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2014年11月 1日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 45 スペインに対する初期の反乱

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

 

7 SPANISH COLONIAL SYSTEM  第七章 スペインの植民地体制

 

 

p108

 

「ポロ」

 

年貢を支払うのとは別に、16歳から60歳まですべての

フィリピン人の男たちは、強制的な労働を義務付けられた..

そしてそれは「Polo」と呼ばれた.

この労働は40日間続いた; その後1884年には、15日間に

短縮された. それは様々な形で行われ、例えば道路や橋などの

建設や修理、公共の建物や教会の建築; 森林での木材の伐採;

造船所での労働、船員や軍の遠征における兵士としての役務で

あった. 

強制的労働を行った者は Polistaと呼ばれた. それは、

Fallaと呼ばれる一定の金銭を払えば免除されることができた.

フィリピン人は年貢同様このPoloを憎んだ. 彼らは強制的な労働

に就くことを強いられたが、スペインの白人、スペイン系フィリピン人、

そして中国人は免除されていた.  彼らの反抗を引き起こしたのは

ポロに関連して行われた虐待であった.

 

 

=== ああ、やっぱり、年貢だけじゃなかったんですね・・・

    この当時は、中国人はいても、未だ日本人はいなかった

    んでしょうか・・・居たとしても倭寇ぐらいかな?

 

    ((( じぇじぇじぇ・・・ここで いきなりの停電!!

        4:10pm

       せっかくのんびりと翻訳をする気になっているのに ))

 

 

ところで、今日は 2014年11月1日(土)・・

All Saints’ Day(万聖節)というフィリピンの祭日なんです・・・

日本で言えばお盆にあたる年中行事で、フィリピン全土で

民族の大移動があり、あちこちで大渋滞となるんですね・・

 

 

バギオには大小いれると10校くらいの大学があると思うんですが、

その学生たちも一斉に田舎へ帰って家族や友達と久々に会うわけです.

その為、木曜日ごろから既に大学生たちが田舎に帰り始め、

午後の授業などは学生が少なすぎて授業が急きょ休講になったりも

したとか聞きました・・・

 

・・・ってことは、この停電・・・電力会社の保守担当者たちも

田舎に帰っているかもしれないな・・・復旧に何時間掛かる事やら・・

 

 

そうだ、万聖節ってのは、キリスト教の行事であるわけですよね・・

この年中行事はいつ頃スペインが持ち込んで、フィリピン全土で

このような大きな行事になって伝統行事として定着したのはいつ頃

なんでしょうね・・

・・・教授に尋ねてみるしかないかな?

 

しかし、少なくともバギオについて言えば、

アメリカ時代になってから1900年代の初めに開発された都市

だから、それ以降ってことになりますけど・・・・

 

今、ふっと思い出したんですが、

バギオ市から山を下りて、ラ・ウニオン州のサン・フェルナンド市

に Polo Pointo って言う海辺の地名があるんですけど・・・

これって 上記の強制労働の Poloと関係があるのかな??

・・・これも教授に聞いてみよう・・・

 

 

・・・停電で薄暗く・・・昼寝・・・

 

・・・真っ暗になってきたので、そろそろロウソクに火をつけようかと

   立ち上がったら、パッと電気がついた・・・

   6:30pm ・・・案の定 時間が掛かったな・・・

 

 

p108

「ポロ」の続き

 

 

そのpolistas(強制労働を行ったフィリピン人)は、法律に従えば、

日当と配給米を働いた期間与えられることになっていた.

しかし、彼らはこれを決してもらうことはなかった. 

それどころではなく、彼らは森で木材を切り出しそれを造船所に

引いていき、そこでスペイン人のために船を造らされた.

この過酷な労働の為に、多くのポリスタスが死亡した.

しばしば、彼らは造船所で働くために強制的にひっぱっていかれ、

種まきや収穫の季節にスペイン人の遠征の漕ぎ手として働く

ことを強いられた.

 

 

p109

スペインに対するフィリピン人の初期の反乱は そのpolo

よって起こされたものもあった. これらの反乱のひとつが

サマール島で1649-1650年に起こったSumoroy Rebellion 

であった.

 

 

=== さて、この Sumoroy Rebellionとは何か、

    インターネットで調べてみました・・・

    テキストにはSumoroyと書いてありますが、

    インターネット検索で出てきたのは Sumuroy Rebellion

    であり、 Sumuroy Re v olt ともありました.

    (フィリピン人の発音は OUが反転する場合が

     あるので、それが原因か?)

    x http://en.wikipedia.org/wiki/Agustin_Sumuroy

    このwikipediaによれば・・・・

Agustin Sumuroy was a Waray leader of the Sumoroy Rebellion, a rebellion of

native Filipinos against colonial Spanish forces that occurred in eastern Visayas

 in 1649-1650.[1]

 

 

オーガスティン・スムロイは ワライ族のスムロイ反乱のリーダーで、

スペインの植民地軍に対するフィリピン人の反乱は1649-1650年

に東ビサイヤで起こった.

     x http://en.wikipilipinas.org/index.php/Sumuroy_Rebellion

     さらに このサイトによれば・・・・

 The Sumuroy Revolt, also known as Sumuroy Rebellion, was an uprising

 led by Juan Ponce Sumuroy, a Waray, against the Spaniards on June 1, 1649

 in the area known at present as the town of Palapag in Northern Samar.

The rebellion was caused by the local Spanish officials implementation of

polo y servicio system in Samar. 

 

スムロイ・リベリオンとして知られるスムロイ反乱は、スペイン人に

反抗して1649年6月1日に、ワライ人である ファン・ポンス・

スムロイに率いられて蜂起したものである. 北サマール島の

パラパグの町として現在知られている地域で起こった.

この反乱は、サマール島において polo役務制度の実施を

地元のスペイン人役人が行おうとして引き起こされた.

 

 

=== スペインがフィリピンを植民地としたのが

    レガスピ遠征の1564年とされていますから、

    それから85年ばかり後に「初期の反乱」があった

    ということになるのでしょうか?

 

 

=== シリーズ 46に続く ===

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピン・バギオ市周辺で何があったのか・・・第4回アジア太平洋国際平和慰霊祭・フォーラム報告書から

映画監督である今泉光司さんが、フィリピン・バギオ市周辺の大学、団体、個人と協力して実施されている「アジア太平洋国際平和慰霊祭・フォーラム」は、2014年12月に第5回を迎えますが、2013年の報告書の日本語訳をいただきましたので、その中で 特に印象に残った話を ご紹介したいと思います.

(文字が小さくて読みにくい場合は、写真の上でクリックして大きくしてください)

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この報告書は慰霊祭やフォーラムの録音から今泉監督らが書き起こされた証言集になっていまして、36ページにわたるものですが、その中でも、実際に戦争を体験された方、あるいは、親兄弟から直接伝えられた話をここでピックアップしています・・

めったに聞けない話ですし、日本人が戦後に出版した戦記物や戦争体験の話とは、その視点がまったく異なる貴重な資料であると思います・・・・

ー 抗日ゲリラ退役軍人のお話

ー 戦争を生き残った日本人・日系人のお話

ー バギオ在住 中国系フィリピン人のお話

皆さんがフィリピンをより深く理解するための一助になれば嬉しく思います.

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ー マニラとバギオをつなぐ山岳道路であるケノン・ロード(ベンゲット道路)

  110年ほど前にその建設に関わった日本人労働者の子供たちは

  どんな体験をしたのでしょうか・・・・

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バギオ市内で行われた公開処刑・・・在留邦人・日系人の苦悩・・・

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バギオ市に移住していた中国人、そして中国系フィリピン人

その戦争体験は体が震えるトラウマとなっていた・・・・

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上記の内容に関するお問い合わせは 下記の連絡先へお願い致します.

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2014年10月29日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 44 スペイン時代の年貢は高い?

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンで極一般的に使われている歴史教科書を 元大学教授で

歴史の教鞭をとっていたRolando氏に教えていただきながら、雑談をして

います・・

 

7 SPANISH COLONIAL SYSTEM  第七章 スペインの植民地体制

 

 

p107

 

エンコミエンダ制度

 

エンコミエンダは特定の征服された領土に於いて居住者の生活を

許可するものであった. これは、スペインがスペイン人植民者に

対して、彼の任務への報償として与えたものだった.

それは、居住者から集められた年貢だけを含んでいた.

それは、土地、天然資源そして居住者の使役は含んでいなかった.

Encomendero(エンコメンデロ、エンコミエンダの所有者)が

受け取ったものは居住者からの貢物であった.

 

エンコミエンダを受け取る替りに、エンコメンデロは法律によって

居住者の福利を増進しなければならなかった. 

彼の義務は (1)敵から居住者を守ること (2)居住者のキリスト

教化の為に宣教師を支援すること、そして(3)人々の教育を推進

すること、であった.

 

=== 以上だけを読むと、キリスト教化は別としても、

    自国民を守り、育てるという点では、素晴らしいことのように

    見えますね・・・

 

エンコミエンダには二つの種類があった - 王室のものと私的なものである.

王室エンコミエンダは国王によって独占的に所有されており、都市、

港湾及び天然資源に恵まれた地域の居住者から成っていた.

私的エンコミエンダは、個人や慈善団体、例えばサンタ・ポテンシアナ大学

やサン・ファン・デ・ディオス病院などによって所有されていた.

 

当初は、エンコミエンダは二世代に認められ、その後、スペイン国王に

返還された.  後に、フィリップ三世国王による1636年2月1日の

国王令によって、所有期間が三世代に延長された.

 

最初のフィリピンにおけるエンコミエンダは、フィリップ二世国王の

命令に基づき、アデランタド・レガスピによって、1571年1月1日に

セブの初期のスペイン人植民者たちに与えられた.  その後は、より多くの

エンコミエンダが他のスペイン人に認められた.

1591年までに、フィリピンには257のエンコミエンダ(王室31と

個人236)が、60万人超の総人口を抱えていた.

 

エンコミエンダ制度は、18世紀末には、メキシコ、チリ、そして

その他のラテン・アメリカのスペイン植民地で終わりを迎えた.

フィリピンでは、エンコミエンダ制度は少し長く続き、19世紀の

最初の10年間に最終的に終わった.

 

=== 前回の43で Wikipediaで読んだのは、以下のとおりでした:

「エンコミエンダは、スペイン王室がスペイン人入植者に、その功績に対する王室からの下賜として、一定地域の先住民を「委託する(エンコメンダール)」という制度であり、エンコミエンダの信託を受けた個人をエンコメンデーロ(encomendero)と呼んだ。征服者や入植者にその功績や身分に応じて一定数[1][2]のインディオを割り当て、一定期間その労働力を利用し、貢納物を受け取る権利を与えるとともに、彼らを保護しキリスト教徒に改宗させることを義務付けた。」

 

これを読むと、教科書に書いてあるものとは微妙な違いがあるように

見えます・・・

つまり、教科書では、「年貢(貢物)だけ」とあるところ、

「一定期間その労働力を利用し」とあるので、税金のように

年貢を取るだけではなくて、居住者の使役・サービスも強要して

いたんじゃないかという点です.

 

又、教科書には特に書いてないのですが、wikipediaでは、

「一定数のインディオを割り当て」と書いてある点です.

フィリピンでは、この「割り当て」はなかったんでしょうか・・・

 

 

p107

年貢(税)

スペインに対する臣従のシンボルとして、フィリピン人は年貢を払った.

ひとつの年貢は、夫、妻そして年少の子供からなるひとつの家族に

該当した.  未婚の男と女は、二分の一の年貢を支払った.

当初は、年貢は8リアル(1ペソ)で、金銭あるいは物品で支払われた.

後年、1851年には、12リアル(1.5ペソ)に引き上げられた.

年貢は1884年に最終的に廃止され、cedula tax証明書(登録)税

置き換えられた.

 

====   年貢って 「シンボル」 として取るもんなんですかねえ??

      いささか言葉の使い方に違和感がありますけど・・・

=== このCEDULA TAX が英和辞書には載っていなかった

    ので、検索してみました:

 

 

1: any of various official documents or certificates in Spain, Latin America,

 or the Philippines: such as 

a : a permit or order issued by the government 

b : a personal registration tax certificate in the Philippines 

c : any of certain securities issued by some of the South and Central

 American governments or banks

2: a Philippine personal registration tax

http://www.merriam-webster.com/dictionary/cedula

 

これを読むと、cedulaはスペイン語のようですね・・

スペイン、ラテン・アメリカ、フィリピンで発行される

様々な公式文書あるいは証明書、とあります.

特に、フィリピンでは、個人登録税というのがあります・・

今もそういうのがあるんでしょうか??

 

p108

フィリピン人はこの年貢を恨んでいた、なぜなら、

(1)スペインの奴隷であることを思い出させ

(2)スペイン人の悪用を生み出した

からである.

フィリピン人は、その金額には異議はなかった、それは高くは

なく支払う能力があったからである. しかし、彼らを怒らせた

のは、年貢取立人による乱用があったからである.

 

法律に従えば、年貢は金銭か現物(米、蜂蜜、とうもろこし、

その他の産物)で支払うことができた.

エンコメンデロたちは、米または蜂蜜で支払うことを強要し、

安い価格で評価し、その後非常に高い価格でフィリピン人に売った

のである.

例えば、レイテ島のダガミでは、エンコメンデロは改ざんした

計りを使って、フィリピン人を騙し、年貢の本来の価値よりも

高額の年貢を実際は支払わされた. 多くの場所で、エンコメンデロたち

は、年貢を徴収する時に、人々を残忍に扱い、拷問し、家具を強奪し、

鶏や豚そしてカラバオ(水牛)までも盗んだのである.

 

案の定、1859年に、イロコスとカガヤン渓谷の人々は

年貢に反対する反乱を起こした

 

=== 植民地ではなかった日本であっても、農民にとっての

    年貢は、支配者である大名などの能力によって

    耐えられないほどの搾取もあったのでしょうから、

    ましてや植民地であればやり放題だったんでしょうね・・

 

 

さて、スペインによる植民地時代の様相がいろいろと見えてきました.

私は、何年も前に、日本の国会図書館に通って

ホセ・リサールの有名な著書である「ノリ・メ・タンヘレ」

読んだことがあるんですが、その内容が、スペインのこのような

制度とどのように繋がるのか、興味津々です・・・・

 

=== シリーズ42から44の 教授との授業はこちらです:

   http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/11/42-44-3544.html

 

=== その45に続く ====

 

 

 

 

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