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2016年1月11日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 75  倭寇・林鳳、マニラを襲撃

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

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12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

 

p161

 

「中国との交易」

 

レガスピ(初代のスペインの総督)及びその後継者は

中国―フィリピンの交易に好意的であったので、

多くのジャンク帆船の貿易船が毎年中国からフィリピンに

やってきた。

毎年3月に、マニラ湾には、およそ30から40隻の

ジャンク帆船が停泊したと記録されている。

それらのジャンク船は、絹織物、磁器製品、生きた鶏

などをもたらした。 これらの品々は、Parianに移送

され、そこでフィリピン人やスペイン人に売られた。

 

=== このParianについては、こちらで:

https://en.wikipedia.org/wiki/Pari%C3%A1n_(Manila)

 

Parian or Pantin, historic name Parian de Arroceros (Arroceros: cultivators of rice, Spanish) was an area adjacent to Intramuros built to house Chinese merchants in Manila in the 16th and 17th centuries during the Spanish occupation of The Philippines.[1] The

イントラムロスのすぐ隣にあったようです。

 

 

p161

 

中国人商人はそれらの商品の代金として銀貨(メキシコ・ペソ)を

受け取った。 中国では金よりも銀の方が価値があったので、

彼らはこの銀貨の方が良かったのだ。

中国人のジャンク帆船は、5月の終わり頃に、安全に中国に

帰れるよう、台風の季節を避けて、マニラ湾を出港した。

 

 

「中国人はどのようにして Sangleysと呼ばれるようになったのか」

スペイン時代に中国人は Sangleysと呼ばれた。

この言葉は、xiang と leyからの造語である; このふたつ

の言葉の連結した意味は “travelling merchant”(旅の商人)

である。 初期のスペイン人が、マニラで中国人貿易商に

お前たちは誰だと質問したところ、中国人は“Xiangley”と

答えたのだ。 中国語を知らなかったスペイン人は、それが

中国人の国を示す言葉だと思い、全ての中国人に Sangleyという

名前を適用してしまった。

 

 

LimAhHongの侵略(1574-75年)」

フィリピンにおける最初の中国人のスペイン人に対する

脅威は、有名な中国人海賊LimAhHong林鳳(りんぽう

による侵略であった。

皇帝によって無法者とされ、王国を探して、

1574年11月19日に、62隻の戦闘用ジュンク帆船、

2,000人の兵士、2,000人の船員、1,500人の

女たち、多くの職人、そして、農業や家事の道具の積載物

とともに、林鳳はマニラ湾に現れた。

その夜、林鳳は、彼の日本人副官であるSiocoの下に

600人の軍を、パラニャーケ海岸に上陸させた。

 

翌朝、セント・アンドリューの日である11月30日に、

SiocoBagumbayan(城壁の外)を攻撃し、年老いた

Martin de Goiti大将を殺害し、マニラの町を急襲した。

スペインの防衛隊は、フィリピン人に助けられ、攻撃を

はねつけ、侵略者を彼らの船に押し戻した。

林鳳は、初戦の敗退に臆することなく、第二次の

さらに強力な攻撃を準備した。

 

 

Salcedoによって救われたマニラ」

一方、ビガンにいて、中国人の侵略を通報された

Juan de Salcedoは、マニラに到着した。

彼の戦闘力が、脅かされている町には必須であったため、

Lavezaris総督と民衆は彼の到着に大喜びした。

Salcedoは、Goitiの後継として、大将に任命された。

 

 

 

p162

 

12月3日、林鳳自身が第二次のマニラ攻撃を指揮した。

中国人の一群が町の城壁に突進した。 中国人の船団が

両側で圧倒的な砲兵隊で掃射した。すぐにマニラは炎上した。

Salcedoの指揮に鼓舞され、フィリピン人もスペイン人も、

勇ましく戦い、侵略者を押し返した。

Siocoは戦死した。 マニラ攻略の意図をくじかれ、林鳳は

船団と兵士をパンガシナンに向かって北方へ撤退させた。

彼は、アグノ川の河口に入植地を築いた。

 

 

「林鳳の侵略の失敗」 

林鳳をフィリピンの土地から追い払う為、1,500人の

フィリピン人と250人のスペイン人の派遣部隊が、1575年

3月22日に、Salcedo大将の指揮の下、マニラから出港した。

(中略)

 

Salcedoは、林鳳の船団をリンガエン湾で撃破した。

彼は、海賊の入植地を急襲したが、奪うことはできなかった。

Salcedoは入植地を包囲し、侵略者を兵糧攻めにして投降する

ことを待った。

 

包囲作戦の間に、林鳳は船を作り、マングローブの沼地から海

へ抜ける水路を掘った。 8月3日の夕刻、暗闇に紛れて、

林鳳はスペインの包囲網をくぐり抜け逃走した。

後に残された彼らの何人かは、高地へ逃げ込み、イゴロットや

Tinggianと混じることとなった。

 

 

=== イゴロットはバギオ市周辺から奥の山岳地帯の

    山岳民族の総称です。

民族名Tinggianについてはこちらでどうぞ。

http://class.csueastbay.edu/anthropologymuseum/virtmus/Philippines/Peoples/Tinggian.htm

I-tineg means "people living near the Tineg river,"と書いてありますので、

Tineg川の近くに住んでいた民族のようです。

イロコス地域で、イロカノ語圏のようです。

 

 

逃走した後、林鳳は、中国へ帰り、そこで、彼の軍隊を

再組織して、新しい船団を集めた。

中国福建省の総督が、Palahoanの海戦で林鳳を破った。

林鳳はタイへと逃げたが、タイでの滞在は許可されなかった。

彼は、他の王国へも行ったが、どの国も中国を恐れて

林鳳を歓迎しなかった。

追放者として、林鳳はあちこちと放浪することとなった ――

そして、歴史の中から忘れ去られてしまった。

 

 

 

 

=== 林鳳のこの侵略については、こちらのサイトで

    ことのあらましが書かれています:

http://gold.natsu.gs/WG/ST/248/st248.html

 

1574: コンキスタドール vs. 倭寇

1516世紀にかけて、中国明王朝の沿岸は「倭寇」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていた。
 
倭寇の「倭」は日本を意味するものの、海賊は日本人、中国人、朝鮮人、シャム人(タイ人)らによるもので、中でも林鳳(Li Ma Hong)16世紀でもっとも有名な倭寇のひとりである。」

 

日本人副官Siocoってのはどこから来たんでしょうねえ。

それに、1,500人の女たちも一緒だったというのは

家族も一緒に来たということなんでしょうか。

政治的難民だったのか、経済的難民だったのか・・・・

興味は尽きませんね。

 

 

=== そして、その末路は・・・・

「スペイン人は、林鳳らの粗末な船では南シナ海を横断できず、全員死亡したと考えていたが、林鳳は中国湾岸に戻っていた。そこでも200隻の明軍に追われ、1576年に林鳳はシャムに逃れる。そこで林鳳は財宝と引き換えに保護を求めるがシャム王はこれを拒否、その後の林鳳の足跡は、いかなる文献にも残されていない。」

 

・・・・どこにも受け入れてくれるところは無かったんですねえ。

どうしちゃったんだろう・・・

 

 

=== シリーズ 76 に続く ===

 

 

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