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2015年10月 3日 (土)

ややこしい日本語ー7  誰が食べたの?

一服していて ふっと頭に浮かんだ・・・・日本語教師症候群・・・・

日本語の助詞 「は」と「が」は 悩みのタネなんですが、

「父帰宅してから、夕食を食べた」(1)
「父帰宅してから、夕食を食べた」(2)

(1)は 勿論 「父は食べた」わけですね。

(2)は、どうですか?

まあ普通に感じるのは、
「父が帰宅してから、私は夕食を一緒に食べた。」
っていう状況ですね。
「私が」が省略されてる?

でも、
「父が、帰宅してから夕食を食べた。」もあるわけですね。

文章として「、」があれば分かるって話になるんでしょうか?

句読点の使い方が問題ってこと?

じゃあ、会話の場合は、どうすんの?
「父が てん 帰宅してから 夕食を食べた。」とでもいうの?(笑)

・・・で、この文はどうですかね?

「父帰宅してから夕食を食べたのには理由があった。」(A)

なんて文章だったら どっちの意味にとりますか?

これだったら両方いけますよね?

この二つの意味をはっきりさせる為には、どう書いたらいいの?

<食べるのが父の場合>

「帰宅してから父夕食を食べたのには理由があった。」(B)

<食べるのが私の場合>

「帰宅してから私夕食を食べたのには理由があった。」(C)

・・・・つまり、どういうこと?

(A)の場合は、「父」の後に 「帰宅して」と「食べた」の
二つの動詞が続いているから、省略された「私が」という主語が
割り込む余地ができてしまうから、二つの意味に取れるってことかな?

(B)と(C)の場合は、
「父」の後にすぐ「食べた」、「私」の後にすぐ「食べた」が
きているから、混乱しないってことかな?

それじゃあ、さらに、「帰宅した」のは誰だ ってことになりませんか?

(B)の場合を展開していくと:

「父本人帰宅してから父夕食を食べたのには理由があった。」

「私帰宅してから父夕食を食べたのには理由があった。」

(C)だって、同じことですよね:

「父帰宅してから私夕食を食べたのには理由があった。」

「私自身帰宅してから私夕食を食べたのには理由があった。」

・・・・うううううう・・・・なんてクドイ日本語なんだ。

やっぱ、日本語って文脈で意味を判断する言語みたいですね。

実にややこしい・・・・

こういうのって、英語じゃ どう言うんでしょうかねえ。

日本語は「地べたにへばりついた言語」で、
英語は「空中から俯瞰する言語」っていうような表現を
されることがあるんですけどね。

つまり、英語の方が客観的、神の視点から見下ろしている。
日本語は、話し手と聞き手が、地べたにへばりついて
キャッチボールをしている、ってことらしいんですが。
だから、会話をしている二人の間での文脈が前提で
主語が消されてしまうってことみたいなんですけど。

・・・なんてことを「ややこしい」って日本語教師症候群に
なっていたら、こんなサイトがありました。

「深く考えたらアカン。言語はアホになってマネして覚えた勝ちや」
http://rocketnews24.com/2015/07/26/612390/

まあ、それも真理。
だけど、日本語教師としては、一応格好をつけないといけないしねえ。
あはははは

  

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フィリピンの「山下財宝」に熱心な諸兄に贈る一冊 笹倉明著「最後の真実」その4

その4では、財宝探しには直接は関係ないんですが、
へえ~~と感心したことなどを 拾って ランダムに引用してみます。

Img_4764

p119

山下財宝とマルコス資産
二人の実在の人物の名が冠された金塊、財宝群の実体は同一であり、
いまや、それをめぐって国際的な争奪合戦がくり広げられているようだ。
・・・大東亜戦争の実態、つまり、領地や資源の争奪戦であったという
本質的な部分が、未だ尾を引いているともいえるだろうか。

p120
マルコス一族が正当、不正を含めてめいっぱい蓄財に精を出した
ところで追いつかない数字の説明は一体どこでつけるのか。

p141
1969年の大統領選挙で、マルコスとその一派は、国の財産の
ほとんどを奪い、使い果たした。 何億ペソにものぼる経費を
浪費し、その結果、1970年にはかつてなかったひどい
インフレをまねき、対ドル交換レートが、1ドル3.90ペソから
1ドル6.85ペソにまでなった。

=== ちなみに、戦前は 1ドル=2ペソぐらいだったそうです。
    今は 1ドル=47ペソぐらいです。

戦前の円はどうだったかと言うと:
1932年夏には100円=30ドル前後、1932年暮れには100円=20ドル前後
1941年には1ドル=4.2円程度 だったそうです。 (wikipedia)
・・つまり、1ドル = 3.3円、 5円、 4.2円・・・・

戦後は、
1947年3月に1ドル=50円、1948年7月に1ドル=270円、1949年には1ドル=360円
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%86%E7%9B%B8%E5%A0%B4

Img_4774

p159

すると、マルコス判事はカッとして口走った。
「あなたはその件について沈黙を守ったほうがいい。
仏像の押収を命令したのはプリンスだ。 あなたがその件を
警察に訴え出たことを知ったなら、CIS(犯罪捜査局)はあなた
とあなたの仲間をすべて殺すだろう」

== プリンスと言うのはマルコス大統領のこと。

p163
<フィリピン人の国民性について>

彼らはシリオソ(深刻さ、もしくは深刻な人)をきらう・・・
物事をくよくよ考えてばかりいて、解決の術がみつけられない人は
愚かであり、物事に厳しすぎて融通のきかない人や、結果を恐れて
行動に移せないような人もその部類に入る。

お金に困れば、最短の解決策は人に借りることだ。
返済の可能性はさておき、金の貸し借りはじつに頻繁に行われる。
借りても返せる見込みがない場合、それに代わるもので埋め合わせを
したり、そのうちとんずらしてしまう。 
バハラナ(なんとかなるさ)という言葉がシリオソの反対語か。

時間を厳格に守ることも苦手だ。
六時からの会合にしたければ、五時からと言っておかねばならない。
約束はやぶられるためにある、という諺は誰もが知っている。

=== まあ、このあたりは確かに頷けますね。

Img_4776

p164
そういう国民性にどうにかついていけるのは、アジアでは
日本人だけではないかと筆者は思っている。
あるドイツ人のジャーナリストなどは、あまりの文化ショックに
気が狂い、奇行に走って本国送還と相成ったし、お隣の韓国に
しても近頃は企業進出がさかんであるが決してうまくいっていない。
アラブ人のきらわれようは相当なものだし、シンガポールは
相変わらず水と油だ。 中国人もその商魂のたくましさ、
結束のつよさゆえにきらわれ者だ。
日本人だけがどうにか、いや人によってはどっぷりと、彼の地
になじめる性質をもっているのだ。

これは特筆すべきことにちがいない。
・・・互いに、”許しの国”であるからだ。
カトリックは寛大な許しの宗教だが、フィリピンのそれは
まったくもってその通りで、総体的には大乗仏教の国、日本の
文化と相通じるものがある。

=== う~~ん、これはどうなんですかねえ。
    「日本人だけが・・」ってところはちょっと首をかしげ
    ますけど・・・まあ、「どっぷり」という日本人も
    確かにあちこちで見かけます・・・俺もかな??
    韓国、アラブ、シンガポールの理由をもっと詳しく
    書いて欲しいけどなあ・・・

p165

ゴールデン・ブッダ事件(71年)は、まさにその極めつけ
といってよい。 マルコス大統領とその取り巻きが、あとさきも
考えず、とにかく行動に移し、結果、未曾有のスキャンダルに
まみれていく、その思慮の浅はかさは、ほどんと喜劇の領域にある。

=== まあ、一応フィリピンも法治国家ということには
    なっているんですが、地元の人たちに聞いても
    法律はあるけど ガバナンスがほとんどない・・
    ということらしいです。
    まあ、最近は日本も怪しくなってきていますけどね。
    

p167

ブッダ強奪の事実はやがてマスコミと野党勢力の知るところとなる。
反マルコス派の上院議員、つまり、野党の三巨頭である
セルジオ・オスメニII世、ベニグノ・アキノ、サルバドール・ラウレル
らは、好機を得たとばかりに事件を問題にし、民衆の反政府感情を
あおっていく。

p176
彼の国の捜査機関については、しばしば警察の腐敗が云々される。
が、情報に関しては、意外なほどの網をはりめぐらしている。
道端で、バロット、バロット、と孵化寸前の卵を売り歩く老婆
までが、何らかの情報の提供者だといわれるほどだ。
路地裏から路地裏へ、玄関先から玄関先までが情報機関にカバー
されているといっても過言ではない。

===  へえ~~、まあ、マルコス時代はそうだったかも
     しれませんが、今はどうなんでしょうねえ。
     意識的な情報網なのか、社会の在り方にそのような
     土壌があるのか・・・
     フィリピン人は噂話が好きってのは聞いたことが
     ありますけどね・・・

p184

70年代初頭のフィリピンといえば、米国のアジア戦略の要と
して、その恩恵を受けながらアジアで唯一といってよい豊かさを
ほこっていた。 が、やがてベトナム戦争も終わるころ、
すなわち72年の戒厳令を境にして、マルコス独裁政権は
富を独り占めすることによって、民衆をしだいに貧困の淵へと
追いやっていく。
・・・アメリカの黙認の下で実に計画的に政権維持をはかった
結果が戒厳令だった。

=== なんだか、今のどこかの国と似たような雰囲気も
    ありますねえ・・・大丈夫かいな・・・

p192

確か、キアポ(マニラの下町)の職人に造らせたから、
「ゴールデン・ブッダは メイド・イン・キアポなのさ」
そう言って笑っていた。

=== これは、黄金の仏像が2週間の間に偽物とすり替え
    られたという話の中で、じゃあどこで偽物がつくられた
    のか・・という話です。

p193

キアポこそはあらゆる贋作のメッカであるからだ。
にせの身分証明書や出生証明、パスポート、卒業証書など、
何でも器用につくってしまう。

p225

英国のこだわりの極めつけは、三十二カ国を結集して
フィリピンに隠匿された財宝の所有権を国際法廷に訴えて
取り決めたことだろう。
日本の戦後補償は終わっているが、表面には出せない問題が
未だくすぶっていることの、それは明快な証しと言える。
つまり、日本軍による南方物資の調達、奪取にともなって
生じた問題、いわゆる山下財宝の問題が英国の音頭取りで
国際裁判所に提訴されたことは、きわめて示唆的と言わざるを
得ない。

それによると、・・・フィリピンに隠匿された財宝類は
フィリピンのものではなく、それが持ち出された国々の
もの、とされたのである。
これは後に二十年の延長が決定されて、2005年まで
となった。

p226

もちろん戦争期には、シンガポールをはじめ南方から最後の
激戦地、フィリピンへ、最期の財宝類が運びこまれた事実を
つかんでいなければ、わざわざ三十二カ国を結集して
国際法をつくるという面倒なことをするはずがないのである。

=== これですよ、これ。
    今までいろいろ本なども読んだんですけど、
    山下財宝がそもそもどこから来たのかって話を
    きちんと根拠を出して書いてあるものはなかった
    んですよねえ・・・

随分 早足でご紹介しましたが、いかがですか?

なかなか面白そうな本ですよね。

これで、フィリピンの人を相手にしても、
ちょっとしたり顔で 山下財宝のことをしゃべれそうです・・・?

== 完 ==

 

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2015年10月 2日 (金)

フィリピンの「山下財宝」に熱心な諸兄に贈る一冊 笹倉明著「最後の真実」その3

その3では、この本に書かれている 「ここに山下財宝があった」って
ことを匂わす部分を抜き書きしてみましょう。

バギオ市の周辺に住んでいる方なら、「おお、ここか!」って
話のネタにはなるんじゃないでしょうか・・・

もっとも、既に本に書かれているってことは、
マルコス大統領がすでにさんざん掘り起こしてしまった所でしょうけど・・

Img_4769a

p33

ウマリらトレジャー・ハンターは、もちろん老人の話を信じた。
そして、さっそくバギオに近い山岳州、クロンダイク地区での踏査を
開始する。
・・・・
西方を向いてそそり立つ険しい崖下にある土手であった。
・・・古い洞穴を探して骨の折れる行軍をしてきた・・・
小さな滝があり、岩石を敷き詰めた滝壺に水を落としていた・・
そうだ、老人は滝と小川のことを言っていた。

== このクロンダイクっていう場所は、
   ケノン・ロードの途中にある 温泉のある地区のことだと
   思われます。

p85

旧日本軍人フシュガミは、・・・・
我々の仲間は、ブギアス山中に戦略トンネルを建設するように
命じられました。 ロー・バレーに近いところです・・・

p87

現地の働き手や警備兵たちには決して知られないように、とね。
もし秘密を漏らせば、それは死を意味したのです。
実際、我々は、そのトンネルをどのように爆破するかを知って
驚き、恐ろしくなりました。 ・・・トンネル内で作業をして
いる最中に爆破する、というものだったからです。
四百人もの人間が何も知らずに生き埋めにされるというのです。

p97
「その戦略トンネルは、本当にブギアスにあったのかい?」

「・・・いまなら言えることがある。 あのトンネルの場所は
ブギアスではない。 ・・・」

「上院の公聴会での証言もトンネルはブギアスということに
してある。 今後の裁判の行方も考えなければならないからね」

p194

「その日本人からもらった地図は、バギオ近郊の廃鉱跡だと言っていたよ」

「そう、バギオ近郊にはあちこちにある。 その一つだと言っていた。」

p232

そもそも、ゴールデン・ブッダはどこでみつかったのかについて、
アル・ウマリが TVその他で、ブギアスのトンネルではないことを
示唆して以来、一つの噂が飛び交った。

つまり、バギオ・プロビンシャル・ホスピタル(バギオ州立病院)の
地下壕でみつかった、というものだ。
バギオ・ジェネラル・ホスピタルと通称されるその病院は、
ベンゲット道からバギオ市内にさしかかる入口付近、左側の
小高い山の上にあり、山下が一時司令部として使用したところである。

p235

滑走路をもつ鉱山で、鉱山技師の宿舎および事務所や五百フィート
に及ぶエレベーター付きの縦坑としれにつづく横坑があった。
この縦抗の近には、ゲストをもてなすバーのついた瀟洒なレストラン
があった。

p237

そこは、もう改めて述べるまでもなく、ベンゲット金鉱群の
一つであった。 ・・・が、筆者は、それをここで特定して
各方面の関係者に迷惑をかけることは避けたいと思う。

== さて、皆さん、いかがですか?
   BGHの地下壕って話まで出てきましたよ。
   実際、地元の人から、あのBGH病院のところには
   地下を通っているトンネルがあったという話を聞いたことが
   あります。
   日本人の戦争体験者が書いた本にも よく出てくる病院で、
   当時は兵站病院としての役割があったようです。

   それに、金鉱山・・・なんだか「あそこかなあ」という
   鉱山みたいですけどね。
   飛行場なんてあったかな?

念のために言っておきますが、
本に書かれているってことは、既に終わっている場所ですからね。
今から行っても遅いですよ。(笑)

それに、もし仮に見つけたとしても、
この本にあるように 悲惨な最後になることも覚悟が必要みたいです。
まあ、その前に人生を棒に振るでしょうけどね。

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フィリピンの「山下財宝」に熱心な諸兄に贈る一冊 笹倉明著「最後の真実」その2

その2です。

この本の良いところは、単なる財宝探し情報にはなっていないところです。

ベースになっているのは、実際に山下財宝と思われるものを発見し
その後数奇な運命を辿り、それを本にした アルバート・ウマリの
本やインタビューです。

Img_4771

その著書というのは「マルコス・ゴールドを追って --
ヤマシタ・トレジャーの本当の話」というタイトルだそうです。

そして、著者の笹倉氏は、山下財宝とはそもそも何なのか、それが
どのようにしてフィリピン人に火をつけたのか、発見者の身辺に
何が起こったのか、その背景にマルコス大統領がどのように
関係したのか、マルコスの蓄財がどのように行われたのか、
そして戒厳令がなぜ実施されたのか、それがフィリピン革命に
どのように繋がっていったのか、イギリスやアメリカはどのように
関わっていたのか・・・などなど、単なる宝探しではない
フィリピンの政治情勢や、世界情勢にもかかわる広がりを展開しています。

実は、私が今住んでいる下宿屋の大家さんの父上は、
すでに十数年前に亡くなっているんですが、バギオ市警察の副署長
だったんです。
そして、この本の中に出てくる「黄金の仏像」を実際に見た
一人でもあると言うんです。

この本の165ページに次のようなくだりがあります:

「恐ろしい喜劇のはじまりは、強制捜査部隊によるロジャー・ロハス宅
からの”ブッダ強奪”であった。
・・・捜査令状は彼の国(フィリピン)でも、捜査機関である
警察が裁判所に請求し、発行されるのだが、令状を申請した方も
許可を出した方もグルであった。
バギオ警察署長のカラノ中佐と、バギオ第一審裁判所のビオ・マルコス
判事だ。 この二人が結託して事を起こす・・・」

つまり、このバギオ警察署長のカラノ中佐の次の職位であった
副署長が うちの下宿のお爺ちゃんだったということです。

その妻であるお婆ちゃん(94歳)に聞いても、大家であるその
長女に聞いても、「うちのお父さんは バギオ市役所で その
黄金の仏像を見た」って言うんです。

バギオ市役所でその警備をしていたということなんですね。

・・ところが、この本には、こんな風に書いてあるんです:

167ページ
「攻撃の材料は、いくらでもあった。 ロジャー宅への捜索令状
そのものの奇妙さ、夜襲をかけるというやり方の強引さもそうだが、
押収品が本来なら裁判所へ運ばれるべきであるのに、
ホルムス基地のカラノ中佐の私邸へ運ばれたことは決定的な
糾弾の対象となった。 駐車場に停めたジープの中にそのまま
保管され、六人のCIS要因とバギオ警察署員が交替で警備に
当たったというのだ。」

・・・つまり、バギオ市役所で・・とは出てこないんです。

そして、二週間後にこの黄金の仏像が裁判所に戻された時には
偽物にすり替えられていた・・・という話なんです。

で、本物はマルコス大統領が 上記の警察署長と裁判所判事に
命令してやらせたことなのだ・・・というストーリーになっています。

Img_4770

下宿屋のお爺ちゃんは、一応名門ではあっても、経済的な羽振り
から言えば、このマルコス系列とは関係がなさそうです。(笑)

もしその一派に属していたら、マルコス資産の爪の垢ぐらいは
もらっていたでしょうからね。

この本の119ページにはこんなことが書いてあります:

「かつてイメルダ夫人は、夫の選挙資金の一部は
ヤマシタ・トレジャーに負っておることを認める発言をした。
ところが、その真意は国家財産を不正に蓄財したカドを
逃れるためであるとみられたことから、真相はうやむやに
なってしまった。」

Img_4769

・・・そのマルコス資産なんですけどね。
私もその謎の資産に間接的に関わったことがあるんです。

って言うのは、ある怪しげな翻訳依頼があったんです。
もう10年近く前の話だから 時効でしょうし、そもそも
怪しげなものだったので、詐欺の片棒だったかもしれません。(笑)

その内容は、遺言書あるいは委任状みたいなもので、
日本の複数の大銀行に預けてある いわゆるマルコス資産を
何某が代理人として受け取りに行くから、しかるべき
払い出しの手続きをしてくれ、というものでした。

そりゃあもう、普通じゃあ考えられない桁数の金額で、
日本の国家予算よりも大きな金額だったような・・・
金の延べ棒のことも書いてありました。。。
もう、手元にはその翻訳した証拠も残っちゃいませんがね。

ちなみに、その翻訳の直接の依頼者は、その後日本へ
行ったようですが、その後の話は聞きません。
そして、その依頼者は、既に亡き人になってしまいました。
癌で亡くなったそうですけど・・・・

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フィリピンの「山下財宝」に熱心な諸兄に贈る一冊 笹倉明著「最後の真実」その1

その1です。

私のブログにアクセスする皆さんの中には
「山下財宝」というキーワードで辿り着かれる方も少なくないんです。

Img_4757

フィリピンに住んでいると、特にバギオ市に住んでいると、
山下財宝の話は 日本人であれば いろいろと変なものを持ちこまれて
「ここになんて書いてあるか教えてくれ」なんて頼まれる
こともあるんです。

私自身は、今までいろいろ話に聞いたり、変なものを持ちこまれたり、
金属探知機でいわゆる「トレジャー・ハンティング」をやったり
している人と話をしたり、日本で出版された本を読んだり、
インターネットで検索したりと、まあ、いろいろあったんですが、
結論的にいえば、「丸福金貨はあるみたいだけど、その他の
山下財宝は眉唾だね」と答えることにしていたんです。

しか~~し、この「最後の真実」という本を読むと、
フィリピンの人たちが 上から下まで なんでこんなに
山下トレジャーに 執着しているかってことが分かりました。

たまたま、日本の学校で社会科を教えている先生方10名ほどが
「歴史・地理研究」ということで バギオからさらに山奥の
戦争末期に「大和基地」と呼ばれ、山下大将が立てこもった
場所の近くまで入るということで、めったにないチャンスで
あったので、同行させていただいたことがあるんです。

その時に 先生方一行を受け入れてくれた 山奥のバランガイ
(村落)の人たちの様子がなんとなく変だったんです。
その山間の集落の長も、村長も 一行を歓迎する集まりに
参列していたんですが、日本人が来たというだけで、
「きっとこの日本人達は 山下財宝を探しに来たんだ」
と信じ切っていると言うんです。

何度それを否定しても、「いや、本当はそうなんだろう?」と
小声で聞いてくる始末だったそうです。

だから、日本人ひとりひとりの挨拶をした時には、私は敢えて 
「私達一行は、あくまでも学校の先生たちの社会科のスタディー・ツアー
の為にやってきたんです。 決して財宝探しに来たのではありませんから、
お間違いなく。」
と宣言したくらいなんです。

しかし、地元の人たちが そう思い込んでいるのも、
無理もないことだったんだなあ・・・

この本は そう納得させてくれる本なんです。

この本の内容は、1997年から98年までの産経新聞「正論」に連載
されたものだそうですから、かなり多くの それなりの年齢の方は 
ご存知のことだと思いますが、バギオ市に住んでいる者が読んでも、
かなり具体的に書いてあるなあ・・と思える内容になっています。

ただし、言っておきますが、この本を読めば分かるんですが、
この道に迷いこみ、ハマってしまったら、命の保証はありませんよ。(笑)

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 64  スペインによる職業教育

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産 

もう何か月もお休み状態でしたが、ぼちぼち暇な間に読み進めなくては。

春は一時帰国、夏場は 日比友好月間のイベントでいろいろと忙しくしていたもので、それをいいことにサボっていただけなんですけど・・・

この前のページは シリーズ63で、こちらでした:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2015/03/63-fa26.html

さて、130ページから再開です。

p130

「職業教育」

スペイン当局によって、職業教育が推進されたことも特筆される

べきことである。

フィリピンの職業教育の種は宣教師によって蒔かれた。

彼らは宗教ばかりでなく、農業のより良い方法や、輸入植物

(藍草、とうもろこし、綿花、小麦など)の栽培、そして

様々な技能(塗装、大工、石工、そして染色)も人々に教えた。

19世紀には、スペイン政府によって様々な職業および技能学校

が設立された。 例を挙げれば、航海アカデミー(1820)

商業学校(1840年)、美術アカデミー(1849年)、農業学校(1889年)、

そして 技術及び商業学校(1890年)である。

これらのすべての学校はマニラにあった。

1861年3月16日に、私立の技術及び商業学校が、パンパンガ州

バコロールに、Juan P. Zita神父とFelino Gilのフィリピン人によって

創設された。 今の、公立学校 パンパンガ技術及び商業学校である。 

=== ちなみに、バギオ市の隣町であるラ・トリニダッド町にある

    ベンゲット州国立大学の前身がどのように始まったかと言えば、

    同大学のサイトには以下のように書かれています:

http://www.bsu.edu.ph/content/history-0

It started as the La Trinidad Farm School with 30 grade V pupils in 1916. The Farm School expanded its services and heightened its prominence in La Trinidad. According to earlier reports, the Farm School was “planned to develop into a large normal school where the best Igorot pupils will be trained to be teachers among their own people with emphasis on agriculture.”

・・・つまり、1916年に農業学校として始まり、農業を重点にして

   山岳地帯の人々の教師となるべく計画されたようです。 

=== もっとも、バギオ市周辺を含む山岳地域での最初の学校は

    こちらの イースター・スクールでして、以下のように書いてあります。

Easter College, more famously referred to as Easter School, takes pride in having been instrumental in strengthening the Anglican faith and promoting education, being the first private school to open in 1906 in the Cordilleras by the Rt. Rev. Charles Henry Brent, an Anglican Missionary from the United States of America.

・・・つまり、 1906年に 山岳地域の最初の私立学校として イースター・スクールが

   ミッションスクールとして開校されています。  今のイースター大学です。

 

 

「スペインの下での教育の進歩」

スペインによって設立された学校は、フィリピンの人々の知的な成長に

貢献した。 1843年のフィリピン人の識字率は比較的高いレベルだった。

Sinibaldo de Mas が論評しているように、「比率においては、このフィリピン

諸島で読み書きが出来る人々は、スペインや他のいくつかの文化的な国々

よりも多いのである。」

1867年には、フィリピンに 593の小学校があり、133,990人の

小学生が在籍していた。 スペイン統治が終わった1898年には、

学校数は2,150校を数え、20万人以上が在籍していた。

同時代の西欧の教育レベルで判断すると、スペインによってフィリピンに

創設された学校は、ホセ・リサール博士の El Filibusterismo(「反逆」)

の「物理の教室」というウィットに富んだ章で、高度に標準以下だと

風刺されています。

しかし、Laubach博士によれば、適切ではないが、(フィリピンの)スペイン学校は他のスペイン植民地の学校よりもましで、同時代のスペインの学校にもひけをとらないとしている。

 

=== フィリピンの教育のレベルについては、

    今から100年前に書かれた日本人の書籍にも そのレベルの

    高さが書かれています。

http://janl.exblog.jp/18939480

こちらの p427ページの部分に このように書いてあります:

スペインからアメリカの植民地に変わってはいますが: 

p427
比律賓に来りて、最も旅行家の耳目をxx動するは、其の土人教育の盛大なる
にあり、爪哇、印度支那に於いては、吾人は容易に学校を見ず、学童に接せず、
馬来半島でも・・・・比律賓に来りて、吾人は学校と学生の多きに、今更の如く感じたり・・・」

 

p428
十五歳より二十五歳まで位の女子の学校に、往来する事なるを聞き、
一驚三嘆せざるを得さりき・・・・
比律賓を自治国たらしめんと欲せば、自治国民たるの資格を比律賓人に
与へざる可からず、・・・・」

  

=== ホセ・リサールの著書については、こちらで少し書いています:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/09/post_a44c.html 

=== シリーズ65に 続く===

=== 前回63は こちら===

=== シリーズの最初は こちら ===

 

 

 

 

 

 

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2015年10月 1日 (木)

「居る」「入る」「射る」「要る」「鋳る」「煎る」の動詞変化をどう教えるの? 日本語教師症候群

==間違っていたので 訂正版 ==

日本語教師症候群は たまに 突発するんです。

日本語の動詞変化を教える時に、
動詞の辞書形の送り仮名が何かで分類するやり方があるんです。

http://www.learning-catchball.com/index.php?QBlog-20120915-1

あるいは、

http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/ja/gmod/contents/explanation/039.html

英語版なら、こちら:

https://www.coscom.co.jp/japaneseverb/japaneseverb02-jpr.html

例えば、持つ、乗る、使うという動詞は「つ・る・う」の動詞。
死ぬ、遊ぶ、読むは「ぬ・ぶ・む」の動詞。
その他に、「く・ぐ」の動詞、「」の動詞、「Xる」の動詞、
」の動詞という具合です。

これを見ると困ってしまうのが、「つ・・う」と「」の動詞
なんです。 送り仮名が同じ「る」だからです。
送り仮名が同じだと区別ができないんですねえ。

何が違ってくるかっていうと、

前者の「つ・る・う」のグループの動詞は:
「乗る」- 乗ろう - 乗れる - 乗られる
と変化するんですけど、

後者の「る」の動詞では:
「見る」ー 見よう - 見られる - 見られる

・・・と言うように、辞書形ー意志形ー可能形ー受身形が 変化するんです。

例の 「れる・られる」問題がかかわってくるわけですな。

だから、おなじ送り仮名「る」の動詞であっても、
どちらのグループの動詞であるかを覚えてしまわないといけないってことですね。

日本人なら意識しないでも、意志形が「Xろう」なのか「Xよう」なのかの
区別は自然に出来ちゃうんだけど、外国人の学習者には
丸暗記するしかないってわけですね。

まあ、ここまでは、「乗る」と「見る」だから良いとしても(あまり良くはないんですが)、
さらにややこしいことには、この「る」の動詞の中に同音異義の動詞があるんですよねえ・・・

漢字が分かっていないと、どうにもならない・・・

何が問題かっていうと、意志形と可能形が おなじ音の動詞でも
漢字が違うと 動詞変化が違ってくるんですねえ・・・いやはや・・

同音異義の動詞の可能形
特に 辞書形が「Xる」の動詞

辞書形-意志形 - 可能形  - 受身形

(きる)
切る - 切ろう - 切れる  - 切られる(敵に眉間を切られた)
着る - 着よう - 着られる - 着られる(嫌いな女に同じ服を着られた)

(ねる)
寝る - 寝よう - 寝れる  - 寝られる(仕事があるのにキーの男に寝られた)
練る - 練ろう - 練られる - 練られる(戦略は練られたが非現実的だった)

(いる)
入る - 入ろう - 入れる  - 入られる(泥棒に入られた?)
要る - 要ろう - 要れる  - 要られる(ー文を思いつかないー
煎る - 煎ろう - 煎れる  - 煎られる(ゴマが煎られると香りが立ちあがった)

居る - 居よう ー 居られる - 居られる(舅に居られて気まずい雰囲気)
射る - 射よう - 射られる - 射られる(敵に矢を射られてしまった)
鋳る - 鋳よう - 鋳られる - 鋳られる(鉄は鋳られて真っ赤になった)

 「要る」は受身形にできない動詞みたいですね。

http://www.tomojuku.com/blog/passive/passive-6/

 

・・・それで、結局何が言いたいかっていうとですね・・・

これらの「る」の動詞の同音異義語については、右に書きだした
動詞文の例文で覚えるしかないんじゃない? ってことなんです。

・・・で、それがどうした!?

・・・まあ、そういうことです。 お粗末様。

== と、ここまで書いて、数日後に 読み返したら、間違いに気がつきました

    皆さんはもうお気づきだったと思いますが、

    例文が良くなかったんですね。

    受身形で例文を書いたんですけど、これは意志形か可能形で

    作るべきでした。 受身形は全部「られる」になってますからね。

・・・ということで、下に意志形での例文を書いてみます:

切る - 切ろう - 切れる  - 切られる(出刃包丁で肉を5つに切ろう。)
着る - 着よう - 着られる - 着られる(新しい衣装を着よう。)

(ねる)
寝る - 寝よう - 寝れる  - 寝られる(もう遅いから寝よう。)
練る - 練ろう - 練られる - 練られる(もっと斬新な計画を練ろう。)

(いる)
入る - 入ろう - 入れる  - 入られる(ー例文を思いつかないー
要る - 要ろう - 要れる  - 要られる(ー例文を思いつかないー
煎る - 煎ろう - 煎れる  - 煎られる(香ばしいゴマを煎ろう。)

居る - 居よう ー 居られる - 居られる(お金がないから実家に居よう。)
射る - 射よう - 射られる - 射られる(的の真ん中を矢で射よう。)
鋳る - 鋳よう - 鋳られる - 鋳られる(真っ赤に鉄を鋳よう。)

 の「例文を思いつかない」のところなんですが、

「入る」は、読み方が「はいる」もあるんですが、ここでは「いる」なんです。

辞書には下のように書いてあります:

http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/15570/m0u/

「1は文語的な言い方で、現代語ではふつう「はいる」を用いる。しかし、「気にいる」「堂にいる」「有卦 (うけ) にいる」など慣用的な表現の中では現在でも多く用いられる。」

・・・ってことで、「いる」と読むのは文語的なんですね。

だから、慣用的な表現になっている。

だから、意志形は見かけない・・・ってことのようです。

「閑さや 岩にしみ入る 蝉の声」 ですね。

敢えて例文を文語的に作るとするならば・・・・・

虎穴に入ろうが、入るまいが、それはおぬしの勝手じゃ。」

ってな具合でしょうか?

二つ目の「要る」は、受身形のところで、「受身形にはならない」動詞でした。

無意志動詞で、その動詞が他に影響を与えない状態動詞:「ある、要る」など。」

というカテゴリーに入る動詞なんですね。

無意志動詞なので、「意志形」ってのはなくて、いわば「未来形」であれば大丈夫のようです。

そこで、敢えて例文を作ってみると、

起業をするとなれば、いずれ資金も要ろうから、この1千万円はもらっておけ。」

・・なんて例文はOKなんじゃないですかね。

=== ということで、これらの例文を覚えておけば、

      「ろう」は「れる」、 「よう」は「られる」という可能形の区別ができるって話。

以上です。

 

 

 

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2015年9月28日 (月)

山下奉文・陸軍大将が正式の降伏文書に署名した館  : バギオの中のアメリカ

フィリピンのバギオ市に住んでいるとは言っても、この館に足を踏み入れることなど、一生ないだろうと思っていた。

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ここは、バギオ市 ジョンヘイの奥の院にある 米国大使公邸。

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ジョンヘイと言うのは、昔はアメリカ空軍の基地があったところで、Camp John Hay と呼ばれているが、今は高原リゾート開発が進んでいる。

04img_4548

フィリピンに於ける太平洋戦争は、ここバギオ市の キャンプ・ジョンヘイで始まり、キャンプ・ジョンヘイで終わったと言われている。

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それは、日本軍機が このジョンヘイの敷地内に 最初の爆弾を落とし、山下奉文陸軍大将が、このジョンヘイの中にある この館で 正式に降伏文書に署名したからだ。

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この部屋には その時の模様を物語る この絵が掲げられている。

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この部屋が その署名が行われた 実際の部屋。

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この降伏文書の署名に立ち会った 米軍の Jonathan Wainwright 司令官の肖像画。

ジョナサン・ウェインライト

「マッカーサー大将がフィリピンを脱出してからは米比軍を指揮した。5月、コレヒドール要塞が陥落して日本軍に降伏、捕虜として満州に移送された。1945年9月、降伏調印式に出席した。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88

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そして、その調印式に 実際に使われたテーブルは 2階のこの部屋に移されている。

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テーブルは 一枚板。  椅子もその当時のものだと言う。

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そして、この部屋が・・・・

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・・このベッドが・・・ 山下奉文大将が 調印式に臨んだ時に使ったもの、とされている。

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そして、その彼は、この窓から外を眺めたりしたのだろうか・・・・

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この芝生も あったのだろうか・・・・

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そして、ここから バギオの最後の山並みを見て、何を思ったのだろう・・・・

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このような場所に、米国大使の公邸に、足を踏み入れる機会をいただいたことに、只々 感謝するのみ・・・・・

それも、日本国大使と 元日本国名誉総領事の随行として・・・

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上記は 大使公邸でいただいた パンフレットです。

(注: ここはあくまでも 米国大使公邸ですので、一般が入ることは出来ません。)

 

 

 

 

 

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