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2016年1月22日 (金)

学園都市バギオで 日本人の若者が 「学食経営」?に参入

日本人がフィリピンで商売をやるのはなかなか難しいことだと思うんですが、最近は日本人の若者が果敢に挑戦するケースも出て来ているようです。

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ここは、学園都市バギオの中でも トップの優秀校と誉れの高いセント・ルイス大学、バカケン・キャンパスのすぐ近くにある いわゆるキャンティーン。

まあ、民間の学食みたいなところ。

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中に入ると、中心にテーブルや椅子がたくさん並んで、いくつかのお店がそれを取り囲むように営業しています。

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大学生たちは、その日のお小遣いの具合と、お腹の具合、気分に合わせて、いろんなものを選んで食べることが出来るわけです。

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その、低価格で、競争の激しい中に、こんな日本食のお店が参戦。

その名も 「富士虎」 Fuji Tora ・・・です。

聞くところによれば、平均的な大学生の一日のお小遣いは100ペソ(約250円)ぐらいだそうで・・・

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お昼御飯に使えるお金は 40~50ペソ(100円)ぐらいなんだそうです。

普通なら、日本食レストランともなると、200ペソ、300ペソは当たり前のところ、学食レベルとなれば、かなりの工夫と努力が必要みたいなんです。

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・・で、このお店の 若い日本人経営者が絞り出したお値段がこれです・・・

お好み焼き、ラーメン、そして当然のようにビールを注文しまして、いただきました。

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・・・お好み焼きはなかなかのもの。

・・・ラーメンは かなり工夫しているようでした。

(まあ、味音痴の私が言う事ですけどね・・・笑)

それにしても、貧乏大学生のために、ここまで頑張っている日本人は偉い!!

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経営は厳しいと思いますが、是非頑張って、日本の料理を学生たちに提供していってもらいたいと思います。

ある日本人の長老いわく・・・

このお店だったら 料金を心配しないで どんどん注文できるよなあ~~。

確かに、おっしゃる通りです。

 

 

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2016年1月21日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 84 英国による侵略・ヨーロッパの七年戦争

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

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さて、日本との関係は一旦終わりまして、

今日からは英国との関係に入ります。

31章まである この教科書の、やっと13章なんです。

先が思いやられます。

まともに全部翻訳をすると、ヨーロッパの歴史みたいに

なっちゃいそうなので、フィリピンに関係の深いところだけ

つまみ食いします。

 

 

13 THE BRITISH INVATION

「第十三章 英国による侵略」

 

 

p171

 

スペインによる征服の後にやってきた最初の成功した外国

による侵略は英国によるもので、1762年から1764

まで、英国のマニラ占領という結果になった。

マニラの外では、英国は前進できなかった。

それは、闘う法律家である Simon de Andaが、

愛国的聖職者や忠誠を誓うフィリピン人達の支援を得て、

英雄的な抵抗によって、地方におけるスペイン体制を

維持したからである。

 

=== 英国もフィリピンを狙って、占領したっていうのは

    日本の世界史の授業じゃあ、勉強することもない

    でしょうね。

    フィリピンは、スペイン、英国、アメリカ、日本と

    次々に侵略を受けてきた国なんですねえ。

    その間、日本は鎖国を謳歌していた。

 

 

「英国による初期のフィリピン植民地化計画」

 

 

1762年の英国による侵略よりもずっと前に、フィリピンが

東洋の中において戦略的な地理的位置にあり、天然資源が豊富

であるという理由で、フィリピンを植民地化するという 

ある英国の帝国建設者たちの計画があったということを記する

ことは興味深いことである。

それは、例えば、帝国主義の熱心な主唱者であり英国の東インド会社

のエージェントであったAlexander Dalrymple(1737-1808年)

の壮大な妄想である。

 

アレクサンダー・ダリンプルについては、こちらのサイトで:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%80%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%97%E3%83%AB

 

1779年から東インド会社のために水路学者として働き、多くの水路図を作成し、後にイギリス海軍最初の水路学者となった。」

 

 

p171

彼が東南アジアの海を調査の船旅をして、1759年にマニラを

訪問した後、彼は友人の東インド会社のマドラス評議会の長官に

有望な中国交易における拠点として、スールーのイスラム教

君主国に足場を獲得することの必要性を提案した。

その後、彼は「南フィリピンの征服の為の遠征隊計画」を

著し、英国政府に送っている。

 

 

(中略)

 

p171

 

「スペインと英国の戦争の勃発」

 

18世紀における世界植民地化のふたつの伝統的ライバル

であるスペインと英国が、荒れ狂うヨーロッパでの

七年戦争に突入した。

 

(中略)

 

p172

 

フランスの敵である国王ジョージ三世は、1762年1月

2日に、スペインに対して宣戦布告し、アメリカと東洋

のスペインの植民地を攻撃するために、遠征軍を準備した。

 

七年戦争については、こちら:

http://www.y-history.net/appendix/wh1001-122.html

 

 

=== フィリピンは植民地であったために、

    ヨーロッパ列強の植民地争いに巻き込まれて

    いったわけですね。

    まあ、日本の、なんとも平和なことよ。

    平和ボケってのは、徳川時代からの日本人

    のDNAに刻まれた特徴なんでしょうかねえ。

    明治維新で大逆転しますけど・・・

 

 

=== シリーズ 85 に続きます ===

 

 

 

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2016年1月20日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 83  日本人キリシタンの出エジプト

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

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(これは、随分ふる~~い 日本の高校の歴史教科書です・・・)

p169

「日本人クリスチャンの出エジプト(国外退去)」

フィリピンに落ち着いた日本人移民の多くは、キリシタンであった。

彼らは、キリスト教信仰のゆえに母国から追放されたのだ。 

1614年に高山右近に率いられたグループとは別に、

もっと多くの迫害された日本人キリシタンが、その後にも

マニラに到着した。1632年に、日本当局は、船一隻のらい病

患者の人びとをマニラへ送った。これらのらい病患者は、

フランシスコ会の修道士たちの下に置かれ、San Lazaro

病院でよく世話をされた。 

=== 日本の教科書には「国外追放」までは書いてあったと

    思うんですが、その行く先がフィリピンだというような

    ことは書いてなかったような気がします。

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これは古い日本史の教科書なんですが、本文には「国外追放」としか書いてありませんね。

 

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しかし、脚注には、高山右近についてはマニラと書いてあります。

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ポルトガル人が「日本人を奴隷として輸出」・・・ひどいですねえ。

秀吉は、大名にはキリスト教を禁止したけど、一般人には禁じていないんだ。

=== 1632年に「らい病患者をマニラに送った」って

    いうのは徳川家光の時代なんですね。

    もしかして、このらい病患者というのも、キリシタン

    だったんでしょうか。 

p169 

「日本人移民の増加と減少」 

前述のとおり、1570年に、Goiti元帥はマニラで20人

日本人を発見した。 1592年、秀吉の侵略の脅威があった

時には、フィリピンに300人の日本人居住者がいた。

日本でのキリスト教徒の迫害と排斥にともない、マニラには

次々に日本人が落ち着くことになった。

1619年、日本人の人口は2,000人に達し、1612年

には、この数字は3,000人に増え、スペイン時代では

最高の記録となった。 

=== ああ、ここでも編集がきっちりされていませんね。

    1612年じゃなくて、1621年でしょうね。 

1639年、将軍家光による鎖国によって、フィリピンへの

日本人移民は停止した。

これにより、日本人の人口は、次第に減少した。

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日本史の教科書に書かれた鎖国の年表。 

p170 

「フィリピン-日本関係の再開」 

1853年、アメリカの小艦隊を率いた Matthew C. Perry

が、日本を世界に開いた。 その結果として、フィリピン-日本

の関係も再開した。 1857年、日本の経済派遣団が

マニラを訪れ、比日間の貿易を推進した。

日本の領事館は1889年に設置された。

 

フィリピン人の愛国者たちは、スペイン当局によって迫害され、

日本へ逃亡し、日本で歓迎された。

日露戦争(1894-95年)における日本の勝利は、

西欧の帝国主義勢力によって植民地の奴隷とされた全ての

アジアの人びとが称賛した。

特に、スペインの過酷な法律の下に苦しんでいたフィリピン人は

やがてやって来る解放の闘争における援助を期待して

日本を見上げた。 

==== 1889年に領事館が開かれたとなっているん

     ですが、これはすぐに閉鎖されちゃったんですよねえ。

http://blog.livedoor.jp/onda_mfg_2010/archives/4150149.html

1889(明治20)年、たった2人の在留日本人が記録されております。1897(明治30)年、16人。1902(明治35)年900人。

1888年(明治21)年に、当時スペイン領フィリピンに、初の日本領事館が開設されました。しかし、在留日本人が少なすぎたため、一時閉鎖されるほどでした。また、当時の在留日本人の半数以上は、女性でした。これは、「からゆきさん」といわれた娼婦たちです。」

 

・・・別の本を読んだんですが、どうもこのスペイン時代の末期

   には、経済的には盛り上がらなかったようで、

   アメリカ時代になってから良くなったようです。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-8c54.html

早瀬 晋三 著
 
「フィリピン近現代史のなかの日本人 植民地社会の形成と移民・商品」

 

p71

フィリピンでは、1898年のアメリカ領有後、駐留するアメリカ軍の強い要望で
 
1902年から増加し、20年の廃娼まで 全国津々浦々に少なくとも
 
合計300-400人がいた. 

p75
2 外交官

マニラに日本領事館が開設されたのは1888年12月29日のことであった.
その目的は、通商拡大、貿易促進、移民の導入であった.

93年9月13日から96年10月26日の再開館まで、領事館は一時閉鎖
に追い込まれた.

フィリピンでは、本国アメリカの移民法を遵守して、「契約移民」は禁じられていた.

「からゆきさん」も、「ベンゲット移民」も、ダバオのアバカ栽培者も、すべて
フィリピンでは「不法外国人労働者」であった.

 

=== 徳川家光の頃から、いきなり「ペリーの来航」に

    話が飛んだんで、いささかびっくりですが、

    まあ、そんだけ空白の時代があったってことですね。

    そして、スペイン時代の末期から、アメリカ時代に

    切り替わって、日本人がフィリピンへ海外出稼ぎに

    やって来た。

 

    そして、例のバギオへの山岳道路、

    ケノン道路建設のための、日本人移民というか

    海外出稼ぎがやって来る。

 

=== シリーズ 84 に続く ===

 

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2016年1月18日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 82  高山右近の日本人町 サン・ミゲール

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

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p168

 

「1回目の日本人の反乱(1606年)」

 

最初の日本人の反乱は1606年に発生したが、この時

総督Acunaはモルッカ諸島での戦いに出て、不在だった。

王立大審問院が日本人をフィリピンから追放するという

命令に激怒したのだった。

ちょうどそのマニラの緊迫した状況の中で、スペイン人が

喧嘩をして、たまたま日本人を殺してしまった。

直ちに、日本人居住者たちは、同胞の仇を討つために、

急いで武器を取った。

フランシスコ会の修道士たちが、1500人の武装した

日本人を説得した為、実際の戦闘行為は防がれた。

スペイン人たちは、日本人がその反乱を拡大しなかった

ことに感謝した。 MORGA博士は、「もしこの時点で

日本人たちが暴発していたら、スペインはひどくやっていた

だろう」と述べている。

 

 

「2回目の反乱(1607年)」

 1607年にスペイン当局から出された、日本人はすべて

マニラの郊外で働くように強制する、独断的な命令が、

日本人を反乱に向かわせた。

今度は、実際の戦闘がおこった。

フィリピンースペイン軍は、町の城塞の外にある日本人町

Dilaoを攻撃し、激しい戦闘の末に、反乱軍を鎮圧した。

日本人町は、強奪され、焼き落とされた。

 

=== 以上ふたつのケースが掲載されていますが、

    どのような日本人がいて、どんな人物がリーダー

    として反乱軍を率いたのか、気になりますね。

 

    この時期のスペインの方針はどういうものだったのか。

    おそらく日本でのキリシタンへの弾圧にも

    関係があるんでしょうね。

 

年表を見てみますと:

日本でのキリスト教関係では・・・

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%B9%B4%E8%A1%A8

 

フィリピンの年表は・・・

http://pichori.net/Philippines/history/philipino_chronology.html

1584年、パンパンガ地方でエンコメンデーロに対する反乱

1589年、カガヤン地方イロコス地方で貢税制度に対する反乱

1596年、秀吉のキリシタン弾圧により、ペドロ・バウチスタ神父が殉教。

1599年、マリベレスの海戦。オランダのフィリピン攻撃始まる。

1600年、初めての中国人反乱

1601年、マニラで最初の中国人(華僑)反乱

1606年、カガヤン地方反乱起こる。

1610年、マニラで日本人が追放命令に抗議して反乱

 同年、日本を追放されたキリシタン大名、高山右近の一行がマニラに到着。

1620年、カガヤン地方で反乱

1621年、マニラの日本人人口、3000に達する(鎖国後、減少)

1622年、再び、オランダ・スペイン海戦

  • 1622 長崎西坂で55名のキリシタンが処刑される(元和の大殉教)。
  • 1629 長崎でキリシタン弾圧のために、踏絵がはじめて行われる。
  • 1637 長崎、熊本で島原の乱

 

=== 以上の年表を見ると、この時期、スペインは 国の内外で

    中国人、日本人、フィリピン人の反乱、対外的戦争、

キリスト教への日本の抑圧などなど、いろんな

問題を抱えていたんですね。 

    1621年現在で、3千人の日本人がいて、

    その後は、日本の鎖国などで減少する。

    高山右近もすぐに死んでしまったそうだし・・・

 

p168 

「マニラにおける二つの日本人町」 

スペイン時代には、マニラに、ふたつの日本人町があった。

それは、Dilaoとサン・ミゲールにあった。

ディラオの日本人町は、初の日本人町であり、1592年

作られ、その年には、秀吉がマニラに侵攻すると脅していた。

安全対策として、Dasmarinas知事は、Binondo、トンド、

キアポ、サンタ・クルズ、そしてその他の都市部の町に

散らばっていた日本人居住者を寄せ集めて、ディラオと呼ばれる

町に住まわせ、そこを日本人町とした。

その名前は、タガログ人がディラオ(「黄色」の意味)と

呼んだ自生の灌木の名前が語源であった。

この灌木から、タガログ人は染物用の黄色い染料を

抽出していたのだ。

 

=== スペイン人の気持ちも分からんではないですね。

    秀吉が侵略してくるって言っていたわけだし。

 

    ところで、

    タガログ人が日本人を「黄色」と呼んだってのに

    違和感を持つ人はいませんか?

    同じアジア人なんだから、フィリピン人にしたって

    黄色だろう、って思いませんか?

    ところが、です。 フィリピンの出生証明書なんか

    には、肌の色を書く欄がありまして、

    そこには、ほとんどのフィリピン人がBROWNって

    書くんですねえ。

    日本人が持つBROWNの意味としては、茶色とか褐色

    ですよね。

    普通、日本の学校で習うのは、白色人種、黄色人種、

    黒色人種ぐらいなんですが、茶色人種とか褐色人種

    ってのはまず見ることはないですからね・・・

 

p168

このディラオの日本人町は、現在のマニラ市パコ

プラザ・ディラオに位置していた。

日本人居住者たちは、家や店を建て、フランシスコ会の

宣教師たちの精神的保護の下に残った。

その居留地は、1767年まで存在したが、その年には

最後の日本人居住者70名が日本へ戻った。

 

p169

二つ目の日本人町は、サン・ミゲールと呼ばれ、

Juan de Silva知事によって1615年に創られた。

ここでは、300人以上のクリスチャンの日本人国外追放者

たちが住み、有名な高山右近とその家族、そして、

日本の貴族の人びとも含まれていた。

この町は、当初は、ディラオに隣接した、パシグ川の

南側の川岸に造られていた。

=== 高山右近の記念碑については、こちらのサイトでどうぞ:

プラダデラオ比日友好公園」

http://www.coco.ph/basic-information/history/179-justo-ukon-takayama-statue-in-the-philippines.html

・・・ここでは、Dilaoが「デラオ」と書いてあります。

   iとeの発音がフィリピンでは逆転することが多いので、

   「ディラオ」なのか「デラオ」なのか、はたまた「ダイラオ」なのか・・・

 

 

 

サン・ミゲールの日本人町は、イエズス会の神父たちの

精神的保護の下にあって、神父の幾人かは、日本での

宣教師であった。

この日本人町は長くは続かなかった。 それは、彼らの

後には、マニラに来るクリスチャンの日本人移民は

続かなかったからである。

なぜなら、将軍徳川家康が世界への日本の扉を閉じた

からであった。

若い冒険心のある日本人居住者の何人かは、高山右近の

孫息子も含めて、秘密裏に日本へ戻った。

その他の居住者は、次から次に死んでいった。

1656年から間もなく、サン・ミゲールの最後の2~3人

の居住者が死んでしまった。

この時までに、サン・ミゲールは、もはや日本人町では

なくなり、フィリピン人と何人かの日系フィリピン人の

町となっていた。 このようにして、二つ目の日本人町

サン・ミゲールは、時の風とともに消滅した。

 

 

=== シリーズ77のページで、インターネット検索した

    ところ、以下のように書いてあり、日本人町の

    名称が 「マニラのデイオラ地区」と書いてありましたが、

    この教科書では Dilaoとありますから「ディラオ」の

    方が正しいのでしょうね。

 

「在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に

集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)

 

=== それにしても、高山右近と家族などが住んだ

    サン・ミゲールで日本人居住者が次々に死んで

いった、ってのは何か隠された意味でもあるん

ですかねえ・・

    高貴な人たちは、マニラの風土に合わなかった

    とか、生活の糧を得ることができなかったとか・・ 

    ひとつ目の日本人町のディラオの日本人は

    上に「その居留地は、1767年まで存在したが、」

    とありますけど、日系フィリピン人として

    生き残ったのでしょうか・・・

 

=== シリーズ 83 に続く === 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 81  なんと、島原藩の藩主がフィリピン侵攻を企てた。

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

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12 RELATIONS WITH THE CHINESE AND JAPANESE

「第十二章 中国および日本との関係」

 

 

p167

 

「秀吉の予定された侵略」

 

初めての日本からフィリピンに対する脅威は、秀吉による

侵略の計画だった。スペインの東洋における植民地主義の

勃興に恐れを抱き、秀吉は、1592年5月に、マニラへ

原田孫七郎という使節を送った。彼が携えた手紙には、

スペイン当局からの貢物と臣下の礼を要求するもので、

それがなされなければ、フィリピンを侵略するとしていた。

秀吉の脅威の機先を制するため、Perez Dasmarinas総督は

スペインの大使を日本に派遣し、高価な贈り物を持たせ、

貢物と臣下の礼の要求を逃れる丁重な手紙を届けた。

 

スペインの返答に満足しなかった秀吉は、さらに強い調子の

要求を再び書いて、原田喜右衛門(孫七郎の叔父)を派遣した。

もう一人のスペインの大使が、さらに多くの贈り物と

外交文書を持って日本へ渡った。

一時的に、日本の内政および朝鮮との戦いが、秀吉の

注意を逸らすことになった。

 

=== この辺りの流れは、こちらのサイトで

    分かりやすくまとめてあります:

http://www.mex-jpn-amigo.org/doc.id/47fb313c/

1592.7

ルソン総督ゴメス・ペレス・ダスマリーニャスはドミニコ会士のフアン・コポスを派遣、秀吉に書信を返し友好関係樹立を標榜する一方で使節に高い身分を要求する等して時間を稼いだ。また秀吉に贈物を届けた。

他方、日本人来襲を恐れ、在ルソン日本人をマニラのデイオラ地区に集団 居住させる措置を採った。(日本人町の始まり)

 

=== 日本人町の始まりには こういう事情もあった

    んですねえ。

    中国人が一か所に集められていたのと同じ理由ですね。

 

 

 

しかし、1596年、スペインのガレオン船 サン・フェリペ号

おしゃべりな水先案内人が、Tesa(土佐の間違い?)の海岸に座礁

した折に、キリスト教の宣教師たちの助けを得て、スペインが広範囲の

征服を行なったことを吹聴したのである。

このことが、日本におけるスペイン宣教師への秀吉の恐怖心を

煽り、フィリピンへの侵略の軍隊を準備することを加速したのである。

幸運なことに、スペイン人にとって、秀吉は1598年9月

16日に死去した。 彼とともに、フィリピン侵攻の日本の初めての

企ては消滅した。

 

=== Tesaの海岸というのは、土佐沖のことのようです。

    こちらのサイトに詳しい記述があります。

サン=フェリペ号事件(サン=フェリペごうじけん)は、1596に起こった日本土佐国でのスペインガレオン船、サン=フェリペ号漂着事件。豊臣秀吉の唯一のキリスト教徒への直接的迫害(日本二十六聖人殉教)のきっかけとなったとされる。」

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%EF%BC%9D%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%9A%E5%8F%B7%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 

 

・・・ この教科書には、この事件の後に殉教事件が

    起こったことはまだ書いてありません。

    多分、後で出てくるのでしょう。

 

p168

 

「引き続いた日本の侵略計画」

 

後年の何人かの野心をもった大名が、フィリピンに侵攻しよう

という秀吉の企てを蘇らせようとした。

1618年、伊達政宗がそのような冒険心を抱いていた。

しかし、何も起こらなかった。 1630年には、松倉重政

二人の日本人スパイをフィリピインに送りこみ、スペインの防衛を

調査した。 重政はスパイが日本に戻る前に死去した。

1637年、日本のオランダ人がフィリピンを征服するための

船を提供すると申し出たが、徳川将軍家は、スペインとの友好を

望み、もう海外への拡大には興味を持たなかった。

 

 

=== 伊達政宗の名前が出ていますが、

    私の手元にある日本から持ってきた諸々の資料には

    そんな野望があったというような話は出てきません。

    スペインと結託して、徳川を倒そうとしたんじゃ

    ないかというような説は書いてありましたけど。

 

「慶長遣欧使節」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E9%81%A3%E6%AC%A7%E4%BD%BF%E7%AF%80

 

伊達政宗は家康から許可を得て欧州へ使節を派遣することにした。慶長遣欧使節の主目的は仙台藩とスペインの通商交渉であったと言われる(スペインとの軍事同盟、さらにはそれを利用しての倒幕があったとする説もある[2][3]が、この説への反対意見もある)」

・・・フィリピンの教科書の上の一文は、どんな説を元に

   書いてあるんでしょうねえ・・・

=== ちなみに、フィリピンの教科書に書いてある1618年には:

1618年4月2日、迎えのサン・フアン・バウティスタ号でアカプルコを出港。同年8月10日フィリピンマニラに到着。」

・・・つまり、上記の支倉常長のスペイン、ローマへの使節団が日本に帰る途中にフィリピンに立ち寄った時のことを書いているようですね。

 

=== それで、支倉常長がマニラで何をやっていたかってことなんですが、

【マニラの支倉常長】

http://www.geocities.jp/bane2161/hasekuratunenaga.htm

このサイトに少し書いてあるんですが、詳しいことは資料がないようです。

「常長はマニラに立ち寄った時に、イントラムロスのフランシスカ寺院にその滞留地記念標を建立した。」

・・・・ じぇじぇじぇ・・・この記念標って 今でも残っているんでしょうか。

    イントラムロスのフランシスカ寺院に行かなくちゃ。

=== ほお~~。松倉重政ってどんな人?

http://www.shimabarajou.jp/shigemasa-matsukura.html

 

松倉重政(まつくら しげまさ、天正2年(1574年)? - 寛永71116日(16301219日))は戦国時代末期~江戸時代初期の大名。大和五条藩主、肥前日野江(島原藩)藩初代藩主。」

 

・・・なんと、島原藩の藩主じゃないですか。

 

「寛永2年(1625年)に将軍徳川家光にキリシタン対策の甘さを指摘されると発奮し、徹底的な弾圧を開始した。」

・・・かなり、キリシタン弾圧をやってようですね。

 

さらに、キリシタン弾圧への取り組みを幕府に対しアピールするため、キリシタンの根拠地であるルソン(フィリピン)の攻略を幕府に申し出る。家光はじめ幕閣の一部も乗り気になったため、先遣隊を派遣するなどし、遠征準備に取りかかり、そのためのさらなる戦費を領民に課した。 ・・・出兵実施の矢先、重政は寛永7年(1630年)に小浜温泉で急死。

・・・なるほど、日本で学ぶ日本史の教科書には、ここまでは書いていないんでしょうが、さすがに先遣隊がやってきたフィリピン側では、しっかり教科書に書いているわけですね。

それにしても、本人が急死していなければフィリピン侵攻をしていたんでしょうねえ。

 

=== シリーズ 82 に続く ===

 

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2016年1月17日 (日)

やられちゃいました・・・・ 祝 アクセス 333333  !!!

このサイトのアクセスが そろそろ 333333 になるなあ~~、と待ち構えていたんです。

Img_3396

日頃のアクセス数からいって、あと数日は掛りそうだなと思っていたら・・・・

Img_3398

自分で 「333333」を踏もう、写真を撮ろうとおもっていたら・・・

気が付いたら 333369・・・になってしまっていた。

昨日は、ほぼ一日会議で出ていて、夜遅く帰ってきたんで、アクセスをチェックするのが今朝になっちゃって。

・・・それにしても、昨日一日のアクセスが300ぐらいカウントされているってのは、かなり意図的なような気がするなあ・・・

いずれにせよ、毎度 このサイトに立ち寄っていただき、ありがとうございます。

させ たもつ

 

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