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2014年6月 7日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 34 マニラにはイスラム王国があった

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

5 WESTERN DISCOVERY AND CONQUEST  第五章 西欧による発見と征服

 

p89

― 「パナイ島の征服」

セブ島で食糧が不足したため、レガスピは1569年にパナイ島へ

移動した.  パナイ川の川岸で、レガスピは、フィリピンにおける

第二のスペイン入植地を見出した.

この入植地は、現在のカピス州のパナイの町である.

当初はパナイのフィリピン人は敵対的であった.

しかし、Juan de Alba神父の使徒や他のアウグスティノ修道会の

宣教師のお蔭で、彼らは静められ、レガスピに対して友好的となった.

 

― 「その他の島々の征服」

セブ島とパナイ島を基地として、征服者と宣教師は、お互いに協力

しながら、その他の島々へとスペインのルールとキリスト教を

拡大することに成功した. ・・・・・・・・・

1570年1月に、レガスピは闘志満々の孫 Juan de Salcedo

(1567年にメキシコからセブ島に到着)をミンドロ島に送った.

パナイ島の村々を餌食にしていたモロ民族の海賊を罰するためであった.

30人のスペイン人と数百人のビサヤ人の連合軍で、Salcedo

イリン島とルバング島(ミンドロ島近郊の小島)のモロ民族の砦を

攻略し、マンブラオ(ミンドロ島)を占領した.

ミンドロ島の征服によって、スペイン人はマニラ湾の入り口へ

ほぼ辿り着いたことになる.

 

― 「初めてのマニラ征服(1570年)」

1570年5月8日、スペインのマニラへの遠征は、Martin de Goiti

司令官の指揮の下(Salcedo船長は副官)、パナイ島を出発した. 

戦意旺盛な120人のスペイン人と600人のビサヤ人の軍であった.

・・・・

当時、マニラはSulayman王の下でイスラム王国であった.

イスラムの文明化された開拓地であった.

Sulaymanはスペインに隷属することを拒み、スペインの侵略から

王国を防衛した.  1570年5月24日、Goitiとその部下は、

激しい戦闘の末にMayniladを占拠した. 

Sulaymanとその戦士たちは河を渡って退却し、炎に包まれた

王国を去った.

Goitiが奪った戦利品の中に、パンパンガ人の大砲製造者である

Panday PiraSulaymanの為に造ったものがあった.

 

=== ほほ~~~、1570年にパンパンガ州に大砲をつくる

    工場があったと言うことなんですかね?

    1570年と言えば、日本では、信長が比叡山延暦寺、

    石山本願寺などと戦っている頃なんですね・・・

    種子島への鉄砲伝来が1543年になっています・・

    日本では、この鉄砲の伝来から一年ぐらいで国産の

    鉄砲ができたとあります・・・

    1584年にイスパニア船がマニラから長崎県の平戸に

    来航して、南蛮貿易が始まったと、受験用の本に書いて

    あります.

    フィリピンのパンパンガ州の大砲はどこから来たん

    でしょうね・・

=== それはともあれ、現在まで続いているモロ・イスラムと

    キリスト教との紛争は、この時代から始まったと

    いうことになるんでしょうか?

 

p90

― 「二回目のマニラ征服(1571年)」

勝利の後、GoitiMayniladを去ってパナイ島に戻った.

彼はレガスピに対し、マニラ湾の海岸付近にMayniladと呼ばれる

イスラムの王国が存在することを報告した.

その王国は、中国、ボルネオ、シャム(タイ)及びその他の外国の

商人との交易で潤っていた.

Goitiの話に魅力を感じたレガスピは、Mayniladを植民地化することを

決めた. 翌年、レガスピは、27隻の船、280人のスペイン人、

及び600人のビサヤ人の連合軍からなるより強力な遠征を組織した.

彼はパナイ島を出航し、1571年5月中旬にマニラ湾に到着した.

二回目のマニラ征服は無血の出来事となった.  トンドの最後の王

Lakan DulaSulaymanの伯父は、強大なスペイン軍に抵抗するのは

無駄だと悟ったのだった. 彼はマニラ湾にボートを漕ぎ出し、

レガスピを歓迎した. 彼は、果敢な甥Sulayman王とMatanda

Sulaymanの伯父)を説得し、レガスピに平和的に従わせた.

このようにして、レガスピは戦うことなくマニラに上陸した.

1571年5月19日、レガスピはスペインの国王フィリップ二世の

君主の名において、マニラを占有した.

 === イスラム教とスペインの植民地化との歴史はこちらで・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%8A%E3%82%AA%E5%B3%B6

 1380年ミンダナオ島にもイスラム教が伝わり、後にフィリピン諸島

各地に広がった。特に1457年にスールー諸島に成立したイスラム教国

・スールー王国は最盛期にはミンダナオ島・パラワン島・ボルネオ島

北部(サバ州)を統治した。フィリピン諸島におけるほとんどの領土

をスペインに奪われたものの、ボルネオ北部をイギリスに獲得される

19世紀末まで存続していた。」

 

これを読むと、イスラム教とキリスト教の確執は

フィリピンでも根が深いですね・・・

 

 

=== その35に続く ====

 

 

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2014年6月 6日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 33 そうか、条約よりもそっちが大事か?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

5 WESTERN DISCOVERY AND CONQUEST  第五章 西欧による発見と征服

p87

― 「セブ島の征服」

ボホール島から、レガスピはセブ島へ向かい、1565年4月27日に到着した. Tupas王はスペイン人に反抗した. 砲火の援護の下、スペインの攻撃隊は海岸を襲い、セブアノ軍と猛烈に組み合った.

スペインの大砲とマスケット銃がその日勝利を収めた. Tupasは部下とともに丘へ撤退し、炎の中彼の王国を離れた.

 

p88

― 「最初のスペイン人の入植」

スペイン人の入植、そのフィリピンにおける最初は、セブ島において打ち建てられた. それは三角形のものであり、ふたつの側は海に面し、三つ目の側が陸地に面していた. そこは頑丈な塀で囲われ、要塞で守られていた.

井戸が掘られ、水の供給が確保された. 

アウグスティノ修道会の神父のための教会が建てられ、この教会の中に幼いイエスの歴史的な像が安置された. 兵士のための建物も建てられた.

愛情をこめて、レガスピはその入植地を「イエスの最も聖なる名の市」と命名し、カトリックの像に敬意を表した.

このようにして、1565年にレガスピが創設したセブ市は、フィリピンの中で最も古いスペイン人の市となった.

 

― 「最初のフィリピン-スペイン条約(1565年)」

征服者というよりも政治家として、レガスピは魅力的な方針でセブアノの王や人々を取り込もうとした.

レガスピは、セブアノの家を返し、建て替えるようにして、スペイン人と平和に暮らせるようにした. ・・・・

1565年6月4日、レガスピとTupasは、Tupas王とその他の貴族たちがスペインの統治と友好を認めることを条件に条約を締結した. 

=== おやおや・・・

    最初の条約ができたと言いながら、どんな内容の条約

    だったのか書いてなさそうなんですけど・・・・

    そこが歴史的に大事なところじゃないかと思うんですけどね・・

― 「十字架の最初の勝利」

レガスピがセブ島にスペインのルールの基礎を敷こうとしていたころ、アウグスティノ修道会の宣教師たちはキリスト教の種を撒くことに多忙であった.  ・・・・・

=== ここで三分の一のページを割いて、どんな人物がキリスト教に

    改宗したか・・などなどが書かれているんですけど、

    日本の歴史教科書だったら、一行で終わるところですかね?

    「高山右近はキリシタン大名の一人であった」

    ぐらいで終わりでしょうね・・・

    さすがにキリスト教が社会的にも政治的にも歴史的にも

    重要であるお国柄なのだと感じます・・・・

 

ちなみに、高山右近については、こちらでご覧ください:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91

 

「慶長19年(1614年)、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康による

キリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、加賀を退去した。

長崎から家族と共に追放された内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り、

マニラに12月に到着した。イエズス会報告や宣教師の報告で有名となって

いた右近はマニラでスペイン人のフィリピン総督フアン・デ・シルバら

から大歓迎を受けた。しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の

右近はすぐに病を得て、翌年の18日(161524日)に息を引き

取った。享年64。」

 

 

=== その34に続く ===

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 32 マゼランからレガスピまで

027

一か月間の一時帰国でお休みしていた歴史のお勉強・・・

バギオに戻りましたので、さっそく予習をしなくてはなりません・・・

一時帰国中の話もいろいろブログにアップしたいのですが、

それは暇ができてから・・・(できるかな・・・)

 HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

5 WESTERN DISCOVERY AND CONQUEST  第五章 西欧による発見と征服

p86

― 「マゼラン後の遠征」

マゼランの後、スペインによって出資された5回の航海があった.

それは、一見して、植民地とするべき新しい東洋の島々を発見し

所有するミッションとしては不可能と思えるものであった.

冒険のスリルと黄金や精神的な施しに誘惑されて、西欧の征服者たち

は、未知の東洋への旅のリスクを負ったのである.

以下は、スペインの遠征、そのリーダー、そして結果である:

(以下は要点のみ翻訳)

. Loaisa遠征 (1525年)

  フィリピンに到着できず失敗.

. Cabot遠征 (1526年)

  マゼラン海峡を発見できず、失敗.

. Saavedra遠征 (1527年)

  ミンダナオに到着したが、植民地化は失敗.

 

. Villalobos遠征 (1542年)

  ミンダナオに到着したが、植民地化は失敗.

 Vilalobosがフィリピンを、スペイン王チャールズ一世の名の下に

  「フィリピナス諸島」と命名した.

. Legazpi遠征 (1564年)

  船長: Miguel Lopez de Legazpi、兵士、法律家及び監督者

  派遣部隊: 4隻 380名

  結果: 植民地化に成功

=== これを読んでいると、なんだか地球から月に人間を

    送り込むための挑戦のような雰囲気がありますね.

    マゼランが1521年にフィリピンに到着してから、

    40年以上掛かって当初の目的を達成したという話に

    なりますね・・

    今の時代の感覚ではなかなか理解しがたい気の長い

    経済プロジェクトではあります.

    今の時代に、特に日本に、そのような長期のプロジェクトが

    あるんだろうか・・・それが気になる

p87

「レガスピの遠征(1564年)」

1556年に国王チャールズ一世(同時に、ドイツの皇帝チャールズ五世)

がスペインの国王を退位し、その息子が国王フィリップ二世(1556-

1598)としてスペイン国王となった. 

3年後、1559年9月24日に、フィリップ二世はメキシコの 

Viceroy Velascoに対し、フィリピンの征服と植民地化の為に遠征を 

準備するように命じた. 

この遠征の司令は、Miguel Lopez de Legazpiに与えられた.

このレガスピは、スペイン生まれの兵士であり、法律家、そして

メキシコ市政府の前書記官でもあった.

 === MiguelLopezは今のフィリピン人の有名な人名であり、

 Legazpiは地名でもあるわけですね・・・

    それだけ、スペイン人とフィリピン人との婚姻関係が

    進んだということでしょうか・・・

    翻って、日本人の名前やら地名にも、中国や朝鮮半島から

    入ってきたものがたくさんあるんでしょうね.

    日本人がそういうものをほとんど意識しないように、

    フィリピンの人たちも当たり前のことと受け止めているの

    でしょう・・・

    渡来人ゆかりの地名

 http://baba72885.exblog.jp/7717494

    人名にも朝鮮半島由来のものがある

 http://jfn.josuikai.net/josuikai/21f/55/kami/main.html

 

=== それでは、フィリップという他国の国王の名前をもらって

    フィリピン共和国という国の名前にしたというような

    外国由来の国名というのは世界にどれくらいあるもの

    なんでしょうかねえ・・

    日本の場合は、一応日本人が自分たちで決めたことのように

    思いこんでいますけど・・・ 

    国名の由来 日本/アメリカ/オランダ/エクアドル

 http://manapedia.jp/text/index?text_id=329 

    語源を元に国名を書いた地図が話題に

 http://i.imgur.com/S2P1G.jpg 

    上のリンクで、フィリピンが「馬を愛する地」なんて

    書いてありますけど、「フィリップ国王の島々」という

    意味合いの国名のもっと奥にある由来がそれなんですかね?? 

― 遠征の準備中に、メキシコ政府は資金が底をついてしまった.

レガスピは私財を投じて準備を完了した. 

4隻の船団と380名(ほとんどがメキシコ人)とともに、1564年 

11月21日にメキシコのNatividadを出航した.

レガスピは、Urdaneta神父(船長代行)、Felipe de Salcedo船長

(レガスピの孫)、Guido de Lavezaris、 Melchor de Legazpi

(船団会計係、レガスピの息子)そして五名のアウグスティノ修道会

の宣教師を伴っていた.

 

=== URDANETAという名前は、マニラからバギオに行く途中の

    町の名前になっていますね・・

 

― 太平洋を西へと進み、レガスピはグアム島で停泊し、水と食料

を手に入れた.  航海を続け、レガスピは1565年2月13日に 

セブ島の近くに錨を降ろした. セブアノの抵抗にあい、この島に

上陸できず、隣の島へと向かった.

サマール島で、レガスピはUrraoという友好的な族長に迎えられた.

レガスピはその族長と、2月22日に血の盟約を結んだ.

3月9日、レガスピはLimasawaに上陸し、そこの若い王である

Bankawはレガスピを温かく迎えた.

その後、レガスピはボホール島に上陸し、・・・・・・

・・・・

=== 1564年11月21日にメキシコを出航して

    1565年の2月13日にセブ島の近くに到着しているって

    ことは、2ヶ月と20日間くらい掛かって到着したんですね.

    マゼランの時は、1519年9月20日に出港し、

    フィリピンに到着したのが1521年3月16日に

    サマール島を発見とありますから、なんと1年半くらい

    掛かっていたわけですから、かなり航海術なども進歩して

    いたんでしょうね・・・

 

=== 次回 33へ続きます === 

 

 

 

 

 

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