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2013年12月27日 (金)

フィリピン・バギオ市の治安、事故、事件、犯罪情報なら このサイト

フィリピン・バギオ市での治安、事故、事件、犯罪情報なら

バギオ市警察関係の最新情報が掲載されているこのサイトをご覧ください:

http://interceder.net/latest_news/Baguio-City-Police

ちなみに、このサイトにリンクされている日本人がらみの情報を見ますと:

http://www.journal.com.ph/index.php/news/provincial/63111-japanese-fugitive-caught-in-baguio

日本で犯罪を犯し、バギオ市に潜伏していた ドバシ あるいは ツチハシ なる人物が 脅迫、偽造、詐欺などの容疑で 逮捕されたとあります.

日本からの捜査依頼に基づき、 フィリピンのイミグレーションと警察の協力によって逮捕されたと書いてあります.

バギオ市にある 北ルソン日本人会(JANL)経由の情報では、

このドバシなる人物は、バギオ市の中央公園であるバーンハム・パーク周辺で毎晩開かれている ナイト・マーケットで たこ焼きなどの屋台を出していたとの話もあります.

しかし、考えてみるに、バギオという町は、人口が30万から40万人ぐらいではあるんですが、在留の日本人はせいぜい100名くらいのもんですから、目立ちますよねえ・・・

潜伏するなら もっとでかい町で、日本人がたくさんいるとこじゃないとねえ・・・

バギオに逃げ込もうと思っているあなた!

考え直した方がいいよ~~~ (笑)

 

 

 

 

 

 

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2013年12月26日 (木)

左脳で音を処理する ポリネシア語 vs 日本語  そして ムー大陸 ??

左脳で音を処理する ポリネシア語 vs 日本語  そして ムー大陸 ??

左脳=言語脳で 虫の声を処理する ポリネシア語・日本語って どんなんだ?
ってことが気になって・・・ますます 迷い道・・・・

まず、ポリネシア語ってどんなんだ?

ポリネシア語(オーストロネシア語)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AB%B8%E8%AA%9E

「典型的な開音節言語で、音節の構成は「子音+母音」または「母音のみ」の2種類である。
母音は i, e, a, o, u の5種類で長短の区別がある。」

そして、日本語って これに似ているのかな??

日本語
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E

母音は、「あ・い・う・え・お」の文字で表される。音韻論上は、日本語の母音はこの
文字で表される5個であり、音素記号では以下のように記される。
/a/, /i/, /u/, /e/, /o/」

「日本語では、ほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は
開音節言語の性格が強いということができる。」

「日本語の系統は明らかでなく、解明される目途も立っていない。言語学・音韻論
などの総合的な結論は『孤立した言語』である。」

南方系のオーストロネシア語族とは、音韻体系や語彙に関する類似も指摘されている
[19]が、語例は十分ではなく、推定・不確定の例を多く含む。」

オノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば猫の鳴き声は、英語で "mew"、
ドイツ語で "miau"、フランス語で "miau miau"、ロシア語で "мяу" (myau)、
中国語で「喵喵」(miao miao)、朝鮮語で「야옹야옹」(yaongyaong) のごとくである[62]。
しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や
中国語の3倍から5倍存在するといわれ
[63]、とりわけ擬態語が多く使われるとされる[64]。」

「漫画などの媒体では、とりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の手塚治虫は、
漫画を英訳してもらったところ、「ドギューン」「シーン」などの語に翻訳者が「お手あげ
になってしまった」
と記している[65]。また、漫画出版社社長の堀淵清治も、アメリカで
日本漫画を売るに当たり、独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている[66]。」

まあ、とりあえず、オノマトベが 気になっているんで、ここんところを
検索していきますと・・・・・

「日本語なるほど塾」、「擬音語と擬態語」
http://plaza.rakuten.co.jp/alex99/diary/200410180000/

「日本語には、擬音語・擬態語が多いとは知っていたが、例えば英語では350語しか
ないのにくらべて、日本語では1200語もある
と言う。」

「Ⅰ 日本語の中の「繰り返し語(畳語)」
ポリネシア語による解釈

http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/kokugo01.htm

「金田一氏は『日本語の特質』(63ページ)で、「日本の周囲には、日本語のように全部の
拍が母音で終わっている言語はありません。全部の拍が日本語のように母音で終わる
言語は、日本の近くではポリネシア語がそうです。このことから、日本語ができるときには、ポリネシア族が日本にいたのではないかという説も出るくらいです。」」

「日本語における「繰り返し語(畳語)」は、社会生活の中のほとんどあらゆる場面での形容、説明に欠かせない語彙です。例えば「はらはら」、「ぶらぶら」、「がやがや」、「おろおろ」など際限なく出てきます。 」

「ポリネシア語には、極めて多く、殆どの基本語には繰り返し語が元の単語の意味を強調
するか、または派生した意味で随伴しています。
 しかし、アイヌ語、朝鮮語、中国語には、あることはありますが、南方語ほどは見られません。」

「 私はかつて東南アジア語の一つであった原ポリネシア語が縄文時代に日本列島に入って縄文語となり、これと弥生時代以降に日本列島に入ってきた大陸・半島系の民族が持ち
込んだ言語が融合・発展して、現在の日本語になつたと考えています。 」

200を越す「繰り返し語(畳語)」の殆どがポリネシア語(主としてマオリ語により、ごく一部は兄弟語であるハワイ語によっています)で、殆ど完全に近い音韻の一致の下に、
現在の日本語の意味と完全に、またはほぼ一致もしくは類似して解釈することができます。」

「畳語の表現も、身近な人間の生活の中での行動や、身近な動植物、道具等の特徴をとらえて、自由な発想ないし連想によるユニークな比喩を用いたものが数多く見られます。このような具体的な表現は、ポリネシア族の思想、信仰、物事の発想や思考方法から発するもので、古代の縄文人も同じような思想、信仰、物事の発想や思考方法をもっていたのではないかと思いますが、現代の日本人にとっては極めて異質のものと言わざるを得ません。」

「このような「繰り返し語(畳語)」は、他の外国語にはどのくらいあるのか詳細はわかりませんが、これは正に日本人ならではの、日本語を特徴づける独特の表現ではないでしょうか。
そしてこれこそが、日本語が、南方語である縄文語と、弥生時代以降に日本列島に持ち
込まれて来た北方語との融合語であることを証明しているものではないでしょうか。 」

・・・・こういうのを読んでくると、なるほど、ポリネシア語ってのが結構近いところに
あるのかな・・という気にはなりますよね・・・

そして、そこでこんなユニークな論も飛び出してくるわけですねええ・・・・

「ムー大陸は畳語のルーツ?
イースター島ロンゴロンゴ。ハワイ語ロミロミ」
http://www7a.biglobe.ne.jp/~mkun/study/ko_jyou2.htm

ムー大陸とは
今から約1万2000年前に太平洋の中心で、一夜にして沈没したとされる幻の大陸。
「世界最古の土器」は日本にあって、1万2000年~1万5000年前のものとされている。
ムー大陸の沈没と世界最古の土器は関係あるのか?」

・・・・まあ、ロマンがあって楽しいんですけど・・・
どうなんでしょうかねえ・・・

ところで・・・・

言語によって、右脳と左脳の使い方が違ってくる、制約されてくるっていうのは、
なにによって決まるんでしょうか・・・・

 

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2013年12月25日 (水)

右脳と左脳 音楽vs虫の「「声」 ・・・日本語を母語とすると・・・

右脳と左脳に未だに拘っておりまして・・・笑

検索していたらこんなサイトがひっかかりまして・・・

「虫の音や雨音などを日本人は左脳で受けとめ」
www.ylw.mmtr.or.jp/~hosino/ma-net/nihogo.txt‎

「右脳は音楽脳とも呼ばれ、音楽や機 械音、雑音を処理する。左脳は言語脳と呼ばれ、
人間の話す声 の理解など、論理的知的な処理を受け持つ。ここまでは日本人 も
西洋人も一緒である。 ところが、虫の音をどちらの脳で聴くかという点で違いが見 つかった。」

虫の音をどちらの脳で聴くかという点で違いが見
    つかった。
西洋人は虫の音を機械音や雑音と同様に音楽脳で処
    理するのに対し、日本人は言語脳で受けとめる、ということが、
    角田教授の実験であきらかになった。日本人は虫の音を「虫の
    声」として聞いている
ということになる。」

・・・これについては、昔聞いたことがあったんですが、なぜ日本人は
「虫の音」じゃなくて「虫の声」を左脳・言語脳で聞くようになったんでしょうね・・・

そこで、興味深いのがこの部分です・・・

「このような特徴は、世界でも日本人とポリネシア人だけに
    られ、中国人や韓国人も西洋型を示すという。さらに興味深い
    ことは、日本人でも外国語を母語として育てられると西洋型
    となり、外国人でも日本語を母語として育つと日本人型にな
    ってしまう、というのである。脳の物理的構造というハードウ
    ェアの問題ではなく、幼児期にまず母語としてどの言語を教
    わったのか、というソフトウェアの問題らしい
。」

・・・つまり、日本語とポリネシア系の言語は、世界の他の言語とは
脳の使い方が異なるってことになりますね.

「音楽、機械音、雑音は右脳、言語音は左脳というのは、
    日本人も西洋人も共通であるが、違いが出るのは、母音、泣
    き・笑い・嘆き、虫や動物の鳴き声、波、風、雨の音、小川の
    せせらぎ、邦楽器音などは、日本人は言語と同様の左脳で聴き

    西洋人は楽器や雑音と同じく右脳で聴いていることが分かった。」

・・・ こりゃあ凄いことですね・・・
ちょっと日本語教師に戻って考えると、
「母音、動物の鳴き声、 風の音・・・」 などというのが日本人は
言語脳である左脳で・・・というのが興味深いところです.
日本語にはやたら母音が多いと言われていますからね・・
それに、日本語には漫画などでおなじみの擬音語が多い・・・
http://mediawiki.arts.kuleuven.be/japans/index.php/%E6%93%AC%E9%9F%B3%E8%AA%9E%E3%81%A8%E6%93%AC%E6%85%8B%E8%AA%9E

このサイトの著者も こう書いています・・・

「 このような擬声語、擬音語が高度に発達しているという点が、
    日本語の特徴である。幼児がこれらを最初から学んでくれば、
    虫や動物の鳴き声も自然音もすべて言語の一部として、言語脳
    で処理
するというのも当然かもしれない。あるいは、逆に、言
    語脳で処理するから、言語の一部として擬声語、擬音語が豊か
    に発達したのか?」

「西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育
    った母語の違いである可能性が高い。「日本人の脳」というよ
    り、「日本語の脳」と言うべきだろう。角田教授の今までの調
    査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか
    見つかっていない。」

そして、
「理論物理学者の湯川秀樹博士は、角田教授 との対談でこう語る。」

「つまり日本人はいままでなんとなく情緒的であるという
        ていた。(西欧人が)論理的であるのに対して、より情緒
        的であるといっていたのが、構造的、機能的、あるいは文
        化といってもいいけれども、そういうところに対応する違
        いがあった
ということが、角田さんのご研究ではっきりし
        たわけです。」

・・・と書いてあるんですねえ・・
右脳と仏教の関連を知りたくて 探していたら、日本語という言語の特質と
いうところに来ちゃいました・・・

「国柄探訪: 日本語が作る脳」って本があるんかなとおもったら、
「日本人の脳 - 脳の働きと東西の文化」 ってのがありました.
角田忠信氏の著書ですね・・・買います!!
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%84%B3%E2%80%95%E8%84%B3%E3%81%AE%E5%83%8D%E3%81%8D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96-%E8%A7%92%E7%94%B0-%E5%BF%A0%E4%BF%A1/dp/4469210684

以前読んだ本で、世界のそれぞれの言語ごとに 思考の仕方が異なる・・
というようなことが書いてありましたが、これは実に面白いですね・・・

「日本語の論理 - エレガントな対立」を読む その1 感情的な日本語 
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/08/post-e799.html
「・・・日本語そのものが情緒的になってしまっている・・・
こういう言語、ないしは言語的思考が外交から見ていちじるしく
不都合であることは明らかである。

反対と喧嘩の区別がはっきりしていないのが、残念ながら
われわれの社会の実情である。

言うべきことも言わないでいる人にかぎって鬱憤がいったん
爆発すると、文法をもたない喧嘩をはじめてしまう。」

確かに、フィリピンで会う日本人には、こういうタイプが多いような気がします.
フィリピンに住んで、日本的ストレスから解放されるんですが、
フィリピン・スタイルの様々な異文化ストレスってのがあるわけですね.

最初の内は 海外だから違って当たり前だ・・・と我慢するんですけど、
そして、温和な寛容な日本人であるよと思わせるように努力するんですけど、
それが臨界に達すると爆発しちゃうんですねえ・・・

・・・・同じ本ですけど、日本語の論理性について、こんなところがありました.

「日本語の論理」その3 - 日本語は「島国形式」「あいまい」「解明されていない」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/06/post-74b5.html
「日本語の論理についてはまだまだ明らかにされていない部分
がきわめて多いけれども、このさきもさらに外国人によって
教えられるようなことがないようにしたいものである。

日本語の論理はいわば連想の論理で、それを解明するには
詩歌、とくに俳句がもっとも有力な手がかりを提供するように
思われる。」

しかし、悲観することばかりではありません.
日本語の強みだってあるみたいです・・・

「「音」を文字にする能力は、今回の日本語の脳によっ
    て作られていることがわかり、「なるほどー!!」と納得した
    のでした。音を文字に置き換える能力(そしてそれを一瞬で感
    覚的に理解する能力)は、さまざまな音を声として聞く日本語
    脳ならでは、なのですね。」

・・・・ あああ・・・どんどん読書の道に迷い込んできちゃいました・・・

ここで、ふっと思ったんですけど、フィリピン人の脳はどうなってんだろ

ポリネシアと日本は同じということでしたから、
ポリネシア語がどういう範囲かといえば・・・フィリピン語も入っていますね・・
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9D%E3%83%AA%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2%E8%AA%9E%E6%B4%BE

しかし、フィリピンでは、もちろん母語はフィリピン語ですけど、
結構小さい子供の時から英語を学んでいる人は多いですからねえ・・・

ポリネシア系の言語と日本語に共通するものは何だろうか・・・

フィリピン語に日本語と同じような特性があるんだろうか・・・

虫の声は 聞こえているんだろうか・・・・

フィリピン語に擬音語などはあるんだろうか・・・・・

そして、右脳と仏教ですけど、
インドの言語である ヒンディー語やベンガル語などは ポリネシア系では
ないんですねえ・・・
もちろん、仏典が書かれたサンスクリット語も同じ・・・・

座禅をしていたお釈迦さまには 虫の声は聞こえていなかったってことかなあ・・・
そして、涅槃の右脳には 虫の声は、風の音は、小川のせせらぎは、
聞こえていなかったのか・・・・

 

 

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2013年12月24日 (火)

右脳・左脳と ブッダの仏教の「空」は なにか関係があるのか・・・

先日、こんなことを書いたんですが・・・
「認知症と 色即是空と 脳科学 : もしかして認知症は天国か?」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-966f.html

一部を抜き書きすると・・・・

「腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっていることに気付きました
腕の原子分子が壁の原子分子と混じり合って 一緒になっているのです
唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした

・・ってことになるわけですね・・・

これって 釈迦が言っている「色即是空」ってこっちゃないですか?

「小さな声が 「私がある」と言うことです
そして左脳が 「私がある」 と言った途端 私は 切り離されるのです
周りの人から分離されます」

・・・これが無くなって、自己が無くなる・・・無我ってことですよね・・・
自己と外界、宇宙の境目がなくなって、原子分子が混沌とした状態に
なるってことですよね・・・

=== これが 気になって、気になって・・・ 仏教の「空」とのつながり
     がないかと思ったんです.

     以前書いた下記のリンク先から拾いました・・・

「その48(まとめと感想) 中村元著「龍樹」: 般若心経の「空」とは何か
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/02/post-3882.html

p295
ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えてはならない
ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の迷妄である。
故に「般若経」においてはニルヴァーナは「夢のごとく」
「幻のごとし」
と譬えている。
それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。

p446
・・・「空」の真の特質は「何もないこと」であると同時に、
存在の充実である。 
それはあらゆる現象を成立せしめる
基底である。 ・・・空を体得する人は、生命と力にみたされ
一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。

慈悲とは、<空>--あらゆるものを抱擁することーー
の、実践面における同義語である。

=== これらの「空」について書いてある文章が 上に書き出した
     右脳だけの世界に実に似ているとおもいませんか?

     自分の体が外界との境目がなくなって、溶け込んだような状態.
     「何もないこと」であると同時に 「唯一感じ取れるのは エネルギー
      だけでした」というところが 「空を体得する人は、生命と力にみたされ
      一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。」
      との記述も脳科学者の体験に近いように思えます.

     「夢のごとく」「幻のごとし」というところもそうですし・・・
     
     「そして左脳が 「私がある」 と言った途端 私は・・・」という
     ことで自己なるものが現れる・・・・

==== さらに、「ブッダのことば」からも拾ってみました.
「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ 
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

14. 座禅をして、瞑想し、
「戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
(身体について心を専注せよ)。 」

3. 「空」の考え方は仏陀自身にあって、「事物のうちに堅固なものを
見出さない」と言う言葉がある。
すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
かれの存在するありさまを知っている
。 すなわち、かれは解脱していて、
そこをよりどころとしていると知る。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう

24.自分などというものはこの世に存在しない。
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、
<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真理である」
と考えている。
「般若心経」に出てくる 自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか
「釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
 アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」

33. 安らぎの境地、ニルヴァーナ。
「ウパシーヴァよ。 よく気をつけて、無所有を
めざしつつ、「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」

=== ここにも脳科学者の脳卒中体験と通ずるものがありますね・・

      「五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
       (身体について心を専注せよ)。 」
      
      <識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
      かれの存在するありさまを知っている。

      自分などというものはこの世に存在しない。
      自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか。

      ・・・ここでは、右脳に心を注げとも見えるし、
        左脳が 「私」と宣言するまで 「私」なるものは存在しない
        と言っているようにも見えます・・・

そこで、お釈迦さんがもっぱらやっていた座禅・瞑想でどんな効果が
あったんだろうと気になるわけですが、このサイトにありました:
(宣伝しているわけではありません・・・)

「瞑想は、右脳を活性化する簡単な方法です。」
http://yaplog.jp/kioku_jutu/archive/20

考えることはせず、流れに従い、思うままに任せることで、
左脳が働かず、右脳が優勢になります
瞑想を始めて、数週間で変化を感じられると思います。
特に座禅では、怒らなくなります。
また、座禅の後は、すっきりしまし、
座禅の最中になにかのイメージを見ることもあります。
数年間、毎日30~40分程度瞑想すると、
自己を超えた意識や、宇宙との一体感などを体験できるようになります。

「疲れた体は座禅で癒やす 」
http://business.nikkeibp.co.jp/article/NBD/20130322/245426/?ST=pc

座禅は、最低5分間、長くて30分くらい行うと、大脳からα波の一種であるα2という
特殊な脳波が出ることが確認されている。このα2は、気持ちが落ち着き、
気分をスッキリさせる覚醒をもたらしてくれる。心理的には、緊張や不安が取れ、
元気がみなぎってくるのが感じられるだろう。

瞑想
http://www4.ocn.ne.jp/~akasikku/meisou.html
我が子の存在を感じたり霊界について知りたいという強い思いから入る方が多いと
は思いますが、  中にはこの試練の因果を解明しようとか、今後のことを知りたいとか
という、間違った学びの目的でやられることは 大変危険ですし、間違っていると思います。

=== などといろいろあるようですが、私は深入りはやめておきます.
     少なくとも お釈迦様の時代から、あるいはその前から、
     座禅・瞑想は人類の知恵として右脳なりを鍛えるようなはたらき
     があることが体験としてあったようですね・・・

== 以下は上記リンク先からの抜き書きです ==

右脳と左脳の関連で 興味深い部分だけをピックアップ

p5
仏教の伝統的用語では「空」の思想を「空観」とよぶ。
空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが
固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。

p16
大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという
理論によって、空の観念を基礎づけた。

p17
無も実在ではない。 あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて
起こるのである。
二つのものの対立を離れたものである。・・・空とは、あらゆる事物の
依存関係にほかならない。

p60
ー 原始仏教において、世間は空であると説かれていたが
  (たとえば、「常に心に念じて、(何ものかを)アートマン(我)
  なりと執する見解を破り、世間を空であると観察せよ。
  そうすれば死を度るであろう」)

p60
ー われわれは固定的な「法」という観念を懐いてはならない。
  一切諸法は空である。 何となれば、一切諸法は他の法に条件づけられて
  成立しているものであるから、固定的・実体的な本性を有しないもので
  あり、「無自性」であるから、本体をもたないものは空であるといわねば
  ならぬからである。

ー 空観からの論理必然的な結論として、輪廻とニルヴァーナとは
  それ自体としては何ら異ならぬものである、と教えられた。
  しからばわれわれの現実の日常生活がそのまま理想的境地として
  現し出されねばならぬ。

==>>ここでニルヴァーナですけど、「涅槃」とも言われますが、
中村元さんによれば、「心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地」
としているようです。

p71
ナーガールジュナは「有」を否定するとともに、「有」がない以上、
当然「有」と相関関係にある「無」もありえない、と主張する。

p102」
「一切」」とは五蘊十二処十八界であるといわれ、あるいは
たんに十二処であるともいわれる。

十二処 = 眼などの六つの器官(六根)
      それらの対象(六境)
      
十八界 = 六根 + 六境 + 六入
      十八の要素で構成される主観・客観のすべての世界

有為法 = つくられた現象的存在
無為法 = それ自体で存在する永久不変の存在

五蘊は有為法のみ。

p130
中観派の哲学者たちは、自分たちの立場が論駁されることはありえない、
という確信をいだいていた。 そうして大乗仏教が、(禅を含めて)
神秘的な瞑想を実践しえたのは、そのような思想的な根拠があったから
である。

p139
すなわちいかなる個人存在もまたいかなる事物を永久に存在する
(常住)と考えてはならないし、また反対にただ消え失せて
しまうだけである(断滅)と考えてもならない。

「不断不滅」は仏教徒にとっては絶対の真理である。

p140
「何故に業は生じないのであるか。 それは本質をもたないもの
(無自性)であるからである。 またそれが不生であるが故に
(生じたものではないから)、滅失することはない」

p155
その最後の目的は、もろもろの事象がお互いに相互依存または
相互限定において成立(相因待)しているということを明らかに
しようとするのである。
すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして
存在するから、もしもその相関関係を取り去るならば、何ら
絶対的な、独立のものを認めることはできない、というのである。

p164
さらに「中論」の基づく「般若経」も縁起を説いている。
・・・縁起を説明したあとで、「善現よ。まさに知るべし。
諸の菩薩・摩訶薩は、般若波羅蜜多を行ぜんと欲せば、まさに
かくのごとく縁起を観察して、般若波羅蜜多を行ずるべし」という。

p182
「中論」の主張する縁起とは相依性(そうえしょう)(相互依存)
の意味であると考えられている。

p202
ブッダは形而上学的実体を仮定する当時のインドの思想を排斥して、
ただ人間の生存の構造を問題とした。
そうして十二因縁のうちの前の項が順次に次のものを基礎づける
という構造をおっていた。

p207
「要するに有(もの)が生ずるということは、理に合わない。
また無が生ずるということも、理に合わない。 有にして無
なるものの生起することもない。」・・・・
という論法に従って縁起が<不生>であるということを論証
しているのである。

p213
要するにナーガールジュナを始めとして中観派の諸哲学者は、
「自生」「他生」「共生」「無因生」という生起のあらゆる
型を否定することによって縁起を成立せしめようとしたので
ある。

p226
これは驚異的な発言である。
われわれは平生は我欲に悩まされているから、我欲を離れた
境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地という
ものが別にあると思う人は、実は真理を見ていないのである。

p227
このように無我が諸法実相、空、無自性と同じ意味であるならば、
当然「無我」とは「縁起」の意味に解してさしつかえないのでは
なかろうか。

p230
「中論」によれば無常なるものは必ず縁起しているし、また
縁起したのではないものは無常ではないというのである。
したがって「中論」は諸行無常を縁起によって基礎づけている
ことが明瞭である。

p234
中観派によれば空性とは縁起の意味であるという。
空とは「縁起せる」という意味であり、不空とは「縁起せざる」
と同義である。

p241
「縁起せるが故に空である。」
縁起が理由であり、空は帰結である。

「縁起せるが故に無自性である」
縁起が理由であり、無自性は帰結である。

「無自性の故に空である」
無自性が理由であり、空は帰結である。

・・要約すれば、縁起はつねに理由であり、空は常に帰結である。
「縁起ー>無自性ー>空」という論理的基礎づけの順序は定まって
いて、これを逆にすることはできない。

p254
チゃンドラキールティの註によると「それ」とは空をさしている。
空がすなわち中道であり、中国一般の解釈のように空を空じた
境地に中道が現れるのではない。

空は有と無という二つの極端(二辺)を離れていることとなる。
故に空は二辺を離れた中道である、ということになる。

p283
「もしも<五蘊(個人存在を構成する五種の要素)を>取って、
あるいは<因縁に>縁って生死往来する状態が、縁らず取らざる
ときは、これがニルヴァーナであると説かれる」
と説くから、相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷する
のを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と
名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナ
である。
人が迷っている状態が生死輪廻であり、それを超越した立場
に立つときがニルヴァーナである。

p294
輪廻というのは人が束縛されている状態であり、
解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。

両者は区別して考えられやすいけれども、その根底をたずねる
ならば両者は一致している。

p295
ニルヴァーナという独立な境地が実体としてあると考えては
ならない。
ニルヴァーナというものが真に実在すると考えるのは凡夫の
迷妄である。
故に「般若経」においてはニルヴァーナは「夢のごとく」
「幻のごとし」と譬えている。
それと同時に輪廻というものもまた実在するものではない。

p302
われわれの経験するこの現象世界がそのままブッダなのである。
これも、一切の事物と如来とは別なものではなく、究極において
一致しているという「般若経」の説を受け継いだものであろう。

「中論」の説くこのような如来は、諸註釈からみると法身
(仏の真実の身体)を意味している。
・・・この如来の法身とは、真如、実際、空などと同じ意味で
あるという。そうしてこれらの諸語は・・・縁起と同一の意味
であるから、・・・縁起の理法そのものを意味するに違いない。

p304
この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(般若)である。
「大智度論」においては、諸法実相を知る智慧が
般若波羅蜜であると説明されているが、結局縁起を見る智慧
を意味していることに変わりはない。

p442
中観派の哲学者たちは現象世界における変化を否定して、
真理は言語では表現できないものであるという理論を述べた。

p446
・・・「空」の真の特質は「何もないこと」であると同時に、
存在の充実である。 それはあらゆる現象を成立せしめる
基底である。 ・・・空を体得する人は、生命と力にみたされ
一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。

慈悲とは、<空>--あらゆるものを抱擁することーー
の、実践面における同義語である。

=== さらに 最も古いと言われている「ブッダのことば」には ===

「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ   
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

2. 洞窟や木の下で座禅・瞑想し、真理を求め、解脱することを
願う修行僧たちに、解脱の方法を問われるままに教えていた。

32. 釈迦は徹底した自力の立場を表明した。
わたくしは世間におけるいかなる疑惑者をも解脱させ
得ないであろう。 ただそなたが最上の真理を知るならば、それによって、
そなたはこの煩悩の激流を渡るであろう。

31. 祭祀をすることは煩悩である。 
供犠に専念している者どもは、この世の生存を貪って止まない。
かれらは生や老衰をのり超えていない、とわたしは説く。
伝承によるのではなくて、いま眼のあたり体得されるこの理法を、
わたしはそなたに説き明かすであろう。 その理法を知って、よく
気を付けて行い、世間の執著を乗り超えよ。

14. 座禅をして、瞑想し、
「戒律の規定を奉じて、五つの感官を制し、そなたの身体を観ぜよ
(身体について心を専注せよ)。 切に世を厭い嫌う者となれ。」

3. 「空」の考え方は仏陀自身にあって、「事物のうちに堅固なものを
見出さない」と言う言葉がある。
すべての<識別作用の住するありさま>を知りつくした全き人(如来)は、
かれの存在するありさまを知っている。 すなわち、かれは解脱していて、
そこをよりどころとしていると知る。
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。

24.自分などというものはこの世に存在しない。
見よ、神々並びに世人は、非我なるものを我と思いなし、
<名称と形態>(個体)に執著している。「これこそ真理である」
と考えている。
「般若心経」に出てくる 自分は五蘊(ごうん)である、と言えるか。
「釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教において
 アートマンの用語は一般的ではないと思われる。」

33. 安らぎの境地、ニルヴァーナ。
「ウパシーヴァよ。 よく気をつけて、無所有を
めざしつつ、「何も存在しない」と思うことによって、煩悩の激流を渡れ。
諸々の欲望を捨てて、諸々の疑惑を離れ、妄執の消滅を昼夜に観ぜよ。」
この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する
欲望や貪りを除き去ることが、不滅のニルヴァーナの境地である。
即時に効果のみられる、時を要しない法、すなわち煩悩なき<妄執の
消滅>、をわたくしに説示しました。

 

 

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NHK「零戦」、小説「永遠のゼロ」で・・・・ あまりにも人間的な「特攻」 ??

百田尚樹 著 「永遠のゼロ」 講談社文庫 を読み終わったところに、
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-c350.html

たまたま NHKの「零戦」という番組が放映されまして・・・

NHK 「零戦 - 搭乗員たちが見つめた太平洋戦争」
http://www.nhk-ondemand.jp/program/P201300112500000/

まあ、いろいろと考えちゃうわけなんですが・・・・

本を読んで、感想文も書いて、それからしばらく時間が経って・・・・
今、残っているのがどんなことかといいますと・・・

「神風特攻ってのは、なんて人間的なんだ」

・・・ってことなんです.

「非人間的」の間違いだろうって?
はい、それはそうなんですけど、実は上記以外にこんなニュースやら番組やらで
考えが飛躍しちゃったんです.

まず、 神風特攻の「永遠のゼロ」を読んだときには、
日本軍とアメリカ軍の違いが大きいと思ったわけです:

ー 日本は兵士を消耗品のように扱い、人権・人命など考えていない
ー アメリカは 出来るだけ兵士を死なせないように 零戦に歯が立たなかった
  時期には 零戦との一対一の戦闘は行わず、二機で零戦一機に対応
  するなどの戦術も考えだし、戦闘機なども日々改良し、新兵器をつくり、
  飛行兵の命を守る防備も固めた.

ー つまり、日本は兵士を鉄砲玉と同じように扱い
  アメリカは最終兵器は兵器を使う人間だと考えている.
  だから、日本は優秀なパイロットからどんどん捨てて、促成栽培の学徒動員の
  パイロットに爆弾を抱かせて突っ込ませるしかなくなった.

ただ、おそらく太平洋戦争の時には、日本は資源も金もなく、
アメリカの金を掛けた物量作戦のような人命を最優先に考えた
戦略はとれなかったんだろうと思います.
新兵器もまともなものが作れず、やぶれかぶれの戦略になった・・・

それに、アメリカの民主主義と 日本の軍国主義の明らかな違いが、
人権・人命を優先しなければ政権がつぶれてしまうアメリカと、
お国の為なら一命を捧げるという発想、あるいは教育に現れていたのでしょう.

・・・ここまでならば、「特攻は非人間的だ」ということになるわけです.
特攻で死んだ兵士のことを考えればそういうことになる.
イスラム過激派の自爆テロもそうかもしれません・・・

ところが、アメリカのやり方、フィリピン奪還でも日本での大空襲でも
いわゆる絨毯爆撃で 戦闘員、非戦闘員関係なく無差別に殺しているわけですね.
原爆はその最たるものですが・・・・

それに対比すれば、少なくとも神風特攻は 空母や艦船など戦闘員を
攻撃した
ってことです・・・

・・・・ここに来ると、被害者の立場と殺害者の立場の対比になるんですけど、
被害者の立場で言えば アメリカはめちゃくちゃ非人道的ってことだと
思うんです・・・・自国民のことは人道第一で考えるけど、敵国の人権など
どうでも良いという感じです.

さてそこで、どっちが人間的なのか、非人間的なのかで ますます
どう考えたらいいのか分からなくなるのが これなんです:

米軍の無人機による攻撃 アフガニスタン
http://www.youtube.com/watch?v=RUHC3Bt_7gg

米軍 無人兵器の実態
http://www.youtube.com/watch?v=6d7lHUMDCrg

殺害する側は、遠く離れたオフィスで コーヒーでも飲みながら
兵器を操縦して ミサイルを発射したりするわけです・・・

自国民にとっては実に人道的です.
敵とされた国民にとっては悪夢以外のなにものでもありません・・・

それで、考え込んでしまったんです・・・
特攻というのは、少なくとも自分の命と引き換えに 敵の命をいただくわけです.

だから、特攻っていうのは 実に人間的なんじゃないかって・・・・

上の無人兵器に関する映像を見ると、予算が足りないから 安くあがる
無人機にするって話ですね・・・

人殺しを安くやろうってことです.

昔は アメリカは金に物を言わせて物量作戦で自国の兵士の命を守りながら
新兵器で日本を圧倒したのでしたが・・・

しかし、今は、ゲームみたいに敵の命を 安価で いただこうってことです.
アメリカの国の予算が財政難で十分にとれないからだそうです.

中国は毎年どんどん軍事費を増やしているそうです・・・
いずれアメリカを抜いて世界第一の経済大国になると言われています・・・
中国は民主主義国ではありませんから、昔の日本のような戦略をとるのでしょうか・・・

昔、日本は金がないから、軍国主義だから 「非人道的な特攻」をやった・・・
しかし、今考えてみれば 「特攻は実に人道的」 だったのではないか・・・

今からの戦争がどういうことになってしまうのか・・・
無人兵器と無人兵器の戦いになるのか・・・それは人道的と言えるのか・・・

大昔の戦国時代の 一騎打ちは それこそ人と人との斬り合いですから
現場では悲惨この上ないことが起こったのでしょうが、それでもまだ
人間の力と知恵の戦いの美学のような武士道のようなものがあったのでしょう.

「血の通わない戦争」 なんてものがあるのかどうかも分かりませんが、
面倒な世界になってきたもんです・・・・

この文章も わけが分からなくなってしまいました・・・お粗末様

 

 

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2013年12月23日 (月)

「お前が殺したのではないのか!」 「重機関銃分隊長のルソン戦記」

川崎恵一郎著 「重機関銃分隊長のルソン戦記」 光人社NF文庫から
興味深いところだけを つまみ食いしています.
http://books.rakuten.co.jp/rb/11786385/

これが最終です・・・・

フィリピンでの戦争が終わり、著者が収容所へ送られていくところです・・・

176ページ

貨車はゆっくり平野を進んでいく.
この線路はフィリピン唯一の交通路線で、北サンフェルナンドから
レガスピーまでつづいており、単線で駅のところだけ複線になっている.

比島へ行けるようになってから毎年のように渡比しているが、
二十年くらい前まではたまにこの貨車に会ったこともあったが
十数年前から使っていないらしい・・・・

終戦後、日本の賠償金でアパリからミンダナオ島までのナショナルロードが
建設され、・・・・今は自動車が交通機関の主力で汽車は使われないとの
ことである.

=== 北サンフェルナンドというのはラ・ウニン州のサンフェルナンド
のことで、バギオから西に海岸線へ下りたところです.
戦争当時は パンパンガ州のサンフェルナンドを 南サンフェルナンドと
呼んでいたようです.

私が初めてフィリピンへ出張したのは1992年でしたが、
その時には もう少なくともマニラからラ・ウニオン州方面への鉄道は
使われていなかったと思いますが、その少し前まではまだ走って
いたとこうことになりますね.

177ページ

私たちはカンルーバン捕虜収容所に着いた.
・・・五列のままシャワーの所へ連れていかれる.
・・・炎の中へ身に着けていた衣服を脱いで投げ入れさせた.

私は戦友の指の骨を持っていたので、右手の包帯の間に隠した.

三月十日以来、約七か月ぶりの戦塵を洗い流した.

身上調査が始まった・・・

180ページ

フィリピン上陸からコレヒドール作戦、マリンドケ島敵前上陸、ミンドロ島
上陸、討伐作戦のかずかず、ルバング島討伐、バタンガスへの引き揚げ、
マニラにての防衛戦、バギオでの戦闘、負傷病院生活、投降まで
事細かく聞かれた・・・・

一年間の捕虜生活・・・・復員後三か月も横浜のB級戦犯の裁判所
呼び出され、取調べを受けた・・・・

PWを収容していた第四キャンプは・・・
今で言うと、ロスパニオス(マキリン山の麓で山下閣下や本間中将が
処刑された所)に向かう途中、ナショナルロードの右側に二本煙突が
立っている砂糖工場のある位置で・・・・一面砂糖黍畑である・・・

===マニラに近い避暑地で有名なタガイタイに近いところだそうです.

193ページ

取調べがあるから別の幕舎へ移れというので・・・・
毎日のように一人ずつ呼び出されて取調べである・・・・

駐屯していたところの現地人が来て、顔の検分もするとのことである.
・・・最後は嘘が言えないということであった・・・

197ページ

投降したゲリラの中に米軍の曹長が一人いた・・・

夜は逃げるといけないのでドラム缶に入れてあった・・・
その捕虜を塩見准尉が酒に酔って殴り、顔中傷だらけにした・・・
・・・病気で死んだことにしてブッサンガ河の河原で彼を切り殺して
埋めた・・・・
岩崎中隊長は・・・・横浜のB級戦犯の裁判で、・・・・重労働二十年の
判決がでた・・

この事件・・・・クリアーになれず第四キャンプに置かれる原因で
あることが分かった・・・

首実検だなと思った・・・・いよいよ俺も最後かと思った・・・・

「川崎が殺したのではないか」
「知らないが、川崎さんはいい人です. 私を可愛がってくれました」

私はホッとした・・・

「私たちは川崎さんにいろいろお世話になりましたので、
MPに川崎さんを許してやって下さいと言いました」

ジユタイは涙を浮かべていた.

=== 著者ご本人に話を伺っていたとき、
この本の出版のタイミングを「自分が死んでから・・・」とおっしゃったの
ですが、その理由は、他の関係者に迷惑がかかるということと同時に、
ご本人が「怖いのだ」ということもあったようでした.

219ページ
 
私にはミンドロ島の件がある.
日本に帰ればなんとでもなる. 私には みなさんには打ち明けられない
過去があるのです.
 なんとしても一度故郷の土が踏みたいのです・・・・

見送る人は一人もいない・・・
遠くから戦友たちが恨めしげに見ていた・・・

マニラの港に着く・・・・

初めて日本の人と話が出来た・・・・

「今の日本は大変ですよ. 食べ物はないし、衣料も全部配給ですよ」
広島、長崎、東京、名古屋はメチャメチャですよ

船の中では拡声器で歌謡曲を流していた.
赤いリンゴに唇よせて・・・」

まったく知らない日本の歌である・・・

この歌を聞いて、初めて日本に帰れるという実感が湧いた.
もうこんなところへ二度と来るもんか、とも思った.

224ページ

バシー海峡の海は青く奇麗だが、一年前にはこの海峡で
我々の同胞十三万の命を呑み込んだ海である・・・
私は思わず般若心経を口ずさまずにはいられなかった・・・

私は九州の佐世保に上陸した・・・

=== バシー海峡は フィリピンと台湾の間にある海峡です.
1944年にフィリピンでの最後の決戦の為に多くの日本兵たちが
この海峡を渡る途中で、アメリカの潜水艦などに沈められたのだ
そうです.

我が故郷である佐世保が、多くの帰還兵や引き揚げ者を
迎えていた港であったというのは この2~3年の間に 様々な
戦記を読んで初めて知ったことでした・・・

227ページ

名古屋駅でも・・・アメリカの兵隊と日本の女が手を組んで・・・
パンパン、売春婦である・・・・私は我慢出来なかった・・・
「この野郎」
と立ち上がったが、側にいた大学生に抑えられた.

「兵隊さん、腹が立つのは我々も同じです しかし今の日本は
あのようなことは致し方ありません
彼女たちも食べるためには体を売るしかないのです

=== 長崎県佐世保市は、元々軍港として開かれた町です.
今でも米軍や自衛隊の基地となっています.

そのような町ですので、「パンパン」という言葉は 小さい頃から
耳に入ってきたものです・・・

時折、佐世保には、大学生などが政治的なデモをしにやってきた
ものですが、政治にまったく鈍感で、興味もなかった私には
よそ事でした・・・・

この歳になって、故郷を遠く離れたバギオで、戦争時代の元日本兵の
方に会い、実体験を聞かせていただき、その中で、故郷を新たな眼で
見るというのは、なんという因縁でしょうか・・・・

著者の川崎恵一郎さんに、
心よりの敬意と哀悼の意を捧げたいと思います.

== 完 ==

(この著書についての感想の最初に戻る場合は こちらです

 

 

 

   

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