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2013年9月 5日 (木)

「日本語の論理ー不同調の美学」を読む : その1 サイレント映画の美学

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から
最後の章「不同調の美学」を読んでいます。

p265
スチールの写真を動かしてみたいという願望が「活動写真」に
よって現実となった。 しかし、これははじめ音を写すことの
できない沈黙のリアリズムであった。

p266
・・・色彩映画、立体映画があらわれるにいたって、
映画はいよいよ忠実に対象の世界を再現できるようになりつつ
ある。

p267
もともと、日本語にくらべると、ヨーロッパ言語はどちらかと
言えば聴覚的性格の方が勝っている
のだが、1920年代になって
視覚的イメージとして言語をとらえようとする傾向が顕著に
なったのである。

・・・サイレント映画がひとつの有力な原因ではなかったかと
思われる。 ・・・映像が音をともなわず、解説の言葉も
映像とはずれているために、映像感覚がとぎすまされることに

なったと考えられる。

p268
日本人が欧米人よりも言語におけるイメージの感覚がつよいのは、
・・・絵画的な漢字と音譜的な仮名を共用していること、
漢字とその発音の間にはある種のずれが存在すること、などによって
影響された結果であると考えられる。

==>> いちいちもっともなことだと思います。
表音文字をつかうヨーロッパと表意文字を使う日本との間に
そのような違いがあるというのもうなづけるような気がします。
日本人は音声を聞いて 漢字をイメージとして頭の中に浮かべますもんね。

サイレントで映像感覚が研ぎ澄まされるというのは、
私が言語の理解できない映画を最近見るようになってから
言語での意味は分からないけれども映像の流れでその意味を
取れる映画と取れない映画ってのがあるんだなあと 妙に感心して
いることがあるので、なんとなく分かるような気がしています。

p269
幼児の言語習得がすでに固定作用によるものであり、
同時にまたその作用を強化、確立するものである。
自分の家の白いイヌに対して「イヌ」という語を教わった子供は、
隣家の黒イヌもまた「イヌ」であることをはじめて知ったとき、
つよい衝撃を覚えるにちがいない。

・・この固定作用の強化はネコを「イヌ」と呼ぶまでつづけられる
イヌとネコが混同される段階ではじめて類と類の区別、異化作用が
問題になるのである。

==>> 「つよい衝撃」を覚えた覚えは私にはないんですけど、
要するに感受性の問題でしょうかね?(笑)

異化作用については、大人になってから「そうだったの?」って
感じで大恥をかくってことはありますけど。

p270
固定作用は一種の翻訳作業である。
完全には同じではないものに同じ言葉を適用する。

ある種の人間とキツネの間に共通性を直感して、その人を
キツネだと言うことがある。

p271
・・・連想の働きも、固定作用の拡大されたものと考えてよい。

固定作用は認識ばかりでなく、美の意識にとっても不可欠
働きであるように思われる。

表現媒体が、技術的に発達すると・・・
人間が頭の中でやっていた同調化の作業が機械によってすでに
行なわれてしまっている。
その結果、無意識化し、なかば本能化している固定作用の出る幕が
なくなってしあうのである。

p272
こういう受け身の認識がおもしろいはずはない。

===>> なるほど。 不足しているものがある分、そこに
美的意識が育つ余地もあるってことのようですね。

サイレント映画に近いような 知らない言語の映画に 妙な
興味をそそられるといった私の体験もそのあたりに理由があるのかも
しれません。

例えば、あの名作「2001年宇宙の旅」を初めて見た時には
わけが分かりませんでした。
「なんじゃ、この映画は?」
と思ったものです。
若い時でした。
しかし、その後も そのわけの分からないという感覚が妙に
心に残って その後 スルメを噛むように何度か見たくなったんです。

そういうものが美的というのか、芸術的というのか、そういうもの
なんでしょうね。

その2に続く

 

 

 

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「日本語の論理ー映像と言語の二重文化」を読む : 談論、活字、映像

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から
「映像と言語の二重文化」を読んでいます。

p253
・・・文化の中心は活字による情報の伝達にあった・・・
かつてはギリシャの哲学が談論の形式をとって発達したことが
驚異に感じられるほどに、知的活動はまったくと言ってよいほど
文字、活字による表現形式を通じて行われるようになっている。
近代文化とは活字文化にほかならない。

==>> 確かに、お釈迦様の時代も談論の形式であって、
当時はまったく書かれたものじゃないですもんね。
文字に書いてしまうと 意味が正しくは伝わらないという
葛藤もあったようですが。

p254
わが国も・・・教育は文字を読む能力をつけ、書物を理解し、
活字で表現されるようなものに関心を集中させた。
言い換えると、生活の次元から遊離している

活字世代も映像文化に接してはいるのだが、基本的パターンが
文字的、活字的であるために、映像を活字、言語に翻訳して
理解している。 本当に映像を見ているのではない

p255
文章表現とさし絵や写真の関係が以前にくらべて次第に緊密に
なってきている。

p257
テレビ番組がたいていはストーリーやプロットをもっている
すなわち言語的な展開をしている。
映像独自の世界ではなくて、言語でもあらわされるものを
映像によって表現しているのである。

p258
最近は、まったく筋のないハプニングを追い続けるような
ヴァラエティ・ショウが若い世代の人気を集めるようになった。

・・・映像が言語的論理の助けをかりずに独歩しはじめた・・・

==>> 談論から活字、そして今や映像という変化に伴って
意味の理解の仕方もおそらく変化してきたのでしょうね。

でも、最後の部分、映像が言論的論理の助けをかりずに・・・と
いうところは、今一つ納得できません。
なぜかと言えば、今世界中に勢力を拡大している日本のアニメや
漫画の人気の秘密がどこにあるのかという点です。

著者はストーリーやプロットは言語的な展開だと言っていますが、
まさにそのストーリー性が日本の漫画の人気を支えているんじゃ
ないかと思うからです。

映像世代と言えども、単なるハプニングを追いかけるだけの
ものには感動を覚えないのではないかと思います。

だから、言語的論理の助けをかりずにというのは納得できない。

それに、映画もその台詞やナレーションがある場合が多いし、
言語を離れているわけじゃない。
まったく知らない言語の映画を観ていて、それでもストーリー
が理解できる、あるいは、映像だけでも語りかけてくるものが
あるような映画は確かにあります。

そういうものには、おそらく著者が言っているような
言語的論理の助けを借りずに 感性に直接伝達する力が
ある映像作品もあると思うんですけどね・・・・

p261
言語と活字は男性中心文化の痕跡を顕著にとどめている・・・
思想とか論理とかは言語によってもっともよく表現される
のである。

映像はこれに対して生活的、感覚的であって、没論理を特色
とする。 

p262
一般には評判の香しくない漫画が映像と言語の調和への方向
示していると考えられる。 漫画のおもしろさは、言語だけに
よってはあらわせないものである。
もっとも漫画の構成が男性的性格がつよすぎるために
言い換えると、言語的構造に依存する程度が大き過ぎるために、
映像と言語との調和に成功していない場合もすくなくない。

==>> ほ~ほ~ほ~、出てきましたね、漫画。
この著者も漫画の言語的構造、ストーリー性は認めていたんですね。
しかし、それは男性的性格が強すぎると・・・

実は、私は 小学生のころは、毎日のようにお金持ちのボンボンの
家に通っては、漫画雑誌を読んでいたんです。
確か、二十歳くらいまでは 時々は読んでいたと思います。
しかし、その後の漫画事情はほとんど分かりません。

いつの間にか、世界に日本の漫画が広がっていたんですね。

著者が書いているテレビのヴァラエティ・ショウには
ほとんど関心がありませんでした。
私は要するに活字世代なんですね。

でも、最近、フィリピン・バギオで 世界各国の映画を観る
機会にめぐまれて、映像作品の理解しがたい、妙な魅力というもの
が次第に面白くなってきたようなんです。

次回は「不同調の美学」を読みます。

 

 

 

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2013年9月 4日 (水)

「日本語の論理ー映像と言語」を読む : その3 「あまちゃん」のあの時

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「映像と言語」を
読んでいます。

Photo

こんなサイトがありました。
「あまちゃん」が描いた3・11 その見事さと対照的なテレビ報道の貧弱さ
http://bylines.news.yahoo.co.jp/mizushimahiroaki/20130903-00027780/

「リアルなはずのドキュメンタリーやニュースで実際の映像を多用し、
かえってリアルに伝えることができない
今のテレビ全体の薄っぺらさが
対照的に浮き彫りになった。テレビ報道では、実際に存在する映像は使う
ということが習い性になっている。映像があっても使わない、という表現
をするケースは稀だ。」

上記のサイトに書いてあるように、私もドキドキしながら「あまちゃん」
の放映を待っていました。
あの大震災、大津波を 朝ドラでどのように表現するのだろうか・・・

まさに、スマートに、臨場感のある映像になっていて驚きました。
全く現実であった生々しいニュース映像を使っていないにもかかわらず。

・・・たまたま今読んでいるこの本の「映像と言語」について、
その具象性と抽象性のせめぎ合いを この「あまちゃん」の3・11が
目の前に表現してくれたという感動もありました。

前回のその2で、下のような文章がありました。

p243
意味とは慣用が生じる伝達上の効果のことである。
ことに映像は言語にくらべても「意味」があいまいである。

くりかえしという慣用は・・・イメージ化が行われ・・・
イメージ化された映像が言語における単語に相当するもので、
これはすでにメタ映像の入口にあると言ってよい。

・・・あの大津波のニュース映像は 何度も何度も繰り返されました。
そしてその映像がイメージ化され意味を持ち、単語となった。

しかし、「あまちゃん」の3・11は、その単語をそのまま使う
ということはしなかった。

あの大津波も家々が呑み込まれる唖然呆然とするニュース映像を
使わなかった。

イメージを模型に置き換えた。 
トンネルに閉じ込められた北三陸鉄道、線路が無くなっている状況を
暗示的に描いた。

しかし、それは具象的な、あまりにも具象的なニュース映像よりも
遥かに我々に語りかけたと思う。

著者の言う「映像の文法」とは何なのだろうか。

・・・・・

p247
くりかえしあらわれる映像は慣用をつくり、この慣用によって
個々の映像はその圭角を失ってイメージになる。
これが映像のメタ映像化のプローセスである。

・・映像はなまなましさをすて、典型に向かう
ある人がある時、ある場所で経験したというような具体的で
特殊な映像ではなくて、インパーソナルな普遍性を持ったものに
なるであろう。

したがって、過去の実際のできごとと記憶に残っている情景とは、
ときにいちじるしくちがうこともある。

時間をかけ、人の頭の中を何度も通ったような映像、すなわち
メタ化された映像は
、特定の人だけに訴えるのではなくて、
すべての人に訴える力をもっている。

p248
メタ映像は、・・・家で飼っているイヌだけをあらわすのではない。
・・どのようなイヌにも対応するのである。

これに相当するものを言語表現において求めるとするならば
神話やおとぎ話の中の言葉がそうだと言えるであろう。
・・・オール・ウェーブ的表現である。

p249
映像文化においても、万人のひとしく心をひかれるような
普遍的なメタ映像に着目し、それを組織的に用いるならば
真のマス・コミュニケイションも夢でなくなるであろう。

===>> 「あまちゃん」のあの時3・11は、もしかしたら、
ニュース映像で何度も放映されイメージ化され、いわば陳腐化した
あの体験を、あらたな表現で 新鮮な、臨場感のある映像体験
として私たちに見せてくれたのかもしれません。

そして、そのことによって、「万人が等しく心をひかれる」
朝ドラの映像になったのかもしれない、と今、私はこの本を
読んでいて思ってしまいます。

p249
そこに表現者の人為が加わってはじめて、映像が表現になる。

映像を必要にして充分なかたまりで区切る。
その単位をかりにカットと呼ぶならば、なるべく相互に衝突して
火花を散らすようなカットの結合を行なう。
この結合法が映像の文法である。

p250
言語においては、統語法というものがあって、語を連ねて
センテンスにする方式は決まっている。

映像においては・・・・
わずかに、映画においては、モンタージュというセンテンス
構成法
があるが、これについてくわしいことを知っているのは
映画製作者とごく一部の人たちにかぎられている。

・・・これは連句の付け句の技法からヒントを得たといわれて
おり、われわれにとってはとくに関係のふかいものである。

・・・論理を外して感情に訴えるような場合にとくに有効で、
いわば、詩的な文法だと言えるものである。

p251
学校教育でも、国語教育や視聴覚教育にはかなりのエネルギーが
注入されているが、映像の読み方についえは何も行われていない。

映像文法を確立するには、夢の論理を明らかにして、これを
体系立てるのがもっとも有効な方法であるように思われる。

==>> ほお~~~、おもしろいですねえ~~~。

「語を連ねてセンテンスにする方式」で、日本語教師の端くれと
して頭に浮かんだのはつぎのような日本語のルールです。

助詞の「に」と「で」は通常「場所」を表すものとされていまして、
例えば、
「Aさんが バギオに います。」
「Bさんが バギオで 遊んでいます。」
というような文章があるとすると、
「に」は存在動詞の「いる」と対になり、「で」は一般動詞と
対になって使われる、などの文法ですかね。

このようなルールが、映像を繋いでいく場合にもあるのだろう
ってことですね。

それが、もしかしたら日本の連歌、連句の発想に近いものが
あるのかもしれないと、著者は暗示しているようです。

著者がいうように、映像の読み方という教育は必要かもしれませんね。
今は、インターネットなどの急速な拡大で、文字を読むことよりも
映像を見ることの方が多いでしょうし、その映像には必ず
人為、つまり製作者の意図があるわけですから、
賢明な国民を育てるという意味では、映像をどのように読み解くか
の教育は重要なことではないでしょうか。

もっとも、愚民政策をとって 国民をコントロールするために
映像を使うという政府、国家組織の方針があるのならば
やる必要もないかもしれませんけどね・・・(笑)

次回は、「映像と言語の二重文化」に入ります。

 

 

 

 

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「日本語の論理ー映像と言語」を読む : その2 映像に語らせる

「にほんごの論理」外山滋比古著 中公文庫 から「映像と言語」を
読んでいます。

p238
言葉以上に ものの世界から足を洗いにくいのが映像である。

p239
対象の姿をあるがままに写しとることは、多くの場合、
大した意味がない。

映画の歴史を観ても、初期では単純なリアリズムしかないが、
やがて、映画の文法ということが考えられるようになる。

映像論は・・・・言語にくらべてもはるかに抽象しにくいメディア
を、これから どうして抽象化に成功するかという方向に向かうべき
であるように思われる。

p240
どうしたら具象的表現が典型的映像たり得るのか。

p242
映像に即してメタ映像を構想する足がかりが求められている。

映像原型をもっていない人には一度だけの映像は「意味」を
もたない。
それでコマーシャルなどでは、何度も同じ映像を
くりかえす必要があるのである。

p243
意味とは慣用が生じる伝達上の効果のことである。
ことに映像は言語にくらべても「意味」があいまいである。

くりかえしという慣用は・・・イメージ化が行われ・・・
イメージ化された映像が言語における単語に相当するもので、
これはすでにメタ映像の入口にあると言ってよい。

===>> なるほどねえ・・・言葉がもっている意味に
相当するものが 映像のイメージ化ってことでしょうか。
言葉というものに染みついている個人個人のイメージと
同じように、ひとつの映像にあるイメージが定着することで
言語と同じような意味を持たせられるってことになりますか。

ただ、言葉自体はそもそも抽象的なものであるけれども、
映像は具体的なものを元にしているわけだからそれに
抽象的な意味をもたせるのは大変だよってことかな。

なかなか難しいですね。

p244
おびただしい映像を見ている。・・・現実の情景も見ている。
しかし、それらの大部分は忘れてしまって、覚えていない。

より重要なことは、言葉を読んで理解するのには、それに
必要な枠組みをもっていることが多いのに、映像には
枠組みがない
という差である。

p245
かならずなにがしかのイメージ化された映像をもっている・・

西洋の人間にくらべて、日本人の方がイメージ化の程度が
高いのではないか
と思われるフシがある。
それは、色のついた夢を見ている人が西洋には日本人よりも
多いらしいことによっても察することができる。
なぜ、モノクロームの夢の方が色のある夢よりもイメージ化が
高度であるのか。

鮮やかに思い出されるものには色彩などの感覚的要素が
残っているが、遠い過去の思い出はたいてい淡い色をして
いるものである。

p246
・・仕訳けと再認の作業が睡眠中に行われて、それが夢となる
ものと考えられる。
・・・よく消化された、あるいはすでにイメージになりきった
ような古い映像は白黒のモノクロームになっている。

===>> よよよよよ・・・・これはなあ・・・
信じていい理論なんでしょうかね?
西洋人の方が色のついた夢をよく見るって・・?
私は色のついた夢ってのはほとんど見たような記憶がないんですけど、
今思い起こすに、小さい頃に近所で大きな火事があったんですけど、
その火事の夢はたしかに赤かったような気がします・・・

でも、確かに、映像というものにあるイメージがこびりつく
ってことはありそうですね。
ある映像を見ただけで恐怖で足がすくんでしまうとか・・・

もしかして、恐怖映画なんてのは そういうイメージ化を
利用したものなんでしょうか。

しかし、映像だけの映画ってなかなか見ることはないですよね。
ほとんんどは 音声や音楽が一緒ですもんね。

タイトルを忘れてしまったんですけど・・人間の食に関するもの。
ドイツで制作された映画をみたことがあるんですが、
それはほとんどナレーションみたいなものはなくて、
音はありましたけど、淡々と映像を流すというものでした。
しかし、そういう映画であるのに、強烈な印象が残る素晴らしい
映画だと思ったもんです。

言葉の分からない映画をみることが最近時々あるんですけど、
映像の流れだけで意味が分かるという映画は凄いなあと
思うことはありますね。

その3に続く

 

 

 

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2013年9月 3日 (火)

COSWALK at Baguio Day Parade 2013 コスプレ大集合 in バギオ

2013年9月1日に実施された バギオ市制104周年記念の バギオ・デイ・パレードで撮影したスナップです。

011

バギオ・コンベンション・センターで パレードの出発を待つコスプレ愛好家の皆さん。

012

私には さっぱり何のコスプレなのか 分りませんが・・・・・

017

あっ、これはコスプレじゃなくて 「ミス・バギオ・コンテスト」の挑戦者。

018

・・・これは、コスプレと言えばいえなくもないですが、バギオ市の歴史を紹介する仮装(?)です。

021_2

むむむ・・・・ これは・・・・ 山岳民族のコスプレ???(笑)

昔の うちの親父を思い出すなあ~~~~~。

027

コスプレが なんでフィリピンの若者の心を捉えたのか ・・・・・

028

私にゃあ~、その理由なんて分りませんけど、・・・・・

058

コスプレの楽しさって・・・・・こういう恰好をして歩くってだけでも 心がウキウキしちゃうってところに 根本的な楽しさがあるんじゃないっすかね?

086

こんなに可愛い子たちが こういうのを着てると カッコエ~~じゃないですか。

すんまへん、かなりエロ親父目線になってまんなあ~~。(笑)

090

フィリピンのバギオ市周辺には コスプレ・グループがいくつかありまして。

法人格まで取得している Otageki Cosplay Association, Inc.(オタゲキ)、

バギオ大学で公認されている KAWAII KAZOKU(可愛い家族)、

それに、XD組 とか、 最近できたという TENSHI(天使?)、

その他にも 家族でグループを作ったり、 いろいろあるみたいです。

091

今回のパレードで 一番過激(?)だったのは この子だったかな?

092

多いのは大学生みたいですけど、大学のOB/OGだったり、中にはハイスクールの学生たちもいるようです。

097
今回の 一番の「ご苦労様だったで」賞は、なんと言ってもこの ロボット。。。。

バギオの当日の気温は 多分25度Cぐらいだったと思うんですが、 これを日本の酷暑の中でやったら 完全に 熱中症になったと思います。

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山岳民族の衣装を着た 女の子も 待ちくたびれた様子ながら、じっと立っていました。

138

・・・そして、朝8時に集合した人たちが動きだしたのが 11時過ぎ・・・・・

163

セントルイス・ハイスクールのバンド。。。。

うしろの男の子・・・・かなりのイケメンじゃないっすか??

184

・・・そして、先頭が出発してから およそ45分後・・・・・

やっと 日系人&日本人コミュニティーのグループが出発・・・・・

待ち時間は 8時から正午まで・・・なんと4時間。

式典の演説も エー加減にしてくれよなあ~~~~。

186

この浴衣姿で 4時間、屋外で座るに座れず 立ちん坊ですよ。

よく辛抱してくれました。 有難う。

208

コスプレの皆さんは、この日本人グループとして花を添えるために参加してくれたんです。

嬉しいじゃないですか。

211

このコスプレの皆さん。

同好の志の結束力ってんでしょうか、凄いもんです。

220

この二人の女の子。

頼みもしないのに、横断幕を持たせてください! だって。

世の中には 助っ人をやってくれる若い人たちが いるもんなんですねえ。

248

「日本文化とフィリピン文化のコラボレーション」

ここに参加してくれたのは おおよそ100人でした。

261

私は こういう「ノリ」が大好きです。 ありがとね~~。

268

コスプレって ただ仮装して 歩いているだけじゃないか・・・

な~~んてことを思っていたんですけどね。

なんのなんの・・・自分で手作りでやったり、友人と協力したり、演劇風にアクションを入れたり、日本語を勉強したり、日本の歴史やら文化なんぞを 私以上に知っていたり・・・

まさに、オタクなんですけど、それが 日本で抱いていた暗い雰囲気とは違って、フィリピン人の国民性もあるんでしょうか・・・えらく明るいんですよねえ~~。

おそらく、日本に居たら 私も コスプレの「追っかけ」? なんてやってませんね。

310_3

およよ・・・ この白髪の爺さん・・誰???

って思っていたら・・・ なんと世界的に有名な映画監督さんでした・・・・

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バギオ一番の繁華街 セッション通りを 車の心配もなく 真ん中を ゆっくりと歩くっていうだけで、気持ちがいいもんです。

326_2

 

・・・・ しかし・・・コスプレって、なんで女の子が多いんですかね???

男よりも女の方が 変身願望が強い・・・とか?

まあ、元々 女は化けるもんじゃああるようですけど(笑)。

346

・・・ところで、この中に日本人はいるのかって??

いい質問です。(笑)

335

残念ながら 自ら 自作のコスプレをやっている在住日本人は 参加していませんが、この4人の着ぐるみ隊は 正真正銘の日本人です。

379

そして・・・このお爺ちゃま・・・

このコスプレが お好みだったみたいです・・・

大丈夫かな・・?(笑)

375

アイスクリーム、 ごっつあん でした!!!

82個で 完売しちゃったみたいです。

他のお客さん、すんませんでした。

 

 

 

 

 

 

       


 

 

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