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2016年12月 8日 (木)

ラジオ番組スピーチの 日本語翻訳版 : バギオで聞いた戦争体験の話

このページは、下記のページに掲載した 英語によるスピーチの日本語翻訳版です。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/12/post-a30a.html

 

ベンゲット州カパガン町で開催された「第七回 アジア太平洋国際平和慰霊祭」のラジオ番組の中で 私が過去10年の間に 様々な方々から学んだ 第二次世界大戦中の バギオ市周辺での話を集めたものになっています。

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私は、90歳ぐらいの元日本兵の方々と話す機会に恵まれました。 彼らは、戦没者慰霊の為に、バギオや他の場所を訪問していました。

 

又、私は、日系人の皆さんや、バギオへ慰霊にやってきた日本人の遺族の方々からも多くのことを教えられました。さらに、元日本兵、軍医そして看護師など、バギオや周辺地域で戦争を体験した日本人の人たちが書き遺した本を何冊も読みました。

 

そのいくつかを、ここに述べたいと思います:

 

- 終戦近くに、およそ700人もの日本兵が亡くなり、マインズ・ビューの道の側溝に埋められました。

 

- バギオ総合病院は、戦争中は日本の陸軍病院として利用され、およそ800名の重傷患者が、1945年4月の米軍による絨毯爆撃の間に、毒殺されました。

- ベンゲット州のアグノ河(アンボクラオ・ダム周辺)沿いにあったインチカクの野戦病院には、食糧も薬品もありませんでした。

 

- 看護師たちでさえ、一日におにぎり2個のみで、数百人の傷病兵には、何の食糧もありませんでした。

 

- 看護師たちが出来ることは、日本の家族に送り返すために、死亡した兵士たちの髪の毛や爪を集めることだけでした。

 

- ベンゲット州やイフガオ州などの深い森の中では、恐ろしい飢餓の為に、カモテ芋を見つけられない時には、日本兵たちは何でも食べました。例えば、キノコ、木の根、蛇、トカゲ、昆虫、ネズミ、ゴキブリ。 そして、最悪の場合には、人肉までも。

 

- ですから、日本人看護師の間では、日本兵のカニバリズムに警戒するようにとのチラシが配られました。

-  もし米でも持っていようものなら、日本兵に殺されてしまうのです。 

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ある元日本兵のひとりが、その死後2012年に出版された彼の著書の中で、戦時中のことを告白しています。

 

- 彼は、友人に、自分が死んだ後に この本を出版するように依頼していました。

 

- 彼は、銃剣で3人のフィリピン人を殺したと告白しています。 その中には抗日ゲリラのリーダーであったアコスタ氏の愛人も含まれていました。

 

- 皆さんには理解できないでしょうが、戦場にいたら、なんの躊躇いもなく敵を殺せるようになるのです。 特に、自分の同僚たちがたくさん殺されたような恐ろしい現場を見た後などは。

 

- ある兵士仲間は、結婚式のほんの20日後に日本軍からの召集令状で呼び出されました。 そして彼は戦地で死にました。

 

- この著者は、マニラの近郊で恐ろしい作戦に携わりました。 そして、戦後、30回以上もマニラを訪問しました。しかし、著者は それを思い出したくもなく、その恐ろしい作戦がどこで行なわれたかを聞きたいとも思わなかったのです。

 

- この恐ろしい作戦に参加した同僚兵士たちは、その後レイテ島に派遣され、

誰も日本へは帰還しませんでした。

 

- 同僚兵士の母親の一人は、戦地の息子から航空郵便を受け取りました。 しかし、その息子は戦後日本に帰ることはありませんでした。 その母親は、精神を病み、著者にこう聞きました。

   私の息子はどこにいるの?

 

- リンガエン湾に400隻以上の米軍艦船を見つけた時、特別攻撃隊(神風特攻)が艦船を襲ったが、無駄であった。

 

- 1945年4月、日本人の人々がバギオ市から逃れ、ラ・トリニダッド町、そしてハルセマ・ハイウエイ方面へ向かった時、米軍はベンゲット州庁舎のすぐ近くのバリリ河の橋を爆撃しました。 日本人たちは、その川底を、多くの日本人の屍の上を歩いて渡りました。

 

1975年から1985年の間に、著者がバリリ河に来た時には、日本人の戦没者慰霊碑がたくさんありました。

 

- 著者(日本兵)が、看護婦たちに 「あなたたちの為に、河から魚を獲ってきてあげるから、あなたの手榴弾をくれませんか」と尋ねました。

すると、彼女らは、「これはいざと言う時に、自害するための手榴弾だから、あげるわけにはいきません。」と応えました。

 

- バギオ市にあった捕虜収容所では、酷い飢餓の後に突然栄養価の高い食べ物を食べたために、死んでしまった日本兵がたくさんいました。

 

- 戦後、日本の名古屋駅でのことです。 私は多くの日本人女性がアメリカ兵と手を組んで歩いているのをみました。私はそれが我慢できず、立ち上がって怒鳴ろうとしました。 しかし、私の隣に座っていた大学生が私を制して言いました、

  「おじさん、あなたの気持は私も重々理解できます。あなたと同じです。  でも、今の日本は、この状態を乗り越えなくちゃいけないんです。     彼女たちは、食べて、生き残るために、自分の身体を売るしかないんです。」

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私達は、ベンゲット州イトゴン町のダルピリップの村を訪ね、すでにお話した元日本兵が参加した作戦の場所である教会を見に行きました。

 

私達は、その村のあるお婆さんから、日本軍はその村のすべての大人たちを集め、その教会を丸ごと焼こうとしていたと聞きました。

しかし、そこで奇跡が起こりました。

そのお婆さんは、ゲッコーと呼ばれるヤモリが皆を救ったと言うのです。 日本兵たちがその教会を燃やそうとした時、ゲッコーが鳴いたのです。 日本兵たちは、その声は神様のお告げだと思い、その作戦を中止したと言います。

 

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アンティーノ カランテス氏 と 霊媒師の話

 

2009年5月に、ベンゲット州イトゴン町の 元抗日ゲリラ アンティーノ・カランテス氏の息子さんから電話を受けました。

 

霊媒師が彼に言うには、日本兵の霊が 日本語らしき言葉で何かをしゃべっていると。

「日本兵はここに埋まっていて、腹を空かせている。」

「だから、日本式に慰霊をやるのが良い。」

 

私達は、その場所に行き、慰霊祭をしました。 その場所は、アグノ河の横にあって、その河は、戦時中に日本兵たちが「三途の川」と呼んでいた河でした。

 

アンティーノ・カランテス氏は、マテオ・カランテス氏のお孫さんで、バタアンでの戦闘に参加し、あの死の行進を生き延びた方です。

 

彼は、戦争中に多くの日本兵を殺したと告白しました。

そして、それは ただ、戦争だったからだ、と言いました。

 

2009年9月14日に、91歳でなくなる直前に、 カランテス家の人たちが、日本兵の霊が 親戚の一人に取り憑き、紙に何かを書いた、と言うのです。 それで、彼らは私たちに、死者の霊を鎮めるために慰霊祭をやってくれないかと依頼してきました。 

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過去10年間、私はバギオ市に住んで、地元の人たちに日本語を教えてきました。

私のニックネームは グニ・グニで、これは幻覚と言う意味でしょうか? ですが、私は、亡霊を見たり、聞いたり、感じたりしたいと思っているんです。

 

しかし、今回は、私がバギオ市で聞いた 亡霊の話をいくつかしてみたいと思います。

 

ある日のこと、私は、日本語の生徒から、彼女とそのお兄さんが亡霊を見たり声を聞いたりできるという話を聞きました。彼らはベンゲット州ブギアスの出身で、ブギアスの町で、日本兵の亡霊を感じたと言うのです。 ある夜、彼女は誰かが兄の部屋で兄と話しているのを聞きました。兄の話では、戦争中に死んだ日本兵と話していたということでした。 

また、彼女は、二人の日本兵を見たそうです。 一人は兵士で、もうひとりは頭の無い将校でした。

 

それから、彼女によれば、彼女の御近所さんが、ブギアス町のその家には亡霊が多過ぎるという理由で、マニラに引っ越したとも言いました。

 

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ふたつ目の話は、日本人の友人から聞いた話です。

 

その友人は、高校生時代からバギオ市で勉強し、セントルイス大学を卒業した人です。

 

ある日、彼は、地元の人から電話を受け、小さい女の子が多分日本語で、それも男の声でしゃべっているので、助けてくれとのことでした。 

 

彼はその女の子に会い、日本兵の霊がその子に憑いていると思ったそうです。

日本兵の霊は、「英語が分からないので、地元の聖職者が言っていることが理解できない。」と言ったそうです。

おそらく、その日本兵は日本語を話せる仏教の僧侶と話をしたかったのでしょう。

私の友人は、「それで、私に何をして欲しいのか?」と霊に尋ねたそうですが、返事はありませんでした。

 

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三つ目の話は、ケノン道路のキャンプ7に住んでいる95歳のお婆さんから聞いた話です。

 

彼女とその子供たちは、彼女の大きな家の裏山から歩いて下りてくる軍靴の音を聞いたと言います。

 

その地域の元々の住民によれば、この場所には戦争中に日本軍の陣地があったそうです。

 

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四つ目の話は、私がヒーロットというフィリピンの伝統的マッサージをしてもらった時に、私の部屋で起こったことです。

 

二人のヒーロットの小母さん達がやってきて、窓の外を見ながら、何かを話していました。

 

私は、何を見ているの? と尋ねました。 すると、二人は、「あそこの松の木の下に、4人の亡霊がいるのよ。 両親と子供が二人ね。」と言うのです。

 

「私の部屋にも亡霊が見えますか?」 と、私は尋ねました。

すると彼女らは、「ええ、長い黒髪のメスティーサ(スペイン人との混血女性)がいるわよ。」と答えたのです。

 

二人のヒーロットは、亡霊について、このように説明をしてくれました:

 

亡霊というのは、私達、生きている人間、と同じように、この地球上に住んでいるんです。 そして、私たちは、この世界に一緒に住んでいるんです。

霊感のある特別な人にしか、見たり感じたりすることは出来ないけれど、彼らは確かに私達の傍に存在して、私達と同じように毎日の生活を過ごしているんです。

 

そこで、私はもうひとつの質問をしました。「何故日本人の霊は、戦後70年も経った今でも、フィリピンのこの辺りを彷徨っているんでしょうね。」

 

ヒーロットは答えました。「それは、多分、遺骨がここにあるからでしょう。」

 

日本の人たちは、同じように考えがちです。 なので、日本兵の遺族の人たちは、今でも、戦没者慰霊の為に、バギオ市や近隣の州にやってくるのです。

 

二人のヒーロットの小母さんたちは、私の部屋を出て行く時に、こう言いました。

「本当なら、あと二回 マッサージをやらなくちゃいけないんだけど、もうここには来たくないんです。 なぜって、ここは亡霊が多過ぎるんですもの。」

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