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2014年3月 7日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 12 中国の古文書に記されたフィリピン

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

p55

― 初期の中国人貿易商と移民

 

― 982年以降、中国―フィリピン貿易は拡大し、特に Southern

 Sung (南宋 1127-1280)、Yuan (元 1280-1368)、及び

 Ming (明 1368-1644)の各王朝時代に拡大した.

  毎年、中国の商人たちは海上を進むジャンク船(木造帆船)に乗り、

 Chuanchow (泉州=中国福建一海港)、広東、その他の中国の港から

  出航し、リンガエン湾、マニラ港、ミンドロ島及びスールー島に

  寄港し交易を行った.

  (ジャンク船の絵)

 http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AF_(%E8%88%B9)

 

  フィリピン人は彼らを歓迎し、友好的に土地の産物を交易した.

  その産物は、黄ろう(ワックス)、金、麻、綿(Kapok)、Betelnut

  (キンマの実)、食用の鳥の巣、亀の甲羅(べっこう)、そして真珠

  であり、これを、中国の 絹や模様を織り込んだ織物、磁器類、鉄、

  錫、漁網用の鉛の錘、青銅のgong(銅鑼=gangsas)、彩色されたビーズ、

  それに傘や扇と交換した.

 

=== バギオ周辺から北の山岳民族の伝統的な踊りの際に使われている

    ガンサと呼ばれる銅鑼は、このころから中国から輸入されて

    いたってことですね.

 http://shandilaoshi.ti-da.net/e2003712.html

 http://kotobank.jp/word/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B5

 

 

― 1225年、中国の海外貿易の最高責任者(税関の役人か?)で

 Chuanchow(泉州、マルコ・ポーロはZaytonと呼び、現在は鎮江と

  呼ばれる福建省の町)に居たChau Ju-Kua (趙汝适)が著した

  「Chu-fan-chi」(諸蕃志)の中で Ma-i王国との中国の交易に

  ついて次のように書かれている:

 

p56

 

― 貿易船が停泊地に入った折、船は役所の前に停泊し、そこで

  交易をおこなった.

  船に乗船すると、地元民は船員と自由に交わった.

  族長たちは白い傘を使う習慣があったため、

  貿易商たちはそれを贈り物としていた.

 

― 荒くれ者の貿易商たちの習慣は、群衆をかき集め、

  籠に商品を入れて運ぶことだった; そして、最初は分から

  なくても、じょじょに誰が商品を持ち去るかを突き止めて、

  ロスがないようにすることだった.

  貿易商たちは、その後、これらの商品を別の島に持って行き、

  そこでまた交易するのだった.

  そして、国に帰るまでには8~9か月をかける決まりだった.

  そして、その時、(その商品によって)獲得したもので

  船上の貿易商たちに報いたのである.

 

 

― Chau Ju-kua(趙汝适)の物語の中で特徴的な興味を引くものは、

  中国の貿易商とのビジネス上の関係において、フィリピン人

  が正直で友好的であったという点である.

  このことは、別の中国人の著述家によっても確認されており、

  1349年に書かれた Wang Ta-yuan Tao-i-chh-lio 

 (諸島の蛮人の解説)に出てくる.

  「その現地人と」、著者は述べる、「貿易商は、値段について

  合意をして、現地人にその商品を運んで行かせ、そして

  その後に、現地人は その合意した現地の物産を持って来た.

  貿易商は現地人を信頼した. それは、現地人が取引契約を

  守ったからである.

 

― 中国―フィリピン貿易が繁栄するにつれ、中国からの移民が

  やってきて、フィリピンに定住した. 特にマニラとJolo

  (ホロ島)であった.

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E5%B3%B6

 

― 1571年に、スペインの征服者が、ドン・ミゲール・レガスピ

  に率いられてマニラに入った時、イスラムの王国である

 Sulayman王国で穏やかに良い生活をしている150人の

  中国人を見て驚いたとある.

 

 

 

 

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==== これより下は、上の翻訳をするためにインターネットで

     いろいろ調べた内容です.

     中国の古代の地名や人名は、英語表記も微妙に違って

     いたり、複数の表記があったりで、教科書に書かれている

     名前が本当にこれかと特定するのが難しい・・・

     ビールを飲みながらじゃないと、やってらんない!!!

 

 

===  Fukien(福建)省のChinkiang

 https://archive.org/details/cu31924023289345

    (Chau Ju-Kua: his work on the Chinese and Arab trade in the twelfth

 and thirteenth centuries, entitled Chu-fan-chï (1911)

 

=== Chuanchow (泉州)については、こちらのサイト:

 http://en.wikipedia.org/wiki/Quanzhou

 Quanzhou (Chinese: 泉州; pinyin: Quánzhōu; WadeGiles:

  Ch'üan2-chou1; Pe̍h-ōe-jī: Chôan-chiu) is a prefecture-level city in

 southern Fujian province, People's Republic of China.

 It borders all other prefecture-level cities in Fujian but two (Ningde

  and Nanping) and faces the Taiwan Strait.

 In older English works, its name may appear as Chinchew, Chinchu,

 or Zayton.

    ・・・などと書いてあります・・・

 

    さらに、Fukien省については、

 http://en.wikipedia.org/wiki/Fujian

 Fujian (Chinese: 福建; About this sound listen (helpinfo)), formerly

  romanised as Fukien or Foukien, is a province on the southeast coast

 of mainland China.

 

    さらにさらに、Chinkiang(鎮江)については、こんなのが

    出てきました・・・

 http://ctrading.co.jp/chinkou.htm

    鎮江香酢(ちんこうこうす) CHINKIANG VINEGAR

    商品名の鎮江は江蘇省にある都市の名前で、古くから黒酢の

    名産地として知られています。。『中国医学大典』にも、

    ”酢は「江蘇の鎮江のものを以ってもっとも良しとす」と”

    記載されているぐらい中国では有名です。

    ===この黒酢のラベル、バギオのスーパーで見たことが

       あるような気がする・・・

 

 Chau Ju-Kua(趙汝适)の著書「Chu-fan-chi」(諸蕃志)については、

    こちら:

 His Work on the Chinese and Arab Trade in the twelfth and thirteenth

  Centuries, entitled Chu-fan-chi, Translated from the Chinese and

  Annotated by Friedrich Hirth and W. W. Rockhill.

    (1213世紀中国-アラビア間の貿易に関する研究) 

 http://ogawatosho.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/8011449

 

    この人名と著書名は、こちらのサイトから読み取ると

 Chu Fan Chihが著書名の「諸蕃志」で、著者が「趙汝适」と

    漢字で書くみたいですねえ・・・あああああああ、めんどくせ!!

 

 According to the Chu-fan-chih(1225諸蕃志 Chao Ju-kua趙汝适),

 the location of Langkasuka looks like Pattani, but Chao Ju-kua's

 http://www7.plala.or.jp/seareview/newpage6langkasuka1.html

 

 

=== Wang Ta-Yuan についてはこちらのサイト:

http://en.wikipilipinas.org/index.php?title=Wang_Ta-Yuan

スペイン時代の160年前に書かれたとあります.

Chu-fan-chi」(諸蕃志)の本よりも 100年後のようです.

Wang Ta-Yuan is the writer of the Summary Notices of the Barbarians of the Isles,

 which was written more than 160 years before the Spanish explored the Far East.

 He wrote the summary 20 years after his journey on the South China Sea and 100

 years after Chu Fan Chih, the first written account of studies about the Filipinos

 in 1225.

In his writing, Wang did not consider the Filipinos as savages but criticized them

 for having tattoos all over the bodies. He mentioned the islands of Ma-i (Mindoro)

at San-Tao (three islands in Visayas). He also described Sulu, Maguindanao and an

island which he then called as Ma-li-lu (believed by scholars and scientists to

be Manila).

 

残念ながら 著者Wang Ta-yuan 漢字名と、Tao-i-chh-lioの書籍の

漢字名は探し出せませんでした・・・

 

 

 

=== シリーズ 13へ続く ===

 

 

 

 

 

 

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