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2016年1月16日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 80 アゴオは「日本港」(プエルト・デ・ハポン)だった!!

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

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12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

 

p166

 

「日本との交易」

 

スペイン統治の初期において、マゼラン時代の前から

始まった日本との交易は、政府によってさらに推進された。

毎年3月に、長崎からの船がマニラ湾に停泊した。

塩漬けの肉、家庭用品、武器、筆入れ、そしてその他の

日本製品をもたらした。

彼らは、6月に帰ったが、中国の生糸、金、鹿皮、蝋、

土器の壺、そして、その他のフィリピンの輸出品を

積んでいた。

 

p167

 

初期の日本人貿易商は、リンガエン湾のアゴオの町でも

交易を行なった。 そこでは、彼らは、鹿皮の貨物を

得ていた。

アゴオにやってきた最初のスペイン人は、多くの

日本人のジャンク帆船をその港に見て驚き、

この町を「日本港」(プエルト・デ・ハポン)と呼んだ。

 

=== おお、すごい。

    バギオからラ・ウニオン州に下ったところにある

    アゴオの町は 「日本人の港」だったんですねえ。

 

    鹿皮を取引したというのは、

    もしかして、山岳民族のイゴロットとの

    取引があったんですかねえ。

    バギオの街中にあるイゴロット像も、鹿を担いだ

    筋肉マンの像がありますからね。

 

 

最初のスペインの船は、1584年6月に、マニラから

九州の平戸の港に到達した。

その一行は、平戸の大名Mutsu-ura(松浦氏の間違いですね)

に歓迎され、それに報いて、1585年に日本船をマニラに

送った。 翌年から、もっと多くの日本船が貿易目的で

マニラへやってきた。

 

 

=== 平戸松浦氏の海外との交わりについては、こちら:

http://www.y-history.net/appendix/wh1002-006_1.html

 

1550年にポルトガル船が来航し、領主の松浦氏から商館の設置を認められ、交易が始まった。しかし、松浦氏はキリスト教の布教は認めなかったので、ポルトガル人は1570年に長崎を領主大村氏から許可を得て寄港地とした。スペインはポルトガルより遅れて、1584年に平戸に商館を設けた。その後平戸はいわゆる南蛮貿易の中心地として栄え、とくにポルトガル船はマカオとの間で、スペインはマニラとの間で活発な交易を行った。」

 

・・・おお、ポルトガルはスペインより30年以上も早くから平戸との交易が

   あったんですねえ。

 

・・・平戸の文化財を見に行ったことがありますが、

   なかなか豪華でしたよ。

http://www.matsura.or.jp/mov04/index.html

 

スペイン来航のことは説明されていませんが、

スペイン人をロソン(ルソン)人として描いた絵が紹介されています。

漢字では 呂宋 と書いていますね。

元々のルソンの語源は、下のサイトによれば、米の籾摺の臼 であったようです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Luzon

The name Luzon is thought to be derived from the Tagalog word lusong, which is a large wooden mortar used in dehusking rice.[

また、こちらのサイトによれば、トンド王国=呂宋国だとあります:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2

1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いるスペイン船団がサマール島レイテ島に到着、この島々にフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)にちなみ「ラス・イスラス・フェリピナス (Las Islas Felipinas,フェリペナス諸島) 」と命名した(「フィリピン」の国名の由来)。」

・・・これによれば、フィリピンという名前になったのは1543年からという話ですね。

 

p167

 

「日本人に対するスペインの方針」

 

日本人のフィリピンでの居住者は 中国人より少なかった。

日本人はスペイン当局に厚遇され、中国人の場合と異なり、

差別的な法律も作られなかった。

これは、日本人が勇猛で好戦的な人びとであったという

事実によるものであった。よって、スペイン人は日本人を

恐れ、尊重したのである。

Morga博士は、「日本人は良い扱いを要求した人種だったので、

大変丁重に扱われ、フィリピンと日本の友好的な関係の為にも

そうすることが賢明であった。」と述べている。

 

 

=== そうですか。 日本人は好戦的だったんですねえ。

    実際に 戦国時代だし、倭寇はいるしねえ。

    スペイン本国は遠いし、日本は近いし、

    日本のサムライが大勢でやってきたら

    さすがのスペインも怖いよねえ。

 

    戦後の日本人は、戦争も知らないし、軍国主義も

    しらないし、バブル経済で 平和ボケになって、

    のほほんと過ごして来て、「日本人は好戦的」

    などとは思いもしないわけですけど、

    外から見れば、相当怖い存在なのかもしれない

    ですね。 歴史的に言えば。

 

 

=== シリーズ 81 に続く ===

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 79  Tayfusaが日本人の海賊の王国を作ってた??

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

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12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

 

 

さあ、いよいよ、日本の登場です。 わくわく・・

 

 

p166

 

「日本―スペイン 初めての接触」

 

日本とスペインの最初の接触は1570年で、

元帥のGoitiが、マニラ(Maynilad)のRaha Sulayman

のイスラム王国を占領した後に、20人の日本人居住者

発見した。 その中の一人はパブロというクリスチャン

あった。 明らかに、彼はマニラに来て住む前に、イエズス会

の宣教師によって、日本でキリスト教に改宗していた。

 

2年後(1572年)、Juan de Salcedo船長は、マニラから

イロコスに航行中、3隻の日本の海賊のジャンク帆船に

パンガシナン海岸沖で遭遇し、猛烈な戦闘後に追い払った。

 

10年後(1582年)、Juan Pablo Carrion船長率いるスペインの

派遣部隊は、日本人の海賊の王国を攻撃した。 その王国は

カガヤン川の河口にTayfusaによって築かれたものだった。

戦いは激しいものだったが、最後には日本人は打ち負かされた。

日本人たちが出港して逃げる時に、Tayfusaはスペイン人に

向かって叫び“Someday we shall return!”「いつか必ず戻って

くるからな!」と誓った。

勝利の後、Carrionカガヤン州に Lalloの町を築いた。

=== 教科書にこんな冗談を書いちゃっていいんかい?

    マッカーサーが言った言葉と同じじゃん。笑

 

 

=== こりゃあ知りませんでしたねえ。

    1570年っていうと、日本ではどんな時代ですかね?

 

こちらのサイトから、一部を抜き出してみますと:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E5%87%BA%E6%9D%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7

 

1549(天文18年) イエズス会フランシスコ・ザビエル薩摩国鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える

1550年代 南蛮貿易はじまる。

1560永禄3年) 桶狭間の戦い

1568(永禄11年) 織田信長足利義昭を奉じて入京する。

1573天正元年) 織田信長、足利義昭を追放して、室町幕府滅亡。

1582年(天正10年) 本能寺の変

1582年(天正10年) - 1590年(天正18年) 天正遣欧使節が渡欧。

 

=== なるほど、確かにイエズス会のフランシスコ・ザビエル

    20年前から日本で宣教をやっていたんですね。

    この時は、まだ、織田信長がキリスト教を歓迎していた

    頃のようです。

 

=== 日本の海賊の王国・・って、初耳、初耳・・・

    それに、Tayfusaって何者??

    (Tay Fusa (also referred to as Tayfusu or Tayfuzu)

 

    なんか、フィリピンじゃあ有名みたいですよ。

    1582年 カガヤンの戦闘、ってタイトルで

    こんなページがありました。

https://en.wikipedia.org/wiki/1582_Cagayan_battles

 

The 1582 Cagayan battles were a series of clashes between the Spanish colonizers of the Philippines led by Captain Juan Pablo de Carrión, and Wokou (Japanese pirates) headed by Tay Fusa.

 

This event was the only recorded battle between European regular soldiers against samurai warriors.[

(この事件は、ヨーロッパの正規軍がサムライと戦った

記録に残る唯一の戦闘である。)

(この侍というのは、浪人や足軽であったと書いてあります)

・・・唯一のという表現はいささか怪しいですが、

   この時代では、確かにそうなんでしょうね。

 

   さらに、こんなことも書いてありますね。

Around 1573, the Japanese began to exchange gold for silver on the Philippine island of Luzon, especially in the provinces of Cagayan, Metro Manila and Pangasinan, specifically the Lingayen area.

(1573年ごろ、日本人はルソンのフィリピンの島で、

 金を銀に交換し始めた。特に、カガヤン州、メトロマニラ

及びパンガシナン州のリンガエン地域であった。)

 

Pacified the region, and with reinforcements, Carrión founded in the city of Nueva Segovia (now Lal-lo).

上の教科書にかかれている日本人の海賊の王国っていうのは

Nueva Segovia(今の Lallo ラルーロー)とあります。

地図は、こちらで:

https://en.wikipedia.org/wiki/Lal-Lo,_Cagayan

台湾に近い、ルソン島の北東部、太平洋側ですね。

さらに、

Pirate activity was residual and the commercial activity focused on Lingayen Bay, in Pangasinan, on the port of Agoo and consisted principally on the deerskin trade.

それに、この倭寇が活動していたのは、リンガエン湾、

アゴオの港って書いてあります。

バギオから下ったところにあるラ・ウニオン州のアゴオですね。

 

 

=== 日本人倭寇も結構ルソン島周辺で

    いろいろやっていたんですねえ。

    面白いですねえ、おもしろいですねえ・・・

 

=== シリーズ 80 に続く ===

 

 

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2016年1月15日 (金)

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 09完了 反知性主義が恐怖を煽る

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

「第五章 「未知なるもの」と対話するために」

p243

そもそもキリスト教徒ではない日本人に対して、
キリスト教徒に何ができるのか、真剣に考えている
教職者(聖職者)が少ない。
日本の教職者はキリスト教徒にしか伝わらない言葉
論理を使いすぎです。

=== 確かにそうなんでしょうねえ。
    私の亡くなった母は、結婚前に東京で洗礼を
    受けて、その後結婚で浄土真宗に変わったと
    聞いたもので、キリスト教には関心があったんです。
    元々長崎県はキリシタンの素地があって、
    故郷の佐世保には、教会もありました。
    割と近場だったので、教会の庭で遊んだり
    もしていました。

    高校生時代には、英語が好きだったこともあって、
    英和対訳の聖書を読んだこともあります。
    しかし、あのバタ臭い聖書には閉口しました。
    キリスト教の人気がないのは、聖書の和訳に
    魅力が無いからじゃないかと思ったものです。
    やっぱ、醤油味ぐらいに変えないと無理でしょ。

p244

一神教は神と自分の関係性を大切にしますが、日本人は
ひとと自分の関係を大切にします。
日本人は空気を読んで行動する。 外交は最たるものです。

日本外交は、中東や欧米諸外国に理解されずに失敗を
繰り返している。 しかし日本外務省のホームページでは、
すべての外交会談に成功したと書いてある。
これは我が旧帝国陸軍から脈々と続く伝統ですよ。

・・・現地の部隊が企画立案を行い、実行するのも現地の
部隊、そして評価も自分たちで行う。

・・・ただ、最近の外務官僚はかなり慎重ですからね。
独断専行しない旧陸軍と言えばいいでしょうか。

・・・日本には、外交の成否をチェックしたり、批判したり
する立場の人がいないわけですね。

p245

一神教社会では・・・・背後に自分が正しいと信じる神
が控えているから、相手を批判できるのです。

=== なるほどねえ・・・
    日本人って、ちょっと自分なりの意見を言うと、
    すぐに喧嘩になったり、関係が微妙になって
    しまったりしますもんねえ。
    もっとざっくばらんに色んな考えやアイデアを
    言いあえる仲間であればいいのにねえ。
    国民の代表である立派な人たちですら、
    議会の場で、相手の話を拒絶したり、
    言うだけだったり、ののしり合ったり、
    まったく議論らしい議論なんて聞いたためしが
    ないもんなあ・・・・残念。
    
    私は昔経理部員だったりして、監査もやったり
    したんですけど、公認会計士の会社ですら
    大企業には丸めこまれて、きっちり仕事を
    していないしねえ・・・
    空気を読んで なあなあになっちまうんでしょう。

 

p247

日本人がいかに学問を嫌いか実感します。
学生たちに話を聞くと自分が入学できるなかでもっとも
偏差値が高い大学に入りたかったという動機以外は
何もないんです。
あるとしても、親の期待に応えたかったとか、同級生に
でかい顔をするとかーーー。
何より彼らは、受験勉強に意味がないと考えている。

=== 私なんぞは、家が貧乏だったんで、
    大学に行く気はさらさらなかったんですが、
    それなりの成績だったんで、高校の先生の
    モルモットになって大学をふたつ受験は
    しましたけどね。
    まあ、教師の為のデータ取りですね。
    (先生に受験料を請求したいぐらいだったなあ)
    ひとつは落ちて、ひとつは合格。
    落ちた大学の受験の時には、下痢をしていて
    絶不調でした。思い出すなあ・・・

    本音は「英語だけやっときゃあ、食いっぱぐれは
    ないだろう」ってな調子でしたから、
    東京に出て、新聞店に住みこんで、英語の
    専門学校に通ったんですけど・・・
    お蔭さんで、アメリカ系の会社を3つ
    渡り歩くことになりました。
    有り難いことに、実力以上の給料をもらった
    んじゃないかと思います。 ごっつあんでした。 あはは

    もっとも、あの頃はまだバブルだったし、英語だけでも良かった時代ですけど。

 

p257

反知性主義を簡単に定義するなら「実証性や客観性を
軽視もしくは無視して自分が欲するように世界を
理解する態度」です。

・・・自分に都合のよい物語にこだわるところに
反知性主義の特徴があります。

反知性主義に学歴は関係ありません。 高等教育を
受けた人が反知性主義者であることは珍しくないし、
政治エリートのなかにも反知性主義は広がっている。

・・・外務官僚出身者の何人かは反ユダヤ主義、
ユダヤ陰謀説をもとに反米本を書いています。

p258

アメリカにおいて、ユダヤ人のイメージを決定的に
変えたのは、マスメディアとハリウッドの力です。
たとえば1960年代ならポール・ニューマン主演の
栄光への脱出」。

https://www.youtube.com/watch?v=y3AiR4C6mD4

 

p262

反知性主義に抗う、ポイントはなんでしょう。

ひとつ提案するなら、健全な物語を読むこと。
反知性主義者は、自分以外の経験や物語を通して、
擬似的な体験をする、代理体験が足りません。

p2673

根拠のない恐怖は、社会の行き詰まりを背景に、
一気に広まる危険がある。
だからこそ、真っ当な物語が求められている。

=== な~~るほど。
    たしかに、この反知性主義というのが
    今の世界には広がりつつあるようですね。
    そして、それこそがイスラム国(IS)の
    思うつぼなのかもしれません。
    マスコミや、SNSなんかの情報にも
    惑わされないようにしなくちゃいけませんね。

=== これで 読書は完了しました ===
=== お付き合い、有難うございました ===

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橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 08 農民が永遠の命を得る為に皆殺しにせよ!!

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

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「第四章 一神教と資本主義」

p209

ルターは農民戦争で最後の審判を楯に「農民を皆殺しにせよ
と諸侯たちに訴えています。
「農民たちは神の意思に反している。 これ以上、農民たちを
放置しておくと彼らの魂が汚れ、最後の審判の日に復活でき
なくなる。 いま皆殺しにすれば、最後の審判の日に彼らも
永遠の命を与えられるかもしれない」

一神教が暴走するとこういう論理が生まれる

ヒトラーが最も尊敬しているドイツの先人としてルターを
挙げたのもうなずけます。

キリスト教はこのようにずるいロジックを組み立てることが
ときどきある。

=== この本のタイトルを見た時に、じぇじぇじぇ・・と
    思ったんですが、これが本当なら(まあ、本当なん
    でしょうが)、恐ろしい論理ですね。
    真面目なやつは恐ろしい。

p211

神が造ったあらゆるもののなかで、人間だけに、罪がある。
・・・では人間も、自然の一部であるなら、自分を正当化
してもいいのではないか。 
・・・ それが ”right”--権利です。
人間が生まれながらにもっている、自然権です。
人間は、身体を神に手造りされ、命も与えられた。
生きていってよいのです。
身体も命も、神の造った秩序だから、自然、自分に与えられた
自然を、正当化してもよい。
この正しさを、権利という

=== つまり、ここで言いたいのは、
    「権利」という言葉は、一神教をベースにした
    概念であるってことですね?
    だから、日本人には根本的なところで理解できない?

p212

自然法に合致している限り、神がつくった秩序に従って
いることになる。 自然法は神の秩序だから、最後の審判で
有罪とされる根拠にはならない。 これで、信仰の立場
からは安心できるようになった。

自然法をひと言で説明するなら、人間の理性に基づくルールです。

p213

キリスト教の考えによれば、人間の理性は、神の精神作用の
コピーです。 

ならば、理性を使い、自然を解明すれば、神の創造のわざを
明らかにし、神に近付くことができる。

=== この辺りの考え方が、近代科学の発展は
    キリスト教に由来するということの意味なんでしょうか?
    ・・ただ、最近の先端科学では、一神教では
    説明できないことも出てきた・・というような
    趣旨の本も読んだことがありますけど・・・

p228

ここで重要なのは、キリスト教ははじめ、利潤追求の
資本主義をつくる予定では全然なかったこと。 むしろ
その反対だった。 ところが、キリスト教のなかにある
要素を順番につなげてステップを踏んで行くと、いつの
間にか予定にない、資本主義がうまれてしまった。

p235

国家と経済が一体となると、政治とビジネス両方
手を出す人間が、絶大な権力を手に入れますからね。

スターリン主義がそうです。
それからナチス、そしていまの中国と、日本もいれても
いいかもしれない。

=== アメリカは最初はピューリタンで質素な生活
    をモットーとするイメージがありますもんねえ。
    それがどんどん、今のアメリカの大統領候補
    であるトランプ氏みたいなのが出てきた。
    大金持ちの陰の帝国の帝王が表に出てきた。
    

=== その 09 に続きます ===

 

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2016年1月14日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 78 フィリピン人女スパイで6千人虐殺?

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

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12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

p164

 

「第二次 中国人の反乱(1639年)」

 

二回目の中国人の反乱は、総督Corcueraの中国人を

ラグナのCalambaで働くよう強制した非情な命令

及びスペイン人の租税収税官による虐待によって

引き起こされた。

敵意は1639年11月19日にCalambaで始まり、

急速に他の町々へと広がった。

ラグナの治安判事町長であったMarcos Zapata及び

数人の修道士が殺害された。多くの教会や家々が

倒壊された。 しかし、その反乱者たちは、

マニラの城塞を攻撃しようという意図はなかった。

それは、彼らの心に1603年の反撃の記憶が

まだ新しかったからである。

 

p165

 

反乱は3カ月以上にわたって荒れ狂った。忠誠心のある

フィリピン人射手の助けにより、総督Corcuera

反乱者たちをラグナの山々へと追い込んだ。

1640年2月末までに、中国人反乱者たちは、飢餓と疲労

の為、Pagsanjanの町で総督に投降した。

およそ2万人の中国人が反乱の中で命を落とした

反乱者によって略奪され焼き討ちされた22の町々では

被害額が7百万ペソにのぼった。

 

 

 

「第三次中国人の反乱(1662年)」

 

 

 

1662年の初期に、Koxinga(本名は Cheng Chengkung)、

オランダから台湾を奪った中国人の司令官は、神父Victorio

Ricciをマニラに送り、スペイン当局からの貢物を要求する

尊大な書信をもたらした。

総督Manrique de Lara は この要求を非道なものだと

して、中国人住民を追放する準備をした。

 

安全に不安を覚え、中国人は武装して立ちあがった。

彼らは、サンタ・クルズ地区を焼き払い、スペイン人や

フィリピン人を殺害し、家々を略奪した。

パンパンガ人の4千人の軍が、Francisco Laksamana

Lakan Dulaの末裔、の指揮下で、反乱軍に対して反撃した。

中国人反乱軍は、Taytayとアンティポロの山々へと

逃げ込んだ。 Laksamanaは戦闘の中で、彼らを

追撃し殲滅した。

彼の活躍に報いるため、勇壮なLaksamamaは、サンチャゴ要塞

の司令長官として24時間任命された。

―― スペインからフィリピン人へ与えられた最高の

軍事的栄誉であった。

 

=== これは、追放するってことが前提だから、

    そりゃあ反乱を起こしますよねえ。

    しかし、中国はスペインに対しても貢物を

    よこせとやったんですねえ。

    さすが、中国。

 

 

 

「第四次中国人の反乱(1686年)」

 

賢く博学な中国人の前科者であったTingcoと呼ばれる者が、

スペイン人を殺害し、マニラの町を焼き払い、教会で略奪

を行う企みを計画した。敵意はParianに始まり、

反乱は1686年8月に起こった。

略奪はパリアンで発生したので、政府軍が到着し、反乱軍は

総崩れとなった。Tingcoは逮捕され、処刑された。

彼の支持者たちはパサイに逃走したが、追跡され、殲滅

された。

 

=== 賢いTingcoにしては、あっさりと敗北した

    感じですね。小規模だったんでしょうか。

 

 

「最後の中国人の反乱(1762年)」

 

1762年に英国がやってきてマニラを占領した時、

中国人は英国に協力して、スペイン人を攻撃した。

マニラの中国人も共謀して、およそ900人のパンパンガ・

Guaguaの中国人たちが、秘密裏に1762年12月24日の

クリスマス・イブに、スペイン人を抹殺しようと目論んだ。

 

=== おお、英国が入ってきた時に、それまでの

    恨みつらみを一気に爆発させたということですね。

    スペインより英国の方がましだと考えた。

 

 

p166

 

計画した一人が、たまたまその計画をフィリピン人の

恋人に漏らしてしまい、その彼女が直ちにパンパンガ・

メキシコの教区の司祭であるJose Salas神父に知らせて

しまった。

総督のAndaは、すぐにその中国人の計画を知らされ、

12月20日にGuaguaに急行し、中国人反乱者たちを

討伐した。この反乱の中で、およそ6千人の中国人

殺害された。

人間の血の洪水でフィリピンが浸されたため、

1762年のクリスマスは「赤いクリスマス」と呼ばれた。

 

=== 恋人がスパイになってしまったんですね。

    そういう極秘計画を恋人に漏らしちゃあいけません。

    しかし、事前の密告がなかったら、

    6千人の犠牲者では終わらなかったのかも

    しれませんが・・・

 

    この教科書では都合5回の反乱が書かれているん

ですが、本当は、もっと規模の小さい反乱も

あったんでしょうね。

    今は、中国系フィリピン人もほとんどが

    カトリックの信者だと思いますが、

    その当時は宗教的にはどうだったんでしょうか。

    教会を襲ったりしているんですから、仏教あるいは

    道教だったかもしれません。

    今でも、その二つの寺院がバギオにもありますし。

 

p166

 

「中国人人口の増加」

 

スペイン人の刀による中国人の殺害、たび重なる大規模な

追放、彼らに対する厳しい法律にもかかわらず、

中国人移民はフィリピンに入り続けた。

こうして、中国人の人口は年年歳歳増えていった。

 

1571年の150人の中国人から、中国人居住者の人口は、

1588年に1万人、1603年に3万人、1748年に

4万人、1886年に6万7千人、1896年には10万

と膨張していった。

 

 

==== なんと、1603年の3万人の人口って

     書いてありますけど、1603年に最初の

     中国人の反乱があったときは:

     「およそ23,000人の中国人が最初の

中国人の反乱で非業の死をとげた。」

     と書いてありました。

     フィリピンにいた3万人のうちの

     およそ8割が殺されたってことじゃないですか。

     よくもまあ、それでも増えたもんですね。

     当時の中国は、そんなに生活が苦しかった

     ってことなんでしょうかねえ。

     あるいは、こんなに大きな虐殺が行われた

     ことがインターネットの無い時代だから

     伝わっていなかったのか・・・

 

 

・・・次回はいよいよ、日本との関係です。

 

=== シリーズ 79 に続く ===

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 77  イントラムロス危うし、日本人も動員!

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

 

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

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p164

 

「最初の中国人の反乱(1603年)」

 

1603年5月23日、3名の中国人官吏がマニラに到着。

伝えられるところによれば、中国で、カビテにあると

噂されていたChinsan(金の山)を見に来たという。

スペイン人は、彼らの話を疑い、官吏が出発した後に

町の防御を固めた。

そのような戦争のような準備体制が、中国人居住者に

不安を抱かせ、中国人はスペイン人が虐殺をおこなうのでは

ないかとの恐怖を感じた。

スペインの統治をひっくり返そうという秘密の陰謀が

Parianの中で企てられた。 これは、裕福な中国人商人

EngKangの指導の下にあった。

 

 

=== 不安が恐怖を呼んで、やらなくても良い

    戦争になったということでしょうかねえ。

    ところで、Parianという中国人町の場所ですが、こちらにありました:

http://www.top-specials99.com/kol/ENGL/col06a-Christian-holocaust-Peru-Mexico-Philippines-mines+mission+terrorism.html

    このページの古地図をみると、イントラムロスの東に隣接ですね。

 

 

1603年10月3日のセント・フランシスの日の夜に、

中国人はストライキを実施して、彼らは、トンドとキアポ

攻撃し、建物に火を放ち、居住者を殺害した。

武装したスペイン人のグループがDon Luis Dasmarinas

(前総督)と TomasBravo de Acuna船長(総督Acunaの甥)

に率いられ、町から出港して、中国人反乱者の鎮圧に出た。

これらのスペイン人たちは、待ち伏せされ、ひとり残らず

全滅させられた。

 

=== Parianという中国人の居住地は、

    イントラムロスの城塞の外にあるっていうこと

    なんですが、船で鎮圧に行ったんですねえ。

    どういう地理関係なのか分かりませんが・・

 

 

初戦に勝ったのに勢いづいて、町の城塞を襲った

スペイン人修道士たちは、十字架や刀を持って闘って

いたが、血染めの白兵戦の中で、フィリピンースペイン防衛隊

に力づけられた。

その一人、修道士の Antonio Floresは、聖アウグスティヌス

修道院の平修道士であり、フランダース戦争では船長で

あったのだが、武勇をもって戦った。

日本人居住者は、フィリピン人とスペイン人と共に

勇敢に戦った。 中国人の攻撃は撃退された。

 

=== おお、日本人も一緒に戦ったんですね。

    と言うことは、日本人居住者はイントラムロスの

    中で生活していたってことになりますか。

    この当時は何人ぐらい住んでいたんでしょうか・・

 

 

町を奪うのに失敗し、反乱者たちはラグナのサン・パブロの丘に

撤退した。そして、そこで、Cristobal de Axqueta Monchaca

率いるフィリピンースペイン討伐軍によって、壊滅させられた。

およそ23,000人の中国人が最初の中国人の反乱で

非業の死をとげた。

 

 

=== 2万3千人というのは随分多いですね。

    そうとう激しい戦争だったということになります。

 

 

=== この当時の 日本とフィリピンの関係を

    検索してみたところ、こんなサイトが見つかりました:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%A8%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82

 

日本とフィリピンはスペインによるフィリピンの植民地化

1592)以前より関係があった。1591豊臣秀吉

スペインのゴメス・ペレス・ダスマリニャス総督に、日本に

入貢を促す書簡を持たせて原田孫七郎を派遣した。

15927、ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスは、

ドミニコ会士のフアン・コポスを派遣、秀吉に書信と贈物を

届けると共に、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区

集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)

 

 

1570年には20人ほどだった日本人居住者は、17世紀には 

1500人、最盛期には3000人にもなった。1614にはバテレン

追放令を受けてマニラに到着した大名、高山右近をスペイン人

フィリピン総督、フアン・デ・シルバらが歓迎している。

しかし1633以降の鎖国令によって、日本人町は衰退しやがて消滅する。」

 

 

・・・・・なるほど、中国人の反乱は、1603年の話

     ですから、この記事から判断すると、

1,000人ぐらいはいたのかもしれませんね。

     マニラのデイオラ地区というのは どこに

     あったんでしょうか・・・

 

 

==== と、いろいろ検索をしたいたところ、こんなサイトが

     見つかりました・・・

http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb313c/

 

1592.10

秀吉は再度総督宛に返信を届けるため原田喜右衛門を起用し、原田は翌年4月マニラに到着した。

この頃在マニラ中国人約2000名の一斉蜂起があり、政庁の要請でマニラに在住していた日本人多数が反徒鎮圧に協力した。

・・・これを読むと、1593年4月に、

   マニラの中国人の一斉蜂起があったってことですね。

   そうすると、1603年の反乱は「最初」じゃない

   ですね。

   2,000人の蜂起は、数のうちに入らなかったって

   ことになりますか。

   で、この時も、日本人が鎮圧に加勢しているんですね。

 

   と言うことは、日本人はこの時既に イントラムロスでは

   なくて、デイオラ地区の日本人町に住んでいて、

   反乱の鎮圧を要請されたってことになりますね。

==== いろいろ検索しまくりまして、デイオラ地区の場所が

        分かりました。。。。こちらの観光案内のサイトです:

高山右近の像のある公園の情報です。

http://4travel.jp/overseas/area/asia/philippines/manila/kankospot/10423138/

「マニラにあった2つの日本人町のうちデラオ町跡に立っています。説明板あり。廃線になった鉃道駅(廃墟)を背に、ロータリーの広場プラザ ディラオの中にありますが、そこは、寝泊まりする人がベンチや茂みにいて、万が一危険な目にあっても車の流れにさえぎられてすぐには助けに来れない位置の、荒れた印象の公園です。タクシーの運転手さんにガードして見張ってもらいましたが、カメラを出すにも緊張感がはしりました。できるだけ日本人としては訪れたいところですが、単独なら、すばやく立ち去る方がよさそうです。実際の高山右近はイントラムロス内に滞在、埋葬されたということです。」

「【アクセス】LRTのPedro Gil(ペドロ・ヒル)で下車し、タクシーで行くのが最短の方法です。」

=== 地図でみると、イントラムロスから南東に1.5キロぐらいのところですね。

=== そして、中国人町のある Parianですが、地図がありました。

http://www.top-specials99.com/kol/ENGL/col06a-Christian-holocaust-Peru-Mexico-Philippines-mines+mission+terrorism.html

イントラムロスの東に隣接しています。

確かに、イントラムロスから銃口が向けられているという位置ですね。

 

 

=== シリーズ 78 に続く ===

 

 

 

 

 

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2016年1月12日 (火)

カフェ・バイ・ザ・ルインズDUA で山岳民族の民話のアート展、でも、食事が・・

先日、バギオでも有名な Cafe by the Ruins Dua (アッパー・セッション通りの2号店)で 山岳民族であるカリンガの民話を元にした 小学生たちが描いた絵画展があったんです。

Img_3318

カフェ・バイ・ザ・ルインズの1号店は、市役所の近くにあって、ガイドブックにも取り上げられるような有名なお店で、 店名の意味は「戦争の廃墟の傍の喫茶店」ぐらいの意味でして、第二次大戦中に破壊された壁をそのまま保存してあるんです。

Img_3323

こちら2号店は 「DUA」(2という意味みたいです)と言うことで、廃墟とは何の関係もないんですが、アートな雰囲気は結構いい感じです。

Img_3324

・・・で、今回の目的は、これを見ることだったんです。

これは何かと言いますと、

Img_3341

環境NGOのCGNさんが、カリンガ州の小学生たちに環境教育の一環として実施した、土を使った絵画展なんです。

Img_3334

この絵は、カリンガ族の民話をもとに、そのストーリーに沿って描かれ、ひとつの絵本にまとめられています。

Img_3325

子供たちの絵が なかなかいい味を出しています。

Img_3356

そして、同時に、日本人アーティストの作品も展示されています。

Img_3355

こちらは、以前、バギオ市でワークショップもされた日本人版画家の作品です。

Img_3361

そして、私はと言いますと、

この日にNHK大河ドラマの「真田丸」が始まるってことで、 ここで晩御飯をさっさと食べて、そそくさと帰ることにしていたんです。

Img_3363

・・・で、アート展のオープニング・イベントが始まる前から、晩御飯に突入。

ワインを頼んだら、「ありません」。

ビールも「ありません」。

「アルコールは 何があるの?」

「タブイならあります。」

・・・ってことで、この 米のワイン、タプイを飲みまして。

メニューを眺めたんですが、なかなか これと言ったものがなく・・・

試しに これを食べてみました。

Img_3365

ラビオリってんですか?

ラビオリって、まあ、いろいろあるんでしょうけど・・・

http://cookpad.com/search/%E3%83%A9%E3%83%93%E3%82%AA%E3%83%AA

・・・

このお店のラビオリ・・・見た目が 今ひとつ・・じゃないですかね?

味は悪くはないんですけどねえ・・・ちょっと残念な感じでしたねえ。

・・・

そして、メイン・ディッシュってことで、

「カラバオ」(フィリピンの水牛)のなんとか・・・ってのがメニューにあったので、

「これをお願いします」

・・・・

しばらくして、「カラバオは、品切れ中です。」

・・・ああ、まあ、フィリピンのレストランではよくある話だし・・・

メニューを再度見渡すと、ダック・ハム・サンドイッチ ってのがあったんで、

「これお願いします。」

「はい、かしこまりました・・・」

・・・・

Img_3359

アート展のオープニングが始まって・・・

私のテーブルに知人が加わってくれまして。

「カフェ・オレ、お願いします。」

・・・・しばらくして、

「カフェ・オレは 品切れ中です。」

・・・・ってことで、ウインナ珈琲に変更。

「なんで、カフェ・オレが出来ないんでしょうねえ・・・」

と二人で 不思議な顔・・・

・・・・ その後、ウエイターが現れ、

「すみません、ダック・ハム・サンドイッチは 品切れです・・・」

・・・・ おい、おい、おい、おい・・・

まあ、私も10年以上 フィリピンに住んでいますから、

こういう事があるのは、重々承知をしておりますが・・・

タプイの酒も回っておりまして、顔も真っ赤だし・・・・

第一、結構雰囲気の良い、高級志向の、お値段も高級なお店で、これですか!??

・・・ で、プチ・ぶっつん きちゃったんですねえ・・・

「このお店の 在庫管理は どうなってんの?」

「・・・・・・」

「最初に、カラバオを注文したら、品切れ・・」

「カフェ・オレも品切れ・・・」

「ダック・ハムを頼んだら、それも品切れ・・・」

・・・・

「何か別のご注文は?」

「・・・もう、食欲が無くなった・・・・」

・・・

しばらくして、

「ダック・ハム・サンドイッチは、ホワイト・チーズが切れているので品切れと言ったんですが、チーズ抜きなら大丈夫ですが・・・」

「・・・おい、おい、それを早く言いなさいよ! チーズ無くていいから・・・」

・・・・

で、テーブルの相方と、

「こりゃあ、今から、ダック・ハムをスーパーに買いに走っているな・・・」

「30分ですかねえ・・・笑」

・・・・

そして、やっと出て来たのが、これです。

Img_3369

これ、結構 旨かったんですよ。

Img_3368

次回は、同じものを注文して、

本当にホワイト・チーズをいつもは使っているのか

チェックしなきゃね・・・あははは

Img_3371

一方、オープニングは 粛々と進んでおりまして、

今日の主役の小学生たちが、絵本の朗読をやっていました。

・・・・

カラバオ、ダック、カフェ・オレ紛争で 聞けなくてごめんね。

Img_3373

と、言いつつ、「真田丸」を見るために、途中退場したのでありました。



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橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 07 キリスト教はアンチ・ヒューマニズム ??

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

「第三章 キリスト教の限界」

p162

まず反ユダヤ主義を志向して、聖書のなかから、旧約聖書や
「パウロの手紙」などのユダヤ教に連なる文献をすべて
排除した。 その後「福音書」「使徒言行録」を中心と
した新しい聖書を編纂しました。
その結果、キリスト教とナチスが結びついた。

p163

日本も、教会の上位に国家が立つというこのシステムを
取り入れて、国家神道をつくったわけですが、日本の
国家神道は「宗教ではない」という立場をとった。
最初から宗教として自殺しないですむ構成にしていたのです。

=== この辺りは、普遍的な教会は存在できない。
    もしあったとしたら、国家は存在できない、という
    文脈の中にあるんです。
    ってことは、イスラム教の場合は、
    国家というものを前提としていない宗教なんで、
    キリスト教よりも普遍的だってことになるんですかね?
    従来は、戦争も国家間の戦争だったから、
    キリスト教はアメリカ向きだった???

p165

(シュライエルマッハーは)神は心の中にいるという
説を唱えた。

しかし神が心の中にいると、自分の主観的な感情と
神を区別できなくなる。 絶対的な存在の神を心のなかに
認めることで、人間の自己絶対化の危険性が生まれました。

p166
(バルトは)「神は上にいる」と主張しました。
人間は神ではないから神について知ることはできない。
・・・だから、神学は「不可能の可能性」に挑戦する
学問だと主張しました。

=== まあ、頭の中ではわかるような気がしますが・・・・
    でも、考えてみるに、「不可能の可能性」というのは
    先端の物理学なんかにも言葉上は通じるような
    気もしますね。 実証できる出来ないの違いは
    もちろんあるんですけど。

p167

アメリカは、ヨーロッパが一枚岩になることをもっとも
恐れています。 ソ連と西ヨーロッパが争う不均衡
状態は、アメリカにとっては好都合です。

=== ここのところは、第一次大戦のときのことを
    ベースに書いてあるんですが、なぜそうなのかは
    分かりません。
    専門家同士の対談ってのは、難しい。
    最近のテレビニュースなんかを見ていると
    フランスなんかがソ連と近づいているような
    話が出てきていますね。
    

p168

最終的にはバルトは反ナチズムのドクトリンを築くわけですが、
当初全面的な忠誠こそは誓わなかったものの、条件付き
の忠誠を示した。

p171

キリスト教徒が、イエス・キリストが、神の子であって「救い主」
であるという立場に立つなら、ムスリムは反対の立場に立たざる
をえない。
そうすると、キリスト世界とイスラム世界は永遠の平行線を
辿ることになる。

平行線は永遠には続かない。最終的には互いに力で解決
しようとするはずです。
・・・残されるのは、アメリカ正規軍とテロリスト
軍事対決という選択しかなくなります。

=== 宗教、宗派間には そりゃあいろいろと解釈上の
    違いがあるのは分かるんですけど、
    なんでそれが、戦争に結びつくのか、その
    メカニズムが分からない。
    結局 経済的な争いだってんなら分かりやすいですけどね。

p174

バルト神学 -- いや現代神学は、天皇への徹底した
服従、自由主義や民主主義、社会主義などの排除を説いた
「国体の本義」と考え方の親和性がとても高い。

p175

バルトの考え方は、説得力が乏しい。
実証主義に対して、対話の拒否というか、論理のジャンプ
がある気がします。

・・・バルトは究極的に対話不能な神学者です。
同時に規格外の人間でもある。

=== カール・バルトについては、こちらです:
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88
    

=== バルト神学についての、佐藤優の文章がこちらに:
    この本に書いてあることと似ていますが・・・・
http://blog.goo.ne.jp/humon007/e/38ed0928358fba4b9910576548083a40

p176

プロテスタントであれ、キリスト教のどの宗派であれ、
人間を信頼してはならないという原則があります。
キリスト教は アンチヒューマニズムの宗教ですからね。
原罪を持つ人間を悪であり、弱いものであると考えて、
手放しには肯定しないわけです。

カトリシズムでは救済のためには「信仰と行為が必要
である」と主張しています。 一方のプロテスタンティズム
では「信仰のみ」の一元論を強調します。
しかし、それは、行為がどうでもいいからではなく、信仰
があるならば必ず行為に結びつく「信仰即行為」「行為即信仰」
という立場から生まれた考えです。

=== キリスト教は アンチヒューマニズム ???
    これはまた、びっくりです。
    どういうことだ???
    分からん・・

p181

アメリカの土台が揺らぐのは、実証主義か素朴な霊感説か
どちらかを選ばなければならない状況に追い込まれたときだ
と思うんです。

これから国力がどんどん下がっていくアメリカが、何で
国家を守るのか。
選択肢はふたつあると思います。
ひとつは科学技術、もうひとつが、キリスト教信仰。

これまでアメリカは、科学技術の発展とキリスト教信仰を
両立させて、国を発展させてきました。
しかし、それが限界にきている。

=== 今日の抜き書きは、これだけを読んでも
    脈絡がまったく分からないですね。
    やっぱり、本を買ったほうがいいですよ。(笑)

=== その8 に続く ===

                      

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2016年1月11日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 76  中国人の経済的貢献と迫害

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 ==この翻訳は、英語の勉強と歴史の勉強を兼ねてやっているん

  ですが、政治学・歴史学の元大学教授に家庭教師を

  お願いしているので、その授業にある程度まとまった

  形の準備をしないといけないってことで、

  一所懸命書き溜めているところです・・・

  お付き合い、毎度ありがとうございます。

 

Img_3313a


12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

p162

 

1575年5月Salcedoが林鳳を包囲していたころ、

福建省総督の使節であるAumonOmoncon)を乗せた

二隻の中国船がリンガエンに到着した。

 

Aumonは、中国でお尋ね者となっていた林鳳を

捜していた。 海賊の運も尽きたことを見て、

Aumonはマニラへ向かった。 そこでは、総督Lavezaris

の厚いもてなしを受けた。

彼が中国に帰る時には、スペインの大使一行に伴われた。

(中略)

この大使一行は、総督から中国の皇帝に宛てられた手紙を

持っていた。 その手紙は、中国との友好と交易を

求めるものであった。

 

福建省の総督はスペインの大使一行を歓迎し、Lavezaris

手紙を皇帝に届けた。 しかし、彼は大使一行が長く

滞在することは許可しなかった。

 

p163

 

1575年2月に、中国人が皇帝の返書を携えてマニラに到着した。

返書は、スペインの要求である交易と、マニラ貿易に対して

中国(アモイ)の港を開くというものであった。

 

=== おいおいおいおい・・・

    気づきました、皆さん。

    1575年5月にAumonがやってきて、

    1575年2月に返書が来た・・・って可笑しいでしょう。

    本当に この教科書の編集・校正は大丈夫か

 

    しかし、スペイン大使一行に「長居は無用」って

    いったのにはどういう事情があったんでしょうね。

    もしかして、キリスト教の伝播とか、侵略を疑って

    いたのかな・・・

 

=== Captain Omonconについては、こちらのサイトで:

http://www.liquisearch.com/limahong/a_belated_visitor

 

 

「中国人の経済的重要性」

 

 

スペイン時代のフィリピンの経済的生活は、中国人の労働と

産業に大いに頼っていた。 中国人住民は、商人、農業、

石工、金融業、塗装工、靴職人、金属工、そして人夫であった。

「かれらは優秀な労働者だった」とMorgan博士が1609年に

述べている。「そして、全ての工芸や交易に技術を持っている」。

フィリピンは中国人の手助け無しには成り立たなかった。

Recollect 歴史家として.. Juan de la Concepcionコンセプションは

1788年に、「中国人の交易と商業がなくては、この国は

 

生きて来れなかった」と述べている。

 

=== Recollectの訳し方が分かりません。(「思い出の歴史家?」)

歴史家のJuan de la Concepcionについては

    スペイン語らしい言語でのwebサイトはたくさんあるの

    ですが、英語でのサイトがほとんどなさそう:

Juan de la Concepcion, Historia General de Philipinas, 1788-1792, the "Events in the Philippines," 1739-1762

https://www.translate.com/english/juan-de-la-concepcion-historia-general-de-philipinas-1788-1792-sa-mga-kaganapan-sa-filipina/36597124

 

 

 

 

「中国人に対するスペインの方針」

 

中国人の経済的貢献は価値があったのだが、スペイン当局からは

公正な扱いは受けなかった。 移民の増加は疑念と恐怖の目で

見られた。 なぜなら、大きな中国人のコミュニティーは、

スペイン統治にとっては危険だと思われたからである。

 

中国人移民が増えないように、スペイン当局は重税を課した 

滞在の許可に64レアル、年貢は5レアル、そして持家には

12レアルであった。 

マニラでは、中国人はParianに住むことを強制された

そこは、町の城壁の外側に位置し、スペインの銃口の射程内

にあった。 反乱の兆候があった時には、大勢が虐殺され、

あるいは、国外追放となった。

 

Parianは、スペイン時代は、マニラの中の中国人街であった。

それは、フィリピンの歴史の中で著しい役割を演じた。

元々、Parianはパシグ川の南の土手にあって、サント・ドミンゴ

教会の近くにあった。 

 

(中略)

 

Parianはマニラにおけるビジネス・ライフの中枢部であった。

毎朝、町のゲートが開けられると、スペイン人とフィリピン人が

城塞の町(イントラムロス)から流れ出て来て、Parian

買い物にやってきた。 Parianでは、何百もの店があって、

Cathay(中国)の製品が売られ、すべての交易の優秀な職人

が価格のためなら何でもやる用意があった。

Parianは」と司教のDomingo de Salazarが1590年に

王宛てに、「町を美しく飾っており、閣下に対して

スペインの良く知られた町あるいはこの地域にも、

この町ほど観る価値がある場所は、他にはありませんと、

ためらうことなく申し上げます: なぜなら、この中では、

中国のすべての交易を見ることができるからです・・・

全ての交易と工芸品の職人たち・・・医者と薬屋、・・・

また、多くの食堂があって、中国人とフィリピン人が食事を

しています; それに、スペイン人ですら常連がいると

聞いております。」と書き送っているのです。

 

 

 

=== スペインが この時点で、どの程度中国のことを

    知っていたのか分かりませんが、

    中国本土の王宮周辺を見たらなんと言ったんでしょうね。

    昔昔から、中国人は商売が上手かったんですねえ。

 

    陶磁器やらなんやら、日本も中国や朝鮮半島から多くを学んで

    いたわけですし、陶工を日本へ連れて来ちゃったり

    のしていたんですもんねえ・・・秀吉の時代かな?

 

    そういう人たちが、北部九州なんかのあちこちに

    窯をつくって、伊万里焼き(有田焼き)、三川内焼きとか

    今の有名ブランドになったんでしょうね。

    そういう技術の歴史というのはフィリピンには残って

    いないんですかねえ・・・

有田焼き:

http://dictionary.goo.ne.jp/jn/7545/meaning/m0u/

鍋島焼き:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8D%8B%E5%B3%B6%E7%84%BC

 

=== シリーズ 77 に続く ===

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 75  倭寇・林鳳、マニラを襲撃

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

Img_3310

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

 

p161

 

「中国との交易」

 

レガスピ(初代のスペインの総督)及びその後継者は

中国―フィリピンの交易に好意的であったので、

多くのジャンク帆船の貿易船が毎年中国からフィリピンに

やってきた。

毎年3月に、マニラ湾には、およそ30から40隻の

ジャンク帆船が停泊したと記録されている。

それらのジャンク船は、絹織物、磁器製品、生きた鶏

などをもたらした。 これらの品々は、Parianに移送

され、そこでフィリピン人やスペイン人に売られた。

 

=== このParianについては、こちらで:

https://en.wikipedia.org/wiki/Pari%C3%A1n_(Manila)

 

Parian or Pantin, historic name Parian de Arroceros (Arroceros: cultivators of rice, Spanish) was an area adjacent to Intramuros built to house Chinese merchants in Manila in the 16th and 17th centuries during the Spanish occupation of The Philippines.[1] The

イントラムロスのすぐ隣にあったようです。

 

 

p161

 

中国人商人はそれらの商品の代金として銀貨(メキシコ・ペソ)を

受け取った。 中国では金よりも銀の方が価値があったので、

彼らはこの銀貨の方が良かったのだ。

中国人のジャンク帆船は、5月の終わり頃に、安全に中国に

帰れるよう、台風の季節を避けて、マニラ湾を出港した。

 

 

「中国人はどのようにして Sangleysと呼ばれるようになったのか」

スペイン時代に中国人は Sangleysと呼ばれた。

この言葉は、xiang と leyからの造語である; このふたつ

の言葉の連結した意味は “travelling merchant”(旅の商人)

である。 初期のスペイン人が、マニラで中国人貿易商に

お前たちは誰だと質問したところ、中国人は“Xiangley”と

答えたのだ。 中国語を知らなかったスペイン人は、それが

中国人の国を示す言葉だと思い、全ての中国人に Sangleyという

名前を適用してしまった。

 

 

LimAhHongの侵略(1574-75年)」

フィリピンにおける最初の中国人のスペイン人に対する

脅威は、有名な中国人海賊LimAhHong林鳳(りんぽう

による侵略であった。

皇帝によって無法者とされ、王国を探して、

1574年11月19日に、62隻の戦闘用ジュンク帆船、

2,000人の兵士、2,000人の船員、1,500人の

女たち、多くの職人、そして、農業や家事の道具の積載物

とともに、林鳳はマニラ湾に現れた。

その夜、林鳳は、彼の日本人副官であるSiocoの下に

600人の軍を、パラニャーケ海岸に上陸させた。

 

翌朝、セント・アンドリューの日である11月30日に、

SiocoBagumbayan(城壁の外)を攻撃し、年老いた

Martin de Goiti大将を殺害し、マニラの町を急襲した。

スペインの防衛隊は、フィリピン人に助けられ、攻撃を

はねつけ、侵略者を彼らの船に押し戻した。

林鳳は、初戦の敗退に臆することなく、第二次の

さらに強力な攻撃を準備した。

 

 

Salcedoによって救われたマニラ」

一方、ビガンにいて、中国人の侵略を通報された

Juan de Salcedoは、マニラに到着した。

彼の戦闘力が、脅かされている町には必須であったため、

Lavezaris総督と民衆は彼の到着に大喜びした。

Salcedoは、Goitiの後継として、大将に任命された。

 

 

 

p162

 

12月3日、林鳳自身が第二次のマニラ攻撃を指揮した。

中国人の一群が町の城壁に突進した。 中国人の船団が

両側で圧倒的な砲兵隊で掃射した。すぐにマニラは炎上した。

Salcedoの指揮に鼓舞され、フィリピン人もスペイン人も、

勇ましく戦い、侵略者を押し返した。

Siocoは戦死した。 マニラ攻略の意図をくじかれ、林鳳は

船団と兵士をパンガシナンに向かって北方へ撤退させた。

彼は、アグノ川の河口に入植地を築いた。

 

 

「林鳳の侵略の失敗」 

林鳳をフィリピンの土地から追い払う為、1,500人の

フィリピン人と250人のスペイン人の派遣部隊が、1575年

3月22日に、Salcedo大将の指揮の下、マニラから出港した。

(中略)

 

Salcedoは、林鳳の船団をリンガエン湾で撃破した。

彼は、海賊の入植地を急襲したが、奪うことはできなかった。

Salcedoは入植地を包囲し、侵略者を兵糧攻めにして投降する

ことを待った。

 

包囲作戦の間に、林鳳は船を作り、マングローブの沼地から海

へ抜ける水路を掘った。 8月3日の夕刻、暗闇に紛れて、

林鳳はスペインの包囲網をくぐり抜け逃走した。

後に残された彼らの何人かは、高地へ逃げ込み、イゴロットや

Tinggianと混じることとなった。

 

 

=== イゴロットはバギオ市周辺から奥の山岳地帯の

    山岳民族の総称です。

民族名Tinggianについてはこちらでどうぞ。

http://class.csueastbay.edu/anthropologymuseum/virtmus/Philippines/Peoples/Tinggian.htm

I-tineg means "people living near the Tineg river,"と書いてありますので、

Tineg川の近くに住んでいた民族のようです。

イロコス地域で、イロカノ語圏のようです。

 

 

逃走した後、林鳳は、中国へ帰り、そこで、彼の軍隊を

再組織して、新しい船団を集めた。

中国福建省の総督が、Palahoanの海戦で林鳳を破った。

林鳳はタイへと逃げたが、タイでの滞在は許可されなかった。

彼は、他の王国へも行ったが、どの国も中国を恐れて

林鳳を歓迎しなかった。

追放者として、林鳳はあちこちと放浪することとなった ――

そして、歴史の中から忘れ去られてしまった。

 

 

 

 

=== 林鳳のこの侵略については、こちらのサイトで

    ことのあらましが書かれています:

http://gold.natsu.gs/WG/ST/248/st248.html

 

1574: コンキスタドール vs. 倭寇

1516世紀にかけて、中国明王朝の沿岸は「倭寇」と呼ばれる海賊が荒らしまわっていた。
 
倭寇の「倭」は日本を意味するものの、海賊は日本人、中国人、朝鮮人、シャム人(タイ人)らによるもので、中でも林鳳(Li Ma Hong)16世紀でもっとも有名な倭寇のひとりである。」

 

日本人副官Siocoってのはどこから来たんでしょうねえ。

それに、1,500人の女たちも一緒だったというのは

家族も一緒に来たということなんでしょうか。

政治的難民だったのか、経済的難民だったのか・・・・

興味は尽きませんね。

 

 

=== そして、その末路は・・・・

「スペイン人は、林鳳らの粗末な船では南シナ海を横断できず、全員死亡したと考えていたが、林鳳は中国湾岸に戻っていた。そこでも200隻の明軍に追われ、1576年に林鳳はシャムに逃れる。そこで林鳳は財宝と引き換えに保護を求めるがシャム王はこれを拒否、その後の林鳳の足跡は、いかなる文献にも残されていない。」

 

・・・・どこにも受け入れてくれるところは無かったんですねえ。

どうしちゃったんだろう・・・

 

 

=== シリーズ 76 に続く ===

 

 

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2016年1月10日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 74  マニラのイスラム王国に中国人移民がいた

 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

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12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

第十二章 中国および日本との関係

 

 

さあ、十一章の「フィリピンのイスラム」をすっ飛ばしまして、

いよいよ日本との関係に関する章に突入します。

 

 

p160

 

中国および日本との関係は、マゼラン以前に始まり、

スペイン時代にも続いた。

スペインの統治の当初には、スペイン当局は中国及び日本との

親善・友好を推進した。 それは、価値のある経済的サービスと

マニラの有利な貿易を保護する為であった。

しかしながら、不信と疑念がスペインの方針を台無しにして

しまった。 しばしば、フィリピンは中国人や日本人の反乱に

揺さぶられ、それを鎮圧するために多くの人命と財産の被害

を被ったからである。

 

 

「初めての 中国とスペインの接触」

 

1521年という早い時期に、マゼランは中国人貿易商

によってもたらされた中国の陶磁器を見つけた。

彼らは、マゼランがフィリピンの海岸に到着する

随分前からフィリピンにやって来ていたのだ。

マゼランは実際に中国の磁器とゴング(ドラ)をMasao

セブで見たのだが、中国人貿易商には会わなかった。

 

初めて中国人とスペイン人が出会ったという記録は

1570年5月8日で、ミンドロ島の海岸の沖であった。

その日Martin de Goiti大将に率いられたスペインの派遣軍

が、Maynilad(マニラ)に行く途中にたまたまミンドロ島に立ち寄った。

その時、二隻の中国貿易のジャンク帆船がミンドロ島沖に停泊

していた。

その中国人貿易商は、近づいてくるスペイン船が攻撃してくる

と思い、ロケットやカルバリン砲(銃)で抵抗した。

海戦となり、Goitiはその二隻の中国船を捕獲した。

 

その中国人たちが敵意のあるものではあなく、平和的な貿易商で

あることが分かると、Goitiは彼らを釈放し、貿易品の積み荷を

返却した。

その出来事があってから、Goitiは Mayniladへと進み、

Raha Sulaymanとその軍隊との激しい戦闘の末、マニラを占領した。

この占領された町―王国で、Goitiは 地元の女たちと結婚して

いる40人の中国人移民を発見した。

 

次の年(1571年); レガスピは何の抵抗もなく

マニラを占領し、スペインの町として再建し、中国との貿易を

歓迎した。 この時には、レガスピは、150人の中国人

見ることとなった。

 

=== Raha Sulaymanは、スペインが来るまでは

    マニラ周辺のイスラムの王国を統治していたようです。

https://en.wikipedia.org/wiki/Rajah_Sulayman

 

Sulayman I is the ruler of the united kingdoms of Manila.He was the kingdom's second to the last indigenous ruler (Lakan Banao Dula is the last), as the state was absorbed into the Spanish Empire during the latter's conquest of Luzon and the archipelago.

 

同じく、マニラ占領についても書いてあります:

Goiti anchored at Cavite and established his authority by sending a "message of friendship" to the states surrounding the Pasig River. Rajah Sulayman, who had been ceded authority over their settlements by his aging uncle Rajah Matanda, was willing to accept the "friendship" that the Spaniards were offering, but did not want to submit his sovereignty unto them, and waged war against them due to disputes and hostility. As a result, Goiti and his army attacked the Islamic kingdoms in June 1570 and occupied their settlements before returning to Panay.[6]

 

 

マニラの歴史については、こちらのサイトにあります:

https://en.wikipedia.org/wiki/History_of_Manila

 

The history of Manila begins around 65,000 B.C. the time the Callao Man first settled in the Philippines

なんと、マニラの歴史は 紀元前6万5千年も遡るそうです・・・

 

the earliest recorded History of Manila, the capital of the Philippines, dates back to the year 900 AD as recorded in the Laguna Copperplate Inscription.

記録に残っているものとしては紀元後900年だそうです。

 

the city became known by the name given to it by its Tagalog inhabitants, Maynila, based on the nilad plant, a flowering mangrove plant that grew on the marshy shores of the Manila Bay.[1]

マニラという名前の由来が書いてあります。

 

=== イスラム王国があったマニラに、スペインが突然

    現れて、キリスト教の拠点都市に変わっていったわけですね。

    フィリピンにイスラム教が伝わったのは14世紀となっています。

https://en.wikipedia.org/wiki/Islam_in_the_Philippines

 

Islam was introduced by Chinese Muslims, Indian Muslims, and Persians. Islamic provinces founded in the Philippines included the Sultanate of Maguindanao, Sultanate of Sulu, Sultanate of Lanao and other parts of the southern Philippines.

 

・・・これを見ると、中国人ムスリム、インド人ムスリム、そして

ペルシャ人のムスリムが フィリピンにイスラム教をもたらした

ということになっていますね。

この意味でも、中国との関係があったという話です。

 

 

=== こちらの日本語のwikipediaにもフィリピンのイスラム教

    に関する情報があるんですが、一部に変な記述が

    あるので、あまり信用しない方が良いかも。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%A9%E3%83%A0%E6%95%99

 

それでも、このサイトでちょっと興味を引くのは、こちらの記事:

しかしながら、ヴィサヤ諸島はヒンドゥー教や仏教が非常に強く、イスラム教に対しては少なからぬ抵抗を示した。ミンダナオ地域出身のムスリム海賊が海域を荒らし回ったことにより、経済的、政治的危機がもたらされたためである。これらの頻繁な攻撃を通して、海賊が略奪を行えない程ヴィサヤ諸島民の結束力が固くなってゆく[5][6]。」

 

インドあたりから、ヒンデゥーや仏教もすでに入っていたんですね。

 

 

 

=== シリーズ 75 に続きます ===

 

 

 

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橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読む 06 イスラム国はソビエト連邦になる?

橋爪大三郎x佐藤優「あぶない一神教」を読みながら、
気になったところや、印象に残ったところに、私の感想を
書き加えています。

「第二章 迷えるイスラム教」

p128

とくにイスラム過激派は死の問題を簡単に迂回できますからね。
・・・彼らは死の問題と向き合っているように思えない。

・・・テロを行なって失敗したらシャヒード(殉教者)になって、
天国で72人の処女と楽しく過ごせる。
もし生き残って戦闘に勝利した場合は地域の支配を任されて、
現実の世界で力を誇示できる。

・・・しかし見逃せない点は、オウム真理教の行動や考えの
根拠となるような仏教のテキストはなかったが、
「イスラム国」は正統なイスラムの法学、哲学、神学を
踏まえていること。

p130

キリスト教世界からるすと、後藤さんの死の問題は日本人が
殺されたことだけではなく、同胞であるキリスト教徒が
殺されたことにあります。
これが、「イスラム国」の狙いです。
戦いをキリスト教対イスラム教の対立として拡大して
いきたい。

p133

対話相手のイスラムの穏健派が「テロ行為をする過激派
がいると、私達のイスラム教が世界から敵視されてしまう。
そうならないためにも過激派を抑えなければ」と考える
ように誘導していく。 ヴァチカンは「イスラム教を
信じるのは勝手だけど、俺たちが許容できる範囲で
やってね」と暗に言っているわけです。

p134

現実政治もヴァチカンと同じ発想で動いています。
いま、アメリカやヨーロッパはイスラムとの併存を否定し、
棲み分け、封じ込める方向に進んでいます。

p134

国を守るためなら、非合法な潜入活動や暗殺も必要だと
10年もかけて国民にすりこんだ。
こういう宣伝戦略がすごい。 ヨーロッパの雰囲気を
先取りしていると思いますよ。

=== 死に対する考え方は、日本人と比べて
    イスラムの場合はどうなんでしょうね。
    日本人だったら、戦中は、死んでどうなると
    いうよりも、一応建前はお国の為、家族の為、
    子供の為、あるいは純粋に八紘一宇の為などが
    あったのでしょうね。
    そして、「靖国で会おう」と言った。
    
    ヴァチカンの考えというのが上に書かれていますが、
    私なんかも、イスラム過激派のことはイスラム世界の
    中でなんとか収められないものかなと思います。

    棲み分けについては、先日もNHKでやって
    いましたけど、なかなか難しい問題があるよう
    ですね。
    日本のような島国であれば、まだ同化ということも
    可能なのかもしれませんが、大陸となると
    大規模な移民が実際起こっていますしねえ。

p137

ひとつ目は「イスラム国」の勝利
我々日本人もムスリムになる。 お酒を飲まずに、
モスクに通ってアラビア語で会話する。
そうなれば、全世界がウンマに包括されるので、日本という
国家も日本国民もいなくなる。

二つ目は、「イスラム国」の解体
いうまでもなくこのシナリオがベストです。

三つ目が、「イスラム国」のソビエト連邦化です。
・・・「イスラム国」が事実上の国家として成立すれば、
世界中でイスラム革命を輸出しようとする組織が生まれる
可能性があります。
この三つ目のシナリオの可能性が高いと分析する専門家
も多いです。

=== ここにはソビエト連邦の場合は70年ほどの
    話だったけれども、イスラムとなると
    1,000年の歴史があるのだから、
    「桁違いの全世界的な広がりを持ちます」と
    この章を締めくくっています。
    私も、この三つの中で可能性が高いのは
    三つ目じゃないかという気がします。

    そうなれば、中国であろうが、日本であろうが、
    大きな影響を受けることになるでしょうね。
    私は そのころは墓の中だと思いますけど・・・

    しかし、日本人の保守的で集団主義の感性から、
    敢えて キリスト教かイスラム教のどちらに
    なじむかと言えば、おそらくイスラム教の方では
    ないかという気がするんです。

    日本人は、かなり個人主義に染まっているとは
    言われていても、「世間が一番」の共同体意識
    が強いように感じるからです。
    民主主義も根付いていないし・・・・

・・・さて、これで 第二章は終わりまして、
   次回からは 第三章 キリスト教の限界 に入ります。

=== その7 に続く ===

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