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2014年12月 7日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 54 ニッパ・ハウスはいつマニラから消滅したか

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

8 OUR ECONOMY UNDER SPAIN  第八章 スペインの下のフィリピン経済

 

毎週一回2時間、教科書を元に教授とのQ&A, それに雑談をしています・・・

 

 

p118

「総督 Bereguer de Marquina と改革の計画」

 

Bascoの後継者は スペイン海軍の海軍士官で、艦隊提督(准将)の

Felix Berenguer de Marquina であった.

彼は1788年7月1日にマニラに到着し、総督を引き継いだ・・

彼の最初の公式の条例は、マニラ市でのニッパ・ハウスの取り壊しであった.

理由は景観が悪く、火災の危険性があるというものであった・・

Marquinaの在任期間中、マニラは一時的に、国王チャールズ4世に

よって発行された 1789年8月15日の国王令によって

3年間ヨーロッパ船舶に開放された.

 

=== ほお~~、この時からマニラからは ニッパ・ハットの家

    が姿を消したんでしょうか・・・

    ニッパ・ハット、ニッパ・ハウスについては、こちらに

    写真などがあります:

    「http://en.wikipedia.org/wiki/Nipa_hut

    「The Bahay Kubo, Balay, or Nipa Hut, is a type of stilt house

 indigenous to most of the lowland cultures of the Philippines.

     バハイ・クボ、 バライ、又は 二パ・ハットは

     竹を支柱にしたタイプの家で、フィリピンの平野部の

     ほとんどに固有のものである」    

 

1790年1月23日、Marquinaはスペイン国王に対して

フィリピン政府の改革計画」という文書を提出した・・

その中で、彼は次のような改革を提案している:

(1)フィリピンをメキシコのようなViceroyality (総督によって治められた

   地区や州)に変える;

(2)フィリピンへの中国移民を推奨する;

(3)忌わしい トランプ賭博、火薬、ワインの独占をやめる;

(4)スペインのカタルーニャ、ガリシア、バレンシア地方から

   農家をフィリピンに派遣し、農業の進んだ手法を教える;

(5)acaldesメイヤー(州知事)の給料を上げ、indulto de commercio

   と呼ばれた貿易特権を廃止する;

(6)mint(造幣局? 鋳造所?)を設立し、フィリピンからの金の流出

   を防止する;

そして、(7)マニラを世界貿易に開放する..

 

=== 上記の2にある 中国からの移民は 当時はどうだった

    んでしょうか・・・一定の制限があったと言うことですね・・

    上記6の提案があるということは、

    金に関して何の制限もなかったという話なんでしょうか?

 

 

「初めてのフィリピン諸島の測地調査」

 

1789年7月30日、スペインのコルベット艦2隻Atrevida  Descubierta

が、Alejandro Malaspina船長の指揮のもと、スペインのカディスを出航した・・

これらのコルベット艦は、スペイン政府によって派遣されたもので、

科学的な観測とスペイン領アメリカ、マリアナそしてフィリピンの

海岸線の測地調査をすることが目的であった・・

 

マラスピナ隊は、ビサイヤとミンダナオ地方を探検し、植民地の勅許を

行った後に、マニラに入り、ルソン島の海岸線を調査した・・

(以下 省略・・)

 

=== Corvetteについては こちら;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88

コルベット(Corvette)は軍艦の艦種の一つ。一層の砲甲板を持ち、

大きさはフリゲートよりも小さかった。

近世から近代にかけて用いられた帆柱が3本の軍艦として、18世紀末から

19世紀にかけてフリゲート同様商船の護衛や沿岸警備等に使われたが、

海防艦などにその任を譲り、20世紀前半に消滅した。

 

=== フィリピンの海岸線の測量が実施されたのが1789年だと

    いうことのようですが、日本の伊能忠敬はと言えば・・・

    下のとおりで、1800年から1816年にかけて日本の測量

    やっていたんですね・・・

    上記のようにフィリピンの測量は1789年から始まっています

    から、十~二十数年遅れで日本地図が出来たということになりそうです・・

    フィリピン測量は艦船で、日本は徒歩ですからねえ・・・

 

    「伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]、延享2111

     (1745211日) - 文化15413日(1818517日))

     は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由

    (かげゆ)。字は子斉、号は東河。

     寛政12年(1800年)から文化13年(1816)まで、足かけ17

     をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、

     日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。」

     「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC

 

    「伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度が

     あがったという。忠敬がスケジュールの都合上全ての蝦夷地を

     測量できなかったとき、残りの蝦夷地測量を間宮が代わりに測量

     して測量図を作った。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北

     の地図は最終的に忠敬の測量図と間宮の測量図を合体させたもの

     になったという。」

 

    「間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年) - 天保15

 226日(1844413日))は江戸時代後期の隠密、

     探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。

     名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人

     であった。」 

     「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5

 

 

=== シリーズ55へ 続く ===

 

 

 

 

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