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2016年11月22日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 86 英軍のマニラ占領時代

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンの大学などで使われている歴史の教科書を読みながら

要点だけをピックアップして翻訳しています。

気長にお付き合いください。

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「第十三章 英国による侵略」の続き

 

 

p175 

「英国によるマニラでの略奪」

 

マニラ陥落後の恐ろしくも期待外れだったのは、英国の征服者

による陥落したマニラの略奪だった。

30時間以上にわたって、勝利に狂った英国とインド人傭兵たちが

教会や市民の家で略奪を働き、高価な芸術作品や貴重な装飾品

を戦利品とした; 学校、大学、そして修道院などを荒らし;

埋葬された宝物の心なく破壊的な窃盗、そして、墓地を冒涜し、

聖アウグスティヌス教会のレガスピやサルセドの墓地も

例外ではなかった。

 

無防備な市での非道な略奪は、1762年10月6日―7日

起きたのだが、それはマニラというキリスト教徒の市に対して

文明人によって初めて行なわれた犯罪であった。

 

 

「Andaによる戦闘の継続」

 

 

スペインにとって幸運だったことは、マニラ陥落の夕刻に、

Anda(王立の大審問院のメンバーであった Don Simon de

 

Anda y Salazarが 幾人かの忠誠心をもったフィリピン人の漕ぐ

小舟で逃走していたことだった。

彼は、パンパンガ州Bacolorに彼の司令本部を打ち立て、

そこをフィリピンの暫定の首都とした。

彼は、自身を総督として、政府を継続した。

 

彼は、フィリピン人とスペイン人の陸軍を組織し、素早い密使を

国中に派遣し、人びとに対して、神とスペイン国王の名の下に

侵略者に抵抗するよう力説した。

 

 

「英国の侵略におけるフィリピン人の役割」

 

スペインによる統治を守った、このAndaの成功は、フィリピンの

人々の忠誠心と支援に負うものだったことに言及しなければならない。

もしフィリピン人がAndraの主張を支えず、その反対に、

英国の侵略者を助けていたら、フィリピンは英軍によって征服

されていたであろう。

 

 

p176

 

「東インド会社による占領下のフィリピン」

 

英国の東インド会社が単なる貿易会社以上のものであったことは

特筆すべきであろう。

会社は、1600年1月1日にエリザベス女王によって認められた

定款によって、独自に陸軍と海軍を保有することを認可されていた

インド、中国、その他のアジア諸国での英国貿易を独占するため;

英国の為に新たな領土を植民地化するため; そして英国国王の

名に於いてそれらの国々を支配するためであった。

 

従って、マニラ占領から一カ月も経たない1762年11月2日に、

東インド会社(インド・マドラスに拠点を置く)は、マニラに

民政の政府を樹立した。・・・・・

 

同会社の民生政府は、英軍によって征服されたマニラ及びカビテ

 

を支配することは出来たが、ルソン、ビサヤ、ミンダナオ及び

スールーなど、他の州については支配していなかった。

 

マニラ及びカビテの外では、マニラの王立大審問院の戦闘メンバー

であったDon Simon de Andaおよび 忠臣のフィリピン人と

スペイン人の陸軍がスペインの統治を守ることができた。

 

 

p177

 

「バックハウス大佐と ガレオン船の財宝」

 

威勢の良いスペインの将校、 Jose Pedro Bustoは、Andaの指揮の

下で代行していたのだが、フィリピン人のゲリラ部隊を率いて、

パシグ河の水源で、ラグナ湾からマニラへの食糧の物流を

止めた。 河の封鎖に悩まされ、Draper司令官は彼の有能な

将校 バックハウス大佐を送り込み、敵を追い散らそうとした。

 

バックハウス大佐は、フィリピン人から高価な銀の貨物、

メキシコからのガレオン船を押収したいと願っていたのだが、

それを運んでいる輸送隊を遮ろうとラグナへ行軍した。

しかし、Pagsanjanの町で、その地の勇敢なリーダーである

Francisco de San Juanの指揮下にある地元民の抵抗に合い、

遅れてしまった。

・・・・・

Lipaの町で、財宝はすでにパンパンガ州のAndaに届けられた

為、遅すぎたことを悟った。

 

 

「三人の総督とその間の出来事」

 

フィリピンの歴史の中で、奇妙なことのひとつに、短い期間の

エピソードがある。 それは、フィリピンの総督が3人いて、

それぞれが国を支配する権限があると主張したことだ。

それは、大司教 Manuel Antonio Rojo 王立大審問院判事Simon de Anda

そして Dawsonne Drake候であった。

 

大司教Rojoは、メキシコ出身の高位聖職者で、1761年に

スペインの国王チャールズ二世によって、フィリピンの総督代行

として任命されていた。

英国の戦争捕虜となってはいたが、植民地を支配していると主張し、

Andaに対しては投降するように命じていた。

 

Andaは、闘う法律家であったが、マニラの王立大審問院の

メンバーの中でただ一人自由の身であったため、支配権を

当然のこととみなしていた。

 

Drakeは、三番目の総督であるが、東インド会社によって

フィリピン総督として指名されていた。

 

 

 

p178

「英国による占領の終焉」

 

Andaと英国が闘っていた間に、ヨーロッパにおける七年戦争

は幕を下ろした。 戦争を終結させたパリ条約は1763年

2月10日に署名された。

 

 

=== 七年戦争とパリ条約については、こちらでご覧ください:

    これを見ると、元々はスペインは関係なかったみたいですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

 

七年戦争(しちねんせんそう、: Seven Years' War: Siebenjähriger

Krieg1756-1763)は、プロイセン及びそれを支援する

グレートブリテン王国イギリス)と、オーストリアハプスブルク君主国

ロシアフランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争である。」

 

フランスは植民地での劣勢を跳ね返すために同じブルボン王家

スペインに応援をもとめ、17618月に同盟を締結した。」

 

イギリスは176110にプロイセンへの支援を打ち切ったが、

結局17621月にスペインに宣戦布告し、ポルトガルに侵入した

スペイン軍を撃退、さらに大艦隊を編成してスペインの植民地で

あるキューバハバナフィリピンマニラを占領した。」

 

 

 

p178

このパリ条約によって、英国はフィリピンをスペインに返還した。

 

サンタ・クルズ教会の中庭で、スペイン統治権への復帰を祝う

印象的な祝賀会が開催された。

それから間もなく、英国軍は出航し、1年半に渡る占領

終止符を打った。

 

 

 

「英国による侵略の結果」

 

 

英国軍のフィリピン侵略が世界の注目を集めることとなった。

英国軍がマニラを手中にしたというニュースが、ヨーロッパで

広がると、英国の人々とヨーロッパの外交官たちは

その地図を我がちに取り合い、生涯で初めて、フィリピンが

どこにあるのかを学んだのである。

 

 

マニラ占領はフィリピンにおけるスペインの威光を落とすこと

になった。 これまでは、フィリピン人はスペイン軍が

無敵であると信じ込んでいた。 しかし、マニラが英軍の

手中に落ちたことで、フィリピン人は結局スペインと言えども

負けることがあるのだということを悟ることになった。

そのことによって、フィリピン人はその後、特にSilangの指揮下

イロコス州や、Palarisの下のパンガシナン州などで、

様々な反乱を起こすこととなる。

 

短い英国によるマニラ占領下で、マニラは海外貿易に開放

された。 インドの英国商人たちは、フィリピンの商業的な

可能性を学んだ。 インドの貨幣、ルピーが、マニラに導入される

ことになった。

 

最後に、多くのインド人傭兵たちは、英軍の軍役を解除され、

Caintaに定住し、そしてフィリピンの女性たちと結婚した。

 

この町の現代人の多くは、黒く丸い目、高いカギ鼻、ウェーブ

のある黒髪、そして浅黒い肌で ――― インド人(傭兵)の

子孫であることを示している。

 

 

==== 実は、まだ100年ちょっとしか経っていないん

     ですが、私が住んでいるバギオ市は1900年代初期に

     アメリカによって開発された避暑・保養高原都市

     なんです。

     このバギオ市の歴史パレードには、

     スペイン人、中国人、インド人、アメリカ人、

     日本人がバギオにやってきたという紹介が

     含まれているんです。

     それに、1930年代のバギオの街並みを調べた

     折にも、「ボンバイ・バザール」(ボンベイの店のこと)

     の名前が有名で、戦前のバギオを知る方に聞くと、

     インド(人)の事を「ボンバイ、ボンバイ」と呼んで

     いたそうなんです。

     そのインド人がどういう経緯でバギオにやってきた

     のかを知りたいと思っていたんですが、

     直接ではなく間接的にこの英軍によるマニラ占領が

     関係あるのではないかと思ったりしています。

 

 

=== これで第十三章を終わりました。

    次回 シリーズ87 からは 

第十四章 フィリピン人の反乱」に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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