初めての「バギオ歴史遺産フォーラム」開催 : フィリピン大学バギオ校
「バギオ歴史探訪アート・マップ」 Baguio Historical Walk Art Map ってのを制作しようってことで動き出した矢先に、「第一回バギオ歴史遺産フォーラム」ってのがあるよと教えてもらったので、押っ取り刀で フィリピン大学バギオ校へ駆けつけました・・・
なんで 駆けつけたかって言いますと、実は このポスターに・・・・
Baguio Heritage Foundation (バギオ歴史遺産財団)って名前を見たからなんです。
アート・マップ制作の為に、1930年代のバギオにどんな歴史的建物があったのかってことが知りたくて、FACEBOOKの同財団のアカウント経由で、38のサイトのリストを頂いたもんで、関係者に合わなくちゃいけないなって話なんです。
(まあ、今時のインターネットは便利ですねえ・・・)
右側に立って話しているお二人が主催者の方々でして、男性の方が 私が会いたかった ドクター・パラアン(眼医者さん)なんです。
3週間ぐらい前から 「会いたいよ~~」と ラブコールをしていたのに、一回だけ 「あとで見ておきます」という返事があっただけで、その後は音沙汰なし・・・・
バギオ歴史遺産財団の理事長さんらしいんです。
その方に、フォーラムが始まる前の 廊下でばったり会ったわけです。
どんな話になるのかも分からず仕舞いで参加したんです。
・・・で、プログラムに名前がある方々は 主催が フィリピン大学バギオ校の 山岳地域研究センターなんで、そこの教授の皆さんみたいでした。
まずは背景の説明で、目的を読んだら どうもバギオ市における 歴史遺産の選定をどのような基準でやっていくか・・なんていうものでして・・・
ユネスコではどういう基準でやっているかとか、フィリピンの政府機関ではどうやっているかとか・・・まあ、そんなことで・・・
その目的なんかの説明の後に、参加者の色々な意見を聞く時間がありまして、それぞれの立場からの発表がありました。
どうも、事前にアンケートみたいなものが配られていたみたいで、それに応ずる形での発表だったようすでした。
ちなみに、この男性・・・どっかで見たことがある人だなあ・・・と思っていたら、日系人会館でのミサを仕切っていた神父さんでした。
そして、参加者2番手は、私の後ろに座っていたこの女性。
バギオ博物館でいつもお世話になっている職員の方でして、
「よっ! がんばって~~~」 ってなノリでした。
3番手は、この女性が前には出ないで自分の席から意見の発表。
どっかで見たような女性だったんすけどねえ・・・思い出せない。
向こうは こっちを知っているような素振り。
記憶力の無い爺さんは困る・・・・
そして、参加者の10人目が 若い男性。
・・・で、結局どんな話があったのかって?
覚えていません・・・あはは
それぞれの立場で、それぞれの意見があったってことで。
で、あと一人 誰か意見のある方はいませんかって司会の人が言って、
誰も手を挙げなかったんで、私が手をあげちゃいました。
「バギオ歴史探訪アート・マップってのを作り始めたんですけど、
1930年代のバギオの情報や写真を探しているんで、
なにかありましたら、どうぞ宜しく・・・・・」
ってお願いをしました。
・・・まあ、この場は、バギオ歴史遺産の選定の為のコンセプト作りの場所です
からねえ・・・ 明らかに場違いの KY君だったかもしれません・・・あはは
・・・・
さて、この後が基調講演っていうか、研究している教授の皆さんの話が続いたんです。
プレゼンテーションをいくつか写真に撮りましたんで、それを御紹介しましょう。
・・・・・・・・・・・・
写真にあるのはひとつの例として、CASA VALLEJO の現在のホテルが
あげられています。 数年前までは幽霊屋敷でした。
別のスライドでは、バギオ大聖堂の商業化が言及されました。
記憶に基づく観光・・・・
2のところには、「文化的トラウマ」に基づく記憶と書いてあるんですが、
これは 当然のこととして、戦争の記憶、第二次大戦中の日本軍による
占領や アメリカ軍による解放などが入ってくるわけですね。
バギオ市の目抜き通り「セッション通り」の名称の由来となった建物。
1904年に アメリカのフィリピン委員会がここで 「バギオを夏の首都とする」
ことを決めるセッションを開いたということだそうです。
この当時は BADENーPOWELL ホールであったそうですが、
今は BADENーPOWELL ホテルになっています・・・・
(これが 今の BADENーPOWELLホテル・・・バス・ターミナルの お土産や飲食店の建物の後ろに押し込められるように建っています。)
今現在 UC大学や選挙管理委員会がある場所に、1902年ごろ
最初の療養所が建てられた。
そして、1908年に 今のバギオ総合病院(BGH)が建てられたあと、
この療養所は バギオで初めての高級ホテル「パインズ・ホテル」となった。
戦後生まれの人の間では、パインズ・ホテルは 今現在のSMバギオの
場所にあったことが知られていますが、戦前は 今のUC大学の場所に
あったのです。
日本軍による占領時代には、ここは日本軍将校の社交の場となっていた
そうで、日本の少女歌劇団などが慰問公演に来たのだそうです。
歴史には 明るい話ばかりではなく、暗い、トラウマになった話もある。
バギオ市でのトラウマの歴史には、もちろん日本との戦争があるんですが、
1990年のバギオ大地震も大きな心の傷になっているものなのでしょう。
バギオ大地震の避難民。
向こうに見える大きな建物は スカイワールドのビルだそうです。
今のセッション通りの この場所ですね。 名前は残っています。
今の バギオ・シティー・マーケットの場所にあった ストーン・マーケット。
これは 第一次世界大戦で捕虜となっていたドイツ人たちによって建造された、とあります。
ここでは、 第二次世界大戦中のアメリカによる絨毯爆撃を生き延びたと書いてあります。
・・・
ここで、ちょっと前の同じ講演者のスライドに戻ると、こんなのがあったんです:
これは もちろん誤りで、米軍による、日本軍をバギオ市から追い出すための絨毯爆撃だったんです。
詳しくは こちらのリンクでご覧ください:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/09/post-fdab.html
ついでに言えば、今のセッション通りに残っている「大戦時の廃墟」。
こにKFCの右側にある空き地・・(その前にこんなお店が並んでいますが・・)
上から覗くとこんな感じ。
ここは、戦争当時は Baguio Royal Bazaarという インド人経営のお店があったそうで、その経営者の息子さんから聞いた話ですから、間違いありません。
これは いわゆる先住民族と言われる山岳民族出身の方の 詩のようなものですね。
バギオ近郊の先住民族としては イバロイと呼ばれるグループがあるんですが、ここに書いてあるのは、 バギオ建設時代に これらの先住民族は 道路建設などの労働者を除いて、主に 召使いや洗濯女としての仕事であり、技能者はほとんどが低地からやってきた人たちだったということなんです。
バギオ市を造る最初の工事は、ケノン・ロード(当時のベンゲット道路)建設だったんですが、その工事には、アメリカ人の指揮の下に、フィリピン人、中国人、日本人など、多くの国籍の人々が携わったとされています。
詳しくは こちらでご覧ください:
つまり、講演者の主旨としては、この「バギオの歴史遺産」というのは、誰にとっての文化遺産なのかという点ですね。
「バギオとは何を意味するものなのか?」 ・・っていう、根本的な問題があるわけです。
バギオ市が建設された時から、アメリカの植民地政策の一環として開発され、1930年代には、スペイン人、アメリカ人、ドイツ人、イタリア人、中国人、インド人、日本人など、様々な国籍の人々が 街づくりや経済活動に関わっている 「人種のルツボ」とも呼ばれるバギオ市ですから、このような問いかけが出てくるのも不思議なことではありません。
戦前のバギオ市における 日本人や日系人の様子については、こちらのサイトでご覧いただけます。
http://janl.exblog.jp/13504807/
・・・・
心理学がどのように関与できるか・・・って話もあるようですが・・・
難しいことが書いてあるんですが、つまるところは、親から子へ伝えられる「地元への愛着」なるものが グループごとに様々にあるけれど、それと歴史遺産への思いが大切だ・・ってことみたいです。
基調講演が終わり、この後は 様々な意見交換がありまして・・・
その中に バギオ博物館のキュレーターの方の 「博物館は大切だ」みたいな意見も・・・
そして、フィリピン大学バギオ校の学長を含む、数名の方々の意見が出て、・・・
最後は、主催者の一人である、バギオ歴史遺産財団の理事長さん。
その理事長に 「バギオ歴史探訪アート・マップ」 を制作中のアーティストと 話をしてもらいました。
・・・まあ、これが目的で 横から参加したようなもんなんで、
お邪魔したしました。
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