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2013年7月31日 (水)

フィリピン式 気の利かせ方・・・・?? お持ち帰りですか?・・って

バギオ・シネマテックで日本映画祭を見るまでにちょっと時間があったんです。

お昼だったしね。

それで、シネマテックの近くのホテル内のカフェに行ったんです。

「ビールとメニューちょうだい」

注文した料理が出てくるまで時間がかかりますからね、とりあえずビール。

・・で、

「ベジタリアン・オムレツ と トースト お願い。」

まあ、メニューの中で それが別々に書いてありましたからね、

オムレツだけじゃあお昼には軽過ぎるって思って頼んだんです。

すると、ウエイターの若いお兄ちゃんが・・・

「お持ち帰りですか?」

って聞くんです。

「・・・・・・?」

私はテーブルでビールを飲んでいるんです。

待っているんです。

「私・・・ここに居るんですけど。 ここで食べるためにいるんですけど・・・」

・・・なんで、「お持ち帰り」なんて言葉が出てくるのかが分らない。

ビールを飲みながら待っていると、トーストが出てきました。

トースト、半分に3角形に切られたものが6枚載っていました。

ビールを飲みながら トーストにバターを付けながら食べていました。

すると・・・・・

お皿に丸いお山になった ご飯が出てきたんです・・・

・・・???

こんなの頼んだっけ?

そして続いて、ベジタリアン・オムレツなるものが出てきました。

もちろんオムレツはあります。

そして・・・・おまけに・・・三角形のパンが4枚ものっているじゃあないですか

001

食べてから撮影したんですけどね。

最初は三角形が10枚あったんです。

それにご飯まで・・・・

日本人なら なにか一言いいたくなりますよねえ~~。

「オムレツには ご飯が付いていますけど。

それに 食パンも2枚分がついているんですけど、

オムレツと トーストの両方を ご注文になりますか?」

・・・これぐらいのことは 言いますよね? 日本なら・・・

まあ、ここはフィリピンですからね。

日本の常識が通用するなんてことを考えるのが大間違いなんですね。

ここはホテルのカフェですから、

基本的に注文は一人単位での対応だとは思うんですけど、

普通のフィリピン・レストランだと いわゆる「お一人様」という感じでは

なくて、「グループ様」の皿が出てくるんです。

何人かで一緒に行って食べるってのが普通みたいなんですね。

・・しかし、オムレツを頼んだら、ご飯とパンが付いてくるってのが

どうしても理解できないなあ。

普通は どっちかでしょう。

「オムレツは、パンになさいますか? ご飯になさいますか?」

って聞きませんかね?

・・・・ん?

あの 「お持ち帰りになりますか?」

って質問は もしかして これだったのか?

「あんた、トーストとオムレツの二つを注文しているけど、

それって パンが重複するし、ご飯もあるでよ。

家に持って帰って 誰かと一緒にたべるんかな?」

・・・って意味だったの??

 

 

 

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複雑な日本語だけど・・・・・表音文字と表意文字 韓国の場合

こんなサイトの記事がありました。
抜き書き引用しています:

「世界一優れた文字を守れ」ハングル至上主義で漢字を忘れた韓国人は「大韓民國」が書けない
http://news.nifty.com/cs/magazine/detail/sapio-20130725-01/2.htm

1970年の春、韓国は学校で漢字を教えることをやめた。私の世代以降は
“ハングル専用世代”となり、50年近く経った今日では約8割の国民が
ハングルしか読めなくなってしまった。

韓国語の語彙は漢字由来の「漢字語」が約7割を占める。それを表音文字である
ハングルだけで表わすのだから、日本語を平仮名だけで書くようなものだ。

ハングルではそうはいかない。意味が分かりづらいものを簡単な言い回しに
言い換えることもある
(日本語で譬えると「腐心する→もんだいをかいけつ
するためにがんばる」といった具合)。

漢字語がたくさん出てくると意味不明な言葉の羅列に見えるが、ハングル専用世代は
そこを読み飛ばす。残りの文脈でなんとなく理解した気になるのである。

文化の断絶である。古典や史料がどんどん読めなくなり、大学の研究者たちでさえ
60年代に自らの指導教授が書いた論文を読むことができないのだから、問題の根は
とても深い。

以上引用です。

私は韓国語は出来ませんので実感としては分かりませんが、
日本語教師をしていたり、翻訳をしたりしていると、おおよその
見当、推測はできます。

私が40年ほど前、つまり1970年代の始めころ、に働いていた米系の穀物の
商社では、ソウルに関連企業がありまして、そこで働く同僚の韓国人女性から
年賀状なんぞをもらったりしていたんですけど、その頃はまだ漢字がたくさん
混じった文章だったのを覚えています。
そのころに漢字を教えることを止めたんですね。

日本語の場合は漢字由来の漢字語って何割なんでしょうね。
7割を占める漢字語を表音文字で書いてしまうって、むちゃくちゃ度胸の
いることじゃないですか。

「こうしょう」という言葉には同音異義語が45もあるそうですよ。
(「大辞林 第二版」によると、全部で 45 個の「こうしょう」がある。)
http://www.sf.airnet.ne.jp/ts/language/homophone.html

日本語関連の本をいろいろ読んでみると、日本人の頭の中は
音ではなく漢字のイメージ、画像で日本語を理解しているそうですから
そりゃあ大変なことですよね。

漢字の意味を簡単な言い回しで言い換えるってことは、
日本語を教える場合に私も使っている方法です。

例えば、「県庁の所在地はxxxxです。」などと言う場合の
「所在地」をどう教えるかっていうと、

「県の役所が 在る所の土地は xxxxです。」
などと漢字を分解していくわけです。

別の言い方をするならば、漢語を和語で置き換えていく作業を
して漢字の意味をやさしく教えつつ、漢字も覚えるというやり方ですね。

日本語はそうでなくても文脈で理解するしかない文章が多いと
思うんですが、その上に 漢字語が全部ひらがなみたいな表音文字に
置き換わってしまったら 本当に訳のわからない言語になって
しまうでしょうね。

昔の漢字や仮名遣いは、音の変化や、表記法の変化などもあって大変難しいと
思うんです。

「をはり」ってなんのことだか分かりますか?

今日 日本映画祭ってのにバギオ・シネマテックで参加してきたんですけどね。
上映されたのが「日本アニメ・クラシック」だったんです。
戦前の日本のアニメが上映されたんです。

そのアニメの最後に「ヲハリ」って出たんです。
はい、「おわり」「終」のことです。

仮名だけでもこんな具合ですからねえ。
ここに漢字語がすべてひらがなになってしまったら、そりゃあ
自国の文化の伝統や歴史を理解できる人たちが激減して、
国の文化芸術が大きなダメージを受けることは簡単に想像できますよね。

卑近な例で言えば、翻訳だってそうです。
日本の戸籍の翻訳をしようと思ったら、例えば80年前の戸籍謄本
なんかを英訳しようなんてことになったらむちゃくちゃ大変ですよ。
漢字が読めなくなったら、本当に極々一部の少数の専門家だけが
翻訳するって商売になっちゃうんでしょうねえ。

もっとも、そんなもんはコンピューターでデータベースを持っておけば
いいだろう・・って話もあるでしょうけど。

 

 

 

 

 

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2013年7月29日 (月)

「日本語の論理 - 外国語の学習と思考」を読む その2 古典的学習法

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「外国語の学習と思考」を
読んでいます。

p159
外国語は思考の方法の言葉としては、母国語と数学の中間に位する
と言えよう。

母国語は感覚的、情緒的であるが、外国語ではそういう要素は
欠如して、概念的、理念的性格があらわになる。

外国語では意味はわかっても感じがつかめないことが多い。
しかし、思考の媒体として見るとき、この外国語学習の泣き所が
かえって長所になりうる。

===>> ふむふむ。 かなり良いことっていうか、私にとっては
都合のよいことを言ってくれてますね。

過去十年ばかり日本語を教えてきて感じたことですが、
数学系の勉強をしている大学生は 日本語の習熟が早いです。
要するに著者がいうように、概念的、理念的思考が出来るという
強みを持っているってことなんでしょうね。

ニュアンスが掴めないことが いつまで経っても英語がうまくならない
理由であるように考えてしまうんですが、これはもう仕方のない
ことだとして吹っ切ることが許されるってのは気が楽になります。

純粋な思考がその分可能になっていると思えばいいわけですね。

p160
詩人が言語と格闘するのも、(母国語の)慣用によって
言葉にこびりついているものをもぎ取る
苦しみである。

p161
思考に役に立つのは、かえって旧式な方法で学習された外国語
である。 文法と辞書を武器に攻める外国語ではニュアンスは
とらえられず、どうしても観念的になる。

ここに実用をはなれた外国語学習の効用がある。

===>> ここで著者は、外国語教育で使われる手法である
オーラル・アプローチ、口頭練習法との比較で 従来型の
学習方法の効用を述べているんですが、日本語教師の立場から
もうひとつひっかかるのは、学校教育で使われている
翻訳式、つまり間接法、と直接法の違いの部分が気になりますね。

間接法であればこの英単語はこういう意味だよっていう
著者の言うところの「俳句における季語」みたいな
その人にとってのあるイメージを日本語で持つことになるんじゃ
ないかって思うんですけどね。
翻訳式だから 或る程度意味ははっきりする。

その点、直接法は まさにもやもやとした理解になるんですよねえ。
オーラル・アプローチを直接法という意味で著者が書いているので
あれば、私は今一つ納得できない部分はあるんです。

言葉の意味、概念ってのは、所詮その個人が持っている
体験からくるという考えが私の中にはあるのが 納得できない
根底にあると思うんですけど。

p162
人間形成のための古典教育と言うが、要するに、母国語を知っている
だけでは、思考には不充分
で、死語を学ぶ不自然な営みを通じて
得られる知的効果が古典語教育をあれほど永続きさせた秘密で
あろうと思われる。

===>> ほお~~、なるほどねえ。
日本でいうならば、古文、漢文の類ですね。
わたしは古文はめっちゃ苦手でしたけど、漢文は大好きでしたよ。
ちなみに英文学の古典は さっぱりでした。
おそらく漢文ならば漢字のもっているイメージがあってなんとなく
理解できるけど、 ひらがなばっかりだったり アルファベット
ばっかりだったりの 表音文字のオンパレードに 私は弱いって
ことなんでしょうね。

つまり、意味をもたない記号が並んでいるものには弱い。
よって数学には弱い・・・ってことか。(笑)

代数には弱いけど、幾何は大好きということにもなんとなく
通じているような気がします。

p163
ある批評家が、英、独、仏のどれを主たる外国語としてやったかに
よって、その人の青春が決定される
、という意味のことを言っている。
思考のパターンがいかに大きく外国語に左右されるかという証拠である。

母国語との差を容認しないような外国語で「考える」のを
<Thinking in English>などと洒落ることもあるが、
その思考はAタイプとしても低次なもので、わざわざ外国語を
わずらわすまでもなく、母国語でりっぱにできることなのである。

==>> つまり著者は、母国語とおなじような思考方法で
外国語をぺらぺらしゃべっても それはつまらないじゃないか
って言っているわけなんですね。
別の思考法でより論理的な思考ができた方が面白いし、
意味があるじゃないかってこと。

しかしですよ・・・・なんかちょっと違うんじゃないかって
感じるんですよねえ。
英、独、仏のそれぞれの言語に 思考のパターンの違いがあるって
ことは、外国語一般といういみでの共通の論理的思考のパターンは
ないってことじゃないですか?

それって論理的なんですかね?
それぞれの言語に 意味論的に 既に垢がついているってことに
なりませんか?

私は英語しかできませんけど、確かに日本語の時と違って
別人格になったように感じることがありますからね。

複数の外国語を使える方は どうなんでしょうね?
外国語の数だけ 別人格になったりするんでしょうか?

その3に続く

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