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2013年8月31日 (土)

女よりも オカマちゃんがいいみたい・・・・それぞれの相性

うちの下宿のヘルパーさん。 まあ、メイドですね。
料理担当のメイドさんが新しく来たんですけど・・・

私が雇っているんじゃなくて、大家さんが母屋で使っているんです。
私は三食 母屋のキッチンに食べに行くわけ。

もう2~3週間になりますかね?
その新しいメイドさんが来たんです。

最初紹介されたときには、「あれっ」と思ったんです
女なんだか男なんだかはっきり分からなかったんです。

女にしては背が高くて男っぽいし、男にしては顔が女っぽくて動作も
女っぽい。

紹介するときに、大家さんが笑っていたんです
だから、もしかしてそうなのかな・・・とも思ったんです。

過去に何人も替わったヘルパーさんたちはすべて女性でしたからね。
今どきは、地元の若い人たちにはメイドのなり手がなくて
かなり遠くから親戚、知人などの紹介でもないと探すのが難しいそうなんです。

フィリピンの服装は Tシャツにジーンズってのが言わば標準服みたいな
感じなんです。だから服装だけでは男か女かは分からない。
もちろん同じ格好でも男女のちょっとした違いはありますよ。
でも、それは、体型やら髪型やら所作なんかで簡単に判断できるもんなんでしょうね。

何日か経ったころ、馴れてきたんでしょうね。
その新人メイドが鼻歌なんかを歌っている
過去にもそういう若いメイドがいなかったわけじゃないですけどね。

そして、朝の挨拶なんかもする。
これは、過去のメイドにはあまりなかったと思うんです。

そして、極めつけは 流し目でした。(笑)

大家さんちは、90歳を超えたお婆ちゃんがいまして。
戦前は、ターラック州のある村の村長さんの娘という出だったんです。
お爺ちゃんは既に亡くなったものの、昔の副警察署長で、息子の一人は
元市議会議員、大統領に指名される立場の某政府機関の局長でもあった、
いわば名門の家の奥様だったわけで。
つまり、使用人を使うということにかけてはプロってことですかね。

しかし、このお婆ちゃん、自分で何やら仕事を探しては一日中動いて
回ると言う方でして。 それが元気の秘密ではあるんでしょうけど、
最近は身体が思うようにならなくなった分、口の方がますます達者という
ことのようで・・・

過去何人ものメイドとうまくいかなくなってきて、お婆ちゃんの娘である
大家さんも音を上げていたんです。

そこへ、この性別不明のメイドさん登場ってわけですねえ。

今回の新人は、随分前にお婆ちゃんと喧嘩してやめさせられたメイドの
紹介だとかで・・・

しか~~し、これがなんと今までのところ、実に順調なんだとか。

大家さんの話によれば、
過去の女性たちはなにやかにやとお婆ちゃんと衝突があったらしいん
ですが、このオカマちゃんメイド、お婆ちゃんとの お喋り言葉が
普通の女性みたいに刺々しくなく、実にフェミニンなんだとか。

それに、早朝に起きてしまうお婆ちゃんが ネグリジェ姿で
朝ごはんを食べていたところ、オカマちゃんとの話が盛り上がったらしく、
「私の古い服でよかったら あなたに上げるわよ・・・」
ってな話になっちまったらしい・・・(驚愕!笑)

ある朝、
ご飯を食べようと母屋に行こうとしたら、そこに すらりとした生足が・・・

じぇじぇじぇじぇじぇ!!
ワンピースというのか、長い上着というのか、その下にいきなり
足が出ている・・・・・

後で、その上着を取ったところをみたら、Tシャツに短いジーパン
だったんですけどね。

大家さんいわく、あれはお婆ちゃんからもらった服なのよ・・・・

女性メイドでは務まらないお婆ちゃんとの生活。
そこに 救世主のごとく現れたオカマちゃん。

まさに、世界の、生物の、人間の多様性が産んだ 調和とでも申しましょうか。
めでたし目出度し。

・・・でも、いつまで続くこの平和。

 

 

 

   

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2013年8月29日 (木)

「日本語の論理ー映像と言語」を読む : その1 ウソは文化である

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「映像と言語」を
読んでいます。

p230
言葉とはこれほど複雑、難解なものであったかという反省である。
・・・文法の本質についての意見はわかれるにしても、とにも
かくにも、文法の存在を疑う人はないと言ってよい。

p231
映像にも意味はあるが、その意味がいかにして生じているのか
言葉における単語の意味についての議論ほどのこともできないのである。

映像を第二の言語としてのみとらえるアプローチを警戒しなくては
ならないのである。

p232
言語には、それがあらわしているものごととの関係を希薄にして、
一般的になろうとする一面がある。
・・・抽象的な言語が、実体とは離れて、独自の表現効果をもつ
ようになる。 

p233
「抽象のハシゴを降りろ」と一般意味論は要求する
言葉は抽象度が高まるにつれて、・・・誤解の偏差も大きくなる

p234
抽象のハシゴを降りて来て、・・・ここで、映像のもつ具体性
いかにも魅力のあるものとして登場する。

具体的な次元に立てば立つほど正確な伝達が行われるという
信仰があるわけで、これが言語の不正確な使用への警鐘として
果たした役割はきわめて大きい・・・・

しかしこの考えを徹底させると、・・・一対一の対応の言語
なってしまい、また新しい混乱がおこるのである。

==>> 「映像と言語」という章のタイトルをみて、
なんだろう・・と思ったんですが、意味論だったんですね。

確かに、言葉は物事を抽象化して伝達手段としての広がりを
持っているけれども、抽象化が進むと誤解を生みやすくなる。
話し手と聞き手の間の理解が まったく異なったものになる。

だから、誤解を生まないように話すには、出来るだけ具体的な
話にした方がいい。 でも、具体性をつきつめていくと
話し手本人にしか分からない話の内容になってしまう。
一対一の対応しか許されない言葉だったら無限の言葉が
必要になって、これまた意味がとれなくなるってわけです。

「うちの作次郎がご飯を食べないんだよ。」
この作次郎が猫だったりしたらどうか・・・

「うちの猫がご飯を食べないんだよ。」
なら聞き手にもすぐにわかるが、より具体的な猫の名前を使ったら
身内にしか通じない。

映像だったらその作次郎の姿が映る。
具体性がある。
しかし、おそらく映像には言葉も添えられるのでしょうね。

p235
言葉をものごとの束縛から解き放そうとするとなまやさしい
ことではないことがわかってくる。
英語でいうスリッパ―はわれわれのスリッパ―と同じではないが、
日本人は英語のスリッパ―という語をみるとどうしても
日本的スリッパ―を想像してしまう。

ほとんどすべての言葉において、ものごとの影があまりにも
強烈である
ために、本当の理解が妨げられる例は絶えずおこって
いる。 ・・・日本犬の好きな人にはイヌという語は秋田犬か
何かのイメージがつよくて、・・・むしろ、無色透明なイヌの
概念が必要な場合も決してすくなくない。

p236
人間が自然をのりこえて文化をつくるため発動させる作用の
ひとつに、ないものをあらわす表現活動がある・・・
・・・ウソがつけなければ文化は生まれない。

ウソも一度だけではウソにならない。 くりかえしウソをついて、
はじめてウソになる。 それほど言葉はものごとに即して
いるのである。

===>> 日本語のスリッパ―は日本の家の中で履く
ペタンと平らで足先がカバーされているあれですよね。
英語でスリッパ―と辞書を引いてみると:
「かかとのついたスリッパ、室内履き、ゴムぞうり、ビーチサンダル、
ハワイの方言、アメリカのそのほかの地方ではフリップ・フロップと呼ぶ」
と書いてあります。
ちなみに、フィリピンではアメリカ式の理解のようですね。
ゴムぞうり、ビーチサンダルのようです。
ただし、ゴムぞうりの高級なお店には フリップ・フロップと看板に
書いてあります。

日本人の手紙は「便り」ですけど、中国人の手紙は「ちり紙」、
トイレットペーパーらしいですね。

言葉による意思の伝達の難しさがわかりますね。
それに、最近知ったことですが、韓国語はハングルになってから
つまり漢字が無くなったので、元々中国から来た同音異義語の区別
つけられなくなったので、区別がつくようなより具体的表現で
分かりやすく説明的に言うのだそうです。

日本語は 同音異義語を聞くと 頭の中で漢字のイメージを
いくつか浮かべて文脈からどの漢字かを判断していますよね。
ハングルだとそれが出来ないってことで、漢字の熟語を
説明的な文章で置き換える作業をしているってことになりますか。

「ウソがつけなければ文化は生まれない」ってのは凄いですね。
確かに様々に創造しようと思えば、虚の世界が必要ということに
なりますからね。

最初のウソはウソとは思われない。(余程下手な嘘なら別でしょうけど)
何度もウソを言っていると、それが嘘であることがばれて ウソという
ことになるって話です。
この本では 「オオカミが来た」の例が書いてあります。

p238
虚の言語のもっとも発達した体系が数学であることを
思いあわせて、リアルな言語への一辺倒的な考えに走らない
ようにすべきであろう。

==>> 一番ウソから遠いような、これ以上正確なものは
ないというような数字の世界が、一番「虚」であるってのが
なかなか含蓄がありますね。

その2に続く

 

 

 

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2013年8月27日 (火)

「日本語の論理 - 外国語論」を読む : その3 旅に目的はない

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「外国語論」を
読んでいます。

p218
旅行記というものは・・・その土地をはじめて、あるいは何回と
いうくらいしか訪ねたことのない人によって書かれる。
・・・ところが、そういう土地に融け切っているような人々が、
その土地のことを他人に知らせようとして案内記のようなもの
を書くことは普通はなかなか行われないことである。
・・・他人に その土地を紹介するのにかならずしも適当な
人々ではないのである。

p219
旅行者は、・・アウトサイダーであり、永住者はインサイダーである。

アウトサイダーでなければできない性質の仕事がある。

アーサー・ウェーリーは、・・・一度も日本を訪ねたことがない。
しかし、彼の英訳した「源氏物語」に対して、多くの日本人は、
自分たちの気づかなかった美しさを感ずる。 原文よりもこちらの
方がおもしろいのではないかという意味のことを言った日本の
批評家もあるほどである。

p220
第一次大戦後、イギリスに敗れたドイツ人の間にイギリス研究熱
が高まった。 W.ディベリウスの「英国」はそういう空気の中から
生まれたものだが、久しくイギリス人自身からイギリス研究の
白眉と目されていたのである。

ある人物をもっともよく知るのは、親、配偶者、子、友人・・・
もっとも秀れた伝記は・・・まったくの他人、あるいは、
次の時代の人によって書かれることがすくなくないのである。

p221
ものごとを研究したり、調査したりすることは、元来、アウトサイダー
でなくては難しいことである。

===>> 確かにおっしゃる通りであります。
ではありますが、そういう立場で客観して、そういう英語の勉強が
一般的な学生にとってどのようなメリットがあるかって
話になっちゃいますね。
実際に 英語なら英語を使えなくちゃ意味ないよって話になるんでしょうね。

高度な外国語研究は 文学者か大学の教授あたりに任せなさいと。

p222
以上のような観点に立った外国語がわれわれの精神にとって、
いかなるプラスをなすか・・・

教養としての外国語とか・・・役に立つ外国語教育などという
スローガンに対して、いくらか弱いうらみがあった。

p223
古来、もっとも旅らしい旅というのは、まったく直接的な
目的をもたない。

一種の遍歴、さすらいというもので、その効用も、精神の回生
いうことに絞られる。

その非実用性が人間の精神形成に役立つものであることを
見のがしてはならない。

旅先に根を下ろしてしまえば、もはや旅人ではなくなる。

p225
外国語の中へ住みついてしまえば、それはもはや外国語で
なくなることは旅行の場合とまったく同じである。

外国語の教師のうちに、自ら旅することのたのしみを忘れた
人々があるとすれば、それはそういう外国語の旅行案内業
していることになる。

「役に立つ外国語」というのは、さしずめ、みんなに旅行案内人
になれるような旅行をしろと言っているようなものである。

p226
旅をしてみて、はじめて、自分が今まで住んでいたところが、
いかによいところか、または、いかに欠点のあるところか
ということが実感されるのがその効用である。

それは新しい向上と進歩の意欲をよびおこさないではおかない
であろう。

外国や外国語に対しても、外国語を学ぶというアウトサイダー
的位置でなければ決して望み得ないような創造的活動を
行うことができる。

自己の客観化という至極困難な作業を行うためにも、
外国語の力をかりることがもっとも有効である。

p227
日本のような島国においては、海のかなたから眺めなくては
自国の姿はとらえられないであろう。

===>> 旅人、つまり、外国語を勉強してはじめて、
自らを日本を客観できる、ということは 確かにそうかもしれません。

日本語を英語などの外国語と比べてみてはじめて、
日本語というものの不思議さも気づくし、そこから、日本語を
話している日本人の性格というものの特徴にも思いが及ぶように
思います。

「外国語の中へ住みついてしまえば、それはもはや外国語で
なくなることは旅行の場合とまったく同じである。」
という言葉は、フィリピンに通算10年住みついている
私にとってはちょっとドキッとする言葉です。

しかし、おそらく、日本語を母国語としてではなく、
外国語としてとらえて教える 
日本語教師という仕事を
していることが、英語は生活語になりながら、日本語を客観しながら
つまり外国語的に観ながら暮らしているという ちょっと逆転
したような生活をしていると言えなくもないですね。

それが、私が言語的な旅行を続けている支えになっているのかも
しれません。

「外国語の教師のうちに、自ら旅することのたのしみを忘れた
人々があるとすれば、それはそういう外国語の旅行案内業を
していることになる。」

この旅行案内業という比喩は、なかなか理解が難しい。
ここでは 外国語=旅行 という比喩ですから、
外国語教師=旅行案内業 ということになるのですが、
楽しみを忘れた人が旅行案内業であり、外国語教師ということに
なるのでしょうか?

しかし、「外国語の教師のうちに、・・楽しみを忘れた人々が
あるとすれば」ということだから、外国語教師のすべてが
旅行案内業というわけではないということですね。

つまり、外国語を教えることを業としていても、知的好奇心を
失っていなければ 旅人であるということになるのでしょうか。

もし、そういう意味であるならば、私が英語という外国語で
はなく、日本語という母国語に そのような好奇心をもって
旅をしているということになるかも知れません。

それが、英語という外国語を学んだ 私における効用だと
言えるかもしれませんね。

次回は、「映像と言語」の章にはいります。

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「日本語の論理 - 外国語論」を読む : その2 母国語を犠牲にするな 

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「外国語論」を
読んでいます。

p213
われわれは、第二の母国語をつくるために外国語を学ぶ必要が
あろうか。
 大部分の人々にとって、答えは否である。

外国語は母国語と まったく異なった次元において学習されるべし
とするのが外国語論の前提である。

母国語の犠牲においてのみ身につくような外国語は、二重言語である。
それはわれわれの精神を真に拡大することにならない

p214
赤ん坊が言葉を覚えていくプローセスがもっとも自然な言語取得
の方法だからと言って、これを、十歳、十二歳になる子どもに
外国語を教授するのに援用して、それをナチュラル・メソッド
(自然教授法)などと称してありがたがることは はなはだ
困ることになる。

専攻する言語の実践的能力がほとんどなしで、しかもすぐれた
言語学者が存在し得ることはやや別の理由で、外国語をほとんど
話せないで終わるかもしれない外国語教育が存在してよろしいし、

また存在すべきである。
外国語論はそういう考え方をする。

===>> ほお~~~~、面白いですねえ。
つまり、母国語の外に外国語を学ぶのであれば、その総和が
ただ単に母国語を犠牲にして、犠牲にされた部分に外国語を
埋めるというようなことでは意味がないってことですね。
外国語を学ぶことで総和が増えなくてはならない
そのプラスの部分というのは何かってことです。

日本語を教えている立場としては、又、英語を仕事の上で使う
ために学んできた者としては、いろいろと突っ込みたくなります。

まず、最近は事情も変わっているでしょうが、
英語会話ができない日本の英語の先生は それで良いのだって
ことになります。
でも、それで良いのだという理由は 奈辺にあるかってとこが
面白そうですね。

少なくとも、日本語を勉強するフィリピンの人達は、
日本で仕事をするために日本語が必要、あるいは、日本の大学に
留学するために日本語を学ぶということですからね。
もちろん、日本のアニメや漫画を日本語で理解したいからという
趣味の日本語もあります。

こういう人たちは、母国語を犠牲にしての日本語ではないと
言えるでしょうね。

p215
外国語を学ぶには、あくまで不自然法で行く
・・・外国語は・・その中に入りきることを目標にしては
勉強しないのである。 ・・・外国語に対してはアウトサイダー
の位置にあるべきである。

アウトサイダーの観点からすれば、まず読むことがもっとも
最初の手掛かりである、あと書く、聞く、話すの順になっている
であろう。
まさに、自然法の逆になる。

p216
英語に対してイギリス人、アメリカ人はインサイダーで
案外わからないところがある。
これを客観することは困難である。

われわれが日本語について外国人から訊ねられて、まごつく
ことがあるのも、要するに、知っているはずの母国語を客観する
機会が少ないからである。

言語研究の歴史はそれを実際の事例で示している。
英語の学問的研究がインサイダーのイギリス人の間ではじめられずに、
アウトサイダーであるドイツ人の手によって緒についたのはその
一例である。

==>> この部分については、納得です。
日本語の教授法を勉強すると、そのいわゆる日本語文法というものが
学校教育で学んだ国文法とは全く異なるものであることに
嫌でも気づくことになります。

日本人だから日本語を外国人に教えられるというものではありません。
外国人に日本語を教える方法は、国文法の中にはありません。

例えば、この二つの文は どう違うのですか、と外国人に聞かれたら
あなたはどう説明できるでしょうか・・・

「父は帰宅してから、夕食を食べた」
「父が帰宅してから、夕食を食べた」

もちろん、この二つの文の意味を 英語で説明することは出来るでしょう。
しかし、「は」と「が」が違うだけで、なぜそんな意味の違いが
出て来るのかを 説明するのは なかなか難しい。

それが、客観的に外国語を観るということであり、
外国語を教えるということであり、学ぶということになるのでしょう。

p217
外国語は、そういう考え方からすればすべて暗号みたいなものになる。
その勉強は暗号解読と同じ作業である。

このアウトサイダーの普遍的有効性ということを、比喩を借りて
説明して見る。

・・・ってことで、

その3に続きます

 

 

        

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「日本語の論理 - 外国語論」を読む : その1 英語教育廃止論 ?

 

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「外国語論」を
読んでいます。

p205
言語を「外国語」として研究することが、何を意味し、
また、そこにどのような問題が存在し得るか・・・

一般的に「外国語」とよばれる位置にある言語に共通する
文化的現象
に議論をしぼる・・・

p206
ギリシャ人は、ギリシャ人でないもの、ギリシャ語以外の
言語を話すものをすべて、バルバロイと称したが、この語が、
のちに、野蛮未開というヨーロッパ語になった・・・

自分の国が世界の中心に位するという思想は多くの国にあった・・

文化的エゴセントリズム(自己中心主義)の段階にあっては、
外国語というものは、大きな意味をもつものとして意識されない

p207
先進国である外国からの文物はさかんに流入してくる。

外国語はそれが背後に蔵している文化の高さの故に、
自国の言葉より、高尚なものであるかのような錯覚をもって
扱われる。

外国語は、強力な実用的要請に支えられている
その要請は、ほとんど物的価値にさえも近いものであると
感じられるであろう。

p208
真に外国が外国として、重要な意味をもつようになるのは、
第三の関係、すなわち、自国と外国が文化的に対等、ないしは、
それに近いという意識がもたれるときにおいて、はじめて可能である。

===>> 私が高校時代、「英語でもやっておけば、将来喰いっぱぐれ
はないだろう」と思って、その後英語の専門学校で勉強するために
上京したのは1969年でしたが、その当時は 上記の分類で言えば
第二の関係の時代だったと言う事でしょうね。
まだ、1ドル360円の時代でしたし、外資系に勤務することは
メリットがあったと思います。
外国語は強力な実用的要請があったということになります。

さて、今現在の日米関係からいったら、第三の関係になったと
言えるのでしょうか。

フィリピンにおいては、明らかに 実用的要請であって、英語が
公用語ともなり、海外出稼ぎ者の強力なツールになっているわけですね。

p209
文化その他で、ほぼ同水準に達していると、・・・
文化の移動は交流、交換という形をとらざるを得なくなる。
・・・相互伝達、ギヴ・アンド・テイクということになる。
言語伝達としては自然なこの状態が、外国語としてはむしろ
不自然なものである・・・

「・・・一応、不自由しない状態になっている母国語というものが
あるのに、なんのために、外国語を学習しなければならないか。」
そういう疑問が提出されるようになる。

==>> 理解するのがちと難しいところですが、
要するに、圧倒的に実用的な外国語の場合は一方的に勉強する理由が
あるけれども、文化的に対等な国同士の言語というのは、特に
必要でもないのに なんで勉強するんか、という不自然さがでて
くるってことですね。

p211
昭和に入ると、十年前後に英語教育廃止論がおこった。
戦争になると女学校の英語が停止され、その他の学校においても
圧迫された。

戦争には負けたけれども、われわれは決してダメな民族では
ないのだという国民感情は、昭和26年の講和条約ごろを
契機として、次第につよまりつつあった。
その少し後に、英語教育廃止論
がおこった。・・・・

ここで、外国語はふたたび、第三段階の不自然な外国語という
位置へもどされたわけである。

==>>  へえ~~、これはびっくりですね。
昭和26年といえば、私が生まれた頃に近いんですが、
まだまだ敗戦後6年くらいしか経っていないのに、そんな
気運があったとは。
その頃は まだ日本は貧乏で アメリカにおんぶに抱っこの時代じゃ
ないですか。
それに、経済的にも、海外に物を売らなくちゃいけない将来が
あったわけですよね。 日本の中だけで満足できる時代だった
ということになりますか?

p212
いわゆる役に立つのでない外国語教育がまったく存在を
許されないのなら、今日のような、実用性のうすい語学教育が
否定されようとしていることは自然である。

「役に立つ英語」という声は、「役に立たない外国語論」を
浮き彫りにするものであると見ることもできる。

==>> ちょっとややこしい話になってきちゃいました。
まあ、フツーは、私も実際そうだったんですが、就職に有利だから
英語をやっておこうというのが主流ですもんね。

そうじゃない外国語教育ってのは なんなんだ? ってところで
「役に立たない外国語」の教育の有用性を議論しましょうか
って話みたいです。

では、その2に続きます

 

 

 

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「日本語の論理-外国文化三つの顔」を読む:  日本文化の危機は・・

 

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「外国文化三つの顔」を
読んでいます。

p197
イギリスのある大臣が議会の答弁で
「いまわが国の重要輸出品は”英語”であります」と言って
話題になったことがある。
・・・書籍が外貨獲得のために馬鹿にならない存在であることを
披露したものであった。

p198
明治における英学はそういう外国崇拝の感情に支えられていたし、
その前の蘭学もそうである。
さらに古く遡れば漢学も・・・

===>> そういう意味でいえば、日本の普通の書籍が
そのまま海外で読まれているというのは少ないのでしょうね。
日本の漫画、アニメだって翻訳されていますからね。
ただ、漫画やアニメで日本語を勉強したという連中もいますけど。

p199
わが国の外国文学研究を、ヨーロッパに本店のある支店のような
ものだとたとえた人があるが、・・・第一段階の外国文化に対する
われわれの関係は支店以下かもしれない。
一方的に吸収するだけでお返しということがほとんどないからである。

p200
自然科学などもはじめはたしかに外国の模倣から出発しているが、
実証の学だけに比較的早く盲目的崇拝から自由になることができた
・・・独自の立場からながめられた「お付き合い」の相手としての
外国文化が出現する。
・・・これが第二段階の外国の顔である。

p201
同じ文学愛好者でも翻訳文学の読者はその呪文から解放されて
いて、のびのびした態度で外国文学に「付き合って」いる。

===>> イギリスあたりで英文学を講義しているような
日本人教授はいるんでしょうかね?
日本には 日本文学を教えている外国人教授がいるようですけど。

たしかに、自然科学であれば、実験などを通して、
理論を確立していく作業ですから、過去の研究成果に基づいて
新たな発展ができるでしょうし、あるいは、全く新しい発想での
展開というのもありなんじゃないでしょうか。

しかし、文学系になると、どうしても元の国の昔からの
文化のディーテイルを避けてとおる訳にはいかないでしょうね。

p202
一時、文化交流ということがさかんに言われたことがあるが、
どこか外交的臭いがあって感心しない。
要は外国の文化を友として考えればよいのである。

相手に尊敬と好意をもちながら自分の個性を見失わないところに
真の交友が生まれるが、・・・友人としての第二の顔は
相互交渉という社会的関係を前提とするものになる。

===>> はい、外交的臭い・・ありますよね。
政治的な摩擦がある時には、文化交流なり経済交流なりが
それを補完するものとしてとりあげられる。
ただ、政治の前には 無力感を感じることも多いと思います。
政治的な動きが文化交流どころか経済交流まで吹き飛ばす
事態を経験しましたしね。

p203
第三の段階とは経済的関係においてとらえた外国文化
すなわち買い手からみた売り手としての顔をもった外国文化である。
こちらの文化的自覚が成熟するか、あるいは相手側がこちらへ
積極的に文化を”輸出”しようとするとき、摂取側のお客の
意識が明確に打ち出されてくる。
そのお客として見た外国文化の顔である。

文化的入超は明治以来ずっとつづいているのに、日本文化を
破壊させる危険があると言って心配する人はあまりきいたことが

ない。 

p204
これまで一度も危機意識らしいものがもたれなかったのは、
外国文化が日本人、ことに「文科の人達」にとって、
第一段階のそれにかぎられており、それ以外の外国文化が
考えられなかったからにほかならない。
近代日本文化はそのような特殊事情の上に築かれているのである。

===>> この経済的関係というところは、いささか興味深い
ところです。 最近の様々な国の文化の輸出ということが
話題になっているからです。
卑近な例でいえば いわゆる「還流ブーム」「K-POPブーム」
でしょうか。
それに対抗するかのように「クール・ジャパン」「カワイイ」
「日本のアニメ・漫画」なども盛んです。

例えば、フィリピンにおけるコスプレなんかも これに入るでしょう。
買い手がフィリピン、売り手が日本だとすれば、
こちらというのがフィリピンだとすれば、
「こちらの文化的自覚が成熟」というのはいささか疑問ですが、
相手側、つまり日本が、積極的に輸出しようとしているということに
なりそうです。

フィリピンのコスプレ・ブームは ここで言う第三段階と呼べるのか
どうかは、ちょっと疑問です。

日本の場合には、日本文化を破壊されるという危機感は
おそらく上記のような特殊事情ということで説明できるのかも
しれませんが、それはおそらく日本に江戸時代からの文化の
伝統がしっかりと根ざしているからじゃないのかと思います。

それに比べて、フィリピンの現状はどうなのか。
英語は公用語のひとつでもありますしね。
学校教育をちゃんと受けていれば、英国や米国などに
移住もできるほどに英語が出来ている人たちです。

フィリピン自体が過去数百年に渡る植民地としての歴史の中で、
アイデンティティを持てずにいるという背景を考えれば、
もしかしたら日本文化にうつつを抜かしている若者たちには
もっと文化的危機感を持てよと言わなくちゃいけないのかも
しれません。

たまたまバギオは山岳地帯の入口に位置しています。
フィリピン人のアイデンティティは この山岳民族
求めるしかないのだという話もあります。
低地に住むフィリピン人はスペイン時代にすっかりオリジナルの
文化を失ってしまったからだと言うのです。

そのバギオという地方都市で、日本文化に熱をあげている若者たちがいる。
そういうコスプレ、漫画、アニメ・オタクたちと
イベントを楽しんでいる私としては どういう立ち位置に
いたらいいんでしょうかね?

「日本文化とフィリピン文化とのコラボレーション」という
旗印を立ててはいるのですが・・・・

 

 

 

 

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2013年8月26日 (月)

フィリピンの汚職ってどんなんだろう・・・ ポーク・バレルに始まって

フィリピンでよく耳にする言葉 「ポーク・バレル」

イメージとしては、あまりよい意味合いでは使われていなかったので
おそらく汚職などの温床になっている政治家レベルの金のばらまき
関連だろうと思っていました。

そこへもってきて、最近にわかにこの言葉が騒々しくなってきたので
うちの下宿のお兄ちゃんに 何が起きているのと聞いたら、
こんなことが起きていると分かりまして。

http://newsinfo.inquirer.net/472911/time-to-abolish-pdaf-says-aquino

MANILA, Philippines—President Benigno Aquino III on Friday yielded to
public pressure and announced to scrap the Priority Development Assistance
Fund (PDAF)
ahead of Monday’s nationwide protest calling for the
abolition of the graft-tainted pork barrel fund.

Photo_by_wig_tysmans
photo by Wig Tysmans from Facebook

Priority Development Assistance Fund(PDAF) つまり優先開発助成資金
とでも訳せばいいのでしょうか。。。
これがいわゆる「ポークバレル」の正しい名称のようです。

このポークバレルの日本語での詳しい解説はこちらのサイトにありました:
http://ameblo.jp/yamanooyaji/entry-10345096930.html

この汚職の温床になってしまうポークバレルを止めようという
大統領の動きらしいのですが、その大統領本人も批判されている部分も
あって、今後どうなるのか興味があります。

ちなみに、我が下宿屋の事情通によれば、

このポークバレル、上院議員は年に200ミリオン・ペソ(約5億円)、

下院議員は70ミリオン・ペソ(約1.7億円)が割り当てられるらしい。

しかし、これを議員が直接もらうわけではなく、プロジェクトを実施する団体へ出金することを議員が許可するという手続きだとか。

噂では、この金額の半分ほどが、その団体から許可をした議員に還流しているのではないかとの話。

私は日本人ですから、もちろん選挙権なんかはありませんし、
フィリピンの政治に口出しする立場にはないんですけど、
私の身近なところで 「はは~~ん、これか・・・」というような
経験をしましたので、フィリピンを知るためのひとつの材料として
ご紹介します。

ある2つのイベントに関わって地元の自治体から助成金を受けられる
という話になりました。

一つ目のイベントについては、300人の参加者について
12,000ペソ(約3万円)のおやつ代を助成する。
二つ目のイベントについては、200人の参加予定者に対して
10,000ペソのおやつ代を認めましょうという 議員からの
内示がありました。

主催団体の事務所で その主催者の二人と私が どのような手続きを
したらその助成金がいただけるのかを確認しようということになりまして。

自治体の議員から、自治体の某組織に行って助成金をもらってくれとの
指示がありました。

その役所にその旨を伝えたところ、職員が説明に来るということでした。

私たちは てっきり 自分たちが望むものを自分たちで手配して、その領収書の清算という形で助成されるのかなと 思っていたのですが。。。。

職員の説明は次のようなものでした:

ー 自治体のルールでは、役所が業者から入札をとり、
  一番安い業者がそのおやつをイベント会場に届ける。

ー 通常、この手続きに二か月ほど掛かる

ー 助成金は役所から業者へ支払われる

ー 参加者1人についておやつの単価は80ペソ(約200円)と
  決められている。

ー よって、参加者 300人 x 80ペソ = 24,000ペソ
  及び 200人 x 80ペソ = 16,000ペソ となる。

ー イベント当日の参加者の署名が必要。
  300人以上、200人以上の署名がないと役所からのお金が
  下りない。

この説明を聞いた主催者側の反応:

ー イベントは1週間後にある。
  とても間に合わないじゃないか。

ー 主催者側が考えている種類のおやつを実際に提供してもらえるのか。
  (ハンバーガーと パック入りのジュースにしたい。)

ー 本当に一人当たり80ペソのものが出て来るのか。

ー 議員が内示した金額の2倍の金額になってしまうが、
  本当にそんな金額のものが提供されるのか。

ー 参加者数は あくまでも予定数であって、それ以上の数の
  署名が必要というのは 理屈に合わないじゃないか。

主催者側の一人は、元議員であった。
「これだよ。だから役所が絡むと面倒なんだよなあ・・・」
どうせ、つまらない物しか提供されないよ。」

さて、イベント当日。

ー 小さなサンドイッチと小さなボトル入りの水が届けられた。
  サンドイッチとは名ばかり。 ツナのペーストを塗っただけのもの。

ー 菓子パンのようなものと小さなボトル入りの水が届けられた。

D073


  
これは誰がみても、そこいらのお店でかったら、一人当たり
せいぜい20~30ペソ程度じゃないか。
ルールで80ペソと言うのなら、あとの50ペソはどこに行ったんだ
・・・と言うのが関係者のコメント。

元議員曰く、

ー 入札なんて形ばかり。
  役所の関係者の親戚なんかがやっているお店に入札させるんだよ。

他の人からの情報では、

ー ひとりの関係者が複数の会社を作っていて、
  同一人物が複数の入札をしているんだよ。

イベントの主催者には一切目に触れないところで、
役所と業者が取引をして、その結果が 主催者の希望のものとは
まったく異なるものを 会場に運び込む。

某情報通によれば、

ー 参加者のサインにしても、
  もし200人の予定が150人しか来なかったら、
  不足した数のサインは 役所の職員が適当にやるんだよ。

・・ってな話でした。

50ペソは 闇の中。

まあ、私は外国人ですからね、50ペソがどこに行こうが知ったこっちゃありません。

私自身の懐を痛めることなく、30ペソ程度のお菓子と水が配られたわけですから、いいんですけどね・・・・・

 

 

 

 

 

 

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「日本語の論理 - エレガントな対立」を読む その2 自分の意見があるのか 

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「エレガントな対立」を
読んでいます。

p191
あるアメリカ人教師がひどく退屈していた。

(ある大学で)なるほどみんな英語をよく話すが、さっぱり
話がすすまない。
・・・一問一答がつづくだけだから、すこしもおもしろくない
どうしてもっと自分の意見を言わないのか・・・

p192
いくらよい質問をしても、要するに先生に対する生徒でしかない。
一人前の人間が外国人の前ではつねに生徒だというのは情けない
ことである。

外国人と会話をするには、言うべきこと、すくなくとも自分にとっては
言うに値することをもっていることが前提である。

===>> 自分の意見を言わない・・・というより、意見を持って
いないってことなんでしょうかねえ、日本人は。

さっきNHKのテレビを観ていたら、フランスでのバカンスが
どんなものかってことをやっていました。

その家族は、とにかくのんびり田舎の民宿で 実に日常的な生活を
しているのです。
日本人みたいにあちこち観光にいったり、何か特別なことをする
のではなく、家族と一緒にのんびりした実にフツーな生活を
して、家族との会話などを楽しんでいるんです。

家族との会話・・・・日本人だったら話が続かないでしょうねえ、
というのが出演者のコメントでした。

フランスでは、学校などで哲学を教える比重が高く、
家族の中でも哲学っぽい話をすることがあるとの話が出ていました。
日頃から議論をすることが当たり前の国なのでしょうね。

p194
現在、わが国では、物質的、経済的関心がすべてに優先している。
教育においても実用への傾斜がつよく、大学教育も職業訓練的に
なりつつある。 ・・・日本人には、まだ本当の文化を考える
ゆとりがないのかもしれない。

・・・文化系の学問が真に必要なのはこうした時代である。

一見、無用と見える文化であるが、人間が人間であるのは
この無用の用を認めるところにある。

p195
こちらの側に花も実もある文化がなくては信頼と尊敬をもった
国際理解は実現しないであろう。

・・・目さきの実利、実益だけに目をうばわれない学問や
教育を尊重する気風が社会に行きわたるようになるのを
じっと待つよりほかに手がなさそうである。

p196
わが国の外国語教育の現状はあまりにも没個性的で、
社会の低次元の要求に諾々と応じているように思われる。

===>> この本は1987年初版なんです。
当時の大学教育、英語教育と 現在のそれがどのような方向性を
もって変化してきたのか 私には分かりません。
しかし多分 今でも職業訓練的になってきているんでしょうね。

フィリピン・バギオは学園都市です。
大小の大学が10ほどもあります。
今、学校制度が小学校からハイ・スクールまで10年であったものが
日本などと同じ12年制になろうとしています。

フィリピンの大学は、実利的なものがほとんどで、
上記にある職業訓練的なものが多いようです。
大学を出て、仕事があるのか、というのが一番の関心事であるように
思えます。
しかし、フィリピンの国の有り様をみると、
海外に出稼ぎ者を送り出すための大学でいいのか、という思いに
かられます。

もっとアカデミックで、国の基盤をしっかり作っていくための
人材がフィリピンには必要なのではないかと感じるのです。

それに比べて、日本はアカデミックな内容が大学の中で
学べるのだと思います。
しかし、この著者が述べているような 国際人としての教養が
育つような、「島国根性」を払拭するような教育が行われて
いるのでしょうか。

大学の名称に「国際」とついている大学がたくさんあります、その名にふさわしい
教育を提供していることを信じたいものです。

  
次回からは
「外国文化の三つの顔」に入ります。

 

 

 

   

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「日本語の論理 - エレガントな対立」を読む その1 感情的な日本語 

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「エレガントな対立」を
読んでいます。

p183
われわれはこれまでも国際競争の荒波にもまれてきたから、
こんなことには馴れている。不必要に一喜一憂することもない。
フェアな態度で競争にのぞみ、正しいことはどこまでも主張する
ようにすれば、結局は相手側からも尊敬される
ものである・・・

p184
おくれの目立つようになったのが外交である。
・・・これまで国力につり合った外交をもったことがほとんど
なかった・・・
日本の政治家で国際的な発言のできる人はすくない

p185
日本の外交官がどのようにして養成されるのか・・・・
激甚な競争の外交官試験の・・・合格者の大部分が法科、経済の
出身であるところに日本の外交官のタイプを決定してしまっている
事情がある。

p186
われわれの学ぶ英語は広義の外交の基礎になるものであってほしい
・・・しゃべることはしゃべるが、話せば話すほどつまらぬ人間
であることが暴露されるーーそんなことなら、なまじ語学など
やらない方がよいのである。

==>> つまり、外国語を使って何を話すのか・・・ってこと
ですね。 国際的に魅力のある日本人を育てることこそ
外国語教育の本来の意味ではないかと。
外交官にしても、多様性がないことは問題であると言っているようです。

自分を振り返ると、お恥ずかしい限りではあります。

p186
ヨーロッパの文学の展開は叙事詩にはじまり、抒情詩、演劇の順を
とるか、・・・わが国の文学の歴史を比較してみると、わが方の演劇
の欠如が目立つ
のである。

p187
日本では、昔から対立を対立として表現し、その緊張と解決に
喜びを見出す感覚が発達しにくかったと想像される。

小さくて閉鎖された土地に住み、・・・いやでもおうでも宿命的な
関係をもちながら、土地と隣人にしばられて共存する必要がある。

・・言いたいことがあっても腹にしまっておく

日本語そのものも、レトリックには不向きで、モノローグには
適するようになってしまっている。
対人関係もなるべく摩擦をさけるように、独特の敬語法
行われる。 主語を明示しない文法構造は日本語の非演劇的
性格を端的にあらわしている。

日本人は言葉を半分以上のみこんでしまい、思うことを内攻させる
そして、どちらにもとれるようなあいまいな表現で、それとなく
わからせることを好む。・・・立場の違う人には不向きな
伝達様式である。

===>> 以前からレトリックとは何か・・と思っていたんですけど、
普通は修辞法と訳されているようです。
修辞法と言われてもなんのこっちゃって感じでしたので、ちょっと
検索してみましたところ、「自分の主張を相手に分かりやすく伝える技術」
などと説明がありました。
・・・つまり、日本語は論理的に分かりやすく自分の主張を伝える
には向いていないってことのようです。

確かに 日本人は「言いたいことがあっても腹にしまっておく」ことが
多々あると思います。 
それは、日本国内であれば美徳なのでしょうが、外国ではそれは
「無気味」になってしまうんじゃないでしょうか。

日本語の敬語ってのは 本当にやっかいな代物です。
自分もそうなんですが、若い人たちに 「おはよう!」を言われる
だけで、そんなつまらないことだけで、カッチーンと来ちゃうことが
あるんですよねえ。
私は日本語教師の端くれですから、生徒に教えるときには、
「おはよう」じゃなくて、必ず「おはよう御座います」と言いなさい
と教えています。
そうじゃないと、翌日クビになっちゃうよって話しているんです。

日本語は非演劇的というところは今一つはっきりとは理解できて
いませんが、レトリックということと合わせて考えると、
相手にしっかり納得させるような話し方というのは確かになかなか
難しいように思います。

p188

・・・日本語そのものが情緒的になってしまっている・・・

こういう言語、ないしは言語的思考が外交から見ていちじるしく
不都合であることは明らかである。

われわれは、相手が意見を出すと、たとえそれに反対であっても、
何となく反対を出しそびれて、口さきだけの賛成をしたりする。
あるいは逆に、ろくに議論もしないで、感情的に喧嘩腰になる
論理的、理性的に、相手の意見の不備を衝いて議論を精緻にする
というようなのは下手である。
・・・どうも反対のしかたがエレガントではない。

p189
むしろ、意見がくい違ったところから伝達ははじまるのである
本当に親しくなるのは、はげしい議論をした相手であることも
忘れてはなるまい。

言いたいことも言わず、言うべきことも抑えているために、
どれだけ社会が陰湿になっていることであろう。

反対と喧嘩の区別がはっきりしていないのが、残念ながら
われわれの社会の実情である。

p190
言うべきことも言わないでいる人にかぎって鬱憤がいったん
爆発すると、文法をもたない喧嘩をはじめてしまう

===>> この部分はいちいち 「あるある」ですねえ。
本当に反対ということを冷静には聞けないような雰囲気になって
しまって、喧嘩腰になることが多いと思います。
余程親しい間で、ざっくばらんな付き合いができる相手じゃないと
反対されたってこと自体に動揺してしまうようですね。

それに、その動揺によって、声が大きくなってしまう。
もう相手の話が、論理的かどうかなんてどうでもよくなっちゃう
んですよねえ。
日本人は もっと反対論を冷静に聞き、それに冷静に反論できる
話し方を訓練すべきだと思います。

感情的になりすぎて、相手の意見が聞けなくなってしまう。

聞こうともしないで、自分の妄想の中で相手を決めつけてしまう。

お互いに自分の意見を冷静に論理的にいえる日本語が欲しい。

その為にも、この著者は、演劇がもっと必要だと言っているんで
しょうかね?

その2に続く

 

 

 

 

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2013年8月25日 (日)

「日本語の論理 - アイランド・フォーム」を読む その3 異質なものへの免疫

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「アイランド・フォーム」を
読んでいます。

「アイランド・フォーム」とは「島国根性」のことです。

p178
アイランド・フォームの欠点を改めるにはどうしたらよいか。

常識的に言っても、まず、外国語教育ということに落ち着くのではあるまいか。

「役に立つ英語」は結局、学校の教室では無理であるということが、
ようやくはっきりしてきた。

p179
国際人としての修練も積まないで、ただ、外国語をしゃべるという
ような島国人は、実用的視点からしても、プラスであると言い切る
ことはできないのである。

p180
外国語によって、「異質なもの」に対する、免疫と抗生
どうしたらつくることができるか・・・

まず心理的抵抗を経験させ、その上でそれを緩和させて、やがて、
一般に異質なものへの情緒過多の反応を矯正するようにしなくては
ならない。

無自覚的ナショナリストになりがちな、すべての日本人にとって
必須の教養である。

===>> ここに書いてあるのは、要するに最近よく聞くように
なった言葉でいえば「多様性を認める」と言う事ではないかと
思います。

フィリピンに住んでいると、時々 店先などで怒鳴っている
人を見ることがあります。
そして、それがたまたま日本人であったりするのです。

日本とフィリピンを比べれば、いろんな点で日本の方が進んでいる
ことは明らかですから、私自身もフィリピンに住み始めたころは
なにかとイライラしたものです。

そのイライラの原因は「日本の常識」だと思います。

日本は様々なものが おおよそ期待通りに動いています。
交通機関などは その最たるものかもしれません。
電車でもバスでも、ちゃんと時刻表があって、その通りに運行されて
います。

しかし、フィリピンの場合、まず時刻表があることすら限定的です。
仮にバスなどの発車時刻が決められていたとしても、その通りに
発車することはめったにありません。

時間どおりに運行できる日本の仕組みはもちろん素晴らしいものですが、
他の国にいて 同じものがないからといって感情が爆発した
ところで なんの得もありません。

卑近な例ではあるのですが、そういうことに対する免疫あるいは
抗生は必要であるのです。
店先で怒りまくっている日本人は 滑稽でしかありません。

最近の言葉でいうならば 「空気が読めない」 KY君ということに
なってしまいます。

「アイランド・フォーム」はこれで終わりです。

次回からは「エレガントな対立」に移ります。

 

 

 

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「日本語の論理 - アイランド・フォーム」を読む その2 島国根性と国際感覚

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「アイランド・フォーム」を
読んでいます。

p175
しろうとの一般国民は、・・国際問題が、どうもうまく処理されて
いないという不満
をもっている。
・・庶民は、内攻して外国にたいする反感をもちかねない
どうしてもナショナリズムへの圧力がかかる。

アイランド・フォームの国では、そうならざるを得ないのである。

==>> この本は20年も前のことを書いているんですけど、
今の状況もそのまんま言えそうな内容ですね。

要するに「島国根性」のなせる業だと。

p175
アイランド・フォームの社会では、親しい人間の間の交際は
はなはだこまやかである。

・・・閉鎖的グループがよく発達している。
・・同質的なものの中における洗練がすすむのである。

座談はおもしろいが、スピーチをやらせると、退屈きわまりなしと
いった名士が多くなる。

・・・腹芸が通用するように思っていて、・・・
至近距離のコミュニケーションは得意だが、遠距離のやりとりは
苦手だという。 外国人相手だとどうしてよいかわからないのが普通ーー

p176
一歩国外へ出ると、語るべきものをもっていない。
・・何を話したらよいかという国際感覚が欠けているのである。

p177
相手を納得させる言葉をもっていないのだから・・・・

アイランド・フォームの欠点である没国際感覚を改めることが
焦眉の急である。 さもなければ、危険なナショナリズムが
いつなんどき爆発するかもしれない。

===>>  国際感覚というものの定義が難しいですね。
なにを国際感覚というのか・・・
要するに上の話から判断すれば、腹芸が通用しない相手に対して
どこまで内容のある話ができるか、ってことでしょうか。

多分、そのためには、自分が思っていることを率直に
フランクに相手に伝えるってことが必要なんでしょうね。

しかし、日本ではそんなことをやると、礼儀がなっていないとか、
失礼な奴だとか、はっきりものを言い過ぎるとか、傷つけられたとか、
言葉がきついとか・・・そんな 話す内容よりも、日本語の話し方や、
敬語の使い方や、婉曲な言い方や、形式的なことどもが
いちいち魚の小骨のようにひっかかって 議論にならないってこと
なのかもしれません。

フィリピンで英語を使っていると、婉曲な言い方があるのかどうか
知らないってこともありますけど、かなり率直にダイレクトに
口をきいているような気がします。
いわばかなり事務的な言い方ってことになるのでしょうか。
グダグダ言わずに、結論を先に明確に言わなくちゃいけませんしね。

ただし、フィリピンの人は英語は使っていますけど、
結構あいまいな言い方をする人が多いような気もします。
フィリピン語の特性から来るのでしょうか、あるいはフィリピンも
島国ですから日本と同じメンタリティーが根本にあるのでしょうか。

もっとも、フィリピンはOFWと呼ばれる海外出稼ぎ者が多くて、
アメリカなどとの二重国籍という人たちも多いですからね。
おそらく日本人よりは国際感覚は持っていると思います。

日本人は金持ちですから、海外に行くといっても旅行であり
観光ですから、海外の国の人たちと交流するといっても
表面的だと思うんです。 その点、フィリピンの人たちは仕事で、
出稼ぎで、外国の家庭の中に入り込むような付き合い方をしています
から、本当の意味のつきあいをせざるを得ない交わり方なんだと
思います。その点では、日本人よりも遥かに国際感覚があると
言ってよいのでしょう。

閉鎖的な、同質なものの中で洗練がすすむ、というのは
いわゆる「ガラパゴス化」ということに通じるものなのでしょう。
小さなことに拘る、小さな違いを大げさにあげつらう。
それが洗練というものと裏表になって、良い場合もあれば
悪く出てしまう場合もある。

大局なり、本質を見失うという危険性もあるのかもしれません。

ところで、「拘る」という言葉のニュアンスは時代を経て随分変わりました。
昔は「拘る」ことはネガティブな意味合いでしたが、いつの頃からか
「拘る」ことが善となり「オタク」もポジティブなニュアンスの方が
強くなりました。

日本のこだわりの製品はガラパゴス化する一方で拘るという製品
開発が中国などで成功を収めているというドキュメンタリーもみました。

モノづくりそのものにはお客のニーズに拘ることが成功の秘訣である
一方で、その拘りという島国根性に根差す洗練さを 身内の中だけで
はなく、外の人間集団、つまりは海外へも展開できる「拘らない」、
胸襟を開く、文化や習慣を乗り越える、多様性を前提とした、
自国の常識にとらわれない態度が必要だということなのでしょう。

その3に続く

 

 

 

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