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2014年3月15日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 24 : 1カバンって何リットル? 1年は13ヶ月

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

 

p72

 

― 芸術

 

スペイン時代以前のフィリピンの建築は、住居の bahay kuboスタイルに

表れている.  それは、涼しく、居心地が良く、そして、熱帯気候に

適したものである.  海軍の建築においては、古代フィリピン人は

秀でていた; 彼らは、一人乗りのbankaと呼ばれるカヌーから、

Karakaocaracao)と呼ばれる230人乗りの戦闘用ボートまで、

様々な船を建造した. 

 

古代の絵画は、刺青であった. 人の身体をキャンバスとして使った

技能のある刺青師は、筆の代わりに短刀の先を、絵の具は黒いススと

植物の樹液を使い、人体に豪華なデザインを描いた.

それは、太陽、月、星、花、動物そして幾何学的図形を表していた.

=== 刺青を、本物かどうかは別として、バギオでもよく見かけるん

     ですが、日本のようなネガティブなイメージはあまりなさそう

     ですね・・・・・  バギオの観光スポットでも、山岳民族のお婆ちゃん

     たちが、伝統の刺青をしていますし、若い人たちもあまり

     抵抗感はなさそうです・・・

     この前のバギオ・フラワー・フェスティバルの出店でもTATOOの

     看板が出てましたしね・・・

     ちょっと前に、日本の銭湯で、刺青をした海外からのお客さんを

     締めだしたってんで 新聞ネタになっていましたね・・

     世界の感覚でいえば、先住民の伝統だというのが標準的な

     感覚なんでしょうね・・・・

     たまたま、日本はヤクザがやっているもんで、世界の標準から

     外れた異常な拒否感を持ってしまったということでしょうか・・・ 

 

 

 

彫刻は、部族の彫師によって、石、木、そして金のanito(精霊)の像に

表現された.  武器や刀の取っ手は通常風変りな彫り方で、原始彫刻

アートを表していた.  土器の壺や甕は、美しいデザインで、技巧的

であった. 

 

 

― 科学

 

医学知識は魔術と結びついていたが、古代のフィリピン人は薬の

知識もいくらか持ち合わせていた. 多くの薬草に治療効果がある

ことを知っていた.  植物を扱う者は、毒の使い方の熟練者であった.

 

数学も知っていた. スペインによる征服以前から、彼らは

1億(bahala)まで数えることが出来たし、加減乗除も出来た.

数値についての、母語での用語もあった. 例えば、isa(いち)、

Puo(十)、daan(百)、libo(千)、yuta(十万)、angao(百万)、

Kati(千万)、そしてbahala(億)である.

 

 

― 度量衡

 

独自の度量衡もあった. 重さを計るには、天秤のバランスで計る

Talaroを使った. 

容量を量るには、kaban(25gantas)、salop(1ganta)、

Kaguitna(1/2ganta)そして、gatang(1chupa)である.

 

=== 容量の単位がここを読むだけでは感覚が分からないんですが、

    こちらに説明のサイトがありました.

    これを読むと、

 

chupa = 1ganta

25ganta = 1 cavan (kaban?)

litro = 4chupa

cavan = ジュート袋の大きさ

(別のサイトに: カバン(cavan)は元来穀物・豆類の容量単位で,

 1カバンは 75リットル. ある.・・・とあります

 しかし、他のサイトには; カバン(cavan)はフィリピン独自の

 計量単位で 1 カバンは籾米 50 kg である.・・・と重量になってます)

 

だだ、このサイトは、スペイン時代と書いてあるので、もしかしたら

異なる量かもしれません・・・・

http://avrotor.blogspot.com/2013/02/how-accurate-are-folk-measurements.html

 

The system consists of the following units, systematically patterned as follows:

 

•cavan

•ganta (or salop)

•litro

•chupa.

•gantilla

There are six chupa in a ganta, twenty-five ganta to make a cavan.

There is also litro, equivalent to four chupa, and gantilla, eight of which is equivalent to one ganta. Except for the cavan which is made of jute sack, these measuring tools is made of wood having the same dimension on all sides and bottom.

 

 

こちらのサイトには、このフィリピン独自の度量衡は

明確ではないという趣旨のことが書いてあります・・・

http://blogs.yahoo.co.jp/dilim83/20630241.html

 

「※NFAの米袋がよくテレビに出てくるが、大きいものは50kg入り

である。salopについて2つの比英辞書を確認した限りでは3ℓ、2kg

相当とされているが、その他に確認できる資料があまりない。

国際単位の導入によって廃れたのか、日本の尺貫法にあたるフィリピン

の独自のかつての度量衡については情報が整理されていないようである。」

 

 

==== 結局 現在の度量衡に換算できるのかどうかが

     分からないままなんですが・・・

          うちの大家のお婆ちゃんが、ターラック州の農園で

     お米を作らせていて、今年はXXカバンとれたとか

     言っていましたから、今度聞いてみようかな?

 

 

 

さっそく、大家さんに聞いてみたんですが・・・・

1袋=1カバン=(米)50キログラムということになっているが、

時々 それが45キロになっていたり、40キロになっていることが

あるそうです.

又、収穫したばかりのもみ殻がついたもので1カバンという場合も

あり、脱穀して白米になったところで1カバンということもありで、

元々は袋の大きさで容量を表すはずの単位が、実際には、正確を

期すために重量を表すものに変化しているようです.

ただし、1カバン=50キロだよと念を押しているとか・・・・

 

 

p73

 

― カレンダー

 

イフガオ族は、今でも、先祖の暦を使っています.

イフガオの暦は、1年が13か月で、1ヶ月は28日になっています.

イフガオは部族のカレンダー記録係りがいて、tumunohと呼ばれて

いますが、1年13ヶ月を表す13本の紐があるのです.

1日の終わりに、彼はその紐をひとつ結んで結び目をつくり、

1日が経ったことを示すのです.  そして、1本の紐に28の

結び目をつくり、1ヶ月を記録します. 

イフガオのカレンダーは、1年間が364日なのですが、うるう年には

もう1日が13か月目に足されて365日になります.

 

 

=== この暦はどこから来たんでしょうね?

    うるう年の調整も入っていますからね・・・・

 

 

 

=== シリーズ25へ続く ===

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年3月14日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 12の追加訂正 翻訳のやり直し・・・

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

 

p56ページにこんな文章があって、一応翻訳はしたんですけど

自信がなくて、気になり、どういう構文なのかを再検討・・・

 

The custom of the trade is for the savage traders to assemble

in crowds and carry the goods with them in baskets; and even

if one cannot at first know them, and can but slowly distinguish

the men who remove the goods, there will yet be no loss.

The savage traders will after this carry these goods on to the other

Islands for barter…….

 

 

それで、最初にやった翻訳がこれなんですけどね・・・

 

― (この部分は翻訳が難しい・・・自信なし・・・

 荒くれ者の貿易商たちの習慣は、群衆をかき集め、

  籠に商品を入れて運ぶことだった; そして、最初は分から

  なくても、じょじょに誰が商品を持ち去るかを突き止めて、

  ロスがないようにすることだった.

  貿易商たちは、その後、これらの商品を別の島に持って行き、

  そこでまた交易するのだった.

  そして、国に帰るまでには8~9か月をかける決まりだった.

  そして、その時、(その商品によって)獲得したもので

  船上の貿易商たちに報いたのである.

 

それで、ここで、ちょっと、構文がどうなっているんかを分析して

みようかな・・・

主たる文ではないところを(  )で括ってみると・・・

 

The custom of the trade is for the savage traders to assemble

in crowds and carry the goods with them in baskets; and even

if one cannot at first know them, and can but slowly distinguish

the men who remove the goods, there will yet be no loss.

The savage traders will after this carry these goods on to the other

islands for barter…….

 

 

それで、(   )を無視して翻訳してみると:

 

「交易の慣習は、商品を籠にまとめて運ぶことで;

themを知る事ができなくても、それにもかかわらずロスはない.

 

・・・このthemって商品のこと? 貿易商のこと?

多分・・貿易商のことかな??

 

それに、この粗野な貿易商ってのは、船に乗っている者たちの

ことを言っているのか、はたまた、フィリピン側の貿易商の

ことを言っているのか・・・・

最初の翻訳では、中国側の貿易商だと思っていたんですけど・

この記録を書いているのは、中国人なので、savage(粗野、蛮人、 

未開、荒れた)な貿易商というのは、おそらくフィリピン側

者たちのことを指しているんでしょうね・・

 

そういう前提で、翻訳をやり直してみると・・・

 

The custom of the trade is for the savage traders to assemble

in crowds and carry the goods with them in baskets; and even

if one cannot at first know them, and can but slowly distinguish

the men who remove the goods, there will yet be no loss.

The savage traders will after this carry these goods on to the other

islands for barter…….

 

「交易の慣習は、(島の粗野な貿易商にとっては)商品を(混雑の中で)

籠にまとめて(彼らが)運ぶことである;

(中国側の売主が)島の貿易商たちを(最初は)知る事ができなくても、

(そして、出来たとしても、その商品を持って行く者たちを徐々に見分けて)、

それにもかかわらずロスはないのである.

 

 

・・・この著者は島の人間に対して、前後の文で、好意的な書き方

しているので、混乱の中での取引にも関わらず、商品が行方不明になる

こともないということを言っているようです・・・

 

・・・ということで、最終的に自分なりのまとめをしてみると、

以下のような翻訳になります:

 

「交易のいつものやり方は、島の粗野な貿易商にとっては、商品を

混雑の中で籠にまとめて運ぶことである;

島の貿易商たちを最初は誰が誰だか分からなくても、そして、

出来るとしたら、その商品を持って行く者たちを徐々に見分けて、

なおロスはないのである.

 

・・・さてさて、この翻訳が正しいのかどうか、

次回の授業の中で、教授に教えてもらわなくちゃいけません・・・

一応、英語の学校で英語の勉強も兼ねているんでね・・

(まあ、私の英語力の限界は この程度だってことです・・あはは)

 

教授に確認できたら、この下に、正解を追記したいと思います・・

 

 

 

==== さて、その教授に細かく確認してみたところ ===

 

 

The custom of the trade is for the savage traders to assemble

in crowds and carry the goods with them in baskets; 

 

 

この assemble in crowds のところは、

 

「フィリピン側の貿易商の為に働く荷役の労働者などが大勢いるのを

 整列させて、その荷役労働者に籠に入れた商品を担がせる」

 

と言うことになるそうです.

 

 従って、最終的な翻訳は、次の通りです: 

 

 

「交易のいつものやり方は、島の粗野な貿易商にとっては、混雑の中で

 

荷役人たちをまとめて、商品を籠で運ばせることである;

 

中国側の貿易商は、島の貿易商たちを最初は誰が誰だか分からなくても、

 

そして、出来るとしたら、その商品を持って行く者たちを徐々に見分けて、

 

なお商品のロスはないのである.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年3月12日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ ― 10から12までの授業 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

授業は、私の質問に教授が応える形で進めています.

 

p52

 

― フィリピンの神話と民話

 

― マウンテン州のボントック町の名称が、教科書では Bontokと書いて

あるが、これは元々は Bundok(山)という言葉であったのが、

Bontok となり、その後 今のBontoc になったそうだ.

 

― マウンテン州のilim hudhud については、歌が多いが、

その内容は、ナレーションでありチャントという音楽であり、

今もお祭りなどで聞くことができる.

 

― これらの民話などは、今の学校の授業などで教えられているのか?

 

学校では、ほとんど教えられていない.

上記のHudhudを例にあげれば、教授自身がコピーを配布されて

知っただけであった. 本などにまとめられてはいない.

 

従って、学生は、ほとんど読んだことはない. しかし、上記のように、

お祭りなどで聞くチャンスはある.

ただし、元々の古い言葉は現代人には理解できないので、

意味不明な箇所については、文脈から判断して、適当な現代の言葉で

カバーされている.

 

これらの話については、バギオ・ミッドランド新聞の民族学の先生が、

教授自身の先生であったそうだ.

 

 

― 「猿と亀の話」などの寓話について、日本では、今も

「猿カニ合戦」のような話が、絵本などになって、小さい子供たち

に教えられているが、フィリピンでもそのような絵本などは

あるのか?

 

フィリピンのこういう話は、スペイン時代、アメリカ時代の中で

失われてきた.

しかし、教授のお婆さん、お母さんの時代ぐらいまでは、

まだ家庭の中で語られていた.

当時は、子だくさんで、1家族に十数名の子供がいたので、

親が寝る前に話を聞かせていた.

 

昨今は、このような寓話に代わって、日本のポケモン、マジンガー、

アメリカのヒーローなど、アニメや漫画から大きな影響を

受けている.

 

 

p53

 

― 古代フィリピンからの慣習や伝統について、

今でも残っているものがあるか?

 

母の時代までは、教科書に書いてあるような慣習がほぼ100%

残っていた.  今でも、地方によってはかなり残っている.

 

― 花婿が花嫁に持参金を渡したり、花嫁の両親の家でお世話をする

ことは、特に山岳地帯のイゴロットと呼ばれる人たちの中では、

今でもやっている.

 

例えば、持参金は、牛や豚をその家の経済状況に応じて、

花婿と花嫁が同数を出し合わなくてはいけない.

2~3頭の場合もあれば、数十頭の場合もあり、結婚式は

それらを全部食べ終わるまで何日も続く.

 

花婿が花嫁の家で義理の両親の世話をするというのは、

結婚前の話で、1~2週間お手伝いのようなことをして、

それで気に入られなかった場合は破談となることもある.

 

― ビンロウの実などを出して、お客を接待するという慣習は、

BUYOと呼ばれるが、これは、ナッツ(betel nut 又は beetle nut

をライムの粉末と一緒に、ikmoというビンロウの葉で包み、

これを噛むものであり、辛いもので、身体がほかほかと熱くなって、

少し酔ったようになるが、食べてはいけない.

(妊婦の堕胎のために、食べたりしたこともあったらしい)

噛んだ後に、赤いナッツをぺっぺっぺと吐き出すので、

都市部などでは迷惑がられ、慣習もほとんど残っていないが、

田舎などでは今でも広く行われている.

中毒にはならないが、習慣性はある.

バギオ市からさらに山に入った地域では、 momaとか ngangaなどと

呼ばれている.

 

― 子供に恵まれない夫婦がお参りに行く場所は、今でもある.

 

バギオの近郊であれば、 tam-awan村やイトゴンの滝などである.

スペイン時代からの場所としては、ブラカン州のobandoという所の

サンタ・クララの祭りでは、娘たちが踊って、子宝に恵まれる

ように祈る.

 

 

― 日本では、下の乳歯が抜けたら、屋根の上に投げたりするが、

フィリピンでも乳歯が抜けたときに どこか特別な所に捨てたり

するのか?

 

フィリピンの場合は、抜けた乳歯を、竹の穴など、小さな穴に

入れて、ネズミの王様に、「新しい歯をください」と祈る.

 

 

p54

 

― 古代のフィリピンの文字はインドのサンスクリット文字に近いと

されているが、これは、ルソン島の山岳地帯の場合はどうか?

 

バギオ周辺の山岳地帯の古代の文字は、フィリピン南部の文字とは

まったく異なる.

台湾の山岳民族の方に近いとされ、言語自体が台湾とルソン島は

近い.

 

― フィリピン人の5%は、インド人の血が流れていると書いて

あるが、フィリピンのどこの話か?

 

おそらく、イロイロ島のことであると思われる.

イロイロ島には、鼻筋がすっと高い人が多い.

 

 

p55

 

― 中国との関係の部分は、教科書に書かれている中国の地名や

人名を基に検索すると非常に難しい.

ローマ字表記の名前を、フィリピンではどのように扱っているのか?

 

この教科書は、スペイン語の発音を基に書かれているので、

例えば、英語では zhouとするところを chouと表記している.

zhou dynasty = 周王朝)

世界全体で歴史資料をみると、英語表記が多数である.

 

 

― 中国の「三国志」は、日本では非常に有名であるが、

フィリピンではどうなのか?

 

全然 有名ではない.

この教科書には、紀元前、3世紀、10世紀ごろに中国とフィリピンの

交流があったと書いているが、そもそも確定的な資料はない.

 

西暦982年に Ma-i王国が広東に行ったというようなことが

書いてあるが、これにしても、実際に書かれたのは14世紀である.

 

 

p55

 

― バギオ周辺で見られる gangsasガンサと呼ばれる銅鑼(どら)は、

この教科書では中国からもたらされたとあるが、実際はどうなのか?

 

山岳地帯のガンサは、地元で作っているものであって、中国との

交易で入ったものではない.

フィリピン南部の銅鑼は、インド風のものであって、中国からとは

考えにくい. 

 

― 1225年に、Chau Ju-Kua(趙汝适)が著した Chu-fan-chi

(諸蕃志)というのがあると書いてあるが、この本の英語版はあるのか?

 

書名が知られているだけで、英語版などは見たことがない.

 

 

 

・・・・ところで、フィリピンの民話の本があるのか・・という

話なんですが、バギオ市でこんな本が作られています:

 

The Golden Arrow of Mt. Makilkilang and other Cordillera Folktales

 

この本は、日系のNGO、環境NGOである Cordillera Green Network

が発行したもので、ルソン島北部山岳地帯の4つの民話が収められて

います.

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教育の現場にも影響を与えそうですね.

 

 

日本側では、フィリピンの民話を絵本にしたりという試みも

あるみたいですけどね・・・

http://www.ehon-narabe.com/archives/indiv/488.php

 

 

こういう絵本がいずれ、フィリピンへ逆輸入されるのでしょうか?

しかし、日本のこういう絵本の元になっているものがフィリピン側に

なにかあるはずですよね・・・

 

その糸口になりそうなものが見つかりました・・・

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000071822

 

「火野葦平がフィリピンの民話を邦訳した本があると聞きました。」

「『比島民譚集』という資料で、・・・・・・。

フィリピン従軍中の葦平は、その地の歴史・民情・文学などを知るために、マニラ国立図書館より何冊かの図書を借用したそうです。
その中に『PHILLIPINO POPULAR TALES』いう民話研究書があり、彼はそれを仕事の合間に訳し続け、かなりの分量に達したとのこと。」

 

少なくとも、戦争以前に出版された本があったんです・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 23 言語、文学、教育、王様が兵法を教えた?

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

p70

 

― 言語

 

古代のフィリピン人は多くの異なる言語と方言を使っていた.

しかし、ひとつの言語を学べば、他の言語を知ることは比較的

容易なことであった. それは、すべての言語が共通の言語学的源を

持っていたからである.  ― それはマレー・ポリネシアン言語で

あり、太平洋民族の母語であった. 

Pedro Chrino神父は次のように書いている:「フィリピン諸島全体

を通じて、単独のあるいは統括的な言語は存在しなかった. 

しかし、そのすべては、多くの異なる言語ではあったが、

大変似通っていたので、短期間に学び、話したのであろう.

 

すべての現地の言語の中で、初期のスペインの著述家が

一番だと考えたのはタガログ語であった.

Chirino神父は、「私はこの言語の中に、世界の四大言語、ヘブライ語、

ギリシャ語、ラテン語そしてスペイン語、の4つの特質を見出した;

ヘブライ語の難解さと不明瞭さ; ギリシャ語のように、冠詞と区別が

固有のものにも、普通名詞にもある(?); ラテン語のような優雅さ;

そして、スペイン語のような、洗練され、磨かれ、丁寧な言語である

ことを見出した」と書いています.

 

=== この神父さん、べた褒めじゃないですか?

    タガログ語ってそんなに凄い言語なんですか?

    これって、どういう人向けに書いたものの中に書いてあるん

    でしょうね?

 

 

p71

 

― 文書

 

古代のフィリピン人は、独自の書き方を持っていた.

Chirino神父によれば、ほとんどの人々が読み書きを知っていた.

Baybayinと呼ばれる彼らのアルファベットは、インドのアショカ文字

にその起源を持っている.  それは、3つ(実質は5つ)の母音と

14の子音 - 全部で17の文字からなっている.

 

彼らは、sipolという、鋭く尖った鉄の筆記用具を使っていた.

この鉄の用具で、紙として使われた竹の筒、木の板、そして植物の

葉の上に文字を刻んでいた. 書く方向は、水平で、左から右であり、

右から左に縦書きする中国語や日本語とは違っていた.

 

この古代の書き方は、ミンドロ島のMangyans族 や、パラワン島の

Tagbanuas族によって守られており、この二つは、今でも その

古代の文字を使っている.

 

 

 

― 文学

 

古代のフィリピン人は、口承と書き物による両方の文学を持っていた.

幸運なことに、彼らの口承文学は、世代から世代へと引き継がれ、

その民族の貴重な遺産として現在も守られている.

それは、awit(歌)、bugtong(謎々)、salawikain(ことわざ)、

神話、伝説、そして詩(叙情詩と叙事詩)から成っている.

しかし、残念なことに、これらの過去に書かれた文学は、ほとんど

失われてしまった.

 

スペイン時代以前の文学である興味深い民族詩の中では、以下のものが

幸運にも保存されている; イフガオ族の Alim and Hudhud

イロカノ族の Lam-ang、 ビコール族の Handiong、 カリンガ族の

Ullalim、 マラナオ族の Bantigan、 マギンダナオ族の Indarapatra

Sulayman、イラノン族の Agyu、そして、タオスグ族の Parang Sabil

ある.

 

=== 失われた文書が「あった」というのがどういう根拠に

    基づくものなのか・・・が疑問なんですよねえ~~.

    授業の度に、そこが教授と議論のネタになるんですけど・・

    この教科書には、「これだ」という写真もないし・・・

 

 

― 教育

 

古代のフィリピンの子供たちは、基礎的な教育が与えられた.

それは、アカデミックなものと、職業的なものの両方があった.

父親が、兵士、猟師、漁師、鉱夫、製材、造船の訓練を息子たちに

施した.  一方、母親は、料理、庭づくり、裁縫、そしてその他の

家事を、娘たちに教えた.

 

古代のパナイ島に於いては、bothoanと呼ばれるバランガイの学校が

あって、教師が担当していた. 通常は老人が教えていた.

このバランガイ学校で教えられていた科目は、読み、書き、算数、

武器の扱い方、そして lubuskinaadman又は魔除けを習得すること)

であった.

 

=== このbothoanについては、同じような内容がこちらの

    本にも書かれています.

    (googleで、「bothoan, panay, school」で検索すると出てきます)

 http://books.google.co.jp/books?id=SIq_FvJUr40C&pg=RA2-PA23&lpg=RA2-PA23&dq=bothoan+panay+school&source=bl&ots=QECKTUF-pY&sig=htHs3fK2cBEwIOXtGRBkDo48DIY&hl=ja&sa=X&ei=dC0fU_CSBca9oQT4gYHABg&ved=0CCgQ6AEwAA#v=onepage&q=bothoan%20panay%20school&f=false

The Filipino Moving Onward 5' 2007 Ed.

 著者: Sagmit, Et Al

 

 

=== こちらのサイトの、Introductionの第二パラグラフの一番下に

    このような記事があります:

 These countries' combat methods of Kuntao and Silat had a great

  influence on the development of Kali, which is the "mother art" of

  the Philippines. Legends claim that ten Datus (chieftains) left Borneo

 and settled in Panay where they established the Bothoan in the twelfth

 century. The Bothoan was a school where the Datus taught Kali along

 with academic subjects and agriculture. It was a kind of preparatory

 school for tribal leaders.

 

 http://www.usadojo.com/styles/about-filipino-arts.htm

 

    これを読むと、

    「bothoanは DATUS(王)が Kali(?)をアカデミックな

     科目や農業と一緒に教えた. それは、部族のリーダーの

     ための準備の学校のようなものであった」

    と書いてあるので、上記とは微妙に違うんですが、

    士官候補生の学校みたいなもんだったんでしょうかね?

    王様が直々に教えたみたいだし・・・

    しかし、「kali」ってのがなんだか分からないんですけど・・・

    (mother art of the Philippinesとあるんですが・・)

 

    それで、第一パラグラフにさかのぼって読んでみると・・

 Although known by many names, often descriptive of the styles and

 names of their founders and enemies (i.e., Binas Arnis, Italiana style),

 the Filipino warrior arts can be classified by three distinct territorial

 styles --Arnis, Eskrima, and Kali -- that are found in the northern,

 central and southern Philippines, respectively.

    ・・・どうも、戦い方の技術みたいですね.

    要するに、黒田官兵衛の戦略、戦術学みたいなもん

    でしょうか・・・

    中国だったら 「孫子の兵法」かな??

 

 

=== シリーズ24へ続く ===

 

 

 

 

 

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2014年3月11日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 22 宗教、葬式、迷信、妖怪、忍者??

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

 

p69

 

― 宗教

 

ミンダナオ島及びスールー島におけるモロ民族(イスラム教徒)を

例外として、古代のフィリピン人は非キリスト教(ないしは無宗教、

多神教)であった. 彼らの至上の神は、天、地、人の創造神である

bathalaであった. その神の下に、その他の神々がいました -

タガログの農業の女神Idianale、タガログの収穫の神 Lakampati

ビサヤの死の神 Sidapa、 パンガシナンの戦争の神 Apolaki

カリンガの雷神 Kidul、 イロカノの美の女神 Dal’lang

ザンバルの力と強さの神 Malyari、 タグバヌアの海の神 Poko

そして、イフガオの地震の神 Kolyog であった.

 

 

=== サンバル Zambal と書いてあるのですが、これは

 Zambales サンバレスのことであるようです.

    タグバヌア Tagbanua は、パラワン島のようです.

 http://en.wikipedia.org/wiki/Tagbanwa_people

 The Tagbanwa or Tagbanua, one of the oldest ethnic groups in

  the Philippines, can be mainly found in the central and northern

 Palawan.

 

    なんと、イフガオ州は、地震の神となっています.

    古代から地震が多かったのでしょうか.

 

古代の人々は、anitos(タガログ語)あるいはdiwatas(ビサヤ語)

と呼ばれる先祖の霊を崇拝しました.  これらの先祖霊に対して、

Maganitoと呼ばれる生贄が奉げられました. Katalona または

Babaylanと言われた司祭によって、儀式が執り行われました.

また彼らは、自然を崇拝しました - 川、山、古木、

ワニ、そして野山 - これらは、霊の宿る場所だと信じ

られたからです.

 

古代の人々は、また、死後の世界も信じていました.

そこでは、人は空気のような身体と永遠の魂を持つと

されていました.  死後、その魂は、あの世へ旅をし、

しかるべき褒美あるいは罰を受けることになっていました.

 

 

― 埋葬と喪の慣習

 

来世が信じられていたため、古代のフィリピン人は、遺体の

埋葬には大変な気遣いを見せています.

遺体は、古代エジプトのように防腐処置をされ、そして、

自宅の近くに埋葬されましたが、それは洞窟かあるいは

海を見下ろす岬でした.

衣服、食べ物、武器、そして時には、その遺体とともに

奴隷が埋葬されました.

 

死者への喪は、男の場合はmaglaheと呼ばれました; 女の場合

morotaldatu(王)の場合はlaraoでした.

王の死の際には、お触れ役が、葬式を知らせ、そしてlarao

式が執り行われました. 葬儀参列者は、色のある衣服は着ません

でした. すべての戦争や口論は停止されました.

そして、海から戻る舟の中で歌うことは禁じられました.

すべての兵士は、槍の先を下に向けて持ち、短剣の柄を

逆にしました.

 

 

p70

 

― 迷信

 

古代のフィリピン人は、地球上のすべての他の人々と同様に、

迷信を信じていました.  彼らは、魔女を信じていました、

例えば asuangで、犬や、小鳥や、その他の動物に化けたり、

人肉をむさぼり喰ったり; mangkukulam は、魔法のピンで

人形を刺して、他人を殺したり、病にしたりしました;

Tianakは、その長い鼻(あるいは吻(ふん))で赤ん坊の内臓を

吸い取り; そして、tigbalangは、犬、馬あるいは老人の

姿で現われ、人を騙しました.

 

=== おおおお・・・おどろおどろしい妖怪がいたんですねえ.

    蟻食いみたいに、長い鼻みたいな口で、赤ちゃんの内臓

    を・・・あああ、恐ろしい・・・

 

    それに、日本の五寸釘と藁人形の呪いに似てますね.

    黒魔術とか言うのが、これでしょうか?

    魔術のような医療術はここには書いてありませんね・・

 

    化けるのが犬なんですね・・キツネやタヌキじゃなく.

    小鳥や馬ってのがちょっと意外なんですけど・・・

 

 

古代の人々は、魔除けやお守りの魔法の力を信じていました、

例えばanting-antingのようなもので、それを持っていれば

傷つくことはないというものでした; gayumaは、妙薬で、

聞く耳を持たない女の愛情を得られるもの;  odomは、

ビコールの魔法の薬草で、それを持っていれば透明人間に

なれるというものでした; そして uigaは、ビサヤのお守りで、

それを持っていれば、濡れずに河を渡れるというものでした.

 

 

=== おおお・・これも欲しいなあ・・・

    特に、妙薬と透明人間・・あははは

 Uigaって、もしかして、忍者みたいなのがいたん

    ですかねえ・・・

 

 

 

=== シリーズ23へ続く ===

 

 

 

 

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2014年3月10日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 21 古代のバランガイ戦争とは何か

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

 

p67

 

― バランガイ統治

 

スペイン統治以前のフィリピンにおけるバランガイというのは、

実質的には、古代メソポタミアの都市国家のような、独立した

村―王国であった.

それぞれのバランガイは、datuと呼ばれる族長あるいは王によって

統治されていた.  大規模なバランガイ王国の支配者は、raha, hari

または lakanという称号を得ていた.

 

Datuは大きな力を行使していた.  平和の時には、datuは最高行政官

であり、立法者であり、またそのバランガイの裁判官でもあった;

そして戦時に於いては、バランガイ軍の司令官であった. 

Datuは、息子や娘がその地位を継承した. もしdatuが嫡出子の

息子や娘がいないまま死んだ場合には、バランガイの人々が

Datuを選んだ - datuは、バランガイの中で、一番強いか、金持ちか、

あるいは賢者でなくてはならなかった.

 

バランガイ統治は、民主主義の種子を含んでいた.

Datuは、その強大な力にもかかわらず、独裁者ではなかった.

重要な事柄については、例えば敵対するバランガイとの戦争の宣言、

バランガイの王子あるいは王女の婚姻、他のバランガイとの

政治的連携の交渉などの場合には、datuはバランガイの長老に

相談し、承認を得なければならなかった.

この長老たちは、犯罪で被告人となった者たちの裁判においても

役割を果たし、datuの判決は長老たちの承認がなければならなかった.

さらには、バランガイの新しい法律を作る際にも、datuは、長老たち

の助言を求めなくてはならなかった.

Datuが死亡し、継承者が決まっていない場合には、

すべての自由人と貴族が集まり、新しいdatuを選んだ.

 

 

=== おお、なかなかの民主主義ですねえ・・・

    貴族だけじゃなくて、自由人も選挙権があったなんて.

    古代の日本なんかより、よっぽど進んでいたんじゃ

    ないですか?

 

 

 

 

p68

 

― バランガイ連合

 

マゼラン時代以前のバランガイのいくつかは、団結し、

バランガイ連合を組織していた.

そのような連合への参入の理由は、

(1) 敵に対しての防衛力の強化

(2) バランガイの王子lakanの、他のバランガイの王女

 Lakambiniとの婚姻

であった.

 

 

=== 集団安全保障ですねえ・・・

    アメリカの大統領の子供と、日本の首相の子供が結婚

    するってのはどうっすか?

    なんだったら、中国の最高指導者の子供とか、

    北朝鮮の最高指導者の子供との間ってのもありですけど・・

 

 

 

 

― バランガイの関係

 

通常は、古代のバランガイ同士は、平和的な関係であった.

お互いに、交易や情報交換をしていた. 相互の婚姻もあった.

バランガイは又、お互いに同盟や友好の盟約を結んで、

伝統的なsandugo(ひとつの血)と呼ばれる血の盟約の儀式に

よって正式に決定した.

 

バランガイの間で、戦争が起こることもあった.

このバランガイ間の戦争の原因は、キャプテン Miguel de Loarca

よれば、次のようなものであった:

「一番目には、インディアン(フィリピン人のこと)が他の

バランガイに入って、理由もなく殺害された場合;

二番目には、人妻たちが他のバランガイの者によって盗まれた

場合; 三番目には、他のバランガイに平和的に入ったにも

かかわらず、不当な扱いや虐待を受けた場合」

 

 

=== ヨーロッパの白人にしてみりゃあ、肌の色が

    茶色だったりすると、なんでもかんでもインディアン

    だったんですねえ・・・

    アメリカン・インディアンとも言うし・・・・

    1番目と2番目の戦争の理由は もっともですけど、

    3番目の「不当な扱い」ってのは やや微妙ですね.

    明らかな虐待を受けたんなら納得ですけど、

    「不当」ってのは いちゃもんに発展できますもんねえ・・

 

=== 「インディアン」という言葉については、

 

    こちらのサイトに少し解説がありました: 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3

 

    由来:英語のインディアンは直訳するとインド人の意味である。

    歴史的な文脈では、旧イギリス領インド全域や東南アジアの

    住民を含むこともある。

    「インディアン」が二義的な意味を持つ由来には、クリスト

    ファー・コロンブスがカリブ諸島に到達した時に、インド

    周辺の島々であると誤認し、先住民をインディオス(インド人

    の意)と呼んだことがあり、以降アメリカ先住民(の大半)を

    インディアンと呼ぶようになった。

 

    ほかインド人をイースト・インディアン (East Indian) 、アメリカ

    先住民をアメリカン・インディアン (American Indian) として区分

    する場合もある。

 

 

 

    古代のインドからフィリピン諸島に掛けての海域では、

    インドからの文化的影響を大きく受けていたわけですから、

    この周辺の人々がインディアンと呼ばれたのはヨーロッパ人の

    大雑把さと言えるのかもしれませんが、アメリカはねえ・・・

 

 

 

 

 

=== シリーズ 22へ続きます ===

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 20  音楽、踊り、歌、結婚&離婚

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

 

p66

 

― 音楽

 

古代のフィリピン人は音楽を愛し、様々な楽器、多くのダンスや曲を

色々な機会に楽しんだ. 楽器としては、タガログのギターである

Kudyapi、 ティンギアンの鼻笛であるkalaleng、 イスラム教徒の

木琴であるkulintang、 ビサヤの竹太鼓である tultogan、イロカノの

アシ笛である silbay、 そして、スバヌンの打楽器であるsuracan

などがあった.

 

=== ティンギアン族については、こちら:       http://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%AE%E3%82%A2%E3%83%B3%E6%97%8F

フィリピンのルソン島北西部山岳地帯に分布し,ティンギアン語を

母語とする種族。人口約3万。

 

=== スバヌン族は こちら:

http://wee.kir.jp/philippines/phi_subanun.html

ミンダナオ島西部サンボアンガ半島全域。

ミサミス・オクシデンタル州、サンボアンガ・デル・ノルテ州、

サンボアンガ・デル・スル州などに居住。

 

 

― 民族舞踊や歌謡

 

(舞踊は省略・・・・)

歌は、 タガログの勝利の歌、tagumpay、 ネグリトの宗教歌

Dallu、 イゴロットのセレナーデ(小夜曲)ayeg-klu、 タグバンワの

葬礼の歌であるbactal、 イロカノの民間伝承のバラード曲dal-lot

この歌は、イロカノ人の強力な英雄である Lam-angの偉業を

詳しく述べた歌である、 ティンギアンのお酒の歌 kuilay-kuilay

そして、アグサンの収穫の歌tudob などである.

 

 

タグバンワ族については、こちらで:

http://wee.kir.jp/philippines/phi_tagbanwa.html

フィリピン、パラワン島の山間部.

TagbanwaTagbanua

イスラム教の影響を受けた政治的な階級を持った双系社会

 

 

アグサンについては、こちらのミンダナオ島のサイト:

http://www2.tbb.t-com.ne.jp/atc/Philippines/Philippine_map/mindanao/caraga/map_agusan_del_sur.html

ミンダナオ島の北東部。

 北アグサン州/南アグサン州/ディナガット・アイランズ州

/北スリガオ州/南スリガオの5

 

 

― 結婚の慣習

 

古代のフィリピンの慣習は、同じ階級の中で結婚することだった.

貴族同士、自由人同士、奴隷同士である.

しかしながら、貴族と一般人、金持ちと貧乏人の間の血族結婚に

対しては厳しい禁止規定はなかった.

従って、王子は奴隷の娘と結婚出来たし、自由人も王女と結婚が

可能であった.

 

結婚前に、花婿は花嫁の家族に贈り物をした.

その贈り物はbigaykayaと呼ばれた. それは、金、土地、奴隷、

あるいは、その他の価値のあるものなどであった.

この贈り物の他に、花婿は、一定の期間、花嫁の家族の家で

働かなくてはならなかった.

花婿は、花嫁の父の畑を耕して手伝った. そして、田植えや

稲刈りも手伝った.

 

古代のフィリピンでは離婚もあった.

離婚の理由はつぎのようなものだった:

(1)妻の側の不倫

(2)夫の側の逃走

(3)愛情の喪失

(4)残酷な行為

(5)精神異常

(6)子供が出来ない

 

=== こういう離婚理由だったら、今でも離婚が許されても

    いいようなもんですけどねえ・・・

    古代のルールとしては まともじゃないですか?.

    キリスト教になってから 離婚は出来なくなったんで

    しょうか??

    実際には、離婚が難しいから、結婚手続きはしないで

    内縁関係にあるという人たちもいるようですけどね.

 

 

 

=== シリーズ21へ続きます ===

 

 

 

 

 

 

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2014年3月 9日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 19 フィリピンの女たちは古代から強かった!

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

p65

 

― 初期の社会に於ける女性の地位

 

古代のフィリピンに於いて、女性たちは高い地位を占めていた.

部族の法あるいは慣例の下では、女たちは男と同等であると認め

られていた. 女たちは、交易にも産業にも関与することができた.

首長の娘であって、息子がいない場合には、その娘は首長の地位を

引き継ぎ、村を率いることができた. 

 

p66

 

多くの女性たちが、歌や物語の中で有名になった.

その一人が、Sibabaeであり、世界で最初の伝説のファースト・レディー

であった; Lublubanは、ビサヤ地方の伝説的な立法者であった;

Lalahonは、ビサヤ地方の火と火山の神であった;  そして、

Kalangitanは、パシグのイスラム教国王妃であり、Lakan Dula

祖母であった.

 

=== Lakan Dulaについては、こちらでご覧ください:

 Lakandula (actually spelled as two separate words, Lakan Dula, as

  "Lakan" is a title itself) was the regnal name of the Lakan (king or

 paramount ruler) of the pre-colonial Philippine Kingdom of Tondo

 when the Spaniards first conquered the lands of the Pasig River

 delta in the 1570s.

 http://en.wikipedia.org/wiki/Lakandula

 

    これによれば、マニラのパシグ川のところにあった

    トンド王国の王様だったようですね・・・

    今こそ、トンドと言えば 「ごみの山」で有名で、日本人は

    フィリピンと言えば、マニラとトンドを思い浮かべるほどに

    フィリピンのマイナス・イメージを代表するものになって

    しまっていますが、古代にはトンド王国があったんですねえ・・

    日本に例えるならば、出雲や奈良みたいなところが

    スラム街になっているようなイメージでしょうか?

 

=== ちなみに、出雲は、こんな感じだったようです.

    「古代出雲は、青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市

    付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県

    米子市、大山町)との二大勢力から出発し、以後統一王朝が作られ、

    日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。」

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E9%9B%B2%E5%9B%BD

 

    奈良は・・・・

    「平城京(へいじょうきょう)は、奈良時代の日本の首都。所謂 

    「奈良の都」である。唐の都「長安」や北魏洛陽城等を模倣して建造

    されたとされ、現在の奈良県奈良市及び大和郡山市近辺に位置して

        いた。」

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%9F%8E%E4%BA%AC

 

    トンド王国については、こちらで どうぞ:

 Originally an Indianized kingdom in the 10th century, Tondo built upon and

 capitalized on being central to the long-existing ancient regional trading

 routes throughout the archipelago to include among others, initiating

 diplomatic and commercial ties with China during the Ming Dynasty.

 http://en.wikipedia.org/wiki/Kingdom_of_Tondo

    10世紀ごろからスペインがやって来た16世紀まであった

    ようですね・・・

    ここに有名なThe Laguna Copperplate Inscription(ラグナ銅版碑文)

    のことが書いてあって、どうも領収書みたいなものらしいです

 The first reference to Tondo occurs in the Philippines' oldest historical record

 — the Laguna Copperplate Inscription (LCI). This legal document was written

 in Kawi, and dates back to Saka 822 (c. 900).

 

 

 

ここにkawi語(カウィ語)というのが出てくるんですが、

これについては、こちらのサイトに少し解説が出ています:

http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/56236/1/KJ00000131283.pdf

 

「古ジャワ文学というのは,空間的にはジャワ東部を創作活動の主な

中心とし,時間的には10世紀中ごろから15世紀初頭にかけて,言語的には

オーストロネシア語族に属する古ジャワ語(カウィ語)によって書かれた,

そして何よりも,サンスクリットを媒介としてインド文化の大きな影響を

受けて成立したヒンドゥー・ジャワ文化から生まれたさまざまな文献の

総称である。」

 

p66

 

― 娯楽

 

古代のフィリピン人は戦いや労働に明け暮れていたわけではない.

・・・彼らは、豊作、婚姻、宗教的捧げものや戦勝を祝って宴会を

開いた.

・・・彼らは、たくさんの酒を飲んだが、我を忘れるほどに

酔うことはほとんどなかった. もっと陽気になり、おしゃべりに

なっただけであった.  宴会の後は、助けを借りずに自分で家路に

つくことが出来た. 

・・・ 彼らは、カラバオ(水牛)の競争や、レスリング、

フェンシング、ボート・レース、そして石投げコンテストなどの

ゲームを楽しんだ.

 

=== ちょっと、ちょっと、・・・古代の生活、宴会の様子を

    こんなに見てきたように書いていいの~~??

    これは、やっぱり、歴史に名を借りた 道徳教育としか

    思えないですねえ・・・・笑

 

 

ところで、こんなデータをご覧になったことはありますか?

http://newsphere.jp/national/20131026-1/

「世界経済フォーラム(WEF)は「男女格差報告2013年」を発表した。

日本は対象国136ヶ国中105位であった。2昨年の101位より更に

ランクが下がり、日本は過去最低の順位となった。


 
WEFのリリースによると、男女格差の小さい国は、1位アイスランド、

2位フィンランド、3位ノルウェー。5位のフィリピンは、太平洋地域で

最も男女格差解消の取り組みが進んでいることが伝えられている。」

日本の皆さん、特に日本女性・・かわいそう!!!

 

 

ちなみに、100年前に日本人がフィリピンを訪問して、

こんなことを書き残しているんですねえ・・・

http://janl.exblog.jp/18939480

「p427
比律賓に来りて、最も旅行家の耳目をxx動するは、其の土人教育の盛大なる
にあり、爪哇、印度支那に於いては、吾人は容易に学校を見ず、学童に接せず、
馬来半島でも・・・・比律賓に来りて、吾人は学校と学生の多きに、今更の如く感じたり・・・

(爪哇=インドネシア・ジャワ島、印度支那=インドシナ、馬来半島=マレー半島)
 

p428
十五歳より二十五歳まで位の女子の学校に、往来する事なるを聞き、
一驚三嘆せざるを得さりき・・・・


比律賓を自治国たらしめんと欲せば、自治国民たるの資格を比律賓人に
与へざる可からず、・・・・」

=== シリーズ 20 へ続く ===

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 18  奴隷から貴族にもなれた

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

いきます・・

 

 

 

 OUR  EARLY ANCESTORS  第四章 我らの初期の祖先

 

 

p64

― 家族の生活

 

家族は古代フィリピンの社会の基礎であった

当時の家族の絆は、現代と同じで、緊密で強固であった

子供たちは、かなりの注意を払われ、愛情を受け、両親からの躾を

受けた.  彼らは、先祖の神々を崇拝し、年配者を尊敬し、両親を

愛し、首長や村の規律に従うように訓練された.

 

・・・・母親は、子供たちに名付ける特権を持っていた.

子供たちの名前を選ぶのは、通常は、ある特定の状況に基づくもので、

例えば、美しくなりそうな女の子であれば、Maganda(美しい)と

名付けた; 力がありそうな男の子であったら、Malakas(強い)

という具合であった.

 

 

=== これって歴史の教科書ですよねえ・・・

    古代のフィリピン諸島に住んでいた人たちの、こういう

    生活の状況だとか、感情に関わる様子とか、どんな史料に

    基づいて書けるもんなんですかねえ・・

    母親のこういう特権というのは、母系社会ってことに

    なるんでしょうか?

 

 

 

 

p65

― 社会と階級

 

スペイン時代以前の社会は、3つの階級に分かれていた:

(1)貴族、 (2)自由人、 そして(3)奴隷

貴族たちは、maharlikasと呼ばれ、バランガイ(村)の貴族社会を

構成しており、一番高い階級であった. この階級は、奴隷を所有す

る家族から成っており、王とその家族、親戚と富裕層を含んでいた.

この階級のメンバーは、自由人や奴隷には認められていなかった

政治的及び社会的特権を持っていた.

 

自由人は、 timawasと呼ばれ、バランガイの中で中間階級を

構成していた. 彼らは、自由人として生まれた者と、解放された

奴隷であった. この自由人たちは、概して、それぞれのバランガイの

住民の大多数であった.

 

奴隷は、alipinと呼ばれ、最下層に属していた.

スペイン時代以前のフィリピンにおける奴隷の理由は:

(1)生まれ、(2)戦争捕虜、(3)人身売買、(4)債務不履行、

(5)犯罪の罰、であった.

インドとは異なり、カースト制度はフィリピンにはなかった.

貴族であっても、古代のフィリピンでは、奴隷になることがあった.

そして、自由人は貴族になることもできたし、奴隷が自由人になる

こともあった.

 

=== この階級制度って、どこの国の制度に習ったもの

    なんでしょうか?

    社会階級が固定したものではないというのは初めて

    知りました・・・

    日本の士農工商や、インドのカースト制度などは、

    生まれながらのものですよね・・・

    貴族が奴隷になったり、奴隷が貴族になったりもあるという

    こんなに自由度のある制度って、なにか名称があるん

    でしょうか?

    正に、実力主義の世界ですよね・・・

 

    しかし、ちょっとびっくりしたことがあるんです・・・

    ALIPINという、奴隷という言葉です.

    なんと、この名前の人が、今のバギオ市の下院議員

    なんです. ついこの前、握手しました.

    もし、この人のご先祖が奴隷だったとするならば、

    今やこの制度の通り、大復活を成し遂げた凄い人だって

    ことになりますね・・・

    ご本人は、そういう名前をどう思っているんでしょう??

 

 

― 奴隷の解放

 

スペイン時代以前のフィリピンの奴隷は、自分自身を解放し、

自由人になることができた.

解放の様々な方法は以下の通りである:

(1) 結婚

(2) 人身売買

(3) 雇い主の意思

 

=== ってことは、「大玉の輿」ってのは不可能じゃなかったん

      でしょうねえ・・・・

      もっとも、玉の輿で奥方になったと思ったら、奴隷に転落

      ってのもあるわけですけど・・・・

 

― 奴隷の種類

 

古代のタガログ人の中では、二種類の奴隷が居た:

(1) aliping namamahay  及び (2)aliping  saguiguilid である.

前者は、自分が所有する家に住み、家財もあった. 主人の合意なく

結婚もできた. そして、売られることはなかった.

一方の後者は、資産は持てず、主人の家に住み、主人の合意なく

結婚は出来ず、いつでも売買された.

 

 

 

=== シリーズ19へ続く ===

 

 

 

 

 

 

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