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2013年7月 6日 (土)

日本語の論理ー言語と思考」を読む その4 高尚な漢学vs実学英語

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「言語と思考」を読んでいます。

p150
高い文化的関心をもつ語学はラングからパロールへ向かうのでは
なく、逆にメタ・ラングへと昇華していく。 メタ・ラングには
本国人よりも外国人の方が近道をとることができる。
語学の学問的研究などにおいても、外国人の方が有利であることが
少なくない。

p151
むしろ、実用を放棄して、思考の手段としてのみ考えた外国語
の意義が注目されてよいのではあるまいか。

===>> パロールというのは母国語を話す人たちのレベルの
ひとつひとつの単語に地元の概念が滲み込んだニュアンスのある
言葉ってことですね。 外国語を学ぶ場合は それがないから
ラングというレベルから勉強する。 さらにそれを超越して
外国語を数学のように記号化して論理思考をするところまで
のぼったところがメタ・ラングってことでしょうか。

だから、英語を勉強する時に、アメリカ人みたいにとか、
イギリス人みたいにとか、そういうパロールのレベルの英語を
めざす必要はないでしょ、ってことですね。

それよりも、せっかく外国語を学ぶんなら、よりレベルの高い
高尚な文化的な、形而上学的な外国語をめざしたらど~~お
ってことですね。

p151
言葉そのものがおもしろく感じられるのもこの形而上化された
言語である。 文学の言葉などもこの中に含まれる。

語学が真に文化の創造に参与できるのは、実学から脱出した
いわば虚学としての語学へ達した段階においてである。

p152
漢学はそれ自体すぐれた多くの学問的業績を生んだばかりで
なく、日本文化の原動力として、日本人の精神構造に深遠な
影響を及ぼした。

西欧の諸国においても、ギリシャ語やラテン語による、ほぼ
似たような古典学の伝統がある。

先進国では会話や通信という実用のためだけに教育の中で
外国語が課されるということはすくなくなっている。

哲学としての語学は当然、読書が中心になる。

いたずらに、実用の語学のみに世人の関心が集まって
いるのは、理解に苦しむところである。

p154
日本人の国民性がどのようなものに展開していくかは、
語学がどのような学問になって行くのかに左右されるところが
大きいと思われる。

===>> はい、言っていることは一応理解はできるんですけど。
じゃあ、具体的にどんな英学なのかってところがイメージできないんですよねえ・・・・

もし漢詩漢文を勉強したときのようなものがそれだよ、って
言われれば、私が小学校の高学年から高校時代までにやっていた
ような、ひとつひとつの語句の意味を確かめながら
高尚な漢詩漢文の意味や、その作者の人生などを教えて
もらったことなどがイメージされるわけですね。
そういう英語って、教える先生が相当な知識がないと無理ですね。

そうだとするならば、確かにいままで私が実学として
学んできた英語は まったくそれとは違いますね。
会計英語であり、半導体英語であり、ビジネス文書英語ですもんね。

もしこの解釈が的外れでないとすれば、著者が言いたいところは
なんとなく分かるような気がします。

でも、哲学の英語とか、古典文学の英語って、そりゃあもう
大変なんすから・・・・・
それがアカデミックって呼ばれるのかな??

次回からは「外国語の学習と思考」に移ります

 

 

 

 

 

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「日本語の論理ー言語と思考」を読む その3 レ点を付けて英語を読む???

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「言語と思考」を読んでいます。

p147
かりに、外国語に習熟していても母国語の知識の乏しい人間には
翻訳は困難である。

明治のはじめ、英語にも漢文と同じように訓点をつけて読もうとしたが
成功しなかった。

日本人にとって、英語のもっとも困難を覚えるような部分から帰納して、
解釈上の公式をこしらえた。これが英文解釈法である。

その英文解釈法が、現在はせいぜい受験参考書のための便法的
なものくらいにしか考えられていないのは惜しむべきである。

==>> 私もたまに翻訳をやることがありますが、ここに
言われている通りで、日本語の語彙力の乏しさには泣いています。
現役の時には、英文経理を通じて会計用語を覚え、半導体の先駆的
会社だということでそれまでにはなかった業界用語など、いわゆる
ビジネス英語を中心に英語力をつけてきたので、文学やら芸術系の
英語には全く歯が立ちません。

しかし上に書いてある「英語に訓点」というのは驚きました。
昔は詩吟をやっていたこともあって漢文が好きになり、漢詩・漢文を
あちこち飛びながら順番を変えて読むというやりかたは
面白いなと思ったものです。
それを英語でやるっていうのもなんだか面白そうですね。
でも、なぜ失敗してしまったんでしょうか。

確かに昔も受験英語では「英文解釈」って本がたくさんあったと
思います。 英文和訳はセンテンスの後ろからやれとかね。

意味を読み取っていくということで言えば、そのルールが
分かっていれば都合がいいわけですよね。
ただ、この本にあるように、それでは会話には役立たない。

どういう構文で作文をすればよいかってことが訓練できて
いないと自分の考えを発信することは出来ないと言うことだと
思います。

その構文をスタイルを理解するには読書百篇ってことになるのでしょうか。

私が日本語を教える際にも、そういう進め方で教えるように
努力しています。
まずはしっかりした構文をつかった文章を読めるようになること。
そして、その後に、その構文を使って作文ができること。
そのあと、徐々に構文を崩して会話へ進む。

始めから日本語会話だけを習いたいというお客さんもいますけどね。
書くことすら嫌だとかね。

生徒の中には、読み書きは全然だめなのに、なぜか口頭での
やりとりだけは調子よくやれるっていう人がたまにいるのが
いささか信じられないんですけど・・・・
もちろん挨拶程度のことですけどね。

その4へ続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年7月 5日 (金)

「日本語の論理ー言語と思考」を読む その2 母国語より外国語の方が論理的思考ができる

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「言語と思考」を読んでいます。

p142
思考がすべて言語を通じて行われるのではないが、大部分の思考は
言語によって規制される。

==>> じぇじぇじぇ・・・そうだったんですか。
思考はすべて言語に基づくものだと思っていました。

言葉によらない思考ってのはどんなものなんでしょうか?

p142
外国語はラングから覚え始めるという事情からして、もともと
超現実的性格をもっている。 不必要な連想もないので、純粋な
思考の手段として、母国語よりも適切である。

外国語の知識、能力についての個人差は母国語とは比較にならない
ほどに大きな幅をもっている。

どの外国語をやったかがその人の青春を決定するという言葉が
あるが、青春だけではなく、その人の一生の思考パターン
きまってしまうのである。

===>> 「超現実的性格」というところは、今一つ
納得はできません。 外国語であっても単語のひとつひとつの
意味を日本語で考えてしまって、その日本語に抱いている
イメージを連想してしまうもんだろうと思うからです。

例えば英和辞書をひくのはそのためですよね。

外国語に関する個人差というのは私の経験からもはっきり分かります。
過去10年ほど日本語を教えてきた経験から言えば、
定期試験などをやってみると100点満点で平均点が50点前後だとして、
80点以上、20点以下という学習者はそれぞれ1割ぐらいに
なります。
そして、日本語の入門コースの最初のテストで70点以上ぐらいは
とれないと、その後しだいに難しくなっていく学習について
いけなくなります。

興味深いことには、理数系に強い学部などで勉強してきた人の
方が概して日本語の成績は良いという印象があります。
これは著者が言っているように、「純粋な思考」の訓練が数学
などのようなロジックで鍛えられているからかもしれません。

p143
能率的な思考いは、なるべく抽象度の高い、無色透明な記号が
便利である。 もっとも高度に抽象された記号を用いる数学
人間の文化のうちに最高の思考体系を誇っているのは故なし
としない。

物事によってものを考えることも出来ないことはないが、
複雑な、あるいは高度の思考を得るにはたいへんな労力を
要する。

===>>  ここの「物事によってものを考える」ってのが
なんともイメージできないんですよねえ。
もしかして、漠然とした思いのようなことを言っているので
しょうか。 頭の中でまとめきれないような、言葉に表し
にくいもやもやとした思い?
しかし、それが思考と言えるのかが私には分からないですね。
言葉以前、思考以前の状態じゃないのか・・・・

p144
メタ・ラングとしての外国語は、・・・それによって合理的な
思考を進めることが、母国語よりも容易である。
極論するならば、この場合、外国語自体に対する理解の深さ
ということは問題にならない。

数学で・・・公理や定理といった法則が必要であるのと同じ
ように、メタ・ラングとしての外国語による思考においても、
体系と法則をもっていることが重要
になってくる。

===>> 要するに、母国語よりも外国語の方が、より数学的
論理思考に近いってことですね。
そして、その為には、法則、つまりは文法が必要ってことか??
そこで、さて、日本語の文法は何かってことになりそうですね。

「外国語自体に対する理解の深さ」は問題にならないってことは
いささかびっくりですが、もしそうであるのならば論理的思考
ができる人にとっては嬉しい話ですね。
英語の単語ひとつひとつにつきまとう意味をその文化的背景まで
ふくめて知識がないと外国語に堪能だとはいえないというような
潜在的な意識がありますからね。
そこは仮に英語だったとしても、英語は世界中のいろんな国で
使われているわけだから、あるひとつの単語でもその土地によって
意味合いは微妙に異なるものでしょうから、バイリンガルだと
しても乗り越えられない壁ではあると思うんですが・・・

p145
思考の手段として言語を考えるならば、会話などははじめは
無視して、もっぱら文法と語義を教えるという語学も案外、
合理的
であるかもしれない。

文法から学習をはじめるドイツ語が、思考性という点においては、
初歩で比較的多く口頭の訓練を行う英語にまさることがあるのは、
興味深い問題である。

===>> なるほど。 英語は会話中心に教えることが
入門コースでは多いようだけど、ドイツ語の場合はそうじゃない
ってことのようですね。
そういう意味では、英語はドイツ語よりも論理思考的では
ないってことになりそうですね。

日本語を教えている時にも感じることですが、
入門コースの日本語に会話が多いと、教えにくいのは確かです
丸ごと暗記をするような教え方にならざるを得ませんからね。
私の場合は、どちらかと言えば、いきなり会話会話したものでは
なく、かなり会話としてはぎこちないけど構文がきっちりしたもの、
つまり書き言葉的文章から教えるようにしています。
上の言い方でいうならば、文法・法則がはっきり分かるような文章で
教えていくということです。
国文法みたいに文法用語を教えるってことではないですけどね。

日本語の会話には、ほとんどと言っていいほど、ルールみたいな
ものはありませんからねえ。
英語で説明しろっていわれても無理ですよ。

その3に続く

 

 

 

 

 

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2013年7月 2日 (火)

「日本語の論理ー言語と思考」を読む その1 虚の世界に遊べって言われても・・

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「言語と思考」を読んでいます。

p132
近年、役に立つ語学を求める社会の声がつよくなっている。

p133
明治の語学は、英、独、仏を問わず、根本においては実際的効用
の大きな実学であった。

実学としての語学は、文化的にいわゆる後進国的社会において
はじまる。

==>> この本が書かれたのは1987年ですから、今のグローバル化
が叫ばれる時代とは少し事情は異なるのでしょうね。
昔は学ぶための、「得る」ための外国語であったけれども、今は「売る」
ための英語
になった。

p134
もう二十数年前のことになるが、実業家の団体から学校の語学
教育い対して、もっと役に立つ語学を教えてほしいという注文が
出された。 日本人の語学は読むばかりで、書いたり、会話が
まるでできない。

p135
依然として、実学としての語学だけを肯定していることは
従来と変わりがない。

語学の専門家たちが実業界の意向に全面的に賛成してしまったのも
不思議といえば不思議である。

==>> この本が書かれた二十数年前ってことは、60年代前半
ってことですね。私が中学校で英語を学び始めたころです。
その頃にもっと英会話をって話があったわけです。
そして、それは一定程度は成功したと著者は書いている。

でも、未だに日本人はアジアの中でビジネス英語に関しては
台湾の次に下から2番目に下手なんだそうです。
フィリピンはこの点ではアメリカやイギリスを抜いて
世界1のビジネス英語力があるそうです。

ただ、著者は、実学じゃなくてもっと文化的な外国語力と
いうことを語っているんですね。

p136
役に立つ語学はどうしても、思考性を犠牲にしがちである
・・・大学における語学がたんなる実用語学では不充分で
あることは明らかである。

==>> この本は、「日本語の論理」を問題にしている本ですし、
論理性、つまりは思考性ってのが大事だと著者はいいたい
わけです。 その点から言っても、外国語が単に実用性
だけでいいのか、って話なのでしょう。
実際問題、高いレベルの話ではありますが、外交官の英語が
ハシタナイ英語でいいのかとか、日本のトップの政治家の
英語に高い文化性、哲学性がなくても国として恥かしく
ないのか、ってな話にもなるのでしょうね。

それに、国語力を付けなければ、内容の無い英会話になってしまうとの議論も根強い。

p136
母国語と外国語とを同一視することには疑問がある。
まず、外国語は意識的学習を要する点で、幼児の言葉と違い、「不自然」である。

p137
現実のものごとをあらわすために言葉がある。
・・・パロール(活用言語)とラング(知識言語)がある。
パロールの組織化、体系化されたものがラングである。
このラングをさらに抽象化したのが観念の体系である。
芸術、学問、思想などの文化がすべてここに集約されている。

p140
外国語の言葉は裏付けとなるべき事象との関係が希薄で
あるため、記号性がつよく、観念的である。 質量化して
いないから、言葉はより純粋な象徴性をもっているということも
できる。

数学はIIIの上部言語の極限にあるものだということができよう。
詩人の言葉は案外、数学と似た性格をもっていることに
気付くのである。

===>>  なるほど。 母国語というのは、あまりにも
具象的なイメージと密接に結び付きすぎているから、
そこで持たれてしまった観念に自由度がなくなってしまって、
純粋に観念的、抽象的な、数学的な論理の運用には
かえって不向きになっているっていうんですねえ。

p141
こういう効用に注目するならば、同じ外国語を読むにしても、
・・・・文学作品や思想的書物などの方が秀れていることが
納得されるであろう。

常識的で低次な現実の力があまりにも強いときには、虚の世界
へ遊ぶことが文化的創造である。

===>> いや~~、おっしゃることはもっともに
聞こえるんですが、実際問題としては、学習方法も含めて
むちゃくちゃ難しいですねえ。

何故かって言うと、私の経験的なことから考えると、
概念ってのはどうしても最終的に経験的であるしかないと
思うんです。
ある英語の言葉がある、それをどうしてもそれに相当する日本語
の概念で置き換える、だから英語のニュアンスってのは
分からない、もどかしさが残る。

若い時に哲学書のようなものを英語で読んだこともありますけど、
ひとつひとつ辞書を引き、哲学用語辞典でその概念を理解する
という作業は大変でした。
ましてや、シェークスピアなんてのはお手上げそのもの。

バックグラウンドもないのに、英語の古典を理解しろってのは
はっきり言って私には無理です。
仮に読めたとしても、それは日本語的概念での理解でしょう。

ただ、こういう考え方は、日本語を教える立場で考えてみると
なかなか示唆に富むものではありますね。
おそらく、語学能力が高いというのは そのような能力に
優れているってことなのでしょう。 虚に遊ぶ能力。

その2に続く

 

 

 

 

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2013年6月30日 (日)

只今 下宿屋 改装中 ・・・・ フィリピン・バギオ アパート募集中

いよいよ、我が下宿の一棟が 半分に分割されまして、万里の長城で仕切られました。

0001

テレビの後ろにトイレが二つありまして・・・・

左のトイレはお隣さんの領地、右のトイレは我が領地ということになるんであります。

0002

・・で、正面のドアがお隣さんへのドア、 右のドアはお隣さんのトイレってことでがす。

じゃによって、 こちら側に壁を作るってすんぽうです。

0003

・・で、この通り、ベニア板でふさがれてしまいました。

右にちょっと見えているのが私の側のトイレ。

・・・ってことで、締切になりました。

002

そして、玄関口は網戸があって、このように開いていたんですけど・・・

001

このように ドアが取り付けられまして、

一棟の下宿屋の内部が二つに区切られて、それぞれ独立のアパートに変身したってことですなあ・・・

この前は こうだったんです・・・・

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/06/post-16e9.html

 

 

 

 

 

 

 

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ややこしい日本語-5 「お越しになりませんか」ってどういう意味?

日本語教師症候群の発作が またまた起きまして・・・・

「お越しになりませんか」という言い方を聞いて、ふと変な言葉だな
と思ってしまったんです。

「越す」という動詞から「お越し」+「になりませんか」となるわけ
ですよね。

例えば、

お食べになりませんか。
食べる、食べます、食べています、

お写しになりませんか。。。
写す、 写します、 写しています、

お越しになりませんか。。。
越す、 越します、 越しています、

つまり、「お」+動詞の「ます形」+「に」+「なりませんか」
というのがパターンになって尊敬を表すわけですよね。

・・でも、何が変だと感じるのかを考えてみたんです。

「お越しになりませんか」というのは、「いらっしゃいませんか」
という言い方と同じですよね。

・・ってことは、「越す」=「来る」っていう意味なのか?
と思ったんです。 それが変な感じがしたんです。

そこで、国語辞典を引いてみました:

<越す>(自五)
1. 上を過ぎて行く。 「飛行機が山を越す」
2. 山場(絶頂)を過ぎる
3. 経過する。「期限を越す」
4. 引っ越す、うつる。
==>> お越し

・・・少なくともここには「来る」というような意味は無い
しかし、なぜか最後に「お越し」ってのが書いてあるんですねえ。

さらに国語辞典を引きました:

<御越し>
(名)「行くこと、来ること」の尊敬語。
「おいで」よりも尊敬の気持ちが強い。
「またの御越しをお待ちしております。」

・・・じぇじぇじぇ、なんと「お越し」は動詞「越す」が活用した
もんじゃあなかった・・・
異なる意味を持つ 名詞だった!!!

だから、「お食べになりませんか」や「お写しになりませんか」とは
元々構造が違うってことなんだ。

しか~~し、同じような議論がここにありました。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1111796366
「つまり「お越しください。」の「越し」は動詞の連用形ということです。
終止形は何か、言うまでもなく「越す」です。この「越す」は、移動する・
行く・来るの意です。
「お越しください」「お越しになる」は、尊敬語一般形「お~ください」
「お~になる」に動詞「越す」の連用形を当てはめた形ととっても、それぞれ
一つの尊敬語であるとっても、どちらでもかまいません。

・・・・ここでは、「来る」という意味があると書いてありますね。
それなら納得なんですけど、「越す」に「来る」という意味が本当に
あるんかいな??

さらにインターネットの国語辞典で調べると、
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/79181/m0u/

やっぱり普通には「来る」という意味はなくて、
「おこし」という特殊な形の場合のみに「来る」の尊敬語という
扱いになっていますねえ。

まあ上の説明で「どちらでもかまいません」と書いてあるのは
妥当な線なんでしょうけど、今一つはっきりしないなあ・・・・・

ちなみに、

食べる - 食べています - 食べてください
写す - 写しています - 写してください

越す - 越しています ー 越してください

「食べてください」「写してください」はOKですけど、
やっぱり「越してください」はどう考えても「来てください」ですよね。

「御越し」を名詞として扱うという苦肉の説明が妥当だということですかね。

…日本語って ほんと~~~~に ややこしいですね。

 

 

 

 

 

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