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2016年11月12日 (土)

切り替えが速い日本人。 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その9

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
今回から「日本的根本主義(ファンダメンタリズム)について
の章に入ります。

Img_3028



私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。
後から反芻するためのメモみたいなもんです。

p175

戦後のフィリピンの収容所で盛んに使われた言葉に
アタマの切り替え」という面白い言葉があった。
これは簡単にいえば、情況が変化したのだから、その変化に
即応し、その情況に適合するように思考・行動・所作等の
一切合財を改めよということ、情況に対応し、新しい対象
臨在感で把握して回心せよということである。

=== フィリピンの収容所という言葉が出てきたんで
    フィリピン在住の私としては ピリリンリンと
    なっちゃいますねえ。
    日本軍が敗戦時に玉砕か投降かという難しい
    判断を迫られたことは読んだことがありますが、
    この「アタマの切り替え」というのは初めてです。
    もっとも、良く考えてみれば、日本人ってのは
    熱しやすく冷めやすいと言われていますしねえ。
    この本の空気という話の理屈から言えば、
    確かに すぐに回心しちゃうってことは納得です。
    敗戦後に日本が混乱状態にならなかったということ
    自体がそれを証明しているのかもしれないですね。

昨日までの連隊長は、役目が終わって舞台から降りた役者
のように物分かりのよい好々爺となり、にこにこと人びと
に対応してくれるのである。
従って尉官クラスや幹部候補生は、当然のように、すぐさま
普通の市民にもどってしまうわけである。

p176
例外的にそうなれない人間もいたが、そういう人が受けた
のは「アタマの切り替えのできないヤツ」といった嘲笑と
蔑視で、その人はその中で孤立して行くのが普通であった。

=== ここでは、職業軍人と言われていた人までが
    「アタマの切り替え」が早かったという話なので、
    日本人の「情況」把握能力は凄いってことですねえ。
    熱しやすく冷めやすいって意味なんですけど・・・
    良く言えば 集中力が凄い??

p177
人がサルの子孫であると教えたということで裁判沙汰にまで
なった国から見れば、天皇が人間宣言を出さねばならぬ国に
進化論があるはずはないのである。

確かにそう考えれば、進化論を教えるということは
現人神はサルの子孫」と教えることである。

(アメリカ人の)当然の前提が「現人神のいる世界には
進化論はあり得ない」であり、彼にはこの二つが
「平和共存」しうる精神状態が理解できない・・・

捕虜の兵隊の中には宗教学者も民俗学者も哲学者もいるから
その人たちに聞いてくれ・・・・すると今度は彼に、
陸軍一等兵に大学院まで出た学者がいるということが
信じられないのである・・・

==== ここは非常に興味深いところですね。
     一神教で理屈で考える国と理屈では考えない国。
     学歴が軍の階級に反映される国と学歴をあまり
     考慮しない国。
     これで思い出すのは、アメリカやフィリピンの
     学歴アピール社会とでも言う点です。
     フィリピンでは大学院をでれば自分の名前の
     前に必ずドクター(博士)という敬称をつけますが、
     日本ではあまり聞いたことはないですね。

p179

日本には一神教的な神政制は存在しなかった。・・・
先祖伝来はほぼ一貫して汎神論的世界に住んでいた。
この世界には一神論的世界特有の組織的体系的思想は
存在しなかった。

p180

従って日本を民主化して神がかり的超国家主義を消すには、
進化論を講義すればよいという発想になるわけであろう。
・・・・日本人の回心は一に情況への対応できまるから・・・

=== 汎神論というのは単純に多神教と読み替えて
    いいのかと思ったら、そうは問屋がおろしてくれません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%8E%E7%A5%9E%E8%AB%96

    なんですが、まあこの本の流れから言えば、
    単純な私としては、一神教vs多神教、あるいは
    日本独特の八百万の神の対比ととらえれて
    ひとつの絶対化された神から別の神へと
    乗り換えちゃう日本人って感じで受け取ります。
    この敗戦の時ってのは、現人神天皇から民主主義への
    乗り換えでしょうか?

p181

南部バプテストがアメリカを征服する」というこの東部知識人
の反応乃至は危惧といったものは、どこから来るのであろう。
・・・南部バプテストとか、根本主義者(ファンダメンタリスト)
とか、やや差別用語的なニュアンスのある略称ファンディ
(根元屋?)とかいった言葉で彼らが表す「何か」は一体
何なのであろうか?
それがアメリカの”原点”で、・・・

p183
まずカーター(大統領)出現の背景から探ってみよう。
というのは日本は、何らかの点で、どのような表れ方をするに
せよ、アメリカの影響を受けるか、これに触発されるか、
いずれにせよ「そのあとを追っている」国という一面は
否定できず・・・・

=== もし、今の日本にもそういう一面があるとするならば、
    トランプ大統領の後を追いかけるってことも
    ありえる訳ですね。
    人種差別、罵詈雑言、排他主義、孤立主義、などなど。
    すでにアメリカでは ヘイト・スピーチなどが
    一国さらには世界を率いる大統領公認の態度として
    子供たちの世界にも「教育」されちゃったみたい
    ですからねえ。
    もう、私は、アメリカをリスペクト出来なくなりそうです。

p183

根本主義とは何なのか
これは日本人にとって最も理解しにくく、従って「目をつむって
避けてしまう」プロテスタントの一面であり、・・・
日本で知られているその一面は、・・・進化論裁判、すなわち、
「聖書の教えに反するから進化論を講ずることを州法で
禁止する」といった考え方が出る主義ということである。

p184
一言にしていえば、最も強固かつ保守的なプロテスタンティズム
の信奉者だといえる。 それが”ファンディ”という言葉の
もつニュアンスであろう。

p185
いわば聖書を絶対の権威として、地上における神の代理人
ローマ教皇の絶対的権威に対抗したわけであり・・・

=== 根本主義って最近のイスラムの原理主義とは
    違う概念なの? で、検索すると・・・
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%90%86%E4%B8%BB%E7%BE%A9

「原理主義(げんりしゅぎ)は英語の「fundamentalism」(ファンダ
メンタリズム)の日本語訳である。キリスト教の文脈においては
「根本主義」と呼称されることが多い。」

・・・ってことで、同じ意味でした。
イスラム原理主義ってのは、後発の言葉なんですね。

・・・・・・

では、その10 で、この根本主義、原理主義をお勉強しましょう。

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仏像がしゃべる。 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その8

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
「水=通常性」の研究 の章の最後です。

Img_3021

私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。

p150

・・・これは軍人そのものの性格ではない。
日本陸軍を貫いている或る何かの力が軍人にこうした組織や
行動をとらしめているのだ。

日本は、実にふしぎな国である。 研究室または実験室で
あるデータが出ると、それを追求するよりも早く、何かの力
がそれに作用する・・・

=== 上記の上の文章はルソン島で技術者として戦争に
    参加した民間人、下の文章はスイスの製薬会社の
    社員の言葉として取り上げられている。
    「何かの力」が日本人の上に作用しているという
    点で同じ文章。

p151

たしかに、一つのデータ、現象、事件に、日本ではすぐ
何かの力」が作用する。 マスコミがとびつく。
そして大きな渦となり誇大に宣伝され、世論となる。
そのデータや事件とは、全く無関係なところまでひろがって
しまう。 これも日本人の過熱性だろうか。

p155

明示のはじめ、多くの日本人は非常に面白い言葉を口に
した。「われわれには歴史がない。われわれの歴史は今日から
新しくはじまる
」と。 これは戦後における行き方、
すなわち、新しい対象の臨在感的把握により、あらゆる面で、
過去と断絶し得たと信じようとしたとき、多くの人が
過去に対してとった態度と同じである。

この態度は宗教的な回心と非常によく似ている。
・・・・「古き神々を捨てて新しき神々をとる」・・・

その結果、自己を拘束していた過去の”空気”が一瞬にして
消え、その呪縛から解放されたと感じても不思議ではない・・

=== どうも、この辺りを読んでいると、
    やっぱり日本人は八百万の神々をあちこちと
    乗り換えているように見えますね。

p156

キリスト教的にいえば「主にある兄弟姉妹」で・・・
この関係は明治も戦後も同じであり、違いといえば、
戦後の絶対者は民主主義であり憲法であったと言う
ことだけである。

従って・・・たえずそれを改訂し、改訂しうることを
民主主義の原則とする西欧の伝統的の定義
と同じでは
あり得ない。

・・・「民主主義とは、統治の一形態であって、それ自体
の中に克服すべきさまざまの欠陥を含む」ものとして
相対化することは到底日本では認められず・・・・

=== ほお、そういうことですか。
    西欧では憲法改正は当たり前のことだけど、
    憲法を絶対化している日本人のメンタリティーと
    しては相対化できないってことなんですね。
    ちなみに、私は憲法改正に賛成なんです。
    ただし、野党自身が反対ばかりしていないで、
    野党が現実的な改正案を出して欲しいという
    立場です。
    与党が横暴だというのなら、その横暴を
    許さないような、立憲主義をきちんと守れる
    ような憲法にしてくれよという意味です。
    私は反対ばかりの奴は信用しません。

p157

二・二六事件の将校は、天皇を臨在感的に把握していたから、
それを仏像の如くに見なしており、従ってこの天皇が
自分の意志をもち、一つの機構を支配していると実感した
とき、仏像が口を利いて自分達を断罪したように驚いている。

p158

一つの体制となり得、全体空気拘束主義で全日本を拘束して
「何かの力」を発揮させるには、一つの通常性の裏打ちが
なければならない。 それが「水」という現実の指摘だが・・

=== この 空気、水、通常性、情況倫理の関係性が
    まだすっきりとは腑に落ちていないので
    右往左往しているんですが、天皇=仏像、
    そしてその仏像が口を利いたというのは
    今の生前譲位に関する天皇の言葉と同じパターン
    なのかもしれませんね。

p159

言うまでもないが、天皇がただの人にすぎないことは、
当時の日本人は全員がそれを知っていた。
知っていたが、それを口にしないことに正義と信実があり
それを口にすれば・・・非国民すなわち「日本人ではない」
ということなのである。

=== ここで、面白い話が出てきていまして、
    アメリカ人将校と捕虜収容所の日本人の間で
    進化論と現人神天皇の矛盾が語られているんです。
    アメリカでは、聖書絶対という人もいるので
    進化論なんか信じられるかという人も多いらしい
    のですが、その進化論を当たり前のこととして
    教えられている日本人が どうしてサルの子孫
    である人間を現人神なんて呼べるのか
ということ
    なんです。
    そんなことを信じられる日本人は狂人であるという
    アメリカ人の言葉。

p160

図式的にえいば、仏教的基盤に儒教的規範が結合した結果
といえるであろう。 そしてこの体制が、徹底的に排除
していくものは、「自由」と「個人」
という概念である。

=== 要するに、日本人には自由主義と個人主義は
    合わないって話です。
    もちろん、最近の若い人たちの中には
    そんな日本の空気に呑まれない人たちもいるの
    でしょうが、いわゆるブラック企業なんかで
    もがいている人たちの話を聞き、かなり保守的に
    なって、海外留学にも消極的な大学生が多いと
    いう話を耳にすると、日本は危ういなと感じる
    今日このごろなのであります。

p161

一言でのべれば、それは何なのか。
言うまでもなく、それは「虚構の世界」「虚構の中に
真実を求める社会」であり、それが体制となった
「虚構の支配機構」だということである。

演劇や祭儀を例にとれば、だれにでも自明のことであろう。
簡単にいえば、舞台とは、周囲を完全に遮断することによって
成立する一つの世界、一つの情況論理の場の設定であり・・・

=== つまり、日本の社会は、このような
    XX劇場が支配している虚構の世界ってことに
    なりますか?

p162

この秩序を維持しようとするなら、すべての集団は
「劇場の如き閉鎖性」をもたねばならず・・・
必然的に鎖国とならざるを得ない・・・
その最大の眼目は、情報統制であり、この点では
現在の日本と、基本的に差はない。

p163

このような方法に基づく決定が、その最弱点を露呈
する部分が、おそらく外来思想、外交、軍事、科学的思考、
すなわち鎖国が排除した部分なのである。

===  この本は1983年に初版が出されているんですが、
     この33年も前の本が これほど今の日本を
     語っているように思えるというのは実に
     恐ろしいことだと思いませんか。
     もしかしたら、33年前よりも危ない状態に
     なっているのかもしれませんね。
     小池東京都知事が どういう意図でこの本のことを
     記者会見で取り上げたのかは分かりませんが、
     日本人が自らを振り返ってみる機会を作った
     ことは大きな意味があると感じています。

     私はフィリピンに10年以上住んでいるので
     テレビで日本のニュースといえばNHKしか
     見ていないんですが、インターネットで
     日本の大手マスコミの情報統制にあまり影響
     されずにいろんな情報を読んでいるのかも
     しれません。
     それが正しい情報かどうかというのはまた別の
     問題ですけどね。

p163

超国家主義とは元来「鎖国」を志向するはず・・・
戦争とはこれと対極的な国際的な行為のはず・・・・
・・・従ってアメリカのように、相手を知るため軍が
日本語学校をつくり、全国から秀才を集めて日本語の
特訓的教育をやるという発想が当然とされる・・・

・・日本は逆に英語を敵性言語と規定してその教育を
廃止した。

p169

まず”空気”から脱却し、通常性的規範から脱し、「自由」に
なること。 この結論は、だれが「思わず笑い出そう」と、
それしか方法はない。

そしてそれを行ないうる前提は、一体全体、自分の精神を
拘束しているものが何なのか、それを徹底的に探究すること
であり、すべてはここに始まる。

p170

「竹槍戦術」を批判した英雄は、「竹槍で醸成された空気」
に「それはB29にとどかない」という事実を口にした
だけである。

p171

「水を差す自由」こそ「自由」で、これを失ったら大変だ
と人びとが感じたことも不思議ではなかった。

p172

日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない
「父と子の隠し合い」の世界であり、したがってそれは
集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になって行く
・・・・

=== これで 第二章の「水」の研究を終わるんですが、
    十分に理解をすることがまだ出来ていません。
    でも、最低でも 「水を差す」、事実を述べる、
    空気を読まないKY君である、というようなことが
    なんらかのヒントになりそうに思います。

・・・・・

次回 その9 は、「日本的根本主義について」に入ります。

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2016年11月11日 (金)

孔子もびっくり日本的儒教思想。 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その7

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
「水=通常性」の研究 の章に入っていますが、ますます迷路。

Img_3026

私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。

後で見直して理解を深めるための「メモ」みたいなものです。

p135

この日本的儒教思想と中国思想は根本的に違うという。
・・・確かに彼(孔子)の生き方は日本的ではない。
彼にとって「父と子の倫理」は文字通りの父子の倫理だった・・
その生き方は、終身雇用と会社への帰属もしくは組織への忠誠
を絶対視する現代の日本人より、自分を認め、自分のプランを
採用してその実施を一任してくれる組織を自ら選ぶアメリカの
エグゼクティブに似ており、それを近代的というなら、孔子の
方がいまの日本人より近代的
である。

君君たらずんば、臣臣たらず」といった関係で、いわば
両者の関係は信義誠実を基にすべきことであるといった
契約的な意味の誠実さで、これがおそらく「忠」という概念で
あろう。

p136
「忠」という概念と、血縁といういかんともしがたい
非契約的な秩序の基本である「孝」とは、あくまでも
別概念であったろう。

三十年前までの日本は、「忠孝一致」で「孝」を組織へと
拡大化した状態を「忠」と呼び、「君、君たらずとも
臣は臣たれ
」を当然として社会であった。

=== ちなみに、私の場合は、
    3つの会社を渡り歩いた前科者でありますが、
    「忠孝一致」みたいな考えは全く持たず、
    給料と会社・業界の将来性を感覚的にみながら
    たまたま上手く波に乗りました。
    まあ、それも、米系企業だったからかもしれません。
    幸か不幸か、「食うために働く」という基本的な
    考えだったし、働いてみなくちゃ何が面白いか
    先は分からんという考えだったんで・・・

p137

自由にして自由を失うまいとすれば、「一君万民・オール3的
事実を口にしないことが真実」というすべての組織から
脱落する以外になくなるが、脱落とはいわば勘当であり、
勘当されたものは一切の権利を実質的に失うから、また
自由を失ってしまうわけである。

そのため戦後三十年、いまの日本人にとって、全く扱い
づらい概念になってしまったのが、実は「自由」
という
概念なのである。

=== ここも本を全部読まないと分からない部分ですが、
    アメリカの下で民主だ自由だとやっては来た
    日本だけど、自由にさせてもらっていたら
    当然のように 昔の「一君万民・オール3的」
    日本の伝統的メンタリティーに戻ってしまった
    ってことのようです。
    私が、日本人には自由主義だ民主主義だという服が
    しっくりきていないんじゃないかと感じていたのは
    どうもこのあたりに理由がありそうです。

p139

戦前の日本の軍部・・・青年将校など・・・はどういう人間
を「自由主義者」と規定したのか。
簡単にいえば、あった事実をあったといい、見たことを
見たといい、それが真実だと信じている
、きわめて単純
率直な人間のことである。

=== 要するに、日本の組織にとって都合の悪いことは
    上も下も「知らぬ存ぜぬ」で隠し合うのが
    日本的であって、それを単純率直に「見ました」
    とか「事実がありました」とかありのままに
    言ってしまうような社員やメンバーは
    組織の裏切り者って話ですね。
    だから、軍部にとっては、教育すれば転向する
    社会主義者の方が扱いやすい。
    自由主義者はどうにもならん・・・ってことです。

p141

科学上のデータは、こういう社会では最終的には
扱えなくなり、最後には科学否定の神がかりが発生する
はずで、私は日本軍の中でやや”科学的”であった砲兵
の一員として、いやというほどそれを見せつけられて
来たので、同じ状態を呈するのではないかと、興味が
あったわけである。

=== つまり、理屈じゃなくなって、玉砕せよという
    ところまで突っ走るってことでしょうか。

p142

何よりも面白いのはまず「資本の論理」と「市民の論理」という
言葉が出て来たことであった。

たとえばイタイイタイ病の場合、最も大切な問題は
厳密な原因探求に基づく正確な診断であり、次にそれに
基づく正しい治療であり、同時に新たな患者が発生することを
防ぐ的確な処置である。 問題の中心はここにあり、
ここ以外にはないはずであって、これを踏み外せば、
患者は正しい治療が受けられず、従って治癒は望めず、
また新たな患者の発生も防げないだけでなく、
あらゆる無駄な努力・無駄な投資を行ないながら、何の結果も
得られないはずである。
それは太平洋戦争に等しい経過と結末を見るであろう。

イ病は、外国の鉱山では発生せず、日本にしかないものだそう
だから、外国の「自由な研究の成果」を導入するわけにもいかず
その治療法も将来への予防も、日本だけで解決しなければ
ならないという点で、特色ある問題である。

=== この話は 残念ながら 今の原発事故・放射能被害
    の問題にも当てはまりそうですね。
    日本人って、なんでこんなことになってしまう
    んですかねえ・・・

p142

もしそれが望めそうにないとするなら・・・・
その理由は・・・医学にも科学にもなく、集団倫理と情況論理、
いわば「父と子がお互いに隠すのが直きこと」の倫理にあると
いおわねばならない。

p143

「資本の論理」とは、・・・社員は会社のために隠し、
会社は社員のために隠す。 正義と真実はその中にありのはず。
そうでなければ、相互の信頼に基づく会社という組織が
成り立っているはずはない。
成り立っていること自体が、彼らが”事実”を隠している
証拠である。

・・・だれも”事実”は口にしない。 従ってイ病の本当の
原因は実はわかっていない。

p149

いわば一君万民で、一億総情況論理、総情況倫理。 そこで
あらゆる虚構の情況が創立され、すべてはその情況のもとに
判断され、「父と子」の間で事実を否定することによって
「直きことその中にあり」の忠誠で、秩序が保持された。

・・・事実に立脚した自由な発想もその発想に基づく
方向転換も不可能になり・・・

=== 読んでいる内に、だんだん落ち込んできますねえ。
    この日本人の「お家大事」の性格というか文化と
    いうか、それが八百万の神々の国という得体の
    しれないものに深く根ざしたものだと言うのなら
    益々絶望的になってしまいます。
    あの「小保方さん事件」も、なんだか、この辺に
    根源的なものが横たわっているような気さえ
    してきます。
    単なる事実だけの科学的な話だったら、
    人がひとり自殺するようなことにはならなかった
    でしょうからね。

・・・・・・

では、鬱になりそうな気分を奮い立たせて
その8 に続けます。

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「オール3」の日本。 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その6

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
「水=通常性」の研究 の章に入っていますが、ますます迷路。

Img_3028

私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。

p114

この(「日本的情況倫理の)考え方の基本を探るため、
まずその対極にある「固定倫理」的見方を検討・・・

固定的規範というものは、人間を規定する尺度でありながら、
実は、人間がこれに関与してはならないのが原則であり、
従って、きわめて「非人間的」であり・・・・

p115

神授による倫理的規範の絶対化 -- たとえばモーセの
十戒 -- から、メートル法や・・・・・

このメートル法という規範を、「情況に対応して変化させる」
ことはできない。

p117

たとえば、生徒を「オール3」に評価した音楽教師
話題になったことがあるが、これがなぜ正しくないかの的確な
論証である。
・・・この教師は、おそらく、非常にまじめな典型的・保守的
日本人であり、一途に「原点」を考えたから・・・
人間を基準とするという日本的平等主義は、最終的には
こういう結論しか出てこないからである。

p118

基準を非人間的な対象に求めれば、「平等」という概念は
全く逆に表れる。 たとえばメートル法を使って生徒の
身長を計る。

百メートルを競争する。・・・「時間」を極力正確に計って
その結果を平等に記し、この平等によって「個」を公正に
表すことが平等であっても、一等二等三等は差別になるから、
全員同時に到着するよう、それぞれに操作を加えることは
平等にならず、逆に不公正になる

p119

われわれの社会は通常すべてに「オール3」をつける。
そして「オール3」を導き出すために、尺度に加えられる
操作が「情況」
なのである。

==== ここでは、当時の世相であったらしい   
     リンチに対する共産党の論理、戦犯の論理、
     特高の論理、新聞報道の論理などについて
     基本的には同じ構造になっている・・・等と
     述べられていまして、私には理解不能なの
     ですが、以下にまとめがあります:

p120

(1)固定倫理
   リンチという「行為」は悪であり、従ってだれが
   だれに対して行なっても絶対に許されない。
(2)情況倫理
   リンチという行為だけを取り上げて同一規範で
   律してはならない。 そうせざるを得なかった
   情況を創出したものこそ非難されるべき・・・
(3)辻褄の合わない論理
   そのように情況にあったことは事実であるが、
   その情況下でもリンチはなかった。
   それは悪質なデマ宣伝であり・・・

=== まあ、(3)は、詳しく本を読んでもらわないと
    理解できない部分ですが・・・

p123

内外のさまざまな事件に対する見方が、政治的立場と
時代を越えて同一の図式を示すことは、その背後に、
共通した類型的な思考過程があることを示している。
そしておそらくそれが、日本における「通常性」的判断
論理的基本なのである。

論理にはなり得ない(3)の主張がなされるのであろう。
言うまでもなくこの背後にあるものが「オール3」的
情況倫理である。

簡単にいえば、餓死寸前に一片のパンを盗もうと、
飽食の余興に一片のパンを盗もうと、「盗み」は「盗み」
として同じように処罰される。
西欧の伝統は一貫して峻厳な固定倫理であり、そのゆえに
十九世紀以降、これへの痛烈な批判が起こって不思議ではない。

・・・ところが日本は・・・・全く別の規範のもとに
生きてきた。 いわば元来の発想がきわめて情況倫理
なのである。

p124

身長「オール140センチ」と計るには、物差しを伸縮自在な
ゴムでつくって、
・・・こうなれば全員平等であって、
一切の”差別”はなくなるであろう。

・・・この伸縮自在な物差しに相当する倫理的尺度が
「情況」なのである。

p125

だがこの日本的情況倫理は、実は、そのままでは規範には
なりえない。 いかなる規範といえども、その支点に
固定倫理がなければ、・・・・

p126

西欧が固定倫理の修正を情況倫理に求めたのとちょうど
逆の方向をとり、情況倫理の集約を支点的に固定倫理の
基準として求め・・・

p128

情況倫理は情況を設定しうる一定の基盤がないと成り立たない。
一君万民の原則、簡単にいえば、一教師・オール3生徒であれ、
・・・一つの固定集団が一定の情況を創造しなければ成立
し得ないわけである。 この点、情況倫理とは、集団倫理
であっても個人倫理ではなく、この考え方は、基本的には
自由主義とも個別主義とも相容れない
・・・一種の「滅私的平等」の倫理であり・・・

=== 良く理解は出来ていないんですが、
    以前から 日本人は欧米式の民主主義や自由主義、
    個人主義には合わないような感じがしていたん
    ですが、どうもこういう日本的情況があったん
    ですね。
    前にも書いたことがあるんですが、
    世界の宗教の中で、日本人に一番合っているのは
    キリスト教でも仏教でもなく、イスラム教じゃないか
    と感じたことがあるんです。
    もっとも、宗教紹介の入門書みたいな簡単な
    概略を書いた本ですから、深いところは分かりませんが。

p129

ここでわれわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。
「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す
・・・
従って、「空気」を創出しているものも、結局は「水=通常性
なのであり、われわれは、この空気と水の相互的呪縛から
脱却できないでおり、この呪縛のなかに固定的規範は
入り得ないわけである。

=== はい、ここまで読んできて、なんとなく絶望的な
    気分になっていたんですが、やっぱりそういうこと
    なんですね。

p131

人はそれぞれ「自分の罪で死ぬ」のであって、親子といえども
無関係
なのである。

p132

個人主義的倫理という点から見れば、二千六百年前に聖書が
否定した「罪九族に及ぶ
」を、さらにさらに拡大解釈し、
一会社を一家族と見てそれを実施している、原始未開の
人間ということになってしまう・・・・

何か事件があるとその親が写真までそえられて新聞に登場する。
そしてその親に向かって「国民に土下座しろ」などという
投書が新聞に載ったり、親が首をくくったりする。

=== はい、これは昔から日本人は不思議だなあと私が
    思ってきた点です。
    本人ではなく、親であったり、家族であったり、
    学校であったり、会社であったり・・・
    その当事者が属しているグループの責任者らしき
    人が毎度おなじみの台詞でお詫びをする。
    こんな儀式にどんな意味があるんだと思っていました。

・・・・・・

では、 また その7 でお会いしましょう。
さいなら、さいなら、さいなら・・・・・

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「水」を差せるか。 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その5

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
今日からは 「水=通常性」の研究 の章に入ります。

Img_3021

私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。

p91

「水」という概念は(「空気」よりも)もっと漠然としている。

・・・「水」は通常、最も具体的な目前の障害を意味し、
それを口にすることによって、即座に人びとを現実に
引き戻すことを意味している。

p92

すべてはバラ色に見えてくる。 そしてついに、「やろう」
となったところでだれかがいう「先立つものがネエなあ
ー・ 一瞬でその場の「空気」は崩壊する。
これが一種の「水」であり・・・

その一言で、人は再び、各人の日々、すなわち自己の
「通常性」に帰っていく・・・

太平洋戦争の前にはすでに日本は「先立つもの」がなかった
そうである。 また石油という「先立つもの」もなかった。
だがだれもそれを口にしなかった。 
差す「水」はあった。 だが差せなかったわけで、
ここで、”空気”が全体を拘束する。

p94

たとえば日本は仏教国だといわれる。 これは今では
世界的な定義で、外国の地図などでは日本を仏教圏に
入れているから、確かに「名」は残っている。
だがしかし、専門学者は浄土宗は仏教ではなく、浄土宗
のような思想は仏教にはないという。

=== ここは、日本にもちこまれた宗教なり思想なりが
    次第に腐食あるいは消化吸収されて変容すると
    いう話をしているんですが、その一例として
    日本仏教、儒教、共産党などを述べています。

    ここには浄土宗は仏教ではなく、とありますが、
    私がいろいろ本を読んで感じたところでは、
    法然の浄土宗までは戒律・修行があるという意味に
    於いて、まだ仏教を留めているように思います。
    法然の弟子である親鸞の浄土真宗は
    もうこれは明らかに戒律や修行から離れ
    信仰の世界になり、仏教ではなくなっている
    んじゃないかという理解です。
    ちなみに、浄土真宗はキリスト教に近いという
    言い方まであるようです。

こちらに参考書をご紹介:

「浄土真宗は仏教なのか?  」                              

https://www.amazon.co.jp/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E7%9C%9F%E5%AE%97%E3%81%AF%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AA%E3%81%AE%E3%81%8B-%E8%97%A4%E6%9C%AC%E6%99%83/dp/4905425492

p97

簡単にいえば、明治四年(1871)まで宮中の黒戸の間に
仏壇があり、歴代天皇の位牌があった
。 法事はもちろん
仏式であったが、維新という”革命”の波は天皇家にも
遠慮なく押し寄せ、一千年つづいた仏式の行事はすべて
停止されることになった。 

p98

仏教断絶のときから「人間宣言」までがわずか約七十年、
・・・一千年とは比較にならぬこの程度の短期間の”伝統
などは、いとも簡単に”自己改廃”できるであろう。
このことは単に「天皇家」の問題ではなく、いわば
全日本人が、そのような形で、外形的な自己変革を行なう
ことによって、「自分は変わった、今日から民主主義者だ」
と自己を暗示にかけてそう信じ込む・・・

=== 「美しい日本」を取り戻そうってのは、
    どのあたりの伝統を取り戻そうって話なんでしょ。
    まあ、ここでは、日本人は結構簡単に宗旨替えを
    しちゃう民族だってことをここでは言いたいようです。

p100

第一、新聞雑誌がその空気に拘束されて、例外を除けば
全部が”翼賛”するから、例外者の反論などははじめから
問題にならない。 だがこれがすなわち、溶解であり、
雲散霧消であり、”天皇制”を着色して自らが消える
道程である。 と同時に・・・空気と水の相互作用
なのである。

=== この辺りには共産党のことをいろいろと
    書いてあるんですが、当時の政治状況を
    知らないので良く理解できません。

p102

この酵素の作用を、一応「日本的・無意識的通常性的作用
と規定しておく。・・・比喩的にいえば消化のような作用である。

無意識のうちに、いわば眠っていても、一つの日常性として
消化はすすむ。

この消化の過程、すなわち「通常性による消化吸収に基づく
変容
」ともいうべき現象、これが私のいう通常性であり・・・

p104

無条件降伏と聞いた瞬間、東京の自分の家作が無事かどうか
の心配を口にした、ある参謀の話である。
ぬいぐるみ”をとれば、彼の通常性的関心は、家作からの
家賃と自分の恩給による平穏な生活だけなのである。

p106

この短期間の経過は、日本に輸入された思想ーーそれが
仏教であれ、儒教であれーー が、どのような形で天皇制
の中に消化吸収され、最終的にはその実体を失って
しまうかを示す、格好の試料だといえる。

p107

情況倫理という言葉は、学問的にはいろいろな難しい
定義があるであろうが、これをごく常識的に、
いわば日常性的に定義してみよう。

・・・「あの情況ではああするのが正しいが、この情況
ではこうするのが正しい」「当時の情況も知らず、その
情況を欠落させ、いまの(情況下の)基準でとやかく
言うのは見当違いだ・・・・
といった種類の一連の倫理感とその基準である。

・・・当時の実情すなわち、対応すべき現実のことである。
従って空気の拘束ではなく、客観的情況乃至は、客観的
情況と称する状態の拘束である。従って空気と違って、
その状態を論理的に説明できるわけである。

p112

これは自己の意志の否定であり、従って自己の行為への
責任の否定である。 そのため、この考え方をする者は、
同じ情況に置かれても、それへの対応は個人個人で
みな違う、その違いは、各個人の自らの意志に基づく
決断であることを、絶対に認めようとせず、人間は
一定の情況に対して、平等かつ等質に反応するものと
規定してしまう.これは・・・「日本的平等主義」に
起因しているであろう。

=== この辺りは、さっぱり理解できないので、
    とりあえず、ここがポイントになるかなと
    思ったところをメモしています。
    当時の 特高、共産党、下士官、暴力団
    などなどのことが、リンチ事件を例に挙げられ
    ていて理解不能です。
    戦中・戦後の特高や共産党の歴史を知っている
    人なら理解しやすいと思います。

p113

すべては、「情況にお正しく対応した」のであろうが、
同時に、政権をとっても情況の創出に対しては一切、
責任を負わないということであろう。
これは軍部政権の「無責任体制」と同じことになる。

人間は「現在の情況から当時を考察する」ことは
できても、「当時の情況を(当時の情況下で)考察する」
ことは不可能である。

・・・・・

わけの分からないまま その6 へ続きます

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2016年11月10日 (木)

聖書における相対化。「空気の研究」 山本七平著 を読む - その4

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・

Img_3028_2


私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。

p79

中東や西欧のような、滅ぼしたり滅ぼされたりが当然の
国々・・・・「空気の支配」を当然のことにように
受け入れていれば、到底存立できなかったであろう。

・・・そして彼らにとって、その最良の教科書
おそらく旧約聖書ーーすなわちその徹底的相対化の世界
ーーだったはずである。
聖書とアリストテレスで一千年鍛錬するとアングロ・
サクソン型民族ができるといわれるが、その最も
大きな特徴は、体質的ともいえるその相対的把握であろう。

=== ってことは、日本人のガラパゴス的製品開発
    なんかにも言えることなんでしょうかねえ。
    西欧なんかでは様々な相対的評価をして
    新製品をつくるけど、日本人は突っ走ってしまう?
    100円ショップなんかに行くと、無茶苦茶
    バラエティー豊かな製品が五万とありますもんね。
    たかが鉛筆、されど鉛筆で、
    八百万の神々ほどにいろんなのを作っちゃう。

p79

聖書の・・・相対化の世界すら、日本に持ち込まれると
その相対性が消されて、一つの絶対性を付与され、
臨在感的把握の対象とされてしまう・・・

p80

日本で知られている(天地創造・人間創造などの)話は、
実は、聖書とは関係のない「相対化排除」の日本式
”聖書”物語
なのである。

=== ここで著者が書いている天地創造の話の内容は
    私にも意外なことで、ホントかなと思います。
    (詳しくは本を買って読んで下さい)
    しかし、ハリウッドなどで制作された映画など
    で昔から観てきた内容は、日本式聖書の
    内容と同じだと思うんですけどねえ・・・

ちなみに、wikipediaでは:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E5%89%B5%E9%80%A0

短いyoutubeでその概要をご覧ください:
https://www.youtube.com/watch?v=bLHB_hNk42g

こちらはちょっと長め:
https://www.youtube.com/watch?v=rLoO3kI_SMg

p80

聖書はすぐに、この(人間の)規定と全く反する、
別の人間創造の物語を記す。・・・・

第一話では、人間とは男女とも神の形につくられた
最終的完成品、地上のすべての生き物をおさめる
尊厳な存在だが、第二話では、男は「土の塵」で最初に
つくられた試作品? それ自身だけでは生きて行けず、
生存には「それにふさわしい助け手」が必要で、
そのためさまざまな生物がつくられたが、どれも
生存を支えてくれるに「ふさわしい助け手」とはならず、
そこで創造の最後に、男のあばら骨から女がつくられ、
両者が一体となってはじめて生きていける者として
記されている。

・・・ところが聖書物語は、この二つの物語の
矛盾を消去して、第一話と第二話をつないで一つの
物語としているわけである。

=== まあ、海外の本を日本語に翻訳する際には
    いろいろな問題があることは分かっていますし、
    日本人に読ませることを前提にして
    日本人に都合の悪いところは隠すなどの
    話もありますが、聖書でもこんな書き換えが
    あるとは知りませんでした。

    ひょっとして、なんでも空気支配で絶対化
    してしまう日本人に合わせて、相対化なんて
    日本人には不向きだというのが分かっていて、
    意図的にひとつにまとめちゃったとか???

こちらのサイトにこの矛盾した二つの創造物語
ことが書いてありました。
おそらく、このことなんだと思います。参考まで。
http://joseph-daniel.cocolog-nifty.com/testimony/2004/10/post_37.html

p86

では「箴言」のテーゼは否定されるのであろうか。
そうではない。 このテーゼが否定されれば、
「ヨブ記」自体が成り立たなくなってしまうからである。
これがすなわち相対化であって、あらゆる命題が
自らのうちに矛盾を含み、その矛盾を矛盾のままに
把握するとき、はじめてその命題が生かされ、
絶対化すればそれはヨブにおけるような逆用を生じ、
命題そのものが実際には失われてしまうということなのである。

・・・すぐに割り切りたがる短気民族であるわれわれ
には、少々、つきあい切れない気もしてくる。

=== ここは たくさん書いてあるので、
    本を読んでください。
    この著者が「つきあい切れない」なんてことを
    書いているぐらいですから、日本人には
    かなりしんどいものなんでしょう。

p87

これが最もはっきr出てきているのが太平洋戦争で、
「敵」という言葉が絶対化されると、その「敵」に
支配されて、・・・相手と自分の双方から自由な位置に
立って解決を図るということができなくなって、
結局は、一億総玉砕という発想になる。

・・・そして空気の支配が続く限り、この発想は
手を替え品を替えて、次々に出てくるであろう。

=== 今の日本の政治のあり様が まさにこれだ
    って感じがしますね。
    国会の議論が噛み合わず、バカバカしく
    見えるのは、これが原因なんでしょうか。
    野党も同罪ですけど・・・・。
    まあ、八百万の神々の国では、相対化して
    まじめな議論が出来ないという構造なんで
    しょうかねえ。絶望的ですね。

p87

だが、われわれの祖先が、この危険な「空気の支配」
に全く無抵抗だったわけではない。
少なくとも明治時代までは「水を差す」という方法を、
民族の知恵として、われわれは知っていた。
従って「空気の研究」のほかに「水の研究」も必要
なわけで、・・・・

この「水」は、伝統的な日本的儒教の体系内における
考え方に対しては有効なのだが、擬似西欧的な
「論理」には無力であった。

同時に西欧を臨在感的に把握する空気的進歩主義者は、
「水を差す」を敵視し、それが悪であるかの如き
通念を国民に植え付けた。

===  おおお、ここで「美しい日本」が
     空気的進歩主義者によって破壊されたって
     いう理解でも いいのかな???

     江戸時代までは、ちゃんとした議論が
     出来る「美しい日本」だったのに、
     明治時代が これを潰しちゃった??

p87

昭和の非劇とは・・・伝統的な「水」が全く
無力であったことに起因している。
というのは「水」の基本は「世の中はそういうものじゃない
とか、同じことの逆の表現「世の中とはそういうものです」
とかいう形で、経験則を基に思考を打ち切らす行き方で
あっても、その言葉が出てくる基となる矛盾には
一切ふれないからである。
聖書には、この言い方は全くない。

==== この後は、「水=通常性」の研究 ってとこに
     入っていくんですが、日本流と西欧流が
     混ざっていろいろと難しいところに入って
     行くみたいです・・・

・・・・・・・・・

では、その5 でお会いしましょう。

  
   
    

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現人神天皇制は典型 。 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その3

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・

Img_3026_2

私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。

p72

天皇家が「自分は現人神であるぞよ」といった宣言を
出した証拠はない。 従って「人間宣言」を出すべき
者は、現人神だと言い出した者であっても、現人神だと
言われた者ではないはずである。
・・・だが奇妙なことに現人神だと言い出した人間を
追究しようというものはいない。
・・・天皇制とはまさに典型的な「空気支配」
体制だからである。

・・現人神とはいわば偶像であるから、「物質である
仏像」の如くに、また人骨の如くに、自らの感情を
移入する対象であっても、そのもの自身は、自らの
意志をもってはならない・・・・
仏像は黙って鎮座するもので・・・・

p73

天皇という、自分の意志をもつ一個の人間の
政治的統治になってしまうからである。
それは一人間の意志による普通の統治であって、
現人神天皇制ではなくなる。

=== つまり、戦前の現人神天皇制は
    誰が始めたのか分からない、空気による支配
    だったという話です。
    今の象徴天皇制はどうなんでしょうね。
    空気ではないことを祈ります。

    私は一度だけ両陛下との接見を許され、
    短い言葉を交わす機会に恵まれました。
    天皇陛下はテレビなどでみたそのまんま。
    美智子妃はちょっと茶目っけのある方でした。

    最近 現人神ではない天皇が、高齢を理由に
    生前譲位を希望されているようですが、
    象徴天皇制が天皇を一個人として、生身の
    人間として認めるのであれば、天皇の希望に
    沿う解決策を見つけるべきだと思います。

    現人神ではないという意志を表し、
    偶像ではない、生身の天皇こそが象徴で
    あるべきでしょう。
    あれだけの御高齢で、あれだけのお仕事を
    されているバイタリティーには心底
    頭が下がりました。

p73

偶像化できる対象は何も像や人間だけではない。
言葉やスローガンも、その意味内容とは関係なく
偶像化できる。

・・従って「言葉の天皇制」も成り立ちうるし
現に成り立っている。
言葉狩り」という新しい不敬罪が現実に実施されて
いることは、それを、裏返して証明しているといってよい。

p74

絶対に相対化がゆるされない「神の名」は、・・・
「神」を冒涜する結果になることを防ぐため、絶対に
口にしてはならないはずである。
・・・ユダヤ人は神だけを絶対視するが故に、神の名を
口にすることを禁じた

この禁止は絶対的であった。 差別用語を口にしても
死刑になることはあるまい。 しかし、タルムード・
サンヘドリン編七5は、神の名を口にするものは
死刑に処すると規定している。

人が口にする命題はすべて、対立概念で把握できるし、
把握しなければならないのである。
そうしないと、人は、言葉を支配できず、逆に、
言葉に支配されて自由を失い、そのためその言葉が
把握できなくなってしまう・・・

=== これは日本人にとっては、かなり厳しい現実
    ですね。
    今の日本の国会なんかでもまかり通っている
    いわゆる「決め付け」の言葉やら、「言葉狩り」
    みたいな議論では、実のある議論は出来ない
    ってことですもんね。
    まあ、空気で国民をコントロールしようという
    肝のところを知っている博学多識の国会議員の
    みなさんの戦略なのかもしれませんが。
    
    自分に身近な卑近な例で言えば、
    「XXさんはとんでもない人だ」と決めつければ
    空気を作っているって話で、絶対化しているって
    ことでしょうか。
    「あいつは悪の権化である」みたいな。
    それを相対化するには、「XXさんの悪い点は
    これこれだけど、良い点はこれこれだ。」等
    という言い方になるのでしょうか。

    つまり、「トットちゃん」の良かった探しですね。
    それをやれば、空気に支配されることも防げる。

p75

=== ここに相対化の具体的やり方が書いてありました。

正義は必ず勝つ」という命題がある。
この命題は相対化できそうもないが、しかし彼らは言う、
「では、敗れた者はみな不義なのか。 敗者が不義で
勝者が義なら、権力者はみな正義なのか」

正しい者は必ず報われる」という。・・・・
「報われなかった者はみな不正をした者なのか」と。

この言い方は、聖書だけでなく、あらゆる方面に広がって
いる。

=== こういう言葉の相対化という訓練は、
    日本人一般にはやられていないようですね。
    私も含めて。

    でも、まあ、こんな相対化をしたら、
    「あいつは屁理屈を言う嫌な奴だ」に
    日本ではなってしまいそうですが・・・

p76

彼らが空気の支配を徹底的に排除したのは、多数決
による決定だったことである。
少なくとも多数決原理で決定が行なわれる社会では、
その決定の場における「空気の支配」は、まさに
致命的になるからである。
そして致命的になった類例なら、・・・日本には
いくらでもある。

p77

ある会議であることが決定される。
そして散会する。 各人は三々五々、飲み屋などに行く。
そこでいまの決定についての「議場の空気」がなくなって、
飲み屋の空気」になった状態での文字通りの
フリートーキングがはじまる。

=== あるある・・ですね。
    会社の会議は 居酒屋でやりましょう。
    この本の著者も、会議室の結果と居酒屋の結果を
    足して2で割って結論を出した方が良いと
    言っています。

p79

空気の支配は、逆に、最も安全な決定方法であるかのように
錯覚されるか、少なくとも、この決定方法を大して問題
と感じず、そのために平気で責任を空気へ転嫁することが
できた。 明治以降、この傾向が年とともに強まって
きたことは否定できない。

=== ここですかねえ。
    小池東京都知事が この本に言及した所以は。
    都庁には「平気で責任を空気へ転嫁する」輩が  
    闊歩しているってこと???

・・・・

では、その4 まで 御機嫌よう・・・
さいなら、さいなら、さいなら・・・
  

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KY君が日本を救う。  「空気の研究」 山本七平著 を読む - その2

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・

Img_3024

p51

対立概念で対象を把握すれば、たとえそれが臨在感的把握で
あっても、絶対化し得ないから、対象に支配されることはありえない。

たとえ両者とも臨在感的な把握であっても、
一方は、官軍・賊軍ともに、善悪という対立概念で把握し、
他方は、官軍は善、賊軍は悪と把握していれば、この両者の
把握が全く違った形になるのは当然であろう。

p52

問題克服の要点は、・・・
一つは、臨在感を歴史観的に把握しなおすこと、
もう一つは、対立概念による対象把握の二つである。

=== つまり、何をどう物神化しているのかを
    紐解くことと、一方的に善悪を決めつけず
    ひとつのものを善悪の両方から眺めてみる
    ってことですかね。

p53

「データ」と「空気」の誤差がわかりにくい部門になると、
「意志決定はすべて空気に委ねる」が、「それが何らかの
データに基づいているようにみせる」のが実情であっても
不思議ではない。

=== 空気によって決定された結果にデータを
    捏造しちゃうわけですね。

p56

しかし心配は御無用。 ”空気”の存在しない国は
ないのであって、問題は、その”空気”の支配を許すか
許さないか、許さないとすればそれにどう対処するか、
にあるだけである。

従ってこの”KUKI”とは、・・・ルーア(ヘブライ語)
の訳語がプネウマ(ギリシャ語)でそのまた訳語が
アニマ(ラテン語)という関係にもなっており、
このアニマから出た言葉がアニミズム(物神論?)で、
日本では通常これらの言葉を「」と訳している。
しかし原意は、希英辞典をひけば明らかなように
wind(風)、air(空気)である。

p57

原意は「風・空気」だが、古代人はこれを息・呼吸・気・
精・人のたましい・精神・非物質的存在・精神的対象等の
意味にも使った。 また言霊の”たま”に似た使い方もある。

=== なるほど、言霊ですか。
    確かに 私自身、これは言霊に操られているなと
    感じる時もありますからねえ。
    神道というのがアニミズム(自然崇拝)だとすれば、
    そういうものを未開の土人(今流行の言葉ですけど)
    の宗教だと捉えているキリスト教などの一神教とは
    相反する考え方と言うことになるのでしょうか。

p58

戦艦大和の出撃などは”空気”決定のほんの一例にすぎず、
太平洋戦争そのものが、否、その前の日華事変の発端と
対処の仕方が、すべて”空気”決定なのである。

・・・これからもわれわれを拘束しつづけ、全く同じ
運命にわれわれを追い込むかもしれぬ。

=== う~~ん。 空気なるものが日本的なもの、
    神道的なものから発生するものだと言うことに
    なると、これは確かに今後も同じ過ちを犯す
    ってことになっちゃいますねえ。

p59

「文明開化」の新しいお札が出てくる。
教育勅語であり、御真影である。 科学的な言い方に
従えば、双方とも紙であり、一方は印刷インキ、
一方は感光液がついているだけの物質である。

・・・人がそれに何らかの臨在感を感じるなら、
感じるのが野蛮なはずである。

ところが、その科学的根拠によりそれを単なる物質
だと規定すれば、規定したものは超法規的に処罰
されてしまうのである。

=== つまり霊験あらたかなお札を、
    「それは単なる紙じゃないか」なんて言ったら
    天罰があるって話でしょうか。
    踏み絵なんてのは日本だけなんですかね??
    まあ、江戸幕府の発明なんでしょうけど。
    こちらのサイトを読むと、こんなことが
    書いてあります:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B8%8F%E3%81%BF%E7%B5%B5
「将軍 SHOGUN(映画)
作中において、イギリス人たちが馬鹿馬鹿しいと笑いながら
踏み絵をする場面がある。」

    ・・・ってことは、日本人には効くけど、
    海外のキリスト教徒には効果なしってことですね。
    同じキリスト教徒でも、日本人は日本人って話?

p60

内村鑑三不敬事件に関して)
勅令の礼拝は、如何なる法律、如何なる教育令によりて
定められたることなるや。 ・・全く校長其の他自余の
人々の頭脳より勝手に案出せるものに過ぎざるなり・・・

=== キリスト者である内村鑑三のこの事件については
    こちらのサイトでどうぞ:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89%E4%B8%8D%E6%95%AC%E4%BA%8B%E4%BB%B6

    まあ、今でも、国旗・国歌どうのこうのという
    トラブルは学校であるようですが・・・

    たまたまこのサイトに、この本の著者 山本七平の
    コメントもありますね。
    「日本人が宗教的に寛容だと言うのはこの事件のことを
     考えると信じがたく、ある一点に触れれば恐るべき
     不寛容を示すのであって、ただ欧米と不寛容の基準が
     違うに過ぎない」

p61

これはどうみても寛容ではなく、ある「一点」に触れた
場合は、おそるべき不寛容を示し、その人の人権も法的・
基本的権利も、一切無視して当然だとするのである。

===  こういう所を見ると、つくづく日本という国は
     民主主義だの、個人主義だの、自由だの人権だの
     という欧米から輸入した基本的価値観は
     まだまだ定着していないんじゃないか、
     あるいは、日本人の身体に合わないんじゃないかと
     悲観的にもなったりしますねえ。
     もちろん、言葉だけは使っていますけどね。
     例えば、過労死だの自殺だのの原因になっている
     息苦しい人的環境なんか・・・
     要するに定時で帰宅できない空気ですな。

p64

その場その場の空気に支配されて、・・・・・
結局は同じく「言必信、行必果」(やると言ったら必ずやるサ、
やった以上はどこまでもやるサ)的「小人」だということに
なるであろう。
大人とはおそらく、対象を相対的に把握することによって、
大局をつかんでこうならない人間のことであり、
ものごとの解決は、対象の相対化によって、対象から自己を
自由にすることだと、知っている人間のことであろう。

=== 私は真面目な日本人でしたからねえ。
    確かにな~~んも考えずに空気に支配されて
    いたのかもしれません。
    でも、結構天の邪鬼でもあったんですが・・

「言必信、行必果」なものを、純粋な人間、
対象を相対化するものを不純な人間とみるのである。
・・・不純な人間ということになり、そしてそれへの
排撃の空気を恐れる者は、みな、口をつぐんでしまう
のである。

=== ここのところは、いわゆる「いじめ」に
    繋がる部分ですね。
    戦後、死なずに故郷に戻った日本兵を
    「なんで生きて戻ったんだ」なんて
    雰囲気で見る目もあったそうな。
    何故玉砕しなかったんだ・・・みたいな。

p65

もっと明確に出てくるのが、「死の臨在による
支配なのである。 帝国陸軍の絶対的支配の基本
これであった・・・
戦後の民間にも明確に出てくるのが各種の「遺影デモ」
およびそれと同様の行き方である。

人骨を扱えば原因不明の発熱をするという伝統にある
日本民族にとって、この方法は、実に決定的なのである。

こういう場合「科学的根拠に関係ないことを持ち出すな」
などということは、「遺影は物質で無関係だ」という
言葉同様、その言葉を口にしたものが超法規的に
処断されてしまうだけのことである。

p66

その対象に支配され拘束されて一切の自由を失い、
「言必信、行必果」となって、あらゆる問題は解決
できず、玉砕して自分も死者となるだけが解決になる。

=== あああ、これですね。
    「電通過労自殺事件
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e9%ab%98%e6%a9%8b%e3%81%95%e3%82%93%e6%af%8d%e3%80%8c%e6%9c%ac%e6%b0%97%e3%81%a7%e6%94%b9%e9%9d%a9%e3%82%92%e3%80%8d%ef%bc%9d%e9%81%8e%e5%8a%b4%e6%ad%bb%e9%98%b2%e6%ad%a2%e3%82%b7%e3%83%b3%e3%83%9d%e3%81%a7%e2%80%95%e6%9d%b1%e4%ba%ac/ar-AAk5dSF#page=2

    旧日本軍の玉砕の空気と繋がる日本病なのか。

p67

影像禁止とか偶像禁止とかいうイスラム教・ユダヤ教・
キリスト教の一部にある考え方の基本は「物質はあくまで
物質であって、その物質の背後に何かが臨在すると感じて
これから影響をうけたり、それに応対したり、拝礼したり
することは、被造物に支配されてこれに従属することで
あるから、創造主を冒涜する涜神罪だ」という考え方が
基本になっている。

・・・いわば臨在感的把握の絶対化に基づく、空気の支配
は「悪」なのである。 昔は偶像礼拝は死刑であり、・・・

=== これが一神教と 神道などの多神教との違いって
    ことみたいですね。
    キリスト教でもカトリックはかなりゆるいみたい
    ですけど・・・

p68
そのキリスト教世界のローマン・カトリックとギリシャ正教
との分裂は、影像問題に端を発しており、この両教会でも、
対象の臨在感的把握の絶対化すなわち偶像崇拝は「罪」で
ある。

p69

基本的には同じ考え方の偶像破壊・影像破棄は今でも
イスラム圏では行なわれており、必ずしも「野蛮」では
片づけられない。

「絶対」といえる対象は一神だけだから、他のすべては
徹底的に相対化され、すべては、対立概念で把握しなけ
れば罪
なのである。

・・・これでは空気は発生しえない。
発生してもその空気が相対化されてしまう。

われわれの世界は、一言でいえばアニミズムの世界である。
この言葉は物神論(?)と訳されていると思うが、
・・・アニマの意味は空気に近い。 従ってアニミズム
とは空気主義
といえる。 この世界には原則的にいえば
相対化はない。 ただ絶対化の対象が無数にあり、
・・・・

p70
それが絶えず対象から対象へと目移りがして、しかも、
移った一時期はこれに呪縛されたようになり、次に
別の対象に移れば前の対象はケロリと忘れるという
形になるから、確かに「おっちょこちょい」に見える。

この世界の破局的な危険は、全民族的支配的「空気」が
崩れて他の「空気」に変わることなく、これが純粋な
人間に保持されて、半永久的に固定化し永続的に
制度化したときに起るはずである。

=== あ~~、そうでしたか。
    確かに 日本人の熱しやすさと冷めやすさは
    これで説明できますね。
    これが日本人の伝統的な世界だとすると
    かなりやっかいな話ですなあ・・・

    今の北朝鮮やイスラム国みたいなのは
    戦前戦中の日本そっくりに見えますが、
    巻き込まれている人たちは真面目で純粋
    な人たちなんでしょうね。
    私も真面目で純粋なんで、ころっと行きそう
    です。 実際のところ、私の母は相当な
    軍国少女だったそうですから。

p71

われわれの社会は、常に、絶対的命題をもつ社会である。
・・・常に何らかの命題を絶対化し・・・
そのため、これらの命題まで対立的命題として把握して
相対化している世界というものが理解できない。
そしてそういう世界は存在しないと信じ切っていた。
だが、そういう世界が現実に存在するのである。
、それが日本以外の大部分の世界なのである。

=== なんだか、日本って国、日本人は、
    相当な変わり者みたいですね。
    それが八百万の神々が原因だってんだから、
    困っちゃうなあ。

・・・・・・・・・・・・

それでは、次回 その3 をお楽しみに

 

 

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2016年11月 9日 (水)

KY君の出番ですよ。 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その1

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
・・難しい・・・
で、自分に理解できる範囲で面白いところだけをピックアップ。

Img_3021

最近は KY君という言葉がいたるところで話題になるのですが・・
これを読むと KY君であることは美徳であることが分かります。

p15

彼は、何やらわからぬ「空気」に、自らの意思決定を拘束されている。
いわば彼を支配しているのは、今までの議論の結果出てきた結論
ではなく、その「空気」なるもんであった・・・

至る所で人びとは、何かの最終決定者は「人ではなく空気」である、
と言っている。

p17

戦後その理由を問えば、その返事は必ず「あのときの空気では、
ああせざるを得なかった」である。

せざるを得なかった」とは、「強制された」であって
自らの意志ではない。 そして彼を強制したものが真実に
「空気」であるなら、空気の責任はだれも追及できない・・・

p19

むしろ日本には「抗空気罪」という罪があり、これに反すると
最も軽くて「村八分」刑に処されるからであって、
これは軍人、非軍人、戦前・戦後に無関係のように思われる。

こうなると、統計も資料も分析も、またそれに類する
科学的手段や論理的論証も、一切は無駄であって・・

p22

論理の積み重ねで説明することができないから「空気」と
呼ばれているのだから・・・

論理的判断の基準と、空気的判断の基準という、一種の
二重基準のもとに生きている・・・

議論における論者の論理の内容よりも、議論における言葉の
交換それ自体が一種の「空気」を醸成し
ていき・・・

p23

通常「空気」は、このような人工的操作によって作られる
ものでなく、言葉の交換によって、無意識のうちに、不作為に、
いわば自然発生的に醸成される・・・

ある種の意図を秘めた作為的な「人工空気」の醸成が
不可能だということではない・・・

p30

その背後にあるものは、対象への「臨在感的把握」に基づく
判断基準である。

=== この「臨在感的把握」って言葉の理解が出来ない・・・

漢和辞典によれば:

りん ざい [0] 【臨在】
( 名 ) スル
(神が)その場に臨むこと。そこにおられること。 「神の-」

という意味なんですけど・・・

p31

これはおそらく戦艦大和出撃にもいえることである。
海空の実戦を経験したベテランの判断と思うから不思議なので、
大和を一つの人格と見た物神論的発想にもとづく宗教的決断
考えれば、別に不思議とするに足りない・・・

こうなる「空気」とは、一つの宗教的絶対性をもち、われわれが
それに抵抗できない”何か”だということになる。

p32

毎日のように人骨を運ぶことになった。・・・
ユダヤ人の方は何でもないが、従事していた日本人二名の
方は少しおかしくなり、本当に病人同様の状態になってしまった。
・・・この二人に必要だったことは、どうやら「おはらい」
だったらしい。

p33

人骨・サレコウベという物質が日本人には何らかの心理的
影響を与え・・・・
おそらくこれが「空気の基本型」である。

この状態をごく普通の形で記すと、
「二人は墓地発掘の「現場の空気」に耐えられず、ついに
半病人になって、休まざるを得なくなった」という形・・・

物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言い換えれば
物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずの
うちにその何かの影響を受けるという状態・・・

p37

彼(イタイイタイ病はカドミウムに関係ないと、
克明に証明した専門家)はカドミウム金属棒に、何らかの
感情移入を行なっていないから、その背後に何かが臨在する
という感じは全く抱かないが、イタイイタイ病を取材して
その悲惨な病状を目撃した記者は、その金属棒へ一種の
感情移入を行ない、それによって、何かが臨在すると
感じただけである。

=== この病気と原因については、wikipediaでは
    下のように書いてあります。
    ただし、この本の文脈とは一応別と考えるべきでしょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%82%A4%E7%97%85

「カドミウムをイタイイタイ病の原因とする見解は、訴訟の中で
状況証拠により「断定」されているのみで、化学的、生理学的証明
は21世紀現在もなおされていないだけでなく、同様の症例や
それを証明する研究も、世界中のどこからも報告されていないと
する主張が存在する[6]が、これは法的に不可能である
(人体実験にあたる)ため臨床による因果関係の証明が存在
しないというものである。 カドミウムの毒性およびその症状は
現在の医学では一般に知られている[7]。」

p38

臨在感の支配により人間が言論・行動などを規定される第一歩
は、対象の臨在感的な把握にはじまり、これは感情移入
前提とする。
感情移入はすべての民族にあるが、この把握が成り立つには、
感情移入を絶対化して、それを感情移入だと考えない状態
にならねばならない。

一言でいえば、それをしないと、「生きている」という
実感がなくなる世界、すなわち日本的世界であらねば
ならないのである。

=== おおお、こりゃあぶっ飛びますねえ。
    日本的世界ですか。
    もしかして、ジブリの霊的な世界のことですかね?
    八百万の神々を感じてしまう日本人のメンタリティー?

p39

(良かろうと思って、善意から)ヒヨコにお湯をのまし、
保育器に懐炉を入れる(結果殺してしまう)のは完全な感情
移入であり、対者と自己との、または第三者との区別がなく
なった状態だからである。 

・・・この現象は、簡単にいえば「乗り移る」または
「乗り移らす」という現象である。

=== こういう話は、確かに日本の母親と赤ちゃんの
    関係性の中で語られることがありますね。
    母子の一体化が強いとでもいうのでしょうか・・・
    かなり神がかり的な話になっていますけど。

p41

人の霊はその遺体・遺骨の周辺にとどまり、この霊が
人間と交流しうるという記紀万葉以来の伝統的な世界
に基づいている。
こういう伝統は西欧にはない。
・・・少なくとも両者には共に、人骨に何かが臨在する
と見る伝統はない。

=== フィリピンで感じるのは、戦没者の遺骨収集が
    日本人にとって非常に大切なことだということ
    ですね。
    バギオでもよく日本兵の亡霊の話が出ますが、
    遺骨を日本に持って帰らない限り、日本兵の
    霊がバギオで彷徨い続けるのだという雰囲気
    は確かにあります。

p44

神という概念は、元来は「恐れ」の対象であった。
多くの神社は、悲惨を体現した対象がその悲惨を世に
ふりまかないように、その象徴的物質を御神体として
祭ってなだめている。
従って、カドミウム金属棒を御神体とする「カドミ神社」
の存立は可能である、というよりむしろ、ある「場」には
すでに存立したのであり・・・

臨在感的把握の絶対化によってその対象を物神化し、
それによってその対象に支配される者・・・・

われわれにとって実にわかりにくい、初代キリスト教徒の
正統・異端論争の背後にある問題・・

いわば「最もまじめで、熱心で、真剣なもの」、・・・
その物神への信仰の最も篤きものを、その物神をたとえ
キリストと呼んでも、逆に、異端として断罪し、排除する・・

それを・・しなかったものは、物神の支配すなわち空気の
支配から逃れることは、永久にできない。

=== ここはよく分からない部分ですが、
    おそらく日本の神道みたいなものだと空気に
    支配されやすいけど、キリスト教の場合は
    これとは正反対ってことでしょうか。
    だから、現人神としての天皇を中心にして
    戦前の空気が作られたってことですかね。

    別の言い方をすれば偶像崇拝の問題でしょうか。

・・・・・・・・・・・・

ぼちぼち読んでいますので、その2に続きます。

 

 

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