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2014年4月26日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 31 スペインの植民地で良かった!?

 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

 

5 WESTERN DISCOVERY AND CONQUEST  第五章 西欧による発見と征服

 

 

 

 

 

マゼランの大航海を振り返ってみましょう・・・

こちらの動画をどうぞ・・・

 

ferdinand magellan expedition

http://www.youtube.com/watch?v=wYCpvYHewkY#aid=P-VS_9BJfnM

 

 

p84

 

― スペインへの帰還

 

スペイン人はセブ島で面目を失ってしまった. マクタンで破滅的な

敗北を喫してしまったからである.  Duarte Barbosa と Juan Serrano

の二人が新しい司令官となった. 5月1日に、二人とその他27人の

スペイン人はセブアノ人によって虐殺されてしまった.

 

もう安全ではないとして、生き残ったスペイン人は急いで出航し、

モルッカ島へと航海を続けた. ・・・・・

彼らはたった二隻、トリニダッドとビクトリアだけとなっていた.

香辛料を満載した後、生き残った彼らは、Elcanoが指揮するビクトリア

は喜望峰を回ってスペインへ、一方トリニダッドは、Gomez de 

Espinosaが率いて、太平洋をパナマへ向かうこととした.

 

トリニダッドよりも幸運であったビクトリアは、インド洋を横切り、 

喜望峰を回って、1522年9月6日にスペインのSun Lucar 

到着した. その時まで生き延びたのは18名であった.

世界一周の航海は、2年11か月16日を要し、ここに初めて、

人類によって地球を一周する船旅が達成されたのだった.

 

 

― マゼランの航海がもたらしたもの

 

マゼランの航海は、人類の海洋における大偉業であった.

その発見は、歴史の行方に影響を与えた. 

第一に、人類が初めて世界一周を成し遂げ、地球が丸いことを

証明した.   第二に、ヨーロッパ人が 一番大きな海が

新大陸とアジアの間に横たわっていることを知った.

第三に、そのことが、地理学的な知識を拡大し、ヨーロッパ人が

太平洋を探検し、支配したいと思うようになったことである.

そして、最後に、スペイン人によるフィリピンの植民地化と

キリスト教化への道を開いたことになった.

 

 

p85

 

― スペインとポルトガルの対立

 

16世紀において、ポルトガルとスペインは覇権を競う大国の中でも、

植民地競争の最も激しい国であった. 1493年、教皇アレキサンダー

6世(スペイン人)は、教皇の大勅書を発行し、そのひとつで世界を 

スペインとポルトガルに分割したのである.

その翌年、1494年には、二つの王国は、トリデシリャス条約と

して知られる条約を結び、教皇によって作られた境界線を設けたのである.

そして、1529年、マゼランの世界一周の後数年たってから、

二国は再びモルッカ諸島(香辛料諸島)の所有を巡って争った.

 

この対立を収めるため、二国はザラゴザ条約を1529年4月22日に

結んだ. スペイン王は、モルッカ諸島の権利をポルトガル王に売り

新しい境界線を設けたのだった.

 

・・・・ポルトガルが何故フィリピンを植民地としなかったのかは、 

我々の歴史のミステリーのひとつである. 

 

・・・しかし、幸運にも、ポルトガルはフィリピンを手に入れたり、

植民地にすることはなかった. もしフィリピンがポルトガルの手に

落ちていたら、オランダがその後フィリピンを手に入れていたであろう.

なぜなら、香料諸島は1607年にオランダのものになったからである.

オランダは、ポルトガルやスペインよりももっと非情な植民地の主人

であったからである. オランダは、彼らが現実的に人間以下と

考えていた現地の人間に福音を説くことに興味はなかったし、

植民地の人間と結婚したり、教育をすることもなかったのである.

 

オランダ、イギリスまたはフランスの植民化に比べて、

スペインはもっと植民地に対して温和であり進歩的であった.

 

==== いやはや、最後のフレーズには恐れ入りました.

     植民地にされたんだけど、スペインでよかったねえ~~

     と「教科書の中」で述べている、ってのが凄いですね.

     まあ、私が教えてもらっている教授の話では、

     この著者はスペイン系のフィリピン人だとの話でしたし、

     まだ、この本が書かれた時代はスペイン語が必須の時代

     だったんでしょうから、3世紀に渡ってスペインの領土と

     して支配されていれば こういう書き方にならざるを

     得ないんでしょうかねえ・・・

 

===  それに、領土をヨーロッパの特定の国が勝手に

     世界を二つに分けちゃうという条約をつくったってのも

     信じられない話じゃないですか?

     どこにどんな国の人々が住んでいようがお構いなしに

     地図の上で「ここは俺のもんだ」って決めてたんです

     もんねえ・・・

     それの延長で、アフリカ、アジア・・・中国まで

     さんざんに踏み荒らされてきたわけですね・・・

     日本は奇跡的にそういう力に対抗して、国を守ったわけ

     ですけど、調子に乗り過ぎて、欧米と同じ気持ちになって

     国力もないのに自信過剰になって、やっちゃった・・・

 

 

 

 

 

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2014年4月25日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 24-26 第9回目の授業 - 牛乳を1合ください?

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

週に1回の授業では、私の質問に教授が答える形をとっています.

今回は9回目でしたが、先週は珍しく風邪をひき、翻訳のまとまった仕事

が入ってきたために、初めて「欠席」してしまいました・・・

 

 

シリーズ24の部分

 

p72

 

― 古代のフィリピンに「230人乗りの戦闘用ボート」が本当に

 あったのか?

 

Karakaoという戦闘用の大型ボートがあったという話はスペイン時代の

前の話ではなく、後代の話である.

 

おそらく、メキシカン・ボートのことではないかと思われる.

スペイン時代に、スペイン人と一緒にメキシコの兵隊がフィリピンへ

来ているので、その船のことではないかと、教授は言う.

 

古代のフィリピンの舟には以下のようなものがある:

 

 

Kumpit 小さい一人乗り 帆は無い

    カヌーのようなものだが、カヌーよりも長い

Vinta  戦闘用のボート  カラフルな帆を使う

    大きな木の幹をくり抜いたもの 複数が乗れる

(banka) バンカには、バランスをたもつものが左右にある

 

 

 

― 刺青はフィリピン全土にあったのか?

 

全土にはなく、フィリピン南部のイスラム教徒や、ルソン島北部の

山岳民族の伝統である.

 

イスラム教徒(ムスリム)の刺青は足にするが、

バギオから北の山岳民族は 上半身にも刺青をする.

 

カリンガ州の Tinglayanでは、地位によって刺青の柄が異なる.

 

 

― 木彫りなどの彫刻は どこが有名か?

 

木彫りなどは、ルソン島の北部が有名.

 

― 土器、壺、甕は、フィリピン国内ではどこが多いのか?

 

イロコス州、ボホール州、サンボアンガ、ダバオ、カガヤンなどにある.

 

 

― 科学のところに、医学知識として薬草のことが書いてあるが、

  薬草を扱う人と毒矢を扱う専門家は同じだったのか?

 

医療用の薬草を扱う専門家は、HerbolarioとかAlbolarioと呼ばれている.

毒矢の毒の場合は、 Sap of Tree と言って、木の樹液をとるもので、

薬草の専門家とは別の専門家である.

 

 

 

― 数の単位が、bahala(億)などと書いてあるが、これは今でも

  使われている単位の名称なのか?

 

今は使われていない・・・

今は、スペイン語とタガログ語の二種類が使われている.

 

Bahalaなどの古代の単位は、インド系の影響と思われる.

 

 

 

― 度量衡の中で、1カバンは何リットルなのか?

 

これは教授も、1カバン=1サック=50キロという答でした.

本来は1袋の容量の単位のはずですが、実際にはお米50キロという

単位になっているようです.

 

容量に関する呼称は以下のものがある:

1 timba = 1 balde = 1 pail = .5ガロン

ただし、この単位は 水とTuba(ココナツのジュース)などに使われる.

 

 

1 chupa = 1 gatang これはカップの大きさぐらい

この単位は、米、とうもろこし、豆などを量るときに使う.

 

・・・つまり、量るものが何かによって、度量衡の単位があるようです.

日本の場合に、お酒やお米は、一合とか一升とか言いますが、

牛乳やジュースは 100ccとか、1リットルとか呼ぶようなもんで

しょうか?

KABANまたはCAVANについてこちらのサイトでは、元々は量の単位だったものが米の重さということになったことが書いてあります:

http://en.wikipedia.org/wiki/Cavan_(unit)

ここでは、スペイン時代に 1cavan=75リットルと定義したと書いてあります.

=== ところで、この米1袋の1サック=1カバンというのは

    日本語の「かばん」(鞄)と関係があるんだろうか?

    私はおそらく語源が同じなんだろうと思ったんですが・・・

    こんなサイトがありました:

    http://gogen-allguide.com/ka/kaban.html

    日本語の「かばん」の由来は、中国語なんでしょうか、

    オランダ語なんでしょうか??

    スペイン語という話はないですね・・・・

    そして、このフィリピンの「カバン」は???

 

 

 

p73

 

― イフガオ族が 「今でも、先祖の暦を使っている」と書いてあるが、

  これは本当なのか?

 

Tumunohと呼ばれる1年=13ヶ月の暦は確かにあるが、今は使って

いない・・・

 

教授は、この紐の結び目を作っていくカレンダーを、バギオ市の隣町の

ラ・トリニダッド町の博物館で見たことがあるのだそうです.

 

 

 

シリーズ25の部分

(この部分でp73あたりは 翻訳をとばしていました・・・・)

 

p73

 

― 古代のフィリピンの王国は、中国と日本のどちらと先に交易を

  行っていたのか?

 

フィリピンの歴史学者の中では、日本の倭寇の方が早かったという

説が多い.

===ちなみに、WIKIPEDIAで倭寇を調べると:

倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した海賊、私貿易、密貿易を行う貿易商人の事である。」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%80%AD%E5%AF%87

 

ただし、このサイトでは、フィリピンの辺りまで倭寇が活動していたかどうかについては、記載がありませんね・・・

後期倭寇は沿岸部の有力郷紳と結託し、後期にはポルトガルやイスパニア(スペイン)などのヨーロッパ人や、日本の博多商人とも密貿易を行っていた(大曲藤内『大曲記』)。」

・・・という部分にスペイン人というのが出てきますから、なにがしかの接触があったかもしれませんが・・・

 

― GOLD DUST とは何のことか?

  バギオ周辺の金山の金は どこで取引されているのか?

 

 

ゴールド・ダストというのは砂金のことである.

バギオ周辺の個人でやっている金採取の仕事は、山を掘ったり、

河で砂金を採ったりしている.

 

これらの金は、バギオのシティー・マーケットの中にある

ゴールド・トレーディング・ストア、あるいは Balituk Shopと呼ばれる

市場の中の小さな店で取り扱われている.

 

ごみと金を分けるために、ある機器を使って、COOK(調理)するらしい.

 

このストアで買い取られた金は、マニラの銀行などで取引されている.

バギオの銀行では取り扱っていない.

PSバンクやチャイナ・バンクがやっていると言われている.

 

 

― スペイン時代前のフィリピン関係の記録を

  ライターのChao Ju-Kua Wang Ta-Yuan が残していると教科書に

  あるが、その英語版の本などはあるのか?

 

ライターとあるが、この二人は商人である.

英語版はなく、香港などにしかその本はない.

 

― スペイン時代前にフィリピンの王国に金貨があったのか?

 

Piluncitos gold  小さなとうもろこし と呼ばれた金は、金貨と

呼べるようなものではなく、王様たちだけが使っていたものである.

 

 

―  フィリピンの稲作は いつごろ始まり、どの地方が穀倉地帯と

   して有名なのか?

 

 

フィリピン全体でいえば、17世紀ごろに米作が始まっている.

(ルソン島北部の棚田などは例外)

 

主な稲作の穀倉地帯は、ルソン島の中部である.

 

尚、フィリピンの南部地方では、現在でもコーン(とうもろこし)が

主食であり、コーンを米のように精製して、米のように炊いて食べている.

このコーンを炊いたものは、米よりも腹持ちがよく、朝食べると

夕方ぐらいまでお腹が空くことはない.

これは、コーンが消化しにくい為である.

 

コーンの生産地としては、ネグロス島やミンダナオ島が有名である.

 

 

 

p74

 

― 古代からの造船技術があると教科書に書いてあるが、これは

  どんな船を作っていたのか・・・

 

造船技術は、古代からフィリピンにはなかったと言うのが正しい.

現在でも、フィリピンには独自の造船技術はなく、韓国企業が

スービック湾のところで、アロヨ大統領時代に造船を始めたが、

アロヨと韓国企業の間で賄賂の話があったり、工場での人身事故

が頻繁に起きているとのニュースもある.

 

 

― Horn & Hide Industry というのはどんな産業か?

 

ホーンとは角のことで、ハイドとは隠れているという意味から内臓の

ことを指している. 動物を解体するということになり、肉屋の意味

である.

今は Meat Processing 肉処理と言っているが・・・

 

 

p75

― 地理学的な発見と探検のところで、

  「従来の東洋への交易ルートが閉ざされ」とあるのは どのような

  ルートのことを言っているのか?

 

 

これは「シルク・ロード」のことである.

ヨーロッパから、シルク・ロードを通ってインドや中国方面へ

行っていたのが、トルコやウクライナ周辺が イスマン・トルコに

よって抑えられてしまったために、そこを通過することが出来なく

なった.

よって、これに代わる、西回りの海路の探検が始まった.

 

 

シリーズ26の部分

p76

 

 

― 「1512年に Serranoがミンダナオに避難した」とあるが、

  これは重要なことなのか?

 

これは、ヨーロッパ人が初めて今のフィリピン諸島に着いたという

意味では重要で、「発見者」という意味では最初である.

インドネシアにその記録が残っている.

 

しかし、これは、事故のようなもので、たまたま辿り着いた

だけであるので、意図的に西回りルートを発見したという意味では

マゼランのグループの方が意味がある.

 

当時は、スペインが東、ポルトガルが西をもらうというような

大雑把な陣取り合戦があった.

Serranoはポルトガル人である.

 

 

p76

 

― 「モロ」という言葉は、「7世紀以降には北アフリカのイスラム化

  が進み、イベリア半島に定着したアラブ人やベルベル人は

  原住民からモロと呼ばれるようになる」とあるサイトに書いて

  あったが、今現在のフィリピンで使われている「モロ」には

  どのようなニュアンスがあるのか?

 

フィリピンでは、モロとはイスラムのことであり、普通は

ムスリムと呼ぶ.

モロという言葉には、バイオレントで髭もじゃで勇敢なというような

意味合いが含まれる.

 

 

=== 以上、9回目の授業の様子でした ====

 

 

 

 

 

 

 

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