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2014年3月25日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 27  なんでそんな日付が大事なの?

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をしています・・

5 WESTERN DISCOVERY AND CONQUEST  第五章 西欧による発見と征服

 

 

=== どうも、この辺りが、フィリピンの「記録のある」歴史の

    始まりってことで、フィリピン人にとっては大事なところ

    みたいですね・・・・

 

p78

― フィリピンの再発見

  グアム島から、マゼランは西へと航海を続けた.

  1521年3月16日、土曜日の夜明けに、水平線の上に、サマール島

  のそびえ立つ高地を発見した. これがフィリピンの再発見であった.

  翌日、マゼランは、レイテ湾の入り口にあるホモンホンの無人の小島

  に上陸した.  3月18日、友好的な9人のフィリピン人が

  サルアンの近隣の島から舟でやってきて、バナナ、魚、ココナッツ、

  そして、パーム・ワインの積荷をマゼランに与えた. 

  彼らは、スペイン人が最初に会ったフィリピン人であった.

 

p79

― マゼランが到着した日付

 

  マゼランがフィリピンへやって来たことは、フィリピンの歴史家の

  論争の的となるほど重要な出来事である.  当時でさえも、

  マゼランは賛否両論のある人物であり、まず第一には、彼が

  フィリピン諸島へやってきた時、彼は単に一ポルトガル人に過ぎず

 (スペインの昔からのライバル)スペイン王に仕えていただけだから

  である.  よって、彼の航海は、陰謀や抗争、そして疑問符が

  付きまとうのである.

 

  マゼランの旅に関する論争のひとつは、フィリピン領域に彼が

  到着したその日付である. - すなわち、彼とその乗員たちが

  1521年のいつ、サマール島の高地を見たのかである.

 Pigafettaおよびその他のマゼラン探検隊の生き残りによって

  記録された日付によれば、彼らは、1521年3月16日の

  土曜日の夜明けに見たことになっている. 以前は、フィリピンの

  歴史教科書は、原記録に書かれていたので、この日付を重視して

  いた. 

 

  しかしながら、民族主義的歴史家の幾人かが、マゼランの到着日を

  一日前倒しにして遡るべきだと主張した. そして、それは、

  時間帯の違いであり、その探検が経験したであろう日付変更線

  をまたいだことによるとする.  例えば、フィリピンを見たのは

  1521年3月17日に変更すべきであり、3月16日ではない.

  確かに、国家歴史学会の認可により、国定教科書においては、

  1521年3月17日がマゼランの到達日であると教えている.

 

  ただし、これがいかに公式であろうとも、やはり、今さら

  スペイン時代の日付を変更するというのは現実的ではない.

  それは以下の理由による:

 

  1. 同時代の記録は古い制度の中で起算しており、日付変更線は

    19世紀になって制定されたものである.

 

  2. 今日付を変更するのは不合理である. なぜならば、その場合、

    3月16日に関連するすべての日付を1日前に進めなくては

    ならないからである. これは、歴史的、日付順のものが、

    例えば、3月17日が3月18日、3月18日が19日、

    などなど.  このようにして、マニラ市の創立が6月24日

    ではなく6月25日となる. それに、ついでに言えば、

    今日の日付も1日進められなくてはならない.

 

=== この最後のフレーズは ??? ですけどね・・・・

    まさかこの教科書自体が日付変更線が設定される前に

    作られたわけじゃないですよね・・・

 

  3. もし、遡って日付を変更することが採用されるとするならば、

    整合性を持つためには、グレゴリオ暦にも調整を入れなければ

    ならなくなる、 それは1582年10月4日の古い

 Julianジュリアン暦(Pigafettaの制度)から10日間進んでいる

    からである.  したがって、マゼランの最初の礼拝の日付は

    3月31日ではなく、1521年4月8日ということに

    なってしまう.

 

=== なんだか、ややこしくなってきました・・

    グレゴリオ暦はこちらです:        

http://kotobank.jp/word/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6

    現在,世界中のほとんどの国で用いられている太陽暦。

    ジュリアン暦(ユリウス暦)は:

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%9A%A6

    ユリウス暦(ユリウスれき)は、地球が太陽の周りを回る

    周期を基にして作られた暦法で、太陽暦の一種である。

    ユリウス・カエサルによって制定され、紀元前4511

    から実施された。

    その後、暦法としての不備が指摘され、グレゴリオ暦に改暦

    された。改暦ではユリウス暦1582104日(木曜日)の

    翌日を、グレゴリオ暦1015日(金曜日)と定めている。

    紀年法としての西暦はグレゴリオ暦にも継承した[1]。  

 

=== 確かにねえ・・・当時はユリウス暦で日付変更線もなかったから、

    今の制度にすべてを書き換えるとなると、えらいこってすね.

 

  4. DECSの教科書が1521年3月17日をマゼランが

    到着した日だとしたのは興味深いことである. しかし、

    他の日付を改変したわけではない.  よって、最初の礼拝日は

    未だに1521年3月31日のイースターの日曜日であり、

    4月1日月曜日とはなっていない.

    このように、日付の変更に関しては、整合性がないのである. 

 

=== なるほどねえ・・・こういうことを日本の歴史の授業で

    教えてもらったり、議論したり、教科書で読んだことは

    ないですね・・・少なくとも日本では・・・

    もしかして、私の記憶にないだけ???

    日本の教科書や学会みたいなところでは、これを

    どのように処理しているんでしょうか?

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9A%A6

    日本の旧暦は天保暦である。ただし後述するとおり、現在旧暦

    として使われている暦は改暦前の天保暦とわずかに異なる。

    天保暦は明治5122日(18721231日)まで使われ

    ていた。その翌日の123日をもって明治6年(1873年)

 11日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された。 

 

=== これを読むと、世界各国が それぞれの「旧暦」を

    使っていたわけだから、これを世界全部で、整合性を

    持たせて、今の制度に合わせようなんてのは、まずほとんど

    意味のないことになっちゃうんでしょうねえ・・・・ 

 

=== シリーズ28に続く ===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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