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2013年11月14日 (木)

2013年11月14日 アクセスが 222,222 になりました

お陰様で アクセス 222,222 に辿り着きました.

222222_016

いつもお立ち寄りいただき、有難うございます.

222222_016a

いつから始めたのか・・・わすれちゃいましたが・・・・

・・・っと、2005年の8月30日から始めていました.

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/week35/index.html

今後とも宜しくお願い致します.

させ たもつ

 

 

 

 

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2013年11月13日 (水)

長崎県佐世保の大先輩が 100年前のフィリピン・マニラ・バギオへ - 2

金ケ江清太郎 著 
「歩いて来た道 -ヒリッピン物語」 
昭和43年4月10日発行 国政社

から フィリピン・バギオの昔を垣間見る

p184
日本バザーの再建に血みどろな戦いをつづけているころであった.
長崎にいる菅野貫一君から
チチヤマイニテシス
という、思いがけぬ父の訃報に接した.

痩身だった父は、木登りが上手で、少年のわたしを連れて、
薪を拾いに近くの愛宕山へ行くと、よくシイの木へのぼって、
シイの実を落としてくれたものだ・・・・

=== 故郷佐世保の愛宕山という名前を なんとなく懐かしくおもい
     インターネットで探したところ、佐世保の山々を縦走したという
     サイトが見つかりました・・・
     http://ichibunn.exblog.jp/15166940

p193
日本領事館の歴代領事でさえ、手をつけかねていたサンパロク街の追放
語学も満足にできない青山竜吉氏が、しかも単身で総督官邸に乗り込み、
フランシス・ハリソン総督を説き伏せて、退去命令書にサインをさせた・・・

p194
サンパクロ街の楼主たちの耳に入ると、・・・サンパクロは一時大混乱に
陥った・・・・

1932年・・・・氏の葬儀は、マニラ本願寺で執り行われたが・・・・
日比各方面から・・・義人・青山竜吉氏の葬礼にふさわしい・・・

=== 昔は、このような豪傑がいたんですねえ・・・
      それにしても よくまあ、女郎屋の連合に殺されなかったもんです
      63で穏やかに亡くなったらしい・・・
      マニラに本願寺があったんですねえ.

p197
「こんなことでは、日本人の信用も発展も望むべくもない. よし、おれがひとつ
人間のゴミ掃除役を引き受け、邦人社会をきれいにしてやろう
そう決心した玉田氏は、せっかく発展していた土木・建築業の仕事を
惜しげもなく捨てて、マニラ商工新報社を独力で創業したのである.

p198
マニラにおける日本人社会が、アジアの他の都市に比較して、国際的信用と社会的地位
を保つことが出来たのは、むろん在留邦人自身の自覚と反省によるものである
が、この玉田氏と青木氏の二人の献身的な努力に負うところも、また少なくない
のである.

p354
杉山氏も梶原氏も、終戦当時、北部ルソンの山岳地帯をわたしとともに逃避中、
杉山氏は病魔に犯されて不帰の人となり、梶原氏はピストルで自らの命を絶った・・・

p354
永上氏は・・・・ダバオの麻山移民として渡航した人だった・・・
その後・・・土木・建築業に従事し・・ もっとも有名だったのは、南イロコス州の
アブラ川に架設した橋梁工事である・・・バナオアン橋と名付けられた

p356
さいわい戦争の被害をうけず、今日も多くのヒリッピン人に利用されているらしい・・・

===この橋は おそらく 世界遺産であるビガンへ行く手前にある大きな橋
    のことではないかと思います.
    当時のままではないでしょうが、わくわくしますね.

こちらのサイトにありました・・・
アブラ川に架かるバナオアン橋です:
http://biancatalks.tumblr.com/post/41288323303/banaoang-bridge-ilocos-sur-tourist-spots-philippines#.UoNeTWw_jIU

こちらの人の話では、おそらくマルコス時代に架け替えられているだろうとの話ですが・・・

p357
森貞蔵氏は、ベンゲット登山道路開さく工事に働いた、日本からの移民労働者
現場監督の一人として、渡航した人であった.
工事竣工後は、バギオで農業に従事したり、・・・・後年、株式会社高橋バザー
を創立した高橋精一氏と・・・・せんべい焼をはじめ、せんべいを焼く重たい道具を
背中に背負って、毎日、部落から部落へ、汗を拭き拭き行商して歩いたものだ

そうである.

=== すごいエネルギーですねえ. せんべいがそんなに売れたのかいな?

このせんべい焼で稼いだ資金で、マニラで始めた商売が、自転車の修理・販売だった.

まだその頃のマニラでは、自転車といえば欧米製ばかりだったが、森氏によって、
はじめて日本製の自転車がヒリッピンに輸入されるようになったのである.

時流に乗った森自転車商会は、またたく間に大きくなり、・・・・リサール街に
立派な本社があった.

p358
宮崎新吉氏は、1907年ごろには、すでに、シンガロン街で大きく園芸業
営んでいた・・・・北部ルソンの山中を必死で逃げ回った・・・
数か月にわたる逃避行中に、むなしく山中の土に還ったが、その生涯をかけて
愛しつづけてきた、・・・胡蝶蘭が咲き匂う仙境で、・・・
静かに眠っていることは、・・・あるいは幸せなことかもしれない.

p362
マニラ日本人病院の経営者だった天野米吉氏は、・・・・はじめバギオ市の
ジャパニス・バザー(店主・早川秀雄氏)の支配人
として敏腕をふるい、
のちマニラへ出て、ヒリッピンで最初の邦人病院を創立した人である・・・

p364
大沢清氏は群馬県の出身・・・・はじめクラブ化粧品の販売員をやって・・・
新聞・雑誌に大きな広告を出すので、・・・話題になっていた・・・
大沢商会として独立し、スポーツ用品の美津濃のヒリッピン特約店となり・・・
マニラの社交界に顔を売り、・・・万事派手好みで・・・・

p365
昭和二十年(1945)の正月、マニラ在留邦人が北部ルソンへ向かって
逃避する時、この大沢氏も一緒だった・・・カバナッツアンというところの近く
まで来た時・・・・トラックに轢かれて、瀕死の重傷を負った・・・
ヒリッピン人の車に救われ、・・・終戦まで入院を許され、・・・九死に一生を得たのである

p367
清水ミツさんは、長崎県佐世保市の人.
料亭・さくらの女将として有名だった.
一娼婦から身をおこして、当時、飛ぶ鳥も落とすほどの勢いだった将軍・閣下の
宴席にもはべり、・・・女将の貫録十分だった.
自ら女侠客をもって認じ、マニラの花柳界を牛耳る一代の女傑であった.
ヒリッピンの政・財界人にもこの店を利用する人が多く、日比親善にも
一役買っていた・・・

おミツさんは、在留邦人が北部ルソンへ逃げる前に、郷里へ引き揚げていたが
・・・孤独のうちに淋しく亡くなった・・・・・

=== 最後に またまた 私の故郷佐世保の女将が出てきました・・・
     しかし、在留邦人がバギオ方面へ逃げる前に佐世保に還っていたって
     ことは、おそらく戦況を知る立場にあったということでしょうかね・・・
     孤独のうちにとありますが・・・・幸せだったんじゃないでしょうか・・・
     人は誰でも死ぬときは孤独ですし・・・まして、ふるさとで亡くなったん
     ですから・・・

中部大学の青木澄夫教授からご紹介いただいた一連の資料を
読むことができました.

フィリピンのバギオという土地で、私とは元々は無関係の外国の土地ではあるものの、
100年前の扉を開いてみたところ、なんと自分の故郷佐世保の
大先輩たちの名前が次々に出てきたことに驚き、フィリピンあるいはバギオという
土地が ぐっと身近になったように思います..

私の伯父が他界する何年か前にぽろりと漏らした昔話の中に、
私の祖父の時代に 親戚の一人がフィリピンに渡ったことが語られ、
古い戸籍を調べたところ 伊之助という男がいて、日系人団体のデータベース
から その伊之助が マニラに渡航していたことが発見されたのです.

伊之助がマニラに入ったところまでは分かったものの、その後の足取りを
知るものはいません・・・

その当時は、ダバオのアバカ景気が始まる前の頃で、マニラあたりも
不景気だったということになっていまして、伊之助がどうなったものやら・・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2008/09/post-0845.html

私があの世に行く前に その謎がとけるのか・・・
あるいは、あの世で 伊之助に会うしかないのか・・・・(笑)

 

 

 

 

 

 

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長崎県佐世保の大先輩が 100年前のフィリピン・マニラ・バギオへ - 1

金ケ江清太郎 著 
昭和43年4月10日発行 国政社
「歩いて来た道 -ヒリッピン物語」
 から フィリピン・バギオの昔を垣間見る

著者の略歴をみると次のようなことが書いてあります:

1894年 長崎県佐世保市に生る
1909年 16歳で単身マニラへ渡航
その後、マニラの日本バザー、セブのジャパニーズ・バザー、
マニラの日本バザーを引き継ぎ、ナショナル・ゴム工業を創立
1945年 終戦のため引き揚げ

別の本には、著者について、次の記述もありました:
「戦前、戦中をとおしてマニラの邦人会の指導的地位にあった、金ケ江清太郎
なども1910年入国の際、他人のパスポートで不正入国している」

この本にはほとんどがマニラ周辺に当時在住していた日本人のことが
書いてあるのですが、ごく一部にバギオ関連もありましたので、
抜き書きしてみます:

(著者のパスポートについての記述がありました)

p34
叔父からの返事が・・・・
同封のパスポートを持って乗船するように、と指示してあった.
それには長崎県島原の人で ケン・シゲマツ という氏名が記入してあり
年齢のところだけをインク消しで消して、十六歳と書き直してあった.

その頃香港には、・・・各国の船員相手の日本人や中国人経営の女郎屋
があり、・・・・・梅屋写真店と看板の出ている家があったが、この写真館の
主人が、裏では婦女子の売買や密航者の斡旋をしている一味の、大ボスで
あることを知ったのは、ずっと後のことである.

香港へ着いてようやく十日ぶりに、人身売買の恐ろしい魔窟から解放された
わたしは、・・・・長崎を出てからおよそ一ヶ月ぶりに、マニラ湾の南国的風光に
接することが出来たのである・・・

=== う~~ん、香港を中心に日本人の人身売買をしていたんですね・・・
     わが故郷の佐世保でなにがあったんでしょうか・・・

第2章 草創期のマニラの在留邦人

p36
汽車に乗り込み、叔父が店を開いているパンパンガ州の アンへレス という
町へ向かった・・・・

わたしの膝をそっとつつく者がいる・・・・
一人の身なりの貧しい老婆が、紙袋から取り出した駄菓子を、
食べないかと勧めてくれるのだった・・・

一老婆が示してくれたささやかな親切が、身に染みてうれしかった・・・・
終戦で引き揚げるまでの三十余年間、ヒリッピン人に対して終始抱きつづけて
きた善意と友情は、じつにこの時、わたしの胸にその根をおろしたものであった.

=== 異国へのイメージというのは、こういう一人ひとりの善意が
     それを決定するのでしょうね・・・
     「ボロは着てても、心の錦・・・」なんて歌がありましたけど・・・

p37
叔父の店は・・・・
此処から数キロ離れたスタンチバーグという所に、アメリカ陸軍の駐屯部隊
いて、そこの兵隊や家族をお顧客にして・・・・

その日から 坂本商店 の店員となって、働くことになった・・・・

p38
この町での日本人といえば・・・・
アメリカの兵隊相手に商売している 2,3軒の日本の女郎屋があるばかりだった・・・

===今は昔ということですかねえ・・・・
     今のアンへレスは 韓国人や日本人がお客らしいですが・・・

p39
明治四十三年(1910)・・・・
三井物産マニラ出張所の給仕として勤めるようになった・・・

p40
スペインの植民地からアメリカの統治に移ったヒリッピンでは、・・・・英語熱が
もり上がっていた・・・・
私が日本バザーに入ってから通学するようになった ・・・夜学校では、
・・・親子や兄弟で一緒に机を並べ、初級の英語を懸命に勉強したいた・・・・

当時の この国の文化や経済は、日本に比べるとはるかに遅れており
民度は低く庶民の生活は貧しかった・・・・・一部の地主など富裕階級をのぞく
一般のヒリッピン人は、・・・・

彼らは、日本人に対して セニョル(旦那さん)と呼び、アジアに
おける先進国民として敬意を表していた・・・

===1911年の時点では、おそらく、日清、日露の戦争で
     アジアの人たちが日本を見る眼が変わっていた時期なのでしょう・・・・

p41
マニラ市内にも・・・ニッポン女郎屋が、都心から東北にあたる サンパロク街に
三十数軒もあり、そこで働く娼婦の数もゆうに三百人を超えていただろう・・・

p42
このサンパロク街には日本の領事館があり、また曹洞宗の南天寺という
お寺もあって、・・・キャッポ地区には ・・・二軒の旅館があり、
ほかに奥村医師 (長崎県人)と・・・ 大工や売薬、せんべいの行商、
それに洋妾(らしゃめん)などが住んでいた・・・

そして海岸地帯のトンド地区には、広島県から来ている漁師たちが
一郭を成していた・・

p43
マニラにおける経済界の実権は、すべて華僑の手にがっちりと
握られていたのである・・・

マニラに日本人会が設立されたのは、・・・1901年である・・・
会員の80パーセントまでが、サンパロク街の姐さんたちであり、
役職に名を連ねているのが、それぞれ前科をもった楼主たちであったのを
見ても、在留邦人の生活環境や社会的地位がどんなものであったか、
推して知るべきである・・・

=== すごい日本人会だったんですねえ・・・(笑)
      女郎屋協同組合みたいなもんじゃないですか・・・
      上記の「先進国民として敬意を表していた」との整合性は・・・???

ヒリッピン各地に店を開いていた当時の在留邦人・・・・
バギオに早川商店、 レガスピーに・・・、ホロに・・・、 オロンガポーに・・・・、
キャビテに・・・、サンボアンガに・・・、アンへレスに・・・

特別の人としては、 ダバオの太田興業の創始者である太田恭三郎氏が、
ベンゲット登山道路開通工事に日本から来ていた移民労働者を、
工事完成とともに そのうちの数百人を引き連れて、ダバオで麻山の開拓に
従事していた・・・・

p44
アメリカ総督の施政下にあったヒリッピンでは、1899年(明治32年)に
アメリカの議会で制定された排日移民法が、そのまま適用されていたため、
日本からの移住はとくべつやかましかった.

旅券のない娼婦たちは、乱暴にもセメントの空き樽に無理やりおし込み
貨物扱いにして送るのだが、マニラへ着いて開けてみたら、可哀そうに
みな窒息死していたという、・・・・

p45
未開から文明への草創期にあったヒリッピンでは、今日のわたしたちの
常識や感覚では、とうてい理解できないようなことが、至極あたりまえに
行われていたのである・・・

===ここには、フィリピン人のことというより、変な日本人のことも
    書いてありまして・・・・その内容は古書店でどうぞ・・・

ーー その2 に続く ---

 

 

 

 

 

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2013年11月12日 (火)

日本人の女は「売春婦」、男は「ならず者」だった・・・100年前のフィリピン

「世紀転換期における日本・フィリピン関係」
池端雪浦, 寺見元恵, 早頼晋三
東京外国語大学アジア・アフリカ言語文化研究所

「第2章マニラの初期日本人社会とからゆきさん」  寺見元恵 著

フィリピン・バギオ市の日本人・日系人の歴史を調べているうちに、興味が次第に
広がりまして、100年前のマニラにはどんな日本人がいたのか、気になりだし
ました.

昔はいわゆる「からゆきさん」と呼ばれる日本からの売春婦がフィリピンにもたくさん
いたというのは聞いていましたが、その歴史を読むのは初めてです.

今でこそ、「じゃぱゆき」と言って蔑まれるフィリピン人女性たちが
数年前まで日本のフィリピン・パブに大勢いましたが、海外から人身売買だとの
非難を受けて、エンターテイナーとして日本に来ていたフィリピン人女性たちは
日本から締め出されてしまいました.

私自身は、元々 英語教師などとして、フィリピン人をどっと日本へ入れるべきだと
考えている人間ですから、フィリピンのイメージが悪くなる職業ではなく
尊敬されるべき職業、日本人が頼りにする仕事で、持ち前の明るさを発揮して
活躍してほしいと思っているんです.

・・・・

さて、この資料を読んで、100年前の日本人はどのようにフィリピンと関わっていたのか
を見ていきますと、 こんな言葉が出てきたんです:

p53
アメリカの植民が始まると同時に押し寄せた日本人は、マニラではサムパーロックに
集中して住み、女は「酌婦」、男は「ならず者」のイメージをフィリピン人に植え付け
つつ日本人町は発展していった.

===ここで「酌婦」というのは、いわゆる「からゆき」さんで、売春婦ってことなんですね.
    100年前は、日本人はアメリカが植民地としたフィリピンへ出稼ぎをして
    嫌われていたってことです.
    今現在の日本でのフィリピンのイメージは 残念ながら このようなもの
    になっているんでしょうね.
    日本人だって偉そうなことは言えないってことです.

p38
1903年には、マニラだけでも一挙に1,000人に膨れ上がった.
一番多い男性の職種は約25%にあたる265名の大工職だが、女性の方は
「酌婦」がそれを上回る280人、
それに酒小売業者が33名(すべて女性)で
・・・・邦人のおよそ3分の1が歓楽街に関係する・・・「からゆきさん」のことで・・・

p39
からゆきさんについて語る時、避けて通れないのが、一女衒の書き残した
回顧録「村岡伊平治自伝」である. 

村岡が妻と他の女性14名をつれてマニラに上陸するのは1900年10月のことだが、
1903年に・・・・・長崎出身の山口某という男が台湾で移民取扱い代理人として
種々な不正行為をしていた.

===つまらないことですが、私も長崎県出身なもんですからね(笑)
     この山口某は結局詐欺師だったようですけど・・・

p43
日本領事館の報告に日本人女性が初めて記載されるのは1896年で、数は2人.
1899年には10人に増えている. いずれも居住地はルソン島で、
職業不明である.

1898年の10月にはシンガポールから2人の日本人女性が入国し、
市内の「カリカリエタ」にカフェ・バーを開店した. ・・・・この2人の女性は
ともに長崎出身で・・・・・
ヨーロッパ人の「その筋の女性」の入国が当時とみに増え・・・・

===じぇじぇじぇ・・・ここでも長崎出身・・・
    まあ、長崎は鎖国時代の中で唯一の世界への窓でしたからねえ・・・
    長崎の女性はおそらく外向きだったんでしょう.

p44
1899年フィリピン革命に参加するためにはるばるやって来た日本人志士たちの
中には、娼楼に潜んだ者もいて、からゆきさんの世話になっている.

===昔は「英雄色を好む」なんて言葉がありましたけど・・・死語ですかね?

p44
1901年に当時はまだ清閑な住宅街だったサムパーロックに、新しく
アメリカ兵のR&R地区がたてられた. 
当時は、毎晩・・・・・大勢のアメリカ兵がやってきた.
一般の人は立ち入り禁止で、・・・・和服を着た日本人女性もいたが、
その他にドイツ人、アメリカ人、フィリピン人、ポルトガル人などもいたという.
・・・日本人女性が一番多かったそうだ・・・

p47
1900年には、サムパーロックには既に34軒の女郎屋と200名近い女性
いたと自伝にある・・・

1903年にアメリカ植民政府のとった全国の人口調査によると、
「自ら売春婦と認める女性は、476人いて、・・・・75人が白人女性で、・・・
260人は東洋人でその殆どが日本人である」

相当の数の者が旅券無しで不法入国したとすれば、実際の「醜業者」の数は
・・・記録をかなり上回るに違いない.

戦前、戦中をとおしてマニラの邦人会の指導的地位にあった、金ケ江清太郎
なども1910年入国の際、他人のパスポートで不正入国している

=== なんと、この金ケ江清太郎ですが、長崎県佐世保市の出身
     と書いてある本がありました・・・ 再びじぇじぇじぇ

p48
実際には「アメリカ兵の肉体的必要」から売春婦の入国を、当局は見て見ぬふりをしていた.

p51
1910年代で同地区のフィリピン人女性の相場は2ペソだったそうだ.
その頃の2ペソと言えば、アメリカ製の腕時計かまたは高級な革靴が1足
買えたそうである.

ダバオでは1919年の時点で、1晩30ペソだった.
その頃の麻農場で働く日本人労働者の日給は1ペソに過ぎなかった.

===そうですか、一ヶ月分の給料だったんですねえ・・・
     そりゃあなかなか女に溺れるってこともできないねえ・・・

p51
フィリピン人の日本人像

当時のフィリピン人にとって日本人と言えばサムパーロックを連想し、
日本人女性と言えば夜の街を彩り男の客を待つ娼婦で、男性は何かというと
すぐ声を荒立て暴力をふるう者
というイメージが彼らの中にしみ込んでいった.

p53
(日本人の)男性の方は、・・・・「いつも女を怒鳴りつけるような物の言い方をする、
荒々しい男」がステレオ・タイプとして登場している.

===まあ、日本人男性はあまり変わっていないのかもしれないですねえ・・
    フィリピンで見る日本人男性の中には、何を勘違いしているのか
    偉そうに些細なことで怒鳴り散らしている人も時々見かけますもんねえ・・・
    ここは日本じゃないってことを、海外だよってことを、分かっていないん
    でしょうねえ・・・滑稽なだけなんですけどねえ・・・
    それに、戦時中も そういう態度だったから 植民地政策もうまく
    いかなかったんじゃないのかなあ~~~
    残虐な日本人・・ってイメージが残っているみたいですよ

当時の日本人女性の実際の職業は・・・「酌婦」の次に多いのは、子守、按摩など
である・・・

p54
1910年現在で・・・・
「特殊業者(からゆきさん)」の数

ボントック 0、 サン・フェルナンド 2、 バギオ 9、 オロンガポ 56、
カビテ 37、 等など

=== おお、オロンガポは 100年前から 多かったんですねえ・・・
     さすが米軍基地・・・・
     バギオは山奥でも9人ですか・・・
           1910年ころは計画都市としてのバギオ市の建設ラッシュのころでしょうから、
     景気も良かったんじゃないでしょうか.

いずれにせよ、歴史を辿れば、昔は日本からフィリピンへ多くの出稼ぎ者が
不法入国してお世話になっていたわけです・・・・ 

歴史は繰り返されるっていいますからねえ・・・
少子高齢化が急速に進む日本は、フィリピンの人たちにお世話にならなければ
やっていけない時代に突入しつつあると思うんです.

偉そうにいばって怒鳴ったりするのは やめた方がいいと思いますよ~~~.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2013年11月11日 (月)

台風30号 YOLANDA フィリピン被災地への募金サイト

史上最大のスーパー台風だったのではないかとも言われている 8月8日の台風30号 フィリピン名 YOLANDA (ユランダ)は、フィリピン・レイテ島のタクロバン市を中心に 津波のような高潮に襲われ、壊滅的な状態にあり 11日現在も通信網が破壊され 詳しい被害状況は まだ明らかではなく、日本人居住者の安否も確認できていないようです. 

ABS・CBNテレビのサイトで その惨状の写真をご覧ください:

http://www.abs-cbnnews.com/nation/regions/11/10/13/close-tragedy-tacloban

今現在、さまざまな団体が 救援活動に乗り出そうとしていますので、募金などサイトを参考までにお知らせします.

詳しくそれぞれのサイトをよくお読みになり、自己の判断で支援をされることを望みます:

台風で400万の子どもたちが被災。ユニセフは緊急支援を開始

http://www.unicef.or.jp/kinkyu/typhoonhaiyan/2013_1111.html

11月8日フィリピンに上陸した台風ハイエンは、多くの地域に甚大な被害をもたらしています。最新の推計では、400万人の子どもが被災した可能性があるとされています。ユニセフは緊急支援物資の配送を急ピッチで行っています。

日本赤十字

日本赤十字社では、国際赤十字・赤新月社連盟とフィリピン赤十字社が実施する本台風並びに地震災害に対する救援・復興事業を支援するため、下記により救援金(救援金名称「2013年フィリピン台風救援金」)の受付を行うこととしましたので、皆様のあたたかいご支援をよろしくお願いいたします。

http://www.jrc.or.jp/contribute/help/l4/Vcms4_00004046.html

ICAN 認定NPO法人アジア日本相互交流センター

http://www.ican.or.jp/j/feature/disasters2013.html

2013118日にフィリピン中部を襲った台風30号(ハイエン)は、広範囲に壊滅的な被害をもたらし、被災者は950万人以上、死亡者は10,000人を超えると見られています。これに対して、アイキャンは、フィリピンで20年の活動の経験をもとに、緊急救援活動を実施いたします。

日比NGOネットワーク

フィリピン大型台風30号(ヨランダ)被災者支援活動を開始

http://jphilnet.org/emergency/

政府の発表とは別に、フィリピン赤十字や警察は、死者は10,000人以上に上るだろうと予想しています。レイテ島タクロバン市だけで1,000人は超えるだろうとのことです。

食糧や生活用品などの支援が必要とされており、フィリピン国軍やフィリピン赤十字、社会福祉開発省、NGO等は、すでに物資配布や行方不明者の捜索活動を行っています。また、橋や道路の崩壊などにより、孤立した集落や避難所もあり、復旧作業が進められています。

フィリピン赤十字社

Red Cross conducts assessment, sends aid after supertyphoon battered Visayas

http://www.redcross.org.ph/

After super typhoon Yolanda (international name Haiyan) battered Visayas,  the Philippine Red Cross (PRC) has deployed assessment, rescue and relief teams  to evaluate the damage and to support rescue efforts.

フィリピン国内から寄付をされる方は、こちらのフィリピン赤十字のサイトで 携帯電話などからの募金ができる説明などもあります:

http://www.redcross.org.ph/donate

下記ように携帯のテキストで 募金が可能です.

SMS
Text RED<space>AMOUNT to 2899 (Globe) or 4143 (Smart)

G-Cash
Text DONATE<space>AMOUNT<space>4-digit M-PIN<space>REDCROSS to 2882

You can donate the following denominations:
Globe: 5, 25, 100, 300, 500 or 1000
Smart: 10, 25, 50, 100, 300, 500 or 1000

例えば、スマートで 100ペソを寄付したい場合ですと:

携帯のテキスト画面に、
RED 100

だけを書いて、 SENDの電話番号を
4143

と入れて 送信すれば完了です。

正しく完了すれば、
「Thank you for donating P100.00 to Philippine National Red Cross.」

という返信が来ます。


以上、ご案内まで。

 

 

 

 

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南方「移民」と「南進」に見る フィリピン・バギオの歴史

南方「移民」と「南進」に見る フィリピン・バギオの歴史

以下の書籍をバギオを調査訪問中の大学教授にご紹介いただきました:

   
早瀬 晋三 著
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」

東京大学出版会

第I部 フィリピンで汗を流した日本人
第一章 アメリカ植民統治下初期の日本人労働
第二章 アメリカ植民統治下初期マニラ湾の日本人漁民
第三章 南方「移民」と「南進」

・・・この第三章にバギオの歴史に関連する記事がありましたので、
一部を引用して、個人的コメントを入れてみたいと思います.

第三章 南方「移民」と「南進」

p69
本書の目的は・・・・・明治以降「大東亜戦争」勃発までの、日本と
周辺諸国との関係史の連続性を考察することにある.

(著者は、近代史の中で戦争を境にして、歴史がタブーとなったことを
 指摘し、歴史的文脈を見失ってはならないと述べています.
 本書を読んでみると、他の本とは一線を画して、かなり客観的に
 俯瞰して、歴史の全体の中で見ているように感じます)

p70
一事例として、フィリピンを取り上げ、「移民」、外交官、そして「南進」の
前兆となった軍事的工作活動について考察する.

第三章
1 南方「移民」の諸相

1868年から1941年までの国外移住者数(ただし朝鮮、満州、南洋群島など
日本の支配下にあった地域を除く)は、776,304人にのぼる.

日本人移住者の大半は、(欧米の)奴隷制廃止にともなう労働力市場を補足
する労働者として植民地開発のために雇われるか・・・・・

個人の成功・苦労談にもとづく伝記的要素の強い歴史が語られるだけであった.

(確かに、私が今までに読んだ本の多くは、戦記ものを含め個人的な内容が
 多かったと思います)

(バギオへの移民については、ベンゲット道路建設、バギオ避暑地の開発は
 あきらかにアメリカの植民地政策の一環です)

当時これらの移住者は「移民」と呼ばれたが・・・・海外出稼ぎ労働者を意味した.

フィリピン行き移住者は、「南方方面」のなかでももっとも多く、
53、115人、57.5%を占めた.

1940年のフィリピン在住日本人人口28、731人から、約半数の者が
フィリピンに定着している様子がうかがえる.

p71
1909年から19年までの11年間は・・・・
職業別人口表から、 フィリピンでのおもな職業は、
娼婦「からゆきさん」、道路工夫、農夫、大工、木挽、杣(木偏に山)職、漁民、商人
あったことがわかる.

(杣職とは林業従事者のことだそうです)

(1909年からのデータですが、バギオでは、「からゆきさん」と漁民以外は該当するようです.
 ただし、からゆきさんは数名いたがあまり商売にならなかったとの記録もあります)

「からゆき」さんは、・・・とくに公娼制度のあったイギリス領植民地や
中国東北部を中心に少なくとも数千人に達した・・・・

フィリピンでは、1898年のアメリカ領有後、駐留するアメリカ軍の強い要望で
1902年から増加し、20年の廃娼まで 全国津々浦々に少なくとも
合計300-400人がいた.

(100年前には 日本女性が フィリピンの中で顰蹙をかう仕事をしていたわけで、
 近年の日本におけるフィリピン・パブが日本の中で顰蹙をかい、アメリカなどから
 売春婦の輸入をしているとの批判をうけてこれをやめ、看護師・介護士へ
 切り替えたことを連想します・・)

1903-04年に、フィリピン行き渡航者はひとつのピークを迎える.

p72
大半は、01年から工事がはじまっていたルソン島北部山岳地帯「夏の首都」
バギオに通じるベンゲット道路工事などの、植民地開発のために雇われた
単純肉体労働者であった.

「ベンゲット移民」などの労働者は、一般に高い賃金を求めるわりに定着性が
なく、苦情の多いことで知られ、・・・・あまり評価されなかった.
そのため、ベンゲット道路開通の05年以降、日本人単純肉体労働者は、
ほとんどみられなくなった.

(つまり、逆に考えれば、バギオに残った人たちは、辛抱強い人たちか、
 道路建設の後にやってきた人たちということでしょうか)

(日本人が他よりも高い賃金をもらっていたのは事実です.
 日本人のことですから、いろいろ苦情も言ったでしょう
 それでも 日本人を使ったというのは それなりの理由があったんでしょうね)

p73
ダバオの日本人人口は、28年以降、フィリピン全土の約三分の二を占め、
開戦前には約二万人に達した.

大工は、・・・1905年以降、つねに数百人がフィリピン各地で兵舎の
建設などの植民地政府関連の建築工事に職を求めて、各地を転々としていた.

木挽・杣(木偏に山)職は、それらの建築工事に必要な木材の伐採に従事した.
かれらは、数十人単位でバギオやミンダナオ島西南端サンボアンガ付近の森
に入って作業し・・・・

(これは正にバギオの成功者たちの職業だったようです.
 大きな家、使用人、自動車などを持っていて、日本の親戚などへ
 仕送りもしていたとか・・・・ )

p75
2 外交官

マニラに日本領事館が開設されたのは1888年12月29日のことであった.
その目的は、通商拡大、貿易促進、移民の導入であった.

93年9月13日から96年10月26日の再開館まで、領事館は一時閉鎖
に追い込まれた.

フィリピンでは、本国アメリカの移民法を遵守して、「契約移民」は禁じられていた.

「からゆきさん」も、「ベンゲット移民」も、ダバオのアバカ栽培者も、すべて
フィリピンでは「不法外国人労働者」であった.

(時々、日本国内で 不法外国人のオーバーステイのニュースが流れたり
 しますが、昔は 日本人がフィリピンにお世話になっていたわけですね)

需給関係の成立により・・・・両国政府に黙認された.

明治以降、大規模な社会変動のなかで故郷を追われ、海外に生活の糧を求めて
いく民衆の姿があった.

(別の本では、移民が禁止されていたにも関わらず、ベンゲット道路建設を任された
ケノン少佐は、当時のカリフォルニアで「勤勉で良く働く」と評判のあった日本人を
超法規的に導入したというような主旨で書かれていました)

p76
この有望移住地は、将来の植民地と目されていた土地でもあり、そこには
優良移民を送らねばならなかった・・・

日本人外交官が期待していたフィリピンの日本人移民は、定住目的の米作農民だった.

かれらが現実にフィリピンで見た日本人労働者は、中国人やフィリピン人に比べ、
めざましい働きをしていたわけでもなく、なかには賭博・酒におぼれる者もおり、
風体もフィリピン人が衣服を正して着ているのにたいし、半裸体であった.
・・・フィリピン人の尊敬の対象とはならなかった.

(戦前のバギオに生活されていた方の話や写真によれば、バギオでは映画館に
 行くような時、子供でも正装をして出かけたそうです. 
 フィリピンの中でも バギオという高原避暑地は 特別な町だったのかも
 しれません )

(古今東西、 上下を問わず、賭博や酒や女におぼれる者はいるわけで、
 昔の単純肉体労働者にかぎらず、
 今の 大手商社員だろうが、留学生だろうが、退職者だろうが
 そういうことは あるようですねえ・・・・)

マニラの外交官の送る領事報告書では、理想と現実の矛盾する記述が繰り返し
述べられることになった.

そのもっとも典型的な例が、「ベンゲット移民」にかんする報告にあらわれた.
日本では、ベンゲット道路工事は、フィリピン人にも、中国人にも、アメリカ人にも
成し遂げられなかった難工事を、日本人の多大の血と汗と精神力で完成させた
と言い伝えてきた. しかし、この言い伝えの根拠となる原史料は、
フィリピン・アメリカはおろか、日本にさえ残されていない.
あえてその根拠をあげれば、外交官の期待した日本人労働者像の記述にあった.

(史料がないから それはなかった・・・という論法に組することはできませんが、
 ケノン少佐が不法移民である日本人を敢えて導入して、それまでに任官された
 前任者ができなかったベンゲット道路が完成した事実はあるようです.
 もちろん日本人だけが働いていたわけではありません
 バギオの中国系コミュニティーでは、中国人がベンゲット道路建設に
 大きな貢献をしたと言い伝えています )

p77
日清・日露の両戦争を経て、軍事大国へと成長し、経済的にも発展するなかで、
多くの民衆はその国家についていくどころが、その犠牲となってとり残されていった.

この二面性のなかで、外交官は国家を代表した態度を取らなければならなかった.

(外交官も なかなか辛いところですねえ・・・)

第一次世界大戦を境に・・・・マニラには本土の商社・銀行の支店が開設され、
・・・フィリピン在住日本人社会は一変し、エリート・ビジネスマンが支配的になっていった.

p77

3 軍事工作

フィリピンでも、日清戦争後、にわかに対日関心が高まり、やがて日本賞賛から
日本期待へと進展していった.

・・・日本の支援のもとに独立を達成しようとする動きが顕著になっていった.

革命結社カティプナンの指導者ボニファシオらは、・・・・日本に対して支援を要請した.

アメリカ軍は・・・フィリピン人有産階級を味方につけ、一般民衆にはスペイン時代に
困難だった教育を受ける機会を与えることによって、革命勢力から切り離す政策を
とった.

p79
マニラ湾で、日本人漁民が操業をはじめたのが、フィリピン・アメリカ戦争中の
1900年ころであった.

山根は・・・陸軍の嘱託としてマニラ湾の調査を依頼されたという.

1904年に日露戦争がはじまり・・・・
日本が有利になるにつれて東アジアでの勢力バランスは崩れ、アメリカ日本のフィリピン、
さらにはハワイへの進出に、危惧を抱くようになった.

p80
マニラには日本人軍偵が常駐し、地方の日本人軍偵や親日派フィリピン人らと
連絡をとりあっていた.
そして、マニラの領事館は、これらの軍事活動の拠点となり・・・・

・・・ほかの在住日本人もすべての者が、潜在的に軍偵の協力者になり得た.

p82
約半世紀を経て、日本のフィリピンへの軍事支援はようやく現実となったのである.
しかし、日本のフィリピン占領は、親日派フィリピン人が期待していたようなもの
ではなかった.

(結局、日本の植民地政策は 下手くそだったってことでしょうか・・・)

(私の下宿のお婆ちゃんは、日本統治時代の 日本軍に任命された村長さん
 だった人の娘さんなんですが、家族がゲリラにつれさられた経験をもちながら
 今も親日家です.
 そのお婆ちゃんから、「ばっきゃろ~~」ってどういう意味? とか
 「どろぼ~~」はどういう意味・・などと聞かれると、日本人の尊敬できない
 側面をみせられるようで 苦笑いしてしまいます )

p83

4 日本・アメリカ関係のなかのフィリピン史

アメリカのフィリピン植民地統治は、一般に寛大で、地方自治・議会制や
教育などの民主主義をもたらしたことで評価されている.

p84
フィリピン人のあいだで起こった日本人移民の制限問題でも、アメリカはむしろ
日本人を擁護する立場をとった. ・・・フィリピンでは労働者不足、資金不足が
続いていた・・・

定住していたアバカ栽培農民にしても具体的に戦略上組み込まれることはなかった.
・・・その背景には、日本人移民が現地社会にとけこんでいなかったために
現地人とともに日本軍に協力して戦うという戦略が立てられなかったこととも
関係するだろう.

結局、移民のなかにいた現地の地理に詳しく、現地語に通じていた者が、
軍偵・通訳などに利用されただけだった.

(これに関しては、バギオでも、戦争当時の悲しい悲惨な話がたくさんあります.
 日系人は 日本、フィリピンの両方から スパイの疑いをかけられ、
 殺害されたそうです )

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フィリピン・バギオ市の 日本人がらみの歴史については、 北ルソン日本人会のホームページに いろいろな情報が掲載してありますので、ご参考まで:

http://janl.exblog.jp/i10/

 

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2013年11月10日 (日)

日本は形而上的 vs フィリピンは形而下的 ? MEDIA ART KITCHEN

今日 妙な映画を見たんです・・・・
ディア・アート・キッチンという 国際交流基金主催のプログラムで、
その映像作品がバギオのシネマテックで上映されたんです.

どんな映画だか事前の情報はさっぱりなかったので、映画館の主任に
「どんな映画がくるの?」ってきいたら、
イクスペリメンタル 実験的な映画らしい」 って言うんです・・・・

東南アジアの若いアーティストたちが作った実験的映像だって.

Loidsart_kitchen_012

二日目の日曜日に行ってみました.
ビールを飲んで映画館に入ったんで、ほとんど寝ていたんですけどね

それでも、なんだか変な映像が出ていたときには 起きていたんです(笑)

それで見たのが、たまたま 日本人の作品と フィリピン人の作品でした.

見終わったあとに思ったんです・・・

この二つの作品には 日本人とフィリピン人の国民性がはっきり出ているんじゃないかって・・・

まず、比較的分かりやすかったフィリピンの作品

宇宙服みたいなヘルメットをかぶって、おそらく酸素が入っていると思われる
スーツケースを引っ張っている女性(多分)が白ずくめで街に出ていくんです.

街中の人々にじろじろ見られながら・・
行ったところは 体育館みたいなところで、段ボールでいくつかに区切ってあって、
避難所みたいに人々が寝転んでいる・・・
そこにその宇宙服の女もそのまま横たわって・・・
それから、その街を出て、森の前に行くんです・・・・
森は最初は黒く くすんだような色だったのが 次第に緑に変わっていって・・・
その白ずくめの宇宙服の女が ヘルメットをおもむろに脱ぐんですね.
その女の姿は じょじょに森の中に入っていくように消えていく・・・・

この映像が流れている間、ずっとカラオケの画面のように
歌詞のような文言が流れるんです.
歌手の声が映画から聞こえてくるわけではないんです.
映画をみている人が、歌うように導いているんですね・・・
最後の文言は、「あなたは 歌が上手いね」と出ました・・・・
もちろん、館内には笑いが起きましたよ.

・・・まあ、映像が何を言いたいのかはそれぞれの理解でしょうが、
一応なんとなく分かる範囲です.

余計なことですが、日本はマジでこういう宇宙服みたいなのが必要だな、
と思ったことでした・・・

さて、問題は、日本の作品です・・・・

映像はちょっと見、単調で単調で、退屈で、退屈で、眠りそうな・・・・
と言いたいところですが、最後まで どうなるのか、どうなるのか、と
見入ってしまいました.

見た目は、雨が降っていて、路面に跳ねているその雨水を延々と写し出している
だけでした.

音楽も、雑音に近いような、唸りのような、メロディーの無い、音でした.
目がチカチカするような、単調な中に複雑に水が跳ねて変化し、
光があちこちに飛んで大小の輝きを飛ばすように、
色も複雑に変化する映像です・・・・

これで何を言いたいのかを言えというのは酷ってもんです・・・

でも、これは心象風景なんだろうな.

これはいろんなアートとしての使い方ができるんだろうな、という感じです.
背景として、壁紙として、バックグラウンド・ミュージックのように
アート空間をつくるひとつの道具としては 広い応用ができる作品なんじゃ
ないかと思ったんです.
目がチカチカしないようにして、音も頭が痛くならないようにして、
それこそ今流行りの「癒し系」の映像作品にもなる素材なんじゃないかって・・・

・・・・

フィリピンの作品にはストーリーがあって、映像も具体的で、
何を言いたいかの主張がわりとはっきりしているんですね.

でも、日本のは、単調な中に複雑な心象があって、
まるで気が狂った人間が ただただ 雨の跳躍を、その変化を まるでオタクの
ように、時間を忘れて見つめているような感じでした・・・・

・・・・

映画を観終わって、タクシーに乗ったんです・・・・
目が疲れたんで、目をつむっていたんです・・・
タクシーは、夕日が木々の間から漏れてくる道を走りました.

すると、閉じた瞼の裏に、その夕日がチラチラと入ってくるんですね.
さっきの雨降りの映像のようでした・・・
光が瞼の裏で跳躍するんです.

日本の映像って、深刻すぎるっていうか、オタク過ぎるっていうか、
これがアートなんだよって主張しているっていうか、
疲れますね・・・・

ってことで、これが日本だよな~~って思ったわけ.

Loidsart_kitchen_016

 

 

       

 

 

 

 

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台風30号 フィリピン名 YOLANDA 被害が次第に明らかに

2013年11月8日に フィリピン中部の島々を襲った スーパー台風は レイテ島、サマール島、セブ島などを直撃し、11月9日現在のニュースでは 使者が1,200人以上になるのではないかと報道されています・・・

http://www.abs-cbnnews.com/nation/11/09/13/1200-believed-dead-philippine-typhoon-red-cross

1,200 feared dead in typhoon-devastated Philippines

TACLOBAN (UPDATED) - One of the most powerful typhoons in history is believed to have killed 1,200 people in the Philippines, the Red Cross said Saturday, as rescue workers raced to reach towns devastated by tsunami-like waves.

ANCテレビの画像を撮影したものをいくつかご覧ください・・・

Yolanda_031

レイテ島タクロバン市での救助の様子・・・

Yolanda_032
これもタクロバン・・・・

Yolanda_056
イロイロ島の避難所・・・

Yolanda_061

泣きじゃくる被災者をなぐさめるレポーター・・・・

Yolanda_064

避難所には多くの幼児も・・・・・・

Yolanda_018

ー 合掌 -

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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