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2014年12月13日 (土)

1632って何?  マニラはマラテのホテル(ホステル)は便利で快適

生徒6名の面接試験に同行して 久々にマニラに行ったんですけどね・・・
マニラのマラテにある ホステル1632 ってとこに泊まったんです・・
Adriatico通りですね・・・

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いつもはバギオから日本に帰る時ぐらいしかマニラに泊まることもないんで、
定宿はパサイのカバヤン・ホテルで、マニラのホテルはほとんど知らないんですけど・・・・

ホステスとホステルとホテルの違いも分からん男ですけど、
この1632ってところは、日本で言えば 安いビジネス・ホテルみたいな部屋で、
設備、備品、雰囲気は割と良かったんです・・・

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一応シングルでとってもらったんですけど、ベッドは二つ、テレビはケーブル・テレビで
NHKワールドのチャンネルはありました・・・

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冷蔵庫には一通り飲み物は入っていて、シャワー室は温水OK、トイレも清潔、
歯ブラシは無いけど、石鹸やタオルはあります・・・

たまたま暑くはなかったんで、窓を開けて寝たんですけど、
暑い盛りのエアコンの音はどうなのかなあ・・・・そんなに気になるほどじゃないと思います・・

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すぐ目の前には銀行あり、お隣は道教の中国寺院・・・

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すぐ近所には ザ・パン・パシフィック・ホテルがありまして、
龍園焼肉ラーメン・餃子の王様、両替商セブンイレブンもあって、とりあえず
ひととおり揃っていて便利・・・

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このアドリアティコ通りからパン・パシフィック・ホテルの角を右に曲がって
左側に Tao Yuanという中華料理屋がありますが、ここはかなり旨い・・
https://www.google.co.jp/maps/place/Tao+Yuan/@14.572563,120.9843041,19z/data=!4m2!3m1!1s0x0:0xe3c4a945f8aaa1f1

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そこをさらに進むと有名なマビニ通りにでます・・・
居酒屋「歌舞伎」、そのお隣はカラオケ・バー、 さらにひとつ向こうに進めば
ハイアット・ホテルやダイアモンド・ホテルなどもあります・・・・

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ところで、ホステル1632 の数字の意味なんですけど、
番地なんだそうです・・・
な~~んだ・・・

たまには、マニラ探索も面白いですね・・・

 

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マニラ湾の落日、そしてMOAの和民

4pmにマニラ湾に面するモール・オブ・アジアに到着・・・
私は6名の日本留学候補生たちと一緒に、明日の面接試験の為にやってきた・・

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「じゃあ、5pmまで自由行動にして、5pmから7pmまで夕食にしましょう・・・」

「どこで夕食をとるんですか?」

「日本の有名な居酒屋Watami が このベランダの2階にあるから・・・
 ここに戻ってきてください・・・」

(ちなみに、マニラでは居酒屋ではなく 居食屋と書いてある)

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私はそのまま、和民のベランダ席で アサヒ・ビールを頼み、
久々に枝豆をつまんで・・・

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ちょーど、夕暮れ時・・・

岸壁には多くの家族連れやカップルが 海を眺めたり、遊具で遊んだり・・・
今日はそんなに暑くもなく、ぶらぶらするには心地よい・・・

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スペイン時代から 「東洋の真珠」と呼ばれたマニラ湾・・・
その圧巻がこの落日だろう・・・

私がマニラに来るのは、年に1~2度しかないが、
その度に このモール・オブ・アジア(MOA)のベランダ側の店で
ビールを飲むことにしている・・・

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今回は、今迄4ヶ月間 日本語を教えてきた生徒6名が留学の為の
面接試験を受けるのが目的だが、この際に、日本でも有名な
居酒屋WATAMIで 日本食をいろいろ食べてみて欲しいという思いも
あって、和民を選んだ・・・

バギオにも日本食がないわけでもないが、
日本でもよく知られているお店の味がどんなものかを味わって欲しかったのだ・・
・・・・しかし、和民は 失敗だった・・・

その前兆は、ビールのつまみに選んだ「枝豆」に既に表れていたのだ・・
枝豆が美味くないんである・・・そして、硬い・・・
まあ、他のメニューは大丈夫だろう・・・

5pmに戻るはずの生徒たちが遅い・・・・
まあ、フィリピン時間だから どうってこともないが・・・

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ビールは2本目に入り、マニラ湾にゆっくり落ちていく夕日を眺めていた・・
周りでは何人かが写真を撮っている・・・

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結局みんなが戻ってきたのは ほとんど1時間おくれの6pm前だった・・

「センセイ、スミマセン・・・ぐるぐる廻るのに乗って遊んでいました・・・」

「廻りすぎて・・・お腹が変になってしまいました・・・」

・・・・

「はい、皆さんは料理の専門学校に留学する候補生なんだから、
 6人それぞれ別々の料理を選んで、いろんな味を試してください・・・」

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・・・ところが、結局 生徒たちが注文したものと言えば・・・

どんぶり物・・・それも肉ばかり・・・

そして、二人ずつ同じもの・・・・

「なんだよ・・・この注文は・・・肉ばっかりじゃないの・・・
 もっと いろんなのにチャレンジしないと・・・」

「あははは・・・先生、私たちはイゴロットですから・・・」

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・・・このイゴロットというのは Igorot ルソン島北部の山岳地帯に住む
山岳民族のことを言うのであるが、差別語とも言われている・・

しかし、その本人たちが今は「イゴロットであることに誇りを持っている」
などと言うような動きも一部にあるようだ・・・

山岳民族は、ほとんどが日常的には野菜や豆、米などを食べていて、
肉類はお祭りの時のご馳走という位置づけらしく、
また、野菜は貧乏人の食べ物だという感覚もフィリピンで一般的な
ようで、鶏肉や豚肉が毎度毎度食卓に並ぶ・・・

バギオからマニラへ移動中に立ち寄ったマクドナルドでは、
私はチーズ・バーガーだったが、生徒たちは全員が ご飯とフライド・チキンだったし、
バギオへの帰り道に立ち寄った 中国料理のファスト・フード店 CHOWKINGでも
ご飯とフライド・チキンだった・・・
学校に持って行くお弁当もほとんどがご飯とフライド・チキンだと言うから
恐れ入る・・・

ああ、それなのに、それなのに、
日本食の和民に来てまで ご飯と肉かよ!!

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私は、一応長崎県出身なので、ちゃんぽん風のラーメンを注文・・・・

・・・さて、問題の味なんですけどね・・・・

ちゃんぽん風ラーメンは、長崎ちゃんぽんの味を出してくれとは
申しませんが・・・・ また後日食べに来たいという味ではなく、
胡椒を振りかけて まあまあという状態になりました・・・
次回からは 同じMOAのベランダに開店していたラーメンの「山頭火」に行ってみます・・

問題は、生徒たちの反応なんです・・・・

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「日本のどんぶり物は これより大きな丼を使うんだけど、
 君たちにとっては、大きいの小さいの?」

「これは小さいです・・・・」

「・・・でも、あまり食べていないね・・・」

「はい、小さいですが、美味しくないですから・・・・」

「どうして ?」

「お米がちょっと・・・・それから、甘いです・・・・」

「このたこ焼きはどうだった?」

「う~~ん・・・・・」

・・・で、私も一口食べてみたんですが・・・・

「は~~ん、タコは入っていないな・・・たしかに う~~んだな・・」

6人が声を揃えて、「不味い」と言う・・・・

・・・こりゃあ、マニラのWATAMIは 流行らないな・・・

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最初から、「飲み物やデザートは別のお店に行くからね、口直しに・・」
と冗談で言っていたのだが、マジで 口直しが必要になってしまった・・・

どうしてくれるよ 和民さん・・・・

私の「日本の代表的な料理をいろいろ味わって欲しい」企画は
みごとに潰されてしまったんですぞ・・・!!

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そして、次に行ったところが、ニューオリンズ・・・・

日本の仇を アメリカで取る・・・しかない・・・

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ジャック・ダニエル・・・旨いっすね・・・

生徒たちはそれぞれに飲み物やケーキで安心した様子・・・

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マニラ湾の落日は奇麗でいいんですが・・・
日本の料理店の落日は見たくないですね・・・・

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・・・そして、私は、ニューオリンズでもトイレに駆け込んだ・・・

実は、和民でもトイレに駆け込んだのだった・・・・

ランチはマクドナルドのチーズ・バーガーで、なんともなかったし、

長崎風ラーメンを食べてすぐってこともないだろうから、、

おそらく あの硬い「枝豆」なんだろう・・・

毎日 ピーナッツやミックス・ナッツでビールを飲んでいる者としては信じられないハプニングであった・・・・・・

 

 

 

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2014年12月10日 (水)

今日は朝から 事件あり・・・  古い奴は頼りになる・・・

12月10日、朝7時前、いつものように目覚ましで起きた・・

毎朝の機械的な動きで、テレビのスイッチを入れる・・・

そして、居間の電燈のスイッチを入れる・・・

さらに、パソコンに繋がれた変圧器の電源を入れる・・・

一連の毎朝の行事である・・・

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ところが、 居間の天井の蛍光灯が点かない・・・・

ケーブル・テレビは点いているのに・・・なぜ?

蛍光灯のもうひとつのスイッチを入れる・・・点かない・・

ベッド・ルームのスイッチを入れる・・・つかない・・・

パソコンのある仕事部屋のスイッチを入れる・・・つかない・・・

変圧器のランプと テレビはついている・・・ どうした?

トイレの電燈のスイッチを入れる・・・・点いた!

玄関先の電燈のスイッチを入れる・・・点いた!

なんだ、なんだ??

部屋の天井の蛍光灯だけが全滅である・・・

誰か電気工事でもやったのか?

一定の範囲の回線だけが切られてしまったのか?

朝ごはんを食べに、食堂へ・・・

こちらでは、一応電燈はついている・・・

朝食の後、パソコンに向かう・・・パソコンは使える・・・

しかし、画面がなんとなく暗い・・・・

何と、変圧器のランプはついているのに、パソコンには充電されていない・・

オカシイ・・・・・

・・・と思っていたら、急にすべての部屋の蛍光灯が点灯した・・・

はは~~ん、そうだったか・・・・

電圧不足で 一部の電気製品しか起動されなかったんだ・・・

・・・久しぶりの低電圧事件・・・・朝から騒がしてくれるじゃないか・・・

電気製品はひとつのタイプで揃えてしまうんではなく、

旧式のものも混ぜて使った方が良さそうですね・・・

大雪に埋まってしまった徳島県の山間部・・・

停電はもとより、電話もダメになってしまったとテレビ・ニュースでやっていた・・

新製品、進んだ技術は、災害に弱い・・・・

私は以前、インターネット接続をダイアル・アップで電話回線を使っていた・・・

台風の時も、停電になっても、インターネットだけは働いてくれた・・

しかし、その後、ケーブルやWIFIを使うようになった・・・

台風になると停電で役立たずである・・・

旧式は いざと言う時に 役に立つ・・・・

我々 年寄りも かくありたい・・・?

 

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2014年12月 8日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ:第20回目の授業- オフレコ編2: 広い視野で歴史を勉強しなさい・・朝鮮戦争・

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

毎週一回2時間、フィリピンの大学で使われている教科書を読みながら、

政治学・歴史学の元教授とのQ&Aと雑談をしています・・・

  

教授は今日はいろいろなネタを抱えて私の授業に来てくださったよう

でして・・・オフレコ編その2であります・・・

数日前に、バギオの某ホテルで、英語の先生と教授が打ち合わせ中

のこと・・・同じロビーで他のグループがフィリピン人の英語

ついて話をしていたのだそうです・・・

 

そのグループには、韓国人学生が2~3人、それにフィリピン人の

先生が何人かいたそうです・・・

 

そのグループでの話し声が聞こえてきて、

フィリピン人の英語って、イギリス英語やアメリカ英語と

違って 変だよねえ~~、こんな感じで・・」

などと笑いながら フィリピン人の英語のものまねらしきことを

やっていたんだそうで・・・・

 

それに怒った教授と一緒にいたフィリピン人の女の先生が

すっくと立ち上がり、そのグループのところに行って、

「へえ~~、あなたたち、それじゃこれ分かる?」

と言いながら、イギリス・アクセントやアメリカ・アクセント

ペラペラと英語でまくし立てた・・・

 

韓国人の学生たち・・その英語に答えられず・・

 

要するに、フィリピン人に遠く及ばない英語力しかない奴らが

偉そうなことを言うんじゃないよ・・・ってことなんですね・・

 

・・・・そして、教授のレクチャーにも熱が入って参りまして・・

「韓国人とフィリピン人は なんだか相性が 今一つなんだよねえ・・」

「韓国人は偉そうなことを、政治的にも政府によって洗脳された

ことしか言えない若い連中が多い・・」

「朝鮮戦争の時に何があったかも知らない・・

もっと視野を広くして、歴史を勉強しなくちゃいけない・・・」 

例えばといいながら、教授が教えてくれたのが、このYOUTUBE

 

1,400 Filipino soldiers versus 40,000 communist Chinese during Korean War

https://www.youtube.com/watch?v=LPQqmU-syHg

 

嘘か本当か知りませんが、教授いわく この映像はアメリカが

作ったものらしい・・・・ 

「朝鮮戦争の時に、1,400人のフィリピン人兵士が、

 アメリカがやって来るまでの間、中国共産軍4万人を前にして

 韓国の為に頑張って 時間稼ぎをやったんだよ・・・

 韓国の兵士はその間何をしていたかっていうと、後方支援だけ

 なんだから・・・そういうことを韓国の若い連中も勉強して

 くれないと・・・」

 

「フィリピンの大学じゃあ、先生と生徒は同じ立場なんですよ・・

自分で調べてきたことを教授と議論できる自由さがある・・・

韓国の学生たちも そういう自由があったらいいんだろうね・・」

・・・日本人としても 耳が痛いところですかね?

日本でも相当な言論統制みたいなのがあるらしいですし・・・

・・さて、私は朝鮮戦争については、な~~にも知りませんので

ここでちょっと概略を読んでみましたところ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89

 

「南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの

隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮

半島の統一支配を目指す北朝鮮は19506月、国境の38度線を越え

軍事侵攻に踏み切った。

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリス

フィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国

で構成された国連軍(正式には「国連派遣軍」)が参戦し、一方の北朝

鮮側には中国人民義勇軍(または「抗美援朝軍」「志願軍」。)

 

なるほど、確かに、フィリピン軍が国連軍の一員として参戦して

いるんですね・・・

ただ、フィリピン軍の人数が こちらでは 1,100人になっていますけど・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E6%88%A6%E4%BA%89

 

国連軍(22カ国) 

大韓民国:兵力98,000人(14歳から17歳の少年少女14,400[25]

 国民防衛軍 406,000[1]

 

アメリカ合衆国:兵力302,483-480,000

イギリス:兵力15,700

フランス共和国:兵力7,400

オランダ王国:兵力7,200

ベルギー王国:兵力5,600

カナダ:兵力5,400

トルコ共和国:兵力4,600

エチオピア帝国(当時):兵力1,200

タイ王国:兵力1,100

フィリピン共和国:兵力1,100

コロンビア共和国:兵力1,100

ギリシャ王国(当時):兵力1,000

オーストラリア:兵力900

ニュージーランド:兵力800

南アフリカ共和国:兵力800

ルクセンブルク大公国:兵力400

 

その他インドなど 日本は参戦国に算入されていないが、

上述の通り国連軍の指示により8,000人以上の規模で

特別掃海艇を派遣、死者も出している。

そして、こんな新聞記事が 中央日報にありました:

韓国戦争参戦フィリピン勇士の変わらぬ“コリア愛”

http://japanese.joins.com/article/964/186964.html

・・・・この朝鮮戦争が始まって少し経ったころに私は生まれた

んですが、この戦争のお蔭で 日本は特需で儲かったそうですね・・

お蔭で、私のミルク代も出たのかもしれません・・・

 

しかし、この戦争が、いまだに休戦状態にあるということを

日本人の何割が知っているんでしょうか・・・

日本人も海外でいばってはいけません・・・

いばっていたら恥をかくことになるかもしれませんよ・・

 

========

 

 

 

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2014年12月 7日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ:第20回目の授業- オフレコ編:サンチェス事件

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

 

毎週一回2時間、フィリピンの大学で使われている教科書を読みながら、

政治学・歴史学の元教授とのQ&Aと雑談をしています・・・

 

 

今日の授業はしょっぱなから教授が興奮気味でして・・・

 

何があったのかと思いきや、昨夜のABSCBNテレビで

教授の母上が激怒したという話・・・

 

まずはこちらのサイトをご覧ください・・・

 

Korina Sanchez Wishes Typhoon Hagupit Hit Japan Instead

http://www.wheninmanila.com/korina-sanchez-wishes-typhoon-hagupit-hit-japan-instead/

 

このニュース番組で アンカーとされている

コリナ・サンチェス女史 と ノリ・デ・カストロ氏のやりとりが

あったのですが、その中で、

20141207_korina_sanchez_at_the_gard

 

サンチェス女史: 「フィリピンから台風が逸れるように まだ祈ることができますね」

 

カストロ氏 : 「台風を日本と分け合えたらいいんですがねえ・・」

 

サンチェス女史: 「全部 日本で引き受けてくれないかしら

 

カストロ氏:  「そのなこと望んじゃ駄目ですよ」

 

サンチェス女史: 「全部できるわよ

 

カストロ氏:  「日本人なら言ってもいいかもしれないけど・・」

 

サンチェス女史: 「日本なら引き受けられるでしょう・・・」

 

 

このテレビ番組を観た人たちから ソーシャル・ネットワークで

彼女に対して 多くの批判が殺到しているのだそうです・・・

 

教授の母上も、台風の進路に住んでいる親戚たちのことを

心底心配して電話を掛けたりしていたところだったので、

この冗談とも言えない冗談に 激怒したとのことでした・・・

 

このサンチェス女史という人は、次期大統領選に出馬するのでは

ないかと言われているロハス氏の妻だそうで、

Sanchez is currently married to former Senator Mar Roxas, whom she

married on 27 October 2009 in Quezon City

http://en.wikipedia.org/wiki/Korina_Sanchez

こんな馬鹿なことを言う奴は テレビ番組から追放しろという

声も上がっているとのことです・・・

https://www.youtube.com/watch?v=_OX7Mugk5RE

 

 

・・・・さて、今回の台風はまだフィリピンを通過中ですが、

2~3日前まで昨年のスーパー台風と同様に今年最大のスーパー台

であるとされていました・・

 

昨年の台風ヨランダは、7,300人もの犠牲者を出したもので、

津波のような高潮に襲われたのが最大の要因でした・・・

 

そのようなスーパー台風が また今年もほぼ同じ地域を

襲うとのニュースでしたので、日本人である私は

「この台風が北に進路を変えて日本の方面に向かってくれないか」

と思ったんです・・

いくらスーパー台風でもそのほとんどは日本に到着するまでには

かなり威力が落ちることを経験的に知っているからです・・

 

それに、フィリピンに比べて日本のインフラや防災対策は

比べ物にならないくらい進んでいますから、なんとか台風さんに

進路を変えて欲しいと思ったんです・・

 

・・しかし、それは日本人であるから言えることであって、

フィリピン人として「あの国に行ってくれ」というのは

フィリピンの心配している人たちに対しても、日本人に対しても

非常に心無い、失礼なことだという話です・・・

 

ましてや、フィリピン最大のテレビ局の チーフ・キャスターである

サンチェス女史が もっと真摯に、人々に示唆を与えるようなことが

言えないのか・・という失望になっているようです・・・

そして、ついに、こんな「デマ」のサイトまで登場して、facebookで盛り上がっているようです・・・

TOKYO, Japan — Japanese Prime Minister Shinzo Abe declared earlier Monday, Filipino broadcast journalist Korina Sanchez, ペルソナノングラータ or persona non grata, for “wishing ill will against others.”

http://sowhatsnews.wordpress.com/2014/12/08/japan-declares-korina-sanchez-persona-non-grata/

注意: 上のサイトは あくまでも「デマ」情報ですので「取扱い注意」です・・

     まあ、英文の中に わざわざ カタカナ表示をしてあるところが それらしい・・

 

 

=== オフレコ編 その2へ 続きます ===

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 51 第20回目の授業 - 「綿花」は綿花じゃない!?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

毎週一回2時間、フィリピンの大学で使われている教科書を読みながら、

政治学・歴史学の元教授とのQ&Aと雑談をしています・・・ 

シリーズ51の部分

p114 

=== この時代の鉱山開発は どこで行われていたのか?

金の採掘は セブ島やミンダナオのダバオ、アポ山の近くの

川で行われ、砂金を捜すものだった・・・ 

=== 1784年の命令で、Basco総督は

    「農民を捕えたり留置してはならない」としているが、

    これは実際に実施できたのか?

これについては、噂だけだったのかもしれない・・

文書などで残されてはいない・・・

 

=== 「メキシコから財政的に独立させようとしていた」

    とあるが、Bascoはフィリピンをメキシコのように

    独立した植民地にしようとしていたのか? 

本当かどうかは不明である・・

しかし、Bascoはフィリピン人に天然資源などの使い方を教えようと

していたことは事実である・・・

 

シリーズ52の部分

 p115

=== 「藍を初めてヨーロッパへ輸出した」とあるが、

    何に使ったのか?

紫色の衣服の染料として使った.

紫色は高貴な色とされている・・・

 

=== 「中国から小鳥のマルティネスを輸入し、イナゴなどの

     駆除に使った」とあるが、どんな鳥なのか?

マルティネスとは黒いからすのことである・・・

虫や木の葉などを食べる 普通の小鳥よりも一回り大きい・・

黒いカラス(CROW)がイナゴを食べる???

教授の「黒いカラス」という言葉で、日本にいるカラスのことを

詳しく話したんですが、どうもなんだか違うなあと思って

検索してみたところ、それらしきものが見つかりました・・・

http://blog.goo.ne.jp/danial58/e/8039df4fdef229f74717a1c7af37a935

これなら納得です・・・・

教授いわく、フィリピン人は、こういう黒いカラス・・も

バーベキューにして食べるんだそうです・・

(日本のカラスをバーベキューにしようと考える人はいないでしょうが・・)

又、教授によれば、日本などから飛来する ヒーロンと呼ばれる

白鳥なども食べることがあるそうですが、肉が固くて食えないとか・・

 

=== 「ジャラジャラ(ハラハラ)の農園で良質のコーヒーを

     栽培した」とあるが、これはどこか? 

ルソン島南東部のビコール地方にある・・・

フィリピンのコーヒーの大規模栽培はここで始まった・・・

 

=== フィリピンの人たちは従来は、どんな飲み物を愛飲して

    いたのか?

 

低地、平野部の人たちは chaa(ちゃあ)と呼んだフィリピン伝統の

お茶を飲んでいた・・・しかし、山岳地帯では昔からあったコーヒー

だったり 米のどぶろくを飲んでいた・・・

 

=== 「マニラの最初の農業学校で・・・ポピー(アヘンを抽出)

     を栽培した」とあるが、アヘンをどう使ったのか・・

ポピーはメキシコあるいは中国から持ち込んだ物と思われるが、

フィリピンの土壌は粘土質であったためポピーの栽培には不向き

であった・・・多量の栽培ではなかったものと思われる・・

また、アヘンは中国などへ輸出されたのであろう・・・

 

=== 「・・綿花・・を導入し栽培した・・」とあるが、

    これは綿花の木なのか?

これは普通に考えられる「綿花の木」ではない・・

フィリピンには固有の Kapoc(カポック)という木があって、

果物のようにぶら下がったものの中に綿花のようなものが入っていた.

綿糸などに加工するというよりも、その綿をとって枕などにしていた・・

 

カポックの写真がこちらにありました:

http://www.grupporestore.com/blog/it/biancheria-e-materassi/un-buon-cuscino-porta-buoni-sogni/

 

=== 「桑の木の栽培を導入した」というのは、絹産業を

    始めたという意味か? 

桑の木を栽培し、蚕を飼い、繭(まゆ)までを作り、

輸出した・・・これも限定的な輸出だった・・・

フィリピンでは大きな産業にはなっていない・・・

 

=== 「たばこ専売・・・葉タバコの栽培が カガヤン渓谷、

     ヌエバ・エシハ、マリンドゥケ、イロコス地方で

     栽培された・・・」とあるが、今現在はどこが多いのか?

 

イロコス、ラ・ウニオン、パンガシナンなどに多い・・・

=== 「東洋において フィリピンを最大のタバコ成長国とした」

    とあるが、実際にそうなったのか? 

17世紀、18世紀ごろには産業というほどにはなっていない・・

ただ単に、葉タバコを栽培していただけである・・

アメリカ時代以降に、タバコ産業になり、今に到っている・・

アメリカ・ブランドのタバコは一箱60ペソ前後するが、

フィリピンの地元ブランドのものは一箱20ペソ前後で

売られている・・

フィリピンの女たちは、外国ブランド品を吸っていると

「素敵」と思うらしい・・

 

=== シリーズ53は こちら ===

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 54 ニッパ・ハウスはいつマニラから消滅したか

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

8 OUR ECONOMY UNDER SPAIN  第八章 スペインの下のフィリピン経済

 

毎週一回2時間、教科書を元に教授とのQ&A, それに雑談をしています・・・

 

 

p118

「総督 Bereguer de Marquina と改革の計画」

 

Bascoの後継者は スペイン海軍の海軍士官で、艦隊提督(准将)の

Felix Berenguer de Marquina であった.

彼は1788年7月1日にマニラに到着し、総督を引き継いだ・・

彼の最初の公式の条例は、マニラ市でのニッパ・ハウスの取り壊しであった.

理由は景観が悪く、火災の危険性があるというものであった・・

Marquinaの在任期間中、マニラは一時的に、国王チャールズ4世に

よって発行された 1789年8月15日の国王令によって

3年間ヨーロッパ船舶に開放された.

 

=== ほお~~、この時からマニラからは ニッパ・ハットの家

    が姿を消したんでしょうか・・・

    ニッパ・ハット、ニッパ・ハウスについては、こちらに

    写真などがあります:

    「http://en.wikipedia.org/wiki/Nipa_hut

    「The Bahay Kubo, Balay, or Nipa Hut, is a type of stilt house

 indigenous to most of the lowland cultures of the Philippines.

     バハイ・クボ、 バライ、又は 二パ・ハットは

     竹を支柱にしたタイプの家で、フィリピンの平野部の

     ほとんどに固有のものである」    

 

1790年1月23日、Marquinaはスペイン国王に対して

フィリピン政府の改革計画」という文書を提出した・・

その中で、彼は次のような改革を提案している:

(1)フィリピンをメキシコのようなViceroyality (総督によって治められた

   地区や州)に変える;

(2)フィリピンへの中国移民を推奨する;

(3)忌わしい トランプ賭博、火薬、ワインの独占をやめる;

(4)スペインのカタルーニャ、ガリシア、バレンシア地方から

   農家をフィリピンに派遣し、農業の進んだ手法を教える;

(5)acaldesメイヤー(州知事)の給料を上げ、indulto de commercio

   と呼ばれた貿易特権を廃止する;

(6)mint(造幣局? 鋳造所?)を設立し、フィリピンからの金の流出

   を防止する;

そして、(7)マニラを世界貿易に開放する..

 

=== 上記の2にある 中国からの移民は 当時はどうだった

    んでしょうか・・・一定の制限があったと言うことですね・・

    上記6の提案があるということは、

    金に関して何の制限もなかったという話なんでしょうか?

 

 

「初めてのフィリピン諸島の測地調査」

 

1789年7月30日、スペインのコルベット艦2隻Atrevida  Descubierta

が、Alejandro Malaspina船長の指揮のもと、スペインのカディスを出航した・・

これらのコルベット艦は、スペイン政府によって派遣されたもので、

科学的な観測とスペイン領アメリカ、マリアナそしてフィリピンの

海岸線の測地調査をすることが目的であった・・

 

マラスピナ隊は、ビサイヤとミンダナオ地方を探検し、植民地の勅許を

行った後に、マニラに入り、ルソン島の海岸線を調査した・・

(以下 省略・・)

 

=== Corvetteについては こちら;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AB%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88

コルベット(Corvette)は軍艦の艦種の一つ。一層の砲甲板を持ち、

大きさはフリゲートよりも小さかった。

近世から近代にかけて用いられた帆柱が3本の軍艦として、18世紀末から

19世紀にかけてフリゲート同様商船の護衛や沿岸警備等に使われたが、

海防艦などにその任を譲り、20世紀前半に消滅した。

 

=== フィリピンの海岸線の測量が実施されたのが1789年だと

    いうことのようですが、日本の伊能忠敬はと言えば・・・

    下のとおりで、1800年から1816年にかけて日本の測量

    やっていたんですね・・・

    上記のようにフィリピンの測量は1789年から始まっています

    から、十~二十数年遅れで日本地図が出来たということになりそうです・・

    フィリピン測量は艦船で、日本は徒歩ですからねえ・・・

 

    「伊能 忠敬(いのう ただたか[注釈 1]、延享2111

     (1745211日) - 文化15413日(1818517日))

     は、江戸時代の商人・測量家である。通称は三郎右衛門、勘解由

    (かげゆ)。字は子斉、号は東河。

     寛政12年(1800年)から文化13年(1816)まで、足かけ17

     をかけて全国を測量し『大日本沿海輿地全図』を完成させ、

     日本史上はじめて国土の正確な姿を明らかにした。」

     「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%BF%A0%E6%95%AC

 

    「伊能忠敬が間宮に測量の技術を教授し、間宮の測量の精度が

     あがったという。忠敬がスケジュールの都合上全ての蝦夷地を

     測量できなかったとき、残りの蝦夷地測量を間宮が代わりに測量

     して測量図を作った。その結果、大日本沿海輿地全図の蝦夷以北

     の地図は最終的に忠敬の測量図と間宮の測量図を合体させたもの

     になったという。」

 

    「間宮 林蔵(まみや りんぞう、安永9年(1780年) - 天保15

 226日(1844413日))は江戸時代後期の隠密、

     探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の三蔵」と呼ばれる。

     名は倫宗(ともむね)。農民出身であり、幕府隠密をつとめた役人

     であった。」 

     「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%93%E5%AE%AE%E6%9E%97%E8%94%B5

 

 

=== シリーズ55へ 続く ===

 

 

 

 

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