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2015年3月26日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 63  最初の大学、小学校

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY   GREGORIO  F. ZAIDE

 

9     OUR SPANISH  HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

 

p128

 

「教育」

 

スペインはフィリピンにヨーロッパ式の教育を持ち込んだ.

設立すべき最初の学校はスペイン人の宣教師を先生とする

教区の学校であった. フィリピンの子供たちは、カトリックの教義、

三つのR(読み、書きそして算数)、音楽、そして様々な

技能と商業であった.

 

最初の男子の大学(カレッジ)は、1589年にマニラでイエズス会に

よって創設された.  当初マニラ大学と呼ばれたが、後に

サン・イグラシオ大学に変更された. イエズス会は他にも

セブにサン・イルデフォンソ大学(1595年)と マニラに

サン・ホセ大学(1601年)を創った. その後、1859年に、

マニラの男子公立学校である Escuela Pia  の管理を引き受け、

これをアテネオ・デ・マニラというフィリピンでも名声のある

大学のひとつへと改変した. 

 

イエズス会に引けを取るまいと、同じように良き教育者であった

ドミニコ会は、マニラに Our Lady  of  Rosary大学(1611年)

を創設し、その後 サント・トーマス大学となった.

1630年に、マニラにもうひとつの大学を創った、San Juan  de

Letran大学である.  これは、フィリピンに現存する最も古い

男子の為の大学である. 

 

男子カレッジの履修課程はヨーロッパのカレッジに習ったものだった.

ギリシャ語、ラテン語、スペイン語、哲学、修辞学、自然科学、

そして人文科学で構成されていた.  その課程は5年間であり、

その後卒業生はA.B.(教養学士)の学位を授与された.

カレッジのコースを修了すると、大学へ入る準備が整った

ことになる. 

 

=== 上記は、いずれも「カレッジ」のことを書いてあるん

    ですが、翻訳の都合上「大学」としています.

    英語の辞書をみても、「カレッジ」と「ユニバーシティ

    の区別は必ずしも明確ではないとあります・・

    普通は単科大学と総合大学とするようですが・・・

 

    バギオ市にある大学の例をみると、

    日本で言う学部のことをカレッジと呼び、全体を

    ユニバーシティーと呼んでいるようです・・・

 

p128

フィリピンの大学(ユニバーシティ)教育は、アメリカよりも

随分古いものである.  フィリピンにおける最初の大学は

サン・イグナシオ大学であった.  元々は1589年に

カレッジとして創設され、1621年にグレゴリオ15世によって

大学のランクに格上げされた. この大学は、イエズス会が

フィリピンから撤退した1768年に閉鎖された.

(中略)

 

=== この後は、2番目、3番目の総合大学の話が

    出ていますが、省略します・・

 

 

p129

 

これらの総合大学、特にサント・トーマス大学は、ヨーロッパの

大学と同様のコースを提供し、法学、医学、薬学、哲学、

神学、及び人文科学などであった.

スペイン時代の全ての総合大学は男子の為だけのものであった.

 

 

スペイン体制の間は、女子は特別教育を与えられた.

二つの種類の学校が女子教育の為に作られた、つまり:

Colegioという女子の為の通常の学校と、beaterioという

学校と女子修道院がひとつになったものであった.

(中略)

 

 

フィリピンにおける最初の公立学校制度は、1863年

教育令に従って、スペインが作り上げた. この法令は

それぞれの町に、男子の為の公立小学校と 女子の為に

もうひとつを創った.  よって、男女は別の学校で学んだ.

スペイン体制の間は、フィリピンに共学はなかった.

 

 ===ちなみに、日本の小学校はと言いますと:

 

明治 5 年(1872年):学制発布

 ・学制により学校種、教科名称等も規定されたが、文部省はまず

  は小学校の設置に注力。」

http://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/pdf/kenkyu_01.pdf

 

===フィリピンより10年ばかり遅かったんですね・・

   でも、まあ、藩校とかずっと前からありましたしね・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8F%B2#.E4.B8.BB.E3.81.AA.E8.97.A9.E6.A0.A1.E3.83.BB.E7.A7.81.E5.A1.BE.E3.83.BB.E9.83.B7.E5.AD.A6

 

「江戸時代後期(幕末)の教育制度は、、幕府の財政難や体制の

危機が深刻化するなかで、武士の生活難も目立ってきた諸藩は

教育の改革を断行する。諸藩では藩学(藩校)・郷学・塾(私塾)

を設立して子孫の教育を行った。また、庶民の個別指導教育と

して寺子屋が開校。これらは全て、我が国の学校制度の始まり

とされている。」

 

 

寺子屋はこちらで:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E5%AD%90%E5%B1%8B

 

「実務教育の需要が一層高まり、先ず江戸や京都などの都市部に

寺子屋が普及して行った。1690年代頃から農村や漁村へも広がり

を見せ始め、江戸時代中期(18世紀)以降に益々増加し、幕府

御用銅山経営、西江邸内には江戸中期創建の手習い場が現存している。

特に江戸時代後期の天保年間(1830年代)前後に著しく増加した。」

 

 

=== シリーズ 64 に続く ===

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 62 ラテン・アメリカはスペイン語だけって??

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY   GREGORIO  F. ZAIDE

 

OUR  SPANISH  HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

 

 

p127

 

「フィリピン語の保護」

 

スペインの修道士は、スペイン語でキリスト教の説教をせず、

現地の言語を学んで信仰を布教するためにこれらの言語を使った.

現地の言葉を学び、布教活動でそれらを使ったことで、

スペインの修道士たちは偶然にもフィリピンの現地語を

保護することとなった.  ラテン・アメリカのスペイン植民地

では、事情は異なっていた. それらの植民地では、宣教師たちは

スペイン語を習うよう人々に強制したのである. 従って、

メキシコ人、キューバ人、チリ人、ペルー人、アルゼンチン人、

プエルトリコ人、そしてその他のラテン・アメリカ人は

母国語を失ったのである.

 

初期のスペイン人宣教師たちはフィリピンの複数の言語について

文法書や辞書を書いた最初の人たちであった.

最初に出版されたタガログ語の文法書は、Arte y  reglas  de lengua

Tagala(1610年)であり、スペイン・ドミニコ修道会の

Francisco  Blancas de San  Jose神父によって書かれた.

彼は、タガログ語で雄弁に語ったので、「タガログ語の

デモステネス」として知られていた.

 

 

==== スペイン語が公用語として使われている国をみてみます:

http://www.enforex.com/japanese/language/spanish-spoken.html

 

「公用語として、または共同言語としてスペイン語が使用されている

国々は次の通りです。: アルゼンチン、ボリビア、チリ、コロンビア、

コスタ・リカ、キューバ、ドミニカ共和国、エクアドル、エル・

サルバドル、グアテマラ、ホンジュラス、メキシコ、ニカラグア、

パナマ、パラグアイ、ペルー、プエルト・リコ、ウルグアイ、

ヴェネズエラ、スペイン」

 

 

=== 教科書には 「母国語を失った」と書いてあるんですが、

    このサイトには以下のような記述があります:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%82%B3#.E8.A8.80.E8.AA.9E

 

「公用語は定められていないが、事実上の公用語はスペイン語

(メキシコ・スペイン語)であり、先住民族の65言語(ナワトル語、

サポテカ語、マヤ語など)も政府が認めている。メキシコは世界最大の

スペイン語人口を擁する国家である。」

 

=== この中で 「ナワトル語」をちょっと見て見ますと:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%AF%E3%83%88%E3%83%AB%E8%AA%9E

 

「今はメキシコなどで推定150万人のナワ族に話されている。

メキシコの「言語の権利に関する法律」(Ley de los Derechos

Lingüísticos del 2001)によって、スペイン語や他62の言語と同等に、

「国語」とみなされている。」

 

=== これを読むと 62言語があるようですね・・・

    「失われた」というのは勇み足ですね・・

 

 

p127

 

「印刷」

 

フィリピンでの最初のフィリピン人の出版社はマニラで

1593年に設立された. それは、合衆国で最初の出版社

が現われる47年前のことであった. マニラの最初の出版社は

古い木版印刷の方法で本を印刷した. つまり、木版画を

使った印刷である・・それは、現在でもサント・トーマス大学

出版にあって、世界の最も古い印刷機関のひとつである.

 

 

「初期のフィリピン人出版者」

 

最初のフィリピン人出版者はTomas Pinpinで、「フィリピン人出版者

の王子」と呼ばれました. 彼は最初のタガログ作家で、タガログ語

で書いた最初の本を出版したのです. この本のタイトルは

Librong pag-aaralan  nang  manga Tagalog  nang uicang  Castila

(タガログ人はスペイン語を学ぶよう勉強しなければならない本)

であり、1610年にバタアンで印刷された. トーマス・ピンピン

は良いサイモンという息子を持ち、その息子もまた良い出版者で

あった. 

 

その他のフィリピン人出版者の草分けは、Diego Talaghay,

Nicolas de  la Cruz Babay,  Laureano Atlas,   Domingo Loag、そして

Cipriano  Bagayであった.

 

=== ちょっとねえ・・・本のタイトルがねえ・・

    フィリピンで最初に出版されたタガログ語の本が

    「スペイン語を勉強しよう・・」って冗談としか

    思えませんが・・・翻訳はこれでいいのかな??

 

 

p128

 

「フィリピンで最初に印刷された書籍」

 

すべての初期のフィリピン人出版者はその印刷技術について

スペイン宣教師から訓練を受けた.  彼らは熟練の職人でした.

彼らは良き出版者というだけではなく、優秀な彫刻師でも

あったのです. 

 

1593年頃、フィリピンで出版されていた本は木版画の

技術で印刷されていました. 近年、ヨーロッパの記録保管所や

図書館で、これらの初期の本が3冊発見されました: それは、

(1)Doctrina Christiana  en  lengua espanola  y tagala、マニラ、

1593年; (2)Doctrina  Christina en  letra  y lengua China

Keng  Yong(中国人)による出版、マニラのパリアンにて;

(3)Tratado  de la Doctrina   de la  Santa Igresia  y de  Ciencias

Naturales、 Juan  de  Cobo, O.P.神父著、マニラにて印刷、

1593年.

 

=== この辺りの詳しい話は、こちらのサイトに

    解説があります:

http://www.ncca.gov.ph/about-culture-and-arts/articles-on-c-n-a/article.php?igm=2&i=195

 

スペイン語が分からないので、どんな内容の本なのか分かりません・・

興味のある方はどうぞ・・・

 

 

=== 日本での印刷の歴史がどうだったかと見てみますと:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E5%88%B7

 

「日本では、「百万塔陀羅尼」が作成されて以降二百数十年間、

印刷物が出されることはなかったが、平安時代中期になって、

摺経供養が盛んに行われるようになった。これが、奈良を中心

とする寺院の間に、出版事業を興させるようになる。」

 

・・・平安時代中期ってことは、10世紀ごろということでしょうか..

 

 

=== しかし、こちらのサイトでは、実際的には

    江戸時代だったように書いてあります:

http://www.shumpou.co.jp/technology/lets_learn_01.html

 

「 12世紀ごろからは,ふたたびお経が印刷され始めますが,

このころの学問は武士などのごく一部の人たちのものだったので,

やはり,あまり多くは印刷する必要がありませんでした。

 ところが,江戸時代(16001867年)になると,商業がさかんになり,

町民たちの間でも文字を読み書きできる人がふえてきました。」

 

 

・・・これでみると大衆にでまわったのは17世紀ってことに

なりますね、日本では・・・

フィリピンの印刷物が一般に出回ったのは何世紀ごろだったの

でしょうか・・・

 

 

=== シリーズ 63 に続きます ===






 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 61  フィリピン人は言語能力が高かった? スペイン創氏改名?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

p126

「グレゴリオ暦の導入」

1845年まで、フィリピンのカレンダーはヨーロッパのもの

より1日遅れていました. フィリピンのカレンダーを訂正した

のは Narciso Claveria 総督でした. 1844年8月16日に、

1844年12月31日火曜日を 1845年1月1日水曜日

と宣言する旨の命令を出した. 

(略)

 

=== 日本の場合はと言いますと:

12月3日が1月1日になったんですね・・・

大晦日がなかったわけか・・・・そりゃあ大騒動だったでしょうね・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E6%9A%A6

「日本では明治5年(1872年)に採用され、明治5122日の

翌日を明治611日(グレゴリオ暦の187311日)とした。」

「日本では、明治5年(1872年)に、従来の太陰太陽暦を廃して翌年

から太陽暦を採用することが布告された。この「太陰暦ヲ廃シ太陽暦

ヲ頒行ス」(明治5年太政官布告第337号、改暦ノ布告)では、

「來ル十二月三日ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事」として、

グレゴリオ暦187311日に当たる明治5123日を明治6

11日とすることなどを定めた。そのため明治5122日まで使用

されていた天保暦は旧暦となった(明治改暦、明治の改暦)。」

 

「フィリピン人の為のスペイン姓」

スペインによる植民地化の初期に、フィリピン人はその名の

変換に際して、聖人の名前を与えられた、例えば、

San JuanJuan、 San PedroPedroSanta MariaMaria

そして Santa CeciliaCeciliaであった.

フィリピンの姓は、フィリピンの地方語を知らなかったスペイン

当局にとっては複雑であるとみなされた.  結果的に

Claveria 総督は1849年11月21日に命令を出し、フィリピン人

家族にスペインの姓を与えた. 彼は、州や町の当局に対して

スペインの姓のリストを送った.  その命令は実施され、

今日のフィリピン人の家族はスペインの姓を得ることになった、

例えば ゴメス、レイエス、そしてサントスなどである.

先祖を大事にするフィリピン人家族の多くは、スペインの姓を

名乗ることを拒否した. 彼らの子孫は今でもマレー系の姓

使っている、例えば BatungbakalKalaw、 Makapagal

MagsaysayMagbanuaSumulong そして Tonogbanua等である.

 

=== マカパガルとかマグサイサイという姓は有名ですね・・

=== これは、いわゆる「創氏改名」ってやつですね・・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%B5%E6%B0%8F%E6%94%B9%E5%90%8D

 

ここでは関係ないですけど、日本も昔は夫婦別姓だったんですねえ・・

今はなんでもめているのかなあ~~??

「創氏改名(そうしかいめい)は、大日本帝国朝鮮総督府が、

1939年(昭和14年)制令十九号(創氏)[1]および二十号(改名)[2]

で、本籍地を朝鮮に有する日本臣民(以下朝鮮人という)に対し、

新たに「氏」を創設させ、また「名」を改めることを許可するとした政策。」

「一方儒教では、先祖の祭祀を行う関係上、子孫は先祖の姓を引き継ぐ

ものであり、血統が個人の姓を決定した。先祖の異なる者が婚姻により

家族となっても、各個人の姓は同一にならない。朝鮮・中国・ベトナム

など儒教文化圏が基本的に夫婦別姓なのはこのためで、日本でもかつては

夫婦別姓が基本だった。創氏がおこなわれるまで、朝鮮には家族名という

観念は存在しなかった。」

「創氏とは、すべての朝鮮人に新たに氏(家の名)を創設させ、

血統を基礎とする朝鮮の儒教的家族制度のあり方を、家族を基礎と

する日本内地の家制度に近いものに変更しようとしたものである。」

・・・なるほどねえ、日本の家制度ってのは 形式的なもんなんですね.. 

・・・日本の場合はその強制性が論争になっているようですが、

フィリピンのこのスペイン姓の導入に当たっては そういう問題は

起きていないんですかねえ・・この教科書では特に言及してないんですが・・

 

p126 

「ラテンのアルファベットとスペイン語」 

現代のフィリピン人にも引き継がれたスペインの遺産は

ラテン文字とスペイン語である. 言語に対する天性の能力により、

人々はたやすくラテン文字とスペイン語を吸収した.

Pedro  Chirino神父、イエズス会宣教師であり歴史家、は1604年に

次のように書いている: 「彼らは我々の言語と発音、そして書く

ことを我々よりも上手くやってのける、それほど彼らは

頭が良く、簡単に何でも学ぶのである」 

ラテン・アメリカのメキシコやその他の国々のようには、スペイン語は

フィリピンの国語にはならなかったが、スペイン語はピリピノ語と

呼ばれる国語を豊かにした.

言語学の権威によれば、我々の国語の中には

スペインからの借用語が5,000ばかりあるという.

 === ちょっと誉めすぎみたいなきらいもありますが、

    昔から言語能力は高かったということのようですね・・

 

=== あるタガログ語の辞書にはこんな語彙数が出ていました:

「搭載タガログ語単語数は11,000単語以上、例文数600以上。

主な動詞は例文付きです。」

11,000語というのがどういう範囲の語彙数なのか不明ですが、

これが妥当な語彙数だとすれば、おおよそ半分がスペインからの

借用語、外来語ってことになりそうです・・・

=== フィリピン語というのが 又 難しい問題でして、

    こちらのサイトでも明確な定義がありません:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E8%AA%9E

フィリピン語(ピリピノ、フィリピノ、Filipino)は、フィリピン

の国語であり、1987年のフィリピン憲法で定められた公用語の

一つである(もう一つの公用語は英語)。オーストロネシア語族

に属し、マニラ首都圏を中心にブラカン州からバタンガス州など

のルソン島中南部一帯で話されていたタガログ語を標準化した言語である。」

=== フィリピノ語の元とされるタガログ語は:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%AC%E3%83%AD%E3%82%B0%E8%AA%9E

「フィリピン語 (Filipino) は憲法に定められた国語としての名称であり、

実質的にタガログ語とほぼ同じと考えてよい。タガログ語がfp

区別を持たないため、この言語は「ピリピノ」語 (Pilipino) と名づけ

られたが、1972年憲法で「フィリピノ」語 (Filipino) に改称された。」

=== 翻って、日本語に占める外来語がどのくらいあるのか

    ちょっと気になったんですが・・日本語教師なんで・・笑

    こんな記事がありました:

http://near.nara-edu.ac.jp/bitstream/10105/1740/1/NUE42_1_225-239.pdf

「 外来語についてはいくつかの資料がある。その一つは、国立国語

研究所の『日本語教育のための基本語嚢調査』(1)である。この中には、

 「基本語二千」と「基本語六千」があって、外来語がその中に占める

割合は、 「基本語二千」では、 2.3% 「基本語六千」では4.5%であ

る。日本語全体に占める外来語のおおよその割合は、使用場面、

発話スタイルによって異なるので、一概にはいえないが、辞書から

推定すると、少し古い資料ではあるが、 1956年版『例解国語辞典』

の見出し語で、 3.5%である(21)

 

p127

フィリピンはアジアにおいて唯一のスペイン語を話す国である.

ラテン文字とスペイン語(それに英語)の知識を持ち、フィリピンの

人々は西欧諸国に身近にリンクされてきた.

これらの言語的メディアを通して、フィリピンの人々は西側の

知恵を吸収し、西欧の哲学者と教師の考えを学ぶことができた

のである.

=== この教科書は 1994年に書かれたようですが、

    家庭教師の元大学教授によれば、ご本人の親の時代は

    スペイン語を話す人が多かったとのことです・・

    しかし、最近はスペイン語の授業はあるものの、

    ほとんどの大学生はスペイン語を選択してはいない

    ようです・・・

 

=== その62 に続きます ===

 

 

 

 

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2015年3月25日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 60 日本のスパイ?も見たフィリピンの女子教育

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY   GREGORIO  F. ZAIDE

 

OUR  SPANISH  HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

 p125

「スペイン時代のフィリピン人女性たち」

フィリピン人女性の社会的な地位は、スペイン時代以前にも既に高かったのだが、スペインによる統治時代にさらに高くなった. 多くの東洋の国々やヨーロッパのいくつかのキリスト教国とは異なり、彼女たちは単なる家の所属物とも考えられなかったし、田畑や道路で重荷を担う家畜という扱いでも決してなかった.

彼女たちは男たちから尊敬されていたのである.

未婚であれば、ダンスや他の社交的な集まりに出る時には必ず付き添われていた. 彼女たちは大学で学ぶ自由はなかったし、職業(法律、医学、技術など)に就く自由も、男たちと自由に交流することもできなかった. しかし、慣習と法律によってビジネスに関わることは許されていた.

 

=== これで思い出すのは、男女の交際は必ず複数の

    男女同士であったり、兄弟が付いて来たり、

    男女二人きりにはならないことだったり、

    フィリピン人は嫉妬深いということだったりします・・

    それに、小さなビジネスをやっているのは

    圧倒的に女性が多いような感じなんですねえ・・

    こういうのは伝統なのかもしれません・・

    でも、それにしては、若いのに既にシングル・

    マザーだったりというのも多いですね・・

 

 

若い女性たちは家や学校に隔離されていた. 彼女たちはColegios(大学)で教育を受けていたが、それは尼僧によって運営されている女学校であった.  このコレジオでは、道徳的な品行の厳格なルールを守り、料理をこなし、裁縫と刺繍、そして音楽を知り、良妻賢母となる為に学んだのである.  結婚する気がなかったり、ロマンスにおいて不運だった若い女性たちは、通常は女子修道院に入り、神に仕えることに人生を奉げたのだった.

 

=== ここでも私はかなり疑い深いんです・・・

    そんなに一般的に女子教育がされていたというのも

    信じられないんですけどねえ・・何割だか分かりませんが・・

    結婚しなかったら尼僧院ってのもねえ・・

    どこまで一般的だったんでしょうか・・

 

    しかし一方で、スペインからアメリカに代わった後、

    今から100年前ぐらいに出版された本にこんなことが

    書かれてもいるんです・・・


http://janl.exblog.jp/18939480

 

「p427 比律賓に来りて、最も旅行家の耳目をxx動するは、其の土人教育の盛大なるにあり、爪哇、印度支那に於いては、吾人は容易に学校を見ず、学童に接せず、馬来半島でも・・・・比律賓に来りて、吾人は学校と学生の多きに、今更の如く感じたり・・・(爪哇=インドネシア・ジャワ島、印度支那=インドシナ、馬来半島=マレー半島)

p428 十五歳より二十五歳まで位の女子の学校に、往来する事なるを聞き、

一驚三嘆せざるを得さりき・・・・比律賓を自治国たらしめんと欲せば、自治国民たるの資格を比律賓人に与へざる可からず、・・・・」

 

===つまり、当時の日本を含む他のアジア諸国に比べて、

   かなり女子教育が普及していたということです・・

   これがスペイン時代からあったのかもしれません・・

 

p125

リサールの小説にある美しいマリア・クララは、スペイン時代のフィリピン女性のあり方を華として象徴しているのです.  マリア・クララには、女性の最良の特徴を見ることができます -魅力的で、穏やかで、そして信心深いことです.

 

アメリカの歴史家、 James A.  LeRoyは、社会におけるスペイン時代のフィリピン人女性の尊敬すべき地位を、キリスト教の影響に帰するものだとしています.

彼は次のように言っています: 

「東洋のどこにも、このように女性が比較的自由な地域はなく、また、家族あるいは社会、そして産業分野ですら、その管理の中で大きな役割を演じている国はないと言っても言い過ぎではない. この東洋における周辺の国々と比較して、フィリピンの女性たちの地位に相対的な改善があるのは、キリスト教信仰に基づくものであるとするすべての理由があると思われる・・・」

 

==== 翻って、日本の女子教育の歴史を見て見ますと:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E5%AD%90%E6%95%99%E8%82%B2

 

「女子の高等教育は教員養成から始められ、1874年(明治7年)に女子師範学校が設けられ、1890年(明治23年)には女子高等師範学校が設置された。明治30年代になると、日本女子大学校などの私立の高等教育機関が設けられたが、いずれも専門学校(旧制)であった。その後、大正年間には女子の高等教育振興の声も大きかったが、女子は大学教育から疎外されていた。」

 

・・・内容や数などの比較は難しいですが、日本と比べてもフィリピンの女子教育は進んでいたようですね・・・今でも、バギオにたくさんの大学がありますが、大学には女子大生が溢れていますからねえ・・

 

 

===  シリーズ61回 へ続きます ===





 




 

 

 

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2015年3月24日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 59 これは道徳の教科書なのか? あまりにも宗教的な・・

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

002


 

p124

 

「家族生活」

 

スペイン時代の家族生活は、簡素で道徳的に健全なものでした.

それはキリスト教の高尚な影響によるものでした.

父親は、家族の主としての立場がありましたが、専制的では

ありませんでした. 彼は、子供たちの母親である妻に、

家庭のこと-子供たちの教育も含めて、家族の出費、

財産の売買に影響するビジネス取引などについて意見を求めました. 

母親は通常子供たちの第一の家庭教師として役割を果たしました.

子供たちに最初のアルファベットを教え、キリスト教の祈りを

教えました. そして、家族の資金と鍵の管理人でもありました.

 

家族の繋がりは大変緊密でした. 両親と子供たちは一緒に

毎晩アンジェラス(祈りの言葉)とロザリオ(念珠)を唱えました.

このゆえに、そこで良く知られたことわざは真実でした -

「共に祈る家族は共にある」. 家族は毎食前にも一緒に祈りました.

家族は義務である日曜日の礼拝、町のお祭りやその他の宗教的

祭日の礼拝を聴くために一緒に教会に出かけました.

夫婦の口論が元で壊れてしまった家庭は、スペイン時代には

珍しいものでした. 両親は子供たちの為に多くの時間を

費やしました. 両親は子供たちを慈しみ、それに応じて、

子供たちは親に従い、尊敬しました. 尊敬のしるしとして、

子供たちは、毎晩の祈りの後、家から出かける時、そして

家の戻った時に、両親の手にキスをしました.

 

 

===  おおお、これが本当に教科書なのかと思うぐらいに、

     日本人的に読むと、あまりにも、あまりにも、

     宗教的、道徳的な記述ですね・・・

 

     ですが、それはそれとして、実際に今でも

     フィリピンの人たちは、事あるごとにきちんと

     お祈りを欠かさないことは事実です・・

 

     それにしても、正直 ちょっと美化しすぎでは

     ないかと思いますけどねえ・・・

     ホセ・リサールの「ノリ・メ・タンヘレ」なんかを

     読むと、スペイン時代の植民地としての困難さが

     たくさん書いてありますしね・・・

=== ロザリオの部分の翻訳が微妙なんですが、

      ロザリオの「使い方」がこちらに書いてありました:

      「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA

      「 ロザリオは、聖母マリアへの祈り(アヴェ・マリア)を繰り返し唱える際にその回数を確認するために用いる道具である。ロザリオは手で手繰って祈るもので、文化・地域により受け取り方には多少の差はあるものの、首にかけるのはふさわしくないとされることが多い。形状としては、小さなものは10個の珠と十字架だけというシンプルなもの、大きなものでは十字架だけでなくキリストの像や「不思議のメダイ」(後述)が付いているものもある。」

キリスト教の伝統の中で、聖母マリアへの祈りは初代教会から始まっていたと考えられている[2]が、これをいまの「ロザリオの祈り」の形にまとめ、普及させたのは聖ドミニコ1170 - 1221年)と言われている。」・・・ともありますので、上記の翻訳は

「ロザリオの祈り」を唱えるとすべきかもしれません・・・


 

p125

 

スペイン下の家族生活を高く評価して、英国の著述家 W. Gifford 

 

Palgraveは次のように書いている:

 

「マレー人種の中で、家族の繋がりがこのように緊密で、

家族の愛情が永続的な人たちはいない・・・彼の家族は

気持ちの良い光景である; 上下関係がしっかりしていながら

束縛は少なく、立場をわきまえた結束があり、気ままではなく

自由である. 子供たちは行儀がよく、両親は尊敬され、

女たちは従っているが抑圧はされず、男たちは治めているが

専制的ではなく、優しさのある敬意、愛情のある従順さ、-

これらが愛すべき絵を形作り、そして、どうみても 東の島の

その村において稀というわけでもないのだ.

 

=== う~~ん、よっぽど良い家庭を見ちゃったんですね.

    私が疑い深い性格なのかなあ・・笑

 

=== この部分は、実に翻訳が難しくて、自信ないです・・

    教授に正しい意味を確認しなくちゃいけません:

 Nowhere  are  family  bonds closer  drawn….

… unity in gradation, liberty not license…

   Reverence with kindness

 

 

=== その 60 に続きます ===

 

 

 

 

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2015年3月23日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 58 キリスト教、食事と衣服の変化 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

005


 

p123

 

征服の権利により、スペインは3世紀(1565-1898)

渡ってフィリピンを治めた. この長きにわたって、スペインは

その宗教、言語、慣習、芸術そして科学をフィリピン人に強いた.

フィリピンの人々の人生の節目節目において、スペインの影響を

感じない時はなかった.  スペインの文化的遺産は、その政治的

及び経済的に与えられたものよりも恩恵があり、幅広いもので

あったと言うのが公正であろう. 

 

 

「キリスト教、スペインの最大の遺産」

フィリピンの人々にとって最大のスペインの遺産はキリスト教の

信仰であり、特にローマ・カトリックの宗教である.

不思議なことに、この宗教はその起源においてはアジアの

ものであり、パレスチナのイエス・キリストによって創始された

ものである; キリスト教は、キリストの磔刑の後、かなり経って、

西ヨーロッパへ拡がり、16世紀と17世紀に、スペインが

大西洋を越えて新世界(西インド、北アメリカ、中央アメリカ、

そして南アメリカ)へ伝播させ、太平洋を渡ってフィリピンへ

伝え、フィリピンを最大の勢力としたのである.

 

=== ここで、ええっ? と思った方はいませんか?

    キリスト教はアジアの起源

    パレスチナはアジア?

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2

 

「アジア(亜細亜、Asia[ 1])は、アッシリア語で東を意味する「アス」

に語源をもつ。

古代では、現在の小アジアを指したが、現在では一般的にヨーロッパを

除くユーラシア大陸全般を指す一方で、政治的・経済的な立場の違いに

より、異なった様々な定義がなされる場合がある。」

 

・・・私なんかのイメージだと「中近東」という感じですかね・・

いずれにしても、はっきりした区分がないようですね・・

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E8%BF%91%E6%9D%B1

 

 

フィリピン人のキリスト教化は、スペイン宣教師たちの実に

最も顕著な業績であった. これらの宣教師たちはスペインの

征服者たちと一緒にやってきた.  後者は人々をスペインに

隷属させるために征服したので、彼らをキリスト教に改宗させた.

かれらの使徒的な働きの結果として、フィリピンの人々は

アジア世界全体の中でも他に類のない唯一のキリスト教国に

なったのである. 

 

=== この辺りは、さすがにキリスト教の国としての

    記述とみえますね・・・

    日本史の教科書なんかには見られない宗教に関する

    書き方じゃないでしょうか・・

    元々はイスラム教が特にフィリピンの南の島々では

    多かったはずですから、それがどのようにキリスト教化

    されていったのかにも興味が湧きます・・

 

 

p123

「日常の食事と服装」

 

スペインは新たな食用植物を導入して人々の食事を改善した・・

それは、小麦、とうもろこし、パタタス(白いじゃがいも)、カカオ、

コーヒー、キャベツ、パパイヤ、チコ、そしてグアバなどである.

 

=== へえ~~、パパイヤやグアバもスペインが持ち込んだん

    ですねえ・・・なんだか不思議な感じです・・

 

 

パパイヤ:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2

「メキシコ南部から西インド諸島を原産[2]とする(草本性)常緑小高木[3]である。」

 

グアバ:

http://www.kudamononavi.com/zukan/guava.htm

原産地:熱帯アメリカ

 

・・・なるほど、両方ともにアメリカ大陸なんですね・・

メキシコ経由で持ち込まれたようですね・・

 

 

p123

小麦は真っ白な小麦粉に製粉され、オーブンで焼かれ、パンになった.

初めて、フィリピンの人々はパンを食べることを学んだのである.

カカオの種からはチョコレートが作られ、朝食あるいはおやつの飲み物

として人気が出た. また、コーヒーも飲まれるようになった.

その他のスペインによってもたらされた食品は、

ビーフ(牛の肉)、マトン(羊の肉)、ロンガニーサ(ソーセージ)、

jamon(ハム)、そしてイワシであった.

 

=== ロンガニーサは朝食の定番メニューですね・・

    イワシってフィリピンの近海では獲れないみたいですね、

    こちらのサイトでみると、イワシはもっと北の海

    なんですね:

    「http://shimura.moo.jp/osakana4/30.htm

 

    私の下宿でも、イワシのトマト煮の缶詰が時々

    朝食に出てきますよ・・・

 

p123

スペイン時代に、フィリピンの人々は初めてヨーロッパからの

缶詰食品を食べることを知りました. 例えば、chorizos de Bilbao

スペインの鰯、オリーブオイル、そして英国からのピクルス;

そして、食事をしたり、ワインを飲む時に、スプーン、フォーク、

グラス、テーブルナイフ、ナフキンを使うことも・・

 

 

=== こちらにスペインの食べ物のサイトがありました:

http://www.laespanolameats.com/mm5/merchant.mvc?Screen=FOODGUIDE

Chorizo de Bilbao: 

One of Spain's most popular cooking chorizos, this is another sausage originally from the Basque provinces and around Pamplona.

 

 

・・・ただ、今でもスプーンやフォークではなくて、手で食べる

   人たちも結構多いみたいですね・・

   日本だったら さしずめお寿司を手で食べるようなもの

   でしょうかね?

   こういうスペインからの輸入品を一般のフィリピン人が

   食べたとは思えませんが・・・

 

 

p124

 

服装の変化については、スペイン時代に著しい変化があった.

男のジャケットやBahagは、西欧のコートとズボンに

とって変わった.

コートはアメリカ(メキシコ)から導入されたので、

よくアメリカーナと呼ばれていた. 男たちは、Putongの代わりに、

帽子をかぶり始め、そして、足にはスリッパや靴を使った.

 

 

=== ここの「ジャケット」や「コート」ってのが

    どんな変化だったのかイメージがつかめませんね・・

 

=== Bahagというのは これですね:

http://vachalenxeon.deviantart.com/art/Loincloth-Bahag-214881447

日本のふんどしよりも カッコいいですね・・

バギオ市は山岳地帯の高原都市ですから、山岳民族の衣装を

特にお祭りなどの際に良く見かけます・・・

http://www.inquirer.net/?attachment_id=36333

 

こちらのサイトに 「ジャケット」の写真がありました:

http://image.slidesharecdn.com/philippinehistory-pre-colonial-period-130204062944-phpapp02/95/philippinehistory-precolonialperiod-7-638.jpg?cb=1359981140

 

Spanish Coatというのがありましたが、昔の時代のものがこれと

似ているのかどうかは分かりません:

http://duderanch.exblog.jp/17079008/

 

 

・・・ ここで、翻訳上のむずかしさがあるんです・・・

日本で言うジャケットと フィリピンで言うジャケットは物が

違うんですねえ・・・

例えば日本で言うジャンバーのことをフィリピンの人は

ジャケットと呼ぶんです・・

日本語のカタカナ言葉と英語とでも違いが多いにあるし、

アメリカ英語とイギリス英語でも若干の違いがある

ようなので、翻訳するときはイメージがつかみにくいんです・・

 

 

p124

 

女性たちも衣服のモードを変えました.

彼女たちは、Sarongをやめ、下半身にはSaya(スカート)を

身に着け、上着には長くて広い袖があるCamisa

それまでの長そでのジャケットに代えて着るようになりました.

彼女たちは、スペイン時代の前のご先祖と同じように、

宝石などで飾り続けました. 金のイアリング、指輪、ペンダント、

ネックレス、そしてブレスレットは使いましたが、

腕輪や足輪は使わなくなりました・・・

そして、スリッパ、靴、ストッキング、櫛、mantillas、そして

Panuelosをスペイン女性のように使うことを習いました.

 

 

Sarongは 腰布のことです:

http://en.wikipedia.org/wiki/Sarong

 

saya(スカート)とcamisa(ブラウス)は こちらで:

http://en.wikipedia.org/wiki/Mar%C3%ADa_Clara_gown

 

 

mantillaとは、レースまたはシルクのベール、あるいはショールだそうです:

http://en.wikipedia.org/wiki/Mantilla

 

penueloもショールの一種のようです:

http://mybarong2.com/women-panuelo-wrap-100532-turquoise-blue-made-order-p-689.html

 

 

・・・インターネットで検索しても、伝統的な衣服を説明

しているものがなかなかないので、上記のリンクにあるものは

当時のものとは違うかもしれません・・・

 

ちなみに、Penueloで検索すると、ほとんどが人名として

出てきます・・

 

 

=== その 59 に続きます ===

002


 

 

 

 

 

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2015年3月22日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 57  農業、人口、繁栄から革命へ

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

8 OUR ECONOMY UNDER SPAIN  第八章 スペインの下のフィリピン経済

 

p121

「農業の発展」

フィリピンが世界貿易に開かれたことが農業の生産を刺激しました.

世界のマーケットでフィリピンの産物に対する大きな需要があったのです.

特に、麻、タバコ、砂糖、そしてコプラ(ココナッツ)でした. 

=== ここで麻というのはhempと書いてあるんですが、

 Hempには 麻の繊維という意味と大麻、つまり麻薬って意味が

    あるんです・・・それから、コプラですが、これはやし油、

    石鹸などの原料と辞書にあります・・

 

バタンガス地方は有名なコーヒーの産地となり、イサベラはタバコ、

ラグナとタヤバスはココナッツ、カマリネスは麻、そして

ネグロスは砂糖で有名な産地となりました.

1851年にロンドンで開催された万国博覧会では、カガヤンの

タバコがその優れた品質でゴールド・メダルを獲得しました.

興味深いことには、スペインの植民地だった最後の世紀には、

フィリピンは中国に米を輸出していたのです.

スアル(パンガシナン州)の港は、「米の港」として知られて

いましたが、それはその主な輸出品が米だったからでした. 

==== ロンドン万博については、こちらでどうぞ・・

1851年第1回ロンドン万博

世界初の万博、大成功

http://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1851.html

日本は、日本初出品「幕府」「薩摩」「鍋島」が参加 1867年なんですね:

http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/hakurankai/kako.html

 

近代的な農業の実施と科学的な栽培方法がフィリピンに導入されました.

1836年に、Eulogio de Otaduy は最初の米の籾摺りの蒸気機関を

導入しました. 2~3年後に、Nicholas Loney、英国の商人、はネグロスに

最初の砂糖の外皮を取る蒸気機関を導入しました.

1838年の始めに、政府によって、様々な実験農場が設立されました、

それは、ビガン(南イロコス州)、マガラン(パンパンガ州)、

ダラガ(アルバイ州)、イラガン(イサベラ州)、そしてラ・パズ

(イロイロ州)でした.

これらの農場では、新しい種類の植物を育てたり、家畜を飼育したり、

新しい技術による土地耕作などの実験が行われました. 

1890年、La Granjaと呼ばれるモデル農場が ネグロス・

オキシデンタル州ラ・カルロタの 州知事 Valeriano Weylerによって

設立されました. Don Jose Sanchez、スペインの土壌学者、の有能な

経営の下、この農場はフィリピンで科学的農業の最初の実験を

指揮したのです.

 ==== まあ、これらは全部スペインの植民地であるということが

     前提ですから、こういう発展がフィリピン人にとって

     どうだったのかという点については、どうなんでしょうねえ・・

     この著者はスペイン系の人だそうですから、

     家庭教師の元大学教授が言ったように、スペイン寄りの

     歴史記述になっているのかもしれません・・

     最近のフィリピンの歴史家がこのあたりをどのように

     書いているのか、知りたいところです・・ 

p122

「人口の増加」

経済的繁栄とそれに伴う社会的及び健康における改善は、人口の

増加をもたらした.  1591年、レガスピがマニラを創設して

から20年後に、スペイン当局によって人口が667、612人

に届くだろうと推計された.  この人口推計は1829年、マニラが

世界貿易に開かれる5年前には、2、593,287人に増加した.

マニラが開かれた後、人口は著しく増加した.

1840年   3,095,761

(略)

1899年   6,703,311

004

ちなみに、江戸の人口がどの程度だったかと気になったんですが、

以下のような数字がありました:

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E3%81%AE%E4%BA%BA%E5%8F%A3

「人口に関しては、記録に残っているのは幕末に60万人近くと

なった町人人口のみであり、人口100万人とは、幕府による調査が

行われていない武家や神官・僧侶などの寺社方、被差別階級などの

統計で除外された人口を加えた推計値である。」

 

幕末ってことは、1853年頃ってことになっていますので、

上の数字の間ってことですね・・・

江戸が中をとって80万人だとすれば、マニラは400万人ぐらい

だったってことになるでしょうか・・・

p122

「新たな中産階級」 

フィリピンが世界貿易に開かれた後、物質的繁栄が出現したことにより、

中産階級が生まれ、国のバックボーンとなった.

この中産階級には、裕福な地主、農家、法律家、医者、教師そして

政府職員などがいた.  彼らは本や定期刊行物を読み、社会問題を

語り、子供たちをマニラや海外の大学で学ばせた. この新しい中産

階級から、フィリピン革命の種を撒いた、プロパガンダの動きの

リーダー達が立ち上がってきた.

それは、リサール、 デル・ピラール、ロペス・ジャエナ、

パンガニバン、ポンセ、等多くの人たちであった.

 

=== なるほど、経済成長が人々の知識と生活を向上させ

    革命に向かわせたということなんですね?

・・・さて、これで第八章を終わりました・・

次回からは 第九章 「私たちのスペインの遺産」に入ります.

== 次回 58 へ続きます ===

 

 

 

 

 

 

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