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2016年1月20日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 83  日本人キリシタンの出エジプト

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

Img_3544c

(これは、随分ふる~~い 日本の高校の歴史教科書です・・・)

p169

「日本人クリスチャンの出エジプト(国外退去)」

フィリピンに落ち着いた日本人移民の多くは、キリシタンであった。

彼らは、キリスト教信仰のゆえに母国から追放されたのだ。 

1614年に高山右近に率いられたグループとは別に、

もっと多くの迫害された日本人キリシタンが、その後にも

マニラに到着した。1632年に、日本当局は、船一隻のらい病

患者の人びとをマニラへ送った。これらのらい病患者は、

フランシスコ会の修道士たちの下に置かれ、San Lazaro

病院でよく世話をされた。 

=== 日本の教科書には「国外追放」までは書いてあったと

    思うんですが、その行く先がフィリピンだというような

    ことは書いてなかったような気がします。

Img_3550b

これは古い日本史の教科書なんですが、本文には「国外追放」としか書いてありませんね。

 

Img_3550c

しかし、脚注には、高山右近についてはマニラと書いてあります。

Img_3540

ポルトガル人が「日本人を奴隷として輸出」・・・ひどいですねえ。

秀吉は、大名にはキリスト教を禁止したけど、一般人には禁じていないんだ。

=== 1632年に「らい病患者をマニラに送った」って

    いうのは徳川家光の時代なんですね。

    もしかして、このらい病患者というのも、キリシタン

    だったんでしょうか。 

p169 

「日本人移民の増加と減少」 

前述のとおり、1570年に、Goiti元帥はマニラで20人

日本人を発見した。 1592年、秀吉の侵略の脅威があった

時には、フィリピンに300人の日本人居住者がいた。

日本でのキリスト教徒の迫害と排斥にともない、マニラには

次々に日本人が落ち着くことになった。

1619年、日本人の人口は2,000人に達し、1612年

には、この数字は3,000人に増え、スペイン時代では

最高の記録となった。 

=== ああ、ここでも編集がきっちりされていませんね。

    1612年じゃなくて、1621年でしょうね。 

1639年、将軍家光による鎖国によって、フィリピンへの

日本人移民は停止した。

これにより、日本人の人口は、次第に減少した。

Img_3554a

日本史の教科書に書かれた鎖国の年表。 

p170 

「フィリピン-日本関係の再開」 

1853年、アメリカの小艦隊を率いた Matthew C. Perry

が、日本を世界に開いた。 その結果として、フィリピン-日本

の関係も再開した。 1857年、日本の経済派遣団が

マニラを訪れ、比日間の貿易を推進した。

日本の領事館は1889年に設置された。

 

フィリピン人の愛国者たちは、スペイン当局によって迫害され、

日本へ逃亡し、日本で歓迎された。

日露戦争(1894-95年)における日本の勝利は、

西欧の帝国主義勢力によって植民地の奴隷とされた全ての

アジアの人びとが称賛した。

特に、スペインの過酷な法律の下に苦しんでいたフィリピン人は

やがてやって来る解放の闘争における援助を期待して

日本を見上げた。 

==== 1889年に領事館が開かれたとなっているん

     ですが、これはすぐに閉鎖されちゃったんですよねえ。

http://blog.livedoor.jp/onda_mfg_2010/archives/4150149.html

1889(明治20)年、たった2人の在留日本人が記録されております。1897(明治30)年、16人。1902(明治35)年900人。

1888年(明治21)年に、当時スペイン領フィリピンに、初の日本領事館が開設されました。しかし、在留日本人が少なすぎたため、一時閉鎖されるほどでした。また、当時の在留日本人の半数以上は、女性でした。これは、「からゆきさん」といわれた娼婦たちです。」

 

・・・別の本を読んだんですが、どうもこのスペイン時代の末期

   には、経済的には盛り上がらなかったようで、

   アメリカ時代になってから良くなったようです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-8c54.html

早瀬 晋三 著
 
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」

 

p71

フィリピンでは、1898年のアメリカ領有後、駐留するアメリカ軍の強い要望で
 
1902年から増加し、20年の廃娼まで 全国津々浦々に少なくとも
 
合計300-400人がいた. 

p75
2 外交官

マニラに日本領事館が開設されたのは1888年12月29日のことであった.
その目的は、通商拡大、貿易促進、移民の導入であった.

93年9月13日から96年10月26日の再開館まで、領事館は一時閉鎖
に追い込まれた.

フィリピンでは、本国アメリカの移民法を遵守して、「契約移民」は禁じられていた.

「からゆきさん」も、「ベンゲット移民」も、ダバオのアバカ栽培者も、すべて
フィリピンでは「不法外国人労働者」であった.

 

=== 徳川家光の頃から、いきなり「ペリーの来航」に

    話が飛んだんで、いささかびっくりですが、

    まあ、そんだけ空白の時代があったってことですね。

    そして、スペイン時代の末期から、アメリカ時代に

    切り替わって、日本人がフィリピンへ海外出稼ぎに

    やって来た。

 

    そして、例のバギオへの山岳道路、

    ケノン道路建設のための、日本人移民というか

    海外出稼ぎがやって来る。

 

=== シリーズ 84 に続く ===

 

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