の翻訳語によってつくられたもので
あったが、女性的な言語が発達してきて、・・・文化の円熟期
と言わなくてはならない。

p97
ナショナリズムは危険なものと頭からきめてしまっている。
なるべくそれを正面からまともに見まいとするような風潮もある。

軟質の、言語、文化の上における女性的、芸術的な自己再発見
につながるところのナショナリズムである。

新しい国学としてのナショナリズムが興ってくると、漢心が
うとましく感じられるのはことの当然である。

国学的ナショナリズムは外国語教育に批判的になりやすく、過去に
おいて、わが国で学校の英語教育廃止論がおこった・・・・・

外国の文化、言語、文学に触れることによあって、母国の文化、
言語、文学がいっそう深く理解できるようになる・・・・

日本語のような島国言語が島国性の悪い面をおさえて行くため
にも、適正な外国語の摂取はどうしても欠かせない・・・

かつてのような孤立した島国性は次第に考えにくくなるであろう。

===>> 私は島国から島国に移住してきた人間ですが、
私の中で、インターナショナルな心情がおのずと育っていく
一方で ナショナリズム的な考えが表面に浮かんできているのも
事実です。

それがどうやって火をつけられるかといいますと、
今のバギオであれば コスプレ、漫画、アニメおたくの連中です。
日本大好き、日本文化大好きというバギオの若者たちが
ちょくちょく日本のことを聞いてくる。
自分が知らなかったことでも、知ったふりをしなくちゃいけません。
それは外国に住んでいる日本人の務めと言うものです。(笑)

昔から、海外に出ると、外国かぶれになるか、国粋主義者に
なって戻ってくると言われたものです。
今は、世界中にインターネットで繋がれる時代ですから
そんなに気負うことも必要ないでしょうけど、せっかく外国に
住んでいるのであれば、その両方を楽しむってことで人生が
豊かにもなるってもんじゃあないでしょうか。

その19に続く

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その17 日本語には「話し合う言葉」がない!?

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

004

p85
「豆腐のような言葉」

日本語は・・・論理的にわかり切っていると考えられる
部分から脱落して行く。まず主語が消える。またはっきり
していれば目的語なども省略される。 
日本人は動詞が現在形か過去形であるかという時制について
はっきりした自覚をもたずに日々生活することが可能である。

「古池や蛙飛びこむ水の音」
の「飛びこむ」は現在形なのか、進行形なのか、現在完了形
なのか、ヨーロッパの言語に馴れた人は疑問にするけれども、
多くの日本人はそういうことを考えることがない。

===>> この辺りは、日本語を教えているときには
結構苦しむところなんですよね~~。

一応は、
「食べます」-現在形・未来形
「食べています」-現在進行形
「食べました」-過去形
・・ということで教えるんですが、これがなかなか問題なんです。

こちらのサイトでその辺りの事情をチェックしてください。
http://www.asca-co.com/takumi/2011/03/16.html
日本語には時の起点を規定する明確な文法が存在しません
長い歴史の間に文法そのものの変遷が大きく、時制の表現法自体も
変化したからです。結局、時制の実際の使用例を分析し、ああだ
こうだという分類はあるものの、国語学者と文法学者では区分法が
違いますし、小・中校生に「この規則に従い時制を表現しなさい」
と指示できるものはありません。」

だから、私が教える場合は、
「今から 食べます」
「来週の日曜日に 食べます」
「今 食べています」
「昨日 食べました」
のようにいつの時点かを示す言葉と一緒に教えるしかないんです。

p86
禅にはそれなりの論理があることは、このごろのヨーロッパや
アメリカの知識人の間でも常識になりつつあるが、禅の論理は
長い間の島国言語の歴史が通人の社会で論理を風化させて
残った点的論理である。

俳句には、アリストテレスの論理学ではとらえられない風化した
ロジックがある。 ヨーロッパ人が近年それにたいへん興味を
もち出したというわけである。

===>> 「風化した」と呼ぶのがいいのかどうか。
昔の日本語は冗語性が高かったのであれば そういうことも
言えるのかもしれませんが、もしかしたら「風化」ではなくて
「結晶化」が起こったといえませんかね?
「思いの結晶化」ってのはどうですか。
特に文学的な分野では・・・

p87
日本語の論理は線状のものを表現するのにとくべつ適して
いないのではなく、馴れていないのである。

・・しかし、省略的、飛躍的な点の論理には比類なき力を
発揮できる。
碁を打つ時・・・上手になると、かなめのところへ一石を
投じて、・・・こういう上手の碁の布石のようなものが
日本語の論理だと思えばよいかもしれない。

===>> おお~~~、やっと出てきました。
待ってました! 「日本語の論理」!!

そうか~~、日本語は 「囲碁の論理」だったのかああ・・・

p88
「誤解」

ヨーロッパの言語では、・・・一万行の詩を書くことも
不可能ではない。 煉瓦のような言葉だから、積み重ねは、
・・・いくらでも大きくすることができる。

わが国では・・・豆腐の言語でなければ考えられない文芸の
様式が発達している・・・短詩型文学が世界最高の洗練に達している。

p90
日本語の性格・・・漢字と仮名の二元性・・・
仮名という分析的言語と 漢字という膠着言語との性格の違った
二つの言語を混ぜ合わせて使っている。

英語などだと名詞は三つ以上重ねることはできない。
日本語でも仮名だとやはり・・・自由に行えないが、漢字を
用いると、全国大学学術調査協議会事務所などと、名詞概念を
いくつでも結びつけて・・・

p91
(日本語は)要所要所をおさえながら飛んで行くように、
途中のことはあまりうるさく言わない。
要点だけで全体を理解している。

したがって、もし誤解がおこるととんでもないことになる
・・・以心伝心、腹芸のごときものである。
・・・要点をふみ外したりすることがあれば、その誤解を
救うものはもう何もなくなる。

一生つづくかもしれない深刻な対立、不和がおこることになる。

われわれの言語では、そういうときに話し合う言葉がない。

===>> な~~るほど。 こういう不和というのは
確かに起こりやすそうですねえ。
お互いに勝手に思い込んでしまって、その思い込みどおりじゃ
なかったということが原因になってトラブルが起こる。
それを弁明しようとしても、「グダグダ弁解するんじゃない、
しつこい、いさぎよくない・・・
」ってな話になってしまう。
これは実に不幸な話です。 私もそのような経験があります。
それが日本語という言語に潜む危険性だったとは・・・
しかし、それにしても、「話し合う言葉がない」と断言されて
しまっては・・絶望的なのか・・・

たまたま、こんなニュースがありました。

<岩手県議>小泉氏死亡、自殺か 病院非難でブログ炎上

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130625-00000019-mai-soci&1372128397

「小泉県議は5日に更新したブログで、盛岡市の県立中央病院を受診した際に番号で呼ばれたことに腹を立て、「刑務所に来たんじゃない」「会計をすっぽかして帰ったものの、まだ腹の虫が収まりません」などと書き込んだ。非難が殺到してブログを閉鎖。17日に記者会見し「公人の立場を忘れ、思慮に欠けた不適切な表現を公開した」と謝罪した。」

・・多分、これも思い込みなのでしょう。

事情は分かりませんが、病院がなぜ外来患者を番号で呼んだのか。それには理由があるはずです。 私なら、番号で呼ばれる方が気が楽です。 「病院にXXさんがいたよ、何の病気だろうね・・・」なんて噂の種にはされたくない。

しかし、この行き違いで自殺するに至ったとするならば、実に不幸なことです。

合掌

その18に続く

 

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その16 ドイツ語はしつこい、日本語は舌足らず

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p76
「漢字の言語学」

言語についての常識を修正しなくてはならない・・・
われわれはそういうヨーロッパ生まれ、ヨーロッパ育ちの
言語学と文法を、そのまま日本語の上にかぶせた
のである。

ヨーロッパ言語と日本語のもっとも大きな差異は、前者には
漢字に相当するものがないということであろう。
仮名に相当するアルファベットだけで書かれている。

===>> 漢字のややこしさについては、日々悩まされて
いるとおりですよね。
それには漢字が中国から日本に渡ってきた時の
時間的及び地理的ギャップが関わっているので、今更
どうすることも出来ないのかもしれませんけど・・・

p78
われわれには名を呼び合うのを忌む気持ちが働いている
らしく、諱(いみな)というものをつくり
、どうしても
用いるときには本名をさけて、諱で呼ばれることを求める
くらいである。

===>> 諱(いみな)という言葉自体は聞いたことが
あるんですが、意味は知らずにいました。
いろいろと複雑な歴史があるんですね。

複雑というのは、諱が本名である場合と、別名の場合があるらしいということですが・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B1

なぜ名前を使わずに「天皇陛下」とだけ日本では呼んでいたのか
という事情を初めてしりました。

実はフィリピンに来て、これで困ったんです。
明治天皇の諱は睦仁(むつひと)、
昭和天皇の諱は裕仁(ひろひと)、
平成天皇の諱は明仁(あきひと)なんですけど、
なぜかフィリピンの人たちはこの天皇の諱をよく知っているんです。

大家のお婆ちゃん(90歳ぐらい)が 「エンパラー・ヒロヒトは
元気か?」
とか、「今のエンパラーの名前はなんだ?」とか
聞いてきて、思い出せなくて困りました。

日本では 明治天皇とか昭和天皇とか呼ぶだけで、諱(=本名?)で覚える
ということがほとんどなかったんですね。

そこには理由があったんですね。
その本当の名前を声に出してはいけないという慣習があった
だから「いみな」と言った。

p79
仮名が漢字の発音でなくて意味をあらわしている、麦酒に
ビール、煙草にタバコと読ませるようなルビは、外来語の
処理としてもまことに心にくいものである。

===>> まあ、これは意味だからまだいいんですけど、
人名や地名なんて ま~~ず読めないですもんね。
漢字をどう読むかを知っているのは家族だけ・・・なんてね。

p80
大陸言語では外国語に対する緊張感がすくなく、外国語を
聞いてもあまり驚かない。

ところが、島国言語の中で育ったわれわれは外国語に対して
異常に敏感で、すこしわからないところがあると
コムプレックスをもったりする。

==>> フィリピンなんかは島国だけど大陸言語
みたいな雰囲気もありそうですね。
なんてったって公用語はフィリピン語(タガログ語)と英語、
その他に地元の言語が2~3はありますからね。

私がフィリピンで駐在員をやっていた時には、会社の中で、
食堂ではイロカノ語や他の地元の言語、会議に入ると
普通はタガログ語、その会議に外国人が一人でも入ると
みんなが英語に切り替えるというあんばいでした。

p80
「島国言語と冗語性」

日本語は論理的でないという命題が正しいか・・・・

島国言語の特色のひとつは、相手に対する思いやりが行き届いて
いることである。

p81
ヨーロッパの言語や文法の考えに馴れた人たちから見ると、
いかにも不明瞭である。

(一人称について)相手との心理的距離、関係にしっくり
合うような人称語を使う
ことが必要だという意識がつよい
からであろう。

==>> 本当に困っちゃいますねえ。
自分の配偶者をどう呼ぶかってのでも 定まらないんですよねえ。
名前の呼び捨て、名前+さん、母親でもないのに「おかあさん」、
「おまえ」、「おめえさん」、「あなた」、「あんた」、
「奥さん」、「パパ」、「ママ」、「ダーリン」、「ハニー」
いろいろあるし、
これが家の外になっちゃうと、他人の前では憚られるから
別の変な落ち着かない言い方にもなっちゃうしねえ・・・・

p82
日本語は、普通は家族の間で行われるような言語活動の様式が
親密な集団の範囲をこえて広く認められるのである

言語には冗語性というものがある。 ひと口にいうと言葉の
中に含まれる必要な蛇足である。

p83
・・・冗語性のすくない典型的なケースがすでにのべた
家族間の話である。

p84
大陸言語の社会では冗語性をあまりすくなくすると、
ごく親密な関係の人との間ならともかく、相手に誤解されたり、
了解不能を訴えられたりするから、ていねいな表現を

しなくてはならない。

ヨーロッパ語の中でもドイツ語がいちばん冗語性が高いと
いうことであるが、われわれがドイツ語を論理的で
何となく理屈っぽいと感じているのはこの冗語性の高さと
無関係ではないように思われる。

p85
冗語性のもっとも高い見本は、・・・(日本では)
六法全書
の中にあるということになる。

==>> ほお~~、そうなんですか。
ドイツ語がねえ。 
しかし、面白いですね。
技術的に優れていると言われる ドイツと日本の言語が
まったく正反対の位置にあるってのが不思議じゃないですか?
そして、なんとなく お互いに悪い国民感情はなくないですか?
昔の同盟国ということを離れてもですよ。

ところで、こんな面白い記事がありました:

「このアン チョビっと待ってもらっていいですか?」

ドミノ・ピザがダジャレを社内公用語に、アメリカの本社からもゴーサイン」
http://gigazine.net/news/20130624-domino-dajare/
「これから本部のみながら、ダジャレ公用語が試験運用されると
のことで、原則として会議中一度はダジャレを発するよう心がける
「1会議1ダジャレ」やたまに多摩でダジャレ合宿を行うなどの
取り組みが予定されています。」

・・これって、日本語の中の話から出たわけだから、おそらく島国言語の発想なんでしょうけど、その発想を国際的企業が取り入れるってことですよね。

冗語性が高くなるのか、低くなるのか・・・

少なくとも、打ち解けた身内意識が出来ることは間違いないでしょうが、その逆に そのダジャレが理解できない人はKY君になっちゃうのかな?

・・・ん、ところで、日本語は論理的でないという命題が正しいか・・・・の答えはどうなったのかな??

その17に続く

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その15 インターネットでの日本語自動翻訳はムリ

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

今日のところは、日本語教師としても、翻訳を少しやっている
者としても、考えさせられることの多い部分です。

p70
「日本語の姿」

「外から見た言葉」

だれが外国人に日本語が教えられるのか、だれもいない
ではないかということがはっきりしてくる。
日本人が日本人に教えるための国語の知識では外国人に
勉強してもらうときの役には立たない
のであるが、
われわれの国には、外から見た日本語の意識というものが
発達していない。

===>> これは実際問題本当であろうと思います。
「だれもいない」というのは厳しすぎるお言葉ではありますが、
少なくとも外国語としての日本語を教える訓練を受けていないと
日本人だから教えられるというものでもないのです。
この本は1987年に出版されていますので、その後
外国人に対する日本語教育の研究に進展があったと信じましょう。

しかし、随分前の話ですが、テレビのドキュメンタリー番組で
人工知能を使った日本語の翻訳装置を作るというプロジェクト
話があったときのことです。
あるコンピューター会社の開発者が、日本の国語の大御所に
日本語の文法というものはどういうものかを教えて欲しい
と願い出た折、その大御所は「日本語の文法は 学者の数ほど
異なる文法があるから、自動翻訳などは無理である
」と
のたまったと言うのです。

ちょっと試しにWEBサイトでの翻訳をやってみましょうか
面白いですよ。

問題文は
「日本語の翻訳がコンピューターにできるなんて妄想をいだくのは
止めておいた方がいいと思うよ。」

(1)GOOGLE翻訳です、

「I think person who embraces the delusion Japanese translation
Nante be on the computer I've stopped is good.」

この英文を逆に日本語へ変換してみると

「私は妄想日本語翻訳なんて、私が停止したコンピュータ上に存在する
包含人は良いと思います。」

(2)EXCITE翻訳です、

「I consider holding delusion as translation of Japanese is made
to a computer as it is better to stop. 」

逆翻訳は、

「私はそれの方が止めることがよいように、日本語の翻訳がコンピューター
に作られるとともに妄想を保持することを考慮します。」

(3) Weblio翻訳です。

「I think that you should stop that you have a delusion that
Japanese translation is possible to a computer.」

逆翻訳は、

「日本語翻訳がコンピュータに可能であるという妄想があることを、
あなたが止めなければならないと、私は思います。」

おお、本当に面白いですねえ。
GoogleとExciteは めちゃくちゃですが、
Weblioは ほぼ大丈夫と言ってもいいでしょうね。
素晴らしい。
(おそらくWeblioは様々な文例、パターンをため込んだ
データベースを持っていて、それで訳文を3つ表示できるように
しているのでしょうね。文法というものはないのでしょう。)

なぜ、こんなことをやってみたかと言いますと、
私が日本語を教えてきた中で、作文を宿題にしたことがあるんですが、
時々その作文を読むだけで頭痛がするような日本文を書いて来る
生徒がいたんです。

そんな時は、大体がWEB翻訳を使って生徒がズルをしていたんです。
ことほど左様に自動翻訳というのは困難だということです。

ついでに、上の優秀なWeblioで ちょっと長い文を
試してみました。

「なぜ、こんなことをやってみたかと言いますと、
私が日本語を教えてきた中で、作文を宿題にしたことがあるんですが、
時々その作文を読むだけで頭痛がするような日本文を書いて来る
生徒がいたんです。」

「I had done composition for homework while I told Japanese
when I said why you tried such a thing, but there was the student
who wrote the Japanese sentence that I only sometimes read the
composition, and had a headache.」

逆翻訳は、

「あなたがなぜそのようなものをためすかについていつ言うかについて
日本人に話す間、私は宿題のために構成をしました、しかし、私が時々
だけ構成を読んで、頭痛がした和文を書いた学生がいました。」

・・・ここまで長い文は、さすがに無理ですね。

p71
島国に住んでいる民族は他人も自分と同じように感じる
ものだと思い込みがちである
。創造力が欠如している。
・・・われわれの善意にもかかわらず、国際的な誤解を
招くおそれがある。 そういう誤解が積み重なると、
ついには国際的孤立ということにもなりかねない。
国際交流がさかんになってきた時代であるからかえって
そういう心配も大きくなるのである。

p73
われわれは外国へ行ったら国際的立場におけるものの
考え方をする必要があるのではないか・・・

===>> これは実に大事なことです。
特に日本人は要注意だと思います。私の経験も含めて
ちょっとしたことで国際問題になることがあります。

正直であることが必ずしも相手にとって良いとばかりは
限りません。
日本には良いことわざがありますよね、「嘘も方便」です。
嘘を言いたくない場合は、本当のことを言わなければ
いいんです。
腹を割った話をすると言う時には、相手を見て、
日本的考え方をある程度分かっている人にのみ
用心深く話すことが肝要です。

p74
国内の言葉の使い方、ものの考え方と国外へ出た時の
発想法とは使い分けなければならない
のである。

川端(康成)さんの場合のような誤解が起こったのは、
(通訳の)サイデンステッカー氏が日本語や英語に
不自由だったからでなく、そもそも発想自体が翻訳を
拒否するていのものだったからである。

ものの考え方や慣習が大きくちがう国と国との間で
行われる言葉のやりとりは内輪の会話などとはよほど
異なった用意がないと、こういう外交問題にまで
発展しかねない。
異文化間のコミュニケイションではニュアンスの微妙な
成句などは使うのを控えた方が無難であろう。

・・・フルシチョフほどの場数をふんだ政治家ですら
こういう失敗がある。

===>> ここで紹介されている話は、世界的に著名な
大人物に起こった事例です。
言葉の上の問題が、通訳、翻訳の問題ばかりではなく、
その国独自の文化的背景まで含めて理解していないと
誤解されるという話で、言葉だけでは終わらなかったという悲劇です。

おそらく、子どものころから、例えば、アメリカと日本を
行ったり来たりしながら、こどもの内に二つの言葉を
文化的社会的背景まで含めて習得したようなバイリンガルで
ないと、このようなトラブルの回避は無理だと思います。

いやあ~~、通訳、翻訳って本当に怖いですねえ。

その16に続く

 

 

 

 

 

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2013年6月24日 (月)

「日本語の論理」 その14 日本人は 寺田寅彦の随筆を読むべし

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p66
「思考の原型」

日本人の思考と論理は日本語の性格と不可分に結びついている。
思考方法を変えれば、やがては日本語もそれに合致するように
変化するであろう。

歴史上の大きな言語改革は、いずれも言語の変化によって
人間の思考、感性、ひいては生活に新装の影響を与えること
に成功したのである。

学校の国語教材も・・・感情移入的理解に訴えるものに
なっている状態を検討しなくてはならない。

p67
・・・幾何学的思考の訓練は幼いときから始めなくては
効果が上がらない・・・・

抽象的文章といっても・・・算数の応用問題などは
りっぱに抽象的思考をもった文章である。

・・・寺田寅彦の随筆がよい。 ・・・やさしい文章で
純粋思考、思考実験のよろこびを教えてくれる・・・

子どもにはむしろ抽象論理の方がわかりやすい。

抽象思考の原型ができたら、それにレトリックの外装をつける。

==>> ここは難しい。
そこで、例示されている寺田寅彦さんの文章を読んでみましょう。
青空文庫で その文章を読めますよ。

「科学者は、普通の頭の悪い人よりも、もっともっと物わかりの悪い
のみ込みの悪い田舎者いなかものであり朴念仁ぼくねんじんで
なければならない。」
「頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには
自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を
打ち明けるものである。」
http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2359_13797.html

あはははは・・・・
「これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない
科学教育者か科学商人の類であろうと思われる。」

私は何を隠そう、この部類かもしれません。
テレビなんかでやっている科学系の番組とかは好きですけど、
どうも忍耐力はないみたいなんでねえ・・・残念。

寺田寅彦という人がどういう人かについては、こちらでどうぞ。

「寅彦は自然科学者でありながら文学など自然科学以外の事柄にも
造詣が深く、科学と文学を調和させた随筆を多く残している。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%B0%E5%AF%85%E5%BD%A6

・・とりあえず、どういう傾向の文章であるかは分かりました。
確かに情緒的な文章ではなさそうです。
科学者らしく数学の「集合」みたいな雰囲気の文章でもあるような・・・

そこで、「集合」の例を分かりやすく説明しているサイト
ありましたので、お遊びでご覧ください。
http://juku-ru.com/syuugou.html

これが論理的ということになるのでしょうか。

ここで書いてある数学の文章
問題:100人の学生に、数学が「好きか」、および「得意か」を調査しました。
  その返答で、「好き」と答えた者は43人、「得意」と答えた者は29人、
  「好きでもなく得意でもない」と答えた者は35人であった。

   では、(1) 数学が「好きであり、得意でもある」と答えた者は何人?
   また、(2) 数学は「好きだが、得意でない」と答えたものは何人?

こういう文章が、上記の著者が言っているところの

抽象的文章といっても・・・算数の応用問題などは
りっぱに抽象的思考をもった文章である
。」

に該当する文章と思っていいのでしょうね。

これは、慣れないとなかなかしんどいですねえ。
でも、やりはじめたら面白そうです。
私は数学の中では、代数はダメだったんですけど、幾何は好きでした。
集合はほとんどやらなかったと思います。
高校では文系のコースにいたからだと思うんですけどね。

著者がいうように、こういう文章なら、情緒的な文章を小さいころから
読むよりも、このような抽象的、数学的、論理的な文章を
読むことの方が絶対に論理的思考は伸びるでしょうね。

推理小説なんてのは どうなんでしょうかねえ・・・・

p67
感情移入的理解にはある程度の人間経験による裏付けが
必要であるが、子どもにはそれが充分でないことが多い。

===>> 確かにこれはそうだと思います。
しかし、これは、日本的論理性というものとどう関係するん
でしょうか・・・
だんだん具体例が出てきたので、面白くなってきました。

その15に続く

 

 

 

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その13 日本語は義理人情、浪花節であ~~る

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p60
「感情移入的」

学校でも5W1Hとかを教える。・・ニュースの枠組みによって
文章の認識、整理をしている。

日本語の動詞のほとんどすべてが人間を主語にとるようになっている。
・・第二人称の主語はことわらなくても動詞を少し変えるだけでわかる
・・無生物が主語になっていることがあれば、たいていは
擬人法表現である。

たいていの思考が人間中心に、人間に即してすすめられる。
・・・ものごとと ものごとの関係にはさほど関心がないから
論理学は日本では生まれなかったのだ・・・・

そういう思考の展開は人生論的であり、情緒的・・
・・情緒、共鳴、感銘、感動などと自覚されるのだが、
こういうのを感情移入的思考と呼ぶ・・・
義理人情が論理に優先する。

==>> 「義理人情」か・・・確かに日本人は義理人情とか
浪花節とか言われますけどねえ。ただ、私は人間が冷たく
出来ているせいか、心底そうだとは思えないんです。

p62
思考には・・・感情移入による思考で、もうひとつは
抽象的思考である。 ・・・日本では、・・・抽象的、観念的
というのは、そのまま非難の言葉になる
のがなによりの証拠
である。

人間モデルから離れた純粋思考・・・人間をモデルに考えて
いるかぎり、いわゆる論理性は生まれない。

これまでの日本的思考は二種類ある思考のうち一方が欠けていた。
この認識が現在の疎外感のうんぬんされる状況から脱出する
ための前提であろう。

==>> 抽象的、観念的ということばは確かにおっしゃる
とおり非難の言葉であることが多いですね。
でも、そうでないと論理性は出てこないよってことですね。

以前、日本語学関連の本だったと思いますが、
日本語は地上である相手と対面しているような言語であり、
英語のような言語は空中から地上を俯瞰するような言語
であるとの論がありました。
要するに、英語の方が客観的に外から見渡すことができる
言語だから、地上のあるものとあるものの間の関係性が
論理的に表現できるってことでしょうか。

「現在の日本の疎外感」という文のところは、そのように
地上の視点に拘っているから出て来る問題であって、
空に視点を移して地上を客観的に俯瞰すれば、新たな
関係性が見えてくるってことを言っているんですかね?

著者が言いたいところが今一つ掴みきれないんですけど、
日本語には人間モデル、あるいは生物界的モデルである
複雑系の論理があるから、英語などの一神教的論理性とは
別物なんだよって言いたいのかな???
あるいは、それとは正反対に、やっぱり英語などの
論理性を取り入れないとダメだって言っているんですか??

p63
「おもしろさの発見」

感情移入的思考の強い社会では、ニュース、事件、楽屋話
などのように人事に関するものでないとおもしろくない。

ジャーナリズムは競ってゴシップという餌をあさって、
読者の前にバラまく。

==>> 確かにこれはそのようです。
インターネットなどでアクセスが多いのは ゴシップ系などの
サイトなのだそうです。

p64
新しい幾何学的思考の魅力に対する関心が芽生えようとしている・・・
一般の人に数学が何かおもしろそうだと感じられるようになってきた・・

p65
感情移入的思考がウエットなおもしろさを作り出すとすれば、
ヒューマーのおもしろさはドライなものである。 その乾いた
知的なおもしろさを踏み台とすれば、思考における抽象的
美学へ移って行くことも可能になる。

純粋思考が・・・どれほど教育が普及してみても、真の知的
興味が根をおろさなければ、教育の名に値しない
ものである。
職業訓練であり、技術訓練にすぎない。

===>> そうですか、難しいですね。
人間的思考を離れて、純粋思考にならなければ 論理性も
育たないってことなんですかね。

それがなければ、教育とは呼べないと・・・?

ヒューマー(諧謔?)というのは、ところで、何ですかね?
いわゆるユーモアのこと??

辞書をひいてみました:

かいぎゃく【諧謔】
〔しゃれ・冗談など〕ひねったところがあって、笑いやおもしろみを
感じさせることば。─用例(谷崎潤一郎)「諧謔精神」「諧謔小説」
《類義語》おどけ。ユーモア

そうですか・・・
落語が人情ものをやっている洒落、冗談だとするならば
これはウェットなもので、 ドライな面白さのヒューマー
(ユーモア)ってのはどんなものなんでしょうか・・・
落語にそういうものってありますかね。

著者は 西欧的なドライなユーモアを 日本人は勉強すべきだと言っているんですか? そうじゃないと論理性は育たないと・・・?

p65
わが国には上品な笑いの伝統が弱い

===>> 上品な笑いが ユーモアってこと??
要するに知的な笑いってことなんでしょうけど・・・・
具体例が欲しい・・・イメージが出来ない・・・・

その14に続く

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その12 日本語には文法なんて無い! 谷崎さんが・・

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p53
「思考の組み立て」

「思考のユニット」

しっかりした文章の書けないもう一つの理由は、しっかりした
思考法ができていないことである。

p54
われわれ日本人は・・・「考え」ないで、「思う」人間である。

日本人がヨーロッパとちがった論理性をもっているからに
ほかならないのだが・・・・

p55
日本人の発想の特色はユニットがはっきりしていないで、
しかも、ヨーロッパ人より概して小さなユニットを無意識に
用いていることにある。
・・・大思想は生まれにくいが、小イキな表現は発達する。

パラグラフは思考の基本的単位である・・・

===>> 思考法が出来ていないと言われてしまうと、
「ごもっとも」としか返せないんですが、パラグラフという
ひとかたまりの文章が思考の基本的単位であるというのは
そこに最低限の文脈があるという意味では納得できそうです。

p57
「抒情の論理」

谷崎潤一郎「文章読本」・・・「日本語には西洋語にある
ようなむづかしい文法と云うものはありません
」と断言し、
「日本語のセンテンスは必ずしも主格のあることを必要と
しない」と言い切っている。

日本語の伝達が主体と客体、われとなんじの関係を
明確に規定する必要のない間柄において行われてきたことが
多かったことを暗示している。

===>> 谷崎さんも随分大胆ですね。日本語を教えていてふと思うことがあるんです。

たしかに「日本語文法」というような本はあるにはあるんですが、そこでは「文法」と言えるような(英語なんかの文法のイメージの)ものは無いように思います。 (ここで言っているのは、日本人が学校で学ぶ国文法ではなく、外国人の為の日本語文法ですけど)

「我と汝の関係を明確に規定する必要のない間柄」
というところで、フィリピン語のことがふっと頭に浮かびました。

もう随分まえの話なんですが、フィリピン語を家庭教師の
先生から習っていた頃、フィリピン人は「ごめんなさい」とか
「ありがとう」という言葉はほとんど使わないと聞いたんです。

これらの言葉は、若い人たちが英語を学ぶようになってきて
から「ソーリー」とか「サンキュー」を使うようになった
から最近は聞かれるけれども、元々は特殊なケースを除いて
ほとんど言わないというんです。

その大学の英語の先生と それは何故なのかを議論したんですが、
おそらくそれは、フィリピン人は大家族で、元々の
バランガイと呼ばれる町内会のような地区も その歴史を
辿れば 家族単位で舟に乗ってその土地に渡って来たという
一族を単位としたものだったそうなんです。

身内である集団の中で、言葉で謝るよりも、言葉で感謝する
よりも、なんらかの行動で表現するという話でした。

だから、上記の「我と汝・・間柄」というような状況で
そのような言語になったのではないか、という推測も成り立つ
のかもしれません。

p58
(日本人は)文章の練習でも、はっきりした考え方の
ともなわない実感中心の文章を書く。
多くの場合、これは散文による抒情詩を書いていることに
なり、・・・・

p59
日本の詩歌は・・・点のような感情の結晶が示され、
静によって動を暗示するのだが、詩的論理の展開は見られない。
西洋の詩は構造をもっており、詩的論理もある。

・・国際化時代を迎えて・・・相手がどういう形式でものを
考え、表現するかがわからず、こちらがどういう形式と
思考の様式をもっているかもわからずに会話の練習など
だけしているのは滑稽である。
上達すればかえってもの笑いになるのが関の山で・・・
・・外国語もよいが、まず自国語をしっかりすべきである。

===>> 実感中心の文章というのは そう言われてみれば
私もそうかなあ~~と感じますけどね。
それが抒情詩的かどうかは分かりません。

「西洋の詩は構造をもっており、詩的論理もある。」
というのは、私には判断できません。
本当に日本の詩は その反対にあるのでしょうか。

「まず自国語をしっかりすべきである。」というのは
その通りでしょうね。 日本だけの話じゃないと思います。

今私が住んでいるバギオ市の周辺には、地元の言語が
いくつかありまして、イバロイ語、カンカナイ語、
イロカノ語が有名です。 もちろんタガログ語や英語もあります。
この中でイロカノ語は、もともとルソン島北部の西海岸の
地域の言語なんですが、北部山岳地域での共通語としても
機能しているんです。

しかし、山岳地域の人たちのイロカノ語と、発祥の地の
イロカノ語では、その言語の深さが違うと地元の人が
話していました。

日本人としては日本語をある一定の深さまで会得することが
外国語の表現においても重要なことだろうと思います。

英語を日本語に翻訳する仕事をたまにやっていると、
日本語の語彙の貧しさに悩まされることがあります。
まあ、ビジネス英語の範囲ですから、文学的な表現などは
論外なんですけどね。

その13に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その11 単語の意味は文脈で決まる

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p51
「文の構造」

パラグラフの感覚がついたら、次にはセンテンスの感覚を養う・・・

日本語では文の構造もしっかりしていない・・・

文末決定的な話しことばの構造がそのまま書き言葉にも・・・

名詞構文的な文も考えることが望ましい。

p52
単語は、より大きな文脈の中でなくては意味を決定できない・・

文章構成の原理を知らず知らずのうちに体得するのは
ごく幼い時期であろう。

===>> 結局、大人になってからでは遅すぎるってことですか。
日本語は文の構造もしっかりしていない、と言うのは私が
日本語を教えて来た経験的な感覚でいえば「むちゃくちゃ」って
ことになりますかねえ。

この著者は今まで読んできたところでは、外国語からの影響を
出来るだけ排して、日本語らしいものをしっかり学ぶべきだと
いっているのかと思っていたんですが、「名詞構文的な文も」
と書いているところが理解に苦しみます。

単語は・・・文脈の中でなくては意味を決定できない
と言うのは確かにその通りであろうと思います。
文脈の全体を把握しなくては その本人が言っていることの
意味や意図は理解できない。
これがあるから、おそらく政治家の言葉の揚げ足取りも
頻繁に起こるのでしょうね。
マスコミにとっては都合の良い日本語ってことでしょうか。

日本語教師という立場で見方を変えてみると、
パラグラフー>センテンスー>単語 という進め方は
教える順番としては非常に困難ですね。

母語者である日本人であれば、一応日本語をしゃべることが
できた上で 文章を学ぶという順番になるでしょうから、
自分の考えをある程度まとめて パラグラフを考えるという
ことを最初にやることも可能なんでしょうが、
全くの白紙から日本語を学ぶ外国人にとっては やはり
単語ー>センテンスー>パラグラフ の順番になるだろうと
思います。

国語教育は 分析的、帰納的な 内に向かう方向であるのに対し、
日本語教育は その反対に 発展的、演繹的に 積み上げる、
あるいは外に向かう方向であるように思います。

私が東京の専門学校で日本人を相手に日本語の直接教授法を教えて
いた時に、国語を教えていたという定年退職された元教師の
ご婦人が私のクラスの生徒の一人でした。

日本語の教え方を学んだ修了式の日に、生徒それぞれの感想を
聞いたのですが、その元国語教師の方は
国語を教えるのと、日本語を教えるのは まったく
別物ということが判りました。方向がまったく正反対なのですね。」
とおっしゃいました。

この著者が述べている文章の作り方の順序については、
日本人であれば パラグラフからというのはその通りだと思います。
まず思考、思想があって、頭の中で練られたものが全体像と
してあって始めて、それがその人固有の文体にのって
筆の先から紡ぎだされるのであろうと思います。

その12へ続く

 

 

 

 

 

 

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2013年6月23日 (日)

「日本語の論理」 その10 読書百篇・・・は有効か

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

この部分はタイトルを見ただけですが、期待しているんです。
日本語教師としても非常に興味のあるところ。

p47
「文書構成の原理」

書くためには、まず語から文、文から章節というように
文章を書く練習をするのはまずい。
書くためには読むことが必要である これはいろいろな
ものを読まずに一定のものをくりかえし読むのである。
・・・スタイルを身につける読みをする。
・・・だれを対象にして書くものかという感覚をもつように
する。

p48
ことに日本人には距離をもった読者に対する文章のセンスが
発達していないように思われる。
・・・相手によって言葉遣いを大きく変えなくてはならない
日本語の特性も原因の一つだが、とにかく、基本的文体の
感覚ができにくい。

・・・実際的文章についてはなるべく早い時期に標準的
文体をめいめいにもつ必要がある。

・・・かつては、漢文の素読のほかにも、文章を暗記する
ことが多かった。・・・暗記、暗誦をなにか古いと考える
傾向があるようだが、誤解である。

読書百遍、意おのずから通ず、・・・文体感覚を身につける
いちばんの早道である。・・・ノン・フィクション
よい文章を学んで文体の基本を固めるのが望ましい。

===>> 私自身にそういう文体感覚があるかどうかは
分かりませんが、小学校の高学年頃から高校まで、
詩吟をやっていたので、漢文の素読ということは
よくやっていた方でしょうし、暗誦も当然やっていました。
ですから、読書百遍ということも分かるのですが、
今一つ賛成できないこともあったんです。

高校の時、漢文の授業が大好きでした。
2年の時には、定年間近だったお爺ちゃん先生が、実に渋い
感じの授業で、漢詩漢文の時代背景やら作者の人物像などを
淡々と解説し、面白い授業だったので、他の教科は置いといて
も、漢文の予習復習を最優先でやっていました。

ところが、3年になると、漢文の授業が退屈で退屈で
たまらなくなったんです。
おそらくその先生は「読書百遍 意おのずから通ず」という
方針をもっていたのでしょう。
何度も何度も生徒に読ませるだけで、興味深い話が全く
なかったんです。

ある日、私はプッツンきてしまったんですね。
漢文の授業中にその先生に反旗を翻してしまったんです。
「こんなに面白くない、退屈な授業はない!」
手を挙げて、立ち上がり、みんなの前で先生を批判しちゃったんです。
それも、漢文の担当は教頭先生だったんです。
(今思い起こしただけでも ぞっとしますけどね・・笑)

教室の中は一瞬静まり返りました。氷ついたと言った方が
いいかもしれません。
しかし、その後、同級生のみんなから、賛成反対の様々な
意見が出て、議論になりました。
もう、どういう議論だったか忘れてしまいましたが、
その後の先生の授業の仕方は明らかに変わりました。

その経験からいえば、読書百遍・・というやり方は
生徒に興味を失わせることもあるので、工夫が必要だろう
ということです。
実際問題、百篇も読めませんからね。

p49
日本人の文章がまずいのは・・・・あるまとまりをもった
思想や考えをあらわすパラグラフ(段落)の構成がうまく
いかないためである。

日本語におけるパラグラフの構成は、はじめのところで
いわば捨て石を二つ三つ打ち、次第に問題を切り出して
いって、最後のところで一挙に決してしまう、というように
なっている。

文章構成の基本はまず、思考、思想の展開ということで、
・・・重要な点をはっきりさせて、・・論理的にたどって
行って、点を線にすること・・・・

p50
漫画家と科学者・・・それぞれの仕事が、要点をとらえ
不要をはぶき、論理的な考え方をどんどんすすめる思考の
原型をこしらえているために、文章を書くときにも、それが
助けになるからではないかと思われる。

段落の観念がはっきりしないから、文章に展開のおもしろさも
生まれない。

===>> この章あたりから、より具体的な文章の書き方
に関連する話が出て来ました。 著者がどのような文章が
日本人が文章の原型を形作る上で必要なのかを説いている
部分かと思います。

この後の章は「文の構造」「思考の組み立て」などと
続いていきます。
日本語教師という立場もあるので、非常に興味があります。
上記の範囲では、「思考、思想の展開」というのがポイント
かと思いますが、実際に文章を書くときに どこまで
それを意識して書いているかというと はなはだ心もとない
感じではありますねえ・・・・
お前には思想があるのか、なんて言われたら、「すみません」
って引っ込むしかないですね。

勉強させてもらいます。

その11に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その9 日本語が「暴言」を生み出す!?

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいるん
ですが、今回は<番外編>と言うか、脱線します。

まずこのニューズウィークのサイトの記事をご覧ください。
「日本/アメリカ新時代 by 冷泉彰彦氏

「日本語はどうして「暴言」に甘いのか?」
http://www.newsweekjapan.jp/reizei/2013/06/post-568.php

国連の委員会で、日本の人権人道担当大使が英語で「ご静粛に」
と言うつもりが表現力の不足のためか、公の席では普通は使わない
ような汚い表現をしたというニュースがありました。この問題に
関しては、色々な角度からの評論がされているようですが、私には
日本語では暴言に対するタブー意識が少ない」という問題がある
ように思われます。」

「日本語には言語自体に表現のインフレ化や、新奇な語彙を好む
傾向を抱えています。その背後には「非常に繊細なニュアンスの
共有」がある一方で、攻撃的あるいは露悪的な語彙による形容を
「向けられた」人は、密かに深く傷つくということが起きている

ように思います。

===>> なぜこの記事をここにアップしたかといいますと、
その6 のところで、こんな抜き書きをしたんです。

p31
俳句の文法は、こういう日本語の自由な表現性をもっとも
よく示している。
スペースの関係で、ここでは俳句の文法を詳説することは
できないが、名詞の性、数、格、動詞の人称、自制などに
がんじがらめにされているような言語を使っている人間では、
どんなに努力してみても決して、本当のところはわかるものではない。

禅の発想にも、ある程度似たことが言えるのではあるまいか。

p33
日本人は言語を使用しながら、ともすれば、伝達拒否の
姿勢をとりやすい
。 他人のちょっとした言葉にも
傷つく繊細さをもっていることもあって、自分の殻に
こもって内攻する。 
発散しない表現のエネルギーは
鬱積して・・・・爆発するのである。

===>> このお二人の日本語に対する洞察が事実だと
するならば、恐ろしいことだと思ったんです。

日本語表現の自由さがインフレーションを起こし、
そのこと自体が、日本語の発想自体が、他人を傷つける
原因になりうるという危険性をもっているとするならば
外国語教育においては 日本語的発想を余程規制するような
自制するような教育をしておかなければ グローバル化
の中で 日本人は、外交は、どんでもない失敗をする
リスクを抱えてしまうんじゃないかってことです。

そして、外国語と外国事情にトップランナーとして
仕事をしているはずの、それも人権人道担当大使という
立場の人ですら、そのような間違いを起こしてしまったと
いうのが、救いようのないような絶望感を覚えさせて
しまうんです。

冷泉彰彦氏は、さらに次のようにも述べています。

「こうした日本語の特質に起因する問題に加えて、もう1つ、
日本語には「上下の感覚」というものがあります。正義が「上」
で不正義が「下」であるとか、大使は「上」でそれ以外の人は「下」、
あるいは自国民は「上」で移民やその子孫は「下」だとか、何でも
上下の関係に結びつけてしまうのです。」

==>> これは事実だと、私も認めます。
恥ずかしながら、私にもそういう意識が過去にあったからです。
10年以上前に初めてフィリピンの駐在員だったころの私は
正にそうでした。
日本人と言うだけで、喩えて言うならば、宗主国の人間が
植民地の人間を馬鹿にしていたような、おそらくそれに近いような
意識が自分にあったんです。

そして、上下の感覚と言うことについては、
日本語自体が敬語によってかなりの部分がコントロールされて
いるという事情もあるのだと思います。
敬語を使う使わないというのは、ごく自然に相手との上下関係
を決めてしまっていると言う事です。
日本語にはそのような避けられない反射神経的な潜在的な
自己規制を伴う力があるように思います。

年下の相手から 「お早う」と言われただけで、日本人の年寄りは
「イラっ」と来てしまうわけです。
もうこれは、理屈を超えているんですね。

上の新聞記事に関して言えば、日本を代表する人権人道担当大使
という偉い方(皮肉ではありません)、国際的なトップクラスの
常識を持っている人ですら そのような間違いを起こしてしまう
ほどに危険きわまりない日本語ってことになってしまうんでしょうか。

  
どなたか、人助けだと思って、反論をください。 (笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

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「日本語の論理」 その8 日本語の二重性が邪魔をしている?

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 を読んでいます。

p41
「言語的二重性」

なぜ現代日本人には、文章感覚、言いかえると原型ができにくい
のか、ということになる。

原因の一つは・・・言語の二重性を負わされていることにありそうである。
話しことばと書きことばの論理が違う・・
書くのは漢文調の文章、話すのはやまとことば系のものという
二元的言語生活の歴史がつづいたことによるものであろう。

p42
外国では、講演したものが、ほとんどそのままの形で書物になり、
それが専門家の検討にもたえるものであるのが普通であるが、
わが国では講演速記をまとめた本は、・・・まるで別種の調子
をもっている。

階層的にも別の二重性が認められる。 いわゆる教育を受けた
知識階級と庶民とでは別々の日本語を書いている。
漢字や外来語を多く用いて難解な文章を書く知識人の言語と、
仮名を中心とした日常会話的スタイルで書く、たとえば
職人などの文章とは、互いにまるで別世界の文章のようである。

これは・・・言語的、発想的にも外国の影響を受けた層と、
その影響が直接には及ばなかった層とができたことに起因
するもので・・・・

三番目の二重性・・・
いまの日本人には外国語的発想と日本語的発想の二つが併立
しているという現象である。
外国語的語感が日本語の語感とは別に日常の言語生活に
作用するようになった。 ・・かなり重大な問題である。

p43
もっとも考えなくてはならないのが、子どもの読み物に
あらわれているこの二重性である
。 世界童話全集といった
・・・幼児期の言語感覚の発達にとって・・外国生まれの
童話
を不用意に与えるとどういうことになるのか・・・

===>> なるほど、4つの二重性ですか。
書き言葉と話言葉、知識階級と庶民の言葉(外国語の影響)、
外国語と日本語の語感、外国と日本の童話。

書き言葉というのが中国からきた漢字という話であるとすれば、
結局その他も外国語の影響ということになりそうですね

つまるところは、日本語と外国語の二重性ですか。
しかしねえ、そういうことならどこの国でも起こる話じゃ
ないんですかね?
島国だからどちらかと言えば起こりにくいって方が
強くないですか?
フィリピンなんかは、島国ですけど、スペイン語、英語、
中国語、日本語などが、元々の地元の多くの言語の上に
覆いかぶさっていますしねえ。二重どころじゃないんじゃ
ないかな。

大陸の国境を接する国々だったら、それこそ大変なことでしょうし。

だから日本語を書く原型ができていないって話になり
ますかね・・・・

それが原因だとすれば、話し言葉にも影響しているんじゃ
ないですか?
まあ、書き言葉、文章ほどではないにしても。
こどもの話し言葉の原型を その母親たちが作っている
というのであれば、外国語からの干渉っていうのは
そこにもかなり入っているように思うんですけど・・・
話しことばが和語かっていうと、?マークが付きそうに
思います。

p45
文章の基本をかためるべき作文の教育が自由勝手なことを
書かせているのも文章下手をつくる有力な原因
であると
思うが、これにはいまは触れない。

===>>  じぇじぇじぇ~~~!!
私は学校での作文教育こそが一番でかいと思っていたし、
著者も「有力な原因」だって言ってんだから、書いてくれよ~~。

p45
要するに多様さが仇になって文章感覚の原型が固まらない、
・・・基本的な日本語表現が何であるかがはっきりして
いないということである。
・・・標準的であるというような文体もはっきりして
いなければ、これこそ名文というものもはっきりして
いない。 

===>> いろいろと現状の「はっきりしていない」ところを
リストアップするのはいいと思うんですけど、この著者は
どういうものが日本語表現の基本であるべきかという
具体的な文例を提示してくれないんですよねえ。
私はそれが読みたいのに・・・・あとから出てくるのかな。

その9に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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