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2016年11月26日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 96 ドゥテルテの民兵はフィリピンの伝統か?

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

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「第十五章  スペインによる統治の黄昏」

 

 

p207

「植民地の陸軍と海軍」

 

最初のスペインのフィリピンにおける正規軍組織は、1754年に

総督Pedro Manuel de Arandiaによって創設された。

彼は、国王の連隊として知られる陸軍の団を作り、それは、

20の旅団をもつふたつの師団に分かれていた。

翌年には、4つの砲兵隊を組織した。・・・・・

 

1839年までに、植民地軍は、砲兵隊、歩兵部隊、キリスト十字隊?

に再編された ――全てが総督の指揮下にあり、Segundo

Caboと呼ばれた総司令官がこれを補佐した。

 

 

p208

その植民地軍組織は、紙の上では素晴らしかった

しかし、実際には、欠陥だらけで効果的ではなかった。

兵士たちの給料は非常に安く、食事は貧しく、武器は時代

遅れのものであった。・・・

 

・・・1843年に・・・次のような軍の改革を提言した:

(1)スペインから経験のある将校と兵士を呼び入れる。

(2)陸軍に入隊する兵士の質を上げるため、給与を上げる

(3)軍に偉大な規律を注入する

(4)陸軍の昇進に考課制度を適用する。

(5)地元の方言を学ぶために、スペイン人士官及び下士官

タガログ・アカデミーを創設する。

 

=== なるほどねえ。 この改革の提言をみると、いかに

    ひどい軍の状況だったか分かりますね。

    ちなみに、今のフィリピン大統領のドゥテルテさんは

    公約の時点から軍人や警察官の給料を上げると

    言っていましたけど、どうなったのかな。

    まあ、その分、麻薬撲滅を最優先にして、ドンパチ

    容疑者を殺していますから、警察官も痛しかゆし

    だと思いますが。

 

 

 

「民兵組織、スペイン失政のシンボル」

 

民兵組織というのは、フィリピンにおけるスペイン統治の

シンボルのひとつであった。そして、もうひとつは

Frailocracia(修道士の統治)であった。

・・・その義務は、地方での山賊行為や反乱の鎮圧であった。

 

・・・1896年までに、民兵組織は3,561名の将校と

兵士を抱え、ふたつの連隊に分かれていた。 ひとつは

ルソン、もうひとつはミンダナオにあった。

 

・・・9年後の1880年、ホセ・リサール本人が、まだ

サント・トーマス大学の医学生だった時、その民兵組織の

犠牲者となった。1880年、Calambaでの夏休みに、

彼は一人で通りを歩いていた。 彼はひとりの男が彼に

近づいてくるのをぼんやりと感じていた。暗くて誰だか

分からず、彼は帽子もとらず、「今晩は」の挨拶もしなかった。

そのぼんやりとした男の影は、民兵組織の将校だった。

男は、刀を抜き、容赦なくリサールの背中に切り付け、

軽い傷を負わせたのだった。

リサールは、マラカニアン宮殿の総督に文句を言った。

しかし、なんの結果も出ず ―― 虐待的なスペイン人

将校には何のお咎めもなかった。

 

=== おお、民兵組織がホセ・リサールの時代から

    あったんですねえ。

    それが今のドゥテルテ大統領の自宅がある

    ミンダナオ島のダバオ市にもあるそうですから、

    伝統的な組織なんですね。

    もしかして、現在でも、フィリピンの正規軍より

    ドゥテルテさんの私兵組織の方が立派なのかな?

 

    まあ、日本にもヤクザという組織がありますから、

    他の国の内政をとやかく言える立場でもない

    ですけどね。

    その日本の八九三が、マニラあたりにはたくさん

    お世話になっているっていう話も噂にはあることだし。

 

    それは冗談として、民兵組織があるってことは、

    日本で言うならば、江戸時代の浪人集団が

    今の時代にも生きているってことになりませんか?

 

・・・・・

 

それでは、次回 97号 へ続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月25日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 95 終焉に向かうスペイン支配と改革

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第十五章  スペインによる統治の黄昏」

 

 

 

p203

 

19世紀は、フィリピンのみならず、スペインの海外の植民地

でも、スペイン統治の黄昏であったと特色づけられる。

Siglo de Oro(16世紀)には、スペインは世界の女王であった。

―― 地球規模の権力を持ち、その世界に拡大された領土は

「太陽の沈まぬ」ものとされた。

・・・・時の風とともに、スペインの征服者としての勇敢な

精神、伝道へのローマ教皇の熱意、そして、文明教化の輝かしさ

は、去っていった。

 

スペインの退廃は、スペインの政治的混沌と、経済的停滞

反映され、また、植民地の官吏社会での汚職と国民の幻滅

ともなった。

 

 

「スペインにおける政治的混沌」

 

19世紀は、スペインの歴史において、政治が荒れ狂った

世紀であった。 断続的に大臣達の入れ替わりがあり、

憲法が頻繁に変更された。

 

・・・・スペインでの政治の混乱は、フィリピンの政治的

及び社会経済的状況にも影響した。

いかなるマドリッド政治の大変動も、植民地政策に新しい

動向をもたらし、そして新しい総督とより多くの

求職者がマニラに到着した。

 

1835年から1879年までに、フィリピンは50人の

総督に統治され、それぞれの任期は平均で1年3カ月であった。

 

・・・不安定な任期のため、総督は管理の永続的な計画を

実施することは出来なかった。

 

 

p203

「スペイン議会におけるフィリピン代表」

 

スペインに公平であるために、特筆すべきことがある。

スペインは19世紀に、ある再編成を導入することによって、

フィリピンにおける植民地制度を改善しようとしたことである。

 

p204

その再編成のひとつが、スペイン議会におけるフィリピン

代表の容認であった。・・・・

 

最初の代表の期間中は、フィリピンからスペイン議会への

最初の代表は、Ventura de los Reyesであった。

彼は、南イロコス州ビガン生まれの混血で、マニラで

裕福で有名な商人となっていた。・・・・・

 

不運なことに、スペインは1837年6月18日に、

スペイン議会へのフィリピン代表を廃止し、それ以降は

特別法によってフィリピンは統治されることになった。

このフィリピン代表への抑圧に、フィリピンの人々は

憤慨した。 その復旧が、プロパガンダ活動で主張された

決定的な改革策のひとつであった。 そして、その

プロパガンダ活動は、M.H. del Pilar、 Graciano Lopez

Jaenaホセ リサール、その他のフィリピン人愛国者たち

によって開始された。

 

 

p204

「総督に対するふたつの審議会の発足」

 

スペイン人総督を、フィリピンを管理する場面で支えるために

ふたつの助言を与える機関が創設された。

 

 

p205

「司法制度の変更」

 

1584年に王立大審問院(最高裁判所)が創設されて以来、

総督がその裁判長(主席判事)であった。

1861年にその王立大審問院の構成が変更された。

――総督は最高裁から外されたのである。・・・・

 

マニラの王立大審問院の下に、1893年、ふたつの地域の

審問院が創設された。 セブとビガンの地方審問院である。

 

 

「スペイン法のフィリピンへの拡大」

 

有名なLeyes de Indias 及び 国王令の他に、

多くのスペインの法律がフィリピンにも拡大適用された。

 

 

「1884年の税法改正」

 

スペインが19世紀に導入した良い改変のひとつは、

1884年3月6日の国王令で与えられた、税法改正である。

この税法改正には二つの重要な条項が含まれていた:

(1)憎まれている年貢の廃止と、cedula tax証明書税

への変更。

(2)40日の強制労働の15日への短縮

 

=== ここで、cedula taxというのは、

 Community tax certificateと言うもののようですので、

    住民税ではないかと思われます。

    この証明書が身分証明書のように使われるようです。

 

Cedula tax(証明書税)は、フィリピンの全ての住民に

課税されました。 ―― 地元民、スペイン人、そして両性

(男と女)の18才以上の外国人に適用。

中国人は、別の種類の人頭税の支払いを要求されたので、

この税金は非課税とされた。

 

p206

 

このcedula taxには、16の段階があって、その経済状況

によって、男女ともに支払わなくてはいけなかった。

最下位の貧困層は無税で、一番高い富裕層は37.50ペソ

であった。

 

 

「地方政府の改革」

 

フィリピンでのスペイン統治が作りあげられて以来、

地方の州はスペイン人の alcaldes mayorsとよばれる知事

によって支配され、この知事は行政および司法の権力をもち、

さらに交易に携わる特別な特権も欲しいままにしていた。

この知事はほとんどが素人であり、法律の知識はなく

総督の友人、親戚あるいは仲間たちであった。

彼らは、従って、地方の知事としての能力がなく、悪いことには

汚職にまみれていた。 彼らは、自分たちの私服を肥やすために

交易の特別な権限を乱用していた。

 

1844年9月23日、女王イサベラ二世は、資格のある

法律家だけが知事に指名されなければならないという

国王令を発布した。それはさらに、alcaldias治安判事市長(知事)は

3つの職級にするという条項もあった。

・・・・

 

それに続いて、同女王は、1844年10月3日の国王令で、

すべての知事が行なっていた交易の特権を廃止した。

 

 

「地方自治体の改革」

 

1847年までは、町の市長?及び他の地元の職員・・・・・

の選出の方法は、良い政府の条例というもので規制されて

いた。

 

1847年10月5日の国王令、あるいは1847年市町村

選挙法と呼ばれたものは、町の職員の選出方法を変更した。

 

 

p207

 

この法律は一般には「1893年のMaura」と呼ばれた・・

・・・それは、フィリピンの地方自治体の著しい改革であった。

 

この法律の下、新しい市町村政府が、1894年1月1日に

開始された。 しかし、残念なことに、それはもう既に

遅かった。 フィリピンはその時 革命が起ろうとしていた

からである。

 

 

・・・・

 

それでは、この続きは 96号で お願します。

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 94 なぜフィリピンには大河ドラマが無いのか

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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下宿の大家さんとこのヘルパーさんとの会話

彼は優秀な大学を事情があって中退したお兄ちゃん。

 

「今、フィリピンのザイデが書いた歴史の教科書を読んで

 いるんだけどさ・・フィリピンにはテレビの歴史ドラマ

 みたいなのはある?」

 

「う~~ん。 歴史ドラマはないなあ。」

 

「フィリピンの歴史上には いろんなヒーローとか、反乱劇が

 あるじゃないの。 そういうエピソードってのはストーリーが

 あって、ドラマに出来そうだと思うんだけど・・・・」

 

「フィリピン人は、歴史ドラマって興味ないからなあ・・・

 バイオレンスとか恋愛物のドラマならあるけど。」

 

「じゃあ、フィリピンの歴史って、学校でしか勉強するチャンスは

 ないっていうこと?」

 

「そうだねえ。 フィリピン人は生まれつき歴史にはあまり興味が

ないって感じかなあ・・・」

 

「じゃあ、あるとしても、インターネットで記事や動画をみる

 くらいなんだ・・・」

 

「そういうことだね。 ホセ・リサールとか、ボニファシオとか、

 ラプラプとか・・・・」

 

 

・・・・・

 

「第十四章 フィリピン人の反乱」を読んでいる時に感じた

ことなんですが、これだけの様々な歴史的エピソードがあるのに

なぜフィリピンには日本の大河ドラマや歴史秘話ヒストリアみたいな

歴史物、時代劇がないんだろうと思ったんです。

 

そこで、今読んでいる教科書のもくじを眺めてみると・・・

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第一章から第十章までは、スペインが来る前のいわば先史時代と

スペインの植民地となった初期の話。

 

先史時代には、マニラあたりからセブ周辺の小さな王国があった

という話が書かれているんですが、それもスペインがやって来た

時のスペインとの関わり方が中心で、フィリピン側の視点で

歴史的な事柄を書いてあるかと言えば、そこは難しい。

 

この著者自身が、スペイン系フィリピン人で、スペイン語が出来た

から、スペインでの歴史資料を読みこなして書いた本という

感じしかない。

まあ、スペイン植民地時代に、すべてが管理されていたわけだし、

フィリピン人自身が書いた歴史資料もないというのが原因らしい。

 

・・・・

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次の第十章から第二十章のもくじを見ると、

イスラム教、中国、日本、英国との関係に話が及び、

スペインに対する反抗そしてスペインの衰退、

そして、民族主義が台頭したものの、スペインに代わって

アメリカの植民地となったわけです。

 

ここに於いても、ほとんどが、他の国との関係が中心で、

国内の文化やら芸術はなく、そして政治的問題がほとんど。

 

・・・・

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さらに第二十章から第三十一章は、

アメリカの植民地時代、独立準備政府、第二次世界大戦、

日本軍占領時代、そして、戦後の独立、戒厳令、そして

いわゆるピープル・パワーというほとんどが政治的な

動きについての話ばかり。

 

・・・・

 

そこで、最初の疑問に立ち戻って考えてみると、

要するに政治的なものが人気がないとするならば、やはり

これは歴史ドラマは流行らないということになるでしょうか。

 

仮に歴史ドラマ、フィリピン人の反乱のドラマを

あるヒーローを持ち出して作ったとしても、スペインや

イギリス、アメリカと闘って負けてきた歴史になっちゃう

訳ですね。

 

日本のドラマだったら、少なくとも明治の前までは、

国内の同じ日本人同士の戦いはあっても、外国に負けて

統治されたという歴史はないわけだから、

独自の服装も文化も芸術も技術だって語るものがあるってこと

ですね。

 

それに、日本だったら、独自の建物、お城やら城下町の

風情だってある。 

フィリピンの場合は、歴史遺産にしても、それはスペインの

ものだったり、アメリカのものだったりするわけです。

 

もしかしたら、フィリピンで歴史ドラマが作られない、

流行らない、興味がないというのは、自分たち自身の

アイデンティティーを確かめる素材がないからなのかも

しれません。

 

私が住んでいるバギオ市は、標高1,500メートル前後の

高原都市なんですが、元々はイゴロットと呼ばれる

山岳民族が住んできた山岳地帯なんです。

 

イゴロットという呼称は、元来は差別用語で、山岳民族の総称。

今日本で物議を醸している「土人」みたいなニュアンスなのか

と思います。

 

「あなだは どこの出身なの?」

「東京です。」

なんだ、東京の土人か・・・」

 

ってなことを言われたら おそらくムッとするでしょうね。

 

イゴロットという蔑称も、山岳民族は「猿だ」「尻尾が生えている」

などという偏見とともに使われたようです。

 

しかし、最近の若い人たちの中には、

イゴロットであることを誇りに思う」などというステッカーを

自家用車に貼りつけている人たちも出ています。

 

つまり、フィリピン人がアイデンティティーを探し求めると

結局のところ、スペイン時代にすぐに手を挙げてしまった

低地のフィリピン人(ローランダー)よりも、勇猛に戦って

自治を守った山岳民族(ハイランダー)の方に、昔からの

伝統文化が保存されてきた、というところに行きつくよう

なんです。

 

翻って、日本を眺めてみると、

沖縄での「土人」発言は、明らかに差別発言だと思いますが、

最近の日本人の起源に関するいろんな説を、DNA解析の

新発見なども考え合わせると、日本人のルーツたる

縄文人は沖縄や北海道のアイヌに求められるということ

のようですから、フィリピンの場合と同じような構図に

なってしまうんじゃないかと思います。

 

それにしても、日本人のルーツは、日本語のルーツも含めて

様々な説があって、謎に包まれているようですので、

隣人を差別して馬鹿にしていたら、自分の兄弟だった

なんてことになって、恥をかかないようにしなくちゃ

いけませんね。

 

・・・・

 

今日は、ちょっと一服して、次回95号 は第15章に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 93 何故 反乱は失敗したのか 

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

p199

 

Hermano Pule の宗教的反乱」

 

フィリピンで最初の大きな反乱、実際に宗教の自由

求めた闘いは、1840-1841年にTayabas(現在の

ケソン州)で起った Apolinario de la Cruzに率いられた

反乱であった。Hermano Puleとして良く知られている、

この宗教的指導者は、TayabasLukbanPandak村で

815年7月22日に生まれた。

彼の両親は、・・・・小作農の家系の信心深いカトリック

教徒であった。

 

少年時代の早い内から、Apolinarioは聖職者になりたいと

思っていた。 1839年、24歳の時、彼は修道会に

入るためにマニラに出た。

どこの修道会も彼を受け入れてはくれなかった。 それは、

彼がインディオ(現地人)だという理由からだった。

その当時、すべての修道会がインディオには閉ざされていて、

それは偏見をもったスペイン人が現地人を劣った人間だと

見なしていたからであった。

冒険に挫折し、Apolinarioは召使としてSan Juan de Dios

の病院で働いた。 暇な時間に、彼は聖書やその他の宗教

関係の本を勉強し、著名な説教者の教会での説教を熱心に

聞いた。 このようにして、彼はカトリック神学について

多くの事を学ぶようになった。

 

1840年6月、彼はLukbanに戻って、Cofradia de

San Jose聖ヨセフの結社)を創設した。

それは、聖ヨセフを崇拝する為の友愛団体であり、

3月19日は聖ヨセフのお祭りの日だった。

それは、ある意味民族自決主義者の団体で、生来の

フィリピン人だけの団体だった。

白人のスペイン人やメスティーソ(混血)は会員には

なれなかった。 この宗教的友愛団体は、キリスト教徒の

善行の実施を育てた。それは、宗教的集まりや祈祷会への

参加を含んでいた。 そして、一番大切なのは、守護聖人

の祭の日、3月19日の荘厳ミサであった。

 

p200

スペイン当局は・・・これを異端とみなしたスペイン

修道士の勧めによって、これを禁止した。

Hermanoは、宗教的偏見や当局の狭量に臆することなく、

彼の宗教的運動を展開した。

 

=== 宗教が民族主義者を産んだというのが皮肉ですね。

    一神教は、絶対的な神の前には人間は平等だと

    いう考え方があるんだと思うんですが、

    「シビライズ(文明化)してやる」という偏見が

    こういう結果を産んだのでしょうか。

  

    一方、自然崇拝のような多神教、あるいは仏教の

    ような場合は、輪廻転生のようなあの世での差別

    みたいなものがあるようですけど、草木にも神が

    宿るみたいな話もあって、一神教なんかより

    民族主義的考え方が生まれ易いような気もするん

    ですけど、まあ、複雑ですね。

 

    ・・・で、結局このフィリピン人聖職者の反乱

    どうなったかって言うと・・・

 

p200

Hermano Puleは流血の大虐殺から逃れ、Ibanga村へ

逃げた。 そこで、彼は次の日の夕方に捉えられた。

1841年11月4日に、Tayabasの町で、銃殺刑執行隊

によって処刑された

 

 

p201

「何故 反乱は失敗したのか」

 

初期の反乱や暴動は悲惨な結果に終わった。

これは主に、フィリピン人の間に民族主義がなかった.

ことと、国民的指導者の不在が原因であった。

民族自決主義はフィリピン人の中にまだ発達しておらず、

1872年のGomez神父、Burgos神父そしてZamora神父の

殉教と1896年のリサールの処刑まで待つことになる。

 

 

p202

一方で、そこには、フィリピン人同士の多くの民族間の対立

階層間の嫉妬、そして一門相互の敵対心などがあった。

そして、これらは、スペインが divide et impera

分け隔てて統治する)という方針によって促進してきた

ことであった。

 

・・・・・フィリピン人が必要としたのは、全ての

フィリピン人が その指揮の下に武器をとって、ひとつの

国民として結集する指導者であった。

 

そのような指導者は、リサール、 M.H. del Pilar

Lopez Jaena、 ボニファシオ、Jacinto、マビニ、

アギナルド、 そして、Antonio Lunaで、

これらの人たちは19世紀が終わるころに現れることと

なる。

 

=== 日本人的に言えば、私のような戦後生まれは、

    このような民族主義礼賛のようなことが

    教科書に書かれているというのは、おやっと

    思うことではあるんですが、

    植民地とされた国の人々にとっては、やはり

    このような、国民を鼓舞するようなものが

    必要だと言うことなんでしょうね。

 

    戦後、アメリカに占領された時代があったとは

    いえ、民主主義という体制の中で、曲りなりにでも

    「歴史にイデオロギーを持ち込まず、事実に基づいて

     学問的に正しいとされていることを教科書で

     教えなくてはいけない」とでもいうような

    考え方を、私のような極普通の日本人が常識として

    持っているということが、幸せなことなんだなと

    思えるフィリピンの教科書です。

 

・・・・

 

では、次回 94号では、

「第15章 スペイン統治の黄昏」に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月24日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 92  憲法を守る、差別との戦い 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

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「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

 

p195

「憲法擁護の反乱(1815)」

 

フィリピンの歴史の中でもユニークな反乱は、1815年

3月3日に勃発し、流血の暴動となった。

それは、1812年のスペイン憲法を擁護するものだった。

 

この憲法は、思い出してもらわなくてはいけないのだが、スペイン

議会によって発布されたもので、184名のスペインの代表団

と海外の植民地(フィリピンを含む)によって

1812年3月19日に承認され署名されたものであった。

 

このスペインの憲法はフランス革命の政治的遺産を色濃く

反映したものであった。 ―― 自由、平等、そして友愛

それは、スペインのスペイン人とスペインの海外植民地の

住民双方に人権を認めるものであった。

明らかに、それはフィリピンに初めて適用された成文憲法であった。

フィリピンの人々は、何年もの長きに渡って、スペイン人

植民地官吏や悪い聖職者の両方から抑圧されていたが、

それが彼らの人権を守るものであったので、好意をもったのは

自然なことであった。

 

 

不幸なことに、その自由主義的スペイン憲法は、長くは続かなかった。

国王フェルディナンド七世は、専制的な権力を取り戻すと、

1814年5月4日に国王令を発行して、その憲法を廃止した。

この非劇的なニュースがフィリピンの届くと、フィリピンの人々、

特にイロカノ人は、それを悲嘆とともに受け取った。

そのようなニュースは、腐敗したスペイン人官吏が、彼らの

人権を奪うための悪意のある策略だと信じ、Sarrat(北イロコス)

1,500人以上のイロカノ人たちがSimon Tomasの指揮の

下で、1815年3月3日に武装蜂起した。

反乱は他の町にも及んだ・・・・・

 

・・・スペイン政府は、歩兵部隊と騎兵隊を反乱に加わった

町々に急行させた。 反乱軍は激しい闘志で闘ったが、

スペイン軍の優秀な武器の前に倒れた。

 

 

p197

Novalesの反乱(1823年)」

 

メキシコがスペインから独立したことは、フィリピンへ

影響を与えた。 従来のフィリピンとメキシコの繋がりは

断たれた。 1821年の当初、スペインの君主が、マドリッド

から直接にフィリピンを統治した。

新しいスペインの総督および総司令官は、従って、1816年

以来総督を代行していた 総督Folguerasを引き継ぐよう

指名された。

 

新しい総督、Juan Antonio Martinezは、スペイン陸軍の

元帥であったが、マドリッドからマニラに到着し、

地方長官の地位に就いた。

彼は多くの(イベリア)半島の軍人と一緒にやってきて、植民地軍を

再組織する国王からの任務を帯びていた。

彼は、多くのメキシコ人及び混血の将校を軍の職位から解任し、

その地位を新しく到着したイベリア半島組に与えた。

軍に留まった混血の者たちとメキシコ人将校は、半島組の将校

の指揮下に置かれるか、あるいは、地方の遠隔地にある基地に

配属となった。

 

自分たちの利益を守るため、メキシコ人や混血の陸軍将

たちは、哀れな状況を話し合うために、秘密会合を持った。

マニラの多くの混血の在留者たちは、傑出した事業家であり

法律家であったが、彼らの主張に同情していた。

かれらの極秘会合のニュースは総督Martinezの耳に入った。

彼は、政府のスパイから情報を得た後、不満を持つ将校

たちの首謀者は メキシコ人か混血のAndres Novales司令官

であることを探しだした。

 

時間を置かず、スペイン総督は Novales司令官をミンダナオ島

Misamisに転属させ、モロ族との戦闘に当たらせた。

1823年6月1日、Novalesは、彼の上官からの命令を

受けると、ミンダナオへ向かう船に乗船した。

丁度その時、マニラ湾を嵐が襲い、その船は航行を続けることが

出来なくなってしまった。

 

p198

その日の深夜前に、Novalesは秘密裏にマニラに戻り、

同志との緊急会合を開いた。 その数 800名の将校と

系列の第一連隊の兵士たち、そしてその他の軍の部隊が

いた。 ・・・・・・

 

Novales自身は、軍主体を引き連れてサンチャゴ要塞

向かった。 彼が非常に狼狽したのは、彼の実の弟

Mariano Novales大尉が、サンチャゴ要塞を渡すことを

拒否し、スペインへの忠誠を宣言したことであった。

Novalesは、彼の軍を撤退させ、Cabildo(市役所)、

総督の館、そしてマニラ大聖堂を接収した。

彼はすべての場所を攻略し、スペイン防衛軍を

打ち砕いた。

 

=== 初戦はなかなか良かった反乱軍でしたが、

    残念ながらこの後反撃を受けてしまいます。

 

    まあ、歴史上の反乱ですから、

    もちろん失敗に終わるわけなんですけどね・・・

 

    しかし、マニラのサンチャゴ要塞は歴史上

    様々な出来事の舞台になってきたんですね。

    マニラ観光では絶対に外せない場所ですので、

    こちらでご覧ください:

 http://nandemoph.web.fc2.com/t-9.html

 

 

・・・・・・

 

それでは、次回 93号に続きます。

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 91  独立したビガン王国?

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3313

 

「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

 

p186

Bankawの宗教的反乱(1621年)」

 

ボホールTamblotの反乱がまだ猛威をふるっていたころ、

レイテの隣の島で反乱の炎が爆発した。

この反乱の指導者は、Limasawa年老いた族長で、Bankawであった。

彼は、1565年に 彼の島にやってきたMiguel Lopez de Legazpi

スペイン人を友好的に受け入れ、彼らが必要とするものを与え、

そのことによって、フィリップ二世が国王の命令で、

彼が行なった最初のスペイン人への親切なもてなしに対して感謝を

表明した人物であった。

彼はキリスト教に改宗し、スペインに忠誠を誓った。

しかし、歳をとってから、先祖の宗教的信仰に戻った

彼の息子たちと土地の聖職者(Pagaliと呼ばれた)の

助けを得て、レイテ島Carigaraの人々を扇動し、

昔の神々と宗教を守るために武装蜂起した。

 

その町から、反乱は野火のように広がり、他の町々へと

島全体を武装反抗の大混乱へと引き込んだ。

 

治安判事―市長 Alcarazoは、40隻の小艦隊を用意し、

数百人のセブ人と何人かのスペイン人砲兵を乗船させ、

レイテへと出航した。

反乱軍は和平を提案したが、彼らはその提案を拒否した。

そのため、反乱軍は丘の上の砦に逃げ込んだ。

スペインーフィリピン軍は、彼らを追跡し、決定的な戦闘

で打ち負かした。

 

==== こういう宗教戦争は、山岳地帯だけかと

     思っていたら、フィリピンで最初にキリスト教を

     受け入れたセブの近郊でも同じようなことが

     あったんですね。

     フィリピンのキリスト教がフォーク・カトリシズ

     と言われるのは、このような歴史的事情が

     あったのかもしれません。

 

     と言うのは、日本人が様々な迷信とかスピリチュアル

     (まあ、元々日本は八百万の神々ですけど・・)

     なものを何となく信じているのと同じように、

     フィリピンの若い人たちの間でも、近代的医学

     よりも、昔からの伝統的医療やいわゆる心霊療法

     のようなものを最後には頼りにしているような

     ところがあるからです。

 

 

 

p192

Diego Silangの反乱(1762-63年)

 

英国による占領時代の最も深刻な反乱は、Diego Silang

指揮の下に起った1762-63年の反乱であり、

彼はイロカノ人の中で最も偉大な英雄の一人であった。

著しい能力と知性をもったSilangは、マニラでもイロコス地方

でも良く知られていた。なぜなら、彼は、マニラとビガンの

間をつなぐ郵便事業を行ない、信頼されていたからである。

 

1762年10月5日にマニラが英国軍の手に落ちた後、

彼はビガンのスペイン当局に対し、いまいましい年貢を

廃止し、英国と闘うためのイロコス軍を組織するように

要求した。 それは、スペインがもう植民地を防衛する

ことが出来なかったからである。

この行動が理由となり、治安判事―市長は、彼を扇動者とみて、

収監した。 しかし、彼の友人たちと支持者たちは、

彼の早期の釈放に成功した。

 

短期間の収監に激怒し、Silangは支持者たちを行動に

駆り立てた。 彼の要求を拒否したスペイン人に対し、

1762年12月14日に、反旗を翻した。

愛国的なイロカノ人の支援を得て、彼はビガンから

治安判事―市長と他のいまいましいスペイン人たちを

追放し、行き過ぎた年貢と強制労働の廃止を宣言した。

彼は、ビガンを彼の独立した政府の首都とし、パンガシナン州

やカガヤン州へと革命運動を拡大した。

 

Silangは優れた軍の指導者であることを証明した。

ビガンをスペイン人の報復から守り、事実上の

無冠のイロカンディアの国王となった。

 

・・・・Miguel Vicos、スペイン系フィリピン人でSilang

友人は、刺客を志願した。 ・・彼は、1763年5月28日

ビガンにあるSilangの家を訪れた。 そして、背後から彼を

撃ったのである。

 

 

=== 私はフィリピンのテレビで、フィリピンの歴史

    を描いたドラマなどを見たことはないのですが、

    このような歴史を元にした「大河ドラマ」を

    見てみたいもんです。

    この教科書を読んでいると、なんだか日本の戦国

    時代の歴史を読んでいるような錯覚を覚えます。

 

    それにしても、この教科書に出てくる戦闘は、

    いずれも兵士の数でいうと数千人レベルなんですね。

    同じ時代の日本は、信長、秀吉、家康の時代で、

    何万人、何十万人という兵力で闘っているんですねえ。

    そういう意味で見ると、日本人ってなんと

    好戦的な民族なんだろうって思います。

 

・・・・

 

ではでは、次回 92号を お楽しみに。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 90  キリスト教か自然・先祖崇拝か

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3566

 

「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

 

p183

「年貢に対する反乱」

 

1589年、カガヤン地方とイロコス地方のフィリピン人が

武器をとって立ち上がり、年貢徴収人の虐待に反抗した。

「好戦的であったカガヤンの人々は・・・多くのスペイン人を殺害;

イロコス州のDingras渓谷の人々は年貢の徴収に反抗し、

6人を殺害した・・・・

 

これらの反乱は、憎まれていた年貢や年貢徴収人の腐敗

対抗する初めての地元民の反乱であった。

これらは、政府軍によって簡単に鎮圧されたものの、

同じような性質の反乱は、その後も継続的に多発した。

 

=== 日本で言うならば「農民一揆」のようなものなの

    でしょうね。 植民地であろうが、独立国であろうが

    税金への不満は国の安定を脅かすということでしょう。

 

p184

「イゴロット族の宗教的反乱(1601年)」

 

1601年11月、ルソン島北部のイゴロット族が反乱を

起こした。 そして、彼らをキリスト教徒に教化するいかなる

意図にも反対した。

彼らを鎮圧するため、総督Francisco Tello は、Mateo de Aranda

司令官の下に遠征軍を派遣した。・・・・

 

彼は、説教をすることで彼らを鎮められると考え、

Martin神父は大胆にも反抗している村に入った。

彼は人々にスペインとキリスト教に従うように忠告した。

しかしながら、彼の話を聞くどころか、イゴロット族は

彼を殺害した。

Aranda司令官は、そのイゴロット族に対して、復讐をするため、

壊滅的な損害を与えた。

 

=== この「イゴロット」というのはルソン島北部山岳地帯

    の先住民族の総称であって、その中には多くの民族が

    含まれています。

    ちなみに、バギオ市周辺には、イバロイ族やカンカナイ

    と言われる人たちが住んでいまして、言語も独自のものが

ありますが、イロカノ語が共通語になっています。

それに多くの人たちがタガログ語や英語も話せます。

また、その中には1900年代の初期に道路建設や

バギオ市の都市建設などで日本から移住した日本人

先祖とする、知られているだけでも 7千人以上の

日系人がいます。

ちなみに、このスペインによるキリスト教化については、

なかなか順調には進まず、以下のサイトにあるように、

高地の人々は今やフィリピン人のアイデンティティーを

求める場合の拠り所ともなっています。

 

http://jphilnet.org/infolink/

一方、山岳地帯は、スペインの植民地支配をのがれたため、

スペイン・カトリック文化の影響を受けた低地民とは異なる

文化や生活様式を維持してきた。彼らは少数民族と通常、

呼ばれ、フィリピンの人口の10%前後を占めると言われている。

(『現代フィリピンを知るための61章【第2版】』)

 

尚、バギオ市辺りの人たちは自分たちのことを

ハイランダー」とよび、低地の人たちのことを

ローランダー」などと呼ぶことがあります。

元々は、イゴロットという山岳民族の総称は、

低地の人たちが山岳民族をいうときの差別用語だったと

されていますが、最近は若いイゴロットの人たちの中では

それをプライドを持って使うような傾向があるようです。

 

    山岳民族イゴロットの人たちは、好戦的であるともいわれ、

    太平洋戦争中の日本軍も このイゴロットの抗日ゲリラに

    苦しめられました。

 

 

・・・・

 

それでは、次回 91号を宜しく・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月23日 (水)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 89  トンドの陰謀 日本との同盟?

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_3312

 

「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

p181

 

「トンドの陰謀 1587-88年」

 

=== トンドと言えばフィリピンの中でも治安が悪いとか

汚いなどと不名誉なことで有名な場所ですが、

    ちょっとどんなところなのか、こちらで復習:

    (かなり由緒正しい、歴史のある町なんです)

    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%89

                   

 

卓越したフィリピン人によって、スペイン統治を転覆し、

失われた自由を取り戻そうという初めての陰謀は、1587-1588年

の有名なトンドの陰謀である。 それはボニファシオのカティプナン

の革命的構想の先がけとして認識されるかもしれないし、さらに

1892-1896年にトンドで再度発生している。

 

この自由主義運動の指導者は、Lakan Dula の甥であり、ブルネイの

スルタン(イスラム君主)の義理の息子であった Augustin de Legazpi

であった。 1578年の初期に、彼は、・・・・などに対して、

武装蜂起によって先祖が謳歌した失われた自由を取り戻す

秘密の計画を打ち明けた。

 

 

p182

陰謀に参加した日本人のキリスト教徒、Dionisio Fernandez, を通じて、

Augustin de Legazpiと彼の共謀者は、定期的にマニラで交易を

していた日本人の商船の船長 Juan Gayoに接触した。

秘密の合意が結ばれた。 それはGayo船長が武器と日本人兵士

フィリピン人愛国者を助けるために提供し、Augustin de Legazpi

フィリピン王国の国王として認めるということであった。

そのような支援の引き換えに、彼と彼の日本人兵士たちは

フィリピンで集められる年貢の半分を与えられるというものだった。

 

=== じぇじぇじぇじぇ・・・・

    なんと、日本人とは思えない名前の日本人が

    このスペイン支配を転覆する陰謀に加担していたとは!!

    この日本人、Juan Gayo と Dionisio Fernandez とは

    一体ぜんたい何者で日本名はなんでしょうか?

 

こちらのサイトにこんなことが書かれていました:

https://en.wikipedia.org/wiki/Conspiracy_of_the_Maharlikas

 

日本及びブルネイとの同盟

 

Allies from Japan and Brunei

The mestizo, Augustín de Legazpi and a group of conspiring Rajahs had contacted the Japanese captain, Juan Gayo, through a Japanese Christian interpreter, Dionisio Fernández, who had also joined the conspiracy. A secret meeting ended with an agreement in which Gayo would supply arms and warriors to help in the rebellion and recognize De Legazpi as king of the entire Philippines. In return, Gayo and his men would receive half of the tribute to be collected from the Philippines. A significant group of merchants known only as the "Sakai Merchants", with their leader Luzon Sukezaemon, had also been known to conspirate with the royal families against Spanish rule.

=== なんとなんと、英文サイトには、堺商人の呂宋 助左衛門

(るそん すけざえもん)とあるじゃあないですか。

 

 じゃあ、こっちのサイトもチェック:

 「本名は、納屋助左衛門(なや すけざえもん)。

堺の貿易商・納屋才助の子。」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%82%E5%AE%8B%E5%8A%A9%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80

 

 

日本人町のあるルソンへ脱出した。一説には献上したルソン壺が宝物ではなく一般に売られていた物(現地人の便器)だと発覚したことから秀吉の怒りを買ったともいう]。慶長12年(1607)、スペインカンボジアに介入した後にルソンからカンボジアに渡海し、そこでカンボジア国王の信任を得て、再び豪商となったとされる。」

=== 日本語サイトでは、フィリピンのこの「トンドの陰謀」に

    関与したという記事は見つかりませんが、フィリピン側

    にはもしかしたらもっと詳しいものがあるかもしれない

    ですね。

    しかし、昔から日本はいろんな形で、フィリピンとの

    「軍事同盟」をやっていたんですねえ・・・

 

p182

・・・・1588年10月26日、彼は、マニラに急行し、

Santiago  de  Vera総督にスペイン統治に反抗する陰謀が 

あることを通報した

 

この恐ろしい陰謀のニュースに警鐘を鳴らされ、

15か月も知らなかったスペイン当局は、ただちに

革命計画に関与したすべての人物を逮捕するよう命じた。

その中には、日本人通訳 Dionisio Fernandezも含まれて

いた。

 

p183

 

失敗した自由への反乱の二人の指導者Augusttin  de Legazpi

およびMartin Panganは、残忍にも絞首刑となった。

 

日本人通訳でありAugustin de Legazpiの友人でもあった

Dionisio Fernandezは絞首刑となり財産は没収された。

 

・・・・Dionisio Capolo(Kapulong)は、Candaba(パンパンガ)

の族長であったが、彼の町から追放され、重い罰金を課された。

総督Santiago  de  Veraは彼を赦免した。 その後、彼は

スペインに協調し、1591年と1594年のイゴロットの 

地域へのスペイン派遣軍のガイド及び通訳として働いた。

 

最後に、「トンドの陰謀」の指導的メンバーであった5名は、

メキシコの追放された。・・・・

彼らは、メキシコに定住した最初のフィリピン人となった。

 

===  おお、日本人の通訳さんは、絞首刑にされちゃいまし

     たか。

     しかし、二人の日本人の日本名が分からないってのも

     寂しいですねえ。

     日本人兵士ってことは、侍がいたってことですよね。

     ルソン助左衛門の船に乗っていた侍がいたんでしょ

     うか。

     織田信長や豊臣秀吉の時代だから・・・

 

 

 

こちらのサイトにもっと詳しい研究論文がありました:

http://iyokan.lib.ehime-u.ac.jp/dspace/bitstream/iyokan/1542/1/AN10579404_2012_32_05.pdf

 

(こちらでも、日本名は分かりませんが、長崎県平戸との関係が書いてあります。)

 

日本船の船主は、肥前平戸

の松浦鎮信(15491614年)の下にあった日本人キリシタンのジョアン・ガ

ヨであり、日本のイエズス会からマニラの上長アントニオ・セデーニョに宛

てた書簡を携え、また貿易関係の確立を希求した。ガブリエルと名乗る日本

人も乗船し、航海中にガブリエルの感化を受けた日本人8名は、

マニラにおいてサラサール司教により受洗し、ベラ総督を初めとしてスペイン人高官が洗礼親になった。ガヨはベラ総督に対して中国や周辺諸地域への遠征に必要とあれ6,000名の傭兵を提供できる用意があると申し出たが、ベラ総督は、中国征服に意欲を燃やした前任のサンデ総督やロンキリョ総督とは異なって、フィリピン統治の充実を優先し中国人商人との友好関係を重視していたBR 6: 308310)。ガヨはマニラで失意の日々を過ごしたが、間もなく、日本人のディオニシオ・フェルナンデスの仲介によりスライマンの甥かつ養子のアグスティン・デ・レガスピを知ったのである。」 

 

こちらのサイトでは、さらにジュアン(ファン)ガヨが 

吉近はるたさと同一人物ではなかったかとの記事もあります。

http://proto.harisen.jp/hito1/fan_gayo.html

 

「1587年のこの謀議の時点ですでにガヨは、日本から輸送していた武器をイスラム系原住民勢力に供与し、協力の印とした。実際、別の史料には1587年に大勢の日本人と商品を乗せてマニラに到着したガヨ船長の船が記録されている。またガヨと同時期にマニラを訪れていた吉近はるたさの船が武器を搭載していたという記録もある。

 

 計画は1588年十月に発覚し、スペイン側によって未然に防がれたが、発覚数日前には日本からの武器や火縄銃を供与されたボルネオ勢力がマニラ湾に迫っていたという。

 

吉近はるたさ:平戸の松浦氏の家臣。商船と渡航団を率いて平戸とマニラを往復した。」

 

 

==== 我が故郷 長崎県の平戸の話なんで、ぐっと身近に感じます。

 

・・・・・・・・

 

では、次回 90号 をお楽しみに。

 

 

    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 88  フィリピン人の最初の反乱

このシリーズを最初から読みたい方は、こちらのイントロへどうぞ:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/02/post-1103.html

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンに長年住んでいる外国人としては、少しぐらい勉強

しないといけないなと思い、フィリピンの大学などで教科書として

使われているフィリピンの歴史の本を読んでいます。

要点のみを引用して翻訳しています。

Img_3313a

 

 

p180

「第十四章 フィリピン人の反乱」の続き

 

 

=== ここからは、個別の反乱について、詳しくそのいきさつを

    書いてあるんですが、全部翻訳するのはかったるいので、

    ざっと読んでみて、面白いところだけを翻訳してみます。

    25ばかりの反乱について書いてあるもんで・・・

 

 

Lakan Dula および Sulayman の乱 (1574年)」

 

フィリピン人がスペインに対して初めて立ち上がったのは

Lakan Dula と Raha Sulayman の1574年の乱であった。

この二人は、Maynilad(今のマニラ)とTundok(Tondo 今のトンド)

の過去のそれぞれ地元の王であった。

彼らは、植民地指揮官であった レガスピとの間に平和・友好

協定を結んでいた。 そこで、レガスピは、先祖伝来の土地を

認め、人びとを公平に正しく扱うとしていた。

 

Lakan  Dula と Sulayaman の二人は、王国を失っていたが、

約束を守り、スペインに忠誠を示した。1571年6月に

パンパンガ州の人々が彼らを招待した折に、トンドの沖にある

Bankusayの可航水路でスペイン人と闘おうと誘ったが、

二人は、彼らがレガスピと結んだ平和協定を破りたくなかった

ので、その話を拒否した。

 

賢明なレガスピの側も、Lakan  Dula Raha Sulaymanとの間に

結んだ約束を守った。 しかしながら、レガスピが1572年

 

8月20日に死去した後、かれの後継者となった総督の

Guido  de  Lavezarisは、先祖伝来の土地を没収し、スペイン人の

荘園主(encomenderosに対し、住民を酷使し、厳しく支配する

ことを認めた。

 

Encomenderosについてはこちらで詳しく説明があります。

ただし、上記ではスペイン人のencomenderosとなっています。

http://en.wikipilipinas.org/index.php/Encomienda_System

 

Under the encomienda system, the native inhabitants in a given geographic

region were entrusted to an encomendero or trustee as a reward for his

service to the Spanish Crown. This system was not a land tenure. The

encomendero had specific responsibilities such as, to protect and to educate

the natives in reading, writing and Catholic doctrines. In return, the encomendero

was authorized to collect tribute from the natives and to recruit workers for

the polos y servicios. The encomendero also had no political authority or

jurisdiction over the Filipinos but he could be appointed to a post in the

colonial government.

 

 

新総督Lavezarisがレガスピの方針をひっくり返したことに憤慨し、

Lakan  Dula と Sulayman は、武器を取って立ち上がることを

決意した。1574年12月に起った Lim-Ah-Hong林鳳(りんぽう)

マニラ攻撃を利用して、二人の王は、反乱を宣言し、Navotas

彼らの兵士たちを集めた。 野営地指揮官の Juan  de Salcedo

林鳳(りんぽう)のマニラ攻撃を撃退したのだが、中国人海賊の

指揮官は、彼が打ち立てた王国があるパンガシナン州へと

進んだので、中国人の脅威はまだ残っていた。

 

総督Lavezarisは、林鳳軍をフィリピン人の支援なくしては

撃退することが出来ないと悟り、Salcedoと Geronimo Marin神父を

Lakan  Dula SulaymanNavotas野営地に派遣し、武器を降ろす

ように説得し、彼らの全ての不満を救済することを約束し、

武器を取ったもの達を赦免するとした。

 

二人の王は、Salcedo司令官(レガスピの孫)とMarin神父を

尊敬し信頼していたので、なだめられて、計画していた

蜂起を停止した。  幸運なことに、Lavezarisは約束を守り、

平和と友好は元に戻った。

 

 

p181

 

親友であるSalcedoに対し、感謝と友情を示すために、

Lakan   Dula と Raha  Sulaymanの二人は、親戚や兵士たちを

伴って、リンガエン湾へのスペイン派遣軍に参加し、

林鳳に率いられた中国人の海賊を追い払った

 

 

=== この反乱は中国人の海賊との戦いもかかわっていて

    なかなか面白いですね。

    ちなみに、この海賊はいわゆる倭寇かと思われます。

    林鳳が率いていた海賊軍の中には、日本人の副官も

    いたことが分かっています。

    こちらのページでご覧ください。

 http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/04/daisuke-49b0.html

 

 

    これ以外のフィリピン人の反乱については、

    よく知られている地名や バギオに近いところで起った

    反乱を中心に読んでいきます。

 

・・・・・

 

では、次回 89号 を宜しく。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月22日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 87  フィリピン人の反乱

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンに長年住んでいる外国人としては、少しぐらい勉強

しないといけないなと思い、フィリピンの大学などで教科書として

使われているフィリピンの歴史の本を読んでいます。

要点のみを引用して翻訳しています。

Img_3566

今日からは 「第十四章」に入ります。

 

p179

「第十四章 フィリピン人の反乱」 

フィリピン人はスペインに従属し、キリスト教徒になった。

しかし、彼らは自由への愛と闘争心が失われたわけでは

なかった。 それは、勇壮なマレー人の末裔として先祖から

引き継がれた、消すことのできないものであった。

歴史は、3世紀に渡るスペインへの植民地としての屈従

を通じて、100回以上にわたって失われた自由を取り戻す

ため、あるいは、神に与えられた人権を守るために、

フィリピン人が反乱を起こしていたことを物語っている。

 

「スペインに対する反乱の原因」

スペイン統治に対する初期の多くの反乱は、主に失われた自由と 

幸せを取り戻したいという人々の願望によるものであった。

(その例として、ここに1574年から1764年までの

 6つの反乱が挙げられています。) 

その他の反乱は、スペイン人による抑圧、憎まれていた年貢、 

強制労働、そして宗教的迫害が原因であった。

このような理由で引き起こされた反乱には、第一次パンパンガの乱

(1585年)、Magalatの乱(1596年)、Irrayasの乱(1621年)、

1639年のカガヤンの乱、Sumoroy暴動(1649-1650)、

そしてManiagoの乱(1660年)がある。 

いくつかの反乱は経済的な性質のもので、土地の人からその土地を

奪った修道士との土地論争によって引き起こされた。

修道士の農園の土地の権利を争ったフィリピン人たちが、先祖の

土地の為に武器を取って立ち上がった。

これらの土地の反乱は、バタンガス、ブラカン、カビテ、そして

ラグナの各州で1745年から1746年に起った。 

最後に、いくつかのフィリピン人の反乱は宗教的な性質のもので

あった。 それらは、スペイン人の宗教的偏見、あるいは、

フィリピンのある地域の人々は先祖の神々の崇拝に戻りたかった

ことが原因で、めらめらと燃え上がった。 

これらの宗教的な反乱には、イゴロットの宗教的反乱(1601年)、

Tamblotの宗教的反乱(1621-1622)、Bankawの宗教的

反乱(1621)、Taparの反乱(1663)、そして有名な

Apolinario de la Cruzの反乱(1840-1841)などがある。 

=== 上記の中で、「イゴロット」の宗教的反乱というのが

    ありますが、Igorotというのはルソン島北部山岳地帯

    に住む複数の先住民族の総称で、従来から差別用語

    という形で使われていたようです。

    しかし、今現在では、「イゴロットであることを誇りに

    思う」という若い人たちが、自分の自動車にステッカーを

    貼ったりして、その意味合いがやや変化しているように

    思います。

    ただし、夜の飲み屋などで、外国人が「イゴロット」と

    いう言葉を使っていたりすると、その場で飲んでいる

    イゴロットの人たちに誤解される恐れもあるとの

    話もあるので、注意が必要です。 

    ところで、イゴロットの人たちの元来の宗教は、日本と

    同じで自然崇拝、先祖崇拝のようです。

    しかし、今現在では、山奥にまでキリスト教の布教が

    なされていて、伝統的な宗教行事を次の世代に伝えて

    行くことは困難になっているとの話を聞きます。

    それに、キリスト教徒である人たちに自然崇拝などの

    話をすると、時に「私たちは既にシビライズドだから」

    つまり「文明化されたから」というような返事が返って

    くることもあります。

    逆に言えば、神道のような自然崇拝をしている日本人は

    いまだに文明化されていないということになりますね。 

    しかし、ものの本によれば、カトリックの国フィリピンの

    キリスト教は、フォーク・カトリシズムと呼ばれることが

    あるようで、同じカトリックであっても、土着の宗教

    との習合が認められると言うことのようです。

    長崎などの隠れキリシタンなどにも、そのような傾向は

    おそらくあるのでしょう。 

・・・・・・

 

では、次回 88号 に続きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 86 英軍のマニラ占領時代

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンの大学などで使われている歴史の教科書を読みながら

要点だけをピックアップして翻訳しています。

気長にお付き合いください。

Img_3313b


 

 

「第十三章 英国による侵略」の続き

 

 

p175 

「英国によるマニラでの略奪」

 

マニラ陥落後の恐ろしくも期待外れだったのは、英国の征服者

による陥落したマニラの略奪だった。

30時間以上にわたって、勝利に狂った英国とインド人傭兵たちが

教会や市民の家で略奪を働き、高価な芸術作品や貴重な装飾品

を戦利品とした; 学校、大学、そして修道院などを荒らし;

埋葬された宝物の心なく破壊的な窃盗、そして、墓地を冒涜し、

聖アウグスティヌス教会のレガスピやサルセドの墓地も

例外ではなかった。

 

無防備な市での非道な略奪は、1762年10月6日―7日

起きたのだが、それはマニラというキリスト教徒の市に対して

文明人によって初めて行なわれた犯罪であった。

 

 

「Andaによる戦闘の継続」

 

 

スペインにとって幸運だったことは、マニラ陥落の夕刻に、

Anda(王立の大審問院のメンバーであった Don Simon de

 

Anda y Salazarが 幾人かの忠誠心をもったフィリピン人の漕ぐ

小舟で逃走していたことだった。

彼は、パンパンガ州Bacolorに彼の司令本部を打ち立て、

そこをフィリピンの暫定の首都とした。

彼は、自身を総督として、政府を継続した。

 

彼は、フィリピン人とスペイン人の陸軍を組織し、素早い密使を

国中に派遣し、人びとに対して、神とスペイン国王の名の下に

侵略者に抵抗するよう力説した。

 

 

「英国の侵略におけるフィリピン人の役割」

 

スペインによる統治を守った、このAndaの成功は、フィリピンの

人々の忠誠心と支援に負うものだったことに言及しなければならない。

もしフィリピン人がAndraの主張を支えず、その反対に、

英国の侵略者を助けていたら、フィリピンは英軍によって征服

されていたであろう。

 

 

p176

 

「東インド会社による占領下のフィリピン」

 

英国の東インド会社が単なる貿易会社以上のものであったことは

特筆すべきであろう。

会社は、1600年1月1日にエリザベス女王によって認められた

定款によって、独自に陸軍と海軍を保有することを認可されていた

インド、中国、その他のアジア諸国での英国貿易を独占するため;

英国の為に新たな領土を植民地化するため; そして英国国王の

名に於いてそれらの国々を支配するためであった。

 

従って、マニラ占領から一カ月も経たない1762年11月2日に、

東インド会社(インド・マドラスに拠点を置く)は、マニラに

民政の政府を樹立した。・・・・・

 

同会社の民生政府は、英軍によって征服されたマニラ及びカビテ

 

を支配することは出来たが、ルソン、ビサヤ、ミンダナオ及び

スールーなど、他の州については支配していなかった。

 

マニラ及びカビテの外では、マニラの王立大審問院の戦闘メンバー

であったDon Simon de Andaおよび 忠臣のフィリピン人と

スペイン人の陸軍がスペインの統治を守ることができた。

 

 

p177

 

「バックハウス大佐と ガレオン船の財宝」

 

威勢の良いスペインの将校、 Jose Pedro Bustoは、Andaの指揮の

下で代行していたのだが、フィリピン人のゲリラ部隊を率いて、

パシグ河の水源で、ラグナ湾からマニラへの食糧の物流を

止めた。 河の封鎖に悩まされ、Draper司令官は彼の有能な

将校 バックハウス大佐を送り込み、敵を追い散らそうとした。

 

バックハウス大佐は、フィリピン人から高価な銀の貨物、

メキシコからのガレオン船を押収したいと願っていたのだが、

それを運んでいる輸送隊を遮ろうとラグナへ行軍した。

しかし、Pagsanjanの町で、その地の勇敢なリーダーである

Francisco de San Juanの指揮下にある地元民の抵抗に合い、

遅れてしまった。

・・・・・

Lipaの町で、財宝はすでにパンパンガ州のAndaに届けられた

為、遅すぎたことを悟った。

 

 

「三人の総督とその間の出来事」

 

フィリピンの歴史の中で、奇妙なことのひとつに、短い期間の

エピソードがある。 それは、フィリピンの総督が3人いて、

それぞれが国を支配する権限があると主張したことだ。

それは、大司教 Manuel Antonio Rojo 王立大審問院判事Simon de Anda

そして Dawsonne Drake候であった。

 

大司教Rojoは、メキシコ出身の高位聖職者で、1761年に

スペインの国王チャールズ二世によって、フィリピンの総督代行

として任命されていた。

英国の戦争捕虜となってはいたが、植民地を支配していると主張し、

Andaに対しては投降するように命じていた。

 

Andaは、闘う法律家であったが、マニラの王立大審問院の

メンバーの中でただ一人自由の身であったため、支配権を

当然のこととみなしていた。

 

Drakeは、三番目の総督であるが、東インド会社によって

フィリピン総督として指名されていた。

 

 

 

p178

「英国による占領の終焉」

 

Andaと英国が闘っていた間に、ヨーロッパにおける七年戦争

は幕を下ろした。 戦争を終結させたパリ条約は1763年

2月10日に署名された。

 

 

=== 七年戦争とパリ条約については、こちらでご覧ください:

    これを見ると、元々はスペインは関係なかったみたいですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E5%B9%B4%E6%88%A6%E4%BA%89

 

七年戦争(しちねんせんそう、: Seven Years' War: Siebenjähriger

Krieg1756-1763)は、プロイセン及びそれを支援する

グレートブリテン王国イギリス)と、オーストリアハプスブルク君主国

ロシアフランスなどのヨーロッパ諸国との間で行われた戦争である。」

 

フランスは植民地での劣勢を跳ね返すために同じブルボン王家

スペインに応援をもとめ、17618月に同盟を締結した。」

 

イギリスは176110にプロイセンへの支援を打ち切ったが、

結局17621月にスペインに宣戦布告し、ポルトガルに侵入した

スペイン軍を撃退、さらに大艦隊を編成してスペインの植民地で

あるキューバハバナフィリピンマニラを占領した。」

 

 

 

p178

このパリ条約によって、英国はフィリピンをスペインに返還した。

 

サンタ・クルズ教会の中庭で、スペイン統治権への復帰を祝う

印象的な祝賀会が開催された。

それから間もなく、英国軍は出航し、1年半に渡る占領

終止符を打った。

 

 

 

「英国による侵略の結果」

 

 

英国軍のフィリピン侵略が世界の注目を集めることとなった。

英国軍がマニラを手中にしたというニュースが、ヨーロッパで

広がると、英国の人々とヨーロッパの外交官たちは

その地図を我がちに取り合い、生涯で初めて、フィリピンが

どこにあるのかを学んだのである。

 

 

マニラ占領はフィリピンにおけるスペインの威光を落とすこと

になった。 これまでは、フィリピン人はスペイン軍が

無敵であると信じ込んでいた。 しかし、マニラが英軍の

手中に落ちたことで、フィリピン人は結局スペインと言えども

負けることがあるのだということを悟ることになった。

そのことによって、フィリピン人はその後、特にSilangの指揮下

イロコス州や、Palarisの下のパンガシナン州などで、

様々な反乱を起こすこととなる。

 

短い英国によるマニラ占領下で、マニラは海外貿易に開放

された。 インドの英国商人たちは、フィリピンの商業的な

可能性を学んだ。 インドの貨幣、ルピーが、マニラに導入される

ことになった。

 

最後に、多くのインド人傭兵たちは、英軍の軍役を解除され、

Caintaに定住し、そしてフィリピンの女性たちと結婚した。

 

この町の現代人の多くは、黒く丸い目、高いカギ鼻、ウェーブ

のある黒髪、そして浅黒い肌で ――― インド人(傭兵)の

子孫であることを示している。

 

 

==== 実は、まだ100年ちょっとしか経っていないん

     ですが、私が住んでいるバギオ市は1900年代初期に

     アメリカによって開発された避暑・保養高原都市

     なんです。

     このバギオ市の歴史パレードには、

     スペイン人、中国人、インド人、アメリカ人、

     日本人がバギオにやってきたという紹介が

     含まれているんです。

     それに、1930年代のバギオの街並みを調べた

     折にも、「ボンバイ・バザール」(ボンベイの店のこと)

     の名前が有名で、戦前のバギオを知る方に聞くと、

     インド(人)の事を「ボンバイ、ボンバイ」と呼んで

     いたそうなんです。

     そのインド人がどういう経緯でバギオにやってきた

     のかを知りたいと思っていたんですが、

     直接ではなく間接的にこの英軍によるマニラ占領が

     関係あるのではないかと思ったりしています。

 

 

=== これで第十三章を終わりました。

    次回 シリーズ87 からは 

第十四章 フィリピン人の反乱」に入ります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月21日 (月)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 85 英国による侵略

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

2016年の1月に シリーズ84を書いて以来、

仕事やらボランティアやら一時帰国を理由にさぼっていましたが、

やっと暇になってきたので、暇潰しを再開できそうです。

まだまだ先が長いので、いつ教科書一冊を終われるか・・・

Img_3312

フィリピンの歴史と言えば、ほとんどがスペインの植民地、

その後にアメリカの植民地、そして日本による占領という

のがすぐ思い浮かぶんですが、英国による侵略もあったんですね。

 

「第十三章 英国による侵略」の続き 

p172

「英国がマニラ湾に侵攻」

国王ジョージ三世の命令により、インドのマドラスにある東インド会社

よって、英国遠征軍が準備を整えた。

それは十三隻で構成され・・・・

軍隊は、1,500人のヨーロッパ人兵士(250人のフランスの

商人を含む)、3,000人のヨーロッパ人船員と海兵隊員、

砲兵二個中隊、600人のインド人傭兵、そして 1,400人の

インド人労働者などで、総数6,830人となった。

1762年9月22日の夕刻、英国艦隊はマニラ湾に入った。

スペイン当局と町の住民は・・・中国商人のジャンク船だろうと

思っていた。

嘆かわしいことには、スペインと英国の間に戦争が勃発していた

ことなど知らなかったのである。

それは、当時の海外での通信が困難で、マドリードから何も

戦争のニュースが入っていなかったためだった。 

「敵の侵略者が上陸」

翌朝(9月23日)、二人の英国将校が、白旗つまり最後通牒の

停戦協定をもって上陸し、スペイン当局にマニラの投降を要求した。 

メキシコ人大司教・・・は、フィリピンの総督代行であったが、

・・・戦争委員会の助言に基づき・・・最後通牒の受け入れを

拒否した・・・・ 

p173

日暮れまでに、・・・英国軍は上陸し、市の城外にある

火薬工場と、マラテ、エルミタ、そして Bagumbayan

石造りの教会を占拠した。 市の防衛隊はなんの抵抗も

しなかった。 

「マニラ包囲攻撃」

翌朝、9月24日にマニラへの包囲攻撃が開始された。

 

9月25日、・・・大司教は再度降伏を拒否。

市の城壁の中で、フィリピン人とスペイン人は防衛の工事を

急いだ。

不十分な軍備にもかかわらず、侵略者への反抗を決意していた。

 

「英国の侵略者、フィリピン人によって追い詰められる」 

スペインの悲鳴に応じて、数千人のフィリピン人兵士

パンパンガ、ブラカンそしてラグナから駆け付け、市の陣地の

補強に当たった。 

・・・10月3日、彼らは大胆にも Bagumbayanとマラテの

英国軍駐屯地を急襲した。

・・・しかし、英軍の応援部隊が派遣され・・・市への

撤退を余儀なくされた。

 

p174

「英国によるマニラ占領」 

マニラ市防衛軍と住民の恐ろしい殺戮に終止符を打つため、

大司教は サンチャゴ要塞に降伏のしるしとして白旗を掲げた。

こうして、マニラは1762年10月5日に英軍の手に落ちた 

「降伏の条件」

合意書によれば、スペイン当局は、マニラ、カビテ、及びその他の

 

要塞化された地域を明け渡すこと、そして、賠償金4百万ペソ

支払いに合意した。

その引き換えに、英国は次のことを容認した:

(1)生命および財産の保全

(2)カトリックの宗教行事の遂行

(3)商工業の自由

(4)王立の大審問院の維持

(5)全てのスペイン人官吏の執行猶予、及び携帯武器所持の特権付与

 

=== さて、英国軍による侵略を許してしまったフィリピン。

    この後どうなったのでしょうか・・・

 

次回 シリーズ86 は、

p175 「英国によるマニラでの略奪」からです。

 

 

 

 

 

 

 

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2016年11月20日 (日)

「塀の中の人々」 フィリピン・バギオ市警察署内・刑務所 

フィリピン・バギオ市警察署内・刑務所 「塀の中の人々」

バギオ市役所に向かって右側。
道路を渡ったところに、バギオ市警察署があって、
その中にバギオ刑務所がある。

Img_3595

たまたま、バギオでの昔の職場の同僚であるフィリピン人女性
デリア女史が、国会議員の地域生活支援活動の一環として、バギオ
刑務所に「うどんの作り方」を指導に行くから一緒にどうだと
誘ってくれた。
(この女性は、日本にも出張で行ったことがあり、
 「うどん」という言葉も知っていた。)

Img_3596

刑務所の見学なんて、そうそう出来るものでもないので、
是非もなく見学させてもらうことにした。

この活動は、Mark Go という中国系のバギオ市選出下院議員
が行なっている Congressman Go Livelihood Program という活動で、
バギオ市内のバランガイ(町会)などを廻って、料理の仕方などの
指導をしているらしい。

Img_3648

ちなみに、この国会議員は、2000年頃に私がバギオの兄弟会社で
駐在員をしていた時代に、人事・資材担当役員の地位にあって、
いろいろと世話をしてもらったという関係がある。

Img_3641

バギオ警察署の正門は、左側へ坂を上ったところにあるが、
刑務所の入口は、坂の途中に、それとは分かりにくい狭い階段を
降りたところにあった。

その狭い通路には、列をなして座り込んでいる人たちがいた。

Img_3619

そこには、鉄格子があって、中に入っていく人たちを
一人ひとりチェックしていた。
私は運転免許証を差しだし、3人のフィリピン人女性たちと
一緒に刑務所の中に入った。

カメラでの撮影は、「囚人の顔は撮らないように」との指示だった。

「うどん」作り講習会の会場は、刑務所内の中庭だった。
中庭はバスケット・ボール・コートになっていて、
片隅には 黄色いTシャツなどの洗濯ものが干されていた。

Img_3651

さすがに、クリスチャンの国。
9月から12月までの4ヶ月間は フィリピンではクリスマス・
シーズンと言われるとおりで、ここにもクリスマス・ムード満載。

Img_3755

私を誘ったデリアからは、事前に、
「参加する時は、黄色いもの以外の色の服を着てくるように」
との案内があった。

黄色は囚人服である。

3人の女性たちは、友達の家でパーティーの準備でもやるような
軽い感じで、持ち込んだ材料や器具類を整えた。

刑務所の中庭は、3~4階建てのビルに囲まれていた。
上の階は、バギオ市警察署になっている。

中庭をぐるりと囲むように、建物の中には廊下があって、
その廊下の向こうには鉄格子の房が並んでいる。

房の前の廊下には、面会に来たのだろう、女性たちが
たくさん座って、鉄格子の中の男たちと話をしている。

Img_3748

通路や中庭には、黄色いシャツじゃない男たちが
おしゃべりをしたり、いろんな荷物を運んでいたりしていたが、
警察官なのか業者なのか、訳のわからない様子だった。

房の中は、よく見えなかったが、蚕棚のようにベッドが
あって、天井からは洗濯物がぶら下がっていて、暗い。

「うどん」作り講習会が始まった。

Img_3666

おそらく雑居房の中でも、優等生たちなのだろう。
十人ばかりの黄色いシャツの男たちが、テーブルの前に
集まって、小麦粉をこね始めた。

そして、女性たちが、いかにも切れ味の悪そうなナイフで
玉ねぎやニンニクを切っている。

Img_3753

私は内心、こんなところで、ナイフを使っていいのかな、
と思ったが、そのナイフを囚人に渡して、手伝わせたのは
料理に参加していた女性の警察官(刑務官)だった。

後から聞いた話では、このバギオ市刑務所に収容されて
いるのは、軽い犯罪の受刑者ばかりで、殺人などの重罪犯は
マニラの刑務所に送られるとのことだった。

大鍋にお湯が沸き、おそらく牛の骨だと思うが、だし汁をとっていた。

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一方の大きなフライパンには、油が入れられ、
なにかの種のようなものを炒めて、赤い色付けがされた。
後で、その種の殻はすくい取っている。

Img_3776

ニンニクと玉ねぎが炒められて、調味料としては パティス
呼ばれる 魚醤(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%9A%E9%86%A4
がベースになるらしい。

Img_3815

一方、「うどん」作りに、男たちは大盛り上がり。
なにかを一緒に作るというのは、楽しいものだ。
ここが本当に刑務所の中なのか、という雰囲気だった。

Img_3686


延ばす道具は・・・・

Img_3724

「うどん」だというから、よく捏ねて、延ばして、包丁で細く切るか、
ひとつひとつを細く手で伸ばすのかと思っていたら、
スパゲティーのように切る器具を使った。

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結局、「うどん」でも、スパゲティーでもなく、
フィリピンでは MIKIと呼ぶ麺を使った、MAMI(ラーメン)
あるようです。
http://www2b.biglobe.ne.jp/~mbx/philippines_food_noodles.html#mami

このマミが出来上がると、タッパーなどの器が並べられ、
各房の代表者がそれぞれの房へ配達。

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そして、3人の女性たちは、「プト」と呼ばれる蒸しパン
袋から取り出し、男たちと一緒に手分けして、小さい袋に
分け始めた。

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デリア女史によれば、刑務所からの当初に依頼では
440個ということだったのだが、今になって、490個欲しいと
言われた。 また来週、女子房に講習にくるから、その時に
追加分を持って来ると約束していた。

ちなみに、このバギオ刑務所では、男が490名、女が250名
ぐらい収容されているらしい。
(この数はもしかして職員の分も水増しされているのかな?)

女子受刑者には麻薬関係の犯罪者が多いらしい。

3時間ほどで全て終了。
立ちっぱなしの写真撮影は、老体に応えました。

Img_3893

くじ引きのくじを一枚250ペソで2枚買わされましたが、
どうも当たった気配はありません。

Img_3903

ところで、刑務所の中には ワンちゃんたちが3匹いました。

この刑務所で育てているんだそうです。

Img_3742

囚人の一人は こんな文字が入った黄色いシャツを着ていました。

FREEDOM

Img_3636

早く 刑務所を出られるといいですね。

ところで、刑務所の財政がバギオ市ではどうなのかを聞いてみたところ、

バギオ市はきちんとしているから、ちゃんと食事も出るそうです。

もしかして、超貧乏な困窮家庭だったら、刑務所の方が安心?

・・・・なんてことは、日本でも起こっているそうですけど、

良い子は真似しないようにしましょうね。

 

 

 

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