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2014年11月28日 (金)

バギオの物乞い・・・・お金か食べ物か・・・カフェの店先で

先日、久々に床屋にいかなくちゃと目抜き通りのセッション通り近くのカフェ
昼ごはんを食べていた・・・
バギオ大学やセントルイス大学病院へつながるアサンプション通りにある
ボヘミアンである.

このカフェは、韓国人の経営らしく、ちょっと洒落ていて、お店が道路に面して
開放してあるので、通りを歩く人たちを眺めながらのんびりできる・・・
そして、原則禁煙になっているセッション通り周辺地区にあって、数少ない喫煙が
許可された飲食店でもある・・・

私が注文したのは エビチリ・パスタであったが、「スパゲティーで頼む」と
言ったのに出てきたのは 「きし麺タイプ」のパスタだった・・・
まあ、こういうことはよくあることなので、たいした期待もしていないのだが・・

名称が気になったので 「パスタの種類」を検索してみたら、こんなサイトが
あって、正しくは 「タッリアレッテ」という種類のパスタであろう・・・
http://matome.naver.jp/odai/2139648914408533601

ただ、これを 「タッリアレッテじゃなくて・・」と言ったところで、店員には
分からないだろうから、出てくるものは同じだろう・・・

さて、そのエビチリ・タッリアレッテであるが、
さらの上に、麺がのり、その上にエビ・フライが載せてあり、
トマト・ソースがからめてあり、チリでぴりりとする・・・
味はまあまあなので、文句はない・・・

そして、添え物として、ガーリック・トーストの三角形のが2枚載せてある・・・

私はサンミゲールのビールを飲みながら、ぴりりとくるパスタを食べていた.

そこへ、三人の男の子たちが入って来た・・・
おそらく小学生高学年くらいの年令だろう・・・
その中のリーダーみたいに見える格好の子ともう一人は私が座っている
のとは反対側の客席に向かった・・・
そして、もう一人の痩せた子が私の席へやってきた・・・

以前にも 何回か この店で こういうことはあった・・・
しかし、お金を手渡すことには 納得できていない私は 今まで無視を
続けてきた・・・

フィリピンに出張で来るようになった20年ほど前から、
マニラの物乞いは シンジケートがあって、組織され、お金をもらった
物乞いたちは、ピンハネされている・・・ だから、可哀そうだと思うのなら
お金ではなく、食べ物をあげる方がいいよ・・・」
などという話を聞かされていた・・・

常々、もしそういう機会があったら、お菓子でもあげよう、と考えていたの
だが、なにせ、お菓子などはほとんど食べないし、ましてや持ち歩く
ことは皆無に近いので、食べ物をあげようと思っていても それは
今迄実現していなかったのだ・・・

痩せた男の子は、薄汚れた手を私の前に差し出した・・・
私の目の前には、ガーリック・トーストが 「私はここですよ」とばかりに
存在をアピールしていた・・・
私は ほとんど何も考えずに、その一切れを手づかみにして、
男の子の手のひらに載せた・・・

男の子は、もらうやいなや、すぐに一口だけかじり、にっこりとした・・
そして、それを他の二人に見せながら、食べている・・・・

私は、「お金ではなく食べ物を・・」という話を まともには信用してはいなかった・・
物乞いは食べ物じゃなくお金が欲しいのではないかという思いが
あったからだ・・

しかし、初めて食べ物を 物乞いの子にあげてみて、
その笑顔を見たときに・・・これでいいんじゃないか、と何だか腑に落ちたのだ・・

こんなことがあった 2~3日前のこと、

「フィリピンの歴史教科書」の個人授業を受けている教授と雑談をしていた時に
こんな話が出た・・・・

バギオの繁華街、特に歩道橋辺りやセッション通り周辺に物乞いがいるん
だけれど、バギオの条例では一応禁止されている・・

それに、眼が見えないから物乞いをやっていると見える人たちも
いるんだけど、本当は眼が見えないわけではない人たちもいる・・

マハリカ・ビルの屋根裏の食堂に行ってごらんなさい・・
お昼時には 物乞いの人たちが集まって 眼を見開いて食事したり
おしゃべりしたりしているんだから・・

噂では、毎日目抜き通りへ「出勤」してくるお婆ちゃんの物乞いなどは
実は家に帰ると結構立派な家に住んでいたりするのだと言う・・

そして、最近日本人の知人から聞いた話では、
あの歩道橋のあたりで物乞いをやっている人たちは、その知人が住んでいる
バギオ市からちょっと外れた地区にすんでいて、グループで繁華街へ
毎日出勤しているのだそうだ・・

少なくとも、大人の物乞いの場合は 立派なビジネスになっているようである.
そして、その営業場所もほぼ定位置となっているらしい・・・

小学生ぐらいの物乞いはどうなのだろう・・・
レストランなどを歩き回っている子供たちは・・・

最近はあまり聞かなくなったが、乞食という言葉がある・・
元々の乞食の意味は仏教から来たのだと言う・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9E%E9%A3%9F
「乞食(こつじき、こじき)とは、
1.本来は仏教用語で「こつじき」と読む。比丘(僧侶)が自己の色身(物質的な身体)
を維持するために人に乞うこと。行乞(ぎょうこつ)。また托鉢。」

・・・たしかに 「食を乞う」のであるから「乞食」である・・
しかし、上のサイトの説明にもあるが、今は差別用語ということになっているらしい.

お釈迦さんも乞食をやっていた・・・
修行をする為には 托鉢乞食をやらなくてはならないのである・・・

ブッダの言葉」には下のように書いてある:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-bd63.html

387 諸々の色かたち・音声・味・香り・触れられるものは、ひとびとを
    すっかり酔わせるものである。 これらのものに対する欲望を
    慎んで、定められたときに、朝食を得るために(村に)入れよ

・・托鉢で朝食を得るわけですね。
しかし、むやみに村に行っちゃいけないよと言っています。
それに、外界のいろんな刺激に酔ってはいけない。厳しいねえ。

388 そうして修行僧は、定められたときに施しの食物を得たならば、
    ひとりで退いて、ひそかに座れよ。自己を制して、内に顧みて
    思い、こころを外に放ってはならぬ。

=== 子供たちの物乞いが物乞いに終わらないことを祈りたい・・・

 

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2014年11月27日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 52 産業王はBascoさんしかいなかった?

 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

8 OUR ECONOMY UNDER SPAIN  第八章 スペインの下のフィリピン経済

 

 

p115

 

「フィリピン経済同友会(?)」

 

総合的な計画を実施するために、バスコ総督はフィリピン経済同友会を

設立した. この同友会はマニラで1781年4月26日に設立し、

マニラ最高裁判所のメンバーであったCiriaco Carvajalを第一代会長とした.

 

経済同友会は、フィリピンの農業の前進に大きく寄与した.

1784年、染料の青藍を初めてヨーロッパへ輸出した.

1824年、中国から小鳥のマルティネスを輸入し、フィリピンの農作物

を荒らすイナゴの駆除に使った. 1825年に 8人のフィリピン人に

マニラで染色工芸を学ぶ無料の育英資金を助成した. 

1829年、籾すり機をスペインのカディズから輸入した.

1837年、フランス人の医師で農園主であった Paul de la Gironiere博士

を、ジャラジャラの農園で良質のコーヒーを栽培したことに対し

1,000ペソをもって表彰した.  1853年には、フィリピンの発明家

Candido Lopez Diazuに 麻繊維の洗浄機械の発明について、 2,000

ペソの賞金と金メダルを授与した.

1861年、マニラに最初の農業学校を創設した.

そして、お茶、綿花、ポピー(アヘンの抽出)及び桑の木の栽培を

導入した. 

 

そしてついには、アメリカ合衆国から農業用具一式、綿花?、種子、

そして紡績機械を輸入した.

 

フィリピン経済同友会は、バスコの時代の後には衰退し、

1809年には消滅した. 1811年に再建されたが、その後

活性化することはなかった.

 

=== なるほど、Bascoさんは なかなか頑張ったんですね.

    染料やら紡績機械ということは、紡績業が興したという

    ことでしょうか・・・cottonをアメリカから輸入したと

    あるんですが、これは綿花なのか綿織物なのか?

    綿花を輸入して紡績業で加工したんでしょうか?

    コーヒー栽培はこの頃からフィリピンにあったんですね・・

    桑の栽培ってことは 絹織物もやったんですかね?

    アヘンの抽出ってのは、何に使ったんでしょう・・・

 

 

 

「たばこ専売」

 

たばこの政府による専売は1782年3月1日に始まったが、

これは1780年2月9日のチャールズ三世の王令に従った

ものであった. フィリピンの特定の地域 - カガヤン渓谷、

ヌエバ・エシハ、 マリンドゥケ、そしてイロコス州 -

は葉タバコ栽培を要求され、その農民は厳しい毎年の割り当てが

あった. これらの地域の全ての葉タバコは政府に売却され、

政府は葉巻と煙草の製造を受け持ち、一般に販売した.

 

タバコ専売は1782年から1882年まで継続した.

タバコ専売の良かったところは: (1)政府に大きな年収を

もたらした、そして(2)タバコの生産を推進し、東洋において

フィリピンを最大のタバコ成長国とした.

しかし、一方で、悪い結果ももたらした.

政府役人は多くの職権乱用をはたらき、葉タバコ生産地での

様々な反乱を引き起こすこととなった.

さらに、密輸と賄賂を助長し、もちろん喫煙を勢いづかせた.

 

=== そうでしたか・・タバコの生産はこの頃に始まった.

    だから、今でもフィリピン国内ではタバコが安い

    のかな?

    もっとも、10年前は20ペソぐらいだったのが

    今は一箱60ペソぐらいになっていますけど・・・

 

 

p116

 

「その他の政府専売」

 

タバコ専売とは別に、ワイン、火薬、闘鶏そしてカードゲーム

などを政府の専売とした. 政府はこれらから大きな収入を

得たが、民衆に多くの苦悩を与えることにもなった.

役人による職権乱用がその理由であった.

 

いくつかの地域では、独占への反対が 暴力的な反乱に

火をつけることになった. その例は、北イロコスでの

「バシ暴動」(1807年)であり、人気のあるイロカノのワイン

である「バシ」が政府によって禁止されたことによって引き起こされた.

禁止に怒り、イロカノの人々が武器を持って立ち上がった.

暴動は政府軍によって鎮圧された.

 

=== 酒と火薬と賭博ねえ・・・確かに専売の常識アイテム

    でしょうかね・・・闘鶏は大きな施設があるし、

    カードゲームは葬式などの時の葬式費用集めの

    ような側面もあるそうですけど・・

    葬式の時は、カード賭博にバランガイ(町会)や警察も

    関わっていると聞いたことがあります・・・

 

    タプイとかバシとかいう米や砂糖黍のワインは、

    今も専売なんですかね? 教授に聞かなくちゃ・・・

 

    しかし、闘鶏やカード賭博は どこから来たんでしょう?

 

 

 

=== シリーズ53へ続く ===

 

 

 

 

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2014年11月24日 (月)

国会での「ねんごろ」事件が バギオにまで飛び火か・・・・事件続出!

先日、こんな出来事がありまして:

国会で民主議員が「ねんごろ」ヤジ 「九州ではよく使う」って本当なの」
http://www.j-cast.com/2014/10/09218090.html?p=all

「山谷えり子国家公安委員長に対し、「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の関係者と
「ねんごろ」だとするヤジを飛ばした民主党の野田国義参議院議員(福岡選挙区選出)が
九州地方民の怒りを買っている。」

私も長崎出身ですが、「ねんごろ」は やっぱり男女の性的関係という認識ですねえ・・

さらに、先日・・・・

「日本語教師も 唖然、そして 大笑い・・・教室は騒然!! ラブ・レター事件」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/11/post-a644.html

「昨日のことなんですが、短い文を作らせて一人一人に発表させて
いた時のこと、女生徒がこんな文を読み上げたんです・・・
「ニックさんは彼女に ヨバイブミを送りました・・・」
ヨバイブミ?  なんじゃそりゃ?」

・・・・ってことを書いたばかりでした・・・

そんな最中、我が日本語教室では、生徒たちが日本に留学するための準備として
「入学願書」を書くことになりまして・・・それも日本語で・・・

日本からもらった入学願書(和文)をコピーし、それを私が英文に翻訳し、
英文の願書を書かせ、それを 本人が自分で翻訳し、自筆で書いた日本語の願書
の二つを作ることに・・・

入学願書の中には 自分の性格や趣味特技、将来の希望などを書く欄が
あるんですが、ある女生徒が 自分の性格のところに 「ねんごろ」と書いているじゃ
ないですか・・・

英文の願書をみると、相当する言葉は respectful なんですね・・・

そこで、respectfulをインターネット英和でひいてみると:

http://ejje.weblio.jp/content/respectful

1 (他人に対して)敬意を表する,ていねいな,いんぎんな.

2 〔…に〕敬意を表して 〔to,toward〕.

礼儀正しい, 丁寧な, 敬意を持つべき, 敬意を表する

1 尊敬で満ちている、または、尊敬を示す

2 尊敬を感じるか、または表す

鄭重;丁寧  謹告;恭しい

〈うやうやしい〉・丁寧な, 丁重な

・・・・ まあ、以上のような日本語が出てくるわけです・・・

まあ、こういう単語であれば 納得の範囲なんですが・・・・

自分の性格について書く欄ですから、まあ、この中から
選ぶとするならば、 「丁寧」とか「礼儀正しい」ぐらいでしょうか・・・

又 「(他人に対して)敬意を表する」というのがありますから、
それから転じて、 「優しい」とか「親切」などもいいかもしれません・・

「優しい」」を 和英辞書で引いてみると:

やさしい  優しい
•〈柔和な〉 gentle(‐mannered)
•〈愛情のある〉 tender; affectionate
•〈親切な〉 kind; kindly; kind‐hearted

優しく
•kindly  •tenderly •gently

気立ての優しい
•sweet‐tempered
•tender‐hearted

優しくする
•be kind [good, nice] 《to》

自然[環境]に優しい
•nature [environment]‐friendly

ユーザーに優しくない
•user‐unfriendly
•user‐hostile.

ところが・・・・この女生徒が持っている電子辞書を見せてもらったところ、

001

「恭しい(うやうやしい)」
「懇ろ(ねんごろ)」
「奉賀」
「奉読」
「恭賀」
「貴札」
・・・などが最初に出てくるじゃないですか・・・

自分の性格をあらわす語彙としてはねえ・・・・

これしか辞書を持っていないとすれば、この二つの中から選ぶしかないわけで・・

「ねんごろ」に調べましたが、やっぱり「ねんごろ」は外国人が使うにはまずいっしょ・・

と言うことになるわけですね.

もう、この電子辞書は使わない方がいいよ・・・危ないから・・」

Tala_009a

女生徒には こういうアドバイスをするしかありませんねえ・・・

「夜這」に続いて「ねんごろ」じゃあねえ~~、流石に見過ごせません・・・・

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ ― 第18回目の授業 -オフレコ編

 

 

 

歴史のお勉強をした後に、ビールを飲みながら、教授と雑談・・

 

 

Roland教授は、元は政治学の大学教授で、その後は韓国人経営の

インターナショナル・スクールや英語学校経営に関わって来ている

方なので、この際 バギオでの韓国人事情を聞いてみました・・・

 

― 3~4年前に バギオで開催された アジア太平洋平和慰霊祭と

  言うイベントに参加したおり、フィリピンの元抗日ゲリラ、

  日系人、中国系フィリピン人、台湾の大学の教授、韓国人、

  日本人の人たちなどが 第二次大戦の時にどのような体験が

  あったのかについて、本人の体験や親などから聞いた体験を

  スピーチとして1人ずつ話したのですが、

  韓国人の大学生がやったスピーチというのが、韓国政府の

  プロパガンダみたいな内容だったので 参加していた日本人の

  多くが「なんだあのスピーチは!」と怒ってしまったという

  ハプニングがあったんです・・

 

  そこで、質問は、英語学校などで 韓国人の学生とも

  接触が多い教授として、韓国人留学生のそのような政治的

  発言について どのような傾向があるのかを教えてほしい・・

 

韓国人の学生は韓国の政府に洗脳されているので、

ほとんどの学生が同じような反応である・・・

 

日本人の学生の場合は 人によっていろいろな反応があるが、

韓国人留学生は かなり画一的である・・

 

英語学校の経営者としては、ひとつのグループレッスンの構成を

韓国人2名、中国人2名、日本人2名などとバランスを調整した

ことがある・・・

 

 

― 英語の能力について、私の印象としては 韓国人の方が

  日本人よりもレベルが高いように思えるのだが、

  教えてきた実体験からは どのように見えるか・・

 

韓国人の英語力は試験には強いがコミュニケーションとしては

日本人の方が出来ている・・

 

韓国は経済的にはかなり高いレベルになっているが、社会的文化的

 

意味合いでは日本にははるかに及ばない・

そのアンバランスな状態が、彼らの意固地な態度にも表れて

いるし、コミュニケーション能力という面でも問題がある.

 

日本は随分前から世界に出ていろいろな経験を積んでいるが、

韓国が世界に出始めたのはつい最近のことである.

 

例えば、日本対韓国のサッカーのような試合があった折に、

日本人学生はそれぞれに好きなことをやっているが、韓国人留学生

は全員がそのテレビを一緒に観て、日本に負けた試合に憤慨し、

「それでも韓国の方が強いんだ」とやっていた・・・

それは、社会的文化的に余裕がない者の態度である・・

 

― バギオ市には1万5千人から2万人の韓国人がいると

  思うが、韓国人コミュニティーは バギオ市民からは

  どのように見られているのか・・

 

バギオ市に限らず、フィリピン全体で 韓国人の評判

よろしくない・・・

特に、タクシー運転手やアパートなどの大家には評判が悪い.

又、いろいろな場面で、なんでも賄賂で片付けようとする

傾向がある.

 

英語学校などで働くフィリピン人英語講師の給料も

1時間50ペソなどという薄給であるが、経理帳簿などの

公式の書類などにはその2倍払ったように偽装している

場合もある・・

私が経営していた英語学校がバギオ市の中では

一番給料が高かった・・・

 

さらに、学校長などの立場の韓国人が学校の生徒などに

体罰を加えるということがあったので、

「フィリピンでは そのようなやり方は許されない」と

経営陣の一人として止めさせたことがある.

体罰を加えないで、生徒を指導するのがフィリピン式である.

 

 

― 韓国人コミュニティーの宗教との関連ではどうか?

 

バギオ市には カトリック系とボーン・アゲイン系の二つが

あるが、この二つは韓国人会の中でも政治的に争っている.

 

ちなみに、統一教会(Unification  Movement)は、以前フィリピンで

社会的に問題を起こしたので、今は禁止されている.

 

フィリピンでの当時の社会問題は、写真だけで合同結婚の

相手を決める際に、本人ではなくその家族に1ヶ月あたり

15万ペソを与えるということをやっていたため、

多くの貧しいフィリピン人が殺到し結婚したが、

その後結婚して韓国に渡ってしまうと その15万ペソが

打ち切られ、さらに、韓国での生活の中で虐待されるなど

の問題が多発した・・

 

 

=== 私が二十数年前に大分県で単身赴任した折には、

    大分県国際交流センターなどに出入りして

    ボランティア活動にも参加していたんですが、

    その時に 韓国人留学生とも彼らの部屋で一対一で

    の話をした経験もあって、韓国人に対して悪い印象は

    なかったので 最近の嫌韓の風潮は理解できない

    んですが、バギオでのフィリピン人側の受け止め

    は予想以上に悪いように思えます・・

 

    おそらく、昔「ジャパン・アズ・ナンバーワン」などと

    言われていた時代には、日本人も驕り高ぶって

    世界のあちこちで 今の韓国人みたいに 眉をひそめられる

    ことも多かったのではないかと思うんです・・

    多分 どんな国にも そのような時代の流れが

    巡ってくるのでしょう・・・

 

    バギオで会った、ちょっと年配の世代の韓国人の

    人たちには、今の若い韓国人から受ける印象とは

    全く異なる印象がありましたので、世代によって

    時の政府の教育による影響が大きいのではないかと

    思います・・・

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 49 第18回目の授業 - 日本の植民地だったら・・

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

 

毎週一回2時間、教科書を元に教授とのQ&Aと雑談をしています・・・

 

 

シリーズ49について

 

p112

 

― スペインがフィリピンにおいて、経済的開発の推進を無視していた

  とあるが、植民地経営でそんなことがあるのか?

 

スペインはメキシコ総督を通じてフィリピンを経営していたが、

そのメキシコが政策をつくり、実施した.

しかし、マニラあるいはセブと メキシコのアカプルコとの間での

ガレオン貿易に精力を費やしていたため フィリピン内部での

経営にまでは手が伸びていなかった・・・

 

 

― FRIARを修道士、PRIESTを聖職者と 翻訳してみたのだが、

  この二つの言葉に違いはあるのか?

 

まったく同じ意味の言葉である.

FRIARはラテン語からきたスペイン語で、PRIESTは英語である.

 

 

― Ironically, this was a blessing in disguise to the Filipinos. を

  「皮肉にも、これはフィリピン人に対しては有難い偽装であった」

  と訳してみたのだが、 disguiseの意味がピンとこない・・・

 

これは例えば、

相手は私が金に困っているとは知らずに、たまたま以前貸していた

お金を ひょっこり返してくれた、・・・というように

こちらの事情を意図せずに隠していたところ、たまたま恩恵があったと

いうぐらいの意味である・・

・・・よって、ここでは、「意図せずにフィリピンの宝である

 

天然資源などを隠していたことがその後の恩恵になった」という

意味になる.

 

― スペインの植民地経営と比べ、イングランド、オランダ、アメリカ

  の植民地経営は企業的に成功したと書いてあるが、

  これは具体的にはどのような違いがあったのか・・・

 

スペインは、マニラとアカプルコの間のガレオン貿易にのみ

力を注いでいたが、例えばオランダは、インドネシアに

ダッチ・インド・カンパニーという会社などを置き、インドネシア、

マレーシア、インド、シルクロードそしてヨーロッパという

ルートの周辺で、それぞれ利益を生み出し、その利益だけを

 

オランダに持って帰っていた・・

 

― スペインはフィリピンの資源などを十分に収奪することは

  なかったとあるが、その後にフィリピンにやってきた

  イギリス、アメリカ、日本はどうだったのか?

 

イギリスは1762年から64年の二年間やってきただけだし、

日本は1941年12月から1945年9月まで日本を占領したが

それは軍事的なものであって植民地経営と呼べるほどのものでは

なかった. 

よって、アメリカだけが、実質的にはフィリピンから資源などを

収奪してきたということになる・・・

アメリカの場合は、アポ山やルソン島北部での鉱山などが

主たるものになった・・・

 

 

― フィリピンに対するメキシコからの毎年の補助金

  年平均として25万ペソだとあるが、これは今の価値に

  換算するとどのくらいの金額になるのか?

 

当時は1ペソ=1ドルであり、 今の価値に換算するには40倍に

すればよい・・・

250,000ドル x 40 = 10,000,000ドル

よって、1千万ドル=1、150、000,000円(11億円ぐらい)??

 

 

― 20年ほど前に 出張でバギオに来ていた頃、フィリピン人の

  仕事仲間から、「フィリピンが日本の植民地になっていたら

  今頃はハイテクの国になっていただろう」などと言われたことが

  あるのだが、そういう話はフィリピン人の本音としてあるん

  だろうか?

 

それは、あながち冗談ではなく、お世辞でもない・・

フィリピンが日本に期待していたことは、戦前にもあった.

 

 

― アフリカで日本語を教えていた頃、ベナンの人から

  「宗主国がフランスかイギリスだったかで、その後の経済的

   発展に差が出来た. イギリスの植民地は伸びたが、フランスの

   植民地は低迷した」と聞いたが、

  フィリピンの場合、そのような点で宗主国スペインと比較して

  他の宗主国の方がよかったというような思いはあるのか?

 

南アフリカ、モロッコなどのイギリスの植民地はその後発展したが、

ドイツやフランスの植民地はダメだった・・・

スペインもヨーロッパの中でも保守的な国であったので、

やはり経済的な開発を植民地の人々が学ぶような形にはならなかった.

スペインはキリスト教の宣教には熱心だったが、

オランダなどは植民地で儲けることに熱心だった・・・

 

 

=== シリーズ50はこちら ===

 

 

 

 

 

 

 

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2014年11月23日 (日)

「アグパワ」だけが本物の心霊術師だった・・・ムンバキ祈祷師、霊媒師とは違う : バギオの心霊治療

私が「フィリピンの歴史」を教えてもらっている元大学教授との雑談・・・・

1970年代、教授が13~14歳だったころ、今のSMバギオにあったパインズホテルに
アグパワを見に行った・・・父親に連れられてマスコミの取材を見に行ったのだった・・

アグパワはパンガシナン出身で、本物の心霊術師であり、第三の眼を持ち、
ヨーロッパや日本などから多くの施術を望む患者が集まっていたという..

アグパワがその診療所としたのが、ディプロマット・ホテルだった.
最盛期には、そのホテルからローデス・グロット(マリア像がある参拝所)のあたりまで
患者の車が数珠つなぎになっていた・・・
(結構距離があるんですが、何百メートルあるか分かりません)

アグパワの前にアグパワなく、アグパワの後にもアグパワはいないそうだ・・・
つまり、アグパワのアシスタントであった ジュン・ラボを初めとする心霊術師は
フェイス・ヒーラーではなく、フェイク・ヒーラー(偽ヒーラー)でありマジシャンであると言う.

アグパワの弟子たちは スピリティスタというグループを作っているそうだ.

弟子たちは、アグパワから大金をもらったそうで、その中の一人は
スピリティスタの教会を作ったそうだ・・

ちなみに、教授はこのスピリティスタの一人である教会の息子と友達で、
そのクラスメートに 「お父さんは 何しているの?」と聞くと、「マジックをやってるよ」との
返事が返ってきたのだと言う.

そして、その父親が亡くなった今、その友人は父の仕事を引き継いで
「マジック」を家業としているそうな・・・

ところで、私は数年前に通訳の仕事をしていて、日本人から心霊術師を紹介して
欲しいとのEメールを何度かもらったことがある.

私自身は全く心霊術を信用していないので、その旨を告げ、それでもいいなら
紹介し通訳をすると返事をした・・・

実際に術を受けた日本人から 帰国後に病院で精密検査をやったところ
いずれも癌などは取り除かれていなかったとの報告を受けた・・・

私が数年前に実際に立ち会って通訳をしたのは日本人患者二人だった.
私が住んでいるキャンプ7の近くにあるその心霊術師の診療所の話をしたところ、
教授は それはおそらく アグパワの弟子のその次の世代の術師だろうと言う.

一方、ムンバキは山岳民族の祈祷師であって、心霊術師ではない・・そうだ.

また、霊媒師(いたこ)は別もので、たまにムンバキの中に霊と交信する能力が
備わった人がいるかもしれないが、基本的には 霊媒師と祈祷師は違うものである.

アグパワが診療所としたディプロマット・ホテルは元々は修道院として建てられたもので、
今は亡霊が出るというので有名なスポットである.

教授にどんな亡霊が出るのかと尋ねたところ、元々は修道者の亡霊だったが、
戦争中に最初は日本軍に殺されたフィリピン人やアメリカ人の兵士、
その後日本が敗走してからはアメリカ軍に殺された日本兵がいたので、
フィリピン、アメリカ、日本の兵士達の亡霊が出るようになったのだと言う.
それも、怨念が強いため、未だに 修道士の亡霊をおさえて、この三者の亡霊が
強く出てくるそうだ・・・

この場所は、戦後、様々なビジネス計画があったが、結局長続きせずに
今に到っており、バギオ市が管理する観光施設となっている・・・

山岳民族の祈祷の踊りなどが何度も行われたが、亡霊の怒りが強すぎて
未だにいわゆる除霊が出来ていないとの話だった.

では、なぜアグパワだけが そのような場所を使うことが出来たのか・・・

それは、アグパワが本物の心霊術師で、霊とも交信が出来たからだと言う.

・・・・・

我が下宿の女将に、「アグパワを知っていますか」と尋ねたところ、
「知っているわよ・・・アグパワ・コンパウンドならケノン・ロードのあの辺りにあるけど」

「心霊術師は?」

「アグパワの奥さんのアシスタントをしていたのが私の遠い従姉妹なのよ・・・」

「へえ~~、今も家族はそこに住んでいるんですか?」

「どうなのかしらねえ・・・その奥さんは今はアメリカに住んでいるけど・・」

「患者はヨーロッパ人が多かったそうですね・・」

「うちのお婆ちゃんが当時木彫りやアンティークのお店をやっていてね、

 その遠い従姉妹が、お土産を買うのに患者さんを連れて来てくれたんだけど、

 ドイツ人だったかな・・・それに、オーストラリア人が多かったわね・・」

バギオは不思議な 「小さな世界」 である・・・

心霊治療・心霊施術などと呼ばれるものの中でバギオ市に関連する記事がありましたので、ご参考まで:

http://www7.ocn.ne.jp/~kokubo/gokui_2.htm#SS1

 

 

 

 

 

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