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2015年10月10日 (土)

名医は患者を走らせる・・・!?  バギオの病院はご予約が無難

2009年にSLU大学のこのお医者さんのところにお世話になったんですが、
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2009/06/post-c2b8.html

Img_4934_2


随分ご無沙汰して、やっと2015年にお邪魔することになってしまいまして・・

ことの次第はこちらで・・・鍼灸師の先生に「心臓の問題がありそうよ」
と言われちゃいまして。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2015/10/post-ce76.html

予約なしで飛び込むんで、少し早目がいいだろうと
9:30AMに行ってみると・・・

Img_4935

11:00AMから5:00PMが診療時間ってことになっていました。

たまたま、今日は来週行われるイベントの打ち合わせを2つ
やらなくちゃいけなかったんで、ひとつ目の打ち合わせに
行くことにしました。

そして、病院へ戻ったのが11AM。

クリニックのドアに貼ってある紙をじっくり見たら・・・

Img_4938

なんと、11AMから診察が始まる予定だけど、
2PM以降は、大学の授業や会議が入っているよ・・って書いてあるんです。

ってことは、11AM-2PMだけなのか、診療は・・・

でも、先生は来ず・・・

受付簿に名前を書いて、秘書に話しかけたところ、
いろいろと医者に代わって 質問をうけまして・・・
個人情報やら、今回の症状を、パソコンに入力してもらいました・・

既に予約患者もいることだし、待つしかないってことで、
廊下のベンチで寝て待つことに・・・

1PMごろ・・・なぜか待っていた患者が去ってゆく。

なんだろなあ~~と、ドアの張り紙をみると・・・
「お昼ごはん中です。しばらくお待ちください」とな。

1:30PM。 先生は現れず。

しょうがないので、秘書に予約を頼むと・・・

先生は 夜の7時以降じゃないと来られないようです。」

今日は金曜日、土日は休み。

「金曜日と月曜日とじゃ、どっちの予約がとれそうですか?」

「月曜日ですね。 また確認の電話をください」

「分かりました・・・」

「月曜日の朝、検査機関に行って、この検査の結果を持って来てください・・・」

「分かりました。 それまでに死なないようにしておきます・・笑」

・・そして、患者は、次のイベント打ち合わせの会場へと
走るのでありました・・・

その夜に大家さんから聞いた話では、

「あの先生は忙しくて、私なんかも予約が取れたのは夜の10時だったのよ」

名医は大変だ。

患者より先に死なないようにしていただきたいもんですね。

 

 

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2015年10月 7日 (水)

「あなたは子宮が悪いみたいだね」、 「男なんですけど・・」 、 バギオで針治療

数年前にもあったんですけど、胸の中心あたりが ピリピリと痛くて、
最初の三日間くらいは、左腕を挙げようとすると痛くて痛くて・・

痛いと言っても、身体の中の方じゃなくて、表面の神経が
つっぱるというか、ひきつるというか、そんな痛さ。

静かに動かずにいれば、痛くもなんともなくて、
ちょっと身体を動かすと ビリリってくるんです。

五日目には、その腕の痛さはほぼ無くなって、胸の痛みもかなり
減ってきて、もういいかなと思うほどになったんですけど、
それでも、真ん中を押すとやっぱり痛い
それに、後頭部が重い感じになっちゃって・・・・

数年前は、バギオ市の鍼灸師さんのところで、ちょちょいのちょい
で治してもらったんです。
バギオ市に日本人の鍼灸師さんがいるんですよ。

こちらの鍼灸師さんです。
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2008/02/post_dfa8.html

痛くなってから3日目ぐらいに飛び込みで行ってみたら
予約で混んでいたので、6日目に行ったんです。

さて、治療なんです。

パンツ一枚になりまして、ベッドにあおむけに寝ます。

まず、痛いところに近い、胸の真ん中辺りを下の方から
揉むように指で押して行くんです。

そして、徐々に上の方に来たところで、
「いたたたた・・・」

「そのツボが痛いっていうのは、何が悪いんですかね?」

シキュウが悪いんですね・・・」

子宮???

「シキュウっていうのは、紫の宮って書くんですよ。 紫宮。」

「ああ、その紫宮が痛いっていうのは、・・・・」

「心臓系ですね。」

・・・・

そこで、家に戻って インターネットで検索。

ありました・・・
http://www.aimy-ss.jp/NINMYAKU.html

このページの CV19に紫宮(しきゅう)とあります。

【ツボの位置】
前正中線上で、第2肋間の高さに取る。

【ツボの主治・効能】
咳嗽、喘息、心胸苦満、心胸痛、動悸、嘔吐

こちらにも・・・
http://www.iatrism.jp/dictionary/chiryouketsu/tsubo/%E7%B4%AB%E5%AE%AE

・・・どうも、この中の 心胸苦満あるいは心胸痛にあたるようですね。

そして、身体の表に針を何本か打ち、左腕に二本の針。
触診は身体の表から背中へ・・・・・

「ここは 痛くないですか?」

「いいえ・・」

ってなことで、紫宮以外には 痛い所はなし。

しか~~し、
背中の 丁度心臓の裏側付近を押して終わった後に・・・・

「この心臓の裏側あたりのところも 心臓に関係のあるツボ
なんですけどね・・・コリというか、しこりのような
ものがあるんですよ。。。心電図をとったことはないですか?」

「そうですねえ・・数年前に取ったことはありますね。
 ドタバタ暴れていましたけど・・・その後は特に具合が
 悪くなることもなく・・・・」

左腕の二本の針と、身体の表のあちこちに針を打って、
しばらくベッドの上で安静。

最後に 胸の真ん中の痛いところに、1cmくらいの短い針を皮一枚で横に通して、絆創膏で留める。

・・・・・

ってことで、どうも心臓が怪しいという診断結果。

こりゃあ、日本にもどったら人間ドックですな。
過去数年間 検査もやっていないしね。

 

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BDO銀行って かなりいい加減・・・

BDO(バンコ・デ・オロ)銀行ってのは フィリピンのSMモールにも入っている大銀行なんですけどね。

まあ、私が好き好んで選んだ銀行じゃなくて、銀行が2回ほど吸収合併されて、その結果としてBDOになっちゃったんですが、まあ、何年もお付き合いしているんです。

フィリピン退職庁の永住ビザなんで、それなりのデポジットをドルの定期預金として入れてあるんです。

その利息を、生活費に使いたいもんで、利息分はペソの普通預金口座に自動的に振り替えてちょうだいねって、合意書みたいなのに署名もしたんです。

何年も前のことですけどね。

・・・ああ、それなのに それなのに・・・

ペソの普通預金の口座に90日毎に入っているはずの利息が 通帳に記帳されていなかったわけ。

めったに銀行の窓口には行かないもんで、そういうことになっているなんて気がつかなかったんです。

たまたま、私とまったく同じ住所に、私が知らない日本人女性の名前で BDOから郵便が来たもんだから、なんかBDOのコンピューターの名簿のデータに異常があったのかなと思って、気になったんで、窓口に行って尋ねるという用事が出来たんです。

それに、ドル定期預金の利息分をペソの普通預金に振り替えるのに、手作業でやっているらしく、定期的に署名をしに来てくれと言われてもいたもんですからね。

「私の知らない人宛てに、私と同じ住所で郵便物が届いて、私には最近BDOから郵便物が届いていないんだけど、データベースの私の住所は大丈夫ですか?」

「バギオ市のxxxxxのxxx番地ですね?」

「ああ、それなら問題ないですね。」

・・・まあ、これはOKだったんですが・・・・

「ペソの普通預金に ドル定期預金の利息が記帳されていないんだけど・・・」

「ちょっとお待ちください。。。。ああ、12月になりますね。」

「あれれ、その金額って、全部 定期預金口座から動いていない金額?」

「はい、12月の満期の日に ここで署名をもらわないと・・・」

「でも、この金額だと 計算が合わないんだけど・・・」

・・・待たされること30分ばかり・・・

「ドルの普通預金の通帳はありますか」

「はい、どうぞ・・・」

「ああ、ここに振り替えてありますね。」

「ええっ?  ドルの普通預金に振り替えてくれって、誰が言ったの?」

「・・・・・・」

「合意書を作って、ペソの普通預金に振り替えることになっているよね?」

「・・・・なので、12月の満期日に署名をもらいたいんです・・・」

「新しい合意書が必要なの?」

ちょっと上司みたいな人が現れて・・・

「いいえ、合意書は必要ありません。 ドル普通預金への振り替えでもいいですか?」

「まあ、ドルでもいいけど・・・・。 自動的にやって欲しいんだけどな。」

「はい、ドルからペソにする時に伝票に署名が必要なので、ドルへの振り替えなら・・」

「ああ、そうなの。 じゃあ、そうして頂戴。」

「ドルの定期口座の利息分も普通預金に全部移してほしいんだけどな。」

「はい、それには12月の満期日に署名をいただかないと・・・・」

・・・・・

ってなわけでして、過去にドルの普通預金に振り替えるときには、私には何の連絡もなく、勝手に振り替えておいて、 これってどういうことよ・・・・

まあ、一応 行方不明の利息は無いからいいようなもんですけどね、

合意書にないことをやるっていうのが、まあ、不安を煽りますわねえ。

ご用心ください。

ちゃんと自動的にできるように、WE FIND WAYS...してくださいな!

https://www.bdo.com.ph/personal

以上、報告 おわり!

 

 

 

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2015年10月 6日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 67 スペイン時代の音楽・ダンス

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

 

p132

 

「音楽」

 

フィリピンの音楽は、スペインとメキシコの影響を受けてより豊かな

ものとなった。 人気のあるフォーク・ダンス、例えば

Polka, lanceros, rigodon, cariñosa, surtido はスペインからやってきた。

フィリピンの pandango, jarabe, kuratsa はメキシコ起源である。

フィリピンの歌曲もラテン・アメリカ化しており、

Sampaguita Dolores Paterno作曲)や Bella FilipinaT. Masaguer作曲)

が挙げられる。 Julian Felipeによって作曲されたフィリピン国歌には

スペイン国歌との顕著な類似性が見られる。

 

=== さて、これらはどんな音楽なんでしょう・・・

https://www.youtube.com/watch?v=B9qnjxfzPYw

 

この説明書きを読んでも、このダンスがどのカテゴリーなのかは

分かりませんが・・・

それに、地域によって いろいろなバージョンがあるみたいです。

 

こちらは明らかにポルカです。良く見るダンスです。:

https://www.youtube.com/watch?v=pkGphdK_N9s

 

こちらは lanceros ですね。

https://www.youtube.com/watch?v=10RDzXUHWK4

 

rigodonは これです:

https://www.youtube.com/watch?v=eLXxbiyHhXY

 

cariñosa も聞いたことがあるようなメロディー:

https://www.youtube.com/watch?v=Sy18EXrueu0

 

surtido はこちら:

https://www.youtube.com/watch?v=yBXektuE3gI

 

 

さて、メキシコ起源とされている パンダンゴは:

パンと団子が一緒になったってわけじゃない・・笑

https://www.youtube.com/watch?v=MLuWHNNi_Ug

 

この頭にランプを乗せて踊るのをバギオで見たことがあります。

バギオ・シティー・ナショナル・ハイスクールの子供たちが

演じてくれたダンスの中にありました。

 

フィリピンのダンスの jarabeでは見つからなかったので

メキシコの jarabeですが:

https://www.youtube.com/watch?v=WFz1AMqr0EQ

 

 

kuratsa もどこかで見たことがあるような踊り:

https://www.youtube.com/watch?v=0qCXjmNJbdA

 

 

こういうフィリピンのフォークダンスは、大きなレストランで

伝統的なショーをやっているところでも見られますし、

バギオ市の場合は、上記のようなハイスクールや

大学のサークルなどでやっているようです。

特に女性の衣装が華やかなので、女の子たちには人気が

高いようです。 パレードなどでも見かける衣装です。

 

 

ところで、ベンゲット州国立大学の教授から聞いた話なんですが、

随分前に 東京外国語大学のフィリピン語学科でフィリピンのダンス

を学んでいる学生たちが演技をしにやってきたことがあると

聞きました。

かなり研究した踊りだったそうで、もしかしたら今の

フィリピンで踊られているフォークダンスよりも、元々の形に

近いものが日本で研究されているのかも・・という話でした。

https://www.youtube.com/watch?v=LCi3hQReT30

 

 

 

 

p133

メキシコとヨーロッパからは、バイオリン、フルート、ピアノ、

ハープ、ギター、そして その他の楽器が導入された。

竹を使って、フィリピンの人たちは、外国からやってきたものに似た

楽器を作った。 スペイン時代の多くの町や村には、musikong buho

(竹の音楽家)と呼ばれた多くの楽団があった。

これらの音楽家達は、音楽学校で学んだわけではなかったので、

楽譜を読むことは出来なかった; それなのに、彼らは竹の楽器で

ヨーロッパ音楽を演奏することができた。

彼らは、実際に どんな音楽でも、耳を通して学んでいったのです。

 

 

=== 私が実際に聞いた噂でも、フィリピン人のミュージシャンは

    楽譜は読めないけど、耳で聴いて、それを演奏してしまう

    と言うことだそうです。

    もしかしたら、そういう能力があるから、いろいろな

    外国語も、日本人のように苦労せずに、耳学問で習得

    出来ているのかもしれません。

 

 

スペインの宣教師たちは、フィリピン音楽の発展に大いに寄与しました。

フィリピンの歴史の中で特筆すべき最初の音楽の師は、1582年にマニラに

到着したフランシスコ会の宣教師 Geronimo de Aguilar神父でした。

彼は音楽学校をマニラのフランシスコ会修道院に創設し、ビコール地方の

フィリピン人に最初に音楽を教えました。

1742年には、 Colegio de Niños Triplesと呼ばれる音楽学校

大司教 Juan Angel Rodriguezによってマニラ大聖堂の中に創設されました。

多くの貧しくて才能のある少年たちが、この音楽学校で学び、有名な

音楽家になりました。

その一人は、Marcelo Adonay(1848-1928)で、ラグナ州Pakil出身、

一流の教会音楽のフィリピン人作曲家であり、素晴らしいオルガン奏者でした。

彼は、「フィリピンのパレストリーナ」として称賛されました。

 

=== パレストリーナとは、イタリアの作曲家だそうです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A

パレストリーナは 教会音楽の父とされていたようですね。

 

 

 

マニラの1~2マイル南にあるラス・ピーニャスの古いカトリック教会に

ユニークな古いバンブー・オルガンがあって、世界でも唯一のものと

されています。これは、1818年に Diego Cerra神父によって

作られたもので、彼はRecollect 司祭音楽家でした。

 

ラス・ピーニャスのバンブー・オルガンは、消えてしまったスペインの

過去の歴史的な遺物ということを超えて; フィリピン音楽芸術の

生きている栄光のひとつでもあります。

100年以上に渡り、そのオルガンは、完全な形で生き残り、

甚大な地震、台風、革命、そして国土を席巻した戦争をくぐり抜けた

ものなのです。

 

 

=== このラス・ピーニャスのバンブー・オルガンの演奏会を

    聴きに行ったことがあります。

http://laspinascity.gov.ph/home/article?cat=ls

 

随分昔に行ったので、ほとんど忘れていますが、

雰囲気のある良い演奏会でした。 教会の中での演奏会でした。

https://en.wikipedia.org/wiki/Bamboo_Organ

 

 

こちらのFACEBOOKサイトでは、

「インターナショナル・バンブーオルガン・フェスティバル」という

イベントの紹介もありました:

https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=533678626676863&id=301430643234997

 

 

マニラあたりに長期滞在されている皆さんにはお勧めです。

=== この教科書には スペイン時代の音楽ということもあるので

     まったく触れられていませんが、スペインの影響を受けずに

     現代まで残った 山岳民族などの音楽もありますよ。

     バギオ市に来れば そういうものを見聞きすることができます。

 

 

 

=== シリーズ68に続く ==

 

 

 

 

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2015年10月 5日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 66  劇場

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

027

p132

「劇場」

 

フィリピン演劇の初期の形は duplo と karagatanでした。

Duploとは、訓練された男女によって、死者の為に喪中の9日目の夜

あるいは最後の日に、詩的な掛け合いをやるものでした。

男の参加者はbellocos、女の参加者はbellacasと呼ばれました。

Karagatanduploと同じで、詩的な掛け合いをするものでしたが、

参加メンバーはアマチュアでした。

 

最初に記録された演劇は、1598年にセブで公演されたものです。

これは、Vicente Pucheによって書かれたcomediaで、セブの最初の司教で

あった Msgr. Pedro de Agurtoに敬意を表して演じられました。

11年後の1609年には、Santa Barbaraの人生を描いた、別の演劇

がボホールで上演されました。

 

スペイン時代には、三つの種類の演劇が大衆の間で人気となりました。

それは cenaculomoro-moro、そして zaruzuelaです。

Cenaculo、キリストの人生と苦悩を描いた宗教劇でした。

これは、Lentシーズンに上演されました。

 

=== おお、ここでまた Lent Seasonという言葉が出てきました。

    ちょっとインターネットで検索したら見つかりました。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%97%AC%E7%AF%80

 

四旬節(しじゅんせつ、ラテン語Quadragesima)は、カトリック教会などの西方教会において、復活祭46日前(四旬とは40日のことであるが、日曜日を除いて40日を数えるので46日前からとなる)の水曜日(灰の水曜日)から復活祭の前日(聖土曜日)までの期間のこと[1]。」

「英語では一般的に「レント」(Lent)という語が用いられるが、この言葉はもともとゲルマン語で春を表す言葉に由来している。」

 

・・・だそうです。

 

Moro-moroとは、陰謀活劇メロドラマの演劇で、キリスト教徒と

イスラム教徒の間の戦いを描いており、キリスト教徒が常に

勝利を収めるというものだった。

最初のmoro-moroは、Jeronimo Perez神父によって書かれ、1637年に

マニラで上演され、ミンダナオのモロ族に勝利した Corcuera総督を

記念するものだった。この演劇は、人々の人気を博し、特に町のお祭り

では喜ばれた。 Zarzuela ミュージカル・コメディだった。

リサールは、 Junto al Pasig(パシグの畔で)という題のzarzuela

書いている。

 

最初の劇場がマニラのイントラムロスに創設されるまでには、

17世紀の末まで待たなければならなかった。 それは

Teatro Comicoと呼ばれた。

・・・(略)・・・・

 

=== さて、日本の演劇は どうかと検索してみると:

    もちろん歌舞伎は外せませんからね・・・・

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%94%E5%8A%87%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

 

古代日本は朝鮮半島や中国大陸からもたらされる文化の影響を受けて発展した。演劇においても古来伝わるものに大陸の文化を加えて独自に発展していった。それらには推古天皇のときに伝わったとされる伎楽奈良時代に伝わったとされる散楽がある。散楽は奈良時代には朝廷の組織として「散楽戸」が置かれるなど、朝廷の保護下にあった。」

 

上記のサイトを読むと、古代はいささかはっきりせずで、また、大陸から伝わったものが多かったようですので、敢えて 日本独自のものを探すと、猿楽が一番古いのかなという感じですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8C%BF%E6%A5%BD

 

平安時代に成立した日本伝統芸能江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである[1]。」

 

「奈良時代。 中国大陸から伝わった散楽が猿楽のはじまりと考えられている。散楽の具体的な内容は史料が少ない為にはっきりしていないが、正倉院宝物の「墨絵弾弓」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、軽業手品物真似曲芸歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。」

 

 

さて、歌舞伎はどうかとみていきますと:

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%8C%E8%88%9E%E4%BC%8E

 

歌舞伎の元祖は、「お国」という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)56日の女院御所での芸能を記録したものである。」

 

=== フィリピンと日本を比べてみると、

    フィリピンはスペインが商売よりも宣教に力を入れた

    というだけあって、かなり長い間宗教的色彩が

    濃かったようですね。

    その点では、日本は、バラエティーに富んでいたと

    言ってもよさそうです。

 

 

 

 

=== シリーズ 67へ続く ===

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 65 ジャーナリズム、文学

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

 

「ジャーナリズム」 

フィリピンにおける最初の新聞は Del Superior Govierno (優れた政府の)

で、編集者は Manuel Gonzales de Aguilar総督(1810-13)であった。

これは1811年8月8日にマニラに初めて登場した。

最後の出版は1813年7月4日であった。 

多くの新聞はもっと後の年に地方で現れた。

例えば、La Esperanza (1846) 、フィリピンにおける最初の日刊紙;

La Illustraction Filipina(1859), 最初の写真入り定期刊行物;

L Catolico Filipino(1862), 最初の宗教的新聞; La Opinion(1887),

最初の政治的新聞; El Ilokano(1889),  最初の地方の口語による新聞で、

Isabelo de Ios Reyesによって創設され編集された; そして

El Hogar(1893), 最初の女性向け雑誌である。

 

=== ここで、日本の新聞を Wikipediaで見てみましょうか:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%96%B0%E8%81%9E

日本には現在の新聞と似たものとして瓦版読売とも呼ばれていた)が江戸時代以前から存在し、木製のものが多かった。現存する最古の瓦版は16141615大坂の役を記事にしたものである。」

 

 

 

186211(文久元年122)には初の日本語の新聞として『官板バタビヤ新聞』が刊行される。これはジャワで発行されていたオランダ語の新聞『ヤパニッシュ・クーランド』を、幕府の蕃書調所が和訳したものである。」

 

 

 

1870には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊される。」

 

 

・・・これを読むと、かわら版は別とすれば、日本語の新聞は1862年

   ってことになりますね。 しかしそれも 翻訳されたものなん

   ですね。

   しかし、一般向けの日刊紙は1870年ですもんね。

   フィリピンの最初の日刊紙よりも11年ばかり遅いってことですね。

 

=== フィリピンのジャーナリズムは、やはりスペインが

    キリスト教の布教に力を入れただけあって、宗教的な

    ものがほとんどだったようですね。

    今でも、ちょっとした集まりであっても、必ずお祈りを

    しますので、キリスト教が生活のあらゆるところに

    根付いていることを実感します。

    日本の神道や仏教が生活の中に文化として根付いている

    のとはかなり違って、宗教的な意識が強いような

    気がします。

 

p131 

「文学」 

スペイン体制時代の初期におけるフィリピン文学は、その性格に

おいて ほとんどが宗教的なものであった。

その構成は、祈りの本、教義、九日間の祈り、聖者の伝記、そして

その他の宗教的出来ごとなどであった。

これらの読み物は宣教師によってキリスト教を伝えるために

広められた。 

大衆の中で広まったもうひとつのタイプの文学は、awits(騎士道の

英雄的詩歌)そして corridos(伝説の宗教詩歌)であった。

この民俗文学の例は、Siete Infantes de Lara,   Ibong Adarna, そして

Bernardo Carpio である。

これらは、スペインやフランスの中世ロマンスのフィリピン版で

あった。 

Lentの季節の間に 人々に好まれた読み物は、pasionであり、

キリストの人生の物語、その苦しみと磔の話であった。

最初のタガログ語版の pasion Gaspar Aquino de Belenによって

書かれ、1704年に出版された。

・・・・(略)・・・ 

=== この「Lentの季節」の意味が分かりません。

    次回の家庭教師の授業の時に聞いてみます。

  

もっとも知られたタガログ語文学の叙事詩は、スペイン時代に

作られた。 それは Florante at Lauraであり、「タガログ語の詩の

プリンス」と呼ばれた Balagtasの詩的な傑作であった。

Balagtasの本当の名前は Francisco Baltazar(1789-1862)である。

近代のタガログ語の詩で著名なものは、彼の栄誉にちなんで

Balagtasanと呼ばれた。 

もうひとつのタガログ語の珠玉の散文は Urbana at Feliza であり、

これは女性たちの適切なふるまいに関する本であり、タガログの

司祭 Modesto de Castro神父によって著された。 

イロコス地方の文学で有名なものは イロカノ語の叙事詩、

Lam-angで、これは イロカノの伝説上の英雄の素晴らしい行為を

描いたものです。 それは、「イロコス文学の父」として

称えられた 盲目の詩人 Pedro Bukanegによって広められました。

パンパンガ語の文学としては、感動的な韻文のロマンスである

Gonzalo de Cordova が人気のある有名人となりました。

それは パンパンガ人の司祭文筆家 Anselmo Fajardo神父が

著したものでした。 

フィリピンースペイン文学は、スペイン統治の最後の世紀に

花を咲かせました。

才能のあるフィリピン人、スペイン教育を受けた者が、

小説、エッセイ、詩歌、そして演劇を堂々としてスペイン語で

書き著しました。

ホセ・リサール博士は、最高のフィリピン人の天才で、散文と詩歌の

両方に秀でていました。 

 

p132

Pedro A. Paterno博士は、 最初のフィリピン語の小説、Ninay

(1885)を著しました。 フィリピンの三大詩人は、

Cecilio Apostol,   Fernando Ma. Guerrero,  そして、Jose Palmaで、

スペイン語の詩歌において不朽の名声を得ました。

Jose Palmaのスペイン語の詩 Filipinasはフィリピン国歌の

歌詞となりました。

 

==== 日本文学の場合は、古文だの漢文だのを高校時代に

     勉強しましたが、それはいずれも一応日本語ですから

     なんとか気合いを入れて勉強すれば分かる範囲

     なんですが(・・私の場合は古文は苦手でした)、

     フィリピン文学の場合は、上記のようにいろいろと

     大変ですよね。

     スペイン語、そしてフィリピン語と言っても

     タガログ語あり、イロカノ語あり、パンパンガ語あり、

     そして、スペイン時代が終わると、今度は

     英語の文学になり、日本占領時代には日本語も

     勉強させられたりしたわけですからねえ・・・ 

     フィリピンのハイスクール生であれば 英語は

     アメリカ映画が分かるほどに理解しているのですが、

     それでも シェイクスピアなどの古典文学に

     なるとお手上げだという話を聞いたことがあります。

     私自身も高校卒業後に2年間英語の専門学校で

     勉強しましたが、実務英語はともかく、

     シェイクスピアの英文学には 全く歯が立ちません

     でした。 悪夢のような授業でした。笑

 

== シリーズ 66へ続く ==

 

 

 

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