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2014年3月27日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ- 13-16 6回目の授業 葬式はカジノか??

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・・

 

 

教授への質問に答えてもらった内容など・・・

 

シリーズ13の部分

 

p56

 

― Cheng Ho「鄭和」(ていわ)の航海について

  そもそもこの遠征の目的は何か. 中国のSupremacy(支配)とは

  どういうものだったのか?

 

目的は不明である. 支配という言葉は不適当であると思われる.

62隻の船と27,800人の乗員というのも誇大な数字であるように

思われる.  他国を侵略したという事実もなく、交易が目的にしては

多すぎる.  もしかして、集団移住??

 

=== こちらに鄭和記念博物館のサイトがありましたので

    ご参考まで・・・・これを見ても今一つはっきりしません.

http://melakajp.com/best/b21.html

 

http://sekaikenbunlog.com/malaysia-0119

 

 

こちらのサイトに、その目的・理由が書かれていますが、結局のところ

定説はないようですね・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%84%AD%E5%92%8C

 

 

 

ちなみに、日本と明の間はどうだったかと言えば:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%B2%BF%E6%98%93%E5%8F%B2

「この間に中国では元に替わって明が中国を統一し、対日政策として

倭寇対策や朝貢を室町幕府に求めるなどした。足利義満はこれに応じ

日本国王に封じられ勘合符を使用して独占的に貿易を行うようになる。

応仁の乱後は日明貿易の日本における主導権は大内氏や細川氏、堺や

博多の商人に移っていった。」

という時代なんですね・・・

 

 

― 鄭和はイスラム教徒であったと書いてあるが、

  その当時、中国にイスラム教徒が多かったのか?

 

当時の中国には、様々な宗教の者たちが混在していたと思われる.

 

 

=== 上のリンクサイトには、鄭和の「父および先祖は、チンギス・

ハーンの中央アジア遠征のときモンゴルに帰順し、元の世祖クビライ

のとき雲南の開発に尽力した、色目人の政治家サイイド・アジャッル

(賽典赤)につながる。」

とありますね・・・・

 

 

― 1405年にフィリピンに来たとあるが、マニラなどで

  何をしたのか?

 

不明である.

そもそもその当時に「フィリピン」という国はないし、

その当時の王国にも記録は残っていない.

 

 

― folkloreという英語は、folktaleとどう違うのか?

 

Folklore(民間伝承)は広義の言葉であり、folktale(民間説話)を含む.

「年寄が話す物語」というような意味合いである.

 

 

― Tribute Embassy(朝貢使節)という言葉は強制的な意味合いが

  あるのか?

 

言葉の上では強制的な意味合いがあるが、現実にはgoodwill(親善)と

いうほどのものであった.

名目上の支配と書いてある通りである.

 

 

― 明の支配を認め、フィリピン、ボルネオ、・・・その他の

  東南アジア諸国の支配者は・・・朝貢使節を送り・・・

  とあるが、フィリピン側には記録はあるのか?

 

フィリピンの当時の王国にはそのような記録はない.

その他の国々にも、そのような記録はないと聞いている.

 

 

― ルソン録、ca-mi-lig録、スールー録などという名称が出てきて

  いるが、このような文献の写しを見たことはあるか?

 

実際に見たことはない.

フィリピンは北京に朝貢使節を送ったとあるが、これも王国の

名前であるべきものだ.

 

 

― 教科書から離れて、日本人研究者の文献に

  「フィリピン史の教科書ではあるが、・・・・海洋史のような

   海を仲立ちとして周辺諸国や国内での各地域のつながりに

   ついては、やはり書かれていない・・・」

  という記述があるのだが、それをどう思うか?

http://www.nira.or.jp/pdf/0702report.pdf

このサイトの中の、第八節の2 

フィリピンで使われている教科書に見る「海」」の部分

 

 

古代のフィリピンにおいては、セブとミンダナオの王国の間でも

あまり交易などはなかった. かなり孤立的であった.

マニラには記録があるが、他の王国にはない.

 

 

 

― 最近(3月25日)のニュースで、マレーシアのサバ州から

 

  26,000人のフィリピン人が違法就労ということで追い出され

  たとあるが、これはそもそもどういう問題なのか?

http://www.philstar.com/headlines/2014/03/25/1304789/over-26000-illegal-pinoys-return-sabah

 

“It is a well-known fact that a lot of people in Tawi-Tawi and Sulu go to

Sabah to seek employment via the backdoor, without passing through

the right and legal channels of the POEA and its licensed recruitment

agencies,” Baldoz said.

 

この新聞記事は、先の授業の中で、教授が言っていた「裏口」

Backdoorからマレーシアへ流入したフィリピン人労働者の話の

ようです.

 

教授曰く:

元々、サバ州の土地は、ミンダナオの王族の土地であって、

賃貸料をマレーシアから払ってもらっていたが、

1945年からその王族が、土地を返せという訴訟を国連に

訴えていたが、なかなか拉致があかないので、2013年に

私兵を送り込んで実力行使にでた.

それに対する一種の報復だと思われる.

フィリピン大統領がなにもしないので、ミンダナオのイスラム

教徒の人たちは怒っているという背景もある.

 

 

 

 

シリーズ14の部分

 

p57 中国のフィリピン王

 

― フィリピン(ミンダナオ)から1417-1424年に

  第五回目の使節が中国に渡ったことになっているが、フィリピン側

  には資料はあるのか?

 

フィリピン側には資料は無い.

 

 

p58

 

― 中国の影響のところにある「ギャンブル」の内容は?

 

Juweteng(フエテン)というのは中国からではなく、スペイン時代の

ものである. 

このゲームは、番号を使うゲームで、1から37までの数字を小石に

書いて、袋に入れ、その袋からランダムに取り出す2個の石にある

数字がなんであるかを当てるもの.

 

Kuwaho は、カードゲームだが、麻雀みたいなものである.

葬式の時には、違法ではあるが許されている.

 

Pangginggiは、フエテンに似ているが、ビンゴみたいなゲーム.

 

 

フィリピンで合法的なギャンブルは以下の3つである:

― 闘鶏

― 鳩のレース(巣に戻る速さを競う)

― ビンゴ・ゲーム

いずれも許可が必要

 

 

田舎や貧しい地区などでは、本来違法であるギャンブルが

 

葬式の費用を捻出するためという名目で黙認されている.

この場合には、警察やバランガイ・キャプテン(地区長)

が胴元(tong)になって実施される.

売上の6割は胴元、4割が死者の家族にいく.

事実上のビジネスである.

 

 

― tahuriというのはどんな食品か?

 

黒い豆で塩がきついもので、調味料として塩のように使う.

しかし、詳しいことは分からない.

 

― バゴオンも中国からの影響なのか?

 

Bagoong Alamangはパンガシナン州の特産品である.

バゴオンは、4~5cmのdilisという小魚を塩漬けにし水も入れて

潰したもので、アラマンはさらに小さな魚(アミ?)を塩漬けに

したものである.

 

バゴオンの写真

https://www.google.co.jp/search?q=alamang+philippines&hl=ja&rlz=1T4PRFD_enPH560PH560&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=hvIyU7GiGdDboASYx4D4AQ&ved=0CCkQsAQ&biw=1366&bih=580#hl=ja&q=bagoong+philippines&tbm=isch

 

アラマンの写真

https://www.google.co.jp/search?q=alamang+philippines&hl=ja&rlz=1T4PRFD_enPH560PH560&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=hvIyU7GiGdDboASYx4D4AQ&ved=0CCkQsAQ&biw=1366&bih=580

 

この食品に関しては、教授はあまり詳しくはなさそうですね.

こちらのサイトにはこんな風に解説がありますから・・・

http://remit2homeblog.wordpress.com/2013/08/29/ginisang-bagoong-alamang-sauteed-shrimp-paste/

“Bagoong Alamang” refers to Filipino shrimp paste made from minute

shrimp or krill called “alamang”.

「バゴオン・アラマン」は小さなエビまたは「アラマン」と呼ばれる

オキアミから作られるフィリピンのエビ・ペーストである.

 

「アラマン」=「オキアミ」みたいですね.

じゃあ、バゴオンってのは何かっていうと・・・・

http://en.wikipedia.org/wiki/Bagoong

Bagoong (Tagalog pronunciation: [bɐɡuˈoŋ]) is a Philippine condiment made

of partially or completely fermented fish or shrimp and salt.[1] The fermen

tation process also results in fish sauce (known as patis).

つまり、「バゴオン」は、魚またはエビと塩から作られるもので、

 

発酵調味料だということですね.

 

 

 

シリーズ15の部分

 

― 日本との初期の関係

  倭寇についてはどのように思われているのか?

 

 

教授自身が子供のころに、学校で人の物を取ったりすると、

「あっ、ワコーだ、ワコーだ!」 などと呼ばれた・・・・

 

 

― リンガエン湾沿いのアゴオの町が「プエルト・デ・ジャポン」

  呼ばれたとあるが、何か遺跡みたいなものはあるのか?

 

アゴオの町ではなく、リンガエン市の辺りのことである.

遺跡などはないが、教授自身の曾祖母はスペイン系の血が混ざって

いて、教授が小さい頃にスペイン語を話していたが、その時代に

曾祖母が「プエルト・デ・ジャポン」と呼んでいたのは

リンガエン市のことであったのは間違いない.

 

 

― 教科書には、日本人が、いろいろ教えたと書いてあるが、

  この記録はあるのか?

 

そのような記録は見たことがない.

 

 

=== いろいろと先史時代の話を聞いてきたのですが、

    歴史家ではなく、著述家であるZAIDE氏が書いたこの

    教科書は、出典が明らかではなく、フィリピン側での

    記録などの根拠も怪しいというのが教授の考えで

    あるようです.

 

    中国側にはいろいろありそうですが、

    その英語訳の文献などはないのでしょうか?

    あるいは、東南アジア諸国の文献で、フィリピン関連の

    資料が英語に翻訳されてないのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

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2014年3月25日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 27  なんでそんな日付が大事なの?

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をしています・・

5 WESTERN DISCOVERY AND CONQUEST  第五章 西欧による発見と征服

 

 

=== どうも、この辺りが、フィリピンの「記録のある」歴史の

    始まりってことで、フィリピン人にとっては大事なところ

    みたいですね・・・・

 

p78

― フィリピンの再発見

  グアム島から、マゼランは西へと航海を続けた.

  1521年3月16日、土曜日の夜明けに、水平線の上に、サマール島

  のそびえ立つ高地を発見した. これがフィリピンの再発見であった.

  翌日、マゼランは、レイテ湾の入り口にあるホモンホンの無人の小島

  に上陸した.  3月18日、友好的な9人のフィリピン人が

  サルアンの近隣の島から舟でやってきて、バナナ、魚、ココナッツ、

  そして、パーム・ワインの積荷をマゼランに与えた. 

  彼らは、スペイン人が最初に会ったフィリピン人であった.

 

p79

― マゼランが到着した日付

 

  マゼランがフィリピンへやって来たことは、フィリピンの歴史家の

  論争の的となるほど重要な出来事である.  当時でさえも、

  マゼランは賛否両論のある人物であり、まず第一には、彼が

  フィリピン諸島へやってきた時、彼は単に一ポルトガル人に過ぎず

 (スペインの昔からのライバル)スペイン王に仕えていただけだから

  である.  よって、彼の航海は、陰謀や抗争、そして疑問符が

  付きまとうのである.

 

  マゼランの旅に関する論争のひとつは、フィリピン領域に彼が

  到着したその日付である. - すなわち、彼とその乗員たちが

  1521年のいつ、サマール島の高地を見たのかである.

 Pigafettaおよびその他のマゼラン探検隊の生き残りによって

  記録された日付によれば、彼らは、1521年3月16日の

  土曜日の夜明けに見たことになっている. 以前は、フィリピンの

  歴史教科書は、原記録に書かれていたので、この日付を重視して

  いた. 

 

  しかしながら、民族主義的歴史家の幾人かが、マゼランの到着日を

  一日前倒しにして遡るべきだと主張した. そして、それは、

  時間帯の違いであり、その探検が経験したであろう日付変更線

  をまたいだことによるとする.  例えば、フィリピンを見たのは

  1521年3月17日に変更すべきであり、3月16日ではない.

  確かに、国家歴史学会の認可により、国定教科書においては、

  1521年3月17日がマゼランの到達日であると教えている.

 

  ただし、これがいかに公式であろうとも、やはり、今さら

  スペイン時代の日付を変更するというのは現実的ではない.

  それは以下の理由による:

 

  1. 同時代の記録は古い制度の中で起算しており、日付変更線は

    19世紀になって制定されたものである.

 

  2. 今日付を変更するのは不合理である. なぜならば、その場合、

    3月16日に関連するすべての日付を1日前に進めなくては

    ならないからである. これは、歴史的、日付順のものが、

    例えば、3月17日が3月18日、3月18日が19日、

    などなど.  このようにして、マニラ市の創立が6月24日

    ではなく6月25日となる. それに、ついでに言えば、

    今日の日付も1日進められなくてはならない.

 

=== この最後のフレーズは ??? ですけどね・・・・

    まさかこの教科書自体が日付変更線が設定される前に

    作られたわけじゃないですよね・・・

 

  3. もし、遡って日付を変更することが採用されるとするならば、

    整合性を持つためには、グレゴリオ暦にも調整を入れなければ

    ならなくなる、 それは1582年10月4日の古い

 Julianジュリアン暦(Pigafettaの制度)から10日間進んでいる

    からである.  したがって、マゼランの最初の礼拝の日付は

    3月31日ではなく、1521年4月8日ということに

    なってしまう.

 

=== なんだか、ややこしくなってきました・・

    グレゴリオ暦はこちらです:        

http://kotobank.jp/word/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6

    現在,世界中のほとんどの国で用いられている太陽暦。

    ジュリアン暦(ユリウス暦)は:

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A6%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%9A%A6

    ユリウス暦(ユリウスれき)は、地球が太陽の周りを回る

    周期を基にして作られた暦法で、太陽暦の一種である。

    ユリウス・カエサルによって制定され、紀元前4511

    から実施された。

    その後、暦法としての不備が指摘され、グレゴリオ暦に改暦

    された。改暦ではユリウス暦1582104日(木曜日)の

    翌日を、グレゴリオ暦1015日(金曜日)と定めている。

    紀年法としての西暦はグレゴリオ暦にも継承した[1]。  

 

=== 確かにねえ・・・当時はユリウス暦で日付変更線もなかったから、

    今の制度にすべてを書き換えるとなると、えらいこってすね.

 

  4. DECSの教科書が1521年3月17日をマゼランが

    到着した日だとしたのは興味深いことである. しかし、

    他の日付を改変したわけではない.  よって、最初の礼拝日は

    未だに1521年3月31日のイースターの日曜日であり、

    4月1日月曜日とはなっていない.

    このように、日付の変更に関しては、整合性がないのである. 

 

=== なるほどねえ・・・こういうことを日本の歴史の授業で

    教えてもらったり、議論したり、教科書で読んだことは

    ないですね・・・少なくとも日本では・・・

    もしかして、私の記憶にないだけ???

    日本の教科書や学会みたいなところでは、これを

    どのように処理しているんでしょうか?

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9A%A6

    日本の旧暦は天保暦である。ただし後述するとおり、現在旧暦

    として使われている暦は改暦前の天保暦とわずかに異なる。

    天保暦は明治5122日(18721231日)まで使われ

    ていた。その翌日の123日をもって明治6年(1873年)

 11日に改められ、グレゴリオ暦(太陽暦)に改暦された。 

 

=== これを読むと、世界各国が それぞれの「旧暦」を

    使っていたわけだから、これを世界全部で、整合性を

    持たせて、今の制度に合わせようなんてのは、まずほとんど

    意味のないことになっちゃうんでしょうねえ・・・・ 

 

=== シリーズ28に続く ===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014年3月23日 (日)

只今撮影中: ある日系一世、二世の物語 フィリピン移民の苦闘

どういうタイトルの映画なのか、どんな内容になっているのか、

・・・・全然知りません・・・・

・・・朝、携帯に連絡が入り・・

「6pmに来て欲しい・・・」

たまたま、いろいろ仕事もあるんだけど・・・・

「6pmって、何日の6pmですか??」

「今夜です・・・」

「じぇじぇじぇ・・・・」

めったに来ない、翻訳の仕事が・・・それも今日中にっていう

至急の仕事が来ているんだけど・・・・

・・と言いつつ、その翻訳の原稿もまだ届かない・・・・

しょうがない・・・ぎりぎりまで待って、見切り発車で

映画の撮影現場へ・・・・

5:30pmに到着・・・

・・・ここはフィリピンでした・・・

撮影は、7時から・・・という話になり・・・・

いつの間にか・・・8時から・・・ってことになり・・・

実際に始まったのは、9時ごろ・・・でした・・・

Dacones_004

ここは、某所の台所・・・・

実際は夜なんですが、左の窓から朝陽が射しているようなライティング・・・

子供たちとお母さん役の3名が、衣装に着替え、化粧などをしている・・

お母さん役の化粧は・・・・

かなり念入りです・・・・怖い・・・

そりゃあ、やり過ぎじゃね~~の?

そんで、私は 何をやるの???

「お父さん役なので、これを着て下さい」

そこには急遽作ったような簡単な襟付きのシャツとセーターが・・・

セーターには、有名なメーカーのロゴが・・・

・・・これって、1930年代の話だよな・・・・

こんなメーカーのロゴが入っていていいのか??

「ところで、お父さんって、何歳の役??」

「子供たちが小学生ぐらいだから・・・30代ですね・・せいぜい40代」

「・・・あのう、わたしゃ60を超えてるんだけど・・・」

・・・・まあ、皺が目立つようなら、修正してくれっかな?

化粧もしてないし・・・・

Dacones_007

・・・子供たちは、朝ごはんの1カットの撮影中・・・・

「これが台本なので、この部分の台詞をお願いします」

「ああ、二言ですね・・・・これなら大丈夫かな」

私が出るのは1カット・・・台所でのシーン・・・

短いシーンなんですけどね・・・

10数秒です・・・・

しか~~し、 テイク4まで やっちゃいました・・・

3回やり直しね・・・

すんませんね、時間をとっちゃって・・

まあ、でもこれをやるのに、3時間も待っていたんだから

いいよね?

Dacones_009

この映画がどんな感じのものになるのかは知らないんですが・・・

聞くところによれば、この本、日系人移民の100周年を記念して出版された本の中に掲載されている ある一人の日本人とその息子さんの苦闘の人生を記録に残すためのようです・・・

私の役は、その「ある一人の日本人」、つまりお父さん役だったんですねえ・・・

いわば主役級なんですが、1カット 十数秒です・・・

Dacones_011

 

この写真の子供を抱えたお父さんの役なんですがね・・・・

顔なんかぜ~~んぜん似てないし・・・・

・・・・

そういえば、この前 あるイベントで日本人が集まるってんで、

そこに探しにきていたのが この役だったのか??

若い日本人男性が何人かいたんですがね・・・

わしゃあ・・・結局・・・やむなく採用・・ってことか・・笑

面白い経験をさせていただきました・・

どんな映画が出来上がってくるのか、楽しみです・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・などと言いながら、この待ち時間の間にずっと飲みたかった

ビールを飲みに近所の店に立ち寄り、インスタントラーメンに

毛の生えたようなものをすすり、これが晩御飯・・・

 

10時半ごろ家に辿り着き、パソコンを開いたら、

至急の翻訳の原稿が届いていまして・・・・

今日中に・・・の仕事を 1時ごろまで掛かってやっつけました・・・

めでたし、めでたし・・・・

 

 

 

 

 

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