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2014年10月29日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 44 スペイン時代の年貢は高い?

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

7 SPANISH COLONIAL SYSTEM  第七章 スペインの植民地体制

 

 

p107

 

エンコミエンダ制度

 

エンコミエンダは特定の征服された領土に於いて居住者の生活を

許可するものであった. これは、スペインがスペイン人植民者に

対して、彼の任務への報償として与えたものだった.

それは、居住者から集められた年貢だけを含んでいた.

それは、土地、天然資源そして居住者の使役は含んでいなかった.

Encomendero(エンコメンデロ、エンコミエンダの所有者)が

受け取ったものは居住者からの貢物であった.

 

エンコミエンダを受け取る替りに、エンコメンデロは法律によって

居住者の福利を増進しなければならなかった. 

彼の義務は (1)敵から居住者を守ること (2)居住者のキリスト

教化の為に宣教師を支援すること、そして(3)人々の教育を推進

すること、であった.

 

=== 以上だけを読むと、キリスト教化は別としても、

    自国民を守り、育てるという点では、素晴らしいことのように

    見えますね・・・

 

エンコミエンダには二つの種類があった - 王室のものと私的なものである.

王室エンコミエンダは国王によって独占的に所有されており、都市、

港湾及び天然資源に恵まれた地域の居住者から成っていた.

私的エンコミエンダは、個人や慈善団体、例えばサンタ・ポテンシアナ大学

やサン・ファン・デ・ディオス病院などによって所有されていた.

 

当初は、エンコミエンダは二世代に認められ、その後、スペイン国王に

返還された.  後に、フィリップ三世国王による1636年2月1日の

国王令によって、所有期間が三世代に延長された.

 

最初のフィリピンにおけるエンコミエンダは、フィリップ二世国王の

命令に基づき、アデランタド・レガスピによって、1571年1月1日に

セブの初期のスペイン人植民者たちに与えられた.  その後は、より多くの

エンコミエンダが他のスペイン人に認められた.

1591年までに、フィリピンには257のエンコミエンダ(王室31と

個人236)が、60万人超の総人口を抱えていた.

 

エンコミエンダ制度は、18世紀末には、メキシコ、チリ、そして

その他のラテン・アメリカのスペイン植民地で終わりを迎えた.

フィリピンでは、エンコミエンダ制度は少し長く続き、19世紀の

最初の10年間に最終的に終わった.

 

=== 前回の43で Wikipediaで読んだのは、以下のとおりでした:

「エンコミエンダは、スペイン王室がスペイン人入植者に、その功績に対する王室からの下賜として、一定地域の先住民を「委託する(エンコメンダール)」という制度であり、エンコミエンダの信託を受けた個人をエンコメンデーロ(encomendero)と呼んだ。征服者や入植者にその功績や身分に応じて一定数[1][2]のインディオを割り当て、一定期間その労働力を利用し、貢納物を受け取る権利を与えるとともに、彼らを保護しキリスト教徒に改宗させることを義務付けた。」

 

これを読むと、教科書に書いてあるものとは微妙な違いがあるように

見えます・・・

つまり、教科書では、「年貢(貢物)だけ」とあるところ、

「一定期間その労働力を利用し」とあるので、税金のように

年貢を取るだけではなくて、居住者の使役・サービスも強要して

いたんじゃないかという点です.

 

又、教科書には特に書いてないのですが、wikipediaでは、

「一定数のインディオを割り当て」と書いてある点です.

フィリピンでは、この「割り当て」はなかったんでしょうか・・・

 

 

p107

年貢(税)

スペインに対する臣従のシンボルとして、フィリピン人は年貢を払った.

ひとつの年貢は、夫、妻そして年少の子供からなるひとつの家族に

該当した.  未婚の男と女は、二分の一の年貢を支払った.

当初は、年貢は8リアル(1ペソ)で、金銭あるいは物品で支払われた.

後年、1851年には、12リアル(1.5ペソ)に引き上げられた.

年貢は1884年に最終的に廃止され、cedula tax証明書(登録)税

置き換えられた.

 

====   年貢って 「シンボル」 として取るもんなんですかねえ??

      いささか言葉の使い方に違和感がありますけど・・・

=== このCEDULA TAX が英和辞書には載っていなかった

    ので、検索してみました:

 

 

1: any of various official documents or certificates in Spain, Latin America,

 or the Philippines: such as 

a : a permit or order issued by the government 

b : a personal registration tax certificate in the Philippines 

c : any of certain securities issued by some of the South and Central

 American governments or banks

2: a Philippine personal registration tax

http://www.merriam-webster.com/dictionary/cedula

 

これを読むと、cedulaはスペイン語のようですね・・

スペイン、ラテン・アメリカ、フィリピンで発行される

様々な公式文書あるいは証明書、とあります.

特に、フィリピンでは、個人登録税というのがあります・・

今もそういうのがあるんでしょうか??

 

p108

フィリピン人はこの年貢を恨んでいた、なぜなら、

(1)スペインの奴隷であることを思い出させ

(2)スペイン人の悪用を生み出した

からである.

フィリピン人は、その金額には異議はなかった、それは高くは

なく支払う能力があったからである. しかし、彼らを怒らせた

のは、年貢取立人による乱用があったからである.

 

法律に従えば、年貢は金銭か現物(米、蜂蜜、とうもろこし、

その他の産物)で支払うことができた.

エンコメンデロたちは、米または蜂蜜で支払うことを強要し、

安い価格で評価し、その後非常に高い価格でフィリピン人に売った

のである.

例えば、レイテ島のダガミでは、エンコメンデロは改ざんした

計りを使って、フィリピン人を騙し、年貢の本来の価値よりも

高額の年貢を実際は支払わされた. 多くの場所で、エンコメンデロたち

は、年貢を徴収する時に、人々を残忍に扱い、拷問し、家具を強奪し、

鶏や豚そしてカラバオ(水牛)までも盗んだのである.

 

案の定、1859年に、イロコスとカガヤン渓谷の人々は

年貢に反対する反乱を起こした

 

=== 植民地ではなかった日本であっても、農民にとっての

    年貢は、支配者である大名などの能力によって

    耐えられないほどの搾取もあったのでしょうから、

    ましてや植民地であればやり放題だったんでしょうね・・

 

 

さて、スペインによる植民地時代の様相がいろいろと見えてきました.

私は、何年も前に、日本の国会図書館に通って

ホセ・リサールの有名な著書である「ノリ・メ・タンヘレ」

読んだことがあるんですが、その内容が、スペインのこのような

制度とどのように繋がるのか、興味津々です・・・・

 

=== シリーズ42から44の 教授との授業はこちらです:

   http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/11/42-44-3544.html

 

=== その45に続く ====

 

 

 

 

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