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2016年1月18日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 82  高山右近の日本人町 サン・ミゲール

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

Img_3310

p168

 

「1回目の日本人の反乱(1606年)」

 

最初の日本人の反乱は1606年に発生したが、この時

総督Acunaはモルッカ諸島での戦いに出て、不在だった。

王立大審問院が日本人をフィリピンから追放するという

命令に激怒したのだった。

ちょうどそのマニラの緊迫した状況の中で、スペイン人が

喧嘩をして、たまたま日本人を殺してしまった。

直ちに、日本人居住者たちは、同胞の仇を討つために、

急いで武器を取った。

フランシスコ会の修道士たちが、1500人の武装した

日本人を説得した為、実際の戦闘行為は防がれた。

スペイン人たちは、日本人がその反乱を拡大しなかった

ことに感謝した。 MORGA博士は、「もしこの時点で

日本人たちが暴発していたら、スペインはひどくやっていた

だろう」と述べている。

 

 

「2回目の反乱(1607年)」

 1607年にスペイン当局から出された、日本人はすべて

マニラの郊外で働くように強制する、独断的な命令が、

日本人を反乱に向かわせた。

今度は、実際の戦闘がおこった。

フィリピンースペイン軍は、町の城塞の外にある日本人町

Dilaoを攻撃し、激しい戦闘の末に、反乱軍を鎮圧した。

日本人町は、強奪され、焼き落とされた。

 

=== 以上ふたつのケースが掲載されていますが、

    どのような日本人がいて、どんな人物がリーダー

    として反乱軍を率いたのか、気になりますね。

 

    この時期のスペインの方針はどういうものだったのか。

    おそらく日本でのキリシタンへの弾圧にも

    関係があるんでしょうね。

 

年表を見てみますと:

日本でのキリスト教関係では・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%B9%B4%E8%A1%A8

 

フィリピンの年表は・・・

http://pichori.net/Philippines/history/philipino_chronology.html

1584年、パンパンガ地方でエンコメンデーロに対する反乱

1589年、カガヤン地方イロコス地方で貢税制度に対する反乱

1596年、秀吉のキリシタン弾圧により、ペドロ・バウチスタ神父が殉教。

1599年、マリベレスの海戦。オランダのフィリピン攻撃始まる。

1600年、初めての中国人反乱

1601年、マニラで最初の中国人(華僑)反乱

1606年、カガヤン地方反乱起こる。

1610年、マニラで日本人が追放命令に抗議して反乱

 同年、日本を追放されたキリシタン大名、高山右近の一行がマニラに到着。

1620年、カガヤン地方で反乱

1621年、マニラの日本人人口、3000に達する(鎖国後、減少)

1622年、再び、オランダ・スペイン海戦

  • 1622 長崎西坂で55名のキリシタンが処刑される(元和の大殉教)。
  • 1629 長崎でキリシタン弾圧のために、踏絵がはじめて行われる。
  • 1637 長崎、熊本で島原の乱

 

=== 以上の年表を見ると、この時期、スペインは 国の内外で

    中国人、日本人、フィリピン人の反乱、対外的戦争、

キリスト教への日本の抑圧などなど、いろんな

問題を抱えていたんですね。 

    1621年現在で、3千人の日本人がいて、

    その後は、日本の鎖国などで減少する。

    高山右近もすぐに死んでしまったそうだし・・・

 

p168 

「マニラにおける二つの日本人町」 

スペイン時代には、マニラに、ふたつの日本人町があった。

それは、Dilaoとサン・ミゲールにあった。

ディラオの日本人町は、初の日本人町であり、1592年

作られ、その年には、秀吉がマニラに侵攻すると脅していた。

安全対策として、Dasmarinas知事は、Binondo、トンド、

キアポ、サンタ・クルズ、そしてその他の都市部の町に

散らばっていた日本人居住者を寄せ集めて、ディラオと呼ばれる

町に住まわせ、そこを日本人町とした。

その名前は、タガログ人がディラオ(「黄色」の意味)と

呼んだ自生の灌木の名前が語源であった。

この灌木から、タガログ人は染物用の黄色い染料を

抽出していたのだ。

 

=== スペイン人の気持ちも分からんではないですね。

    秀吉が侵略してくるって言っていたわけだし。

 

    ところで、

    タガログ人が日本人を「黄色」と呼んだってのに

    違和感を持つ人はいませんか?

    同じアジア人なんだから、フィリピン人にしたって

    黄色だろう、って思いませんか?

    ところが、です。 フィリピンの出生証明書なんか

    には、肌の色を書く欄がありまして、

    そこには、ほとんどのフィリピン人がBROWNって

    書くんですねえ。

    日本人が持つBROWNの意味としては、茶色とか褐色

    ですよね。

    普通、日本の学校で習うのは、白色人種、黄色人種、

    黒色人種ぐらいなんですが、茶色人種とか褐色人種

    ってのはまず見ることはないですからね・・・

 

p168

このディラオの日本人町は、現在のマニラ市パコ

プラザ・ディラオに位置していた。

日本人居住者たちは、家や店を建て、フランシスコ会の

宣教師たちの精神的保護の下に残った。

その居留地は、1767年まで存在したが、その年には

最後の日本人居住者70名が日本へ戻った。

 

p169

二つ目の日本人町は、サン・ミゲールと呼ばれ、

Juan de Silva知事によって1615年に創られた。

ここでは、300人以上のクリスチャンの日本人国外追放者

たちが住み、有名な高山右近とその家族、そして、

日本の貴族の人びとも含まれていた。

この町は、当初は、ディラオに隣接した、パシグ川の

南側の川岸に造られていた。

=== 高山右近の記念碑については、こちらのサイトでどうぞ:

プラダデラオ比日友好公園」

http://www.coco.ph/basic-information/history/179-justo-ukon-takayama-statue-in-the-philippines.html

・・・ここでは、Dilaoが「デラオ」と書いてあります。

   iとeの発音がフィリピンでは逆転することが多いので、

   「ディラオ」なのか「デラオ」なのか、はたまた「ダイラオ」なのか・・・

 

 

 

サン・ミゲールの日本人町は、イエズス会の神父たちの

精神的保護の下にあって、神父の幾人かは、日本での

宣教師であった。

この日本人町は長くは続かなかった。 それは、彼らの

後には、マニラに来るクリスチャンの日本人移民は

続かなかったからである。

なぜなら、将軍徳川家康が世界への日本の扉を閉じた

からであった。

若い冒険心のある日本人居住者の何人かは、高山右近の

孫息子も含めて、秘密裏に日本へ戻った。

その他の居住者は、次から次に死んでいった。

1656年から間もなく、サン・ミゲールの最後の2~3人

の居住者が死んでしまった。

この時までに、サン・ミゲールは、もはや日本人町では

なくなり、フィリピン人と何人かの日系フィリピン人の

町となっていた。 このようにして、二つ目の日本人町

サン・ミゲールは、時の風とともに消滅した。

 

 

=== シリーズ77のページで、インターネット検索した

    ところ、以下のように書いてあり、日本人町の

    名称が 「マニラのデイオラ地区」と書いてありましたが、

    この教科書では Dilaoとありますから「ディラオ」の

    方が正しいのでしょうね。

 

「在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に

集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)

 

=== それにしても、高山右近と家族などが住んだ

    サン・ミゲールで日本人居住者が次々に死んで

いった、ってのは何か隠された意味でもあるん

ですかねえ・・

    高貴な人たちは、マニラの風土に合わなかった

    とか、生活の糧を得ることができなかったとか・・ 

    ひとつ目の日本人町のディラオの日本人は

    上に「その居留地は、1767年まで存在したが、」

    とありますけど、日系フィリピン人として

    生き残ったのでしょうか・・・

 

=== シリーズ 83 に続く === 

 

 

 

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