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2016年11月19日 (土)

まとめ  :「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その7

空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む 

この大野晋氏の生涯を読んできた個人的な理由は、
私は一応日本語教師をやっているもんで、
「空気の研究」との関連で、日本語という言語との何らかの
つながりを見つけ出すことが出来ないかということでした。

Img_3357

二冊の本の内容をきちんと理解したかというと、それは
甚だ心もとないのですが、今のもやもやした時点で
無理やり感満載の結論らしきものを出すとすれば、下記のように
なります。

日本人の心の深層には、いわゆる八百万の神がしっかり
根をおろしている。
一神教的な唯一の絶対的なものはない。

そこで、日本人は様々なものを臨在感的に、つまり、ある神が
そこにいるというように、絶対化して把握してしまう。
例えば、現人神であり、民主主義である。
それが いけいけの「空気」を作りだす

一方、その空気に水を差すこともある。
それは「先立つものが無いなあ」というような通常性である。

この通常性も、ある集団的な情況倫理によって支配されて
いるので、個人主義を排除する。

その家族主義的情況倫理は、仲間内の隠し合いを生む。

この隠し合いが、事実を事実として認めない、あるいは
データを改ざんする集団内の風土を醸成する。

これを克服するには、臨在感的絶対化をやめ、
対立概念で相対的に把握しなくてはいけない
仏像は石である。 現人神は人間である。
事実を事実として認め、論理的に判断する。

                  
・・・・・さて、そこで、日本語との関連付けなんですが・・・

日本語の論理(外山滋比古著)を振り返ってみると。

「論理はそれを表現している言語と不離の関係にあるのではないかと
いうことである。 抽象的、普遍的な論理というものが、存在する
のではなくて、特定な言語によってあらわされた論理があるだけ
なのではないか。」

つまり、欧米式の論理だけが論理ではなく、日本語には
日本語なりの論理というものがあるはずだ。

「・・代表的な例は家族同士の会話で・・・・
第三者が聞けば何のことかまるでわからぬような省略の多い
飛躍した言い方をしているが、・・話は通じ合っている。
形式論理から見れば没論理と言えるかもしれないが、
まったく論理を欠いているというわけでもないであろう。」

『日本語は敬語があって主語がない』金谷武洋著に論拠を
求めてみると。

英語などは一神教を土壌として「神の視点」で俯瞰的に
地上を見下ろす描写をする言語であり、日本語は「地上の視点
で、地上にへばりついて話者間の言葉のやり取りになって
いるため、主語が無かったり、時制が曖昧だったり、敬語
話者間の関係を規定するような言語になっている、という
説があります。

要するに、神の論理と地上の論理の対立ですね。

神の視点で人間の活動を俯瞰すれば論理的になるが、
島国の日本であれば、小さな集団内部での言葉のやり取りが
主体になって、以心伝心の言語になるということです。

そこで、大野晋の日本語観に戻ってみますと、

「学問は学問の中で、事実に基づいて喧嘩をする。
子供が言おうと、大御所が言おうと、事実にかわりはない。」

「日本語は曖昧な言語であるというのは事実なのか。
それはその人間の頭の中が曖昧というだけのことではないのか。」

「根底にあったのは、考える力、判断する力の基本に
なるものが国語
であるという信念である。」

「ヨーロッパの言語を勉強した人の中に「日本語は曖昧だ。
ヨーロッパの言語のような、明快な文法がない」なんて
言う人がいるけど、とんでもない間違いだ
そういう人は、日本語の文法をきちんと勉強していないだけ
だよ。 そういう人が出ないように、これからは
助詞の「は」と「が」の違いなんかを、小学校のときから
おしえないといけないんだ。」

「南インドから、稲作や機織りという最先端の文明を持つ人たちがきた。
彼らは文明と一緒に言語を持ち込み、その言語の基礎語や
文法や五七五七七の歌の形式を受け入れてできたのが、
ヤマトコトバの体系である。」

「もし日本語が曖昧だとするなら、それは日本語のせいでは
ない。 使う人間の頭の中が曖昧なせいだ。
これは大野が折あるごとに言い続けてきたことだった。」

・・・・大野晋という学者は、
日本語自体が曖昧なのではなく、事実を事実として日本語で
表現しない日本人に問題があるとしているのだと思います。

(ちょっと飛躍しましたかね・・・)

その原因がどこにあるかとするならば、
例えば、最近よく耳にする「ブラック企業」という一種の
仲間内集団みたいなものかもしれません。

死んでも働け」という企業の言葉があったとして、
それを臨在的、神がかりのものとして把握し、絶対化することが
いわゆる「空気の醸成」になるわけです。

それは、「水を差す」という通常化によって、
その「空気」の中に住んでいる人たちを我に返らせる効果、
例えば、「死んでどうすんだ」、「生きる為に働いているんじゃ
ないのか」と言うような、当たり前の常識に立ちかえるという
効果はある。

しかし、ここで難しいのが日本的な多神教的風土だというわけ
ですね。

一神教的には、個人と神の一対一の関係だから、個人主義が
徹底していて、労働は労働という観念がベースにあるけど、
日本的な風土は集団主義に根差していて、個人主義や
自由主義を排除するかたちになっている。

だから、そのブラック企業の中では、事実という水をKY君が
周囲に浴びせたとしても、情況倫理という通常性が醸し出す
企業内の雰囲気によって、事実の隠し合いが起こり、
客観的尺度での思考が抹殺されてしまうということになります。

逆に言えば、事実を事実としてしゃべることが出来ないような
その情況倫理や企業内の空気が、日本語を「曖昧な」ものに
している根本的な原因ではないのか、ってことになるでしょうか。

私の無理やりな結論を言うとするなら、

「事実に基づく、率直な表現が、日本語を本来の姿に戻す」 

「その本来の日本語が、曖昧で理不尽なブラック企業を
 正しい企業に成長させる」

ということになります。

私が読んだ本の著者の皆さんからは叱られるかもしれませんが、
以上のようなことで、この結論をお許しください。

・・・ ここまで書いて数日後・・・

NHKテレビを見ていたら新日本風土記 「もういちど にっぽん」の

コピーが流れた。

いわく・・・

「見えないけれどいらっしゃる。

空気のように宇宙のように・・・。

手を合わせれば・・・わかるはず。」

・・・・・・・・・・・ これです。 日本人の深層に横たわる

あるものを神がそこにいるとして、臨在的に把握し絶対化する・・

ってやつですね。

===============

=== これより下に書いてあるのは、上記の「まとめ」を導きだす
    ために、あちこちから引っ張って来たメモです。

これは、既にまとめ的に書いたメモですが・・・

   「空気の研究」では、日本の場合は汎神論的な、
    おそらくは八百万の神・自然崇拝的信仰に根ざした
    臨在感に基づく絶対的把握によって、その対象に
    感情移入をして、空気が醸成され、それに支配され
    るから事実が見えなくなり、仲間内での隠し合い
    が行なわれ、事実を見てそれを口に出す いわゆる
    KY君は村八分にされてしまう 集団主義の社会
    だと言っているように思います。
    そして、そこからは科学的合理性なども排除される
    という結果になってしまうと。

    日本教原理主義の肝の部分のようです。
    これって、汎神論というのが多神教、神道、
    八百万の神々って話と同じならば、
    結局神道が日本人の原理主義の根元にあるって話
    ですか?
    その上で、いわば自分が属する家族的な集団を
    絶対化して、空気を作り、水を差し、
    熱くなりやすく冷めやすい回心を繰り返して
    いるってことになるのでしょうか。

    「水」とは「通常性」のことで、

「ここでわれわれは、非常に複雑な相互関係に陥らざるを得ない。
「空気」を排除するため、現実という名の「水」を差す。
・・・
従って、「空気」を創出しているものも、結局は「水=通常性」
なのであり、われわれは、この空気と水の相互的呪縛から
脱却できないでおり、この呪縛のなかに固定的規範は
入り得ないわけである。」

「日本の通常性とは、実は、個人の自由という概念を許さない
「父と子の隠し合い」の世界であり、したがってそれは
集団内の情況倫理による私的信義絶対の世界になって行く」

「情況倫理は情況を設定しうる一定の基盤がないと成り立たない。
一君万民の原則、簡単にいえば、一教師・オール3生徒であれ、
・・・一つの固定集団が一定の情況を創造しなければ成立
し得ないわけである。 この点、情況倫理とは、集団倫理
であっても個人倫理ではなく、この考え方は、基本的には
自由主義とも個別主義とも相容れない。
・・・一種の「滅私的平等」の倫理であり・・・」

「問題克服の要点は、・・・
一つは、臨在感を歴史観的に把握しなおすこと、
もう一つは、対立概念による対象把握の二つである。」

「物質から何らかの心理的・宗教的影響をうける、言い換えれば
物質の背後に何かが臨在していると感じ、知らず知らずの
うちにその何かの影響を受けるという状態・・・」

・・・・これらのポイントを私なりにまとめると、

日本人の心の深層には、いわゆる八百万の神がしっかり
根をおろしている。
一神教的な唯一の絶対的なものはない。

そこで、日本人は様々なものを臨在感的に、つまり、ある神が
そこにいるというように、絶対化して把握してしまう。
例えば、現人神であり、民主主義である。
それが いけいけの「空気」を作りだす。

一方、その空気に水を差すこともある。
それは「先立つものが無いなあ」というような通常性である。

この通常性も、ある集団的な情況倫理によって支配されて
いるので、個人主義を排除する。

その家族主義的情況倫理は、仲間内の隠し合いを生む。

この隠し合いが、事実を事実として認めない、あるいは
データを改ざんする集団内の風土を醸成する。

これを克服するには、臨在感的絶対化をやめ、
対立概念で相対的に把握しなくてはいけない。
仏像は石である。 現人神は人間である。
事実を事実として認め、論理的に判断する。

さて、この「空気の支配」と日本語の関連性としては、

大野晋的にいえば、
学問は学問の中で、事実に基づいて喧嘩をする。
子供が言おうと、大御所が言おうと、事実にかわりはない。

日本語は曖昧な言語であるというのは事実なのか。
それはその人間の頭の中が曖昧というだけのことではないのか。

日本語は論理的でない言語であるというのは事実なのか。
しかし、日本語に情緒的な言葉が多く、アテネのように
論理学が育つような環境ではないと大野氏も認めている。

「たとえば個人主義、たとえば合理主義、例えば原理・原則、
たとえば科学的証明、たとえば論理的考証などの用語が
日本ではいかにもそれらしく用いられながら、最後のところ
では日本化されて本来の切れ味を失っている状況が
克明に語られる。」
・・・という言葉は、日本語自体が、キリスト教に基づく
本来の意味を正確には伝えきれていないということ。

そもそも、日本語の論理ってのは何か・・・ってことで、
過去に読んだ本に遡ってみました:

日本語の論理(外山滋比古著)を読んでいます -その1
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/06/post-3512.html
p12
論理はそれを表現している言語と不離の関係にあるのではないかと
いうことである。 抽象的、普遍的な論理というものが、存在する
のではなくて、特定な言語によってあらわされた論理があるだけ
なのではないか。
われわれが論理と考えているものは、ヨーロッパの原語、その
文章法が表現するのに適した特殊相の論理にすぎないのでは
なかろうか。
それならば日本語で完全に表現できなくてもむしろ当然である。

日本語には日本語の論理があるはずで、もし、まったく論理が
なければ、日常の言語生活にも支障がおこってくるにちがいない。

p14
送り手と受け手が未知の人間であるような場合、筋道は
しっかりした線状をなしていて、受け手がそれから脱落しない
ようになっていなくてはならない。
・・・その典型的な例は法律の表現で・・・

これと反対に、・・代表的な例は家族同士の会話で・・・・
第三者が聞けば何のことかまるでわからぬような省略の多い
飛躍した言い方をしているが、・・話は通じ合っている。
形式論理から見れば没論理と言えるかもしれないが、
まったく論理を欠いているというわけでもないであろう。

p16
日本語は、・・・島国の言語である。
・・・家族語におけるような論理が社会の広い範囲に流通していると
考えてよい。・・・点的性格の方がよく発達しているのは自然の
ことである。

成熟した言語社会の点的論理を認めるならば日本語はそれなりの
論理をもっていることがわかる。

p17
点的論理の背後には陥没した線的論理がかくれて下敷きになっている。

p17
「連想の論理」

p18
点的論理が通用するところでは、・・・・
かりにAという言葉があるとする。 それを聞き、あるいは、
読む人は、それにゆかりのあるさまざまなものを連想する。
・・・一見無関係と思われるAとBとが引き合って脈絡
をつくり上げる。

この連想はかならずしも意味の次元にかぎらない。
音が似ていることも連想の重要なきっかけになる。

アイランド・フォーム(島国形式)の文化をもった社会では、
ひとつひとつの言葉の連想領域が大きくなっている。

コンティネンタル・フォーム(大陸形式)の文化における
言語は派生語やイディオムのすくない単語のように
語義の範囲が限定されていて、それが喚起する連想の領域も
おのずからかぎられている。

p19
海綿状に発達した言語においては、直接的でつよい表現を
与えることはむしろ効果的でない。 ごく軽い、間接的な、
あるいは象徴的な表現がよく利くのである。
したがって、そういう表現は多少ともあいまいになる傾向
をもっている。

p19
ヨーロッパにおいてはあいまいさは明晰な論理の敵であると
考えられてきたけれども、親密な伝達におけるあいまいさは
表現の生命にプラスするものであることが、二十世紀になって
からようやく認識されるようになった。

あいまいさは論理と対立するものではなくて、一種の論理で
あることを承認できるようになるには、社会が言語的に
ある成熟に達していなくてはならない。

p21
連句における、前句と次の句のつながり方もまた、日本語の
論理の一面をよくあらわしているように思われる。
・・・これを連句では「うつり」とか・・・呼んでいる。
「うつり」「匂い」「ひびき」が形式論理における論理でない
ことははっきりしているが、だからと言ってこれをただちに
非論理と決めてしまうことも乱暴である。
むしろ点的論理のもっとも洗練されたものだと考えるべきで
あろう。 

日本語の論理についてはまだまだ明らかにされていない部分
がきわめて多いけれども、このさきもさらに外国人によって
教えられるようなことがないようにしたいものである。

日本語の論理はいわば連想の論理で、それを解明するには
詩歌、とくに俳句がもっとも有力な手がかりを提供するように
思われる。

「日本語の論理」 その13 日本語は義理人情、浪花節であ~~る
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/06/post-014e.html
p60
「感情移入的」

学校でも5W1Hとかを教える。・・ニュースの枠組みによって
文章の認識、整理をしている。

日本語の動詞のほとんどすべてが人間を主語にとるようになっている。
・・第二人称の主語はことわらなくても動詞を少し変えるだけでわかる。
・・無生物が主語になっていることがあれば、たいていは
擬人法表現である。

たいていの思考が人間中心に、人間に即してすすめられる。
・・・ものごとと ものごとの関係にはさほど関心がないから
論理学は日本では生まれなかったのだ・・・・

そういう思考の展開は人生論的であり、情緒的・・
・・情緒、共鳴、感銘、感動などと自覚されるのだが、
こういうのを感情移入的思考と呼ぶ・・・
義理人情が論理に優先する。

「日本語の論理」 その16 ドイツ語はしつこい、日本語は舌足らず
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/06/post-67c4.html
p80
「島国言語と冗語性」

p82
日本語は、普通は家族の間で行われるような言語活動の様式が
親密な集団の範囲をこえて広く認められるのである。

言語には冗語性というものがある。 ひと口にいうと言葉の
中に含まれる必要な蛇足である。

p83
・・・冗語性のすくない典型的なケースがすでにのべた
家族間の話である。

p84
大陸言語の社会では冗語性をあまりすくなくすると、
ごく親密な関係の人との間ならともかく、相手に誤解されたり、
了解不能を訴えられたりするから、ていねいな表現を
しなくてはならない。

ヨーロッパ語の中でもドイツ語がいちばん冗語性が高いと
いうことであるが、われわれがドイツ語を論理的で
何となく理屈っぽいと感じているのはこの冗語性の高さと
無関係ではないように思われる。

p85
冗語性のもっとも高い見本は、・・・(日本では)
六法全書の中にあるということになる。

「日本語の論理」 その17 日本語には「話し合う言葉」がない!?
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/06/post-a28b.html
p87
日本語の論理は線状のものを表現するのにとくべつ適して
いないのではなく、馴れていないのである。

・・しかし、省略的、飛躍的な点の論理には比類なき力を
発揮できる。
碁を打つ時・・・上手になると、かなめのところへ一石を
投じて、・・・こういう上手の碁の布石のようなものが
日本語の論理だと思えばよいかもしれない。

===>> おお~~~、やっと出てきました。
待ってました! 「日本語の論理」!!

そうか~~、日本語は 「囲碁の論理」だったのかああ・・・

神の視点と地上の視点
http://hitokutikouza.seesaa.net/article/410822399.html

『日本語は敬語があって主語がない』金谷武洋著
「スペイン語など欧米の言語は物事を空(神の視点)から眺めます。
一方で、日本語は地上から眺める文章が多いです。」

「 ・日本語:時間の推移を含んだ出来事を現わしている。
 ・英語:汽車という物を持出し、トンネルからの出現にしている。

また、日本語の文章には主語がないことにも気づきます。
英語では、汽車という主語をあてはめて訳しています。
これが神の視点と地上の視点の違いです。」

日本語を話す民族に原子力は似合わない - その2
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/week21/index.html

「カナダに長年住んでいて私が恐いと思うものがあるとすれば、
それは何よりも、状況を上空の高みから見下ろす「神の視点」
です。 多くの場合、その視点はキリスト教という「一神教」
と手を組んで「神に守られた正義」の主張となります。」

「左脳で音を処理する ポリネシア語 vs 日本語  そして ムー大陸 ??」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-732e.html

左脳=言語脳で 虫の声を処理する ポリネシア語・日本語って どんなんだ?
ってことが気になって・・・ますます 迷い道・・・・

「金田一氏は『日本語の特質』(63ページ)で、「日本の周囲には、日本語のように全部の
拍が母音で終わっている言語はありません。全部の拍が日本語のように母音で終わる
言語は、日本の近くではポリネシア語がそうです。このことから、日本語ができるときには、ポリネシア族が日本にいたのではないかという説も出るくらいです。」」

「 私はかつて東南アジア語の一つであった原ポリネシア語が縄文時代に日本列島に入って縄文語となり、これと弥生時代以降に日本列島に入ってきた大陸・半島系の民族が持ち
込んだ言語が融合・発展して、現在の日本語になつたと考えています。 」

ムー大陸とは
今から約1万2000年前に太平洋の中心で、一夜にして沈没したとされる幻の大陸。
「世界最古の土器」は日本にあって、1万2000年~1万5000年前のものとされている。
ムー大陸の沈没と世界最古の土器は関係あるのか?」

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2016年11月17日 (木)

フィリピン・バギオ市でのタクシーの乗り方

バギオ市役所の前でタクシーを拾った

タクシーの運転手との会話

Img_3595

運: あなたは韓国人か?

私: いいや。 日本人だけど。

運: 韓国人か、フィリピン人かと思った。

私: よく、韓国人か、中国人か、シンガポール人か、
   フィリピン人か、って間違われるよ。
   最後に日本人か、って言われるけど・・・

運: 俺は韓国人は乗車拒否することにしているんだ。

私: なぜなの?

Img_3590

運: やつらの態度が我慢ならないんだよ。
   あなたは 韓国人にも見えたけど、
   乗る前に 笑顔だったから乗せたんだ。

私: どんなことなの? 我慢ならないって・・・

運: 行き先を XXXXって言うんだけど、
   発音が分からなかったから、何度も聞き返したんだ。
   そうしたら、奴は怒りだして、タクシーの中で
   暴れだしたんだよ。

私: へえ~、そうなんだ。

運: それに、車を降りた後に、ドアーをバターンって
   乱暴に閉めやがる。
   ジェントルに閉めてくれって書いているのに・・・

私: そういう話は 私の日本語の生徒からも聞いたことは
   あるよ。

運: どんな話?

Img_3605

私: 私の教室に、山岳民族のタクシーの運転手がいてね。
   韓国人に間違われたら危ないから、気を付けて。
   「あいつら覚えてろよ」って思っているタクシーの
   運転手は多いから。

運: 昔は、フィリピンで、アメリカと日本が戦争を
   やったよね。

私: そうだねえ。

運: この渋滞。 なんで渋滞しているか分かる?

私: 道路工事なの?

運: あるものを探して、あちこち掘り起こすんだよ。
   必要もないのに・・・

私: 山下財宝の話??

運: それだよ、それ。
   必要もないのに何度も掘り返して。
   それしかないよ。 あはははは・・・

私はタクシーを降りて、静かにドアーを閉めた。

 

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2016年11月16日 (水)

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その6

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その6

ふたつの書籍を読み比べながら、日本語と「空気」の
関係のヒントを得たいと思っています。

「空気」と関係づけるのは、ちょっと無理やり感があるん
ですが、その無理やりをやっちゃいましょう。

Img_3359



今日は 「エピローグ  遺言」の章をよみます。

p335

「日本語練習帳」の印税も使ってインドからタミル語の
専門家を学習院大学に招き、シンポジウムを開いた・・

来日したのはタミル大、マドラス大、ジャフナ大の教授
クラスの研究者など、十一人・・・

マドラス大のコタンダラマンは・・・学長になっていた。
長老格のアゲスティアリンガム・前タミル大学学長は、
古典タミル語の研究の第一人者・・・・

シンポジウムでは、「日本語の形成」のゲラを使い、
古典タミル語と日本の上代古語との間の音韻や文法、
詩の韻律などについて詳細な検討が加えられた。

p336

傍聴したハーヴァード大学の研究員は、シンポジウムの
印象を「まるで検事と弁護士が対決する法廷を見ている
ようだった」と、語っている。

討論を踏まえ、(「日本語の形成」の)ゲラにさらに
手を加えた。

これを読む方々は、結論の意外さに驚いて初めから
否定的な態度で臨むことなく
、中味に入り込んで
冷静に批判的に何処までが証明できているかと吟味を
加えて頂きたい。

p337

前タミル大学学長、アゲスティアリンガムが特に発言を
求め、
「正直にいおう。 私は大野先生の仮説について、東京に
くるまで半信半疑だった」といってから、次のように
語った。

「・・・討論を聞くうち、私の疑問は一日ごとに取り除かれ
ていった。 この仮説は理論的に、実際的に、科学的に見て、
受け入れられなければならないものであるという結論に
達した。日本語はタミル語からきたという、少なくとも
90パーセントの確信
を私は持った」

大野は、
「僕の仮説が学会の定説になるには百年かかるだろうと
思ってたけど、これで百年待たなくてもよくなったよ。
七十五年後には、定説になっていると思うな」

p338

根底にあったのは、考える力、判断する力の基本に
なるものが国語である
という信念である。

「ヨーロッパの言語を勉強した人の中に「日本語は曖昧だ
ヨーロッパの言語のような、明快な文法がない」なんて
言う人がいるけど、とんでもない間違いだ。
そういう人は、日本語の文法をきちんと勉強していないだけ
だよ。 そういう人が出ないように、これからは
助詞の「は」と「が」の違いなんかを、小学校のときから
おしえないといけないんだ。」

=== これは日本語を教えていても最大の問題で、
    どんな日本語のテキストにも、必ず
    一応のガイドラインみたいなものはあるんですが、
    実際には非常に複雑で、教えるのも大変なんです。
    この著者がかいた日本語文法を読まないといけません。

p339

本を嫌いにさせる一番簡単な方法は、読書感想文だよ。
大人だって、御馳走するけど食べた後で感想文を書いて
くれといわれたら、二の足を踏むんじゃない?

p341

発明・発見の土台になるのは国語なんだから、・・・
国語の勉強に力を入れなさいといい続けてきたんだ。
小学校では理科や社会はやめて、教科につながるような
きちんとした文章を読ませればいいんだよ。

=== 確かにこれはひとつの大切なポイントの
    ように思います。

    世の中には、脳の中で画像でものごとを
    考えるという人も稀にいるらしいのですが、
    一般的には 言語で考えるのだと思います。
    実際に、何か考えている時は、私の頭の中では
    日本語が処理されていますからね。

    おそらく、理科につながる文章、社会につながる
    しっかりした日本語の文章をたくさん読むこと
    によって、思考能力が高まるということなの
    でしょう。

p342

空気が読めないことを若者が「KY」という言い方をする
ようになったなんて、ニュースで取り上げることはないよ。
そんなものは一時のはやりで終わるってことは、まともな
言語感覚を持っていればわかるでしょう。
そもそもジャーナリズムの役目は、バカバカしいような
社会現象を追いかけるようなことじゃあないんだから。

=== おお、KY君が出て来ましたねえ。
    もっとその「空気」のことを語って欲しいところですが。

戦後、使う漢字を減らしたために、考える力や造語能力
がなくなった。 だからカタカナ語をそのまま受け入れる
ようになって、植民地のようになっちゃった。
戦争に負けるってことは、こういうことかもしれないな。

p345

会見で大野は、言葉が日本を救った例を語った。
ポツダム宣言の中の一節、
「天皇は is subject to 連合国最高司令官」の訳である。

普通は「従属する」と訳すところを外務省事務次官の
松本俊一は、「そんな訳にすれば、怒った軍部が焦土作戦に
出る」と考えて、「制限の下に置かれる」と訳し、
天皇のもとに届けた話である。

松本にこういう訳ができたのは、彼に日本語の教養があった
からである。 日本を救ったのは、言葉の力であると、
・・・・

p345

学問というのはね、深めれば深めるほど、自分にわかることが
いかに少ないかが、わかってくるものなんです。

==== 私自身もたまに翻訳の仕事をやっているんですが、
     一番難しいのは 翻訳を依頼して来た人が
     どんな人で、どんな仕事の内容で、どんな日本語が
     その依頼者にとって自然な感じの日本語で
     ありえるのだろうという点です。
     そういう時に、自分の日本語の能力の無さを
     つくづく思い知らされます。

     その日本語の翻訳文を読む日本人にとっては、
     その依頼人である外国人の人柄までを感じ取る
     ことになってしまいますからね。

     単なるビジネス文書なら、そこまで考えなくても
     いいのでしょうが、個人的な内容の文章となると
     内容自体は簡単でも、人間関係がからむから
     ニュアンスを適切にだすには、その人の人柄
     なども知っておく必要があるのかもしれません。

======

さて、ここで全てを読み終わりました。

まだまだ、二冊の本を理解したとは言い難いレベルなんですが、
次回は 自分なりの 「まとめ」に挑戦してみます。

その7 を宜しくお願いします

====================

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タミル語起源説 「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その5

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その5

ふたつの書籍を読み比べながら、日本語と「空気」の
関係のヒントを得たいと思っています。

Img_3361

「空気」と関係づけるのは、ちょっと無理やり感があるん
ですが、その無理やりをやっちゃいましょう。

p315

ゆきつけの大きな書店をのぞくと、大野の著作を集めた
コーナーがなくなっていた

小学生のための書きとり練習の大規模な組織を大野中心に
つくることになっていた出版社は、その計画から撤退して
いた。

講演の依頼がこなくなった。

=== まあ、酷いもんですね。
    本人が留学中の留守を狙って、「空気」を形成
    した輩がいたわけだ・・・
    こういうのを陰湿ないじめって言うんでしょうね。

大野が「毎月、タミル語について書かせる気はないかね」と
聞くと、社長は「先生、あの研究は大丈夫なんですか」という。

「ああ、あれは大丈夫だよ」というと、「そうですか、それじゃあ、
よござんす。 連載を始めましょう」といってくれた。

十七年後に刊行する「日本語の形成」の母体になった。

学問のことは、学問で決着をつけるべきだと考えることにした。

p316

スリランカ・ジャフナ大学のサンムガダス教授夫妻の身に、
危険がおよびそうになった・・・

スリランカでは・・・シンハリ人と、・・・タミル人の間で、
深刻な対立が続いていた・・・

大野は夫妻を東京に呼ぶことにし・・・

夫妻にとって日本語は発音が簡単なうえ、文章の語順が
同じなので、覚えやすいらしい。

国際交流基金の助成金も受け、大野と共同研究することに
なった。 ・・・大野の研究は、一気に加速することになる。

=== やっぱり、出版社の社長といい、タミル人教授夫妻
    といい、最後は信頼できる人ですね。
    国際交流基金も偉い! (ちょっとゴマスリですが)

p317

大野は以前から、タミルの文学作品としても最古の歌集
「サンガム」と「万葉集」の関係に注目
し、日本最古の
歌集がタミル最古の歌集にならって編まれたのではないか、
と見ていた。

p318

大野の説をきちんと批判するためには、上代古語と
古典タミル語に通じていなければならない。
日本には大野以上に上代古語のわかる学者はいそうにない
そのうえ古典タミル語の知識ともなると、これはもう
ドリーム・チームをつくるようなものである・・・

p319
マレーシア・クアラルンプールで開かれた「世界タミル学会」
で、古典日本語と古典タミル語は、助詞と助動詞の間にも
対応のあることを発表
した。

=== まあ、これで 勝負あったということなの
    でしょうね。
    最後に残っていたパーツを解決したわけだし。

p321

祝賀の宴で(小説家)丸谷(才一)はグラスを手に、
・・祝辞を読み上げた。 大野の数々の業績を讃えてから、
「大野さんの玉にキズは、ケンカっ早いことです」
といって会場を沸かせた。

p323

大野の頭の中にある学者は、学問研究に誠実で、
事実に対して謙虚で、メンツなどにはこだわらない、
そういうものだったのだろう。

しかし大野は委細かまわず、「日本語の起源(新版)」などで、
日本語はどこからきたのかといった、学会を刺激するような
著書を次々に発表した。

その時、学会は無視するのが精一杯だったようである。
これは、という反論や批判はなかった。
大野が古典タミル語の生き字引と組んでいることを知り、
攻撃を諦めたのかもしれない。

=== その当時はそういうことになったのでしょうが、
    今現在はどうなのでしょうね。
    大野氏以上のタミル語の学者はいるのでしょうか。
    もしいないのであれば、このタミル語起源説は
    一定の定説として語り継がれるのでしょうか。
    学問には学問で対抗するという姿勢が
    なければ、これを乗り越えることはできない
    でしょう。

大野は、縄文時代の日本では母音が四つで母音終わりの、
オーストロネシア語族の一つと思われる言語が話されて
いたと推定する。
そこに南インドから、稲作や機織りという最先端の
文明を持つ人たちがきた。

彼らは文明と一緒に言語を持ち込み、その言語の基礎語や
文法や五七五七七の歌の形式
を受け入れてできたのが、
ヤマトコトバの体系である。

==== 分かりました。
     様々に事実を検証した結果がそういうもので
     あるのなら、そして、他の学者がこれを
     ひっくり返せないのなら、タミル語起源説
     を支持します。
     もっとも、こういう研究論文を読んでも
     理解できる能力は 私にはないのが
     残念ですけどね。 あははは

=== ちなみに、最新のDNA研究ではこんなことになっているそうです。

「2016年4月3日(日曜日)午後11時30分から放送の「サイエンスZERO」は、日本人のルーツについて。」

https://www.youtube.com/watch?v=oKGmG5hfANQ&feature=youtu.be

http://yonta64.hatenablog.com/entry/zero/2016-0403-%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84

「今回判明したのは、「縄文人」は「東アジア」「東南アジア」の分岐よりも前にすでに分岐が始まっていたということ。

”オリジナル縄文人”は、中国人の先祖やベトナム人の先祖よりさらに古い時代に日本にやってきて独自の文化を作った可能性があるという。

オリジナル縄文人のDNAはアジアのどこにも見つからないもので全く新しい場所から発生している可能性があり、ユーラシア大陸のどこからやってきたのかもわからず、調査も振り出しに戻ってしまったという。」

p328

古代は女の方が男より地位が高かったんです。
ですから平安時代は女の方が立派な作品を多く残したし、
鎌倉時代もはじめは、優れた女流歌人が出ています・・・
・・大昔の日本は女性上位だったんですよ。

=== 立派な女性は 今も私の周りだけでも大勢いますしねえ。
    なぜ、今の日本は男社会になってしまったんでしょう。
    世界でも女性の社会進出が最低レベルですもんね。
    鎌倉時代からの武家社会がそのルーツなんで
    しょうか。士農工商ですか。

p331

教則本のようなもの・・・・「日本語練習帳」だった。
根底にあったのは、「日本語は曖昧な言語だ」という
誤った考え方を正したいという気持ちである。
どんな言語も、使い方を誤らなければ、曖昧になるような
ことはない
、ということである。

もし日本語が曖昧だとするなら、それは日本語のせいでは
ない。 使う人間の頭の中が曖昧なせいだ
これは大野が折あるごとに言い続けてきたことだった。

=== う~~~ん。
    これは非常に厳しいお言葉ですね。
    日本語教師としても考えを改めないといけません。

    ここにも、「空気による支配」があるのかも
    しれないですね。
    日本語は曖昧だ・・・ってのを厳密に事実として
    立証したものがあるのか、って話。
    私自身も、文脈によって、意味が変化する日本語は
    実に曖昧な言語だって思ってきましたからね。

    「日本語練習帳」を読み直さないといけません。

p333

大野から「日本語の形成」の「序文」が届いた。

「私はこの本の序文を書く時まで生きていることが出来て
仕合せである。私の一生はこの一冊の本を書くためにあった
と思う」

・・・鈴木は文字がにじんで、その先を読むことが
できなかった。

====  この本を読まなくちゃいけないな。
      おそらくこんなに仕合せな学者はいないので
      しょう。
      「空気に支配」され、事実の声も耳に入らず、
      他者の何かを絶対化して、情況に流される
      学者が多い中で、もしかしたらこの人は
      汎神論的な日本の風土の中で、
      自分を臨在的把握で絶対化できた、
      あるいは、学問自体を臨在的把握で絶対化
      することが出来た人なのかもしれないですね。

      さて、私は何を神がかりの絶対化の対象と
      しましょうかねえ。
      老い先短いし・・・・・

・・・・・・・・・・・・

一応ここで本編は終わりなんですが、

その6 では、エピローグの言葉を拾いたいとおもいます。

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2016年11月15日 (火)

週刊文春「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その4

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その4

ふたつの書籍を読み比べながら、日本語と「空気」の
関係のヒントを得たいと思っています。

Img_3357

今日は第六章 「タミル語」を読んでいます。

タミル語っていうより、学者の嫉妬・・の方がいいかも?

「空気」と関係づけるのは、ちょっと無理やり感があるん
ですが、その無理やりをやっちゃいましょう

p281

学者の間ではほとんど無視されている説を南インドに行って
検証することは、NHKのすることではないだろう。
しかし、自説を立証するために酷暑の南インドでフィールド
ワークをする六十歳の学者の情熱を描く番組なら、つくること
ができる。 そういう番組は、NHKにしかつくれないだろう。

p282

案の定、NHKの上層部はなかなかOKを出さなかった。
橋爪は各個撃破の正攻法で説得し、OKを取りつけた。

インド大使館も協力し、・・・タミル人の女性を探しだした。
・・・女性は非常に協力的で・・・・
大野は後に、不快な事実を知らされることになる。
それは・・・デリー大学にいた彼女のところに、日本人の
学者が訪ねてきた。
彼は「大野さんの仕事は、手伝わない方がいいよ」といった。
理由を聞くと、日本語とタミル語と深いつながりがあるいのでは
ないかという大野さんの説は、間違いだらけで信用できない
ものだからだ、という話をした。

=== いやいやいや・・・実に日本人の恥を海外に
    ばらまくような日本人の学者がいるんですねえ。
    他の学者の研究を邪魔してどうすんだよ。
    それとも、この学者さんは、学界のある「空気」を
    代表して、大御所の誰かに指図され、断り切れずに
    やむなくこういう卑怯な手段に手を染めたん
    でしょうかねえ。 ・・・まあ、日本人を信頼して、
    そういうことにしておきましょうか。

p286

アテネでは、パルテノンの丘に立った。
・・・大野は思わず子供たちに、
「見てごらん。 こんなにはっきりみえるところだから、
ギリシャで論理学という学問が発達したんだよ」といった。

日本がもし、ギリシャのように乾燥した気候風土の国で
あれば、じょのごとがくっきりと見え、日本語はそれこそ
「シク活用」の形容詞より、「ク活用」の形容詞を数多く
持つ言語になっていたかもしれない。

学習院の学生たちに・・・

「まず、ものごとを細かく観察すること。 観察したうえで
正確に言葉で表現すること。そういう習慣を君たち
一人ひとりが身につけないと、この国はどうなっちゃうか
わからないよ。」

=== さて、ここで無理やりに「空気」と結びつけますと、
    細かく観察し、正確に表現する、つまり事実を
    事実として伝えなくてはならない。
    それを怠り「空気」に支配されちゃったら、
    この国はどうなっちゃうか分からない・・ですね。
    そうでなくても、日本語ってやつは、情緒的で
    論理学が育たないような気候風土なんだからさ。

p292

大野に悪意がないのは、いうまでもない。
要するに、「学問は厳格にしないとダメだよ」といいたい
だけである。・・・
松原は教え子だからわかる。・・・・

・・・そのために大野は摩擦を起こし、敵をつくり、
恨まれることになる。 果ては、悪意に満ちた噂
まで流されることにもなる。

「先生、周りじゅう、敵だらけじゃないですか。
長生きしてくださいよ」といったこともある。
大野は「君もよくいうなあ」といっただけだった。

p294

日本とタミルのつながりを調べるうえで、言語学の
研究だけでは足りない、民俗学からの追究が不可欠で
ある、・・・
「松原君、僕はこの研究のためなら、死んでもいいと
思っているんだ」と何度もいった。

p295

村人の一人ができた料理を屋根の上に置くと、
村人たちが一斉に「カア、カア」とカラスの鳴き声を
真似た。 ・・・松原は思わず、「カラス勧請だ」と、
大声を出した。

・・・大野も食べ物をつくってカラスを呼ぶ儀式が
日本にあったことは、民俗学者の柳田国男の書いた
もので読んだことがある。

p296

松原は、・・・
神話には日本と共通するものが多い。 それですっかり
興奮していた。 ・・・「もしかすると、このフィールド
ワークで収穫が多いのは、大野さんより松原さんかも
しれない」・・・

「大洪水」の後に「兄妹」が動物を生んだというこの村に
伝わる神話は、「古事記」の記述と構造が似ていた。

p298

南インドのフィールドワークは四十五分間のNHK特集
「日本語はどこから来たか - 大野教授のタミル紀行」
として、昭和五十五年(1980)十一月十日夜、
総合チャンネルで放送され、視聴率は10パーセントを
超えた。 ・・・ただちに再放送が決まった。
橋爪は転勤した福岡で一人、祝盃をあげた。

p300
NHKが特集番組をつくり、朝日新聞の週刊誌が連載を
し、岩波書店が著書を刊行する。 しかも著書が確実に
売れる。 国語学の世界にこういう学者はいなかった。
はじめてのスターといってよかった。
学者からは嫉妬され、反論が出ることは、予想されていた。

p301

大野は再反論を書きたかった。
しかし時間がなかった。 「世界タミル学会」では
日本語とタミル語の関係について講演をすることに
なっている。 準備に追われていたからである。

p303

大野が求めていたのは、まさにこういう学者だった。・・・
日本の上代古語と古いタミル語の本格的かつ正確な
比較、研究がはじめて可能になった。

大野は大阪外国語大学講師に対する再反論を、
帰国してから書き・・・・大野の単語表について、
学会では異論が出なかったことを記し、
講師の文章を英訳したものを読んだインドのタミル語
学者の、「私が日本へ言ってタミル語を教えてもよい」
という談話を付けた。
そして、「私はこのみのりの少ない論議を、もはや
打ち切りにしたい。 ・・・・」
・・・議論はそれきり沙汰やみとなった・・・・

p304

日本語がタミル語と同系であることを証明するためには、
・・・・助詞や助動詞にも対応する例のあることを立証
する必要
がある。

ところが、日本語の助動詞は寿命が短い。
・・・古典ではおなじみの「つ、ぬ、たり、り、き、けり、
けむ」は、口語では消えている。
・・・助動詞の寿命はだいたい五百年で・・姿を消して
しまうか、元の形がわかりにくくなるほど変わって
しまうものである。
・・・大野にとっては半ば常識になっていることだが、
多くの国語学者には、そうではなかった。

p306

古典タミル語の知識が必要不可欠である。
・・・大野はマドラス大学に一年間留学し、・・・
教授は専門が古典タミル語だ。

・・・留学生になった。 還暦を過ぎても決断の
早さと行動力は少しも変わることがなかった。

p310

大野がマドラスにきて一カ月、・・・週刊誌
週刊文春」が・・・大野の仮説攻撃を始めた・・・

「もてもて国語学者に集中砲火 大野晋
「日本語・タミル語起源説」は”学問の公害”の
たれ流しか?」という大見出し・・・・

p311

「大野説は誇大広告で売る新薬か」
「大野晋教授に告ぐ なぜまともに議論しないのか」
などなど・・・・

== ここにいわゆる罵詈雑言の類の攻撃がされた
   ことが書いてあるんですが、実に「空気の醸成」
   ですね。
   議論の相手が留学中の留守をねらった
   コソ泥なみの攻撃・・・
   いやはや、学問の世界も怖いこわい・・・

   それこそ「世界タミル学会」で議論すれば
   済むことだろうに。

   週刊誌で 何も分からない一般人を巻き込んで
   相手を追い詰めようとするなんて、学者の
   面汚しみたいなもんでしょうに。
   国語学者が 侍の恥も知らんのか・・なんてね。

p311

週刊誌の中では比較的上品さを売り物にしている
「週刊文春」にしては、珍しいほど感情的、煽情的な
見出しである。

=== おお、今はどうなんです? 上品なの?

p312

しかし、見出しほどには中身がない・・・
他誌の間でも「文春はいったいどうなってんだ
個人的な恨みでもあるのか」と、話題になるほどだった。

井上ひさしの寄稿・・・
「大野晋日本語起源論争へ ぼくの好きな古語辞典」
・・・
(大野晋が作った)岩波古語辞典全体をナマクラ辞書と
呼ぶなら、どうか蹟学たちもちがった立場から一冊の
辞書をお編み下さい。 よいものだったら買います・・・

一読、胸のすくような名文だった。
(現在までのところ、井上が岩波古語辞典より優れている
 と折り紙を付ける古語辞典は観光されていない)

=== まあ、文春さんも評判を落としたもんですね。
    事実を精査しないで中身のない情況で
    空気を醸成しようとしても そりゃあ天に唾
    みたいなことになるでしょうね。

p314

学習院で帰国の報告会をした。
しかし、大野の顔を真っすぐ見ようとする者は少なかった
大野の身を案じてくれていることがうかがえた。

・・・・・・・・

なるほどねえ・・・事実に基づかない悪意のある空気に
よる支配・・・マスコミは重大な責任がありますねえ。

では、その5 に続きます。

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「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その3

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その3

ふたつの書籍を読み比べながら、日本語と「空気」の
関係のヒントを得たいと思っています。

今日は第六章 「タミル語」からです。

Img_3361

「空気」と関係づけるのは、ちょっと無理やり感があるん
ですが、その無理やりをやっちゃいましょう。

とりあえず、「日本語のタミル語起源説」のいきさつから・・・・

p263

日本語はどこからきたのか
国語学界では長い間、日本語の源流を北方に求める
研究者が多かった
。 日本語の文法的な構造が、
トルコ語やモンゴル語やツングース語といった「アルタイ語
群」と共通しているところから・・・・しかし文法的な
構造は似ていても、単語の対応は、はっきりしなかった。

朝鮮語と同系ではないかと・・・しかし百五十の中には
文化に関係した単語が多かった。文化に関係する単語は
言語の系統とは関係なく入ってくることが多い。
基本動詞については立証できない・・・・

p264

アイヌ語については、専門家の金田一京助が、「日本語と
アイヌ語は、文法的にもつながらない」と断定していた。

大野は・・・「日本語と関係の深い言語は、南方にある
のではないか
」と書いた。・・・それきりになっていた。

=== ここまでは、いわゆる良く知られている説ですね。
    でも、どうも、いま一つ決め手にかけるということ
    みたいです。

学習院に日本語の系統について講義にきていた江実が、
「大野君、南インドのドラヴィダ語族は、日本語と文法の
構造がよく似ているんだ。これは要注意だよ」といった・・
・・・京大出身の言語学者で、・・・内モンゴルで
モンゴル語の研究をした。

日本の言語学界はどういう理由からか戦後、戦争の前から
外地にいた言語学者を軽視し、ときには無視する傾向が
あった。

p265

江は・・・日本の南・・・ニューギニアに日本語の先祖
いるかもしれないという説を発表し・・・
パプア湾沿岸の言語に日本の上代語とよく似ているものが
あることを発表・・・
語順が似ていることや単語が日本語と同じように母音
終わっていることをあげていた。

=== ことほど左様に、日本語の起源については
    様々な説があるようです。
    私が今までに読んだ本の中にも、日本人の右脳や
    左脳と言語処理の関係が、欧米人のそれとは
    異なっているという説の中で、このポリネシアの
    周辺の言語が 日本語と同じ母音で終わる言語であって
    自然の音、虫の声などを楽しめる民族だとの
    説を読んだんです。
    もしかしたら、大昔のその昔に太平洋に沈んだと
    されるムー大陸の子孫が日本人なんじゃないか、ってね。
    誰か日本人ムー大陸起源説をやってくんないかなあ~~。

その時のメモはこちらでご覧ください:
右脳と左脳 音楽vs虫の「「声」・日本語を母語とすると・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-aba3.html

謎の伝説の大陸ムー大陸:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E5%A4%A7%E9%99%B8

p265

ドラヴィタ語については若い言語学者の芝丞や・・・
芝は興奮した様子で「大野さん、タミル語はアイウエオ順
並んでいます」と電話をしてきたこともある。

p267

辞書を開いた・・・「アンガライ」を見つけた・・・
日本の古語に「アカラシ」という語がある。
・・意味が共通しているだけでなく、音素が五つ対応している。
これまで数々の言語と日本語の比較をしてきたが、一語とは
いえこんなに重なることが多い単語を見るのははじめてだった。

p268

ドラヴィダ語は二十を超える言語から成り立っているが、
語形も意味も日本語とよく似ているのは、タミル語だった。

p269

経済学者のタワラジという人が古典の教養もあることが・・・
かれは大野の関心が古代のタミル語にあることがわかると、
タミルに伝わる「ボンガル」という祭の話をした。

大野の家も子供のころは毎年一月十五日には小豆粥を炊き
それに白砂糖をかけて・・・正月の慣例になっていて・・・

思わず、「お粥にお砂糖はかけませんか?」と聞いた。
すると「イエース。 砂糖や砂糖キビで甘くして食べます」
と言ってから、「どうしてあなたはそんなことまで知っている
んだ」という顔をした。

p270

一月十五日に赤い粥を炊き、甘くして食べて祭をすることは、
平安時代に紀貫之が書いた「土佐日記」にも出てくる・・・

かなりの単語の音と意味が、良く似ているだけではない。
古い慣習も似ている。単なる偶然とは考えにくい

・・・稲作関係の言葉に対応しそうなものが多いことも
わかった。

p272

朝日新聞に載った大野の寄稿も「週刊朝日」の対談も、
学界からはほとんど無視されたが、一般にはよく読まれた
ようだった。

p273

NHKから電話があったのは・・・
「先生の朝日新聞の御文章、興味深く拝読しました。
それで実は、先生に南インドにいって仮説について調べて
いただいて、その様子をテレビ番組にできないか、と
考えておりまして」

大野はわずかな会話から、その人間の人となりを当てる
ことができた。 それは天才的といってもよいものだった。

「僕は「上代仮名遣の研究」に始まって「岩波古語辞典」
まで、約二万語の単語とつき合ったんだよ。人間でいうと、
二万人の人とつき合ったことになるんだな」

p277

インド大使館員に・・・マドラス大学の教授・・・を教えて
もらって・・・教授は古典タミル語の権威だった。

p278

教授の顔とノートを交互に見ていた。
我々はこの研究を進めなければなりませんね」と英語でいった。

p279

取材を通して知り合った東大の言語学、考古学、文化人類学
の教授たちに意見を聴いて回った。
しかし「面白そうだ」という学者はいなかった
ほとんどの学者が大野の仮説を「考えてごらんなさい。日本と
南インドは、七千キロも離れているんですよ。ありえない話
でしょう」といって、一笑に付した。

=== 私は学者とか研究者とかいう人たちは
    既成のことに囚われることなく自由な発想で
    面白そうなことに取り組む人たちだと思って
    いたんですが、頭が固いみたいですね。
    事実を見ずに、権威に寄り掛かるのが日本の学界
    ってことなんでしょうか。
    異端児じゃないとノーベル賞は無理みたいですね。

p280

「北方騎馬民族日本征服説」で有名な考古学者は、・・・
「七千キロなんて、大した問題じゃないよ。 海は大昔
ハイウェーだったんだから
。 大体日本の学界は、新しい
説が出てくると、まず叩く。悪いクセだ。
どんでもない話から仮説ができて定説になることは、そんなに
珍しいことじゃないんだ。」

橋爪は「新説はまず叩く」に、ヒザを打った。学界の中の
足の引っ張り合いや嫉妬のすさまじさは、教育番組を
つくるときにさんざん見てきた。

足を引っ張られまいとして井の中の蛙になって大海に
出ようとしない学者・・・波風を立てないように・・・

仲良しクラブ」の風潮は、何も学界に限ったことでは
なかった。 残念ながらNHKも例外ではなかった。
しかし大野は、そういう学者ではなかった。

=== この辺りが、例の「空気」に通じるところでしょうか。
    足の引っ張り合いや嫉妬のすさまじさが
    表面に出たのが あの「STAP細胞・小保方事件」
    なんでしょうか。
    自殺者まで出すすさまじさでしたが・・・
    私は密かに 小保方節が将来の定説になることを
    願っている一人なんですけどね。

    「それでも地球は廻っている・・・」
    「STAP細胞はあります!」

    卑近な例で申し訳ないんですけどね。
    私がフィリピンの大学で使われている歴史教科書を
    読んだ時に感じたことなんですけど。
    日本の教科書では感じなかった、東南アジアの
    古代からの海を通じての世界的交流の広さです。
    インドあたりからフィリピンあたりまでは
    当然のことのように交易が盛んだったんですね。
    それよりも後に、倭寇なんかがちょこちょこと
    フィリピン沿岸に姿を現わしている。
    植民地化をされる前の昔から交流が盛んだった。
    もちろん、仏教がはるばる北インドから
    ガンダーラや中国を経て、日本へ伝来したこと
    なんかを考えれば、まったく不思議じゃないです
    もんねえ。 海どころか歩きですよ。

・・・・・

それでは、 その4 でどう決着するんでしょうか。

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「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その2

国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読んでいます。

ふたつの書籍を読み比べながら、日本語と「空気」
関係のヒントを得たいと思っています。

Img_3359

p170

GHQ民間情報教育局(CIE)の主導で、日本語を根底から
変えるような政策が進められつつあった。
その考え方を要約すれば、
「見るからに複雑怪奇な漢字は、悪魔の文字である。
日本の国民は悪魔の文字のせいで正しい情報を知ることが
できず、軍国主義に支配されることになったのだ。
悪魔の文字を使わせてはいけない。漢字なぞ、やめてしまえ

日本には、同じように漢字の廃止を提唱する団体が、戦前から
あった。 romajikaiとカナモジカイである。

この動きに「待った」をかけたのが作家、山本有三である。

「日本語が外国人の命令によって変えられるのは困る。
自分達でかんがえる」と民間情報教育局に申し入れ、
国語学者などを集め国語審議会を主宰した。

p172

実際のところ日本語はこの時期、その存在は「風前の灯
といってもいい状況に置かれていた。

=== 恐ろしい時期があったんですね。
    ローマ字やカナ文字だけの日本語になっていたら
    漢字で表記されている様々な意味を込めた
    日本で作られた漢字熟語が消え去って、
    日本独自の科学の発展にも支障が出ていたんじゃ
    ないでしょうか。思想の根本である形而上学に
    使われる漢字も外国語の概念を上手く翻訳して
    いたわけだから、同音異義語なんぞがめっちゃ
    たくさんある日本語は そうとうな混乱を
    したでしょうね。
    韓国語がその例だと聞いたことがあります。

    もしかしたら、そういう日本独自の科学の発展
    に恐れを感じたアメリカの謀略だったかも??

 

p207

「室町時代の末に日本に来てキリスト教を広めようとした
人々は、キリストの愛、神の愛を説こうとしたときに、
愛という言葉を避けて「大切」という言葉をもっぱら
使った。 それは、当時すでに「愛」という言葉に
しみついていた、そういう(「今昔物語集」などで
使われた)「小さいものを可愛がる」というような意味
から遠ざかろうとしたためであろうと思われる」

=== 今でも、例えば I love you. を日本語で
    どういったらいいですか、と聞かれて、
    「私はあなたを愛す」なんてことを
    教える気にはなれないですもんねえ。
    「好きだよ」とか「すっきゃねん」とか
    九州なら「すいとっと」かなあ・・・笑

p212

自分の研究に少しでも落ち度があれば、素直に認める。
・・・学問研究においてはだれが書いたものかより、
それが実証的かどうかで評価されるべきであるという
ことを、あらためて知ったのだった。

p213
「徹底的に相手をやっつける」ことが許されたのだろうし、
そういう議論のしかたは、大野の望むところでもあった。
学問、研究はそうあるべきで、イデオロギーや感情の
入り込む余地はない

=== 相手が子供であろうとも、その言っていることが
    事実であるならば、それを謙虚に認める
    という態度ですね。
    たとえ議論の相手が自分の教え子であっても
    実証的、論理的であることが重要。
    しかし、日本では、往々にして、誰が言ったか
    が優先され、事実がある「空気」の中で
    ゆがめられてしまうと。

p224

「国語審議会は漢字を追い出した後で、どうするつもり
なのか。 このままでゆくと、外来語がどしどし入って
きて、日本語は外来語にテ、ニ、ヲ、ハが付くだけの
言葉になってしまう
。」

五十年前に今日のカタカナの氾濫を予見していたことになる。

p225

ローマ字派の急先鋒の一人・・・は
「中国ではいずれ漢字が全廃され、ローマ字になる」という
見通しを建て、日本の漢字教育を批判していた。
今となっては、笑い話にもならない。
人々の記憶には「日本語をやめてフランス語を国語に
しよう」といった「小説の神様」の発言が残っていた。

p232

言葉に限らず、日本人の「民主主義」や「自由」についても、
基になった思想や哲学、されにはそれぞれの歴史についても、
ろくに知らないまま、言葉の響きに浮かれているところが
ある。 それも大野には、気になることだった。

=== この言葉の裏には思想があるという点は、
    「空気の研究」でも述べられていることでした。

それを振り返ってみると、ここの部分です:

p236(「空気の研究」)

日本では一神教的思想に由来する各種の概念が
いかに好い加減に用いられているかの立証に筆を
進められる。 
たとえば個人主義、たとえば合理主義、例えば原理・原則、
たとえば科学的証明、たとえば論理的考証などの用語が
日本ではいかにもそれらしく用いられながら、最後のところ
では日本化されて本来の切れ味を失っている状況が
克明に語られる。

=== つまり、欧米などの一神教と日本の汎神論との
    間の根本的な違いですね。
    だから、日本化されてしまうのが自然では
    あるのでしょうが、本当は違うってこと
    ですね。

p232

大野は国語審議会に出てみて、想像していたことが
思いすごしではないことを知った。

会長や副会長は・・・名前は有名でも、国語については
組織的な知識を持っていなかった。

結局、原案がそのまま認められていく。

三期六年、委員をしてみて分かったことといえば、
国語審議会なるものは他の多くの審議会や諮問委員会と
同じように、役人があやつっている一種の隠れ蓑
すぎないのではないか、ということだった。
そういうことを知ってみると、GHQの民間情報教育局
がいち早く国字国語改革から手を引いた理由が理解できた。

=== な~るほど・・・これが「空気に支配される」
    見本みたいなものなわけですね。
    トップには名前だけは有名な人を集めておいて、
    中身は役人が作る。 そして、そういう空気に
    持って行くという技を使うわけか。

p235

日本人はともすると、事実を冷静かつ細かに見ようとしない
ところがある。 事実より、それをめぐる周辺の雰囲気
人間関係に心を配ろうとする。 さらには、事実を
ぼかす方が賢いと思う傾向があるのではないか。
大野の見立ての根底には、日本人の国民性について
折に触れて感じていたことがあった。

=== う~~ん、これは正に、「空気の研究」そのもの
    ですね。 ある場面で情況によってある一定の
    方向に全てが流されていく。

大野が助教授になってすぐの教え子の山本俊英は
二年生のとき、日本語には、大きい、小さい、長い、
短いといった「ク活用」の形容詞より、さびしい、悲しい、
うれしい、わびしい、楽しいといった「シク活用」の
形容詞の方が、はるかに多い
ことを突き止めた。
・・・山本の発見は、日本人が事実を細かく観察する
ことより、情緒的にとらえようとする傾向のあることを
端的に示していた。

=== さて、ここで、日本語と日本人の国民性の
    関係が出てきました。
    これが本当かどうかは、それこそ、外国語との
    比較でデータとして実証しなくちゃいけないん
    でしょうが、研究者が「端的に示していた」と
    言っているわけだから、そうなのでしょう。

    まあ、感覚的には、情緒的な言葉が多いかな
    という気はしますけど。

p240

大野はこうして事実を調べ上げたうえ、失恋を経験して
から恋の喜びを知った(本居)宣長のために「得恋」
いう言葉をつくったのだった。・・・
しかし「得恋」という言葉は、ついに定着しなかった。

== おお、この「得恋」(とくれん)という言葉は
   私の中では しっかり定着していますがねえ・・
   どの世代の人たちの記憶に残っているんでしょうか。

p256

女性達は、男性には感じ取ることが難しい、こまやかな
感情のひだを読みとることに慣れていた。
そして、それぞれに個性的だった。
優しい気性の女性が剛健な意味を持つ単語を受け持つと
弱々しく訳される。 逆に、強い気性の女性が優しい
意味の単語を担当すると、訳が粗くなる。

=== これは、辞典の編纂をした際の、シク活用の
    形容詞について ひとつひとつの語に
    どんな説明をつけるかの作業での話です。
    私が直接法で日本語を教える場合は、
    新出語の意味をそれまでに習った語彙の範囲で
    易しく説明する方法を考えださないといけない
    んですが、やっぱり辞書というものは
    複数を並べて調べないといけませんね。

    ましてや、外来語ともなると、なかなか
    これがやっかいでして、
    和製英語ってのが曲者ですよね。
    たとえば、日本で言うシュー・クリームは
    英語ではクリーム・パフですもんね。
    (靴クリームのことじゃないですよ。)

    それを考えたら、民主主義だの合理主義だの
    いうような抽象語はなおさらのことでしょう。

・・・・・・・

さて、次回 その3 は、この大野晋氏が「孤高」であった
ことを証明するような「タミル語起源説」の部分です。

=============

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2016年11月14日 (月)

「空気の研究」と「国語学者・大野晋の生涯ー孤高」川村二郎著 を読む - その1

大野晋という学者について私がその名前を知ったのは、
2001年ごろに日本語教師の勉強をすることを決め、
日本語学やその歴史を勉強したころでした。

Img_3357_2

その時に頭に残ったのは、大野晋の日本語タミル語起源説
いうもので、業界的には異端の説だとして おそらく学会
などでは奇人変人扱いされていたのではないかと思います。

ただ、私、何も言語学を知らないフツーの個人としては、
wikipediaなどで 日本語の起源を検索すると
以下のように様々な説があって、これが学界の誰もが
認める定説だというようなものは無いということですので、
タミル語起源説があっても別に不思議ではないと思うん
です。

「日本語は、系統関係の不明な孤立した言語のひとつであり、
他の言語との系統関係が未だ明らかになっていない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90

そこで、山本七平著「空気の研究」を読んで、
「日本を支配する空気」と日本語そのものの間に何らかの関係が
あるんじゃないかと思い、この「孤高」とまで言われている
「空気に支配されなかった」国語学者に関する本の中から
なんらかのヒントが出て来ないかなと思ったわけです。

よって、その生涯を、この本の全体を読むというよりも、
日本語そのものについて孤高の国語学者がどう捉えていたか
という観点から 面白いところをピックアップしてみたいと思います。

p122

東大の国文学科で「万葉集」の研究をするつもりでいた大野を
「国語」の研究に向かわせたきっかけの一つは、一高時代の
ドイツ語にあった。

ゲーテの「ファウスト」が教科書だった・・・
はじめは原文を一行読んでは森鴎外の訳を読むようにしていた。
しかし原文に慣れてくると、鴎外の訳には目が向かなくなって。

原文の頭韻や脚韻の呼応が、胸に響くようになった。
・・・
ベートーベンのシンフォニーを聴いているような錯覚を覚え、
気がつくと、鴎外の訳文が瓦礫のように思われ、目の前から
消えていた。

p123

日本語の詩は文法の構造から、脚韻を踏むことができない
頭韻も困難である。 ・・・しかし、違いをこういう形で
見せつけられると、・・・「日本語とは何か? 日本人とは
何か?
」という疑問が、ますます大きくなった。

=== ここでは、とりあえず、日本語と外国語は
    ことほど左様に違うよってことと、
    翻訳というものは原語の特徴まで含めて
    正しく日本語に写し取ることなどできないって
    ことですかね。
    言語が変われば、別人格になると言われる
    所以がここにあると思います。

p131

午前十一時半、ラジオはハワイ・オアフ島の真珠湾に
停泊中のアメリカ海軍の戦艦と地上の軍事施設に対する
奇襲攻撃が大きな成果を挙げたこと、そして
シンガポール爆撃が成功したことを報じた。

アメリカは多力の国、日本は少力の国ということである。
一高の「多力」の友人たちからは、アメリカ、ヨーロッパの
軍事力や経済力や工業力が、どれをとっても日本とは
比べものにならないほど巨大である
ことも聞かされていた。

=== ここでは、日本全体がある「空気」に覆われ
    太平洋戦争に突入したことが書かれているんですが、
    そうした中でも将来の日本を背負って立つべき
    東京大学の学生達にはそれが馬鹿げたことだと
    いうのは一般常識として分かっていたわけですね。

p132

奈良時代に日本語の母音が八個あったということは、その
ひとつである。 「神」の「ミ」と、舞台の「上手」の
「ミ」とは別の発音だったという。
従って、「神」と「上」は全く別の言葉で、
「神(カミ)は上(カミ)にいるから神(カミ)なのだ」と
する語源説は、誤りなのだという。

p136

橋本について研鑽を積んだのは正味二年である・・・・
身に付けた研究手法は・・・次のような五段階になる。

1. 単語の用例を可能な限り集める。
2. 文脈から意味を細かく分けて分類する。
3. 分類したものをグループにまとめる。
4. グループごとに共通する意味を抽出する。
5. 類似の単語との差を見定める。

ーーこの手法を補足するものにデカルトの「方法序説」
ある。 ・・・「学問とはこういうふうにするのか」と
教えられた最初の書物といってよいものだった。

=== 私は研究者ではないので、五段階それぞれに
    どんな意味があるのかは分かりませんが、
    日本語を教えていて感じるのは、
    翻訳を通さずに直接法で教える際の
    文脈の作り方がいかに難しいか・・です。
    似たような意味の言葉は、複数あるというだけで
    なんらかの違いがあるわけですが、
    それがどのような使い方の時にあらわれるかを
    見極めなくてはいけないってことです。

    研究者、学者のレベルでは、それが可能だと
    しても、それを外国人に教える現場となると
    日本人に対して説明することすら困難ですからね。
    つまり、ふたつの意味の似た言葉の
    使い分けをどう理解させるか、です。

p137

デカルトが「方法序説」で教えているのは・・・・

これは大野が橋本に学び、身につけ、実践し、後進に
教えていること、そのものだった。
・・・橋本の「たとえ童児のいっていることでも、
真実であれば信ずるべきである
」という考え方だろう。

p138

日本では発言の中身を吟味する前に、発言者が何者
なにかを問題にしすぎる。
 学界が閉鎖的になって、
研究に発展性が乏しいのは、そのせいだよ。」

大野はこういう発言のために誤解を招き、敵を増やす
ことにもなったのだが、そういうことは、まるで
気にならないようだった。

=== さて、お立ち会い。
    ここですね、さっそく日本の「空気」
    一端が出てきました。
    発言が事実かどうかではなく、発言者が
    童児なのか学界の大御所なのかで
    採択する事実が違ってくるってわけですな。

    確かに、私も含めて、何かの事柄を他の人から
    聞いた時などに、「それ、誰が言ったの?」
    って訊きますもんね。
    情報の出所を確認するという意味では必要な
    ことなんでしょうが、言われた事柄が
    事実かどうかの判断を誰の口から出たかで
    決め付けちゃうって話になりますか。

p138

ラジオで噺家が「早くマケた方が勝ちなものはなあんだ?」
と、謎かけをしていた。
答えは「ゲートル巻き競争」だったが、外務次官の父親は
「早く負けた方が勝ち」と聞いたらしい。
「そんなことをいうと、東条につかまるぞ」と
ボソリといった。

=== おそらくこれは、日本全体の空気に対して、
    「馬鹿な戦争をやっている」ことが分かっている
    落語家が 謎かけで表現したんでしょうね。

p139

大野は松本の父親に「どうすれば戦争はやめられるんですか
と聞いた。 すると父親は「向こうは、日本が樺太と朝鮮と
台湾を返せば、やめるといっている。 やめる機会は
いくつかあったが、みんな陸軍が蹴ったんだ」といった。

=== まあ、この辺りは、戦史に詳しい人が大勢いらっしゃる
    でしょうから、議論はしませんが、これから判断するに
    それなりの人たち、学生も含めて、分かっている人たち
    はちゃんと居たけど、「空気」という不思議な力に
    支配されていた陸軍を中心とする集団に押し切られた
    ということでしょうか。

p142

昭和二十年一月二十七日、B29の来襲を告げる空襲警報
が鳴り・・・地下室に逃げ込んだ・・・
隣にいた仏文科教授の・・大きな声がした。
「女の人ってなあ、偉いんだ。 爆撃がひと息つくと、
防空壕の中で「今夜のおかず、何にしようかしら」なんて、
話し手いるんだから」

=== 関係ないですけど・・・
    本当に女性は偉い。

p147

運命の八月十五日、・・・安田講堂に集められ、玉音放送を聴いた。

大野はこのときを振り返り、
「ぼくは泣く気にはなれなかった。 負けた口惜しさより、
 いうにいわれぬ腹立たしさが先に立って、涙は出なかったな」

=== おそらく、「空気」に支配されていなかった人たちは
    こういうことだったのでしょう。

p147

日本の軍人たちは、自分の国、言語、ひいては文化を絶対の
ものだと信じ、相対的な存在として見ようともしなかった
神国日本」などといういい方は、その象徴ではなかったか。

=== ついに出てきました。
    「空気の研究」のキーワード、臨在感的把握と
    その対象の絶対化、そして、相対化の排除、ですね。
    要するに、神風が吹くんだ的な狂信と
    事実に基づく論理的思考の拒否でしょうか。

p149

後に大野はこのときの心境を、
「私は日本語を通して日本の根本条件を明らかにしようと
志して来た。 だから、日本語が消滅する日までは、
敗戦、勝戦に拘わらず私の目標は意味を失わないはずである。」

=== と言うことで、この学者は、日本語と日本の本質を
    関連付けて研究しようとしていたわけです。

    この本は、本人が書いた本ではありませんが、
    川村二郎氏の本書で 何が出てくるかを
    見て行きましょう。

・・・・

その2 に続きます。

=============

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日本語との関係? 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その12

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・

一旦 「あとがき」までで終わったんですが、
日下公人氏の「解説」にヒントになる言葉なんぞが
あったので、 その12 として追加します。

Img_3357

p236

日本では一神教的思想に由来する各種の概念が
いかに好い加減に用いられているかの立証に筆を
進められる。 
たとえば個人主義、たとえば合理主義、例えば原理・原則
たとえば科学的証明、たとえば論理的考証などの用語が
日本ではいかにもそれらしく用いられながら、最後のところ
では日本化されて本来の切れ味を失っている状況が
克明に語られる。

=== 私も以前から 日本の民主主義というのが
    なんとなく日本人の体形に合わない服みたいな
    感じをもっていたんです。
    それは、おそらく民主主義や自由主義というのを
    理解しているつもりになっているだけで、
    実際のところは根本のところで何かが違う
    という程度の浅い考えなんですが・・
    この本を読んでみると、キリスト教という
    一神教の思想に根差した個人と神との契約と
    言われるような個人主義の考え方が分かるような
    気がします。
    
    「空気の研究」では、日本の場合は汎神論的な、
    おそらくは八百万の神・自然崇拝的信仰に根ざした
    臨在感に基づく絶対的把握によって、その対象に
    感情移入をして、空気が醸成され、それに支配され
    るから事実が見えなくなり、仲間内での隠し合い
    が行なわれ、事実を見てそれを口に出す いわゆる
    KY君は村八分にされてしまう 集団主義の社会
    だと言っているように思います。
    そして、そこからは科学的合理性なども排除される
    という結果になってしまうと。

    一神教の場合、厳格な派では、偶像崇拝を禁止
    していて、死にも値するような厳しいことにも
    なるようですが、日本の場合は 仏像に代表
    されるような習慣もありますしね。
    おまけに八百万の神々だから偶像崇拝は気楽に
    やっているってことでしょう。
    ちなみに、お釈迦さんも偶像崇拝をするなと
    言ったそうで、仏像も作らなかったそうですから、
    仏教とは言っても お釈迦さんの時代からは
    かなり変遷があって、日本的解釈になってからは
    さらに別物になったんでしょう。

歴史は繰り返されるのであって、戦中戦前の日本人の
思想様式や行動様式が今も変わっていないことが・・・

大正族や昭和ヒトケタ族には その伸縮しない物差しの
重要性と必要性はよく分かるのである。
その世代は理由がよく分からない戦争に捲き込まれて、
ひどい苦労をさせられたからである。

=== この部分は 非常に恐ろしい話で、
    私は戦後生まれですが、原発事故と放射能の
    問題や、立憲主義をなし崩しにされている政治的
    情況を考えると、この本は33年前に書かれたとは
    言え、益々その傾向が加速しているような感覚を
    覚えます。

    ただ、この本では、戦後の憲法が絶対化された為に
    欧米の考え方とは違って、憲法改正は一切まかり
    ならんという雰囲気にも言及しています。
    私個人は、憲法改正には原則賛成ですが、
    自民党が進める内容には疑問があるので、野党が
    理想とする、立憲主義を確保するための改正が
    あってしかるべきと考えているんですけどねえ。
    今までにも十分に、野党の責任もあって、なし崩し
    にしてきましたから。
    反対、反対ばっかりじゃあ、何に反対してんのか
    さえ分かりません。
    自分が政権を担うという前提での改正をやって
    もらいたい。

p237

それは「空気」の力が原因だったと教えてくれる。
水を差しても無効な程の「空気」の力が開戦の原因で、
同じことは今も繰り返されていると教えてくれるので
恐怖を感じるほどの迫力がある。

さらに本書は ユダヤ人は紀元前からそうした「空気」
の存在を自覚していて、その克服手段を種々工夫を
凝らしていたとも教えてくれる。

=== 「空気に支配される」ということは、いわば
    洗脳されるということなんだろうと思うんですが、
    それに関して 下のリンクのような記事が
    ありました。

【コラム】洗脳されやすいのはどんな人
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2016/11/11/2016111101576.html?ent_rank_news

「なぜこういう行動を取るのか。それは、他人に頼らな
ければ自分は生きていけないと信じているからだ。ひとたび
依存し始めると、その人がいなくては駄目だという思いに
とらわれる。自分を過小評価し、実際には能力や魅力に優れ
ていても、独りでは生きていけないと信じるようになる。
さらに、重要な決定を自分で下すことができず、依存する人に
任せてしまう。困難なことが起こると、すぐにその人のところ
へ行って相談し、その人がさせる通りに行動する」

「同書の契機となったのは狂信的なオウム真理教の教祖・
麻原彰晃の存在ですが、・・・」

自尊心。自慢と誤解してはいけませんよ。洗脳や暗示に
あまりかからない人の、第一の条件です。」

=== つまりは、主体的な生き方が出来ているかどうかが
    自尊心という言葉になっていると思いますが。
    この点から判断すれば、
    「空気の研究」の中で 「江戸時代のサムライは
    「空気に呑まれることを恥としていた」という
    部分と繋がるように思います。
    
    
==== さて、ここで、話は飛ぶんですが、
     そもそも私が この「空気の研究」という本を
     読みだしてから考えていたのは、
     日本語教師として この「空気」と「日本語」
     間には何か関係があるのだろうかという
     ひとつの些細な関連付けの可能性です。

・・・と言うのは、過去にいろいろ日本語関係で読んだ
本の中に、日本語は「外交に向かない」とか、
バイリンガルは 「日本語で考える時と、英語で考える時
とでは性格が変わる」とか、そういう言語学的な影響が
隠れているのではないかとの疑問があったからです。

そこで、たまたま最近日本に一時帰国した時に持ってきた
下記の本に、「主体的」という観点と、「日本語のプロ」
という観点から 国語学で有名な 大野晋の人となりを
描いた「国語学者 大野晋の生涯 - 孤高」
次に読んでいこうと思います。

・・・・・

では、又、改めて お付き合いください。

=============

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2016年11月13日 (日)

侍の恥はどこへ!? 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その11

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
今日は「あとがき」の部分です。

Img_3026

日本人は昔から そうだったのか? という部分について
書いてあるので、敢えて「あとがき」まで ここに書きます。

しかし、私自身がこの本の内容をきちんと理解したのかって
聞かれると、かなり怪しい・・・

p221

探究は「空気」にはじまり、結局また「空気」にもどり、
「空気」が全編に通ずる主題だった・・・

「空気支配」の歴史は、いつごろから始まったのであろうか?

もちろんその根は臨在感的把握そのものにあったのだが、
猛威を振い出したのはおそらく近代化進行期で、徳川時代
と明示初期には、すくなくとも指導者には「空気」に支配
されることを「恥」とする一面があったと思われる。

いやしくも男子たるものが、その場の空気に支配されて
軽挙妄動するとは・
・・」といった言葉に表れている・・・

ところが昭和期に入るとともに「空気」の拘束力はしだいに
強くなり、・・・不可抗力的拘束と考えるようになり・・
個人の責任を免除するとさえ考えられるに至った。

=== 日本が「美しい日本を取り戻す」というのであれば、
    江戸時代まで戻るしかないですねえ。
    民主主義の昭和に自由な発想がなくなり、
    封建時代の江戸に自由な発想があったとは・・
    しかし、「恥」というのも、実に日本的では
    ありますねえ。

p222

水を差す」という通常性的空気排除の原則は結局、
同根の別作用による空気の転移であって抵抗ではない。
・・・それが逆に空気支配の正当化を生むという悪循環
を招来した。・・空気への抵抗そのものが罪悪視される
に至っている。

何かを追求するといった根気のいる持続的・分析的な
作業は、空気の醸成で推進・持続・完成できず

空気に支配されず、それから独立し得てはじめて可能な
はずである。

=== この前 ノーベル賞を受賞した方が
    「人がやらないことをやれ」みたいなことを
    言っていましたね。
    ノーベル賞をもらうような人は空気からの
    脱却が出来る人なんでしょう。
    空気によって潰された女性研究者もいましたが。

p223

持続的・分析的追究は、その対象が何であれ、
それを自己の通常性に組み込み、追究自体を自己の
通常性に化することによって、はじめて拘束を脱して
自由発想の確保・持続が可能になる。

対象を臨在感的に把握することは追究の放棄だからである。

=== これこそが ノーベル賞的アプローチなんですね。

少なくとも昭和期以前の日本人にあった「その場の
空気に左右される」ことを恥と考える心的態度の中には、
この面における自己追究があったことは否定できない。

=== 分かりました。 今後は「恥」と思うことにします。
    今でも十分にKY君かもしれないけど・・・笑

    そして、締めの言葉として 著者が高く評価している
    新井白石の言葉が出てきます。

p224

白石が賢者の言葉として聞いたのはシドチの人文科学上の
知識と世界情勢に関する広範な認識であり・・・
愚者の言葉として聞いたものは・・・キリシタンの教えであった。

そして彼を日本に来らしめたその力は、白石の見た賢なる部分
に属さず・・・非合理性に属しているのである。

白石以来、われわれは専ら彼らのうちの「賢なりと見た部分」
にのみ目をとめ、「愚なりと見た部分」は棄却して今日に
至った。

日本のマスコミは彼の「愚なる部分」に絶対に触れては
いけない。

彼の対キリシタン政策はあくまでもこの結論に基づいて
おり、その鎖国哲学は今も日本を拘束しているといえる。

p226

一体なぜ、キリシタンがいけないのか。
その結論は一言でいえば、儒教を基にした日本的序列
集団主義に反するからであろう。
個人が「天」と直結することは許されず、
個人は常に自己の所属する集団を「天」とし・・・

p227

現人神と進化論」・・・
なぜ意識しないのか。 それが実は臨在感的把握の基本的な
問題である。 いわば対象に面した瞬間にそれに感情移入
することによって、対象に完全に支配されるから・・・

集団が「空気」に支配されて、自己の道徳的体系とは
相容れぬ決定をしたとき、その人は「その場の空気に
動かされず」・・・一種の「二人の人」であり得た。

=== つまりは、キリスト教徒の場合には日本人から見ると、
    合理性と非合理性がひとつの人格の中に
    二人の人格として入っているが、
    日本人の場合は、非合理性の部分を誤魔化して
    一人の人格として振舞っているということに
    なりますか。
    その誤魔化しのベースに八百万の神がある??

    断っておきますが、著者は「空気」の正体に
    ついての明確な結論は書いていません。
    八百万の神に責任を押し付けているのは
    私の勝手な憶測です。
    その方が面白いかなと思って。

    でも、明確な結論は出ていないにしても、
    この「あとがき」に至ってはじめて
    それらしき対応の仕方が述べられているように
    思います。

    「持続的・分析的追究は、その対象が何であれ、
     それを自己の通常性に組み込み、追究自体を自己の
     通常性に化することによって、はじめて拘束を脱して
     自由発想の確保・持続が可能になる
。」

    ・・・この言葉が一番のポイントになっているように
     感じます。
     しかし、難しいのは「自己の通常性」って
     ところですね。
     

これで、完了です。

お付き合いいただき有難うございました。

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八百万の神々か? 「空気の研究」 山本七平著 を読む - その10

小池東京都知事が NHKのニュースの中で
ちらりと言及した 「空気の研究」を読んでいます・・・
キリスト教や原理主義に関する部分なので、さらに迷路。。。。




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私には結構難しいので、分かるところだけをピックアップ。
後から反芻するためのメモみたいなもんです。

p186

聖書絶対主義」は当然に親政制を指向する。

=== という文章で始まっているんですが、この後は
    かなりのスペースを割きながら キリスト教の
    宗教改革の歴史と議論の内容を語っています。
    元々 歴史が苦手科目だった私にとっては
    この手の海外の歴史は頭に入ってきません。
    ってことで、ここの部分はほとんどスキップ・・・・

p200

彼らにとって、一つの合理性追求と聖書絶対は一体に
なっているのであって、・・・神学が要請されているわけで
ある。 従って合理性と聖書的神政制とは、宗教と科学という
形で必ずしも対立しているのではなく、一方の追究は究極的
には一方の成就という発想になる。
これは科学者のファンダメンタリストにはほぼ共通しており、
これはピューリタンのものの考え方に起因しているように
思われる。

もちろん「ピルグリム物語」は一つの「神話」にすぎず、
これは「アメリカ建国神話」と見るべきものであろう。
しかし現実に、国民とよばれる者を拘束するのは「神話」で
あって事実ではない。

p201

天孫降臨」の建国神話と「維新神話」が戦前の日本人を
拘束し、それと同系統の「戦後神話」が現代を拘束している
以上、「アメリカへの天孫降臨神話」が彼らを拘束して
当然であろう。

彼らは、「アメリカという地に、ロビンソンの「神勅」を
もって降臨した天孫たち」である。

=== さて、ピルグリム物語ってのは何だろうということで
    検索しますと:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%AB%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%82%BA
「信仰の自由を求めた清教徒を含む102人がメイフラワー号に乗って
アメリカに渡った。メイフラワー号船上での「メイフラワー誓約
(右図)」は社会契約説に基づくものとして知られる。1620年11月
に北アメリカ大陸に到着したピルグリムファーザーズは、キリスト
教徒にとって理想的な社会を建設することをめざした。」

    要するに メイフラワー号の清教徒が「天孫降臨」
    したということですね。

p206

一体全体、われわれの「ファンディ」はどこにあるのか?
戦後か、明治か、否もっと古くか。
「日本人が憲法を扱う態度は、まるで根本主義者が聖書
に対するようだ」という一アメリカ人の批評は、ある意味
であたっているが・・・

p207

伊藤(博文)など足下に及ばぬ天才新井白石が、すでに
同じ考え方をしているのである。
そして白石の生き方こそ伝統であり、かつ、だれ一人
疑わぬ常識であり、・・・

p208

明治憲法は、それが発布された時点においてはそれなりの
合理性と何らかの有用性とを持ちえたかも知れぬ。
しかしそれは、日本的非合理性の上に立ってその”力”を
制御して、改革に転化させるべく構成されたものではない。

その憲法は、制御装置としての力は発揮できず、実質的
には空文と化してしまう。

=== なんだかよく分からないんですが、
    どうも昨今の立憲主義の破壊がすすむ現状を
    みていると、この空文化が起きているようですね。
    この本が書かれた33年前からずっと起きて
    いるのかも・・・

p209

国内の一切の勢力は、本当は「何をしてよいのか一切
わからない」という状態になり、その非合理性は、
制御なきままに、どこかへ走り出す。
このとき、”伊藤博文の路線”はもう無力である。

p210

そして制御し得ていないと感じたとき、まず出てくる
のが、輸入の制御装置を絶対化することにより・・・

p211

われわれは自らの”ファンディ”を再把握する以外にない。

・・・それは「神の前での平等」と対比さるべき「一君万民的
家族的平等」であり、この平等主義に基づく一つの
倫理主義であり、その倫理主義を強行しうる「強権」への
喝采である。

しかしその基盤となっている一つの絶対性は、彼らの如き
教義(ドグマ)の絶対化でなく、むしろ家族的相互主義
に基づく自己および自己所属集団の絶対化とでもいえる
ものであろう。

p212

これが恐らくわれわれのあらゆる体制の背後にある神政制
だが、この神政制の基礎はおそらく汎神論であり、従って
それは汎神論的神制と呼ばれるべきものである。

=== この部分が 日本教原理主義の肝の部分のようです。

    これって、汎神論というのが多神教、神道、
    八百万の神々って話と同じならば、
    結局神道が日本人の原理主義の根元にあるって話
    ですか?
    その上で、いわば自分が属する家族的な集団を
    絶対化して、空気を作り、水を差し、
    熱くなりやすく冷めやすい回心を繰り返して
    いるってことになるのでしょうか。

p213

日本人は「情況を臨在的に把握し、それによってその情況に
逆に支配されることによって動き、これが起こる以前に
その情況の到来を論理的体系的に論証してもそれでは
動かないが、瞬間的に情況に対応できる点では天才的
という意味のことを・・・

=== 確かにそういう意味では天才的なんでしょうが、
    しかし 原発事故にはこれでは対応できなかった
    ように感じます。
    天災に囲まれて生きてきた日本人の特性かも
    しれませんが、原発事故は一時的なことでは
    済みませんからねえ。 理詰めでいかないと。

p216

人は、論理的説得では心的態度を変えない。
特に画像、影像、言葉の映像化による対象の臨在的把握が
絶対化される日本においては、それは不可能と言ってよい。

p217

人は未来に触れられず、未来は言葉でしか構成できない。
しかしわれわれは、この言葉で構成された未来を、
一つの実感をもって把握し、これに現実的に対処すべく
心的転換を行なうことができない。

論争の際でも相手の言葉の内容を批判せずに、相手に対する
ある種の描写の積み重ねで、何らかの印象を読者すなわち
第三者に与え、その印象に相手を対応さすことによって、
その論争に決着をつけてしまおうとする。
この結果生じたのが「世界で最も罵詈讒謗に弱い」という
批判をうける状態であった。
いわばある種の情況を創出されることを極端に恐れ
その情況による人びとの心的転換を恐れるという態度である。

=== ふ~~ん。
    これは何だか、最近の核拡散防止の署名に
    被爆国である日本が参加しなかったという話と
    つながるような気がしますね。
    署名しなかったことによって 日本にとって
    世界からリスペクトされないという情況を
    自ら作ってしまったように思います。
    この本の趣旨とは違うでしょうが・・・
    他からどう思われるかを気にする日本人に
    あるまじき行為 ??

    きっちりと論理で世界の国々と渡り合える
    ようにならないと外交も難しいということに
    なるんでしょうか。

p218

「空気」に基づく行動が、まわりまわっていつしか自分の首を
しめて行き、その判断で動き回っているとどうにもならなくなる
ことを、人は、否応なく実感せざるを得なくなってくる・・・
戦争直後にこのことはいやというほど実感させられた・・・

=== それで、一応 空気、水、日本の原理主義ってものが
    分かったようなつもりにはなったんですが、
    著者は 最後に 以下のように書いています。

p219

自由」はいかなる位置に立ちうるのか
それを探すには、かつての彼らが、黙示録的支配から
何によりいかにして脱出して来たかの歴史が、一つの参考
となるであろう。
だが、その問題については、また別の機会に記したいと
思う。

=== なんてことで締めくくってしまっているんです。
    オー・マイ・ゴッド !!
   
    この本の後に そういう本が出版されたのかどうか
    分かりませんが、まあ、自分で考えろってこと
    なんでしょう。

・・・・・・

次回 その11 では、「あとがき」を読んでみます。

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