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2014年3月 8日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 17 ご先祖の生活習慣は理想、目標なのか?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

 

p63

 

― 衣服の様態

 

男は、襟なしの Kanganと呼ばれた短い袖のジャケットと bahag

言う布きれをまとい、ウエストと足の間を包んでいた.

そのジャケット(kangan)は、ウエストの少し下まであった.

それは、青か黒に染め(tinina)られていたが、首長だけは例外で

赤であった.

帽子の代わりに、男はputongを使い、頭に布を巻いていた.

靴は無かった. 

彼らは宝石を持っていて、金のネックレス、kalombigasと呼ばれる

金の腕輪、そして、メノウを敷き詰めた金の足首の飾り、

カーネリアン(紅玉、ルビー)やその他の色つきのガラスであった.

 

 

女は、baroという、幅広袖のジャケットを着ていた.

スカートは patadyongと呼ばれるもので、綿の布を腰に巻いて、

足まで垂らしていた.

宝石は、金のネックレス、金のブレスレット、大きな金の

イヤリング、そして金の輪っかであった.

これらの宝石は、メノウ、ルビー、真珠その他の宝玉で埋められて

いた・・・

 

 

― 刺青

 

初期のフィリピン人は、動物、鳥、花、そして幾何学的な形の

デザインで身体に刺青をした.

刺青には2つの目的があった:

(1)身体を一層美しく見せるため、

(2)戦闘の記録を示すため.

戦闘で、より多くの男を殺したものは、刺青の数が多かった.

女たちは、男よりも刺青は少なかった.

子供たちは、刺青は全くしなかった.

 

 

p64

 

― 自然な礼儀正しさと親切さ

 

我々フィリピン人の祖先たちは、礼儀正しく親切であった.

例えば、同じランクの二人が路上で会うと、礼儀として

二人はPutong(ターバン)を脱いだ.

目上に会った時には、自分のputongを脱ぎ、左の肩にタオル

のように掛け、そして低くお辞儀をした.

そして、目上に対しては、その言葉に「poポ」をつけた.

「ポ」は「sirサー」と同じ意味である. 丁寧な話し方である.

 

 

女性はどこでも礼儀をもって扱われた.

男女が一緒に歩く場合は、男は常に女の後ろを歩いた.

男が同伴する女性の前を歩くのは礼儀がないと考えられていた.

家族全員で歩く場合も、母と娘が先に歩き、父と息子は

その後ろを歩くことになっていた.

 

===  おおおおおお!!!!

     こりゃあ~~、まったく、日本とは正反対じゃ

     ないですか・・・・

     この慣習は、どこにその起源を持っているんでしょうか.

 

     今のフィリピンで女性の社会進出がアジアで一番と

     いうのは、この辺りにもその原動力があるのでしょうか.

     日本は女性の社会進出では、アジアの中でも

     最低レベルですもんねえ・・・・

 

     アメリカ辺りからやってきた「レディー・ファースト」

     かと思っていたら、そうじゃなかったんだ・・・

 

 

― 清潔さと整然さ

 

我々の祖先たちは、一人一人が清潔できちんとした傾向があった.

毎日水浴びをしていた. 毎日の仕事の後、夕暮れ時に、川で

水浴びをするのが好きであった.

 

髪の毛は gogoと水で定期的に洗った.

そして、ココナツ・オイルやその他のローションを塗った.

朝起きると、口をすすぎ、歯を磨いた.

歯が平らに並ぶように、やすりで磨いたりもした.

そして、歯に色をつけ、強くする、buyoを噛んだ.

 

=== buyoというのは、こちらにあるようなもので、

    辞書でbetelをひいてみると、

    「ベテル・チューイング◆ビンロウの実(betel nut)に石灰を

     混ぜたものをキンマの葉(betel leaf)でくるんでかむ東南

     アジアの習慣。紀元前から行われているもので、麻酔作用

     があり習慣化しやすい.」 

http://www.lasieexotique.com/mag_betel/mag_betel.html

このサイトを読むと、これをすることがお客に対する礼儀で

あると書いてあります:

Elderly people in the Philippines invariably remember a time in their

youth when offering a tray of buyo or hitso (native terms for the betel

chew) was the essence of urbanity, an act of courtesy and politeness

in every house especially in the homes of the wealthy.

A homeowner would never fail to offer betel to anyone who entered

 his house for to do so would be a serious breach of hospitality.

 

これには、フィリピンでは、南から北の山岳地帯まで広く

行われているようです.

私もバギオ周辺の田舎で これを噛んでいる人を見たことが

あります・・・・口が真っ赤っかになるんですけどねええ・・・

ホテルやレストランでは禁止されているところもある

ようです・・・

The practice of betel chewing used to be prevalent throughout the

Philippines from the mountains in the north to the Muslim communities

in the south. The tribal people of the Cordillera, commonly called Igorots,

carry their containers around their waists or in little specially made

baskets. Most of the men, especially the older ones, chew betel constantly.

The Igorots believe that the chewing of betel staves off hunger and tiredness

as they work long hours in their rice fields.

 

 

=== これを読んでいると、古代の人たちが如何に奇麗好きで、

    きちんとしていて、礼儀正しく、きちんとしていたかを、

    敢えて書くことで、将来を担う若者たちに、そうなって

    ちょうだいね・・と言っているのでしょうか・・・・

 

    それにしても、日本の教科書で、「昔の日本人は立派だった」

    ってなことを書いてありましたっけね??

    国民性としての評価ですよ・・・偉人伝じゃなくてね・・・

 

 

=== シリーズ18へ続く ===    

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 15追加 Tukhara 「にほんじ」とは??

 

 

シリーズ15で、こんな疑問が残っているんですけど・・・・

 

 

 The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

― 西暦645年、日本じ??(古代の日本の年代記)によれば、

 Tukharaの土地の二人の男と二人の女が九州に流れ着いた

  彼らの船は海で壊れた. もしTukharaというのが、日本の学者が

  言うように、フィリピンのことを指しているとするならば、

  我々の日本との関わりも長期にわたるものということになる.

  琉球の初期の歴史記録により、日本とフィリピンの交易は

  西暦13世紀に繁栄していた.

  冒険好きな日本の倭寇(海賊―貿易商)は東洋の海を航海し、

  多くの倭寇たちが交易や定住の為にフィリピンの海岸へ

  やってきた可能性はある.

 

 

=== そこで、あの手この手で検索をしてみたんですが、

こんな書籍のサイトが引っ掛かってきまして:

 

 

http://books.google.co.jp/books?id=ITLRpPrrcykC&pg=PA41&lpg=PA41&dq=philippine+tukhara+japan&source=bl&ots=JNkOtuaPBq&sig=q9aS3I54MOrA_8nJX9X0hcfB2-0&hl=ja&sa=X&ei=0_wZU7KaO8S7oQTMuYEQ&ved=0CDEQ6AEwAA#v=onepage&q=philippine%20tukhara%20japan&f=false

 

ここに書いてあることが、ほぼ同じなんですが、微妙に違うので

ご紹介しておきます.

 

41ページの「 I. Early Relation with Japan」のところです. 

 

「スペイン人がフィリピンに来るずっと前、日本は既に我が国

 との交易関係を結んでいた. 日本人の年代記の編者であるNIHONJIが、

 ふたつの古代の土地の間の関係の記録を作っていたのだ.

 日本がTukhara(フィリピンのことを日本はこう呼んだ)に近かった

 ことから、二つの国の間の関係が可能となった.

 

 

===などと書いてあるんですねえ・・・

   ますます混乱してきました・・・

   教科書では、NIHONJIというのは「年代記」という書き物のこと

   であるのに、こちらの本

 Philippine History Module-based Learning I' 2002 Ed.

   著者: Ongsotto, Et Alでは、 年代記ではなく「編者」の名前

   ってことになっていますね.

 

 

 

毎週一回授業をしていただいている教授がこの点を明らかにする

資料をお持ちであったら楽しいですけどねえ・・・・

 

 

以下、上記の本から引用:

 

Long before the coming of the Spaniards to the Philippines,

The Japanese had already established trade relation with the

Country. The Japanese chronicler, Nihonji, had made a record

Of the relations between the two ancient lands.

Japan’s proximity to the Tukhara (Japanese name given to the

Philippines) made possible the intercourse between the two

Countries.

 

こんなサイトを見つけて、期待したのですが、

なんとフィリピンは無視されてます・・・・ 

 

 

第3章古代のアジア諸国

http://sb.e100ten.com/courses/VA_sekaishi_kougi/pdf/VA_sekaishi_kougi03-02.pdf

 

スマトラ、ジャワどまりなんですねえ・・・

 

 

 

「ツクハラtukhara」という文字をこんなサイトで発見: 

 

1)A Tukhara of India’s Renewable Energy Industry

(インドの再生可能エネルギー産業の「ツクハラ」)

http://www.asiapacific.ca/thenationalconversationonasia/blog/tukhara-indias-renewable-energy-industry

どういう意味の tukhara なのか不明・・・

 

 

2)こちらのページで国名らしきものを発見:

http://choku70.web.fc2.com/i/samarkand-index.htm

 

金のスーツ(p197)

 高宗が、金のコスチュームのようなぜいたくなものを682年初頭に

トハラTukharaの使節から贈られたが拒絶したことは、ほぼ断言できる。

 

 

3)こちらに かなり有力な「トカラ」の文字を発見:

https://epf.hosei.ac.jp/mahara/artefact/file/download.php?file=38474&view=4268

 

https://epf.hosei.ac.jp/mahara/artefact/file/download.php?file=38474...

. 慶州仏国寺で発見された. 無垢浄光大陀羅尼経(751?) トカラ(Tukhara).

則天武后が法蔵とトカラからの渡来僧・弥陀山. に無垢浄光大陀羅尼経を

重訳させる(701). 無垢浄光大陀羅尼経の東伝 ...

 

 

4)こちらのサイトの「とがら」を読むと、フィリピンではなさそうです:

http://ameblo.jp/sonosuji/entry-11538852477.html

 

月支  都貨羅(とがら)(Tukhara)といい、迦膩色迦(かにしか)王

Kaniska)の支配せし国。すなわちケン駄羅王国(Gendhara)のこと。

この国の種族はもと支那の祈連山(きれんざん)と敦煌(とんこう)と

の間におったのであるが、紀元前二世紀に匈奴に追われて、熱河の南方に

のがれて、これを第二の根拠地とし、間もなく、また烏孫(うそん)族の

ために追われてサマルカンドの附近にのがれ、茲に大夏国を滅ぼして

第三の根拠地とした。

 

 

 

5) トカラ列島

 

結局この「吐噶喇列島」のことじゃないかという可能性が一番高そう.

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E5%88%97%E5%B3%B6

 

 南西諸島のうち、鹿児島県側の薩南諸島に属する島嶼群。

すべての島で鹿児島県鹿児島郡十島村の行政区域をなす。

天気予報区分では奄美地方の一部としている。

 

地名の由来については諸説あるものの、「沖の海原」を指す「トハラ」

から転訛したという説が有力。

 

699819日(文武天皇3年七月辛未)に、多褹、夜久、菴美、

度感の人が物を貢いだことが、『続日本紀』に記されている(それぞれ

種子島、屋久島、奄美大島、トカラにあたる)。同書によればこれが

度感(徳之島との説もある)が日本と通じた始まりであった。

 

 

==== これでほぼ、tukharaというのは「トカラ列島」

     ことだなと、納得なんですが、フィリピンじゃなかった

     ことが少し残念・・・・

 

     しかし、なお、「NIHONJI」の謎が残りますね・・・

     もしかして、これは上に書いてある『続日本紀』のことか??

 

 

 

==== と思ったら、『続日本紀』というのは、

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。

 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%9A%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80

・・・・ってことなので、645年の事は書いてないってことになります・・・

 

 

ってことは、「日本書紀」しかないわけですね・・・・

http://www.seisaku.bz/shoki_index.html

「日本書紀は、日本紀とも呼ばれ、720年に勅修された日本の歴史書。

いわゆる正史であって、神代から持統天皇までをその記述対象と

しています。」

 

日本書紀=日本記ってことになると、Nihonji の最後の ji が ki の

間違いだったってことなら辻褄が合いますね.

Nihonji 改め Nihonki ・・・・ タイプライター、キーボードの上では、

K と J は隣同士ですから、タイプミスってことになりますか??

・・・と、ここで、気になって確認したら、

にほんぎ 【日本紀】

日本書紀のこと。
日本の歴史を記した書物。特に、六国史(りっこくし)のこと。

・・・ってことで、「NIHONKI」じゃなくて、「NIHONGI」と読むんでした・・

「J」と「G」のタイプミスなのか、発音が似ているからの間違いか・・・

日本紀』(しょくにほんぎ)は「GI」だし、

日本紀略(にほんきりゃく)は 「KI」だし・・・

日本語自体がめんどくさっ!!!

 

さてと・・・・

このサイトの中の「日本書紀巻24/皇極天皇(642-645年)」に

書いてあるかどうかですね・・・・

 

このページの中で「吐噶喇」(とから)を検索しましたが

「吐」がひとつヒットしただけで、あえなく沈没・・・

 

==== あった、あった、発見・・・・

 

日本書紀巻25/孝徳天皇(645-654年)

 http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_25.html

 

「日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀寶、今年共使人歸。」

 夏四月、吐火羅國男二人・女二人・舍衞女一人、被風流來于日向。」

 

 

しかし、漢字表記が「吐噶喇」ではなく、「吐火羅」になっていますね・・・・

 

・・・・これで、フィリピンではなく、南西諸島の国ってことに

 なってしまいました・・・・

 

=== と思ったら・・・・こんなサイトが・・・

 

日本書紀が記録する吐火羅と舎衞

 http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28187169.html

 

「実際、日本書紀が記す吐火羅と舎衞とは、どんなものなのか、

 検討してみたい。」

 

・・・・おおおおお、いろいろと議論の的になっているんですね・・・

 

「①白雉五年とは西暦654年のことになる。夏四月に、

吐火羅國の男二人と女二人、それに舎衞(國)の女一人が風に

流されて日向(國)に漂着した。」

 

 ・・・おっとっと・・・年が645年じゃなく、654年に

 なっているじゃないですか・・・・あやややや・・・

 

 

「○これらを読んで、誰が、吐火羅国や舎衞国が中国の西域の国

であるとか、タイやビルマやインドの国であると判断するであろうか。

もちろん、日本書紀の記述には多少の混乱があることも確かである。

しかし、日本書紀に於ける吐火羅国や舎衞国の扱いは、おおよそ高麗

や百濟、新羅と同様であることが判る。そうであるならば、吐火羅国

や舎衞国が日本近隣の国々であることは間違いないはずだ。吐火羅

や舎衞の文字に眩惑されて、史実を取り違えてはならない。」

 

 

「それなのに、吐火羅国や舎衞国が中国の西域の国であるとか、

タイやビルマやインドの国であるとする岩波古典文学大系本の補注

には、全く同調出来ない。日本書紀を読む限り、やはり、吐火羅が

土噶喇諸島であることは動かし難いのではないか。

 

 

 

・・・ここで議論になっているのは、中国方面の国だという

定説に対して、そりゃあオカシイ、やっぱり南西諸島だろうと

言っているようですね・・・

 

残念ながら、ここでもフィリピン説は出てきません・・・・

 

 

 

 

=== しかし、しかし、しかし!!!

    こんなところに、こんな説が・・・

 

 http://blogs.yahoo.co.jp/yan1123jp/28176565.html

「岩波古典文学大系本「日本書紀」には、『吐火羅と舎衞』の補注

があって、次のように記す。」

 

「吐火羅について西域の吐火羅、即ちウズベック共和国のボハラ

のあたりとする説が古くからあり、別に九州の南の土噶喇諸島とする説

ビルマのイラワジ河の中流、プロムを中心として栄えていた驃国とする説

がある。驃国については新唐書の南蛮伝、驃国の条に、属国十八として、

その中に舎衞がみえるからである。しかし、吐火羅はおそらく、

今のタイ国、メコン河下流の王国、ドヴァラヴァティであろう。」

 

 「、③の「吐火羅人、共妻舎衞婦人來」の「妻」を舎衞に結びつけて

メサエとし、フィリッピンのヴィサヤ島とする説も唱えられた

これは、吐火羅を九州の土噶喇諸島とする説と結びついたもので

その場合、舎衞がインドの舎衞では遠すぎるからである。しかし、

吐火羅が、ドヴァラヴァティであれば、舎衞はインドのそれとみて一向

に差し支えあるまい。」

 

 

「タイやビルマやインドの婦人であれば、日本政府は当然、妻を

日本に留めることなどしなかったはずである。タイやビルマや

インドから夫が再び迎えに日本に訪れることなど、誰も信用する

はずがない。つい隣国であるから、夫が再び迎えに日本に訪れること

を日本政府は信用したのであろう。妻だって、そんなことを承知する

はずがない。夫に置き去りにされることを望む妻などいない。」

 

 

=== 歴史家ってのは、こういう議論を延々とやっている

    んでしょうかねえ・・・まるでミステリー作家、

    探偵小説みたいですねえ・・・

 

 

    しかし、ここに至って、やっと、もしかしたら

    フィリピンも可能性があるのかも・・という気持ちに

    なりました・・・

 

 

みなさん、何か「これだ!」という資料があったら 教えてください・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 16 古代からの村、家、食べ物、酒

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

p62

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  

第四章 我らの初期の祖先

 

 

― 白人がアジア世界にやってくる前の時代には、

  我らフィリピン人の祖先たちは、自身の文化や生活スタイルを

  持っていた. 

  それは、独自の慣習、社会、政府及び法律、著述及び言語、

  文学、音楽、宗教、迷信の信仰、経済や芸術や科学を含むもの

  であった.

 

 

― バランガイ

  最初のスペイン人たちが16世紀にやってきた時、

  彼らは初期のフィリピン人が独自の文化を持ち、バランガイと

  呼ばれる良く組織された独立した村に住んでいるのを見て

  驚いた.

  バランガイBarangayという名前の元来の意味は、Balangay

  いうマレーの言葉で、「帆船」のことである.

 

  バランガイは自立した共同体であり、datu首長によって率いられて

  いた. 通常は 30~100家族で構成されていた.

  大きいバランガイもあり、ひとつのバランガイで2,000人

  以上が居た.  その例は、Sugbu(セブ)、Maynilad(マニラ)、

 Bigan(ビガン)そしてMaktan(マクタン)などである.

 

 

― 家屋と居住施設

  家は木と竹で作られ、屋根はニッパヤシの葉で葺かれ、

 Bahay kubo (バハイ・クボ=ニッパ・ハット)と呼ばれていた.

  それぞれの家は、竹の梯子があって、夜あるいは家族がいない時

  には引き上げることができた.

  また、Batalanと呼ばれるギャラリー(ベランダ)があって、

  そこには大きな水差しが置いてあり、水浴びや洗濯ができるように

  なっていた.

  家の下には、米、薪、動物(犬、猫や鶏)が飼われていた.

 

  祖先のあるものは、敵からさらに安全な、木の上に作られた

  ツリー・ハウスに住むものもいた. Bagobos やKalinga族は

  今でもそのような家に住んでいる.

 

  スールー海のBadjaos(海のジプシー)は、古代の先祖たちと

  同じように、今でも舟の家に住んでいる.

 

 

=== Kalinga(カリンガ)族はバギオから北へ行った山岳地帯の

    カリンガ州の人たちですからよく知っていますが、

 Bagobos(バゴボ)族については知りませんでした・・

    こちらでどうぞ、ミンダナオ島ダバオの近くにある

    アポ山周辺の山岳民族のようです・・

 http://blogs.yahoo.co.jp/mahmah85hot/7871301.html

 

    パジャウ族については、こちらに記事がありました

 http://www.asahi.com/english/weekly/1023/01.html

 

 

 

― 食べ物と飲み物

 

  初期のフィリピン人の主食は米であった.

  米の他に、カラバオ(水牛)の肉、豚肉、鶏肉、ウミガメ、魚、

  バナナやその他の果物、そして野菜などがあった.

 

  カラバオについてはこちら・・・

 http://kotobank.jp/word/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%90%E3%82%AA

 

  調理は陶器の壺や竹筒で行われた.

  食べる時は、バナナの皮を皿として使い、指を使って食べた.

  ココナッツの殻は飲み物のカップとして使われた.

 

  最も有名なワインはTubaであり、これは ココナツのsportsから

  取られる. (sportsとは何か?)

  初期のスペイン人歴史家であったAntonio de Morga博士によれば、

  それは「水のように透明なワインであるが、強くてドライ」である

  としている.  その他のワインは、砂糖黍から醸造するイロカノの

  ワインであるBASI(バシ)、米から作られるビサヤ・ワインの

 PANGASI(パンガシ)、ココナツヤシから作られるタガログ・ワイン

  のlambanog(ランバノグ)、そして、米から作られるイゴロット・

  ワインである tapuy(タプイ)がある.

 

=== 私がバギオで飲んだことがあるのは、

    イロカノのバシと イゴロットのタプイだけですね.

    バシはかなり強烈でしたが、タプイは甘い米のお酒で、

    どぶろくみたいなものですが、元々は、各家庭で

    お祭りなどの為に日常的に作っていたのだそうです.

    バギオのあちこちのお店でお土産として売っていますが、

    品質管理はなかなか難しいみたいで、

    買うタイミングで味が違ったりします・・・

    バギオで有名なカフェである Café by the Ruinsなどでも

    飲むことができます.

 

 

 

=== シリーズ17へ続く ===

 

 

 

 

 

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2014年3月 7日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 15 怪しげな Tukhara 「にほんじ」 645年??

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

― 日本との初期の関係

 

― 西暦645年、日本じ??(古代の日本の年代記)によれば、

 Tukharaの土地の二人の男と二人の女が九州に流れ着いた

  彼らの船は海で壊れた. もしTukharaというのが、日本の学者が

  言うように、フィリピンのことを指しているとするならば、

  我々の日本との関わりも長期にわたるものということになる.

  琉球の初期の歴史記録により、日本とフィリピンの交易は

  西暦13世紀に繁栄していた.

  冒険好きな日本の倭寇(海賊―貿易商)は東洋の海を航海し、

  多くの倭寇たちが交易や定住の為にフィリピンの海岸へ

  やってきた可能性はある.

 

=== なんですかね、この「日本じ」とか言う年代記は??

    古事記でも日本書紀でもないですもんね・・??

    それに、645年というと、

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7

    「645年(大化元年) 中大兄皇子と中臣鎌足によって、

     蘇我氏宗家が滅ぼされる(乙巳の変)。大化の改新始まる。」

    というような時代ですし、

 

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98

    古事記(こじき、ふることふみ)は、日本最古[1]の歴史書である。

    その序によれば、712年(和銅5年)に太朝臣安萬侶

    (おほのあそみやすまろ)(太安万侶とも表記)によって献上された。

 

=== いろいろ検索してみましたが、「日本じ」とかtukharaという

    言葉は出てきませんね・・・

    これは教授にしっかり その年代記の正確な名前などを

    確認する必要がありますね・・・・・

 

=== もしかして、西欧人が書いた歴史書が元なんでしょうか?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%9B%B8%E4%B8%80%E8%A6%A7

こんなのがありますけどね・・・・・・・・・・・・・・・

西洋人による日本記述

― スペイン時代よりも前に日本人が定住した地域は、カガヤン河の

  デルタ地帯、リンガエン湾地域、そしてマニラであった.

  リンガエン湾の海岸にあるアゴオの町は、日本との交易が

  盛んなセンターとなっていて、(後にやってきた)スペイン人

  たちは、そこを「プエルト・デ・ジャポン」(日本の港)と

  呼んだのである.

 

  1570年に、Marshal de Goitiは、マニラに20人の日本人が

  既に住んでいるのを見つけた・・・

 

 

― 日本の文化的影響

 

― フィリピンの生活の中で、日本と中国の影響を区別することは

  難しいかもしれない.

  それは、先住のフィリピン人は、そのような区別をしたとは

  考えられないからである.

 

― 日本人は、武具や道具の製法、鹿の皮のなめし方、

  アヒルと魚の人工的な繁殖方法などの産業を教えた.

  ・・・(この繁殖方法は)、スペイン人も大いに

  印象づけられ、その当時のヨーロッパの動物文化にも勝る

  と認めていた.

 

 

 

=== 日本については、たったの12行しか書いてありませんね.

    まあ、つまり、秀吉の時代にならないと、しっかりした

    記録はないってことのようですね.

 

 

 

― 結論 (第三章の結論)

 

― 西欧から白人がやってきて植民地にし、影響を与えた

  その随分前から、フィリピンがアジアの文明化と

  関係があったことは事実である..

 

― 東南アジアの中でも、島国であり比較的遠くにあったので、

  フィリピンは多くは孤立し続けていたようである.

 

― フィリピンに対して、何等かの意図を持っていたのは

  中国だけであったが、それも短期間で、悪意の無いもので

  あった・・・・

 

― イスラム教の拡大も、もっぱら文化的なものだった・・・

 

― このようにして、すべてのアジア人の中で、今日のフィリピン人は、

  もっとも温和でフレンドリーだとの評判がある.

 

 

=== 次回からは 「第四章 我らの初期の祖先」へ入ります.

 

 

 

 

=== シリーズ 16へ 続く===

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 14  なんてったって昔から中国でしょう・・

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

p57

 

― 中国のフィリピン王

 

― フィリピンから中国へ行った使節団の中で最大のものは

  第五回の使節で、1417-1424年であった.

  その使節団は340名以上の男女で構成され、3名のミンダナオの

  王たち、東の王Paduka Pahala、西の王 Mahalachiihm、山の王

 Paduka Prabuに率いられていた.

 

 

p58

― 一団は、皇帝に現地の文字が刻まれた金の手紙を奉げ、

  慣例の奉げもの、高価な真珠、べっ甲、その他の品々を貢いだ.

  その貢物に喜び、皇帝は三名の王の地位を確認し、それぞれの王に

  「印章、任命状、一揃いの宮廷衣装、帽子、腰帯、馬具付きの馬、

  階級を表す階級章、その他」を与えた.

 

― 貢献使節は、北京の皇帝の宮廷に27日間滞在した.

  スールー島に帰る少し前に、それぞれの王は、皇帝から

  「柄の入った絹、無地の絹300枚、紙幣1万テール(両)、

  現金2千綴り、黄金の蛇の刺繍のある式服1組、竜のもの1組、

  麒麟のもの1組」を受け取った.

 

 

― フィリピン諸島における中国の影響

 

― 何世紀にも渡る中国との関係は、フィリピンの生活を豊かなものに

  せずにはおかなかった.

  中国からの影響は、主に経済的及び社会的なもので、それは

  中国がフィリピンを征服したり国土を支配するというものでは

  なく、商業的な利益や生活の向上を求めていたからであった.

 

― フィリピンは、中国から、火薬の製法、砂金の採掘方法、

  冶金技術、磁器、銅鑼、鉛、銀、錫そしてその他の金属の利用、

  鍛冶、市場向け野菜栽培、金細工などの職業、凧揚げやその他

  のゲーム、そして様々な形のギャンブル(juweteng, kuwaho,

 Pangginggi)などを学んだ.

 

 

p59

 

― 中国は、フィリピン人の食生活を改善した.

  中国から、フィリピン人はご馳走の為に豚のローストの仕方を

  習い、お茶の入れ方、lumpiya, pansit, mami, tsapsoy そして

 Ukoyの料理なども習った・・・

  さらに中国人は、tahuri, heko そしてtoyoの前菜、さらに食用の

  野菜, bataw, petsay, upoの栽培などを教えた.

 

 

=== ルンピアは春巻き、パンシットは焼きそば、マミは

    ラーメン、チャプスイは野菜炒めですけど・・・

 Ukoy 以下の名称は知りません・・・・

 

ここにありました・・・ウコイ=野菜のかき揚げみたいです・・

http://blogs.yahoo.co.jp/yokolene/26076426.html

 

toyoについては

TOYO

The Chinese-derived Filipino word toyo means 'soy sauce.'

つまり醤油ってことみたいです・・・

http://tagaloglang.com/Tagalog-English-Dictionary/English-Translation-of-Tagalog-Word/toyo.html

 

 

tahuri 豆腐のことですか??

tahuri n. salted soybean curd that has fermented

http://tagalog.pinoydictionary.com/search/

 

こちらには「発酵した豆腐」みたいなことが書いてありますが・・

http://www.soyinfocenter.com/HSS/fermented_tofu2.php

History of Fermented Tofu - Page 2

A Special Report on The History of Traditional Fermented Soyfoods

A Chapter from the Unpublished Manuscript, History of Soybeans and

Soyfoods: 1100 B.C. to the 1980s

by William Shurtleff and Akiko Aoyagi

Philippines. In 1912, in an article on tofu, Gibbs and Agcaoili mentioned

that a food product "known locally under the name tahuri or tahuli is

imported from southern China in large stone jars. It

 

hekoという料理は・・・

heko = dark sauce from salted shrimps

料理というより調味料みたいなもんですね・・・

エビの塩辛のようなものです・・・

(バゴオンのことなんですかね? 大好きですけど・・・)

http://tagaloglang.com/Filipino-Food/Say-it-in-Tagalog/tagalog-food-terms-from-chinese.html

 

 

upo = gourd 瓜の類

 

bataw = climbing plant with edible pods 

  蔓で伸びていく茎が食べられる? へちまのようなもの??

 

petsay = Chinese cabbage 白菜かな?

 

 

― 中国が起源の多くの慣習がある・・・

  中国からの影響があるという印象がある社会的慣習は;

  1) 子としての、兄や姉、両親、目上への尊敬

  2) 新年や他のお祭りでの花火

  3) 賭け事の胴元が取るTong

  4) 売り手と買い手の間での値段交渉のやりとり

  5) 非キリスト教徒の北部ルソン、ミンダナオや

     スールーのイスラム教徒のフィリピン人が

     お祭りで叩いている銅鑼・・・

 

 

 

― John Bowring氏が次のようにコメントしている、

  「中国人の父とインディアン(今のフィリピン人)の母の間

  に生れたメスチーソ(混血児)の子孫は、フィリピンの人口の内

  他とは比較にならないほど大きな部分を占めている」

 

 

― フィリピンの言語に関する中国の言語的影響は、

  インドやアラビアをはるかに超えて、深くて広いものがある.

  およそ1,500の中国の言葉がフィリピン人の現在の語彙

  の中に見られるし、それらの言葉は親族や家族関係を示す

  ものだったり、衣類や装飾品、食品や飲み物、農業や商業、

  道具や仕事、そして、抽象的なアイデアや、自然の対象物で

  あったりする・・

 

=== そして、ここにその単語のリストが例示されていますが、

    ・・・それはp60でご覧ください・・

 

さてさて、いよいよ次回は、 日本との初期の関係という

ところにはいりますよ~~~~.

 

== シリーズ15へ続く==

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 13 Cheng Ho鄭和の海洋遠征と中国への朝貢使節

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

はっきりいって、中国関連の部分はえらく大変です・・・

教科書を翻訳するためのインターネット検索がめちゃ難しい・・・

インターネットが無かった時代の翻訳業の凄さをひしひしと

感じています・・・・

 

 

 The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

p56

 

― Cheng Ho鄭和の航海と中国海軍による支配

 

― Yung-lo皇帝(永楽帝)(1403-1424)の治世の間に、しばらくの

  合間があって、アジア世界に最大の海軍力としての中国が姿を現した.

  これは、Cheng Ho鄭和(1371-1435)の7回の航海によるものであり、

  彼は中国の偉大な海の探検家であった.

 San-Pai-T’ai-Chienとして、中国の著書の中で知られている.

  この海の英雄は、中国のイスラム教徒の宦官であり、永楽帝

  の寵愛を受けていた.

  28年間(1405-1433)の期間で、彼は7回の探検遠征を

  行い、およそ36ヶ国を訪れ、その中には、

  フィリピン諸島、ボルネオ、マレー半島、シンガポール、

  ジャワ、スマトラ、インドネシア、インド、セイロン、

  ペルシャ湾のオルムズ(Ormus)、アラビア海岸のアデン、

  そして、東アフリカのマダガスカルまでが入っている.

 

p57

 

― Cheng Ho鄭和の最初の遠征は、62隻の船と27,800人で構成

  され、(上海近くの)Liu-chia-changの港から出航し、

  フィリピンには1405年12月に到達したとされている.

  それはリンガエン湾、マニラ港、そして、ホロ島の海岸に

  停泊した. 

  ホロ島の沖合で停泊していた時、Pei-Pon-tao(あるいは

 Pun Tao King)という乗員が死亡し、ホロ島のJatti Tunggal

  に埋葬された.

 

 

― 乗員の悲劇的な死とは別に、Cheng Ho鄭和は Taosug民話の中で

  今でも記憶されている.

 Taosugタオスグ民話のひとつは、イスラム教徒のフィリピン人が

  好物としている果物ドリアンが何故ひどい臭いなのかを

  説明している.

  この民話によれば、ある日 ホロ島を去る前に、英雄Cheng Ho

  鄭和はたまたまドリアンの木の後ろで小便をした.

  かれの小便がドリアンに影響したというのだ.

  何故なら、ドリアンが彼の小便の不快な臭いを得てしまった

  からである. しかし、味は良いのだ・・

 

 

― 中国による名目上の支配とフィリピンの朝貢使節

 

― Cheng Ho鄭和 の海での偉業に発想を得て、皇帝Yung-lo 永楽帝は

  フィリピンを含む東南アジア諸国に対して名目上の宗主権を強要した.

 

― 明中国の支配権を認め、フィリピン、ボルネオ、ジャワ、スマトラ、

  マレー半島、インドネシア、そしてその他の東南アジア諸国の

  現地の支配者は、明皇帝の宮廷に定期的に朝貢使節を送り、

  皇帝の機嫌を損ねないようにした.

 

― Ming Shih(明王朝の年鑑)、ルソン録、Ca-mi-lig録、及び

  スールー録によれば、フィリピンは北京に対して8回の

  朝貢使節を送っている - 1372, 1375, 1405, 1410, 1417, 1420,

 1421 及び 1424年である.

 

 

 

============================

以下は、上記の翻訳の為の検索資料です・・・・

これに時間がかかっちゃうんです・・・

 

Cheng Ho鄭和

http://melakajp.com/history/102.html

旗艦を指揮する最高司令官には永楽帝お気に入りの海軍大将「鄭和」

(日本語読み「ていわ」・中国読み「チェンホー」)が推挙された。

http://melakajp.com/best/b21.html

 

San-Pai-T’ai-Chienという名前は発見できず・・・・

 

 

 

Yung-lo皇帝(1403-1424

http://www.seadict.com/en/ja/yung-lo

【名】永楽帝《1360-1424;中国明の第3代皇帝(1402-24);首都を南京から

北京へ移し, 南海遠征や『永楽大典』の編纂を命じた;Yong-le ともつづる》.

[Yung|lo ]

Yongle Emperor of China - New World Encyclopedia

www.newworldencyclopedia.org/.../Yongle_Emperor_...‎

2013/07/29 - 啓天弘道高明肇運聖武神功純仁 至孝文皇帝 ... The Yongle Emperor or Yung-lo Emperor (永楽帝 ) May 2, 1360 August 12, 1424), born Zhu Di (Chu Ti; 朱棣;

 

 

ペルシャ湾のオルムズ(Ormus

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%A0%E3%82%BA

ホルムズ(Hormuz、オルムズ)はペルシャ湾で10世紀から17世紀に

存在したホルムズ王国(en:Ormus)の港湾都市。

 

 

(上海近くの)Liu-chia-chang

・・・検索できず・・・人名なら出てくる・・・

 

 

Taosugタオスグ民話

http://www.nira.or.jp/pdf/0702report.pdf

こちらのサイトにタオスグの地名が199ページにちょっと出てくるだけ・・・・

19世紀の頃には、タウスグ(TAUSUG)、マギンダナオ(MAGINDANAO)、

イラノン(ILANON)、バランギギ(BALANGIGI)も後に陸に上がって生活を

始めるまでは海洋部族として知られていた。

ちなみに、サマは南ビサヤ語を話し、ホロ島を中心にザンボアンガ半島、バシ

ラン、南パラワン、北ボルネオのサバ、カリマンタンまでの地域に住むタウ

スグ(Tausug)やボルネオ、インドネシアの住民が彼らを呼ぶ言い方であり、

バジャウはタウスグが呼ぶ時の言い方である。

 

タオスグの民話については、本を買わないとダメみたい・・・

http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/book/2747077.html

 

 

=== このサイトはなかなか興味深いことを歴史的な地図や絵

などもはいって書いてあって面白いので、ご紹介・・・・

 

教科書における「海」の社会的機能・位置づけは、純粋な地理的環境ととも

に、その国・地域における広い意味での経済産業活動に左右される部分が

大きいと考えられる。

 

序節 教科書から読む海洋観の形成─概論

8 節 フィリピン─海に囲まれた島嶼国家の歴史の記憶とともに

2  フィリピンで使われている教科書にみる「海」

 

教科書もフィリピン史の教科書ではあるが、植民地になったフィリピ

ンの歴史と独立のための闘いにはページが割かれているものの、海洋史のよ

うな海を仲立ちとした周辺諸国や国内での各地域のつながりについては、や

はり書かれていない。高等教育の前段階では、このようにフィリピンの教科

書では、残念ながらあまり海の問題は強調されていないようである。

 

フィリピン人の由来として2 つの説がある

ことを地理教科書15)は紹介している。1 つは、フィリピン人の先祖はネグリ

ト(Negritos)であるというものだが、ネグリトはボルネオやスマトラから2

5 千年から3 万年ほど前に陸続きであった所を伝わってやってきたという。

さらにネグリトに続いて、マレー系のマレー人とインドネシア人が航海民族

として東南アジアや南アジアからやって来たという(H. Otley Beyer説)。こ

の人たちがフィリピンに移民してきて、今や人口の最大多数を占めていると

いう広く信じられている説である。

もうひとつの説は、フィリピン大学の文化人類学者F. Landa Jocanoの説

で、フィリピンにはその他の人たちがやって来る前、有史以前に東南アジア

からやって来た人たちが居て、彼らが核となっているという説である。

 

 

Tribute embassy

朝貢使節

朝貢貿易

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E8%B2%A2

「中国の徳を慕って」朝貢を行い、これに対して回賜を与えると

いう形式である。朝貢を行う国は、相手国に対して貢物を献上し、

朝貢を受けた国は貢物の数倍から数十倍の宝物を下賜する。

経済的に見ると、朝貢は受ける側にとって非常に不利な貿易形態である。

 

 

Ming Shih(明王朝の年鑑)

http://epress.nus.edu.sg/msl/

The Ming Shi-lu (明實錄) (also known as the Veritable Records of the

 Ming Dynasty) is a collective name for the successive reign annals

of the emperors of Ming China (1368-1644).

 

 

Ca-mi-lig

Ca-mi-ligという地名はこちらのサイトにありましたが・・・

http://www.tripadvisor.jp/Attraction_Review-g294248-d2218935-Reviews-Hoyop_Hoyopan_Cave-Luzon.html

Hoyop-Hoyopan Cave  

Cotmon | Camilig, Albay, Luzon, Philippines

アルバイ州はこちらですね・・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E3%82%A4%E5%B7%9E

 

中国へ朝貢使節を送ったというのがこの地域からだとするならば、

かなり南シナ海からは奥まった場所ですねえ・・・

 

 

=== シリーズ 14へ続く ===

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 12 中国の古文書に記されたフィリピン

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

p55

― 初期の中国人貿易商と移民

 

― 982年以降、中国―フィリピン貿易は拡大し、特に Southern

 Sung (南宋 1127-1280)、Yuan (元 1280-1368)、及び

 Ming (明 1368-1644)の各王朝時代に拡大した.

  毎年、中国の商人たちは海上を進むジャンク船(木造帆船)に乗り、

 Chuanchow (泉州=中国福建一海港)、広東、その他の中国の港から

  出航し、リンガエン湾、マニラ港、ミンドロ島及びスールー島に

  寄港し交易を行った.

  (ジャンク船の絵)

 http://wpedia.goo.ne.jp/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%82%AF_(%E8%88%B9)

 

  フィリピン人は彼らを歓迎し、友好的に土地の産物を交易した.

  その産物は、黄ろう(ワックス)、金、麻、綿(Kapok)、Betelnut

  (キンマの実)、食用の鳥の巣、亀の甲羅(べっこう)、そして真珠

  であり、これを、中国の 絹や模様を織り込んだ織物、磁器類、鉄、

  錫、漁網用の鉛の錘、青銅のgong(銅鑼=gangsas)、彩色されたビーズ、

  それに傘や扇と交換した.

 

=== バギオ周辺から北の山岳民族の伝統的な踊りの際に使われている

    ガンサと呼ばれる銅鑼は、このころから中国から輸入されて

    いたってことですね.

 http://shandilaoshi.ti-da.net/e2003712.html

 http://kotobank.jp/word/%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%82%B5

 

 

― 1225年、中国の海外貿易の最高責任者(税関の役人か?)で

 Chuanchow(泉州、マルコ・ポーロはZaytonと呼び、現在は鎮江と

  呼ばれる福建省の町)に居たChau Ju-Kua (趙汝适)が著した

  「Chu-fan-chi」(諸蕃志)の中で Ma-i王国との中国の交易に

  ついて次のように書かれている:

 

p56

 

― 貿易船が停泊地に入った折、船は役所の前に停泊し、そこで

  交易をおこなった.

  船に乗船すると、地元民は船員と自由に交わった.

  族長たちは白い傘を使う習慣があったため、

  貿易商たちはそれを贈り物としていた.

 

― 荒くれ者の貿易商たちの習慣は、群衆をかき集め、

  籠に商品を入れて運ぶことだった; そして、最初は分から

  なくても、じょじょに誰が商品を持ち去るかを突き止めて、

  ロスがないようにすることだった.

  貿易商たちは、その後、これらの商品を別の島に持って行き、

  そこでまた交易するのだった.

  そして、国に帰るまでには8~9か月をかける決まりだった.

  そして、その時、(その商品によって)獲得したもので

  船上の貿易商たちに報いたのである.

 

 

― Chau Ju-kua(趙汝适)の物語の中で特徴的な興味を引くものは、

  中国の貿易商とのビジネス上の関係において、フィリピン人

  が正直で友好的であったという点である.

  このことは、別の中国人の著述家によっても確認されており、

  1349年に書かれた Wang Ta-yuan Tao-i-chh-lio 

 (諸島の蛮人の解説)に出てくる.

  「その現地人と」、著者は述べる、「貿易商は、値段について

  合意をして、現地人にその商品を運んで行かせ、そして

  その後に、現地人は その合意した現地の物産を持って来た.

  貿易商は現地人を信頼した. それは、現地人が取引契約を

  守ったからである.

 

― 中国―フィリピン貿易が繁栄するにつれ、中国からの移民が

  やってきて、フィリピンに定住した. 特にマニラとJolo

  (ホロ島)であった.

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AD%E5%B3%B6

 

― 1571年に、スペインの征服者が、ドン・ミゲール・レガスピ

  に率いられてマニラに入った時、イスラムの王国である

 Sulayman王国で穏やかに良い生活をしている150人の

  中国人を見て驚いたとある.

 

 

 

 

===============================

==== これより下は、上の翻訳をするためにインターネットで

     いろいろ調べた内容です.

     中国の古代の地名や人名は、英語表記も微妙に違って

     いたり、複数の表記があったりで、教科書に書かれている

     名前が本当にこれかと特定するのが難しい・・・

     ビールを飲みながらじゃないと、やってらんない!!!

 

 

===  Fukien(福建)省のChinkiang

 https://archive.org/details/cu31924023289345

    (Chau Ju-Kua: his work on the Chinese and Arab trade in the twelfth

 and thirteenth centuries, entitled Chu-fan-chï (1911)

 

=== Chuanchow (泉州)については、こちらのサイト:

 http://en.wikipedia.org/wiki/Quanzhou

 Quanzhou (Chinese: 泉州; pinyin: Quánzhōu; WadeGiles:

  Ch'üan2-chou1; Pe̍h-ōe-jī: Chôan-chiu) is a prefecture-level city in

 southern Fujian province, People's Republic of China.

 It borders all other prefecture-level cities in Fujian but two (Ningde

  and Nanping) and faces the Taiwan Strait.

 In older English works, its name may appear as Chinchew, Chinchu,

 or Zayton.

    ・・・などと書いてあります・・・

 

    さらに、Fukien省については、

 http://en.wikipedia.org/wiki/Fujian

 Fujian (Chinese: 福建; About this sound listen (helpinfo)), formerly

  romanised as Fukien or Foukien, is a province on the southeast coast

 of mainland China.

 

    さらにさらに、Chinkiang(鎮江)については、こんなのが

    出てきました・・・

 http://ctrading.co.jp/chinkou.htm

    鎮江香酢(ちんこうこうす) CHINKIANG VINEGAR

    商品名の鎮江は江蘇省にある都市の名前で、古くから黒酢の

    名産地として知られています。。『中国医学大典』にも、

    ”酢は「江蘇の鎮江のものを以ってもっとも良しとす」と”

    記載されているぐらい中国では有名です。

    ===この黒酢のラベル、バギオのスーパーで見たことが

       あるような気がする・・・

 

 Chau Ju-Kua(趙汝适)の著書「Chu-fan-chi」(諸蕃志)については、

    こちら:

 His Work on the Chinese and Arab Trade in the twelfth and thirteenth

  Centuries, entitled Chu-fan-chi, Translated from the Chinese and

  Annotated by Friedrich Hirth and W. W. Rockhill.

    (1213世紀中国-アラビア間の貿易に関する研究) 

 http://ogawatosho.jimbou.net/catalog/product_info.php/products_id/8011449

 

    この人名と著書名は、こちらのサイトから読み取ると

 Chu Fan Chihが著書名の「諸蕃志」で、著者が「趙汝适」と

    漢字で書くみたいですねえ・・・あああああああ、めんどくせ!!

 

 According to the Chu-fan-chih(1225諸蕃志 Chao Ju-kua趙汝适),

 the location of Langkasuka looks like Pattani, but Chao Ju-kua's

 http://www7.plala.or.jp/seareview/newpage6langkasuka1.html

 

 

=== Wang Ta-Yuan についてはこちらのサイト:

http://en.wikipilipinas.org/index.php?title=Wang_Ta-Yuan

スペイン時代の160年前に書かれたとあります.

Chu-fan-chi」(諸蕃志)の本よりも 100年後のようです.

Wang Ta-Yuan is the writer of the Summary Notices of the Barbarians of the Isles,

 which was written more than 160 years before the Spanish explored the Far East.

 He wrote the summary 20 years after his journey on the South China Sea and 100

 years after Chu Fan Chih, the first written account of studies about the Filipinos

 in 1225.

In his writing, Wang did not consider the Filipinos as savages but criticized them

 for having tattoos all over the bodies. He mentioned the islands of Ma-i (Mindoro)

at San-Tao (three islands in Visayas). He also described Sulu, Maguindanao and an

island which he then called as Ma-li-lu (believed by scholars and scientists to

be Manila).

 

残念ながら 著者Wang Ta-yuan 漢字名と、Tao-i-chh-lioの書籍の

漢字名は探し出せませんでした・・・

 

 

 

=== シリーズ 13へ続く ===

 

 

 

 

 

 

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2014年3月 6日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 3回目の授業 7から10まで

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

3回目の授業のおしゃべりをお届けします・・・・

 

― インドによる海洋進出のところなんですが、

  東南アジアのインド化の頃に、フィリピン諸島にインド文化などを

  伝えた有名な人物などはいたのか?

  例えば、日本の歴史教科書などでいうならば、玄奘三蔵みたいな

  インドから仏教を伝えたような人物は・・

 

  == 特別に人名が残っているような人はいない・・

 

― 当時の文化的勢力範囲として、インドと中国はどの程度

  競合していたのか・・・

 

  == タイはしっかりした王国があったので、インドの

     サンスクリット語ではなく、仏典などもタイ語に翻訳して

     いたと思われるが、その他の カンボジア、ベトナムなど

     のインドシナの国々は中国の影響が大きかったと

     思われる・・・

 

  == Sri Vijaja Majapahit帝国は、マレーシア、インドネシアから、

     ミンダナオ辺りまでコントロールしていたという説も

     あるが、フィリピンの学者からはあまり支持されていない.

 

― サンスクリットの文字で書かれた文書というのは現存しているのか?

 

  == 1980年代に ビサイヤ地方で多くの文書が発見されたが、

     その中に ALIBADA(アリバダ)と呼ばれるイスラムの言葉

     があるのだが、その中にサンスクリット文字のような

     ものが見られる. しかし、本当にサンスクリットなのかと

     いう議論があって定まっていない.

 

  == ここに教授からもらった その文字の一例をご案内・・・

     こういう文字のようなものが30弱あるらしいが、

     本当に文字なのかどうかの確認はされていないそうな・・・

002

ちなみに、サンスクリット文字ってのがどんなものかを

チェックしてみますと・・・・

http://toxa.cocolog-nifty.com/phonetika/2004/09/skt_rmn_d854.html

・・・どうですかね? 似ていますか??

 

 

― フィリピンではどこの機関、大学などが フィリピンの正史を

  作るセンターとなっているのか?

 

  == 残念ながら そのような政府機関や文化委員会みたいな

     ものはない. 個人的に書かれたものを教科書として

     採用するかどうかだけである.

 

― フィリピンは前述の二つの帝国に支配されてはいなかった

  ことが「積極的に検証されている」とあるが、

  その根拠は何か?

 

  == フィリピン諸島に近い、南にあるボルネオやマレーシアの

     北部地域にはそのような支配は及んでいなかったこと.

     さらに、p48にあるように、中国王朝の歴史書にも

     フィリピン諸島が Sri Vijaya帝国の属国だったという

     記録はないからである・・・

 

― インドネシアの故スカルノ大統領が、昔はフィリピン諸島は

  インドネシアの一部であったなどと言う発言を教科書に書いて

  あるのは どういうことなのか?

  日本の教科書にこのような「政治的な」ことを記載するなど

  考えられないのだが・・・・

 

  == そのような事実はなかったことは明確であるので、

     学校の中での学生の議論の材料とされているだけである.

 

 

― フィリピンと近隣諸国との間に 領土問題はあるのか?

  (中国との現在の問題以外に)

 

  == ミンダナオ島に昔 King Kiramの王国があって、

     ボルネオの北部地域も支配していた.

     英国がその地域を植民地にしていた時代に Kiram王国は

     その地域を貸していたのだが、今でもその「サバ」と

     呼ばれる地域は賃借料を、マレーシア、ボルネオから

     支払ってもらっている・・・ただし、これは国と国との

     支払関係ではなく、Kiram王国の末裔への個人的契約である.

 

  == その「サバ」地域は、スールー島の南の先端の小島から

     マレーシアの小島にパスポートやビザなしで住民が

     行き来できる(密航)ようになっているが、そのマレーシア

     側にフィリピン人とマレーシア人が半々住んでいて、

     石油も採れることから賑わっていて、自由でもある.

 

  == これらのミンダナオ島の南部地域は、

     フィリピンの Back Door(裏口)とも呼ばれていて、

     密輸や密航などでは有名である.

     政治家などが、フィリピンから脱出したりする場合にも

     この裏口が使われてきた・・・

     中国人などは、この裏口を使って、関税を逃れているが、

     日本人は真面目にマニラで関税を払っている・・・笑

 

 

― フィリピンにもユネスコの世界遺産となっているところが

  いくつかあるが、フィリピン政府が指定し、助成金などを

  出して保護している歴史的な遺産はあるのか?

 

  == 残念ながら、そういうものは無い.

     教会などは、フィリピン政府による管理とは別に貴重な

     ものはスペインなどに持ち出している・・・

     フィリピン政府は、UST(サント・トーマス大学)が

     最古の大学であると言っているが、始まった時期だけで

     言えば、セブにあるサン・カルロス大学が30年ほど古い.

     しかし、そのような歴史的な大学などを保護管理すること

     はない・・・・

 

 

― 今の日本では、安倍首相が「愛国主義」への傾向を中国や韓国、

  さらにはアメリカなどからも懸念されているが、

  フィリピンでは「愛国主義」というのは、どのようにとらえ

  られているのか?

 

  === フィリピン人には「愛国主義」と言えるものは特にない.

      戦争になったとしても、アメリカの為には戦っても、

      フィリピンの為に戦う者は少ないだろう・・・

      (アメリカは年金が高い・・、アメリカに住む者も

       多い・・・)

 

  === しかし、フィリピン人としての連帯意識はある.

      それが発揮されるのは、ボクシング王者のパッキャオが

      活躍する時であり、タレントなどが世界の舞台で

      華々しい活躍をテレビなどを通して見せるときである.

 

 

― フィリピンという国名は スペインの「フィリップ王」の国という

  意味であるが、これを愛国的な意味合いで、変更しようという

  議論はないのか?

 

  === 議論はある.

      例えば、1225-1521年にミンドロ島を中心に

      琉球や大和とも貿易を行っていた Mai (マイ・イー王国)

      があったので、その名称などが候補になった・・・

 

  じぇじぇじぇじぇじぇ~~~

  琉球王国・大和と貿易!!!

 

  さっそくwikipediaでチェック・・・

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD

  琉球は明に冊封されることで、倭寇の取締りを尻目に、海禁政策を

  行っていた中国とアジア諸国の間での東シナ海中継貿易の中心の1

  を担うようになり、経済基盤をつくり上げた。貿易範囲は日本の他、

  主に中国・朝鮮やベトナム、タイなど東南アジア諸国であった。

 

  更に戦国時代に戦費調達のため鉱山開発が進んだ日本が、安土桃山時代

  から江戸時代初頭にかけて、豊富な銀を持って東南アジア領域に進出し、

  多数の日本人町を形成するほど貿易の中心となり、琉球の中継貿易は

  衰退した。

 

  === へえ~~~、日本もこの頃東南アジアとの貿易を

      やっていたんですねえ・・・

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82

日本とフィリピンはスペインによるフィリピンの植民地化(1592年)

以前より関係があったようであるが、両国が本格的に貿易を始めたのは

1592年、豊臣秀吉によって朱印船貿易がおこなわれるようになってから

である。

 

  === スペイン時代よりも前に交流があったのは間違い

      なさそうです・・・

 

 

― p49に

  インドシナのインド化して王国であるチャンパから

  移民がスールー島に貿易植民地を作った・・

 Sri Vijaya帝国の奴隷であった・・・とあるが、これはどんな

  「奴隷」であったのか?

 

  === 管理されている人々であって、いわゆる「奴隷」

      ではない・・・これらの人々にも階層があった.

 

 

― p50に

  「スールー島に最初のイスラム教の宣教師が来た」とあるが、

  その名前は有名ではないのか?

 

  === イスラム教の人にとっては有名であるだろうが、

      キリスト教徒が多いフィリピンの教科書には

      その名前は無い・・・

 

― パナイ島は13世紀の中ごろには ボルネオ・マレー人に

  よって植民地とされていた・・とあるが、これは前述の

  「支配されたことはない」と矛盾しないか?

 

  ===このボルネオ・マレー人というのは

 King Kiram (キンキラン)による支配と考えられる

     ので、それは元々 ミンダナオの王国である.

 

― Piresの古写本によれば、Lucoes(ルコーエス=ルソンの人々)

  という名称が書かれているが、スペイン時代の前には

  フィリピン人はどのような呼び方をされていたのか?

 

  === ルコーエスというのは、スペイン時代の前の

      呼び方ではなく、スペイン的な呼び方である.

      その前には、フィリピン諸島にはあちこちに

      王国があったので、「XX王国の人」というような

      呼び方をされていた.

      例えば、Mai王国の人であれば Maianである.

 

― ジパングというのは日本ではなく、フィリピンのことである

  という議論が最近でているが、そのことは知っているか?

 

  === 知らないが、その可能性はある.

 

 

 

― フィリピンの考古学的遺跡から発掘されたものについて、

  なぜ教科書に写真すら掲載されていないのか?

 

  === この教科書を書いた ZAIDE氏は 実物を確認

      したこともないからであろう・・・

      実際、ここに紹介されているものはどこの博物館

      などに保存されているかも不明である.

      (シカゴの博物館を除く)

      フィリピン政府はそのような保存管理などは

      実施していない.

 

 

― フィリピンにおけるインドの影響について、

  ヒンドゥ教が実際に信仰されていたのか・・?

 

  === 宗教としてのヒンドゥ教が入ってきたのではなく、

      ヒンドゥの文化のみが入ってきたと考えられている.

 

― Bathalaというタガログの神と書いてあるが、

  これは何のことか?

 

  === バタラというのは多神教で神のことだが、

      この言葉だけが「神」という意味で残っている.

 

― Paganの意味は・・・?

 

  === 非クリスチャンの全てを言う.

      宗教を信じない無神論者も仏教徒も同じ・・・

 

今回の授業は、琉球王国との貿易、日本との貿易があったこと、

それから 愛国主義についての話が なかなか面白い発見でした・・・

「裏口」の話も初耳でしたが、フィリピンの南の方は日本人には

「危ない」というイメージばかりが強いですね・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年3月 4日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 11 フィリピンと中国との黎明期

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

=== 中国王朝の年表がありました・・・英語表記付き

      http://park1.aeonnet.ne.jp/~iida/kazuo/coin/data/china_chronolo.html

 

 

=== ついでに 日本と中国の比較年表はこちら:

      http://www.wind.ne.jp/khari/hist/ch-jp.html

 

      かなり大雑把ながら、見やすい比較年表はこちら:

      http://homepage1.nifty.com/history/history/chrono.htm

 

 

=== フィリピンの略式年表

     http://ph-inside.com/site/kiso/his/his_7.htm

 


 

  The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

p55

 

― 中国との初期の関係

 

― 中国とフィリピンの関係は、マゼランに先立つこと何世紀も前のこと

  である、と中国の古文書、あるいはフィリピンの各地で見つかった

  多くの先史時代の考古学的埋蔵物などで証拠づけられる.

 

― 学者の中には、フィリピンでの中国からの影響は、Chou Dynasty

 (周王朝 紀元前1122-247年)まで遡ると考えている者

  もいる. 

 

=== Chou Dynasty周王朝の表記と年代が・・・難しい・・・

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8

  (英語表記に 2つあるようです・・・Zhou Dynastyともあります)

 http://eow.alc.co.jp/search?q=chou

 http://eow.alc.co.jp/search?q=Zhou

 .The Zhou Dynasty (c. 1046–256 BC; Chinese: 周朝; pinyin: Zhōu Cháo;

 .Wade–Giles: Chou1 Ch'ao2 [tʂóʊ tʂʰɑ̌ʊ]) was a Chinese dynasty that

 .followed the Shang Dynasty and preceded the Qin Dynasty.

 http://en.wikipedia.org/wiki/Zhou_Dynasty

 

  「前1122年、姫発が挙兵。子辛は敗れて自焚し、殷が滅ぶ。

   商王朝立国から六百六十二年である。

   姫発が中国の統治者となり、王を称し、周王朝を開く。

   尊称を「武王」という。」

 http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n14350

 

― 他の学者は、そのような関係は西暦3世紀から始まったと

  見ている、その頃フィリピンが「中国へ金を輸出した」と

  されているからである.

 

― さらに、別の学者は、中国との関係は、西暦226年に

  始まったと主張している. その時、呉王朝の王である

  孫権(222-252)が二人の使節を送った時だとする.

  それは Chu Ying と Kand Tai で、東南アジア諸国への

  外交使節であった.

  この渡航については、Chen Shou(陳寿)が 280年―290年に

  書いた San Kuo Chi (3つの王朝の歴史=三国志)に記録され

  ている.

 

=== Kingdom of Wu (呉王朝)

 http://ejje.weblio.jp/sentence/content/kingdom

 •textiles that were introduced into Japan from the ancient Chinese

 .state of the Kingdom of Wu

  呉の国から伝来の織物

 

 .Sun Chuan(222-252)についても、スペリングが・・・・

 http://en.wikipedia.org/wiki/Sun_Quan

 .Sun Quan (182–252),[1] courtesy name Zhongmou, formally known as

 .Emperor Da of Wu, was the founder of the state of Eastern Wu during the

  .Three Kingdoms period. He ruled from 222 to 229 as the "King of Wu" and

 . from 229 to 252 as the "Emperor of Wu".

 

  この Sun Chuan なり Sun Quan が日本の歴史本ではどう

  表記されているかっていうと・・・・

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%AB%E6%A8%A9

  孫 権(そん けん)は、三国時代の呉の初代皇帝。字は仲謀。

  長命で帝位に昇る相があるとされ、三国時代の君主の中で最も

  長命した。なおよく並べられる曹操・劉備とは(父孫堅が同世代

  なので)およそ1世代下にあたる。

 

  陳寿の三国志について (San-kuo chih or History of the Three Kingdoms

 .. Period written by Ch'en Shou)

  一般財団法人東方学会-東方学(110-101

 .www.tohogakkai.com/tohogakuback21-30.html‎

 

 

  いや、まあ、実に面倒臭いですね・・・・

  中国語での表記はもちろんひとつなんでしょうけど、

  その発音の仕方で、英字表記でもいろいろだし、日本では

  中国の発音じゃなくて日本の漢字の読み方でまたまた音が

  違ってくるわけで・・・

  歴史の研究って、こんなところでいろいろと障害になるものが

  あるんでしょうねえ・・・・

 

 

― 歴史的には、中国―フィリピン関係と言えば、西暦10世紀に 

  始まったのである.

  この時期には、Sung Dynasty ( 宋王朝: 西暦960-1280)が中国で

  力を持っていた. そして、中国は海洋活動を Nanyang(東南アジア

  世界)で拡大し始めていた.

 

==== Sung Dynasty

  宋(そう、拼音 Sòng960 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。

  趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋で

  あるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、

  帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。

 .. ja.w3dictionary.org/index.php?q=sung+dynasty‎

 .. sung dynasty. 宋代 Ñ 960 1279から中国の皇帝の時代

 

 

 .Nangyang については、辞書によれば、中国の地名の「南陽」と

  「南洋」のふたつが書いてあります.

 

― 正真正銘の中国―フィリピン関係の最初の時期は 西暦982年

  あり、この時に、Ma-I ( Ma-yi  又は Mo-yi) がアラブ船に乗って

  広東に到着し、貴重な商品を売った.

  このことは、中国人年代記編纂者の Ma-Tuan-lin によって記録

  されており、彼の記念碑とも言うべき Wen Shiann Tung Kao

( General  Investigation on the Chinese Cultural Sources 中国文化の

   起源に関する総合的調査 ) という書物の中にあり、これは

   1317-1319年に書かれている.

 

 

=== シリーズ 12 へ続く ===

 

 

 

 

 

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2014年3月 2日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 10 「猿・カニ合戦」はインドから・・

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

  The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

― フィリピンに於けるインドの影響

 

― 東南アジア経由でやってきた何世紀にも渡るインドからの影響は、

  フィリピン人の生活や文明化に明らかな足跡を残した.

 Alfred L. Kroeber博士が述べるように「どのように太古の遠く離れた

  ものであろうと、現在の文化の要素の中に、インド起源の

  足跡を見ることのないフィリピンの部族などはない.

 

=== このような意味で言うならば、振り返って日本を見れば、

    その経由地はどうであろうと、ヒンドゥ教や仏教の影響を

    受けているわけですね.

    フィリピンは南周り、日本はインド-シルクロード-中国 

    -朝鮮半島の北周り経由で影響を受けていると思われます.

 

― Bathala、クリスチャン以前のタガログ人の主たる神は、

  ヒンドゥ教のインドラ(注:インド最古の聖典であるバラモン教の

  聖典ヴェーダ(veda)の主神で雷と雨の神)であると考えられる.

 

― ミンダナオの多神教のMandayasは3人の神々、つまり、宇宙の

  創造神Mansilatan、 人類の保護神Badla、そして人類を滅ぼす

 Pudaugnon神を崇拝した.

 

 

=== これは、日本で言うならば、柴又の帝釈天みたいなものですね.

    帝釈天については、wikipediaに次のようにあります.

    「帝釈天の名はインドラの名前の梵: इंद्रइन्द्र śakro devānām indraḥ

     のうち、śakraを釈と音訳したものに、devaを天と意訳して後部

     に付け足し、indraを帝と意訳して冠したもの。

     本来のインドラ神は、阿修羅とも戦闘したという武勇の神で

     あったが、仏教に取り入れられ、成道前から釈迦を助け、また

     その説法を聴聞したことで、梵天と並んで仏教の二大護法

     善神となった.

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E9%87%88%E5%A4%A9

 

 

p52

 

― フィリピン人の神話及び民話には、はっきりとしたインドの役者が

  見て取れる.

 Bantuganという神話上のMaranaosのヒーロー、そして、Bontok

  伝説上の救世主であるLumawigは、ヒンドゥ神話のインドラと

  同じだと考えられる.

 

 

― 多くのフィリピンの叙事詩、LanaoDarangan、そして、Ilokandia

  のLamangBicolandiaIbalon、又、マウンテン州のIlim

 Hudhudを含めて、Mahabharata及び他のヒンドゥの叙事詩に

  その端緒を得たと考えられる.

 

=== Mahabharata(マハーバーラタ)については、こちら:    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%BF

「『マハーバーラタ』(महाभारत Mahābhārata)は、古代インドの宗教的、

哲学的、神話的叙事詩。ヒンドゥー教の聖典のうちでも重視されるもの

1つで、グプタ朝ごろに成立したと見なされている。

「マハーバーラタ」は「バラタ族の物語」といった意であるが、もとは

単に「バーラタ」であった。「マハー(偉大な)」がついたのは、

神が4つのヴェーダとバーラタを秤にかけたところ、秤はバーラタの方

に傾いたためである。」

 

 

― LumawigBontokの話は、Lumawigが彼の矢で岩を射て、喉の

  乾いた村人の為に水を得たことであるとか、イフガオ族の

 Balitukの物語は、彼の矢で岩を貫き、水を確保したとか、

  これらはマハーバーラタの中のArjunaの手柄を連想させる.

  その話の中で、Arjunaは、地面に矢を放ち、今にも死にそうな

 Bhismaの為に水を得ることに成功するのである.

 

 

上のArjunaBhismaについては、こちらです:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%8A

「アルジュナ(梵語: अर्जुन, Arjuna)は、ヒンドゥー教の聖典の1

である叙事詩『マハーバーラタ』に登場する英雄である。」

 

Bisma(あるいはBishma

http://en.wikipedia.org/wiki/Bhishma

 

Bhishma and Arjuna

 

 「無数の矢を受けて宙に浮いたまま倒れているビーシュマの

  ために、地面を割って水を出させ、飲ませるアルジュナ。

  (大叙事詩「マハーバーラタ」より)」

http://www.page.sannet.ne.jp/t-hata/roki/cale/god12.htm

 

 

― 多くのフィリピンの寓話はインド起源のものである.

  その例は、タガログの話にある猿と亀の話、

  鹿とカタツムリの競争の話、そして、ビサイヤの逸話にある

  鷹と鶏の話などである.

 

 

===ここに出てきた「猿と亀」の民話は、バギオの映画館で

   フィリピン・アニメを見ましたが、要するにこの

   内容は日本の「猿・カニ合戦」みたいなもんでした.

   おそらく「鹿とカタツムリ」ってのは「ウサギと亀」

   みたいなもんなんでしょうね.

http://www.youtube.com/watch?v=FC96ce2g3kY

   日本にいると、このような話は、すべて日本独自の

   ものだと思い込むわけですが、このような民話、寓話、

   昔話などは、その起源を辿れば、インドあたりに

   行き着くということでしょうか・・・

 

   そういう意味で言うならば、

   様々なこのような話が、元々は外国に起源を持つ

   ということを教科書で教えるというのは、文化という

   ものが国境を越えて、広く影響を与えているという

   ことを知る為には非常に良いことだと感じます.

 

   なにもかも自分の国で作ったという偏狭な愛国心を

   乗り越える考え方を養うことが出来そうです・・・

 

 

p53

 

― 多くの古いフィリピン人の慣習や伝統は、ヒンドゥに起源

  を持つものである.

  次のような例がある:

  1. お客様の到着や出発の際に、その首に生花の首飾り

    を掛けて、おもてなしや友好を表現する.

  2. 結婚前に、婿は花嫁の両親に持参金を支払い、

    将来の義理の両親の家で個人的な世話をする.

  3. 結婚式の後、祝い客は、花嫁と花婿に米を振りかける.

  4. Buyo(ビンロウの実、Ikmo(ビンロウ)の葉、そして

    ライムを混ぜたもの)をおもてなしとしてお客に提供する.

   (ちなみにBUYOは辞書では

    「buyo 誘惑、夢中になっていること」とあります・・・

     つまり中毒ってことですか??)

  5. 子供のいないカップルは、神社へ巡礼し、

    子供に恵まれていない人たちに、多産の徳を与える力

    を持っていると信じられている神を拝む.

 

― 多くのフィリピンの迷信はインドから来ている.

  例えば、

  1. 未婚の女が、料理中に火の前で楽しく歌っていたら、

    その女は歳のいった男やもめと結婚することになる.

  2. 彗星は悪いことの前兆である、なぜならば、

    飢饉、戦争、又はその他の災害の前触れだからだ.

  3. 妊娠中の女が二つくっついたバナナを食べると、

    双子が生まれる.

  4. 猫が前足で顔を拭くのを見たら、その家に訪問客がある.

  5. もし夢の中で歯が抜けるのを見たら、その人に近い

     だれかが死ぬ.

 

 

=== さて、この迷信の内、どれが今でも生きているんでしょうか・・

    ここには、上記以外にも、特にフィリピン南部での服装

    にインドの影響がみられること、産業面においては、

    生石灰の採掘方式、小舟の製造、綿布の機織り、金属加工、

    装飾工芸、などが述べられています・・・

 

 

― 古文書の権威によれば、古代フィリピンの著述文書はインドに

  起源があるとしている.

  ・・・T.H. Pardo de Tavera博士は・・・

  「フィリピン・アルファベットの文字はインドやオセアニア諸島

   のいずれよりも、アショカ(Asoka)時代のものとの

   近似性がみられる.」としている.

 

 

p54

 

― もっとも長きに渡ってフィリピン文化に貢献してきたインド

  からのものは、サンスクリット語である.

 T.H. Pardo de Tavera博士は、タガログ語の中に340以上の

  サンスクリット語の言葉があると言う.

  ・・・Najeeb M. Saleby博士は、ミンダナオとスールーの

  イスラム教のフィリピン語の方言の中には、300の

  サンスクリットの言葉があるという.

 

― ここに20の例示があるんですが、少しだけピックアップ

  してみると以下のとおりです:

 

 Filipino /  Sanskrit  /  English / 日本語

 

  ama / ama /  father / 父

 mutya /  mutya /  pearl / 真珠 

 raha /  raha /  king / 王

 saksi /  saksi /  witness / 証人

 sutla /  sutra /  silk /  

 tala /  tara /  star / 

 

 

― 今日のフィリピン人のおよそ5%は、インド人の血が流れている.

  これらのインド人の末裔であるフィリピン人は、物腰の高貴な

  雰囲気や、人生に関して平然とした態度、そして、

  逆境の際の静かな諦観などが見られる.

 

 

 

=== サンスクリット語というのは、日本人として見聞きする

    のは、仏教の古典が元々 このサンスクリット語で

    書かれていたということぐらいでしょうか・・・

    その原本が、中国語などに翻訳されたものを日本人は

    中国から輸入して、サンスクリットの音を漢字で

    音写されたものを 日本人の坊さんたちが

    声を出して読み、 我々一応仏教徒だということにしている

    者たちは、意味も分からず、葬式や何回忌かの席で

    ありがたく聞いている訳ですね・・・

 

    いずれにせよ、スペイン時代以前のフィリピンには

    そういう文字があって、何等かの文書もあったのでしょう

    が、それはスペインの植民地になった後には、

    文字としては残らなかったということのようです.

 

 

=== その11 へ続く ===

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 09 ジパング黄金の国はどこにあったのか?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

  The Asian Heritage of The Filipinos  第三章 フィリピン人のアジアの遺産

 

 

p49

― インドとの初期の関係

 

― インド文化のフィリピンへの影響は、Sri Vijaya 及び Majapahit帝国を

  経由して、9世紀から16世紀にかけて、フィルターを通す形で

  入っている.

 

― インドシナ、シャム、マレー半島、スマトラ、ジャワ、そして

  その他のインドネシアの島々から、インド化した移民や

  貿易商などによってもたらされた・・・

 

― スールー(Sulu)の伝承によれば、西暦900年から1,200年

  の間、インドシナのインド化した王国であるチャンパ(Champa

  から移民がスールーに貿易植民地を作った.

 Orang Dampuans(チャンパの人々)として知られ、Sri Vijaya帝国

  の奴隷であった.

 

p50

 

― 何年も後に、ボルネオのBandjarmasinからの移民が

  スールーに定住し、豊かな真珠の取引を活発に行った.

 

― 14世紀の終わりごろ、スールーに最初のイスラム教の

  宣教師がやってきた時、Buranunsの人々がヒンドゥの慣習と

  ベーダの神々を崇拝していることを見ることになった.

 

― ビサイヤの伝承によれば、 パナイは13世紀の中ごろには

  ボルネオ・マレー人によって植民地とされていた・・・

 

― もうひとつのフィリピンとインド化された東南アジアとの

  交わりは、1512-1515年に Tome  Piresによって書かれた

 Suma Oriental と題する原稿の中に見ることができます.

  彼は1512-1517年にマラッカに住んでいました.

 

― この Piresの古写本によれば、Lucoes(ルソンの人々)は

  毎年貿易船をボルネオとマラッカに送り、ボルネオの貿易商も

  ルソンへ出かけては、「金や食料品を同様に買っていた」と

  なっており、それをボルネオ、マラッカ、そして東南アジアの

  他の島々で売ったとなっています.

 

 

=== ほお~~、この頃から ルソン島では金の取引があったん

    ですねえ・・

    今でもバギオ周辺には金鉱があって、大企業はやって

    いないようですが、家族で採掘をやっている家庭も

    まだまだあるようです.

    ただ、金の相場によって稼ぎが大きく上下するので

    なかなか大変みたいですが・・・・

 

    ところで、ジパングというのは日本のことだと定説のように

    言われていますが、実はジパングはフィリピンのこと

    だったんだという説は、どうなったんでしょうかね?

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200709040081.html

 

「特にスペインが手中にしたフィリピンについては、どこで金が取れるかなどの黄金情報があふれていた。一方日本では金がとれるのかなどの情報は見あたらない。地図を見ると日本はかなり北にあり、島ではなく半島との認識もあったこともわかり、「ジパング」はフィリピンを中心とした多島海地域を指したとの考えに的場さんは至った。 」

 

― さらに、この貴重な原稿はMinjam(現在はDing-dingと呼ばれる)

  マラッカの近くに500人からなるフィリピンの貿易居留地が

  あったと述べています.

  そして、フィリピン人定住者のことを高く評価して

 Piresはコメントしています、「彼らは非常に価値のある者たちで、

  良く働く・・・・何人かは重要人物であり良い商人である」

 

 

― フィリピンの考古学の遺跡から発掘されたもの・・・

 Annam(ベトナム)、カンボディア、シャムなどからの磁器類を

  別として:

 

. Agusanの金の像

  1917年にアグサン州エスペランザ町の近郊のWawa川の

  左河岸で発掘された. 

 Beyer教授hあ、シバ神の像であると言い、

 Juan R. Francisco博士は、仏教徒タラであり、密教との関係が

  あって、14世紀から Sri Vijaya帝国が終わる頃までに

  作られたのではないか、としている.

  この像は、現在、シカゴ博物館のジェム・ルームに保管されて

  いる.

 

 

p51

. Mactanのブロンズ像

  1843年に、セブ近郊のマクタンの島で発見された.

 Beyerは、ヒンドゥにシバ紳であるといい、

 Franciscoは、12~13世紀の仏教徒Siamese(シャム)アートに属する 

 Lokesvara像だと言う・・・

 

 

===おやまあ、意見が違ったら、だれが判定するんでしょうか?

 

 

. Ganeshaの銅像 ヒンドゥの像神

  1843年にマクタンで発見.

 Beyerによれば、Majapahit時代のものだという.

  1932年に焼失した・・. 

 

. Calataganの 円形浮彫土器

  バタンガス州カラタガンで1958年に発掘された.

 Franciscoによれば、12~13世紀のBuddhoSiamese(シャム)

  アートに属する工芸品である.

 

. パラワンの 金のGarudaペンダント

  1961年、パラワン州Brooke’s Pointで発見.

 Franciscoによれば、MAJAPAHIT時代のものとする.

 Garudaとは、ヒンドゥのビシュヌ紳の乗り物とされた

  架空の鳥である.

 

. 磁器類

  カンボジア、アナム、シャムのもので、12~15世紀のものである.

  リサール州、バタンガス、ラグナ、ミンドロ、ソルソゴン、パラワン、

  そしてその他の国内の場所で発掘された.

 

== その10 に続く ==

 

 

 

 

 

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