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2013年12月21日 (土)

映画 CAREGIVER OFW海外フィリピン人労働者 英語教師はどうよ!

バギオ市にあるフィリピン政府直営の映画館シネマテックで 今週は
Overseas Filipino Worker をテーマとした映画祭をやっていまして.

この中のいくつかの映画を見たんですが、 この 「CAREGIVER(介護士)」
いうのが一番良い映画でした・・・

067

(下記サイトから引用・・・一部修正)
【内容】
フィリピンの国民的スター、シャーロン・クネタ Sharon Cuneta の主演作。
英語教師の職を捨て、イギリスへ介護士として出稼ぎに行った女性の物語
世界各国で、上映され、好評を博す。 フィリピン人の介護士の心情、
送り出し国の現状を知る上でタイムリーな映画。  配給会社ABS-CBN
(製作2008年7月、フィリピン、130分、タガログ語、英語字幕)

まずは、その予告編を youtubeで ご覧いただきましょうか.
http://www.youtube.com/watch?v=2_ToXfybUYU

そして、そのあらすじはと言いますと、日本語でのサイトがありました.
ただし、ここに書かれている粗筋は ちょっと間違っているところが
あるんですけど・・・・
http://www.geocities.jp/fujiwara_toshihide/50/20091206_caregiver.html

ちなみに英語での詳しい解説は こちらにあります
http://en.wikipedia.org/wiki/Caregiver_(film)

この映画をフィリピンに住んでいる私は どのように見たか・・・なんですけど.

まず、小学校で英語を教えている先生が その職をなげうって海外に働きに
出なければならない事情.

二つ目に、フィリピンでは医者であったフィリピン人であっても、
イギリスでは介護士として 病院内の組織の中で 能力を発揮できない現実

三つ目に、日本が行っている インドネシアとフィリピンからの看護師、介護士
の移入促進の難しさ

そして、日本へのフィリピン人労働者の受け入れ可能性について、
考えさせられたことを 書いてみます

1) この映画の中では、英語の先生がイギリスへ介護士として出て
いるんですが、 私が10年以上前に 日本のいわゆるフィリピン・パブで
そこに働くフィリピン人女性に訊いたところ、 フィリピンでは 教師や
看護師の免許をもっている女性たちが 
お客の横に座って酒の相手を
していました

もちろん、歌やダンスをするエンターテイナーとして 当時は日本に
来ていたんですね

フィリピンの中でも とても貧困な家庭、地区に生れ育った女性たちが
多かったのだと思いますが、フィリピンで尊敬されるべき職業を持っていた
女性たちも出稼ぎをせざるを得なかったわけです

それは、専門的な仕事であっても、フィリピン国内では給与が低すぎる
という現実と、仕事自体がなかなか見つからないということがあります

過去数年、かなり物価も上昇しているのに、給料はほとんど上がっていない
という問題もありそうです

2) フィリピンの医師がアメリカの看護師免許を取得してアメリカへ移住する
という話は、私の身近にもあります

映画の中では、英国ですが、英国の研修医が間違った判断をしていることを
経験のある医師であるフィリピン人看護師が指摘して患者の命を救っても
組織内の命令系統違反で解雇の理由にされてしまうという場面がありました

これは大きな問題を含んでいる内容ですが、それぞれの国の医師免許などの
法令もからんで重要な点ではないかとも思います

3) 日本とフィリピンの間の看護師・介護士に関する合意は、
私が今までにフォーラムなどに参加して見聞きしてきた範囲で言えば、かなり
政治的な動きをしていて、本来の将来を見越した人材の供給という観点からは 
いずれ高齢化・少子化の日本では 「遅きに失した」ということになりかねない状況
あるようです

私が日本語を教えて、日本に渡った介護士候補の若い女性たちからも、
日本の病院や老人ホームなど現場での人材不足は既に深刻になっている
と聞きました

4) 私は常々、フィリピンという国に対して日本人が抱くイメージが
すこぶる悪く、
これはなんとか変えなくてはいけないと思っている一人です

以前 エンターテイナーとして 日本のフィリピン・パブで働く女性たちがたくさんいて、
日本の女性たちの敵のような位置づけになってしまったのが一番の
ファクターだとは思います

しかし、そういう職種を受け入れていたのは日本の国であったことを忘れては
いけません

今は、看護師・介護士という職種を受け入れ始めたということは、いままでの
悪いイメージを変えるきっかけにはなるのだろうと期待しています

しかし、私が一番良いと思うのは、フィリピン人の英語の先生を大量に
受け入れるということです

なぜなら、フィリピン人教師は アメリカですら教師として受け入れていることと、
あるデータによれば 「ビジネス英語」に関するかぎり フィリピン人は
世界で1番(アメリカやイギリスを入れて)という結果
が出ているからです

ビジネス英語能力の国別ランキング/////////

http://10rank.blog.fc2.com/blog-entry-213.html

今、日本では、大企業の中で 社内公用語を英語にするという動きもありますし、
小学校から英語教育をしようとする動きも始まっています

私の下宿の隣に、アメリカのハイスクールで二十数年間教えてきたという
フィリピン人女性が退職をして住むことになりました

このサイトには、アメリカで働くフィリピン人教師のことが書いてあります:
http://www.geocurrents.info/cultural-geography/education-cultural-geography/baltimore-turns-to-the-philippines-to-recruit-teachers-for-inner-city-schools

Many U.S. public schools, especially those in inner city districts and rural areas,
are having trouble recruiting teachers, particularly in math, science, and special
education. Baltimore has pioneered a new strategy of hiring foreign educators.
Most of those teachers come from the Philippines, a country whose public
school system was established by American educators when the United States
took possession of it in 1898. Ever since, English has been the main language of
instruction in the country. Today the Philippines has a large number of trained,
motivated, English-speaking teachers, most of them women, whose salaries in
the home country would keep them at the poverty level.

これを翻訳してみますと・・・

多くのアメリカの公立学校、特に都心部や地方において、教師不足があり、
特に数学、科学そして特別教育が深刻です
ボルティモア市は外国人教師を雇用するという新しい戦略のパイオニアとなりました
外国人教師のほとんどがフィリピンから来ており、フィリピンの公立学校制度は
アメリカが1898年にフィリピンを領有した時にアメリカの教育者によって作られた
ものです
それ以来、フィリピンに於いては、授業の主たる言語は英語になっています
現在、フィリピンには多くの訓練された、意欲のある、英語が使える教師がいて
そのほとんどは女性であり、フィリピンでの給与では貧困のレベルに留まっています

・・・と言うことです.

英語の本家アメリカが大量に雇っているフィリピン人教師を馬鹿にしてはいけません.

ここにも書かれているように、フィリピン国内での教師の給与レベルは低く、
大学教授であってもアルバイトをしなければやっていけないレベルであり、
小学校などの先生たちは、特に田舎では、給与の未払いも多いのだそうです.

・・・・で、実際問題、今のフィリピン、バギオでも、多くの英語学校がありますし
数千人~1万人の韓国人学生たちがバギオで英語を学んでいます.
最近は日本人留学生も徐々に増えて来ています.

日本の少子化を止める為にもフィリピン人の英語の先生はどうすか!!
ストレスで今にも死んでしまいそうな日本人には フィリピン人は癒しになりまっせ.

 

 

       
  

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2013年12月20日 (金)

認知症と 色即是空と 脳科学 : もしかして認知症は天国か?

昨日 脳卒中から生還した脳科学者のこんな講演をみたんです
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-b6f6.html

そして、今日、こんなサイトを見つけました:
http://www.nagaoclinic.or.jp/doctorblog/nagao/2013/04/post-3127.html

認知症研究の第一人者であり、長谷川式テストで有名な長谷川和夫先生は、
一枚の絵を用いて認知症の本質を示されました。その油絵には、暗闇の中、
自分の足元だけにスポットライトが当たりたたずむ老人の姿が描かれていました。
前も後ろも右も左も見えないが、足元(=現在)だけは見える。それが認知症の本質、
だというのです。

記憶や認知機能は、主に左脳の機能です。認知症とは、左脳機能の低下ですから、
相対的に右脳が優位な状態になることです。

認知症の人は動物的に、こちらの心理状態をいち早く察知されますね。自分が好きな人には、即座に寄っていきます。・・・・・認知症の人を不味いレストランに連れていくとあまり食べず、美味しいレストランでは沢山食べます。快・不快と同様、味もしっかり分かっているのです。
またその場の雰囲気も右脳がしっかりキャッチします。認知症の人と接する場合、そのように右脳を意識することが大切です。

=== そこで、めちゃくちゃ短絡的なんですけどね、
     こういう事は 的外れでしょうかねえ・・・・

脳卒中で左脳が機能しなくなると、右脳だけが働いている状態になる.
そうすると 

「腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました
腕の原子分子が
壁の原子分子と混じり合って 一緒になっているのです
唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした」

・・ってことになるわけですね・・・

これって 釈迦が言っている「色即是空」ってこっちゃないですか?

「小さな声が 「私がある」と言うことです
そして左脳が 「私がある」 と言った途端 私は 切り離されるのです
周りの人から分離されます」

・・・これが無くなって、自己が無くなる・・・無我ってことですよね・・・
自己と外界、宇宙の境目がなくなって、原子分子が混沌とした状態に
なるってことですよね・・・

他の人から見れば、そこに肉体はあるのだけれど、左脳が機能しなくなった
本人にとってみれば、すでに自他の区別はない・・・・
宇宙と一体化している状態にあるわけですね.

それに、脳科学者の体験の言葉にこんなのがありました・・・

「ランプから解放されたばかりの精霊のようでした
私の魂は 大きなクジラのように自由に飛び
天国を 私は天国を見つけたのです
この大きくなった自分を 再び小さな体の中に
押し込めるのは無理だろうな
と思ったのを覚えています」

・・・これって「幽体離脱」って言葉の状態じゃないですか?
死ぬ瀬戸際で生き返った人たちの体験談にでてきますよね.
病院の手術台の上に横たわっている自分の姿を上から眺めている
という体験ですね.

私は、小学校に行くか行かないかの頃に、友達の家の塀の上で
遊んでいて、塀から落ち、石の階段をゴロゴロところがって
一度死んだことがあるんです・・・(笑)
本当です・・・医者が 「瞳孔が開いているから もう駄目だ」 って
言ったんですから.
幽体離脱は覚えていないですけど・・・残念

どうもそれ以来私は 右脳優勢になったみたいです・・・(笑)

http://ja.sommer-sommer.com/%E8%84%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88/
このサイトでチェックしたら 右脳70%でしたからねえ・・・

つまり、かなり脳卒中、認知症状態・・ってこと??

認知症って言えば、自分がそうなってしまうと、自分も嫌だし、
家族にも迷惑をかけるし、他人にも迷惑をかけることになるから、
皆恐怖感を持っていて絶望的な気分になったりするわけですけど、
上のようなことが真実だとするならば 認知症になった本人は天国にいる
状態ってことじゃないですか?

脳卒中と認知症での 右脳と左脳への障害の違いは分かりませんが、

認知症にはなっていない人たちは 左脳がしっかり働いているから
社会的なことや金銭的なことをめちゃくちゃ心配して滅入ってしまうわけですけど、

本人はいたって平安なんじゃないか、いわば涅槃の状態なんじゃないか・・・・

神様って、人があの世に行く時の道すがらの楽しみを ちゃんと作ってくれているんですねえ・・・
おそらくそれが、阿弥陀様の西方浄土みたいなもんなのかもしれません.

 

 

   

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フィリピン・バギオの山奥で その時 何があったのか・・・

川崎恵一郎著 「重機関銃分隊長のルソン戦記」 光人社NF文庫から
興味深いところだけを つまみ食いしています.
http://books.rakuten.co.jp/rb/11786385/

さて、「死の彷徨」の章に入ります.
これは、バギオ市から 今なら車で1時間ほどで行ける インチカクという
当時は日本軍の病院などが置かれたところから始まります.

今は、アンボクラオ・ダムというダムによって水没した川沿いの
地域だと思われます.

この辺りはベンゲット州ですが、そこからイフガオ州やマウンテン州に
かけての一帯に 日本軍と在留邦人は追い詰められていくことになります.

140ページ

雨期に入ろうとしているころ、私たちはインチカクに着く.
湖のある谷間の町である. ここには兵站病院があった.
バギオを四月十六日に出てから一度も軍医の治療を受けていないので、
治療を頼んでみたが駄目であった.

== この頃には、すでに医薬品どころか、食糧も自分で探さなくちゃ
    いけない状況だったそうです

看護婦さんといえば、すぐ白衣を思い出すが、・・・カーキ色の軍服に
巻脚絆、戦闘帽で、ちょっと見ても男か女か分からない.

苦しいけれどここで別れたら終わりだ.
今まで置いていかれて追及した患者は一人もいない.
二、三十人の集団であればイゴロット族も襲ってこないが、一人になれば、
必ずといっていいほど襲われるのである.

== 傷病兵は 置き去りにされ、中には手りゅう弾での自爆、
    あるいは注射などでの安楽死もあったとの戦記もあります.

145ページ

私は銃と取り、安全装置を外して一発必中を狙う.
・・・赤犬は一メートルくらい飛び上がった・・・
さっそく首を切って血抜きをする. 久しぶりにありつけた肉である.

いよいよ病院の看護婦まで腹を空かすようでは、この地が我々の
墓場になるのかなと思われた.

ここに駐留している間に、患者や自隊員(軍医、看護婦、衛生兵)の
中からも多くの犠牲者が出た. これは病気で死んだ者もあるが、
食べ物がなくて栄養失調で死んだほうが多かった.

== 犬の肉ならご馳走です.
当時は 人肉喰いの話もあり、この著者からも話を聞いたことがあります. 戦記の中には、人肉喰いがあるので警戒するようにという情報が野戦病院の隊員などに回ったというのもありました.

ちなみに、元々この地方では、伝統的に犬や猫を食べる習慣があります

.

149ページ

ある日、病院はふたたびボントック道に出てトッカンに向かうことに・・・

今現地へ行ってみるとバギオより約三十キロの地点に出たと思う.

== バギオから ラ・トリニダッドを通って、ハルセマ・ハイウエイを
    ボントック方面に向かう途中の道です.

食べ物はなにもない.
道の近くにある草や松林の中に出ているキノコなど、口に入るものは
なんでも食べた.

・・・キノコを食べた者が急に泣き出したり、笑い出したり、中毒を起こして
下痢をして倒れる者も出た.

このころ米を持っている者は 殺してでもその米を取ってしまうほど
皆腹が減っていたのである・・・

もう二ヶ月も塩分を取っていない. 最近は汗も塩辛くないようになっていた.
歩くにもだるく、段々を登れないくらいに塩分が欠乏していた・・・・

== 戦記物の中には、蛇、トカゲ、昆虫などなんでも食べたとの
    記述があります.
    ゴキブリは エビのようで美味しかったとの話もあるくらいです.

157のページ

きれいな水があっても、高度千五百メートル以上のバギオ地帯では、
寒くて水浴など出来るものではない.
私は九月十六日に米軍に投降するまでの半年間、一度も身体を洗った
ことはなかった.

== 今でこそ、バギオのホテルにはどこにでも電気温水器が
    あって温水シャワーを浴びることができますが、
    10年ちょっと前までは ホテルでも温水シャワーがあるところは
    珍しく、地元の人たちの家庭では寒くても水のシャワー、
    あるいはヤカンでお湯を沸かして使っていました.

「魚を取ってくるから手榴弾を貸してくれ」
「この手榴弾は私の自殺用ですので、差し上げることは出来ないわ」

== 兵隊はもちろん、看護婦たちも 自殺用の手榴弾が割り当て
    られていたそうです

167ページ

米軍の飛行機は・・・ビラだけをまいていく.

「日本はポツダム宣言を受諾した. 忠勇なる日本の将兵よ、
一日も早く白旗を持って米軍の所にこい」

「今マニラ湾にはあなたたちを乗せて日本に帰る船が待っている」

ボントック道九十キロ地点に着く・・・
米兵がトラックの上で手を引いてくれたり、下から押し上げてくれたりした.
非常に親切であった・・・

== 日本軍の武装解除が行われた場所のひとつが
    このハルセマ道路の バギオから90キロの地点だったそうです.
    しかし、この地点へたどり着くには、谷底から一番上の尾根まで
    急峻な山を登らざるを得ず、戦記物の中には
    日本軍がアメリカ・フィリピン軍に対して行った 有名な
    「バターン死の行進」 に対する報復だという噂もあったようです.
  

夜中にバギオの仮収容所に着く.
真夜中でも、キャンプは昼間のように明るく電気がついている.

このキャンプで、栄養失調から急に栄養のある食べ物を食べたために
下痢を起こして死んでいった兵隊が多かったことをあとから聞いた.

== このバギオの仮収容所がどこにあったのかは、
    著者が戦後に地元の人に訊いても 分からなかったそうです.

二時間ぐらいで海岸近くの平坦地に着いた. リンガエンである.
ここにも仮収容所が出来ていた.
・・・「ダモルテスという町だ. お前知っているか」

「みなさんはラグナ州のカンルーバン収容所へ行くので、幕舎の前に
集まって下さい」

・・・貨車は動き出した.
星空だけを眺めて、思いを故郷に.

・・・現地人が橋の上や丘の上に石を持って待っている.
口ぐちに、
「ドロボウ」
「バカヤロウ」
「パタイ(死ね)」
と叫びながら石を投げつける

=== この日本語は、今でも年寄のフィリピン人は よく知っています.
      私の下宿のお婆ちゃん(92歳)も たまにこの言葉を
      口に出し、「どういう意味だ」 と聞かれて苦笑いをしたことが
      あります.
      当時の日本兵たちは、よくこういう言葉を使っていたらしい.

      お婆ちゃんの発音は 「バッキャロ~」 でしたけど・・・(笑)

 

 

 

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2013年12月19日 (木)

脳卒中になった 脳科学者が見つめた「自分」とは ・・・釈迦はこれを知っていた?

TED TALKS JILL TAYLOR
『脳機能を失い、死に向かった 脳科学者が見た、”生命の秘密”』
「ジル・ボルト・テイラーのパワフルな洞察の発作」

http://www.ted.com/talks/jill_bolte_taylor_s_powerful_stroke_of_insight.html

「ジル・ボルト・テイラーは、脳科学者なら願ってもない研究の機会を得ました。
広範囲に及ぶ脳卒中の発作により、自分の脳の機能―運動、言語、自己認識―が、
1つひとつ活動を停止していくのを観察することになったのです。

この驚くべき物語をお聞きください。 」

これを見ていると、過去に私が読んできた 御釈迦さんが残した言葉に
共通すると思われる、原始仏教の哲学的世界というか、自分というものは無い、
この世には 何も実在するものはないのだという、そして、それを悟ったときには
そこに涅槃(ニルヴァーナ)があるというものに繋がるように思います.

以下に、この動画の中から、私が非常に興味を持った部分を抜き書きしました:

==========

右脳と左脳は それぞれ別の人格を持っています

右脳にとっては「現在」がすべてです・
「この場所 この瞬間」が すべてです

右脳は映像で考え
自分の体の動きから 運動感覚で学びます

 
左脳は 直線的 系統的に 考えます
過去と未来がすべてです

左脳は 言語で考えます

小さな声が 「私がある」と言うことです
そして左脳が 「私がある」 と言った途端 私は 切り離されるのです
周りの人から分離されます

その部分が脳卒中の朝に私の失ったものでした

そして自分の体を見下ろすと・・・
「うわ 私奇妙な格好をしている」 と思いました

自分の体の中だけに意識を集中しました
・・・体の中で 会話する声が 聞こえてきました
小さな声が 「そこの筋肉 縮んで」 「そっちは緩めて」

腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました

腕の原子分子が
壁の原子分子と混じり合って 一緒になっているのです

唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした

左脳のささやきが 完全に途絶えました

周囲の大きなエネルギーに魅了されました
自分が大きく広がるように感じました

全てのエネルギーと一体となり それは素晴らしいものでした

突然 左脳が復帰して言いました 

「おい トラブルだ!」 「トラブルだ! 助けを呼ばなきゃ」

外の世界と自分をつなぐ 脳のしゃべり声から
完全に切り離されているのです

ストレスが 全て消えました
想像して下さい
37年間の感情の重荷から 解放されるのが どんなものか!

左脳が戻ってきました
「おい! ちゃんと注意を払え!」

右脳が完全に麻痺し 私は気付きました
「私 脳卒中を起こしたんだわ!」

「自分の脳を 内側から調べるチャンスに
恵まれる脳科学者なんて そうはいない」

(自分の名刺を探している時・・・)
見えるのは画素だけでした
文字の画素が 背景の画素や記号の画素と混じり合って
見分けられませんでした

(会社に電話をしながら・・・)
話も 言葉の理解もできないことに 試してみるまで 気付かなかったのです

(救急車の中で・・・)
エネルギーが抜けて 魂が諦めるのを感じました

自分の人生にお別れをしていたのです

(翌日 目が覚めた時・・・)
ランプから解放されたばかりの精霊のようでした
私の魂は 大きなクジラのように自由に飛び

天国を 私は天国を見つけたのです
まだ生きていられるのであれば 生きている者も
「天国を見つけることができるんだ」 と気づきました

この大きくなった自分を 再び小さな体の中に
押し込めるのは無理だろうなと思ったのを覚えています

意図して 左脳から右脳へと歩み寄り
この平安を見出すことができるのだと

完全に回復するまで8年かかりました

私たちは一体何者なんでしょう?
私たちは 器用に動く手と 2つの認識的な心を備えた 宇宙の生命力です

私たちがより多くの時間を 右脳にある
深い内的平安の回路で生きることを選択すれば

世界には もっと平和が広がり
私たちの地球も もっと平和な場所になると信じています

========

以上が 動画からの抜き書きですが、
なぜ私が 御釈迦さんの言葉に似ていると思ったかを知りたいかたは
是非 このサイトの 「ブッダのことば - スッタニパータ」 の
読後の 「感想・まとめ」 をご参照ください.
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

御釈迦さんも 脳卒中になって復活した人なんじゃないかと思っちゃいます.
まあ、おそらくは、意識的に右脳を使う「座禅」が出来たんでしょうねえ.

 

・・・ところで、 あなた自身が 右脳と左脳のどっちをよく使っているのか

知りたくありませんか?

もし興味があったら こんなサイトがありました:

http://ja.sommer-sommer.com/%E8%84%B3%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%88/

ちなみに私自身は 70%ばかり右脳派でした・・・・

 

 

 

 

       
   

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2013年12月18日 (水)

川崎恵一郎著 「重機関銃分隊長のルソン戦記」 光人社NF文庫から

川崎恵一郎著 「重機関銃分隊長のルソン戦記」 光人社NF文庫から
興味深いところだけを つまみ食いしています.
http://books.rakuten.co.jp/rb/11786385/

さて、1945年の年明けからのバギオ周辺でのアメリカ軍の攻撃の様子です・・・

109ページ

連日爆撃もあり・・・米軍が近くまで来ていることは分かったが、戦況はまったく
我々には知らせてくれなかった.

毎日の土方仕事は苦しかったが、ダムで水浴も出来たし、夕方・・・温泉へも
行けたので、(1945年の)二月いっぱいは比較的いい生活が出来たと思われた.

三月に入るとだいぶ戦況も分かってくる.
アシン河に沿って米軍がのぼってくるようである.
平坦部よりバギオに通ずる道はベンゲット道とナギリヤン道の二本あるが、
この道路上では一進一退の激戦が続いていた.

ほかにも一本道路を作って進んでくるとの情報もあった.
この新しく作ってきた道路が現在もマルコス・ハイウエイ道路として使われている.

=== 今はバギオへ登る幹線道路は上記の3本ですが、
ベンゲット道=ケノン・ロードで、 マルコス・ハイウェイは戦時中に手がけられて
いたんですね・・・・
ただし、実施にアメリカ軍がバギオ解放の為に侵入してきたのは
ナギリアン道路でした.

111ページ

昭和二十年三月十日・・・
バギオ市をあとにイトゴンに向かう. ・・・道路は破壊されて自動車は通れない・・・
銃と弾丸、食糧だけを持って徒歩でダリプリップに向かう.

カービン銃の銃声、迫撃砲の炸裂音の切れ間がない・・・

まずアグノ河を渡らなくてはならない・・・
吊り橋はあるが百メートルくらいの長さで・・・

昭和五十四年に戦跡慰霊でダリプリップまで行った際、現地の住民イゴロット族の
話では、吊り橋を渡ったが落ちて川に流され、死んだ兵隊もあったということである.

対岸に着いた.
すぐ近くに教会があった. 森曹長が戦死したのはこの近くである.

=== このダリプリップの村には、NGOの企画に参加し、私自身一度行ったことがあります.
その時の訪問記はこちらで どうぞ:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/barangay-dalupi.html

このサイトに写真のある教会が上記の本に書いてある教会です.
この教会の裏側にあるテポ高地で戦闘があって、その時に著者の川崎氏は
負傷し、教会にいた軍医の治療をうけ、バギオの第十二陸軍病院に入院したと
書いてあります.
「現在の バイヤスホテルの位置だと思う」とあるのですが、分かりません・・・

133ページ

隣の人に聞くところによると、病院の食事は軍医、看護婦、衛生兵だけ・・・・
入院患者には出さないということなのである.
しかも診療は三日に一回という

136ページ

4月16日、
「病院はボントックに向かい転進せよ」 との命令が出た・・・
バギオ市は毎日のように空襲があり、昼間はとても部隊の行動など出来る
状態ではなかったと思う・・・

トリニダッドの破壊橋梁まで着く(今は立派な橋が架かっており、
昭和50年から60年ごろまでは慰霊碑などがたくさんあったが、
今は取り払われてない)

橋のない川底は深い. 今見ても十五メートルはある.
そこが友軍の戦死者で埋まっていた. その上を歩いて渡るのである.

=== このラ・トリニダッドの橋というのは、今のベンゲット州の
州政府の庁舎のすぐ近くにある大きな橋のことだそうです.
ベンゲット州国立大学を右に見て、正面がその庁舎で、
その前を右に曲がったところにあります.

138ページ

四日間歩いて21キロ地点に着く、ここからは山下道を通ってインチカクに
向かった (山下道とは、戦局が急を告げるようになってから、工兵隊に
突貫工事で作らせた道路で、平野部のアリタオからバギオに通ずる)

=== バギオからボントックやサガダへ向かうハルセマ・ハイウエイという
道路があるんですが、ラ・トリニダッドからちょっと入ったところに
この21キロ地点というのがあって 山々を見下ろす景色のよいところに
戦没者慰霊の十字架があります.
http://baguiotour.exblog.jp/7598491/

 

 

 

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2013年12月17日 (火)

「私が死んだら、出版してもらうことになっています・・・」 

川崎恵一郎著 「重機関銃分隊長のルソン戦記」 光人社NF文庫から
興味深いところだけを つまみ食いしています.
http://books.rakuten.co.jp/rb/11786385/

この本は2012年8月に発行されているんですが・・・・
著者ご本人は2012年1月に他界されているんです.

ご存命の時、バギオを訪問された折に、ご本人から伺ったのですが、
この本は 「自分が死んだら出版してもらうように頼んである」 との話でした.

死んだ後なら、関係者にもお許しがいただけるだろう、とのご判断だったようです.
言わば遺言のようなものなのでしょう・・・

まだお元気でバギオを訪問された折に、この本の原本ともいうべき
手書きのものを読ませていただきました・・・
その時のタイトルは 「俺の青春」 でした.

そして、その内容には、生前には未だ読まれたくない部分があったようで、
ところどころが墨で塗りつぶしてありました.

そのようなものが、ここには書かれています・・・・

79ページ

このように書くと、私がなにか人を殺すことをなんとも思わなかったように
思われるかもしれないが、前にアコスター(ゲリラの隊長)の二号を殺してから、
二人ほど突き殺していた.
戦地で戦友が殺された現場を見ると、気が立って敵の兵隊などは
平気で殺せるものなのである.

・・・ゲリラに襲われて全滅したという情報が入り・・・・
五人とも殺されていたが誰が誰だか分からない状態であった.
全員裸である. 耳も鼻もない. 指を切り取られた兵隊もいた.
酷いのは陰部までないむごたらしさであった.

90ページ

・・・は、補充兵の一等兵で、結婚して二十日目に令状が来たという.
・・北部ルソンで戦死. 終戦後、奥さんに会ったが、可哀相で
子供もなく一人で生活しているようであり、涙を流されて返事に困った
ことがあった.

94ページ

桜兵営に移動して間もなく・・・・アシン地区の討伐が行われた.
・・戦後三十回くらいマニラを訪れたが、位置を聞こうとも訪ねてみたいとも
思わないほど、ひどい作戦であった.

「今日の十二時までに、十五歳以上の男性は老人にいたるまで全員
教会に集まれ. もし十二時過ぎて教会に集まらない男は射ち殺す」

その取調べは・・・・甲種は親米派・・・乙種はどちらともいえない者、
丙種は親日派・・・・甲種はトラックで憲兵隊へ運び、乙種は教会の中へ、
丙種は解放された・・・・

甲種となり憲兵隊に送られた人たちはもちろん死刑になり、
モンテンルパ附近で殺されたということである.

102ページ

このとき会った戦友は皆レイテで戦死して、一人も生きて帰らなかった.
約束した航空便は無事小沢の家に届いたが、私の復員後、一人息子を
亡くした小沢の母親は精神を病み、この航空便を持ってきて、
「孫一郎はどこへ行った」などと言って私を困らせたのである.

107ページ

(昭和二十年の1月・・・バギオで・・・)
・・・発電所ダムの分哨である・・・ここからはリンガエン湾がよく見えた.
・・・ものすごい数の(米軍の)艦船がリンガエン湾に入っているのが見えた.
梅田の話では400くらいまでは数えたが、あとは分からなくなったと言う.
・・・ちょうどリンガエン湾に大きな街が出来たようで、灯りは朝まで煌々と
輝いていたのである・・・・

三日目に友軍の特攻隊の攻撃があったが、全艦からの高角砲の弾幕で
友軍機が見えないくらいで、あまり成功したようではなかった・・・・

その日から艦砲射撃が始まる. 射撃は昼間だけで夜は満艦飾である.
友軍の魚雷艇の接近を警戒しての灯だそうである.
このころから艦載機の爆撃も始まった・・・アシン集落にも五、六発ほど
落された.

==== バギオ市の中心街は おおよそ1500から1600メートルくらいの
標高なのですが、そこからさらに登ったところに サント・トーマス山
2000メートルほどの山頂があって、そこからは南シナ海、リンガエン湾を
見下ろすことができます.

今のバギオでは、初日の出を拝む 日本人にとってのメッカになっています.

上記の アメリカ軍の反攻が始まった時には、そのリンガエン湾が
ぎっしりと埋まるほどに 米軍の艦船がやってきたのだそうです.

また、上記のアシン集落というのは、アシン温泉のある一帯のことで、
今でも水力発電所を見ることができます.

そして、バギオからそのアシン温泉に行く アシン・ロードにある
トンネルは、防空壕として使われ、米軍による「バギオ解放作戦」が
行われた間、死体が累々と並んでいたとの話を 当時を知る方から聞きました.

 

 

 

 

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2013年12月16日 (月)

フィリピン・ミンドロ島 マギャン族(マンニャン族)と結婚した元日本兵たち

川崎恵一郎著 「重機関銃分隊長のルソン戦記」 光人社NF文庫から
興味深いところだけを つまみ食いしています.
http://books.rakuten.co.jp/rb/11786385/

この著者である川崎さんとはバギオ市へ戦友の慰霊に来られた折に
何度かお会いし戦時中の体験を話していただいたことがあります.

今回は、ミンドロ島のマギャン族について興味深い記述を拾っていみます.

こちらのサイトを見ますと:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AD%E5%B3%B6
マギャン族というのは、「中央山岳部に住む八部族からなる少数民族マンニャン族
(Mangyan、またはマンヤン)・・・」 と書いてあります.

また、このサイトには、
「ミンドロ島の日本軍は山岳部に敗走し、飢餓と疫病、地元ゲリラとの戦闘で多く
が死亡した。大岡昇平はミンドロ島で捕虜となり後にこの島を舞台とした数々の
戦記小説を書いているほか、1956年になってもミンドロ島からは4人の残留日本兵
が帰国している。

との記述がありますが、 この著書の下記の部分は、戦時中の話と
戦後に再訪したときの話が混ざっていますので、残留日本兵の話がいつの
時点のものかは分かりません.

71ページ

マギャン族は深山に住む種族で、ミンドロにしかいない.
・・・農作物も作っているが主に狩猟をやっていた.
猪や鹿などを弓か投げ槍で捕殺するのであるが、槍や矢の先には植物で作った
毒が塗ってある.  彼らには金は必要ないようで、時々村落に降りて、猟で捕った
肉や毛皮などを塩と交換しているのを見ることがあった.
もちろんフィリピン人としての国籍はないようで、学校へもいかない.

服装は男は赤い布の越中褌一つで、頭にも赤い布をつけていた.
女は木の皮で作られた腰巻きと、これも竹か何かで作ったもので乳だけは
隠していた.
散髪する様子はなかったが、髭をはやしている男性に出会ったことはなかった.
・・・身だしなみは良かった.
つねに男も女も子供まで腰にはポロと呼ばれる蛮刀をつけていた・・・

彼らは歩くというか、その早いのに驚く. 一日に80キロや100キロくらいは
平気で歩くことが出来るという.
・・・道案内を頼んだことがあったが、後をついていけるものではなかった.

知事夫人の話では、日本の兵隊さんがマギャンの女と結婚して山の中に
住んでいて、彼らは日本に帰りたくないと言っているという.

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こちらのサイトに2011年の情報がありました・・・・

http://kiokutokiroku.funaoosamu.com/?month=201101

しかし、残念ながら結論がありません.

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さて、これに対して、最近のマギャン族(マンニャン族、マンヤン族)がどのように
書かれているかをインターネットでチェックしてみますと:

こちらのNGOのサイトでは・・・・
http://www.ngo.ne.jp/modules/news/article.php?storyid=7494&utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter
「島の人口の10%以上を占めるといわれているマンニャン族は、厳しい山岳地帯を
中心に焼き畑、狩猟採取を生業とした半遊牧生活を営んでいますが、今日にいたる
まで人口のほとんどが学校に行くことすらできず、識字率ほぼゼロ%、極端に高い
乳幼児死亡率(場所によっては対1000で300以上)、マラリア結核などの感染に
あえいでいます。」

http://www.21ca.ac/21c/kigen.html
「ちなみに、「マンニャン」とは「人間」の意味で、とくに「ハヌヌオ」は「本当のマンニャン」と、
他の部族よりぬきんでていることを誇りとして自称したことばです。 」
「実はフィリピンにはスペイン侵入以前から文字があった。しかもその文字は
マンニャン族のものだったという興味深い研究です 」

英語によるサイトは こちら:
http://en.wikipedia.org/wiki/Mangyan_peoples

Mangyan are mainly subsistence agriculturalists, planting a variety of sweet potato,
upland (dry cultivation) rice, and taro. They also trap small animals and wild pig.
Many who live in close contact with lowland Filipinos sell cash crops such as
bananas and ginger.

上記の著書では戦時中には狩猟が中心であったようですが、最近は農業の方に
比重が移っているようですね・・・

同朋社発行の 「フィリピンの辞典」 には以下のようにあります:

マンヤン(族)
ミンドロ島山地に居住する人々の総称. 推定人口は約3万(1970).
・・・山腹を利用して焼畑農業営み、陸稲、サツマイモ、マニオク、タロイモ、
ヤムイモ、バナナ、トウモロコシなどを栽培する.
ブタやニワトリを飼育・・・・狩猟をすることもある・・・・
精霊信仰が宗教生活の主軸をなし・・・

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ところで、ミンドロ島と 日本兵に関しては、新聞でも一時期騒いでいた 「偽日本兵の遺骨」 の事件がありました・・・その後 今はどうなっているんでしょうか・・・

http://shukan.bunshun.jp/articles/-/837

「約一年前、小誌は空援隊が集めた「英霊の遺骨」の中にフィリピン人の骨が大量に含まれている可能性を指摘。その報道に一度はブログで反論した登山家の野口健氏が昨年五月、説明責任を果たしていないことなどを理由に理事を辞任、同団体を離れた。」

NHKの番組 「追跡」 での報道は:

http://diamond.jp/articles/-/9652

そして、

「報道機関からの指摘を受けて、ことし3月から遺骨のDNA鑑定を進めていました。その結果、現地に保管されている110の遺骨のうち、半分近くの54の遺骨はフィリピン人に多く見られるDNAの型だったことが分かりました。さらに、女性や子どもとみられる骨も混入しているということで、厚生労働省は、収集された遺骨の中に日本兵ではないものが混入している可能性が高いとしています。」

http://blog.goo.ne.jp/omoi51to49hitotuomoi_2011/e/282790503aaf9671bc7aa3bb93f8fe5b

平成23年に厚生労働省から こんな文書が出ていました:

http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r9852000001qkjd-att/2r9852000001qkku.pdf

 

 

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2013年12月15日 (日)

インクワイアラー紙に ジョーイ・アヤラの曲が : バギオでの平和慰霊祭

フィリピンの有力紙 フィリピン・デイリー・インクワイアラー新聞にこんな記事が掲載されていました.

http://newsinfo.inquirer.net/543421/flowers-new-song-for-72nd-year-of-baguio-war-bombings

私も毎年参加しているイベントで今回が4回目だったんですけど、第四回アジア太平洋国際平和慰霊祭というものでして・・・

上記のサイトの記事を 翻訳してみました・・・おおざっぱな翻訳ですんません・・・・

 

「バギオ爆撃72年目、花と新曲を捧げる」

フィリピン・デイリー・インクワイアラー新聞

2013年12月9日

 

バギオ市のキャンプ・ジョン・ヘイ内ベル野外円形劇場で、72年前の第二次大戦の残虐行為を祈念し開催された平和慰霊祭に於いて、イゴロット(山岳民族)第66歩兵連隊の退役軍人がロウソクを灯し、薔薇を捧げました.

ビンセント カブレザ / インクワイアラー北部ルソン

 

バギオ市 - 退役軍人と平和を求める人たちが、土曜日、キャンプ・ジョンヘイのここ ベル野外円形劇場に於いて、ジョーイ・アラヤの新曲を披露しました.  この曲は、第二次世界大戦の残虐行為を、 暴力的対立を拒否するようにフィリピンの若い世代に思い起こさせる教訓にしようと期待する運動の4周年を促進するために作られました.

その曲「オープン・ハンズ」は、第四回アジア太平洋国際平和慰霊祭の為に特別に作曲されたものです. 第66歩兵連隊の制服を着たイゴロットの元兵士3名と、バギオ市初の女性市長が参列した式典の中で演奏されました.

こちらのサイトで このオープン・ハンズを聴くことができます)

それら元兵士、元バギオ市長バージニア・デ・ギア氏、そしてバギオ在住の日本人映画監督今泉光司氏は、少数のバギオ開拓者と共に集い、1941年12月8日に始まった太平洋戦争の時にその場所を襲った最初の爆撃の日に思いを馳せました.

夏の首都(と呼ばれるバギオ市)は、1941年12月にハワイの真珠湾を日本が爆撃した後すぐに、日本軍によって最初に攻撃されたアジアの都市のひとつだったのです.

その攻撃がアメリカ合衆国が参戦する契機となりました.

慰霊祭の参加者が大戦の戦没者に薔薇と祈りを捧げている間、「平和、そこはみんなが生きる地球 / 誰もが庭の花のように手を開く」、アヤラの歌が流れた.

この催しはひとつになることを提唱し、退役陸軍伍長の レイムンド・ガドガド氏は、参加者に対して読み上げた祈りの中で 一言で次のように言った:

「戦いの中で可能な(であった)次なる勝利は、平和の中でさらに大きな勝利となることを祈ります・・・・・平和的な手段でその隔たりを解消するひとつの世界を、仲間たちと共に作っていく忍耐を与えてください.

日本人はフィリピンや他のアジア諸国での戦時の残虐行為を謝罪し、「私たちはその謝罪を受け入れた. 何故ならそれがクリスチャン人生のやり方だからです.」とガドガド氏は述べた.

 

最初の日本軍の爆撃奇襲がバギオ市に行われたのは1941年12月8日の白昼で、フィリピン大学ディリマン校の歴史教授 リカルド・ホセ氏によれば、キャンプ・ジョンヘイ米軍基地とフィリピン・ミリタリー・アカデミー(軍大学)を目標にしていました. 

戦争がついに始まったことを最初に知ったバギオ在住の人は、元バギオ市長ユーセビウス・ジュリウス・ハルセマの息子で、彼は通信社の記者でした.

ホセ教授によれば、ジェームス・ハルセマは大統領公邸に駆けつけ、バギオで病気療養中であった独立準備政府の大統領 マニュエル・L・ケソン氏に伝えました.

その報告を内閣が確認するや否や、ケソン大統領は公邸から国民に対し演説を行いました.

ホセ教授は、バギオ市は開戦の前から既に国際的な都市であったと述べています. 1939年、バギオ市の人口は24,000名にのぼりました.  およそ22,000名はフィリピン人であり、一方其の外は 中国人、日本人、アメリカ人、スペイン人、イギリス人、そしてドイツ人などでした.  バギオの500名の日本人は、太平洋戦争の為にフィリピン軍から抑留を命じられ、複雑な感情が沸き起こりました、とホセ教授は述べました.

ある人々は当局から近隣の日本人を匿いました、しかしホセ教授は、同時に、日本軍の侵略後すぐに「大きな反日感情」もあった、と述べています. この反日感情は、日本人経営の商店への略奪行為という形で表れました. 

結局のところ、日本軍はフィリピンを侵略し、キャンプ・ジョンヘイを日本軍の基地として使いました.  「(将軍ダグラス・)マッカーサーがフィリピン解放に戻った時、バギオ市の日本人は撤退せざるを得ませんでした」と 1933年にバギオで生まれた イノスケ・フルヤ氏は語りました. 

(ここに名前が出てきているのは おそらく イノスケではなく エイノスケ・フルヤ氏であると思われます)

「私たちは、山下(奉文大将)の撤退ルートに従って、山道の21キロ地点から、ヌエバ・ビスカヤ州のバヨンボンやソラノへ、そして最終的にはイフガオ州のキアンガンまで逃げたのです」と古屋氏は述べました.

バギオ市は、ふたたび攻撃されました. こんどはアメリカ軍の爆撃機で、1945年にバギオ市は焼け野原にされました.

「その爆撃によってさらに多くのフィリピンの民間人が犠牲にされました」とホセ教授が述べています.

デ・ギア氏は、その爆撃を控えられたバギオ大聖堂の中にいて生き延びた、と語っています.

ビンセント・カブレザ、 インクワイアラー北部ルソン

情報提供 ローランド・ラバング寄稿

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