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2016年12月10日 (土)

あのメスティーサは鼻が高くかなりの美人。 おまけに4人の日本兵も・・

先日 ラジオ番組で亡霊の話を紹介したんですけど、

下宿の二階に住んでいるオーナーの兄弟から新たな証言が・・・・

ラジオ番組の中で 4つ目の亡霊の話をしましたが、その続編。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/12/post-dbc5.html

まず、私の部屋に住んでいるというメスティーサ(スペインとフィリピンのハーフの女性)の亡霊について。

その男性は、霊感が強くて、良く亡霊を見るらしいんですが、

元々 私が今住んでいる一階の部屋は、彼の事務所だった場所。

その彼が、

「そのメスティーサは、鼻が高くて、結構美人だよ。スペイン人みたいな顔。」

「髪は黒髪で、長いと ヒーロットの小母さんたちから聞いたんですよ。」

「そう、腰の辺りまでの長い髪で、スカートは黄色、そして白いシャツを着てるよ。」

そして、スカートは、ちょっと短めだと膝の上あたりに手を当てた。

「おお、見てみたいもんだなあ・・・」

「それに、ここには、日本兵が4人もいるんだよ。」

「えっ? 4人もいるんですか?」

「夜に、テラスで珈琲を飲んだりしていると、兵隊たちが 裏山から降りてきたり、登っていったりするんだよ。」

裏山というのは、戦争中に日本兵の陣地があって、そこから

家の前を通っている ケノン・ロードを守っていたそうな。

「なにも悪さはしないんですか?」

「基本的には大丈夫だけど、あまり好まない相手だと、ちょっと攻撃的になるかも・・」

・・・・・

この前の4日の慰霊祭の翌日から、今日10日まで、風邪気味になったのは、亡霊の仕業かな??

・・・・・・・・・

 

 

 

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アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その11

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。

今日は「第14回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34699

               
「まだ、大学で親しい友達は1人もできていなかった。だから、
早い時間帯であっても、授業が終われば大学にいてもやることがない。
一刻も早く自宅に戻りたかった。」

Numbers研究会  私たちは"数"を愛する人を大歓迎するサークルです
  ○月△日17時、××号教室で入会説明会をします!」

「いくらASD(自閉症スペクトラム障害)特有の「他人とコミュニ
ケーションを取るのが大の苦手」という部分を抱えているとはいえ、
一人でいると淋しいと思うことはあった。家族以外にも、
本音を語れる友達が欲しいと思うときもあった。」

「「彼らは「10個の数字にさまざまな計算を施して結果を10にする」
というゲームをやっていたのだ。一人が問題を出し、残りの者が解く。
それを繰り返していたのである。計算には四則演算だけでなく、
平方根(√)や対数(log)も使っていた。」

「同類がいる、仲間がいる・・・。僕は名状しがたい嬉しさで、
全身がゾクゾクするのを感じていた。」

「1人の学生が、頭を掻きむしりながら天井を仰ぎ、「ああ、この問題、
どうしてもわからん。どうやっても10にならない。俺、バカになった
かも!」と叫んだ。すると、問題を出したらしい学生が「こんなものが
できないなんて、お前、確かにバカだよ」と応じた。」

「ここでは"いい奴"を演じる必要がないんだ」

==== なんか、いいですねえ・・・・
     「お前、バカだよなあ~~」と言える雰囲気、好きです。

「理由を聞くと、ジャグリングの修得で磨かれる感覚と、数学の問題
を解くのに必要な感覚はよく似ており、数字が好きな学生の多くが
大道芸にハマるのだという。」

=== どういう関係があるんでしょうね。
    ジャグリングの軌道計算でも感覚的にやるんですかね?

「メンバーには、数学科や理系学科の学生だけでなく、哲学科や
心理学科、経済学部の学生もいます」

「学生が作ったパズルの中には、今でいう「数独」と非常によく
似たものもあった。数字を使ったパズルも、ジグソーパズルも、
僕は子供の頃から大好きだった。」

=== 私は ゲームみたいなものがさっぱりダメなんです。
    根気がないってのもあるし・・・
    こういう人とは全く逆で、興味がないんですねえ。

「君、新入生かい?? この研究会に入りたいの?? 入るのは自由だけど、
僕たちは何も教えないからね。数学に必要なものは、ただ一つしか
ありません。それは才能です。才能だけ。努力なんかしても無駄だから」

「そして教授は、僕の目をじっと見つめて、「君はどっちかね??
バカ?? それとも天才?」 と尋ねてきた。」

「バカです」

「それでよ~し!」

「教授は満足したような大声を出し、「そうか、やっぱり君はバカ
なのか。きっとそうだろうと予想していたよ。ハハハ」と笑った。」

=== この会話。 凄いですね。
    しかし、いさぎが良くていい感じ。
    日本語的に言えば、そのものズバリの質問と答ですね。

・・・・ ここから 「第15回」に入ります。・・・・・

「人に嫌われることを気にせずに振る舞うことのできる場は、
ただひたすら楽しかった。とにかくメンバーたちは皆、僕と同じく
「数」や「数学」を愛し抜いているのだ。「人生で初めて仲間が
できた!
」と、躍り上がりたいような気分だった。」

「メンバーの学生たちは、何でもズケズケと本当のことを言う
連中ばかりだった。」

「本当のこと、つまり客観的な事実と、自分が実際に思うこと
素直に話していればいいのである。無理に"いい奴"を演じる必要もない。」

=== この部分ですね。
    「空気の研究」やら、「国語学者・大野晋の生涯」での
    キーワードになっている言葉。
        客観的な事実と論理性
    大野晋という人は、こういう人だったんじゃないかと
    感じるんです。
    それで、周り中が敵だった。
    それでも、「日本語、タミル語起源説」を実証する
    研究を続けた。

「あたかも実家の家族と一緒にいるときと同じように、リラックス
して、「自制」ということを忘れて振る舞うことができた。」

=== 高校まで住みにくい、生きにくいと思っている人たちは
    大学に同類がいると思って頑張るしかないですね。
    世の中、世界は広い。
    今の自分が居る場所だけが、世界じゃないってこと。

         日本という狭い範囲に限定する必要もありません。

Tの行動は皆にとって謎だった。なぜ、いつも授業の最後の10分
だけに現れるのか。なぜ、一番後ろの扉から入ってきて、最前列の
席まで、周囲の目を気にせず大きな音を立てて歩いていくのか。」

「俺がいつ授業に来ようが、どの席で授業を聞こうが、お前たち
にはどうでもいいことやろ。何かお前たちに迷惑かけてるか??
なんでそんなことを気にするの?」

「Tは必ず、「美しい!」と感嘆するしかない絶妙な解法で答えを
導き出してくれたからだ。しかも、教え方も抜群にうまかった。」

「こんなに詳しく予定を決めて旅行に行って、何が楽しいのか、
僕には理解できなかったが、実際に分単位のスケジュール
こなしているときのMの顔は喜びに満ちていた。途中、△△公園
という場所が思ったより小さく、30分くらいで一周してしまったので、
僕は「もう次に行こうぜ」と提案した。
 するとMは顔を真っ赤にして、「何を言ってるんだ。あと25分は
ここを散策するって俺がスケジュールを立てたじゃないか!」と怒り出した。」

「ダイヤの乱れなどが原因で、予定通りに「すれ違う」ことができないと、
「ああ、この旅行は台なしだぁ~」と叫びたくなるほど深い絶望感に
襲われるという。」

「後に松本清張の『点と線』を読んだとき、真っ先に思い出した
のがMのことだった。」

=== 上には上があるってことですね。
    さすがのアスペさんも このアスペさんには驚いている。

 

自分を客観視できないところ、周囲の空気が読めていないところが、
まさに僕も持つASD(自閉症スペクトラム障害)の特徴と重なる。
わかりやすく言うと、Yは完全に「勘違い」しており、しかもその
勘違いに自分で気づいていなかった。」

=== ここは、ちょっと興味深いところですね。
    「自分を客観視できない
    自分以外のことになると、客観的に事実をずばりと
    いいのけてしまい、周りを固まらせる人たちなのに。

    自分を客観視するということ自体が、他人の
    意見を集約したものだからでしょうか?

    そうすると、客観視というのは、事実ではない
    ということも言えるのかな?

    自分というのは何なのかというのは
    自分が決めるものなのか、他人が決めるものなのか
    って話ですもんねえ。 難しいなあ・・・

「そんなある日、Hは喫茶店でTとMとYと僕と5人でコーヒーを飲んで
いるとき、急に「俺は女好きだけど、愛というものがまったく
わからないんだ」と告白し始めたことがある。」

「一緒にいて楽しいという気持ちはある。可愛いなと思う気持ちもある。
もちろん性欲もある。でも、相手に愛情を感じるという心の動き自体
がわからないんだ。どうしたらいいんだろう?」

「「愛って何なんだ」とつぶやいて頭を抱えた。」

=== う~~ん。
    確かに、これは 「う~~ん」と唸るしかないですね。

    ここまで書いた後にベッドで寝たんですが、
    「愛情を感じるという心の動き」というのを
    考えこんでしまいました。

    このH君のいう「愛情」が恋のことか、愛のことかは
    明確ではありませんが、もしこの恋と愛を別物として
    考えるならば
、どんな定義が考えられるでしょう。

    H君は、ここで、「楽しい」「可愛い」「性欲」という
    言葉を使っています。
    これは、本人が自らの身体を通じて感じ取ることが
    出来る感情と言えると思います。
    それが 「恋」であると定義しましょう。
    そうすると、これは具体的であり本人にとっての
    事実であることは間違いないでしょう。

    一方、「愛」はどうでしょうか。
    これは考えれば考えるほど、人様々で表現するのは
    難しいでしょうね。
    本人自らの身体を通じて直接的に感じられる
    と言うよりも、かなり抽象的で観念的なものの
    ようにも思えます。
    また、同時に、毎日の生活に根差していて、
    じわりと湧き出してくるもののようでもあります。

    それに、敢えて付け加えれば、家族に対する慈しみ
    責任感、ある種の覚悟、観念的でありながら、
    日常の生活という具体的な地面から発するような
    ものにも思えます。
    しかし、これは、事実と言うには、抽象的過ぎて
    アスペルガー的な人には実感を持てないもの
    なのかもしれません。

    そして、これは、ちょっと飛躍するんですが、
    「家族(夫、妻)とは空気のようなもの」という表現が
    ありますが、ある意味 「空気の研究」に出てくる
    日本社会に醸成される「空気」にも似たような部分が
    あるのではないかという気がします。
    「いわずもがな」の関係とでも言うのでしょうか。

「彼らは、僕がどれだけ「空気を読まない発言」をしても、
決して否定的な視線でこちらを見なかった。それどころか、
僕の気持ちを十分に理解してくれた。
逆に彼らの言うことも、僕は素直に理解できた。」

母以外に、こんなにストレートに気持ちが通じ合った
相手に出会ったのは初めてだった。」

「僕たち5人の付き合いには、もう一つ特徴があった。誰も、
絶対に不満や愚痴、そして他人の悪口を言い合わなかった
いうことだ。全員、その種の話にまったく興味がなく、
下らないと思っていたのである。」

「もし、彼らに会えていなかったら、僕の人生はどうなって
いただろう。 もし、大学1年の夏休み前のあの日、Numbers
研究会の勧誘のポスターを目にしなかったら・・・
そう考えるたびに、僕はゾッとしつつも、同じ悩みを抱え、
生涯助け合っていける友人たちを得た幸運を、改めて噛み
しめているのだ。」

=== これは、素直に読めば、友人関係としては
    理想形なんじゃないでしょうか。

    裏の無い正直な発言を否定しない。
    変な顔もしない。 そのまま受け取る。

=== 人間関係の煩わしさというのは、世界中どこにでも
    あることなのでしょうが、
    フィリピンに住んでいる者としては時々考える
    ことがあります。

    私は、日本語教師という立場もありますが、
    バギオの地元の言語が全く分かりません。
    と言うより、学ぼうとする気持ちがありません。
    
    建前から言えば、
    直接法で日本語を教える教師としては、
    地元の言語が分かるのは邪魔になる。
    (英語でも同じなのですが、日本語を媒介語で
     説明し出すと、きりが無くなり、生徒自身が日本語を
     話す時間を奪ってしまうからです。)
    
    もうひとつは、地元の人たちの世間話や
    ゴシップ、悪口などを耳に入れたくない
    ・・・と言うことなんです。

    英語の場合は、一般的に、日本語と違って、
    論理的であり、ストレートに思っていることを
    表現できると聞きます。
    言語によって、一人の人の人格が変化するとも
    言います。

    ヨーロッパ言語の場合は、そもそも個人主義に
    根ざした言語であることから、日本のようには
    周りを気にしないということもあるようです。
    日本語の敬語は、立場によって言い方を変える
    というのが典型的な例でしょう。

    つまり、もしかしたら、英語の方が日本語よりも
    アスペな人たちによっては、住みやすいのかも
    しれません。
    もっともこれは、ネイティブ・スピーカーに
    とってはあまり機能しないかもしれません。
    英語の微妙な言い回しまでは理解できない
    あまり英語に堪能ではない日本人だけかも
    しれませんが・・・・

・・・・・・・

それでは 次回 その12 に続きます。

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2016年12月 9日 (金)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その10

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。
済みませんね。

今日は「第13回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34637

「あれこれ考えた末、自分が持つ唯一の武器である、あの「フォトグラフ
ィックメモリー
」を駆使する勉強法を編み出した。そして、それを武器に、
受験勉強に邁進しようと考えたのである。」

「後に同級生にその話をすると、「他の人間にはまったく参考にならないよ」
と酷評された。」

=== 大昔の雑誌にこれに類する「記憶術」が掲載されていました
    けど、即座に「これは自分には無理」と思いました。

    と言うのは、私は昔から、人の顔の画像認識能力が
    足りないんじゃないかと思うぐらい、人の顔の識別が
    苦手だし、記憶できないんです。
    よく、銀座の女将みたいな人たちの中には、お客さん
    一人一人の名刺と顔をばっちり記憶している人というのが
    いると言いますね。
    とても、そんな芸当は私には無理なんです。

    私は、なにかのエピソードがないと、その人を記憶できない
    という感じなんです。 だから、そういう意味では
    ある一定の文脈の中でしか、人物を記憶できないって
    ことになるのでしょうか。

    その意味では、歴史の授業が苦手だった私は、
    あの「ビリギャル」の映画の中に出てくるような
    「歴史はマンガで覚える」というやり方が合っていた
    のかもしれません。

「文章の聞き取りでも同じだった。「英語の文章を読むときは、記憶して
いる例文と照らしてすぐに意味が把握できるのに、なぜ、聞くと何も
わからないのだろう」と、我ながら不思議だった。」

「僕の絶対的な記憶力も、その多くは視覚に頼るものだ。逆に、聴覚で
情報を得てそれを記憶したり、視覚経由の情報に関連させたりする能力は、
医師によると、平均よりかなり劣っているという。」

「耳から入ってきた音声は、僕の中で何も形を結ばないのだ。」

=== この辺りは、脳科学で是非とも解明してもらいたいですねえ。
    フォトグラフィィックメモリーで記憶領域を使い過ぎて
    その他の脳機能の分野が影響を受けているんじゃないかという
    気がしますけど・・・

「ASDを抱える僕は、他人の気持ちを理解するのが苦手(正確に言えば、
ほとんど不可能)である。だから、現代文の試験で「このときの主人公
の気持ちを○○字以内で述べよ」といった問題が出されると、お手上げ
になってしまう。」

目の前にいる人の気持ちさえわからない僕のような人間に、
物語の登場人物の気持ちがわかるはずもない。」

=== ここは国語の受験対策の部分なんですが、
    ここが一番ASDの人にとっても、そうでない人に
    とっても重要な部分かなと思います。

    「目の前にいる人の気持ちさえわからない」というのは
    理論的に言えばまったくの正論だと思うからです。
    他人の心の中を見とおせる超能力を持っているなら
    ともかく、そんな能力は普通の人間にはないですもんね。

    まあ、普通の人は、人間関係の一般的なルールみたいな
    ものに順応して、その範囲で「他人を理解した」気に
    なっている
ってことなんでしょう。
    そう思いこまないとやってられませんしね。
    だから、何かあると「あいつに裏切られた」なんてことも
    出てくるんでしょう。

「今考えると、とんでもない行動に出た。すべての問題について、
「これは正解ではないだろう」と考えた選択肢のマークシートを
塗りつぶしていったのだ。
すると1ヵ月後、意外な結果が出た。何と、満点だったのだ。」

==== まあ、これは笑っていいのか、悲しんでいいのか
     分かりませんが、それだけASDの人は
     真逆に感じてしまうということなんですね。

     これは、日本語の面から言えば、かなり由々しきこと
     じゃないかと思うんです。

     つまり、アスペルガー的な人が「事実に基づいて
     論理的に」語り、理解するという前提が正しいと
     するならば、日本語はかなりいい加減な非論理
     な言語だってことになるからです。

     まあ、非論理的とは言わないまでも、かなりの
     部分が省略された「舌足らず」な言語という
     話になるかもしれません。

     ・・だだし、ヨーロッパ言語の人たちの中にも
     「コミュニケーションに問題がある」人たちは
     いるのでしょうから、論理的だとされる言語の
     国々の人たちが どんな形で言語上の問題を
     抱えているのか、それとの比較が必要なんでしょうね。
     誰か研究してくれませんかねえ・・・・

「国語とは反対に、一つだけ、子供の頃から高校時代までずっと
好きだった科目があった。数学である
数学が好きだった理由は簡単だ。数学ならば、教科書を見ても、
参考書を見ても、そしてテストの問題を見ても、いたるところに
「数字」が溢れていたからである。」

「たとえば、今でも覚えているのが、僕たち家族の車の前に、
ナンバープレートの上下に数字が「330 7264」と並ぶ車が走って
いたときのことだ。僕はゼロを使用せず、次のように計算して、
答えを10にすることができた。
〔{3×3+(6÷2)}÷4〕+7=10 」

「困ったのが、学生時代に運転免許を取り、自分で運転するよう
になった後だった。ハンドルを握りながら、どうしても前を走る
車のナンバープレートばかりを見てしまう。しかし、あまりにも
危険なので、「運転中は絶対に他の車のナンバープレートは見ない」
と固く決意し、今も守っている。」

「数学の問題に取り組んで、正解を得る瞬間が僕は大好きだった。
一つの問題を何時間も考えてたどり着いた、たった一つの正しい答え。
国語の問題のような曖昧な答えなど、数学では絶対にあり得ない。」

=== 私は、2002年ごろから日本語を教えているんですが、
    生徒の傾向をいろいろと分析してみると
    どちらかと言えば数学やITなどの理系の学部を卒業した
    人たちの方が、日本語の修得の速度が速いという結果
    でした。

    少なくとも、外国人の初級クラスなどでは、
    日本語の構造を文法的にはっきりと教えている限りは
    論理的思考に強い生徒の方が 早く目標のレベルに
    到達できるようです。

    一方で、会話だけをやる練習の時には、とても元気の
    ある生徒が、ひらがなや漢字などを含む筆記試験では
    さっぱりダメだということもあります。
    この生徒はひらがなをきちんと画像認識できていない
    のではないか、というぐらい、芸術的文字を書いたり
    します。

「数学についても、僕には一つ問題があった。
「数字」を分解したり、「数式」の性質を考えたりすることは好き
だったが、「図形」の問題、いわゆる幾何にはさっぱり興味が持て
なかったのだ。まぁ、図形の問題には数字があまり多く出てこない
のだから仕方がない。
よく「数学が好き」と言うと、数学のどの分野もおしなべて
できるように思われがちだが、そうとは限らない。僕のような
例外もいるのだ。」

===  これは、私の場合は正反対でした。
     物理や幾何は大好きで、成績もよかったんですが、
     代数になってからはさっぱりダメになりました。
     脳味噌には、図形的な思考と数字的な思考の
     別の領域がありそうですね。

「暗記には自信があった僕の脳も、酷使が過ぎ、さすがにパンク
しそうになった。あるとき、1日に覚えられる記憶容量を超えて
しまったのか、突然、熱が出て、何を読んでも頭に入らなくなった
母は笑いながら「本当に機械みたいな脳だね」と言って手当をして
くれた。翌日、熱が下がると、また以前のように、いろいろなこと
を記憶できるようになった。」

=== これは面白いですね。
    私のパソコンも、熱を持ちすぎて、ぷっつんと画面が
    真っ黒になって切れてしまいました。
    仕方なく、今はパソコンの下に扇風機みたいな
    パソコン・クーラーを置いています。

    人間の脳も、その内、パソコンの仕様書みたいに、
    この人のCPUの速度はこれくらいとか、
    メモリーの容量はこれくらいとか、判定する計測器が
    出てくるんじゃないですかねえ。
    それが、就職試験の時の、履歴書の必須添付資料に
    なったりして・・・ああ、怖い。

    まあ、私なんかは、今でも、外部記憶装置が欲しいくらい
    ですけどね。

古文や漢文はもっとひどかった。両方とも中学生の頃からまったく
興味がなく、ろくに勉強したこともない。そのため、基礎的な知識が
身についておらず、高校時代も「今さらやっても遅すぎる」と考えて、
手もつけていなかった。誇張ではなく、古文も漢文も0点に近いレベル。
もう、どうしていいかわからなかった。」

「奥村、お前はいつも『古文が全然できねえ』って言ってるけど、
暗記力がすごいんだから、それを使ってみたらどうだ??お前の志望校って、
入試によく『源氏物語』を出すだろ。だから源氏物語に絞って、
原文と現代語訳を覚えたらどうかと思ってさ。お前ならできるんじゃないか」

「そして、ようやく入試当日の1週間前、400ページの分厚い参考書に
左右対訳形式で記された原文と訳文を、すべて覚えることに成功した
のである。原文を見ただけで、瞬時に訳文がすらすら書けるレベルに
までなっていた。」

===  古文と漢文・・・・
     ひらがなと漢字。
     この人は、源氏物語を丸ごと暗記して成功したわけ
     ですけど、このふたつの違いって何なのでしょうね。

     私は古文は全く苦手だったんですけど、
     漢文は大好きだったんです。

     おなじ日本語の筈なのに、なんでそんなに苦手、
     得意という結果になるのか・・

     
=== そこで、思い出したのが、この本です。
    この本は、私が2001年ごろに、日本語教師養成学校
    で教授法を学んでいたころに読んだ一冊です。

    「二重言語国家・日本」(石川九楊著)
    https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E4%B9%9D%E6%A5%8A/dp/4140018593
     
    「日本語は、語彙的に中国の漢語と孤島の和語に分裂し、
     構造的には漢語の詞を和語のテニヲハが支える二重言語
     ある。また、音楽を発達させた西洋の声中心言語に対し、
     日本語は、漢字という表意「文字を聞く」書字=文字中心
     言語。この文字中心言語から盆栽など線の文化が、
     二重言語からは、日本人のもたれ合いの精神構造などが
     再生産されてくる」

     私の頭の中はどうも、「漢字という表意」を中心とした
     意味の理解が中心になっていそうです。
     ひらがなばかり、あるいはカタカナだけで書かれている
     日本語にはイライラしてしまうんですねえ。

     古文というのは、輸入された漢字の音を
     適当に大和言葉の音に当てはめて読ませていただけなの
     でしょうから、漢字には意味はなかったわけですね。
     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%A8%80%E8%91%89

     
=== ここに、受験対策のサイトですが、古文と漢文の
    興味深い攻略法が書かれています。
    http://takeda-shinjuku.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/%E5%8F%A4%E6%96%87%E3%81%AE%E5%8B%89%E5%BC%B7%E6%B3%95%E3%80%90%E5%81%8F%E5%B7%AE%E5%80%A4%E3%82%9210%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B%E3%80%91/

    「漢文と古文の勉強方法の違い
     漢文は古文と似たイメージがあるかもしれませんが
     勉強すべきポイントを考えると、古文の方が学ぶべき
     ことが多くあります。

     例えば、漢文では単語帳を使うことがほとんどありませんね。
     句形のような文法上のルールの方が漢文の読解では重要に
     なるからです。

     古文では単語を知らないと何について述べているのかも
     理解できません。

     さらには、現代の日本語と似たような言葉もあるので
     知っているつもりで間違った意味で捉えてしまうこともあります。

     長文が多いことも古文では悩みの種となるでしょう。」

     ・・・つまり、日本の文学である古文の方が単語自体の
     意味をとることも難しく、長文が多くて読解が難しい
     ってことのようです。

     逆に言えば、漢文は、文法を理解していれば、
     論理的に理解し易いってことでしょうか。

「ところが大学生活が始まってみると、そんな不安は瞬く間に吹っ
飛んでしまった。なぜなら大学には、僕と同じ、「他人の気持ちが
わからない人間」や「空気を読めない人間」が何人もいたからだ。
今思うと、彼らがASDなどの発達障害を抱えていたのはおそらく
間違いないと思う。言動を振り返ると、そうとしか考えられないのだ。」

=== さて、ASDなどを抱えている人にとっては、
    大学という場所は ある意味のパラダイスになっている
    そうなんです。

・・・・・

では、続きは その11で。

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2016年12月 8日 (木)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その9

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

今日は「第12回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34553

「息子は、小学校に入学して以来、同じことをずっと繰り返してきた。
夏休みでも、春休みでも、あるいはゴールデンウィークでも、長い休暇
の後は、必ず身体が不調だと言い出すのだ。登校前になると、頭が痛く
なったり、気分が悪くなったり・・・。
 こう聞くと、「どうせ仮病だろう」と思う人もいるかもしれないが、
そうではない。」

「学校という場は居心地のいい場所であるはずがない。右を見ても左を
見ても、人間関係を築くことの難しい他人ばかり。その中で毎日、
数時間も一人で過ごすというのは、息子にとって、ものすごく大きな
ストレスになる。」

「その冬休みの間、僕は「本当の自分」でいることができた。」

「その年末年始も同じだった。僕は、親戚の人たちとの会話の中で、
同級生なら決して看過してくれそうにない無神経なことや、座を凍ら
せるようなことを、何度も言っていたと思う。」

「上品な和菓子をお土産に持ってきた叔母に向かって、
「僕、和菓子って嫌いなんだよね。おいしいと思ったことがないんだよ。
ケーキの方が好きなんだけど」」

「俺も中学のとき、隣の席に座っていた奴がまったく年号を暗記
できなくてさ、みんなに『バカ』と呼ばれて笑われてたよ。俺も
そいつのことをバカだと思ってた

===  こりゃあ正に本当のことをズバリと言い過ぎですね。
     確かに言われた方は、内心穏やかじゃないでしょう。
     これにさらりと綺麗に切り返す話術は なかなか
     高度なテクニックが必要だと思います。
    
     しかし、一面では、それで自分がどう思われるか
     予想が出来ないというのが、いいような、悪いような。
     もしかして、「こだわり」の匠のような人の中には
     弟子を厳しく育てる場合にこういうことになるのかも
     しれないですね。
     そして、それを良い方に受け止めることができる
     弟子は伸びる、というような。

「ちなみに僕にとって、時間に遅れるというのは、身体を切り刻ま
れるのと同じくらい苦しいことだった。だから、絶対に遅刻だけ
はするつもりはなかった。「いい人を演じる」のもストレスが
かかるが、遅刻の方がずっとつらい。遅刻するくらいなら、
いい人を演じた方がましなのだ。」

「休み明けに体調が悪化する→再び学校生活に慣れて体調が回復し、
いい人の演技を続ける」

「だから、息子が今、布団の中からグズグズと窮状を訴えても、
僕は心を鬼にして何も反応しない。放っておくだけだ。下手に
相手をすると、さらに息子はおかしくなる。それを僕は経験で
知っているのだ。」

「かつて医師から強く忠告されたことがある。「息子さんがASDでも、
決して嫌なことから逃げることを覚えさせてはいけません」と。」

「 特に、「嫌なこと=対人関係」である場合は、絶対に逃げ
させてはいけないそうだ。」

=== 大昔のことを思い出しました。

    何かの飲み会の時だったと思うんですが、職場の若い
    女性から相談を受けたんです。
    「この社内の人間関係に疲れちゃって、自分に合って
     いないんじゃないかと思うんです。会社を辞めた方が
     いいかもしれないと・・・」

    この時、私が答えたのは、
    「社会とか職場とかいうのは、結局社交場なんだから、
     その社交場で自分をどう演じるかを考えたら
     いいんじゃないの? どこの会社に行っても
     同じだと思うけどなあ・・・・」

    それから私が転職した後の事だったと思うんですが、
    前の会社の同窓会で、その女性から「あの時、職場は社交場だ
    って言ってもらって助かりました」 と聞きました。

    まあ、今流行りの「ブラック企業」だったら
    「さっさと辞めな」って言いますけどね。

=== もうひとつ、似たようなことが家庭内でありました。
    娘が小学生の時だったと思うんですが、
    「エレクトーンに行くのは嫌だ」と言い出したんです。

    何故嫌なのかと尋ねたところ、
    「先生が嫌い」という答だったんです。
    そこで私は こう言ったんです。
    「そうか、分かった。それじゃあ、明日からは
     エレクトーンの練習には行かなくて良い。
     その代わりに、嫌な人と付き合う為にはどうしたら
     良いかを練習しに行きなさい。
     その為に月謝を払ってあげるから・・・。
     大人になったら、嫌な人たちがたくさんいるからね。」

    小学生の娘が、それをどう理解したかは知りませんが、
    最後までエレクトーンを辞めることはありませんでした。

  
「この話の中で、医師が「注意すべき点」として指摘したのが、
子供が「師範の厳しい指導」を「自分を嫌いだから」という理由に
勝手に結びつけ、完全にそう思い込んでいる点である。ASDを抱える
子供には「期待しているからこそ厳しい指導をする」といった、
普通の人なら言わずもがなの理屈が通じないことが多いそうだ。」

=== ここが 私にはちょっと理解しがたいところなんです。
    「他人の気持ちが分からない」とされているアスペな
    人たちが、なぜ「自分を嫌いだから」と思うのか、です。
    「厳しい」=「嫌い」という直接的な結びつきが発想
    されると言うことなんでしょうか。

 
「算数でも、僕には得意なところと得意じゃないところがあるじゃ
ないか。一冊全部というと、得意なところもまたやれってことでしょ。
そんなの時間の無駄だよ。どうしてそんなことをさせようとするの? 
お母さんは僕が嫌いだからそんなことを言うんだ」

=== これなんかも、確かに正論ですね、そのまま意味をとれば。
    自分にとって苦痛である指示は「嫌い」ということと
    結びつくということになりますか。
    まあ、論理的と言えば論理的ですかね。

「君には空手の才能がある。先生はそれに気がついていて、君に非常
に期待しているんだ。もっと指導をすれば、君はさらにうまくなると
信じているし、実際、うまくなる。少年大会で優勝する可能性もある。
だから先生は、君の実力をさらに伸ばしたくて仕方がない。

 そう考えているときに、君が練習で手を抜いたように見えたから、
先生はきちんと注意したんだよ。もし、君に才能がないのなら、
仮に適当に手を抜いて練習していても、決して注意なんかしない。
つまり先生は、君を『嫌い』どころか『大好き』なんだ。それで厳
しくんだよ。だから、これからも道場に通って練習しよう」

=== う~~ん、なるほど。
    これが真実を論理的に述べる、ということですかねえ。
    実に、面倒くさい長々しい話し方ですね。
    ごく普通の生徒だったら、どんな言葉で納得するでしょうね。

    一般的には、こんな感じで理解されますかね?

    「君には空手の才能がある。
     才能がないのなら、注意なんかしない。」

    普通に日本語ですけど、じっくり眺めると
    確かに「行間を読め」的な文章ではありますね。

「本当に深刻な問題がある場合は、もちろん、そこから逃がして
あげる必要がある(たとえば、ひどいいじめに遭っているとか、
本当に先生に嫌われて毎日罵倒されている場合など)。ASDを
抱える子供を持つ親には、その違いを見極めることが、常に
求められている。」

=== これは、アスペな子供に限らずに親としては
    注意をしなくちゃいけないところでしょうね。

・・・・・

次回は その10 になります。

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アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その8

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における日本語と、
アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

今日は「第11回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34490

「息子と同年代くらいの可愛い男の子がハッとしたように視線を上げ、
こちらを見た。そして、息子に声をかけてきた。」

「よう、奥村!」

「顔は完全に無表情。男の子に返事もしない。その後も、男の子は何度か
、「奥村、どこに行くの?」などと声をかけてきたが、息子は一言も発し
なかった。しまいには、プイッと横を向いてしまったのである。」

「息子のただならぬ様子を見て、僕はふと「これはASD(自閉症スペクト
ラム障害)に関わる症状に違いない」と気づいたのである。」

「だって僕、水泳クラブで、『奥村』って言われたことがないんだもん。
友達はみんな、いつも僕を『オク』って呼んでるんだよ

「「そういうこと。僕は水泳クラブで『オク』って呼ばれているんだから、
クラブの人から『奥村』って呼ばれても困るよ。返事なんかしたくない。
あのクラブでは、僕は絶対に『オク』なんだ」と答えるのだった。」

=== これは想像も出来ない驚くべきことなんですけど、
    ある一定の本人が決めた「文脈」の中でしか、対応が
    出来ないってことなんでしょうか。

    私は、この連載を、日本語の視点から読もうとしている
    ので、「文脈」なんて話をしているんですが、
    日本語は「文脈の言語」だっていう説もあるんです。
    地球にへばり付いて、話者間での一定の相互理解の
    前提の上に、「連歌」みたいに言葉の投げ合いをする
    という感じでしょうか。

    そういう観点からみれば、普通の日本人同士の会話よりも
    かなり限定された場面の中でのコミュニケーションしか
    出来ないと言うことになるかもしれません。
    いわば「究極の日本語」ってなことになるのかも?

=== ほとんど関係は無いんですが、ふっと思い出したことが
    あります。

    大分県に単身赴任していた昔に、アパートの近所の
    坂道をうろうろと散歩していた時のこと。
    坂道を息を切らしながら登っていると、向こうから
    お爺さんが坂道を下って来たんです。
    
    お爺さんが、「こんにちは!」って挨拶をしてきたんです。
    それに応えようと声を出そうとしたら、喉がカラカラに
    なっていて、声が出なかったんです。

    お爺さんは、「何故挨拶をしないんだ!」って怒りだした
    んです。
    事情を説明して謝ったら解ってもらえましたけど・・・

    ハイキングなどの山道ですれ違う際には、
    挨拶を交わすのは常識みたいなもんですが、
    中途半端な住宅街だと「場面」を推し量るのが難しいですね。

  
「僕は子供の頃から、他人の気持ちを忖度(そんたく)したり、
場の空気を読んだりすることができず、周囲との軋轢(あつれき)
が絶えなかった。特に小学校時代にそれが顕著だった。」

 
「僕は小学校時代、先生からかなりひどい扱いを受けていたにも
かかわらず、「自分が嫌われている」と認識したことが一度もなかった。
だからこそ、高校1年のときに偶然聞いたSとYの発言は、大きな
ショックだった。僕はこのとき初めて、「自分は周囲から嫌われている
ということを知ったのである。 」

「そこで僕は、ある決心をした。同級生、特に人気者になっていた
クラスメートの行動を観察して、「どういう言動が他人を不愉快に
させず、喜ばせるのか」を学習しようと考えたのである。」

「観察し、学ぶべき対象として、野球部に所属するOに白羽の矢を立てた。
Oの周りにはいつも友達が大勢いて、楽しそうにゲラゲラと談笑して
いた。かと言って、軽すぎる雰囲気も、不良っぽい雰囲気もなかった。」

「Oが発する言葉と、その言葉に同級生がどんな反応をしているのかが
知りたくてたまらなかった。バカバカしいと思われるかもしれないが、
僕は必死だった。」

「そのルールとは「他人とのコミュニケーションにおいては、決して
本当のことを言ってはいけない場合がある」というものである。」

「本当の思いを口に出すと、他人を嫌な気持ちにさせることがある。
そういうときは、本当のことは言わない方がいい」

「他人が自分のためにしてくれたことには、どんなに不満があっても、
ありがとう」と感謝の言葉だけを言っておけばいい。他人の
言動に対しては、そもそも評価などしなければいい。」

「でも、結局のところ、僕はOの言動を真似していただけで、
本質的に他人の感情を理解できるようになった訳ではない。
本当の自分を隠し、嫌われないようにひっそりと過ごす
テクニックを覚えたに過ぎない。」

母は、僕のASD的な行動には極めて寛容だった。いつだって、
うんうんと頷きながら、僕の話を辛抱強く聞いてくれた。
あのとき、母にまで自分の言動を否定されていたら、僕は完全に
内にこもってしまったに違いない。」

=== 自らを演じるということで言うならば、
    特に社会人になる時には、多かれ少なかれ誰しも
    ある一定のルールを学びながら大人になり、社会人に
    なって行くのでしょうが、この人の場合は実に
    意識的にやらなくてはいけないという大きな困難さが
    あったんですね。

    しかし、そういう苦労を辛抱しながら、陰になって
    支えていた母親の苦労は、もしかしたら、本人
    以上だったのかもしれません。

    それにしても、様々な人たちの話を虚心坦懐に聞く
    ことの難しさを感じます。
    相手が本当のことを言っても、怒らないで、
    じっくり聞くだけの耳を持ちたいものです。

・・・・・

では、次回は その9 です。

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ラジオ番組スピーチの 日本語翻訳版 : バギオで聞いた戦争体験の話

このページは、下記のページに掲載した 英語によるスピーチの日本語翻訳版です。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/12/post-a30a.html

 

ベンゲット州カパガン町で開催された「第七回 アジア太平洋国際平和慰霊祭」のラジオ番組の中で 私が過去10年の間に 様々な方々から学んだ 第二次世界大戦中の バギオ市周辺での話を集めたものになっています。

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私は、90歳ぐらいの元日本兵の方々と話す機会に恵まれました。 彼らは、戦没者慰霊の為に、バギオや他の場所を訪問していました。

 

又、私は、日系人の皆さんや、バギオへ慰霊にやってきた日本人の遺族の方々からも多くのことを教えられました。さらに、元日本兵、軍医そして看護師など、バギオや周辺地域で戦争を体験した日本人の人たちが書き遺した本を何冊も読みました。

 

そのいくつかを、ここに述べたいと思います:

 

- 終戦近くに、およそ700人もの日本兵が亡くなり、マインズ・ビューの道の側溝に埋められました。

 

- バギオ総合病院は、戦争中は日本の陸軍病院として利用され、およそ800名の重傷患者が、1945年4月の米軍による絨毯爆撃の間に、毒殺されました。

- ベンゲット州のアグノ河(アンボクラオ・ダム周辺)沿いにあったインチカクの野戦病院には、食糧も薬品もありませんでした。

 

- 看護師たちでさえ、一日におにぎり2個のみで、数百人の傷病兵には、何の食糧もありませんでした。

 

- 看護師たちが出来ることは、日本の家族に送り返すために、死亡した兵士たちの髪の毛や爪を集めることだけでした。

 

- ベンゲット州やイフガオ州などの深い森の中では、恐ろしい飢餓の為に、カモテ芋を見つけられない時には、日本兵たちは何でも食べました。例えば、キノコ、木の根、蛇、トカゲ、昆虫、ネズミ、ゴキブリ。 そして、最悪の場合には、人肉までも。

 

- ですから、日本人看護師の間では、日本兵のカニバリズムに警戒するようにとのチラシが配られました。

-  もし米でも持っていようものなら、日本兵に殺されてしまうのです。 

3_photo_by_sds_8

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ある元日本兵のひとりが、その死後2012年に出版された彼の著書の中で、戦時中のことを告白しています。

 

- 彼は、友人に、自分が死んだ後に この本を出版するように依頼していました。

 

- 彼は、銃剣で3人のフィリピン人を殺したと告白しています。 その中には抗日ゲリラのリーダーであったアコスタ氏の愛人も含まれていました。

 

- 皆さんには理解できないでしょうが、戦場にいたら、なんの躊躇いもなく敵を殺せるようになるのです。 特に、自分の同僚たちがたくさん殺されたような恐ろしい現場を見た後などは。

 

- ある兵士仲間は、結婚式のほんの20日後に日本軍からの召集令状で呼び出されました。 そして彼は戦地で死にました。

 

- この著者は、マニラの近郊で恐ろしい作戦に携わりました。 そして、戦後、30回以上もマニラを訪問しました。しかし、著者は それを思い出したくもなく、その恐ろしい作戦がどこで行なわれたかを聞きたいとも思わなかったのです。

 

- この恐ろしい作戦に参加した同僚兵士たちは、その後レイテ島に派遣され、

誰も日本へは帰還しませんでした。

 

- 同僚兵士の母親の一人は、戦地の息子から航空郵便を受け取りました。 しかし、その息子は戦後日本に帰ることはありませんでした。 その母親は、精神を病み、著者にこう聞きました。

   私の息子はどこにいるの?

 

- リンガエン湾に400隻以上の米軍艦船を見つけた時、特別攻撃隊(神風特攻)が艦船を襲ったが、無駄であった。

 

- 1945年4月、日本人の人々がバギオ市から逃れ、ラ・トリニダッド町、そしてハルセマ・ハイウエイ方面へ向かった時、米軍はベンゲット州庁舎のすぐ近くのバリリ河の橋を爆撃しました。 日本人たちは、その川底を、多くの日本人の屍の上を歩いて渡りました。

 

1975年から1985年の間に、著者がバリリ河に来た時には、日本人の戦没者慰霊碑がたくさんありました。

 

- 著者(日本兵)が、看護婦たちに 「あなたたちの為に、河から魚を獲ってきてあげるから、あなたの手榴弾をくれませんか」と尋ねました。

すると、彼女らは、「これはいざと言う時に、自害するための手榴弾だから、あげるわけにはいきません。」と応えました。

 

- バギオ市にあった捕虜収容所では、酷い飢餓の後に突然栄養価の高い食べ物を食べたために、死んでしまった日本兵がたくさんいました。

 

- 戦後、日本の名古屋駅でのことです。 私は多くの日本人女性がアメリカ兵と手を組んで歩いているのをみました。私はそれが我慢できず、立ち上がって怒鳴ろうとしました。 しかし、私の隣に座っていた大学生が私を制して言いました、

  「おじさん、あなたの気持は私も重々理解できます。あなたと同じです。  でも、今の日本は、この状態を乗り越えなくちゃいけないんです。     彼女たちは、食べて、生き残るために、自分の身体を売るしかないんです。」

Img_5281

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私達は、ベンゲット州イトゴン町のダルピリップの村を訪ね、すでにお話した元日本兵が参加した作戦の場所である教会を見に行きました。

 

私達は、その村のあるお婆さんから、日本軍はその村のすべての大人たちを集め、その教会を丸ごと焼こうとしていたと聞きました。

しかし、そこで奇跡が起こりました。

そのお婆さんは、ゲッコーと呼ばれるヤモリが皆を救ったと言うのです。 日本兵たちがその教会を燃やそうとした時、ゲッコーが鳴いたのです。 日本兵たちは、その声は神様のお告げだと思い、その作戦を中止したと言います。

 

=====

 

アンティーノ カランテス氏 と 霊媒師の話

 

2009年5月に、ベンゲット州イトゴン町の 元抗日ゲリラ アンティーノ・カランテス氏の息子さんから電話を受けました。

 

霊媒師が彼に言うには、日本兵の霊が 日本語らしき言葉で何かをしゃべっていると。

「日本兵はここに埋まっていて、腹を空かせている。」

「だから、日本式に慰霊をやるのが良い。」

 

私達は、その場所に行き、慰霊祭をしました。 その場所は、アグノ河の横にあって、その河は、戦時中に日本兵たちが「三途の川」と呼んでいた河でした。

 

アンティーノ・カランテス氏は、マテオ・カランテス氏のお孫さんで、バタアンでの戦闘に参加し、あの死の行進を生き延びた方です。

 

彼は、戦争中に多くの日本兵を殺したと告白しました。

そして、それは ただ、戦争だったからだ、と言いました。

 

2009年9月14日に、91歳でなくなる直前に、 カランテス家の人たちが、日本兵の霊が 親戚の一人に取り憑き、紙に何かを書いた、と言うのです。 それで、彼らは私たちに、死者の霊を鎮めるために慰霊祭をやってくれないかと依頼してきました。 

Img_5285

============

 

過去10年間、私はバギオ市に住んで、地元の人たちに日本語を教えてきました。

私のニックネームは グニ・グニで、これは幻覚と言う意味でしょうか? ですが、私は、亡霊を見たり、聞いたり、感じたりしたいと思っているんです。

 

しかし、今回は、私がバギオ市で聞いた 亡霊の話をいくつかしてみたいと思います。

 

ある日のこと、私は、日本語の生徒から、彼女とそのお兄さんが亡霊を見たり声を聞いたりできるという話を聞きました。彼らはベンゲット州ブギアスの出身で、ブギアスの町で、日本兵の亡霊を感じたと言うのです。 ある夜、彼女は誰かが兄の部屋で兄と話しているのを聞きました。兄の話では、戦争中に死んだ日本兵と話していたということでした。 

また、彼女は、二人の日本兵を見たそうです。 一人は兵士で、もうひとりは頭の無い将校でした。

 

それから、彼女によれば、彼女の御近所さんが、ブギアス町のその家には亡霊が多過ぎるという理由で、マニラに引っ越したとも言いました。

 

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ふたつ目の話は、日本人の友人から聞いた話です。

 

その友人は、高校生時代からバギオ市で勉強し、セントルイス大学を卒業した人です。

 

ある日、彼は、地元の人から電話を受け、小さい女の子が多分日本語で、それも男の声でしゃべっているので、助けてくれとのことでした。 

 

彼はその女の子に会い、日本兵の霊がその子に憑いていると思ったそうです。

日本兵の霊は、「英語が分からないので、地元の聖職者が言っていることが理解できない。」と言ったそうです。

おそらく、その日本兵は日本語を話せる仏教の僧侶と話をしたかったのでしょう。

私の友人は、「それで、私に何をして欲しいのか?」と霊に尋ねたそうですが、返事はありませんでした。

 

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三つ目の話は、ケノン道路のキャンプ7に住んでいる95歳のお婆さんから聞いた話です。

 

彼女とその子供たちは、彼女の大きな家の裏山から歩いて下りてくる軍靴の音を聞いたと言います。

 

その地域の元々の住民によれば、この場所には戦争中に日本軍の陣地があったそうです。

 

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四つ目の話は、私がヒーロットというフィリピンの伝統的マッサージをしてもらった時に、私の部屋で起こったことです。

 

二人のヒーロットの小母さん達がやってきて、窓の外を見ながら、何かを話していました。

 

私は、何を見ているの? と尋ねました。 すると、二人は、「あそこの松の木の下に、4人の亡霊がいるのよ。 両親と子供が二人ね。」と言うのです。

 

「私の部屋にも亡霊が見えますか?」 と、私は尋ねました。

すると彼女らは、「ええ、長い黒髪のメスティーサ(スペイン人との混血女性)がいるわよ。」と答えたのです。

 

二人のヒーロットは、亡霊について、このように説明をしてくれました:

 

亡霊というのは、私達、生きている人間、と同じように、この地球上に住んでいるんです。 そして、私たちは、この世界に一緒に住んでいるんです。

霊感のある特別な人にしか、見たり感じたりすることは出来ないけれど、彼らは確かに私達の傍に存在して、私達と同じように毎日の生活を過ごしているんです。

 

そこで、私はもうひとつの質問をしました。「何故日本人の霊は、戦後70年も経った今でも、フィリピンのこの辺りを彷徨っているんでしょうね。」

 

ヒーロットは答えました。「それは、多分、遺骨がここにあるからでしょう。」

 

日本の人たちは、同じように考えがちです。 なので、日本兵の遺族の人たちは、今でも、戦没者慰霊の為に、バギオ市や近隣の州にやってくるのです。

 

二人のヒーロットの小母さんたちは、私の部屋を出て行く時に、こう言いました。

「本当なら、あと二回 マッサージをやらなくちゃいけないんだけど、もうここには来たくないんです。 なぜって、ここは亡霊が多過ぎるんですもの。」

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2016年12月 5日 (月)

地元のラジオ番組に出させていただきました : アジア太平洋国際平和慰霊祭

AMラジオの番組で 何か話をしてもらえないか・・・

という依頼がありまして。

「私は戦争経験者でもないし、しゃべることはないですよ。」

って一旦は断ったんですが、何とか出来ないかと再び頼まれまして・・・

「他人から聞いた日本兵の亡霊の話とか、戦争体験者から聞いた話、日本で出版された体験者の手記なんかのネタでも良ければ・・・・・」

ってことで、先日 フィリピンはルソン島北部地域一帯で生放送されるという番組に出してもらいました。

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(photo by :  APIPM Imaizumi)

この平和慰霊祭は毎年 映画監督の今泉光司さんが 地元のNGOなどと一緒に開催しているもので、今年は7回目。

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(photo by : APIPM Imaizumi)

このイベントは、「平和慰霊祭」ということなので、参加者一同で戦没者に想いを馳せながら、戦争体験者などの談話などを共有しようという趣旨で行われているんです。

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バギオ市からはちょっと離れたベンゲット州の山の中って話だったんで、やや「面倒くさいなあ」という思いもあったんですが、会場となったのが 「元抗日ゲリラの巣」という話だったんで、興味があって参加することに・・・

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ベンゲット州のカパガンという町の役場が会場。

ラジオ番組は当初午前11時から午後1時までだよって話だったんですが、なんといきなり午前10時からの3時間番組になった・・・という連絡がありまして。

「まだ、ラジオ局のスタッフも来ていないのに、どうすんだよ・・」

・・・私らは、ちょっと早めにと 日本人らしく 9時半ごろには到着していたんですけどね。

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・・・・

「取りあえず、音楽でも流して時間稼ぎするしかないんじゃね?」

・・みたいなことで、始まった・・らしい・・・・

Img_5245

・・・・多分、このテーマソングでも 流していたんだと思います。

この曲の作詞作曲は ジョーイ・アヤラという フィリピンではかなり有名なシンガー・ソング・ライターだそうで。

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・・・それで、10時15分ぐらいには準備完了。

こりゃあ、もう、フィリピンじゃあ「あり得ない」話です。

フィリピンの常識だったら、11時始まりの場合何分かは遅れるのが当たり前。

それが、予定より1時間早く始めるってんだから、もう 驚天動地でございますよ。

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町役場からの周りの景色は こんな感じでして、周りは山だらけ。

ここから小さい山をひとつふたつ越えたところに キャンプ・ユートピア  と呼ばれた 抗日ゲリラの拠点があったそうです。

この町の住民がいた場所までは、日本軍も入ってきて、いろいろと問題も起こっていたそうですが、ゲリラの拠点は見つからなかったそうです。

ちなみに、このゲリラの戦史の研究をしている地元の男性によれば、抗日ゲリラは志願制で、なんと14歳、15歳の男子ぐらいから志願兵になっていたんだそうです。

 

Img_5321

・・・・で、今回のラジオ番組には、山岳民族出身のシンガーソングライターのSendongさんも出演。 結構面白いコミカルな歌をうたっているようで、会場から何度も笑い声が湧き上がっていました。

この番組自体が ほとんど地元言語の イロカノ語みたいで、日本人にはどんな流れになっているのか さっぱり分からず・・・

ところどころが英語だったので やっと付いて行く感じでした。

Img_5250

日系二世のお婆ちゃん。

このお婆ちゃんと 今泉監督が 20年ほど前に出会ったことが、監督をバギオ周辺に留める理由になったんだそうです。

Img_5338

そして、お決まりの記念写真。

どうもお疲れ様でした・・・・

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ところで、ラジオ番組の中で 20分間の枠をいただいて 話をしましたが、その一部を ここに掲載します。

 

The below is a part of my speech in the Radio Program :

the 7th Asia Pacific International Peace Memorial.

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I could have some chances to talk with former Japanese soldiers who were about 90 years old.

They had visited Baguio and other places for memorial services.

 

Also, I learned many things from Filipino-Japanese and some Japanese relatives who came to Baguio for memorial services.

 

Also, I read many books written by former Japanese soldiers, military doctors and nurses who experienced WWII in Baguio and nearby area.

 

And , these are some of those writings :

 

-  At the end of the war, about 700 Japanese soldiers died and buried along Street drain of Mines view.

 

-  Baguio General Hospital used to be Japanese Military Hospital during that time, and about 800 seriously ill patients were killed by poisoning during carpet bombing in April, 1945.

 

-  In Intikak Field Hospital along Aguno river, Benguet, (near Amboklao dam), no food and medical supplies were available.

 

-  Even nurses had only two rice balls per day, and no food for the several hundreds Patients or wounded soldiers.

 

-  Only thing the nurses could do was to collect hair and nails of departed soldiers to send them to the families in Japan.

 

-  In the deep forest in Benguet, Ifugao, e tc., due to horrible starvation, the Japanese soldiers ate anything, such as mushroom, root, snake, lizard, insect, mouse, cockroach, when they could not find any more kamote potato, and in the worst case even human flesh was eaten.

 

-  Therefore, there was flyers among Japanese nurses to warn about Japanese soldier’s cannibalism.

 

-  If you had any rice with you, you were killed by Japanese soldier.

 

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(photo by : SDS  La Trinidad)

One of the former Japanese soldier confessed about the war in his book that was Published after his death in 2012.

 

-  He asked his friend to publish his book after his death.

 

-  He confessed that he killed 3 Filipinos including a mistress of Mr. Acosta who was a leader  of anti-Japan guerrilla by Bayonet.

 

-  You may not able to understand, but, in the battle field, you can kill your enemy without hesitation specially after you see horrible site where a lot of fellow soldiers were killed.

 

-  One of his fellow soldier was called up by draft card from Japanese military only 20 days after his wedding, and he died in the war.

 

-  He attended a horrible military operation near Manila, and he visited Manila  More than 30 times after the war. But, he did not want to remember it and even didn’t want to ask the location of the horrible operation.

 

-  All of the fellow soldiers who attended the horrible operation were sent to Leyte and none of them came back to Japan.

 

-  One of the mother of the fellow soldiers received a airmail from her son but he did not return to Japan after the war. The mother had a mental disorder and asked the author of the book

 “where is my son ?”….

 

-  When we found more than 400 US battleships in Gulf of Lingayen ,  Special attack corps (Kamikaze suicide bomber) attacked them in vain.

 

-  In April 1945, when Japanese people evacuated from Baguio city to La Trinidad and to Halsema highway, US bombed the bridge of Balili River just beside the Capitol of  Benguet, and Japanese people crossed bottom of the river walking on a lot of dead  bodies of Japanese people.

 

 During 1975 to 1985, when I visited Balili river , there were a lot of memorial service Monuments of Japanese people.

 

-  When I(Japanese soldier)  asked female nurses “I want to get fishes from the river for you.  So, please give me your Grenade(pinapple bomb) to me.” 

   Then, they answered “we cannot give our grenades to you, because these are to kill ourselves just in case.”

 

-  In the concentration camp in Baguio city, there were many Japanese soldiers who died because they ate nutritious foods very suddenly after terrible starvation.

 

-  After the war, In train station, Nagoya, Japan, I saw many Japanese women walking and in hand with American soldiers. 

   I could not bear what I saw and stood up to shout against them, but, a university student by my side stopped me and said

    “ Sir… I understand how you feel it and we agree with you.

 But, in Japan now, we have to overcome this situation.

Those women are forced to sell their bodies to eat and survive.”

 

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We visited Dalupirip , Itogon, Benguet, to see the church where above mentioned former soldier did military operation.

 

We  learned from one of the old ladies there that Japanese military tried to burn the church together with all the adults in the village.

But, miracle happened at that time.

The old lady said Gecko saved them.

When the Japanese soldiers tried to burn the church, Gecko cried. The Japanese soldiers thought the cry is the voice of the god, and stopped to conduct the operation.

 

=====

 

Story of Mr. Antino Carantes and a Medium.

 

In May, 2009, we received a phone call from a son of former anti-Japan guerrilla Mr. Antino Carntes of Itogon, Benguet.

 

A medium said to him that a spirit of Japanese soldier is talking something probably in Japanese. 

“ the Japanese solider was buried here and he is starving.”

“so, I recommend to do memorial service for him in Japanese style.”

 

We visit there and did the memorial service.

The place is just beside the Aguno river, and the river was called “Styx river” by Japanese soldiers during the war.

 

Mr. Antino Carantes was a grandson of Mr. Mateo Carantes, And he joined the battle in Bataan and survived the death march .

 

He confessed that he killed many Japanese soldiers during the war.

And also he said that it was just because a war.

 

Just before he passed away on September 14, 2009 at his age of 91, They said, a spirit of Japanese soldier possessed one of his relative and wrote something on paper.

So, they asked us to do memorial service to repose the soul of the deceased.

 

============   end of the speech ===============

 

実は、この原稿を番組の中で読んでいた時に、 3か所ほど、感極まって涙声になりそうになったんです。 それ以外は淡々と読んでいたんですけどね。

自分が書いた原稿なのに、変な話じゃあるんですが、元々が戦争体験者から聞いた話なので、声が詰まりそうになったんだと思います。

それをラジオを聴いている人たちに気取られないように、ちょっと息継ぎしたんです。

気付かれちゃったかなあ・・・

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<< 付録 >>

このイベントの帰りに、ハルセマ・ハイウエイの料金所から カパガン町へ向かって車で数分のところに、こんなに素晴らしいカフェがありました。

本当に 「雛にも稀な」 と言うに相応しい お洒落なカフェです。

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・・・

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・・・・・・・・・ こんな田舎で、こんなに贅沢なお店を出して大丈夫かと言いたくなるような、お洒落なカフェ。

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・・・・ トイレも 驚くほど綺麗でした。

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・・・・

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・・・・ 食事も なかなかのものでした。 立派です。

余程のお金持ちが 趣味でやっているお店としか思えません。

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・・・・ただし、お酒類はありません。 悪しからず。

 

 

 

 

 

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