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2017年5月20日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 113 ボニファシオの処刑、アギナルド 香港亡命??

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

「第18章  フィリピン革命」

 

 

Img_2759

p249

 

「ボニファシオ兄弟の処刑」

 

非劇的にも、アンドレス・ボニファシオと彼の兄弟 プロコピオは

反逆罪で有罪となり、死ななければならなかった。

1897年5月10日の朝、・・・銃殺隊を指揮し、処刑した・・・

 

 

Biaknabatoの退却」

 

同日(5月10日)、ボニファシオ兄弟が処刑された時、

スペイン軍がMaragondonを攻撃した。 ・・・・

5月12日、二日間の激戦の後、アギナルドの軍は、その町から

退却せざるを得なかった。

 

 

p250

・・・ブラカン州サン・ミゲールのBiaknabatoへの退却を始めた・・・

 

・・・アギナルド大統領は、・・・北へ向かい、1897年6月24日に

Biaknabatoについに到着し、そこで本格的な司令本部を建てた。

 

 

「革命の継続」

 

総督プリモ・デ・リヴェラの1897年6月24日の

「革命は終わった」という早すぎる宣言とは裏腹に、

自由を求めるフィリピン人の闘争は続いた。

 

・・・鼓舞するような宣言に呼応して、新しい反乱が

南タガログやルソン島中部の州で爆発した。

 

 

p251

 

「Biaknabato共和国」

 

1897年10月末に向かって、交戦が静かだった期間に、アギナルド

大統領は、革命将軍及び指揮官たちの会議を Biaknabatoで招集した。

この会議で、全てを掛けて解放戦争を継続し、Biaknabato共和国

樹立することが決められた。

 

・・・この憲法は、1895年のキューバ憲法をモデルにして

制定された。

・・・Biaknabato憲法は、ほんの2年間有効であった。

 

・・・共和国の公式言語は タガログ語であった。

 

Biaknabato憲法は、人々の人権を守る為に、人権宣言

含まれていた。

 

=== この時初めて、公式言語がスペイン語からタガログ語に

    なったようですね。

    スペイン植民地時代は スペイン語、

    アメリカ植民地時代は 英語、

    そして、その後しばらくしてから、

    英語とフィリピン語が公用語になったんですね。

    ですが、バギオの裁判所などでは、英語が裁判時の

    公用語とされています。

 

 

=== ブラカン州のビアクナバト共和国については、

    こちらのサイトにちょっとだけ書いてあります。

 http://www.ph-inside.com/site/pres/profile/01.htm

 

    もっと詳しくは、こちらで。(英文)

 http://msc.edu.ph/centennial/biak.html

 

 

p252

 

「プリモ・デ・リヴェラの和平方針」

 

戦争が引きずられて行くに従って、総督プリモ・デ・リヴェラは

武力で革命を鎮圧するのは不可能だと悟るようになった。

 

・・・従って、彼はアギナルドとの和平を望んだ。

 

 

Biaknabatoの協定」

 

ついに、パテルノは、「ビアクナバト協定」として知られる

和平合意を協議することに成功した。

この協定は3つの文書からなり、最初のふたつは12月14日に

署名され、3つ目は1897年12月15日に署名された。

 

「プログラム」と呼ばれた最初の書類には、総督プリモ・デ・リヴェラ

が、武装している者たちに800,000ペソを支払い、アギナルドと

その仲間たちが香港へ自主的に国外退去することが書かれた。

 

二つ目の書類は、「協定の行為」と呼ばれ、武装解除をした者への

恩赦を認めることと、フィリピンあるいは海外に自由に住む特権を

くり返し書いてあった。・・・・

 

三つ目の種類では、損害賠償の問題が検討された。

それは、スペインが合計1,700,000ペソの損害賠償を

する・・・・・というものだった。

 

 

p253

 

Biaknabato協定」の3つの書類のどこにも、改革を認めるという

政府の約束に関しては書かれていなかった

 

これらの改革とは・・・・・・:

(1)フィリピンの教区教会の世俗化と、宗教的命令の排除。

(2)スペイン議会でのフィリピン代表の復帰

(3)法の下での、スペイン人とフィリピン人の平等

(4)フィリピン人に有利なように、資産、税及び行政区を

    調整すること。

(5)人権、言論の自由、結社の権利の保証。

 

 

 

p253

 

「アギナルドの国外退去」

 

その「協定」に付随する書類は、1897年12月14日と15日に

署名され、アギナルド将軍はビアクナバトを離れ、自由意思で

香港に国外退去する準備をした。 

・・・・

1897年12月27日、アギナルドと28人の仲間は、

蒸気船Uranusに乗船し、香港へと渡った

 

・・・・

 

香港では、アギナルド将軍は、いわゆる「香港議会」と呼ばれる

ものを再組織し、革命政府を継続した。 そして、それを

「国家最高委員会」へと拡大した。

 

 

p253

 

「協定違反」

 

スペインとフィリピンの当局は双方ともに、「ビアクナバト協定」

の条件に忠実に従うことが出来なかった。

 

・・・

 

戦争賠償金の1,700,000ペソの内、600,000ペソは

スペインにより実際に支払われた。

・・・・・その他の1,100,000ペソは支払われることが 

なかった。 ・・・・

武装解除し田舎に戻ったフィリピン人の愛国者の多くが、

逮捕され、投獄され、迫害された・・・

・・・改革はひとつも認められなかった・・・・

 

 

p254

 

フィリピン人側も、・・・スペインによる支配を転覆する計画を

継続した・・・・

 

 

「ビアクナバト後にも平和はなかった」

 

ビアクナバトに於いてスペインが買い取った平和は、幻想となった。

 

・・・Zambalesの革命家・・・南イロコス州のCondon、・・・

スペイン軍がビサヤの船乗りを虐殺・・・セブでの反乱・・・

1898年の「血の聖木曜日」・・・ルソン島中部・・・

ボホール、セブ、パナイ、その他の島々・・・

 

フィリピンではそのような状況であった。

その時、世界のあちら側では、スペインとアメリカの 

戦争が勃発していた。

 

・・・革命は、ほんの束の間の休暇をとれただけだった。

新しい力の登場によって短くされた ―― アメリカ合衆国である。

 

 

=== さてさて、ボニファシオが処刑され、共和国が樹立され、

    和平協定が結ばれ、アギナルド大統領が香港に移った

    けれども、革命の反乱は収まらず。

 

    そのどさくさに、アメリカがスペインと戦争を

    おっぱじめた。

 

    次回 114号は 「アメリカがやって来た」ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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