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2016年1月 9日 (土)

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 05 アメリカはイスラムを理解できない

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

「第二章 迷えるイスラム教」

p116

ヨーロッパの人びとは、アメリカに比べて、冷めた態度です。
ほとんどの人びとが教会に行かない。 これが、実証性と
理性主義を十分に踏まえた、文化的な人びとの行動様式だ
と言えます。

p117

乱暴に言えば、ヨーロッパの人はカトリックの教えなんて
迷信だと捉えていますからね。 プロテスタントは、
世界の創造主である神の存在は認めるけど、創造後の
世界に神は干渉していないと考え、奇蹟や啓示を否定する
理神論にかぎりなく近い。

p118

イスラムやカトリックは今後も世界的な宗教として
生き残っていくのは確実です。 しかし、多くの
アメリカ人が信じるプロテスタントは衰退している。

p119

イスラムは、アメリカの、真逆の世界です。
手の内もわからないから過剰に警戒している面もある。
そんな状況だから、今後、イスラムに対して、
悪魔のようなイメージが一人歩きしかねない。

もうすでに悪魔のように思っている人がいてもおかしくない。
となると「「アメリカ人がそう思うなら、いっちょ、
本物の悪魔になってアメリカ人を恐れさせてやるか
と行動に移すムスリムが出てくる危険性もある。

=== そうなんですか。
    プロテスタントのアメリカと イスラム世界は
    真逆なんですね。
    それで、大統領候補の共和党のトランプ氏
    みたいな人が「イスラムは悪魔だ」みたいな
    論陣を張って過剰に警戒をしている・・・
    ・・・ってことは、トランプ氏が大統領に
    なったらイスラム過激派は 千載一遇の
    チャンスを手に入れるって話ですね。

p119

外から投げかけられたイメージによって、自己を形成
してしまうことは決して珍しくはありません。

実は、国の舵取りを天皇が握っているかのような
「天皇制絶対主義」という言葉を作りだしたのは
ソ連なんです

1932年5月、ソ連の共産党国際組織「コミンテルン」
によって・・・・そこで日本を支配する絶対天皇制を
打倒するブルジョア民主主義革命を行うべきだとした。
・・・日本の「悪魔のようなイメージ」が広まり、
それに合わせるかのようにして、現実の日本の国家体制も
コミンテルン32年テーゼに書かれた姿に似てきた。

p120

日本が共産主義を研究して過度に警戒した結果、
国家そのものがそれに応じて変質してしまった、という
可能性は十分に考えられます。

p121

(現在のアメリカは)・・議論や討議を尽くすことで、
逆にイスラムのネガティブなイメージを固めつつあります。

=== う~~ん、なんだか「言霊」に飲みこまれた
    というような雰囲気ですね。
    まあ、マスコミの影響が大きいのでしょうが。

    日本の国会は、議論や討議を尽くすってことも
    ないから、今の日本は大丈夫なのかな?
    (これは皮肉です・・笑)

p122

内ゲバを続ける限り、「イスラム国」の拡大には
限界があるだろう、と。
内ゲバの拡大を狙っているから、イランが核を持つ
リスクがあるにもかかわらず、アメリカはイランに
肩入れしているわけです。

p123

扱いが難しいイスラム世界が内ゲバを起こせば、
そのぶん自分たちのリスクが減るという論理です。
身勝手ですよね。

p124

「イスラム国」の敵の敵は味方だから、とアメリカは
イランと手を結ぼうとしています。
アメリカがイランの核開発を事実上認めれば、イランと
関係が悪いサウジアラビアに核が渡る危険性があります。

=== この本が出版されたのは2015年10月21日
    なんですけど、この辺りの記述は 2016年1月
    9日現在の サウジアラビアとイランの間の
    危機的な動きをかなり正確に予測しているよう
    にみえます。

p124

パキスタンのように貧しい国が核開発できたのは、
サウジアラビアがスポンサーになったからです。
スポンサーが「よこせ」と言ったら、パキスタンは
断れない。

p127

サウジアラビアの国家体制は盤石とはいえません。
さらにいえば「イスラム国」とも関係が深く、
サウジアラビアから多額の金が渡っていると
考えられます。

=== おおお、恐ろしい話になってきました。
    イランとサウジアラビアが 核兵器を持ったら、
    核戦争もやりかねないですね。
    「イスラム国」を支援しているスンニ派の
    サウジアラビアと アメリカが軸足を移し
    始めたシーア派のイランの内ゲバ。

    シリアだけでも被害者や難民が大量発生で
    ヨーロッパをひっくり返すような
    事態になっているというのに・・・

    世界地図が大きく変化しそうなことに
    ならなければいいのですが・・・

=== その6 に続く ===

                      

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橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 04 世界帝国のイスラム VS 「アメリカ」アイデンティティー

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

p80

「第二章 迷えるイスラム教」

カリフを唯一の正当な統治者と考え、イスラム共同体ウンマ
の建設を目指すイスラム世界とは違って、キリスト教の
場合は、王に服従する文化、国家に従属する文化を持っている。
・・・国家は神によってつくられて神の行為を代行するから、と。

p82

キリスト教の原則はつぎのようなものです。
その時々の有力な統治者に、政治を任せる。 統治者は
、キリスト教徒であるのが望ましいが、絶対というわけ
ではない。 キリスト教徒が統治者に服従する条件は、
信仰が守られること。

p85
イスラムは、全世界、全人類にイスラムの教えが広まり、
カリフが指導する普遍的な人類共同体ウンマ、いわば
カリフ帝国の建設を目指している。
イスラム以外の世界から見れば、カリフ帝国とは
単一帝国による世界支配です。
その点で、私は、「イスラム国」は旧ソビエトに非常に
似ていると感じているんです。

p87
近代以降、キリスト教世界はどんどんバージョンアップ
していったのに、イスラム世界はそれに対応するバージョン
アップをすることができなかった。

p88
いま「イスラム国」はバージョンアップしなくても
存続できる基盤をインターネットによって手に入れた
わけです。

p89
イスラム主義は、進歩、発展により失うものが大きい、
と捉えている。 だから、原点回帰をすれば、失うもの
は何もないという考えに至る。

=== 要するに、イスラム世界は世界帝国になることが
    最終的な理想なんだけれども、キリスト教世界の
    ようには進歩ができない。
    ところが、インターネットの拡大によって
    原点回帰の思想を世界中に広めることが
    可能になってきたって話のようです。
    最先端技術をキリスト教世界からたなぼたで
    もらって、復古主義に世界を引きずり込む
    ということのようです。

p91

ムスリムにとって、クルアーン(コーラン)は唯一の聖典で、
それを文字通り神の言葉と受け取らなければならない。
キリスト教徒はそれを、原理主義ではないかと思った。
その見方が、欧米のマスメディアで拡散していって、
イスラムはファンダメンタリストだ、過激派だ、
テロリストだ、という単純な決め付けが、一人歩き
してしまっている。

p93

いまもワッハーブ派は、サウジアラビアの国教で、
ムハンマド時代の原始イスラム教への回帰を目指して
極端な禁欲主義を掲げています。
また過激派とのつながりのあるグループも一部にはいて、
アルカイダも「イスラム国」もワッハーブ派の武装組織
ですし、アフガニスタンのタリバンやチェチェンの
テログループも流れをくんでいます。

=== この辺りは、私はノンポリなので全く知りません
    でした。
    日本のマスコミに毒されちゃってますんで、
    アメリカと仲良しのサウジアラビアは
    割と進んだ国で、悪の枢軸とか呼ばれたイランは
    とんでもなく過激なイスラムかというイメージを
    持っていたんですが、知らないってっことは
    とんでもないことですねえ。
    これを読むと、アメリカがシリアなんかでも
    ISの壊滅に本気じゃないってことが
    分かるわけですね。
    一応「テロリストとの戦争」とか形だけは
    言っていても、壊滅するつもりもない。

p96

ローマ・カトリック教会は「執り成し」の権限を商品化して
購入すると罪が軽減できる「贖宥状」、いわゆる「免罪符」
を発行しました。・・・宗教においてもっとも大切な
ポイントが、金次第という話になってしまう。
・・・この免罪符を、マルティン・ルターが批判して
始まったのが、宗教革命です。

p97

プロテスタントは、腐敗したローマ教会を否定し、
神の言葉が書かれた聖書だけが正しいと考える。
イエスが唱えた素朴な原始教会に戻ろうという復古維新運動
です。 
・・・そう考えるとイスラム原理主義、復古主義と
成り立ちも考え方も重なります。

(イスラムは)・原罪がないから神が命じれば、聖戦の名のもとに
あらゆるものを破壊しても構わないと
考える。

=== ということで、イスラム教と キリスト教の
    アメリカなどを中心とするプロテスタントは
    原理主義の復古主義ってことでは共通すると
    言うんですねえ。
    ただし、「原罪」があるキリスト教と それが無い
    イスラム教では、決定的に異なると。

p98

過激なイスラム主義がなぜ生まれたかは、ヨーロッパ諸国が
中東に与えたトラウマを抜きには語れません。

第一次世界大戦後、西欧諸国は中東の全域を植民地に
しました。・・・イスラム法を無視した政治を行って、
共同体を破壊した。

「イスラム回帰」「イスラム復興」の動きが、
イスラム各地に広がり、現在に至っている。

p107

イスラムの場合、主導的に主権国家をつくったわけでは
なかった。 歴史を振り返れば、前近代的なオスマン帝国
やペルシャ帝国はあった。 しかしそれが崩れ去った
あと、ヨーロッパ列強によって、アラブ、ペルシャ、
トルコといった広い地域に、恣意的に線引きがされた。

p109

アメリカ人が、イスラム世界が置かれた現状やイスラム教
の人びとの心情を理解できないのは、イスラム世界と
アメリカが正反対だからです。

p110

アメリカは宗教によってつくられた国です。
民主主義や資本主義の実現が動悸ではなかった。
・・・ちなみにアメリカに渡ったピューリタンは
プロテスタントで、カルヴァン派の教えを信じていた。

・・・誰を救済するか決めるのは、神である。
しかもそれは、 あらかじめ決まっているという、
救済予定説に立ちます。
この考えは、アメリカの性格を、かたちづくります。

p111

まずは徹底した個人主義
家族も教会も、会社の上司も、自分が救済されるかどうかに
影響を与えることができない。
・・・大切なのは、神と自分の関係だけだ、と。

p112

端的にいえば、アメリカ人にとって「アメリカ」が
最上位のアイデンティティです。

では、ムスリムにとって最上位のものは何か。
それは、信仰です。

p113
イスラムが「アメリカ」という価値観の上位概念に
なりうる可能性を秘めているわけですから・・・

=== このアイデンティティの概念というのは
    恐ろしいですね。
    アメリカは国としての「アメリカ」という概念の
    下に世界中から移民が入って形作られている。
    一方、イスラム世界は、「信仰」というより大きな
    概念で「世界帝国」を目指す宿命を負っている。
    だから、国境なんて関係ない。

    さあ、日本人にとってのアイデンティティーって
    何でしょうかね?
    「日本人」?  「島国の世間」?
    「八百万の神々の国」? 

    動機づけとしては、イスラム世界の方が
    上を行く概念ではありますね。
    
    あるいは、先の大戦中のスローガン
    八紘一宇(はっこういちう)の復古主義にします?
    https://kotobank.jp/word/%E5%85%AB%E7%B4%98%E4%B8%80%E5%AE%87-115006

    そういう意味では、イスラムというのは
    日本人がやってきたこととかなり共通項が
    あるみたいですね。
    昔の日本軍と今のイスラム過激派・・・

=== その5 に続く===

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 73 スペインのアジア帝国は見果てぬ夢

 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

10 FILIPINO SERVICES TO SPAIN  

第十章 スペインへのフィリピンのサービス

 

 

p144

 

「マリアナ、パラオ そして カロリン諸島のフィリピン人」

 

ミンダナオ島に近い マリアナ、パラオ、そしてカロリン諸島などの

太平洋の諸島は、スペイン時代は マニラのスペイン人総督および

セブ島のスペイン人司教によって統治されていた。

 

フィリピン人は これらの島々を植民地とし、カトリックの地域

とするようスペイン人を支えた。

多くのフィリピン人がグアムに行き、永久につまり土地に

落ち着きました。 やがて、これらのフィリピン人移民は

現地の女性と結婚しそこで家庭を持った。 フィリピン人兵士も

スペインの要塞に配置され、現地人の反乱を抑える手助けとなった。

 

 

=== ここの和訳が自信ないですねえ。

 …went to Guam to settle down permanently in that is land.

    これは家庭教師の教授に聞くしかないな。

 

    それは、ともかく、こんなに古くからアジアのあちこち

    にフィリピン人は散らばっていたんですね。

    それが本人たちの自主的な意思だったと信じるには

    いささか抵抗を感じるのですが、実際はどうだったの

    でしょうか。

    ひとつだけ言えることは、形はどうあれ、フィリピン人は

    昔からインターナショナルな人たちだったと言うことに

    なりますね。

    こういう歴史教科書を使っていれば、今のOFW

    (海外フィリピン人労働者)という言葉にも

    抵抗感はないのかもしれません。

 

 

「中国に対したフィリピン人」

 

中国人はフィリピンにおいて歓迎された。 と言うのは

中国人は優れた芸術家であり商人だったからである。

スペイン時代にあっても、国の経済にとって中国人は

重要であった。 不幸なことに、スペイン当局によって

与えられた悪い扱いが、中国人の1603年から1762年の

5回にわたる反乱を引き起こした。

 

これら全ての反乱は、フィリピン人がスペイン人側に立った

ので、失敗に終わった。

 

(中略)

 

 

p144

 

「フィリピン人と モロとの戦争」

 

“モロ”という言葉は、スペイン語でイスラム教徒のことを意味する。

ミンダナオ島とスールー島のフィリピン人イスラム教徒は

スペインにひって征服されることはなかった。

何度もイスラム教徒は戦闘において負けたのであるが、

最後には戦争に勝利を収めた。

 

スペインと十字架への忠誠心から、ルソン島とビサイヤ地方の

クリスチャンのフィリピン人は、これらの戦争において

フィリピン人イスラム教徒と戦った。

彼らは、イスラム教徒に対抗するスペインの派遣部隊の全てに

兵士や船員として仕えた。

 

(中略)

 

これらのスペインの攻撃に関連して、フィリピン人イスラム教徒は

イロコス地方にまで至る他の島々の海岸の町々に奇襲をかけた。

彼らは、教会を焼き、クリスチャンを殺害し、そして

奴隷を連行して、セレベス、マラッカ、そしてジャカルタ

の奴隷市場で売り飛ばした。

 

=== おじょじょじょじょ・・・・

    こんなことを教科書に書いていいのかね?

    完全にキリスト教徒側の立場での記述じゃないの。

    学校にはイスラム教の子供たちも勉強しているだろうに。

    ミンダナオでは今もニュースにあるように

    戦闘があったり、和平協議があったりしていますけど、

    マニラやバギオなど、あちこちにイスラム教徒が

    住んでいることも現実ですからねえ。

    私の周りにいるフィリピン人のほとんどが

    クリスチャンですけど、雰囲気としてはたまに

    イスラム教徒に対する一種の差別意識があるのは

    感じることがあります。

 

p146

 

「スペインのアジア帝国の夢におけるフィリピンの役割」

 

スペインはラテン・アメリカでやったように、アジアにおいても

植民地帝国を切り取ろうという壮大な夢を抱いていた。 

しかし、東でのスペインにとって、これはドン・キホーテの

見果てぬ夢となった。 これは、スペインが“無敵艦隊”を

英国との1588年の海戦で失ったからであり、スペインは

もはや現実には海の勢力ではなくなっていたからである。

さらに、他の植民勢力 - 英国、フランスそしてオランダ

― が、アジアにおいて経済的帝国の建設に積極的と

なっていたからであった。

 

思い起こすべきは、フィリピン人はアジア世界の中での

植民帝国を切り取るという初期のスペインの無駄な努力

に於いて最も苦しめられたのである。

何千ものフィリピン人が、スペインの派遣軍に兵士や漕ぎ手

として参加することを強制され、多くの者たちが外国の

浜辺で死んでいったのである。

そして、さらに何千もの人々が費用のかかる派遣の為の

調達の重荷を背負うことになったのである。

また、フィリピンの何百万もの財産が、そのような

帝国主義者の冒険の資金として浪費されたのである。

 

ホセ・リサール博士はこのように語っている:

「従って、フィリピン人は・・・・スペインの名誉を保ち、

ボルネオ、モルッカ、そしてインドシナでスペインの旗の

支配を広げるよう 投じられた; 敵のオランダを撃退し;

大きな戦費の負担; 毎回 何千ものフィリピン人射手や

漕ぎ手が船に詰めこまれるよう記録され、それにも関らず故郷への

最終的な帰還の正式の告知もないような実りの無い派遣;

に投じられたのだ。

 

昔々、ギリシャがクレタ島のミノタウロスに捧げた賛辞の

ように、フィリピン人の若者たちは派遣軍の船に乗せられ、

故国に永遠のさようならを言いながら: 彼らの前の

水平線には大嵐の大海が横たわり、際限のない戦争、

向こう見ずな遠征隊。」

 

=== あららら・・・この章の最後に来て、

    いきなりの路線変更ですか?

    著者がここまで書いてきたことと、文脈が

    全然違うんじゃないの??

    それも、フィリピンの英雄 ホセ・リサールさんの

    言葉で 一発逆転をやるなんて、反則だよねえ。

 

    しかし、まあ、ホセ・リサールの文章は

    どう翻訳したらよいのやら、難しすぎです。

    古いってのもあるんでしょうけど、

    文学的過ぎて手に負えません・・・あしからず。

 

 

さて、皆さん。

これで「第十章 スペインへのフィリピンのサービス」

を終わります。

 

・・で、「サービス」という翻訳ですけどねえ・・・

この著者の書き方のトーンに沿って翻訳するとすれば、

「スペインへのフィリピンの貢献」ぐらいにしたい

雰囲気なんですが、最期のホセ・リサールの文章て

雰囲気ががらっと変わったので、

「スペインへのフィリピンの犠牲」ぐらいにしたいところですねえ。

 

いずれにしても、日本語の「サービス」の軽さは

ここには合わない気がします。

 

=== それで、次回なんですけど、

    次の章は 「フィリピンのイスラム」というタイトル

    なんです。

    146ページから159ページまでと結構長くて、

    ぱらぱらとページをめくってみたところ、

    あまり興味をそそられないので、スキップします。

    で、その次の章は、

    「第十二章 中国及び日本との関係」

    ってことで、俄然面白そうなので、そちらへ飛びます。

    宜しくどうぞ。

 

=== シリーズ 74 に続く ===

=== シリーズの最初に戻るには こちらへ どうぞ ===

 

 

 

 

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2016年1月 8日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 72 なんと、フィリピン兵は日本を守った!?

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

10 FILIPINO SERVICES TO SPAIN  

第十章 スペインへのフィリピンのサービス

 

 

p143

 

「インドシナのフィリピン人」

 

19世紀にフィリピン人が、インドシナを植民地化しようとした

もうひとつのヨーロッパの勢力であったフランスを手助けした

というのは興味深いものだ。

1853-63年に、およそ1,500名のフィリピン人兵士が

スペインによって 派遣され、同盟国フランスがベトナムを征服

する為に支援したのだ。 フィリピン人兵士の戦闘能力は

スペインとフランスの司令官たちに称賛された。

 

多くのフィリピン人が この戦争の後に ベトナムに残っている。

彼らはベトナムの女性たちと結婚し、ベトナムで子供を育てた。

 

=== う~~ん。 まあ、10年間も戦争をしていれば

    ベトナムで結婚してしまうというのも分からんでは

    ないんだけど、要するに 帰してもらえなかった

    ってことじゃないのかな・・・

 

 

p144

 

「台湾のフィリピン人」

 

 

1626-1642年にスペインが台湾(Formosa)を植民地

化しようと試みた時、フィリピン人もこれらの派遣部隊に募集

された。 フィリピン人とスペイン人の軍隊は台湾北部の二つの

スペイン人居留地に配置された。

しかし、オランダが台湾を奪った1624年8月24日に

これらの要塞を放棄した。

 

=== じぇじぇじぇ・・・年代が可笑しいじゃないか!!

    1624年8月って印刷してあるけど、

    これは1642年8月の間違いだろう・・・

    間違いをめ~~っけ!!

 

    それはともあれ、スペインやオランダが台湾に

    まで手を伸ばしていたというのは知らなかった。

 

    しか~~し、喜んだのもつかの間・・・・

 

こちらのサイトにこんなことが書かれておりまして:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

この時代になると、大航海時代にあったヨーロッパ各国から多くの人々が来航するようになり、台湾の戦略的重要性に気がついたオランダスペインが台湾島を「領有」し、東アジアにおける貿易・海防の拠点としていった。そのために、日本への鉄砲ザビエルによるキリスト教伝来も、おそらくは台湾を経由してきたのだと思われる。」

 

=== 確かに、オランダやスペインが台湾島を「領有」

    したことは間違いないんですが、

    この部分の表題が

オランダ植民統治時代(1624 - 1662)」って

書いてあるじゃないの・・・

オランダが 1624年から・・・!!!???

教科書に書いてある「1626-1642年にスペインが

台湾を植民地化しようと試みた時」って言っても、

もうその時はオランダが領有してんじゃないか・・・

どういうこと??

 

=== ところで、台湾の別名に Formosaという名称が

    あるのは昔から知っていたんですが、その意味は

    これだったんですねえ:

 

「ヨーロッパ船として初めて台湾に到達した船はポルトガルの船であり、ポルトガル人船員が緑に覆われた台湾島に感動して「Ilha Formosa(麗しの島)」と叫んだという伝承から、台湾の別称である「Formosaフォルモサ中国語では美麗島)」が誕生したとされている。」

 

 

=== この年代の食い違いを別のサイトで確認しようと

    してみたところ、こんなに興味深い話が出てきました。

台湾オランダ統治時代は、オランダ東インド会社が台湾島南部を制圧した1624から、鄭成功の攻撃によってオランダ東インド会社が台湾から完全撤退した1662までの37年間を指す。」

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B5%B1%E6%B2%BB%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E5%8F%B0%E6%B9%BE)

                          

オランダとスペインの抗争

「オランダによる統治が開始されると、フィリピンルソン島を拠点としていたスペイン人が台湾進出を試み、1626に台湾北部の鶏籠(現在の基隆)を占拠、社寮島(現在の和平島)にセント・サルバドール城(San Salvador)」を築城し、蛤仔難(現在の宜蘭)に進出、滬尾(現在の淡水)にセント・ドミンゴ城(Santo Domingo)を築城した。台湾南部を中心に活動していたオランダ東インド会社は日本への進出を試みたが、北部を占拠するスペインの勢力に妨害され進捗を見なかった。閉塞状態の打破のために1642、オランダは鶏籠に艦隊を派遣しスペイン人勢力を台湾から駆逐した。」

 

=== ここで確認すると、確かにオランダが

    1624年から1662までの37年間に

    渡って台湾を植民地にしていたんですが、

    スペインがフィリピンからやってきて、

    1626年から1642年まで居座って

    いたってことですね。

    結論; 教科書は間違っていて、1642年8月

    にスペインは要塞を放棄したってことになりますね。

 

=== それはともかく、上の記述見ましたか?

    スペインが台湾北部に居座っていたから、

    オランダは日本への進出が邪魔されたって

    書いてあるんですよ。

    ってことは、このフィリピン人の兵士たちも 

    日本を守るのに一役かっていたってことに

    なりませんか。

 

 

    しかし、それにしても、台湾の歴史って

    大航海時代前後からかなりダイナミックに動いて

    いたんですねえ・・・知らないことばかり。

=== 上記の年代のころの日本と周辺の動きを参考までに:

http://www.7key.jp/data/j_history/edo1.html

  • 1624(寛永1)年:スペイン船の来航を禁止する。
  • 1626(寛永3)年:長崎奉行水野守信が踏み絵を始める。
  • 1630(寛永7)年:山田長政がシャムで毒殺される。
  • 1630(寛永7)年:キリスト教関連の漢訳洋書の輸入が禁止される(寛永の禁書令)。
  • 1631(寛永8)年:日本からの海外渡航船に朱印状の他に奉書を交付(奉書船)することを決める。
  • 1632(寛永9)年:将軍家光が諸大名を集めて去就を試す。
  • 1633年:イギリスインドのベンガルに殖民を始める。
  • 1634(寛永11)年:長崎商人に出島を築かせる(36年完成)。
  • 1635(寛永12)年:外国船の来航・貿易を長崎だけに限ると共に日本人の海外渡航と帰国を禁止する。
  • 1636(寛永13)年:ポルトガル人を出島に移す。
  • 1636年:中国の後金が国号を大清国と改める。
  • 1637(寛永14)年:島原・天草で農民一揆が起こり、天草四郎を擁して反乱(島原の乱:~38年)。
  • 1639(寛永16)年:ポルトガル船の来航を禁止(鎖国の完成)。
  • 1641(寛永18)年:オランダ商館を平戸から長崎の出島に移す。
  • 1644(天保1)年:海外の情報を集めるため出島商館長に「オランダ風説書」を差し出させる(風説書の初め)。
  • 1644年:清が中国を支配する。
  • 1646(天保3)年:明の鄭成功が援兵を求めるが幕府はこれを拒絶。
  • 1646(天保3)年:江戸にキリシタン屋敷ができる。
  •  

     

    === シリーズ その73 に続く===

     

     

     

     

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    フィリピンの歴史教科書から学ぶ 71 イライラする教科書 傭兵の歴史?

     

     

     

    HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

    WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

     

    10 FILIPINO SERVICES TO SPAIN  

    第十章 スペインへのフィリピンのサービス

     

     

    p141

    「産業の中のフィリピン人」

     

    スペイン時代は、フィリピン人はスペイン人の為の船の建造

    の良い担い手であった。 彼らは、マニラーアカプルコ貿易に

    利用された多くのガレオン船を建造した。

    また、ガレー帆船やフリゲート帆船が敵と戦うために

    スペイン人によって使われた。

    これらの船は木造であり、フィリピンには造船所に必要な

    良い天然の森があった。

    造船所はカビテ、AlbayCamarinesMarinduqueMasbate

    及び ミンドロに位置していた。

     

     

    p142

    「ポルトガル戦争におけるフィリピン人」

     

    ポルトガルは、1568年および1570年に、セブにおける

    初期のスペイン人の定住地を攻撃した。

    ポルトガルは、当時ポルトガルの植民地であったモルッカ諸島

    Pereira総督に率いられて攻撃した。

     

    しかし、Raha Tupas及び彼のセブアノの兵士たちは、

    レガスピに忠誠を示し、スペイン側に立って戦った。

    もしスペイン側でなかったとしたら、ポルトガルが勝利を

    収め、フィリピンはポルトガルの植民地とされていただろう。

    1580年に一人の王によってスペインとポルトガルが

    統合された時に、この二国による植民地戦争は終わりました。

     

     

     

    「ボルネオとモルッカ諸島への遠征軍におけるフィリピン人」

     

    1578年3月に、ブルネイのスルタン、スルタンSri Lela

    Sirela)を支援し、王座を奪還した。

    スルタンSri Lelaは スペインの総督である Francisco de

    Sandeに対し、彼の兄弟が王位を奪ったと訴えたのだ。

     

    (中略)

     

     

    40隻に 1,500人のフィリピン人、400人のスペイン人、

    そして300人のボルネオ人という強力な派遣部隊を乗せ、

    ボルネオ諸島に向かって出港した。

    彼らは戦って、ブルネイの町を奪還した。

    スルタンSri Lelaは王座に返り咲いた。 その勝利はフィリピン人の

    勇敢さと戦闘力によるものであった。

     

    === まあ、いわばスペインにとっての傭兵ということ

        なのでしょうが、兵士になることが仕事として

        それなりの給料をもらっていたのか、それとも

        奴隷のように使われたのか・・が問題ですね。

        フィリピンの教科書ですから、もちろん、

        勇敢だったとか強かったとかは書くでしょうけど。

     

        振り返って日本を見れば、

        豊臣、徳川時代、あるいは、幕末の頃に

        このような欧米諸国に日本が分断されて

        複数の国の傭兵のように使われて内戦になるという

        危険性もあったことを思うと、日本という国は

        よくもまあ、その時その時で 先見性のある

        リーダーに恵まれたものだと感心します。

     

     

    p142

     

    16世紀に実施されたモルッカ諸島への軍の派遣は成功しなかった。

    しかし、ここに於いても、フィリピン人はスペインを応援した。

    最初は、派遣部隊は、ポルトガルから栄えていたモルッカ諸島

    (スパイス諸島)を奪い取ろうとした。 その後、17世紀に

    モルッカ諸島の植民地を奪ったオランダに対して、派遣部隊が

    送られた。

     

    (中略 - 1580から1616年まで5回行われた

          派遣部隊の人数が表にして書かれている。

          フィリピン人は 600人から8,400人)

     

     

    p143

     

    「オランダ戦争におけるフィリピン人」

     

    オランダ海軍の小艦隊が、1600-1747年に渡って

    フィリピンの各地を襲った。

    オランダは、スペイン人を駆逐して、フィリピンを植民地と

    することを狙っていた。

    最初に、オランダ艦船は、マニラ湾を封鎖した。

    そして、英国がオランダの同盟国となり、英国とオランダの

    艦船が1621-1622年の間マニラを封鎖した。

    その戦術が失敗に終わった時、オランダはカビテとAbucay

    軍隊を上陸させ、町々を奪取しようと試みた。

    オランダ軍は海岸地域の住民を苦しめた。

    最終的には、彼らはフィリピン人との間に友好関係を

    勝ち取ろうと試みた。 しかし、フィリピン人は、スペインと

    カトリックに忠誠を示して、プロテスタントのオランダと

    英国に対抗した。

     

     

    オランダ戦争の結果は以下のとおりであった:

     

    1. オランダに対するスペインの勝利。

       フィリピン人がオランダの侵略者に対抗して

       スペインを支援したので、フィリピンはスペインの

       植民地として留まることとなった。

     

    2. フィリピン人は非常な被害を被った。

       フィリピン人の人口は、多くのフィリピン人が殺害され

       あるいは山に逃げ込んだため、オランダ戦争中に

       人口が減少した。

     

    3. フィリピンの経済は停滞した。

       メキシコ、中国、その他の国々との貿易が麻痺された。

       フィリピン人は農場や産業を離れ戦争で戦い、あるいは

       姿を隠した。

       フィリピン人は大きな犠牲を払うこととなった。

     

     

    === この辺りの記述は、なんと言ったらいいのか・・・

        ほとんどスペイン人の視点で記述されていると

    思いませんか?

    こういう教科書で勉強しているフィリピン人は

    どういう思いでこれを読んでいるのか、どう感じて

    いるのかが知りたいですね。

    はっきり言って、ひとごとながら、イライラします。

     

    300年以上も他国の植民地になるということは

    こういうことなんですかねえ。

    しかし、アジアには、アフリカには、そして

    アメリカ大陸にも、植民地となった国がたくさん

    あったんですもんねえ。

    そういう国々の歴史や、人びとの感情を、 

    一時期植民地を持っていた日本という国に住む

    日本人も理解する必要はあるんでしょう。

     

     

     

    === シリーズ 72 へ続く ==

     

     

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    橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 03 閻魔大王はイスラム的か?

    橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
    気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
    書き加えています。

    p67

    「原罪」があるキリスト教と ないイスラム教では、死後、
    神に裁かれる「最後の審判」にその違いがはっきりあらわれている。

    p68

    イスラム教の「最後の審判」では、天使が克明に記録した
    一人ひとりの言動を証拠書類として提出する。
    ・・・アッラーに裁かれる。
    審判の場で、善い行ないと悪い行ないを天秤にかけて
    重さを量るわけですね。

    そこが原罪の考え方とは大きく違います。
    原罪とは、罪を犯したかどうかの問題ではありませんから、
    善い行ないと悪い行ないを天秤にかける以前の問題である。
    ・・・審判を下す裁判官は、Godです。
    ・・・そこで大切な点は、一人ひとりが個人単位で
    裁かれること。
    誰もが自分に責任を持てばよく、ほかの人間に責任を持つ
    必要はない。 究極の個人主義です。
    ・・・神の裁量で無罪になる可能性もある。

    === この辺りは、仏教的に考えるとどうなりますかねえ。
        子供の頃から聞かされた話としては、
        死ぬと閻魔大王さんのところで生きていた時の
        いろんな出来事を調べられて、天国に行くのか
        地獄に落とされるのかが決められるという話でしたね。
        ってことは、これはイスラム教的な決め方ですね。

    閻魔さんのことは こちらで、どうぞ:

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%BB%E9%AD%94

    「閻魔王の法廷には浄玻璃鏡という鏡が設置されていて、死者の生前の善悪の行為をのこらず映し出すという。また司録と司命(しみょう)という地獄の書記官が左右に控え、閻魔王の業務を補佐する。」

        しかし、親鸞さんの浄土真宗の場合は、
        「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも浄土に
        行けるって話なんですね。
        ここには原罪みたいな前提があるみたいなので、
        どっちかって言うと、キリスト教的かなと
        思うんです。
        でも、親鸞さんの師匠の法然さんまでは、あくまでも
        戒律を守ったって話ですから、おそらくイスラム教
        的な、閻魔さん的な裁判があるんでしょうね。
        お坊さんに聞いてみないと実際は分かりませんけど・・

        原罪がなく、天秤にかけるイスラム教では
        コーランに書かれた法がすべてだから、共同体の
        周りの知り合いの人たちが審判ができるって
        話で、いわば日本の「世間が法律」みたいな
        集団主義があるように思えるんです。
        一方、キリスト教は原罪があって、基本的には
        みんな有罪なんだけど、神様が一対一で救って
        くれることもあるから個人主義になっちゃう、
        ってことみたいですね。

    p69

    キリスト教の原罪や仏教の宿業といった宗教的な罪概念は
    かならずしも具体的な悪業とは対応するものではなく、
    むしろ存在様態に対応する。
    イスラームには原罪の観念はなく、一般的に罪とは神の啓示・
    導き・命令に反することである
    。 なかでも、啓示を否定し、
    火獄という罪を受ける不信仰は重大な罪である・・・

    p70

    クルアーン(コーラン)はアラビア語でなければならず、
    ほかの言語への翻訳が認められていません。
    そこも、聖書の翻訳を認めているキリスト教とは異なる点です。
    ・・・翻訳は人間の解釈を含んでしまうので、神の言葉とは
    言えず、礼拝や祈りに使うことはできないと考える。

    === 仏教の場合も お経なんてのは、イスラム式に
        似ていますね。 意味が分からないもんね。
        「ギャーテー・ギャーテー・ハーラーギャーテー・
         ハラソーギャーテー・ボージーソワカ」
        元々はサンスクリットらしいですが、
        そのまんまで読んでいるわけですからねえ。

        しかし、その訳の分からないものが現実の
        法律ってことになると、大変なことですね。
        もちろん、イスラム法学者という人たちが
        それを判断しているんでしょうけど。

     

    p75

    統治者らが、なぜ人々を支配してよいのか。 どんな
    根拠で政権や国家を樹立したか、イスラム法学によっては
    正当化できないのです。

    ・・・イスラム世界にも当然なんらかの統治機構は必要では
    あるけど、ネーションステート(国民国家)のような方向には
    向かわない。 なぜなら、イスラム世界では、神である
    「アッラー」がひとつなら、規範である「シャリーア」も
    ひとつ、指導者「カリフ」もひとつだからです。

    ・・・自分はイスラム世界の守護者で、人びとの福祉を守り、
    キリスト教徒にも屈せず、外敵をはねのける力があると、
    パフォーマンスで証明する以外になかったのではないでしょうか。
    ・・・やはり今日の「イスラム国」に重なります。

    === これは、考えようによっては恐ろしくもあり、
        理想的でもあるんじゃないですかね。
        恐ろしいというのは、今現在の国を単位とした
        世界を破壊するモチベーションをもっているという
        意味で、理想的というのは、SF映画に出てくるような
        未来社会、国という概念がなくなって、世界が
        統一されて、いわば管理社会になるような世界。
        まあ、理想的っていうより、こちらも怖いですけどね。

    p76

    国民という考え方が希薄なのも、イスラムの特徴です。
    人びとは普遍的な、人類大の原理で連帯すべきという
    考え方があるからです。
    ・・・いま私が懸念しているのが、「イスラム国」が
    権威的な普遍主義による支配を目指しているということです。

    === そう言いながら、イスラムもいろいろと分裂
        していますからねえ。
        スンニ派とシーア派とか・・・
        イスラム国(IS)については、確かに
        国境なんか関係ない広がりを持ってきている
        みたいですけど・・・

        随分前のことですけど。
        宗教のガイドブックみたいなものを
        一通り読んだことがあるんですけど。
        仏教、神道、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教など。
        私がこの中で一番日本人の「世間が一番」的な
        国民性から判断すると、イスラム教が一番似合って
        いるんじゃないかと思ったことがあるんです。
        実際に、戦前は、一億総活躍・・っていうか、
        一億総玉砕の軍国主義で 一億総火の玉になって
        いたわけですからねえ。
        日本人は怖いですよ。 ころっと変わっちゃうから。

    === その4 に続きます ===

     

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    2016年1月 7日 (木)

    橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 02 キリスト教とイスラム教の違い

    橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
    気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
    書き加えています。

    私がブログを使っているのは、私の脳内の記憶容量が減ってきたり、
    機能が低下しているので、それを外付けの記憶装置で補っている・・
    ってことなんです。
    だから、自分の脳内の状態を、皆さんに晒してしまっているってことですねえ。
    考えてみると 実に恥ずかしいことなんですねえ。

    まあ、程度の低い内容で済みませんが、ご容赦ください。
    ブログに書きながら、自分のとっちらかっている考えをまとめていく
    プロセスにしていますんで・・・

    p35

    「第一章: 一神教の誕生」

    もしも仏教などの多神教は寛容だというなら、・・・スリランカ
    の内戦はどうなのか。 ・・タイの暴動はなんなのか。
    ・・オウム真理教も仏教系新宗教です。
    特定の宗教が寛容だ、不寛容だとレッテルを貼っても実証的に
    見ればすぐに否定されてしまいます。
    ただ、あえていうなら一神教は、ある意味で寛容です。
    他者に対して無関心ですから。
    基本的には、他者と比較しませんからね。
    自分が神の意思に従って、正しく生きていけばいいわけです。

    === 一神教は「他者には無関心」、
        日本人の第一原理は「ひとに迷惑をかけない」
        というまったく反対の基本原理なんですね。
        それが、大災害の時でも略奪、暴動も起こさない
        大人しい日本人であり、いろんな場面で自分の
        気持ちや意見ではなく「空気を読んで」流される
        主体性の無さという形で現れるのでしょうか。

    p42
    そもそもイスラムの理想は、アッラーが一人の預言者を
    選び、預言者が聞いたアッラーの言葉に従う人々が
    全人類に広がって、平和なウンマを作ること。
    ・・・カリフとは、王であってもいいが、王でなくてもいい。
    王は、部族より広い範囲の人々を、血縁と関係なく統治する
    君主・・・・
    カリフは、ムハンマドの「代理人」という意味・・王ではない。
    イスラム教徒の共同体を一人で率いる統治者が、カリフです。
    その統治の目的は、イスラム共同体を、異教徒から守ること・・

    === 王とカリフの違いが書かれているんですが、
        日本のマスコミなどで見ていると
        いわゆる最高宗教指導者って言うのがカリフで、
        実質的な権力者という雰囲気ですけどね。

    p46
    イスラム教では、ムハンマドを拝むことはもちろん、
    ムハンマドの絵を描くことすら禁止して、アッラーだけが
    神であることを強調しています。
    ・・神の前での平等もキリスト教よりも徹底させています。
    ・・・教徒内の身分や階級、民族などの差を認めていません。
    ですから専門の神官階級もいないという建前になっています。

    === いわゆる偶像崇拝を禁止しているんですね。
        だから、過激なイスラム原理主義者は歴史的な
        建造物であっても破壊しまくっている。
        仏教でも、お釈迦様本人は仏教という意識も
        なく、偶像というか仏像も禁止されていた
        ようですね。 そもそも、お釈迦様自身は
        神とか霊とかについては語っていないみたいですけど。
        私が読んだ範囲では、お釈迦さんは哲学者であり
        修行者という感じです。
        その思想を継いだ人たちが宗教にしちゃった。

    p49
    モーセの時代に、イスラエルの民を統治していたのは、
    エジプトのファラオ(王)です。 モーセはそれに
    異を唱え、ファラオの宮殿に乗りこんで数々の奇蹟を起こす。
    そしてエジプトからイスラエルの民衆を連れ出し、
    約束の地カナンに導く、偉大な指導者の役割を果たしました。
    ・・・モーセ自身が民を率いて王のような存在になった。
    モーセは ほかの預言者とはちょっと違う。

    p52
    実在したとされるナザレのイエスは、ユダヤ人でユダヤ教徒だった。

    p53
    ナザレのイエスはおそらく自分自身が新たな宗教を開いた
    という意識はなかったのではないかと思います。
    イエスも弟子たちも自分たちをユダヤ教徒だと考えていた。

    === モーセの時代のことは 実際の歴史上でどうだった
        のかということは不明のようですが、
        まあ、それは、日本の神話と同じような感じなの
        でしょうかね。
        イエスについては、お釈迦さんと似たような
        感じで、本人は新宗教を起こしたという意識は
        なかったようです。

    モーゼが実在したかどうかについては、こちらに書いて
    ありますが・・・
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BB

    p54
    イエスは厳格な法律主義を掲げ、法を守る人間だけが
    神に救済されるというユダヤ教の教えに異を唱えます。
    そして、罪人も神に救済されると訴えました
    ユダヤ教からすれば異端です。そのためにユダヤ教幹部たちに
    捕えられて、ローマの総督によって十字架に処されます。

    キリスト教信仰の核心は、ナザレのイエスが人間にとっての
    救い主ーーメシアであるということです。

    === この辺りの内容は、法然の浄土宗と親鸞の浄土真宗
        の関係と似ていませんか?
        親鸞は法然の弟子ですが、法然さんはあくまでも
        戒律を守ったのに対して、親鸞はいわば破戒僧となった。
        そして有名な「善人尚もて往生をとぐいわんや悪人をや
        と通ずるところがありますね。
        法然さんまでは、様々な仏様を拝んでいたけれど、
        親鸞さんは「人間にとっての救い主」である阿弥陀様だけの、
        いわば一神教になった。
        キリスト教を日本で布教しようとしたヨーロッパからの
        宣教師に対して、日本人が「そんな宗教ならもう
        日本にあるよ」と言ったとか。
        私が読んだ本の理解の範囲で言わせてもらえば、
        日本の仏教は法然さんまでは戒律と修行の宗教で、
        親鸞さんから一神教てき信仰になった、と思える
        んですけど・・・どうですか?

    p55
    処刑後イエスが復活したという信仰が広がり、キリスト教が
    成立していきます。 そんな現在につながるキリスト教の
    伝播に決定的な役割を果たしたのが、パウロでした。

    p57
    新約聖書の「使徒言行録」にはイエスが死んだころに
    信者は数百人程度だったと記録されています。
    そしてパウロの伝道により3000人が洗礼を受けた。
    さらに313年には300万人前後まで増え、
    現在は約20億人と推測されています。

    === つまり、キリスト教の創始者はパウロという話ですね。
        仏教の場合も、お釈迦さんの話をまとめていった
        後世の人たちが仏教を起こしたわけですし。

    p63
    さて、ここからが重要です。
    キリスト教では”神の子”であるイエスが人間の罪を
    贖って、「執り成し」をするという役割を担うのです。
    「執り成し」というのは、キリストが仲介者として、
    神と人間の間を取り持つこと。 他者のために神に祈りを
    捧げる行為ですね。

    ・・・すべての人間は、最後の審判で一人ずつ、神に
    裁かれます。 その際、神に「この人を救ってやって
    ください」とイエスが口添えするのが「執り成し」。

    ・・・キリスト教では「執り成し」の権限が、イエス・
    キリストから分離されて教皇や神父に継承されていくと
    考えたので、教会が存在することができました。

    ユダヤ教には、それにあたる存在はいません。
    ・・・いっぽう、イスラム教にも、執り成しの考え方は
    ありません。 ムハンマドも・・・預言者以上の存在では
    ないから、「執り成し」の働きはできない。
    その仕組みもないから、教会ができず、聖職者階級が
    存在しない。
    日本人がイスラム教の聖職者(僧侶)だと思っているのは
    法学者です。

    === そうですか。
        つまり、キリスト教と仏教には 聖職者・僧侶が
        いるけど、イスラム教には学者がいるだけ
        ということなんですね。

    == その3 に続きます ===

     

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    橋爪大三郎x佐藤優 「あぶない一神教」 を読む 01 日本社会の第一原理は「ひとに迷惑をかけない」

    フィリピンの歴史教科書を読みながら翻訳しているんですけど、
    そればっかりだと飽きてしまうので、平行してこれを
    読んでいきます。

    Img_1036a

    タイトルがかなり刺激的な「あぶない一神教」となって
    いるんですが、内容はちょっと違っています。

    表紙には、
    なぜ日本は世界で孤立するのか?
     キリスト教徒23億人。 イスラム教徒16億人。
     彼らのルールを知れば すべてわかる。」

    と書いてあります。

    読みながら、私が興味を持ったところや、新しく発見した
    部分を抜き書きして、感想を書いていきたいと思います。

    p4
    一神教は偏狭で暴力的だ」「多神教や神を想定しない仏教は
    寛容だ」というような単純な図式化はできないのである。
    宗教について論ずるときに、「どのキリスト教か」「どの
    イスラム教か」「どのユダヤ教か」「どの仏教か」「どの神道か」
    と具体的な議論をすることが重要なのである。

    === これは単純化が好きな私自身にもあてはまる
        過ちなんです。
        しかし、今までに仏教関連の本をいくつか読んで
        きた中で、仏教の歴史的な流れの中で、いろいろな
        宗派があって、もともとお釈迦さんが言ったと
        されているものとは かなり違っていることも
        分かったので、一神教についても違いが分かるように
        読んでいこうとおもいます。

    p16
    日本では、宗教とほとんど無関係に、一生を送ることができる
    かもしれない。 でも国際社会は、そうではない。
    経済や政治や、すべてをひっくるめたものが、宗教です。

    ・・・キリスト教についての知識がないと国家主権も
    民主主義も理解できない

    === フィリピンに住んでいると、ほとんどの人たちが
        キリスト教徒ですし、教会にミサに行く人が多いし、
        年中行事はほとんど宗教がらみだし、日本にいる
        フィリピンの人たちのコミュニケーションの場は
        教会だったりするし、選挙においてもキリスト教の
        宗派がからんでいたりするので、雰囲気は
        日本とはかなり違いますね。

    p19
    外交に必要なのは、他者理解です。
    他者理解とは、相手の思考をトレースすること。
    他者理解さえできれば、自分たちだけではなく、相手にとっても
    有利な条件を実現できるはずです。 外交とは、そのわずかな
    可能性を探っていくことですよねえ。

    === まあ、これは日本人同士にも言えることですけどね。
        相手の立場に立って、相手の思考を理解してこその
        コミュニケーションですもんね。
        最近は 相手の話をろくに聞かない、というのか、
        聞けない人が増えているような・・・・
        特に日本の政治家は 国会の議論を聞いていても
        議論になっていないですもんね。
        言いっぱなし。 ・・・私にも その気があるな・・・笑

    p20
    日本人はわからないできごとに直面すると自分たちが理解可能な
    論理に落とし込もうとします
    。 後藤健二さんが「イスラム国」
    に殺害された事件でもそう実感しました。
    あの事件を理解する上で、私は後藤さんがキリスト教徒だった
    ことがとても重要だと考えています。
    ・・・
    けれども、日本のメディアは、キリスト教だけではなく、
    一神教についての理解が不十分だから、安易な世俗の論理に
    すり替えました。

    === この佐藤優さんは、同志社大学で神学を専攻した
        そうで、日本においてはかなりの発言力を
        もっている方なんですねえ。
        だから、キリスト教に関する見識のないマスコミが
        いい加減なことを書いているのが理解を阻んでいる
        ということのようです。

    p22
    超越的な神の声を聞いた敬虔なキリスト教徒か。 危険な
    場所に行く理解不能な人か。 一神教についての知識が
    ある人とない人では、後藤さんの行動がまったく違って
    見えてきます。 だからアメリカやヨーロッパのキリスト
    教圏の人たちは、後藤さんが拘束されたニュースを聞いた
    だけで立派な人だね、と敬意と共感を示したわけです。

    === これが日本のマスコミでは、「変な日本人」と
        いう扱いになったってことです。

    p25
    日本人は、神様がおおぜいいたほうがいい、と考えます。
    なぜか。 「神様は、人間みたいなものだ」と考えているからです。
    ・・・で、その付き合いの根本は、仲よくすることなんです。
    おおぜいと仲よくすると、自分の支えになる。
    ネットワークができる。 これは日本人が、社会を生きていく
    基本です。

    === つまり、そこに日本人がもっとも気にする
        「世間」という空間があるのでしょうね。

    p27
    一神教文明は、Godと人間の関係を大切にします。
    いっぽう、日本社会の第一原理は「ひとに迷惑をかけない
    ことです。
    ・・・法律や道徳などの規範も、相互承認から作られるという
    強い確信を持っているのが日本社会です。

    === この辺りが、もしかしたら、
        訴訟社会のアメリカと訴訟を嫌う日本との違い
        でしょうか?
        それに、去年の憲法を無視した、いわゆる立憲主義
        を壊してしまったやり方の底辺にこれが関係して
        いるんでしょうかねえ・・・
        選択的夫婦別姓の最高裁判決も、最高裁が国会に
        ボールを投げ返しちゃったしねえ。
        理屈よりも、みんなの情緒が大事ってことなのかなあ。

    p31
    表からみれば日米安保条約。 裏へ回ると、条約なしの
    日米同盟ということですか?

    そうです。 だからなんでもありです。
    つまり条約による権利や義務がはっきりしていないわけです
    から、恣意的にやめることもできます。
    ・・・
    だから国際社会は、安部政権には論理は通じないという目で
    見始めています。 いや、それは諸外国だけではなく、
    霞が関の官僚もそう感じています。

    === 自民党の多様性もなくなってしまい、
        言うこととやっている事が違う、得体のしれない
        総理大臣が大手を振って暴走していますからねえ。
        廻りの誰も止められなくなってしまっている??

    p33
    一神教を知識の断片だけで理解しようとすると、とんでもない
    誤解をする危険性があります。
    一神教、イスラム教という日本人にとって未知なるものを
    どう考えればいいのか、そして未知なるものと遭遇したとき、
    どう学び、どう捉えていくべきか。

    === はい、ここで「序章」が終わりました。

    宗教の理解というのは非常に難しいと思います。
    昔考えたんですが、心理学は人間を外部から観察して
    記述する手法だと思うんですが、宗教は個人の内的な
    発露ですからねえ。
    信心のある人が理解する宗教と 信心のない、私みたいな
    人間が宗教を表面的に知識だけで理解するのとでは
    まるっきり違うと思うんです。

    そこが一番難しいところじゃないかと思います。

    では、その2 をお楽しみに。

     

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    2016年1月 6日 (水)

    フィリピンの歴史教科書から学ぶ 70 フィリピン人はどのようにスペインに仕えたか

     

    フィリピンの歴史教科書から学ぶ 70 フィリピン人はどのようにスペインに仕えたか

     

     

    HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

    WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

     

    10  FILIPINO SERVICES  TO  SPAIN   第十章 スペインへのフィリピンのサービス

     

     

    さて、やっと 九章の「スペインの遺産」を終わって、第十章に入ります。

     

    このSERVICEという英語を どんな日本語に訳せばよいのか・・・

    正解は内容を読んでみないと分かりません。

    ちなみに、serviceの日本語訳にはこんな言葉があるんですが:

    奉仕、役に立つこと、有用、助け、尽力、骨折り、功労、勲功、

    公共事業、運転、施設、供給、部局、軍務、兵役、客扱い、

    客への対応、保守点検、労務の提供、礼拝、お勤め、奉公、

    雇用、使われること、テニスなどのサーブ、書類の送達、

    種付け、軍用の、サービス業の、アフターサービスの、

    業務用の、・・・などなど・・・

    === どれも ぴたっと来ませんねえ。

     

     

    p140

     

    フィリピン人は、スペイン人が3世紀に渡って、フィリピンに

    留まり、統治することを手助けした。

    フィリピン人自身の協力なくしては、スペインは我々の国を

    アジアの中の拠点として使うことは出来なかったであろう。

    不幸なことに、外国人は一番良い家、一番良い土地、そして

    一番良い仕事を手に入れた。

    そして、彼らが我々の為に決定を行った。

    フィリピン人は彼らに従わなければならず、フィリピン人は

    連帯しておらず、19世紀になるまで スペインから独立

    できるほどには啓蒙されていなかった。

     

     

    ==== う~~ん。 いきなりこの表現。

     HELPという言葉のニュアンスが気になりますが、

         民族主義的な気持ちを抱いている人にとっては

         この始まりの部分は カチンと来るんじゃ

         ないんですかねえ・・

         あるいは、現実の歴史を直視すれば、

         そう言わざるを得ないのか。

         あるいは、著者がスペイン系だから、こういう

         表現になるのか・・・

     

     

    「なぜ フィリピン人は スペインに仕えたのか?」

     

    フィリピン人は、同郷人に使えるのではなく、スペインに仕えた。

    それには3つの理由がある:

     

    1. フィリピン人はひとつになっていなかった。

    フィリピン人は自身をひとつの国とは考えていなかった。

    だから、スペイン人はフィリピン人を分裂させ、

    征服した。

    スペインは、ひとつの部族を利用して、他の部族と

    戦わせたのだ。

    例えば、ビサヤンはタガログの地域での反乱を鎮圧

    するのに利用された。

    キリスト教徒のフィリピン人は、イスラム教徒や

    異教徒の少数民族と戦うのに利用された。

     

    2. フィリピン人はローマ・カトリックの宗教に変えられ、

    スペイン人の役人や聖職者に忠誠を誓うように教え

    られた。 フィリピン人はカトリックのスペイン側に

    立って、イスラム教徒や オランダや英国の

    プロテスタントに対抗した。

     

    3. フィリピン人は、スペイン人の支配者から、

    褒美や栄誉を与えられた。

    スペイン人は忠誠心のあるフィリピン人を褒め称え、

    世話をした。

    しかし、スペイン人は、従わない者や反乱を起こす

    フィリピン人を罰したり、殺害したりした。

    忠誠心のあるフィリピン人は、地方政府で

    Gobernadorcillos(小さい知事)やcabezas de barangay

    (バランガイのチーフ)として登用された。

    マスター・オブ・キャンプFrancisko Laksamanaは、

    スペインから現地人に対する最高の軍の栄誉を

    与えられた。

    1662年6月に、24時間(一日間)彼はサンチャゴ

    要塞の軍の司令官となった。

    それは、第三次中国人の反乱(1662年)を鎮圧した

    功績によるものであった。

     

     

    p141

     

    「フィリピン人は どのようにスペインに仕えたのか ?」

     

    スペイン時代のフィリピン人からスペインへのサービスは

    以下のようなものであった:

     

    1. スペイン人に食物を提供。

    2. スペイン人が所有する産業での労働。

    3. スペインのポルトガルに対する戦争。

    4. ボルネオとモルッカ諸島への軍の派遣への参加。

    5. オランダや英国に対して、スペイン側での戦闘。

    6. インドネシアへの遠征に参加。

    7. 台湾への遠征に参加。

    8. マリアナ、パラオ、カロリン諸島の植民地化の参加。

    9. 中国人の反乱を鎮圧し、LimAhHongの侵略を止めるために参加。

    10. カトリックのフィリピン人がイスラム教のフィリピン人

    に対抗してスペインと一緒に参戦。

     

    === 日本語の「サービス」という意味とはなんとなく

        合わないようなニュアンスの内容ばかりですかねえ・・

        十分なお金を貰っていたのか、それとも強制的な

        ものだったのかで 日本語訳は違ってきますしねえ。

     

     

    さて、9番目の海賊の話ですけど・・・

    LimAhHongについては、こちら:

    https://kotobank.jp/word/%E6%9E%97%E9%B3%B3-150498

     

    さらに詳しい情報は・・・

    http://gold.natsu.gs/WG/ST/248/st248.html

    1516世紀にかけて、中国明王朝の沿岸は「倭寇」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていた。
     
    倭寇の「倭」は日本を意味するものの、海賊は日本人、中国人、朝鮮人、シャム人らによるもので、中でも林鳳(Li Ma Hong)16世紀でもっとも有名な倭寇のひとりである。」

    1129日の夜、林鳳の船団はカビテ湾内のコレヒドール島 (Corregidor、マニラから西に約45kmの小島、マニラ湾の入り口にある)まで進み、翌日、林鳳の日本人副将シオコ(Sioco)が上陸した。スペイン人にとって幸運なことは、上陸地点がマニラから遠く離れていたため、防衛の準備の時間が作れたことだった。」

     

    これに関連するアニメ映画もありました:

    http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/04/daisuke-49b0.html

     

     

     

    「農民としてのフィリピン人」

     

    スペイン人がフィリピンの全ての土地を奪ったというのは

    事実ではない。

    修道会や外国人によって所有された土地は、裕福なフィリピン人

    によって所有された土地と比べて小さかった。

    しかし、スペイン人や他の外国人が所有する農場においてさえ、

    フィリピン人は Real Farmer(本百姓?)となった。

     

    (中略)

     

    === ここでReal Farmerという言葉が出てくるんですが、

        日本でいうところの「本百姓」のようですが、

        実態が同じだったかどうかは分かりません。

        本百姓は水呑み百姓とか小作人とは異なるんでしょうね。

     http://dictionary.goo.ne.jp/jn/206385/meaning/m0u/

        家庭教師の大学教授に訊いてみます。

     

     

     

    === シリーズ71に続く====

     

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    2016年1月 5日 (火)

    フィリピンの歴史教科書から学ぶ 69 スペイン時代の楽しみ。民族主義に貢献??

     

     

    HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

    WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

     

    9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

     

     

    p136

     

    「病院と孤児院」

     

    キリスト教の人道主義の影響を受け、社会福祉はフィリピンに

    於いて促進された。 早くも16世紀には、病人と貧困者には

    大きな支援が実施された。1578年に フランシスコ会の

    信士(労働修道士)Juan Clementeは、マニラに最初の病院を

    創設した。 この病院から、今日のHospital de San Juan

    de Dios及びSan Lazaro病院が出来て、東南アジアに現存する

    最古の病院となった。

     

    (中略)

     

    17世紀初頭においては、フィリピンは、病院での手当てにおいては、

    アメリカ合衆国を含めて世界の多くの文明国を凌ぐもので

    あった。

     

    アメリカ合衆国における最初の病院はペンシルベニア病院であり、

    1751年に創設されたが、これはフィリピンよりも

    173年遅れている。

     

    ==== ちなみに、アメリカの独立宣言は 1776年ですね。

         さらに遡ると、ヨーロッパからアメリカ大陸への

         移民の歴史は、・・・

    http://www.marino.ne.jp/~rendaico/sekaishigakuin/amerikashi/iminshico.html

    「1620.9.16日、ウィリアム・ブラッドフォードとウィリアム・ブルースター率いる後に「巡礼の始祖」(ピルグリム・ファーザーズ)と呼ばれる清教徒(ピューリタン)41名を交えた102名(うち29名が女性)がメイフラワー号に乗って北アメリカのヴァージニア植民地(現在のニューヨーク市のあたり)のハドソン川河口あたりを目指して出発した。」

    ・・・となっていますから、

    移民というか、植民地化が始まってから数えると、130年ぐらい

    経ってからアメリカに最初の病院が出来たって話になりますかね。

     

    フィリピンでは1578年に最初の病院が出来たっていっても、

    その頃は まだ アメリカ大陸への移民も始まっちゃいないわけですから

    ここで比較をすることにどんな意味があるんだかねえ・・・

     

    p136

     

    スペイン植民地時代の初期には、孤児やホームレスは、

    学校施設や修道院で世話を受けた。1810年に、最初の

    恒久施設である孤児院、Real Hospicio de San Juan

    マニラに創設された。 それは現存する施設である。

     

    (中略)

     

     

    「祝祭日」

     

    スペインによって、フィリピンに数多くの祝祭日と休日が

    導入された。 町や村のそれぞれに、守護聖人があった。

    毎年、守護聖人の祝祭日にはお祭りでお祝いされた。

    このお祭りは、華やかな音楽、宴会そしてダンス、花火の

    スリルに富んだ打ち上げ、宗教的な行列、そして、伝統的な

    Moro-moro(キリスト教徒とモロ族の戦争を描いた舞台演劇)

    あるいは zarzuela(ミュージカル・コメディー)でお祝いした。

     

     

    (中略)

     

     

    p137

     

    「闘鶏」

     

    闘鶏はマゼランがやってくる前からフィリピン諸島に存在していた。

    Antonio Pigafetta、スペインからの探検隊の記録係がパラワン島で

    見ている。 しかし、合法的なギャンブルとして闘鶏を導入

    したのはスペインであった。

    そのようにして、流行し、現在まで続いてきた。

     

    === なんだか、この書き方って、伝統的な従来からあった

        遊びを、スペインが保存してきたんだってな雰囲気ですね。

        いやらしいなあ・・・

        スペインの手柄にするような物言いは・・・

     

     

    「競馬」

     

    競馬は、「王様のスポーツ」としてよく知られていますが、

    これは1868年に、マニラ・ジョッキー・クラブが創設された

    時に導入されました。

     

    (中略)

     

     

    「マニラのくじ引き(宝くじ)」

     

    スペインは、政府の収入の為に、宝くじも合法的なギャンブルとして

    導入した。 それは、1850年1月29日の国王令によって創設

    され、Loteria Nacional(国営宝くじ)と呼ばれ、政府の管理と経営

    の下にあった。

     

    (中略)

     

    この宝くじは、マニラや地方の州、香港、アモイ、上海、

    シンガポール、そしてカルカッタでも販売された。

    政府はこれによって、50万ペソの利益をあげたと言われている。

     

    リサール博士がマニラ宝くじの熱心な後援者であったことは

    記憶されるべきだろう。 彼も宝くじを買ったのだ。

    1892年9月にDapitanで亡命中に、彼の宝くじ番号

    9736、これはRicardo Carnicero船長(彼のDapitanの船員)

    そしてSenor Francisco EquilorDipolog在住のスペイン人)と

    一緒に買ったものだったのだが、これが2等賞だったのだ。

    リサールの分け前は 当時としては巨額の 6,200ペソで

    あった。

     

     

    ==== おいおい、これ、教科書なんですけど・・・・

         まあ、フィリピン独立の父みたいなホセ・リサール博士

         だから、まあ許されるんでしょうけど、

         その宝くじの賞金が その後の革命につながった

         とかなんとか 書いて欲しいよねえ・・・

     

     

     

    p138

     

    「カリロ Carillo

     

    カリロと呼ばれている独特な厚紙の操り人形のショーは

    マニラでスペイン時代に人気を得た。

    これは最初に Magdalena通りで1879年に現れた。

    そしてすぐに、その他の場所でも雨後のタケノコのように

    現れた。

     

    (中略)

     

    ==== このカリロが どんなものかは、こちらでご覧ください:

    http://www.slideshare.net/chako_manabat/carillo-14262932

     

     

    こちらにYOUTUBEでの動画もあります:

    The Legend of Sampaguita - Carillo(Shadow Play)

    https://www.youtube.com/watch?v=vPTmoxczERQ

     

     

     

     

    「スペイン植民地時代の その他の楽しみ」

     

     

    ・・・・・(上記の楽しみの他にも)フィリピンの人々は

    スペイン時代に他の楽しみがあった。

    多くのパーティーが頻繁に、金持ちの家でも貧乏な家でも開かれ、

    誕生日、洗礼式、結婚、そしてsiyaman(家族の埋葬の後の9日目)を

    お祝いした。 夏の時期(3月から5月)には、川や海岸での

    ピクニック、観光地への旅行、アンティポロ、Pikal、その他の聖地

    への巡礼、かわいい少女たちの家でのムーンライト karanas 

    セレナーデ。 花盛りの、5月のロマンティックな月には、地方の

    多くの町町で 伝統的な Flores de Mayo や Santacruzanの祭が

    開かれた。

     

    (中略)

     

    p139

     

    「フィリピンのナショナリズムへのスペインの貢献」

     

     

    スペインに対して、フィリピン人は ひとつの国として、

    スペインが彼らのアイデンティティを与えたことを

    永遠に恩義に感じているのです。

    スペインによる3世紀にわたる植民地化によって、

    この国は世界にフィリピンとして、人々はフィリピン人として

    知られているのです。

    スペインが東洋にやってくる前は、この国は単なる地理的な

    意味しかなく、名前もない多くの島々の諸島であり、

    そしてその人々は多くの多様な部族の知られざる人々であったのです。

     

    300年という植民地時代を通じて、スペインは無意識に

    多様な地元部族(タガログ、ビサヤン、ビコラノ、イロカノ、

    パンパンゲノ、など)をひとつの人々 - フィリピン人の国

    として統合したのです。

     

     

    ==== う~~~ん。 この教科書としてのこの表現。

         みなさんはどう思いますか?

         まあ、この著者がスペイン系であるとしても、

         日本人の感覚だと どこにフィリピン人のナショナリズムが

         あるんだろう・・・という感じがしますけど・・・

         あまりにも スペインの視点のようで

         植民地根性はここに極まれりかという気が

         するんですが・・・

         しかし、これが歴史の現実ということなのでしょうか。

         300年かかっても フィリピンというひとつの国の

         言語をひとつに出来なかったってのは、スペインの

         計算された戦略だったのか、あるいは失策だったのか・・・

         (昔は スペイン語が公用語だったそうですけど)

     

         日本の歴史にしても、

         元々日本に住んでいた縄文人が元祖の日本人だとして、

         その後の弥生人は大陸・半島から来たと言われる

         渡来系だし、大和朝廷も いわゆる「東征」で

         渡来系が先住の日本人を駆逐した・・らしい・・という

         のが日本神話の中身のようですからねえ。

         それぞれの国にそれぞれのアイデンティティーがある

         ってことなんでしょう。

     

         このあたりは、家庭教師をしてくれる元大学教授に

         フィリピン人としての感覚を聞いてみないといけませんね。

         かなり左翼系らしいですけど・・・笑

     

     

    === シリーズ70に続く ==

     

     

     

     

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    フィリピンの歴史教科書から学ぶ 68  「ミス・コンテスト」が教科書に載る??

     

    フィリピンの歴史教科書から学ぶ 68  建築、絵画、彫像、科学

     

     

    HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

    WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

     

    9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

     

     

    p133

     

    「建築物」

     

    マニラやその他の人口の多い市や町では、裕福な家族の石造りの家が

    スペイン建築風に造られ、azoteaの様式とアンダルシア風の中庭

    あった。 その他の様式の建造物はスペインによって導入され、

    教会に見ることができ、今でもその多くが存在している。

    このような教会は、DoricIonianCorinthianGraeco-Roman グレコローマン、

    Gothicゴシック、Byzantineビザンチン、そして Baroqueバロック 建築様式である。

     

     

    「絵画」

     

    ヨーロッパ絵画は、初期のスペイン人宣教師によってフィリピンに

    もたらされた。  最初の名声を勝ち取っフィリピン人画家は

    Damian Domingoであり、「フィリピン絵画の父」と呼ばれた。

     

    (中略)

     

     

    「彫刻」

     

    初期のスペイン人宣教師から、フィリピン人は西欧彫刻の要素を

    学んだ。 しかるべき時期に、多くのフィリピン人彫刻家は

    独自性を得た。 Isabelo Tampingcoは、St.Ignatiusの Jesuit教会

    の見事な木彫りで称賛された。 Manuel AsuncionJose Arevalo

    Romualdo de Jesus などは、聖者の美しい彫像で有名になった。

    ホセ・リサール博士も才能ある彫刻家であった。

     

    (中略)

     

     

    「科学」

     

    フィリピンでの最初の科学者は スペイン人の修道士であった。

    Blas de la Madre de Dios神父(フランシスコ会)が

    1611年にフィリピンの植物に関する最初の本を書いている。

     

    彼の植物誌「Flora de Filipinas」は 1837年に初めて出版

    された。

     

    スペイン体制の最後の10年間に、数人のフィリピン人科学者が

    植物調査において頭角を現した。 例えば、ホセ・リサール博士、

    T.H. Pardo de Tavera博士、そして Leon Ma. Guerrero博士である。

     

    Castro de Elera神父(ドミニコ会)は フィリピン初の動物学の

    本を著した。それは、世界の科学界で絶賛された。

    神父は サントトーマス大学の動物学の教授であった。

     

     

    (中略)

     

     

    === この後に、フィリピンでの 化学者、医学、薬学、気象学、

    地震学などの創始者と目される人たちが紹介されているんですが、

    多くはサントトーマス大学がその拠点であったようです。

    しかし、まだ、この時はほとんどがスペイン人のようですね。

    それにしても、ホセ・リサールが あちこちに顔を出すのには

    恐れ入りました。 やはり天才だったんですね。

     

     

     

    p135

     

    「スペインの血」

     

    多くのスペイン人が、植民地時代の3世紀に渡って、自由に

    フィリピン人と結婚した。

    英国人やオランダ人の植民地とは違って、スペイン人は

    アジアやラテン・アメリカの地元の民と結婚することに

    偏見を持ってはいなかった。

    そのような異人種結婚の子孫は、メスティーソやメスティーサとして

    知られているが、社会的な汚名を被ることもなかった。

     

    スペイン人とフィリピン人の結婚は、フィリピン人の人種的な

    蓄積を向上させた。

    彼らのスペインの血とラテン・アメリカ化された考え方によって、

    フィリピン人はスペイン人の素晴らしい特性を吸収するように

    なりました。 それは例えば、信心深さ、delicadeza(栄誉)、

    ロマン主義、家族への忠誠心、そして urbanidad(マナーの良さ)です。

     

    === このあたりは、著者自身がスペイン系であるということが

        表現にも大きく影響しているんでしょうねえ。

     

     

    スペインーフィリピンの メスティーサは その美しさと魅力

    でよく知られています。 例えば、Virginia LlamasCarlos P. 

    Romulo夫人)、1926年にマニラ・カーニバルの女王になった

    女性; Baby Santiago、 1968年のパシフィック女王;

    Margie Moran、1973年 ミス・ユニバース、などの

    フィリピンの美女たちである。

     

    ==== あじゃじゃじゃじゃ・・・もう、びっくりぽん!

         これ教科書ですよ、教科書。

         それに、ミス・コンテストの美女たちの名前まで

         掲載されているんですよ・・・・

         日本じゃあ 信じられないですね。

         さすがに、ミスコンの国だ

         2015年のミスワールド世界大会の優勝者も

         フィリピン代表でしたもんね。

         優勝者を間違って、王冠を取り上げるという

         前代未聞のトラブルもありましたけど。

         ちなみに、おなじ世界大会に、日本代表で

         出場した 宮本エリアナさんは、我が故郷の

         佐世保出身で、アメリカ人と日本人の国際結婚組

         のハーフですね。

    http://www.huffingtonpost.jp/2015/11/26/ariana-miyamoto-dress_n_8653662.html

     

    日本では、「純粋な日本人じゃない」とか言われて、いろいろと

    誹謗中傷があったようですが、日本人の島国根性が相変わらず

    なんですねえ。

    国際化だとかなんとか言っているわりに、日本人って

    本当に多様性を認めようとしない 非寛容な人種みたいです。

    日本の伝統的宗教である神道にしてみたら、八百万の神々で

    こんなに懐の深い民族はいないんじゃないかっていうくらい

    昔昔から海外の人々や文物を受け入れてきた国なのにねえ。

    いつから偏屈になってしまったんでしょう、日本民族は・・・

    ところで、日本における ミス・コンテストの草分けはいつごろ

    だったのか・・気になりまして。

    こちらのサイトによれば、1891年(明治24年)だったようですね:

    http://www.po-holdings.co.jp/csr/culture/bunken/qa/30.html

    もっとも、今のような形じゃなく、写真での勝負だったようですが・・・

    現代的なミスコンテストはと言いますと・・・・

    http://www.sponichi.co.jp/miss_nippon/what/

    「ミス日本コンテストの歴史は戦後の1950年にさかのぼります。アメリカの救援活動に感謝して日本とアメリカの友好親善を図る女性親善大使を選ぶことを目的に行われたのがミス日本コンテストの始まりです。」

    1950年っていうと・・・・私が生まれた年じゃないですか。 65年前・・・

     

    p136

     

    歴史上の多くのフィリピンの偉人たちは、その血管の中に

    スペインの血が入っている。

    例を挙げれば、Burgos神父、Gomez神父、Zamora神父、

    1872年の殉教者; Pedro A. Paterno博士、マロロス議会

    の議長; Martin Delgado司令官、イロイロ島の革命の英雄;

    Felipe G. Calderon、マロロス憲法の創記者、Maximo Hizon司令官、

    パンパンガ革命の英雄; T.H. Pardo de Tavera、優れた学者; 

    Cayetano Arellano、優秀な法学者; Manuel L. Quezon

    「フィリピン独立の父」; そして、Manuel A. Roxas

    第三フィリピン共和国の初代大統領などである。

     

     

    === ここで偉人の中に ホセ・リサールが入っていなかったんで

        あれっと思ったんですが、ホセ・リサールは中国系の

        メスティーソだったんですね。

    彼の家系はメスティーソといわれる中国人とフィリピン人の混血

    一族であった[4]。メルカード家は中国・福建省晋江から17世紀に渡り

    フィリピンの先住の女性と結婚した商人の末裔であり、元来の姓は

    「柯」といった。」

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%82%BB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB

     

     

     

    === シリーズ69に続く ==

     

     

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    フィリピンの歴史教科書から学ぶ 67 スペイン時代の音楽・ダンス

     

    なかなか前に進まない この読書と翻訳・・・・

    我ながら呆れておりますが・・・まあ、ぼちぼちやりましょう。

    HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

    WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

     

    9 OUR  SPANISH HERITAGE  第九章 スペインの遺産

     

     

    p132

     

    「音楽」

     

    フィリピンの音楽は、スペインとメキシコの影響を受けてより豊かな

    ものとなった。 人気のあるフォーク・ダンス、例えば

    Polka, lanceros, rigodon, cariñosa, surtido はスペインからやってきた。

    フィリピンの pandango, jarabe, kuratsa はメキシコ起源である。

    フィリピンの歌曲もラテン・アメリカ化しており、

    Sampaguita Dolores Paterno作曲)や Bella FilipinaT. Masaguer作曲)

    が挙げられる。 Julian Felipeによって作曲されたフィリピン国歌には

    スペイン国歌との顕著な類似性が見られる。

     

    === さて、これらはどんな音楽なんでしょう・・・

    https://www.youtube.com/watch?v=B9qnjxfzPYw

     

    この説明書きを読んでも、このダンスがどのカテゴリーなのかは

    分かりませんが・・・

    それに、地域によって いろいろなバージョンがあるみたいです。

     

    こちらは明らかにポルカです。良く見るダンスです。:

    https://www.youtube.com/watch?v=pkGphdK_N9s

     

    こちらは lanceros ですね。

    https://www.youtube.com/watch?v=10RDzXUHWK4

     

    rigodonは これです:

    https://www.youtube.com/watch?v=eLXxbiyHhXY

     

    cariñosa も聞いたことがあるようなメロディー:

    https://www.youtube.com/watch?v=Sy18EXrueu0

     

    surtido はこちら:

    https://www.youtube.com/watch?v=yBXektuE3gI

     

     

    さて、メキシコ起源とされている パンダンゴは:

    パンと団子が一緒になったってわけじゃない・・笑

    https://www.youtube.com/watch?v=MLuWHNNi_Ug

     

    この頭にランプを乗せて踊るのをバギオで見たことがあります。

    バギオ・シティー・ナショナル・ハイスクールの子供たちが

    演じてくれたダンスの中にありました。

     

    フィリピンのダンスの jarabeでは見つからなかったので

    メキシコの jarabeですが:

    https://www.youtube.com/watch?v=WFz1AMqr0EQ

     

     

    kuratsa もどこかで見たことがあるような踊り:

    https://www.youtube.com/watch?v=0qCXjmNJbdA

     

     

    こういうフィリピンのフォークダンスは、大きなレストランで

    伝統的なショーをやっているところでも見られますし、

    バギオ市の場合は、上記のようなハイスクールや

    大学のサークルなどでやっているようです。

    特に女性の衣装が華やかなので、女の子たちには人気が

    高いようです。 パレードなどでも見かける衣装です。

     

     

    ところで、ベンゲット州国立大学の教授から聞いた話なんですが、

    随分前に 東京外国語大学のフィリピン語学科でフィリピンのダンス

    を学んでいる学生たちが演技をしにやってきたことがあると

    聞きました。

    かなり研究した踊りだったそうで、もしかしたら今の

    フィリピンで踊られているフォークダンスよりも、元々の形に

    近いものが日本で研究されているのかも・・という話でした。

    https://www.youtube.com/watch?v=LCi3hQReT30

     

     

     

     

    p133

    メキシコとヨーロッパからは、バイオリン、フルート、ピアノ、

    ハープ、ギター、そして その他の楽器が導入された。

    竹を使って、フィリピンの人たちは、外国からやってきたものに似た

    楽器を作った。 スペイン時代の多くの町や村には、musikong buho

    (竹の音楽家)と呼ばれた多くの楽団があった。

    これらの音楽家達は、音楽学校で学んだわけではなかったので、

    楽譜を読むことは出来なかった; それなのに、彼らは竹の楽器で

    ヨーロッパ音楽を演奏することができた。

    彼らは、実際にどんな音楽でも、耳を通して学んでいったのです。

     

     

    === 私が実際に聞いた噂でも、フィリピン人のミュージシャンは

        楽譜は読めないけど、耳で聴いて、それを演奏してしまう

        と言うことだそうです。

        もしかしたら、そういう能力があるから、いろいろな

        外国語も、日本人のように苦労せずに、耳学問で習得

        出来ているのかもしれません。

     

     

    スペインの宣教師たちは、フィリピン音楽の発展に大いに寄与しました。

    フィリピンの歴史の中で特筆すべき最初の音楽の師は、1582年にマニラに

    到着したフランシスコ会の宣教師 Geronimo de Aguilar神父でした。

    彼は音楽学校をマニラのフランシスコ会修道院に創設し、ビコール地方の

    フィリピン人に最初に音楽を教えました。

    1742年には、 Colegio de Niños Triplesと呼ばれる音楽学校が

    大司教 Juan Angel Rodriguezによってマニラ大聖堂の中に創設されました。

    多くの貧しくて才能のある少年たちが、この音楽学校で学び、有名な

    音楽家になりました。

    その一人は、Marcelo Adonay(1848-1928)で、ラグナ州Pakil出身、

    一流の教会音楽のフィリピン人作曲家であり、素晴らしいオルガン奏者でした。

    彼は、「フィリピンのパレストリーナ」として称賛されました。

     

    === パレストリーナとは、イタリアの作曲家だそうです。

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%B3%E3%83%8B%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%BB%E3%83%91%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%8A

    パレストリーナは 教会音楽の父とされていたようですね。

     

     

     

    マニラの1~2マイル南にあるラス・ピーニャスの古いカトリック教会に

    ユニークな古いバンブー・オルガンがあって、世界でも唯一のものと

    されています。これは、1818年に Diego Cerra神父によって

    作られたもので、彼はRecollect 司祭音楽家でした。

     

    ラス・ピーニャスのバンブー・オルガンは、消えてしまったスペインの

    過去の歴史的な遺物ということを超えて; フィリピン音楽芸術の

    生きている栄光のひとつでもあります。

    100年以上に渡り、そのオルガンは、完全な形で生き残り、

    甚大な地震、台風、革命、そして国土を席巻した戦争をくぐり抜けた

    ものなのです。

     

     

    === このラス・ピーニャスのバンブー・オルガンの演奏会を

        聴きに行ったことがあります。

    http://laspinascity.gov.ph/home/article?cat=ls

     

    随分昔に行ったので、ほとんど忘れていますが、

    雰囲気のある良い演奏会でした。 教会の中での演奏会でした。

    https://en.wikipedia.org/wiki/Bamboo_Organ

     

     

    こちらのFACEBOOKサイトでは、

    「インターナショナル・バンブーオルガン・フェスティバル」という

    イベントの紹介もありました:

    https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=533678626676863&id=301430643234997

     

     

    マニラあたりに長期滞在されている皆さんにはお勧めです。

     

     

    === シリーズ68に続く ==

    === このシリーズの最初のページは こちらです===

    http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/02/post-1103.html

     

     

     

     

     

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