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2017年5月11日 (木)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その6- 一応誰でも大丈夫みたいです、極楽

最終の その6 です。

漢文書き下しの中で気になる部分を、註釈をみながら
読んでみます。

Img_2610

P52
「汝よ、仏語を持ち、未来世の一切衆生の、苦を脱れんと
欲する者のために、この観地の法を説け。 もし、この地
を観ぜば、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて(のち)
他世に、必ず、浄国に生まれん。・・・・」

===註釈
八十億劫の生死の罪を除きーー八十億劫という永い期間に
わたって輪廻すべき罪
・・・いずれも観法の浅深と関係して除罪に多少があるのでは
なく、あらゆる罪を除くという譬喩的意味であろう。

===このフレーズは何度も出てきます。
   「あらゆる罪を除く」とありますから、
   例の例外規定についても、大丈夫だよということ
   になるんでしょうね。

   ところで、「劫」の意味はきわめて長い時間の意味らしい
   ので、時間の単位としてはほとんど意味をなさない
   ように思います。

p60
これを<像想>とし、<第八観>と名づく。 この観をなさば、
無量億劫の生死の罪を除き、現身の中において、念仏三昧をえん

===註釈
念仏三昧ーー古来、この個所の念仏三昧について、念仏を
観仏あるいは称名ととる。 後者の称名と解するのは隠の義
であり、真宗は次の第九「真身観」の念仏三昧と同じとみて、
弘願の念仏がこれであるとする。

===この部分の現代語訳を見てみると。
この観想を行なう者は、無量億劫の間、かれを生と死に
結びつける罪を免れ、この世に生きている間、
<仏を念ずることによる心の安らぎ>を得ることであろう。

===ってことを書いてあるんで、
   「念仏三昧」=「仏を念ずることによる心の安らぎ」
   という話になりますね。

===そもそも「三昧」ってどういう意味??
「読書三昧」とか「ぜいたく三昧」とかよく言いますけど・・・
こちらにあります:
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/92105/meaning/m0u/

「1 仏語。心を一つの対象に集中して動揺しない状態
  雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえ
  られるとする。」

「1 ともすればその傾向になるという意を表す。「刃物三昧に及ぶ」
2 そのことに熱中するという意を表す。「読書三昧の暮らし」
3 心のままにするという意を表す。「ぜいたく三昧な生活」」

・・・・何気なく使っている言葉ですが、説明してある言葉
・・・・も、いま一つしっくり来ません。なんでだろう。

===註釈より===
p102
一々の光明・・・--
原文「一一光明偏照十方世界、念仏衆生摂取不捨」の句は、
阿弥陀仏の救済の徳をたたえるものとして、搭婆の銘文に
書かれたりして、浄土教の人々に最も親しいことばである。

=== へえ~~、これが例の卒塔婆に書かれているのか。

卒塔婆(ストゥーパ)」って何を意味しているの?
https://www.e-ohaka.com/06omairi/o_sotoba.html
「卒塔婆に書かれる内容は以下のものがあげられますが、
それぞれの宗派、お寺さんによっても異なります。
[戒名(法名)/没年月日(命日)/経文・題目・聖句・
梵字/願主名/願主/供養年月日]」
※「浄土真宗」のように卒塔婆を建てる習慣がない宗派もあります。

・・・おお、ここでも浄土真宗はユニークなんだなあ。

===この註釈に大事そうなことが書いてあります。

念仏衆生摂取不捨」のところなんですが、

善導以来、読み方に二通りあり、いずれでもよい。
すなわち、第一はいまの書き下し文のごとく二段に切り、
あらゆる衆生のうち摂取の利益をうけるのは、念仏する
衆生だけ
であるとの読み方。
(つまり、「念仏の衆生、摂取して捨てたまわず。」と
 読む場合。)

第二は二段に分けずに、「一々の光明、あまねく十方世界
の念仏の衆生を照して、摂取して捨てたまわず」の読み方
である。

善導は仏の光明がなぜ念仏の行者だけを救いとるかの
理由を明かし・・・・
・・・法然や親鸞の理解では、念仏を称名ないし信心の
意にとっている

・・・善導さんー法然さんー親鸞さんの流れの中でも
   解釈が少しずつ変化しているわけですね。
   行から信心への流れかと思います。

===註釈
p103
仏身を観る・・・--
以下「もろもろの衆生を摂するなり」までの句も、
無縁の大悲をとくものとして有名である。このうち
無縁の慈しみ」とは、一切平等の理をさとっているから、
あれこれと相手を見わけて差別せず、平等に慈悲をたれる
こと。

・・・「差別せず」って書いてあるんですけど、
   上品・中品・下品で九ランクに分けているん
   ですよねえ・・・なんで??

===九品に関する註釈===

これにはいろいろ解釈の違いがあるみたいです。

天台、浄影などの諸師は(序説)中に出す三福を散善とし、
次の十六観を定善とする。・・・

善導は、この見解に反して、十六観中、前十三を定善、
後三をさきの三福を浄土往生の行として開いたとして
散善とみた。
・・・この散善をば、修する者の能力に応じて上輩・
中輩・下輩の三種に分け、かつ各々をさらに上中下の
三品に分けるから、すべて九品となる。

真言宗などで説くように、浄土に九種の世界があるので
九品というのではない。上輩とは大乗を学ぶ凡夫を指し、
三福のうちの行福を主として修する。
そのうち、上品上生の者とは大乗上善の凡夫・・・・

・・・とまあ、いろいろと宗派によって解釈が
分かれて行ったようですね。

よって、前回その5でリンクしたサイトの「まとめ」の
分け方も その中のひとつの解釈ってことになりそうです。

===書き下し文のp68 ===

「散心の凡夫、往生をうる九種の方法」の部分なんですが、
ここにこんな句があります。

三種の心を発さば、すなわち往生す。なにをか三とす。
一には、至誠心、 二には、深心、 
三には、廻向発願心なり

===「廻向発願心」の註釈

多分ここが 法然さんと親鸞さんの分かれ道みたいな
ところじゃないかなと思うんですが・・・・

浄土宗では浄土願生者の起こす菩提心と解するが、
真宗では・・・親鸞の独自の理解によって、自力と他力
二種に分けた。
特に後者を採り、阿弥陀仏が真実心中から衆生にふりむけ
給うた本願の正意を深く信じて、往生しようと願う心を
起こすとみて、他力廻向による発願心とした・・・

===「かくのごときの悪人」の註釈

・・生死輪廻する者を指している。
善導はこれを凡夫人、法然は罪人、源信は極重悪人と表現し
直した。 親鸞は源信の用法にのっとりながら、範囲を
広げて、定散二善のすべてを極重悪人ないし極悪深重の
衆生と呼んだ。 要するに親鸞の悪人正機の「悪人」とは、
輪廻の衆生一般
を指していたことがわかる。

・・・・・・・・・・・・・・・

はい、これで 「観無量寿経」 を一応読み終わったことに
なります。

さて、ここで私の読書感想文なんですが、なかなか難しい
ですね。

まず、復習をしてみると、全体としては下の三つが書いてあった
わけです:
1.「王舎城の悲劇」の親殺し事件
2.「13の観法」の解説 
   観法というのは、瞑想のことみたいで、極楽浄土や仏様を
   どのように観るかという方法論 - これが中心ですね。
3.往生するものの分類

私はどうしても、法然さんと親鸞さんに興味がいくんですが、
1.については、親殺しがこの経では明確に書かれているわけ
じゃなくて、他の経だったんですね。
だから、親殺しに関しては涅槃経らしい。
なので、親鸞さんの悪人正機説がらみで言うと直接的という
わけではなさそう。

2.はどのような修行をするかという内容だと思うんです。
なので、法然さんが無量寿経よりもこちらを重視するという
のは分かるような気がするんです。

3.はどのような人が極楽往生できるのかという区分
書いてあるんですけど、結局誰でも阿弥陀さんが救って
くれますよというのは分かりました。
ただその場合に、何を条件とするかってことが若干違う
わけですね。

で、最後のところに「廻向発願心」があって、
その意味の捉え方に親鸞さんの特殊な理解があるみたいです。

以前からいろいろ本を読んできて、だいたいのイメージは
あったんですが、やはりここでも、
法然さんまでは戒律や行が大切で、親鸞さんになると
あくまでも阿弥陀様に絶対的にお任せして信仰するという
ことのようです。

で、私としては、どっちが好きか、あるいは向いているか
って言うと、これがまた、ちょっと捻じれてしまうんですねえ。

これは、フィリピンで感じた カトリックとプロテスタント
から受けるフィーリングに似ている
んですが、

カトリックはなんとなく法然さんの浄土宗、
プロテスタントは親鸞さんの浄土真宗のイメージなんです。

カトリックはいろいろイベントも多いし、形が大事みたいな
雰囲気があって、教会や神父さんの衣装も豪華で、戒律的な
ものも感じるんです。

それに対して、プロテスタントは、かなり地味で、形と
いうよりも熱心な信者が多いイメージですね。
反面やや信仰的窮屈さを感じることもあります。

怠け者の私としては
修行や戒律というような面倒なものは嫌だなという感じも
あるし、かと言って、信仰に入り込むというような
真面目さもないし・・といういい加減な態度なんですねえ。

ブッダの原始仏教の雰囲気を残しているのは多分
法然さんの方だから文化的な興味から言えば法然さん。

でも、一方で、独特な理解で悪人正機説を展開した
阿弥陀様の一神教的な親鸞さんは凄いなと思ったり。

消化不良なままで終わりますが、
まあ、いずれ、こっちがいいなと思う時が来るのでしょう。

お付き合い、有難うございました。

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