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2017年5月 9日 (火)

あなたは「あなたのお母さん」のことを知っていますか?

これは 親不孝者の 追想です。

インターネットでこんな記事があったんです。

ホームレスにも自尊心がある・・・これこそ、日本が発展している部分だ!」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%83%9b%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%83%ac%e3%82%b9%e3%81%ab%e3%82%82%e8%87%aa%e5%b0%8a%e5%bf%83%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%81%93%e3%82%8c%e3%81%93%e3%81%9d%e3%80%81%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%8c%e7%99%ba%e5%b1%95%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e9%83%a8%e5%88%86%e3%81%a0%ef%bc%81%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBATDlP#page=2

                  
「あとで思い返しても、とても身震いする出来事だった。
社会の底辺にいるホームレスさえこのような自尊心を持って
いるということが、民族の発展を示す有効な方法になりうる
のだと思った」

Img_6462

私はこの記事をよんで、FACEBOOKにこんなことを書いたんです。

武士は喰わねど高楊枝・・・
私の母は私が24の時に癌で亡くなったんですが、
貧乏な家庭にありながら、高楊枝な母でした。
鹿児島の裕福な商家のお嬢さんだった人が、
貧乏な家に嫁いで、幼い私の手をひいて
質屋通いをしなくてはいけなかった時には
さぞかし悔しい思いだったろうと思います。

・・・・・

これを書いてからというもの、私は自分の母のことを
どのくらい分かっていたのだろうか
と、ふと思ったんです。

私は常々、母のことを知らないよなあ~~と思ってきました。

この際なので、亡き母のことを、自分の記憶を辿りながら
書き出してみたいと思ったんです。

今自分は66歳なので、記憶といってもいい加減なもの
だとは思うんですが。

・・・・・

私が最後に母に会ったのは、福岡にある国立癌センターの
病室でした。

その頃、私は24歳、母は60歳。

母が寝台に寝たまま、私に尋ねました。

「お父さんが、私に会いに行けといったの?」
(本当は九州弁ですが、一応標準語で書きますね。笑)

「うん・・・」

私の返事に、母は涙ぐんでいました。

その頃の私は、既に東京に出て、米系の石油メジャーで
働いていました。
父は、もう覚悟をしていたのでしょう、電話口で
私に「最後になるかもしれないから」と連絡してきたのでした。

そして、母がこう言いました。

情けない・・悔しい・・・・

私はそういう母の言葉を聞きながら、病室の窓から
外を眺めているだけでした・・・・

5img_6456

・・・・

母は鹿児島の生まれで、瀬戸物を商う家のお嬢さんでした。
母は、七人兄弟姉妹の長女。

その親は、伊万里焼や三河内焼などを仕入れて、海路で
佐賀県から鹿児島県へ運び、儲けていたそうです。

広い家だったようで、母が一度だけこんなことを言いました。

「夜の真っ暗な家の廊下なんかで、人を驚かすようなことを
 やっちゃいけないよ。
 長い真っ暗な廊下で、そんなことをされると、
 冗談じゃなく、本当に心臓が止まりそうになるんだから・・」

余程怖い目にあった経験があったのでしょう。

・・・・

母の一番下の妹が、東京の板橋にある東京家政大学の
学生会館の舎監をやっていました。
学生の生活指導が仕事でした。
それは厳しい叔母でしたが、おそらくこの叔母よりも
私の母の方が本来はもっと厳しかったのでしょう。

お姉さんがそんなことを許す訳がない

という口調で話を聞かされたものです。

戦時中の母は、まさにバリバリの軍国少女・婦人会だった
ようで、敗戦後は、価値観の激変に耐えられず
東京でキリスト教の洗礼を受けたと、その叔母から聞きました。

その母が私にポツリと言った言葉。
「あなたを、男の子を産むことができて、あの時はほっとした。」

戦後5年目の話です。
私の父は、満州からの引き揚げの時に妻と幼子2人を亡くして、
生き残った上の二人の子供を連れて日本に逃げ帰って来たのですが、
戦後に再婚した相手が私の母だったのです。

・・・・

私が19歳の時、上京して真っ先に挨拶に行ったのは、
板橋にある東京家政大学の叔母のところでした。

そして、中野のどこかにある某お屋敷に連れていかれました。
そこは、当時の大手レコード会社の重役の家だったようで、
母と叔母が東京の師範学校時代にお世話になったようでした。
裕福な商家の娘だったから、師範学校にも行けたのでしょう。

叔母がクラシック音楽を聞きながら、
こんな逸話を語ってくれたのもその時でした。

あなたのお母さんは、絶対音感があったのよ
 メロディーを一回聞いただけで、それを空で
 歌えたの。」

私にはそんな芸当はできなし、高校でピアノの授業が
あった時には、苦行みたいなもんでした。
しかし、小学生時代から公民館で習った詩吟だけは
得意でした。 大声だけは出せたので、クラスの中で
一番小さい身体だったのに、応援団のリーダーをやった
もんです。

・・・・

そんな母が、貧乏な和菓子職人の父に嫁いだのです。

私には、あまり母のエピソード記憶がありません。
何故かと言えば、母は家業と家事に忙しく、私の面倒を
みたのは、先妻の子である15歳上の姉だったからです。

それでも、今一所懸命思いだそうとすれば、いくつかの記憶が
浮かび上がってきます。

時系列に思いだすと、一番最初の記憶は、
私が病気の時に、リンゴを下ろし金でおろして、それを
布で濾して、リンゴ・ジュースを作ってくれた記憶です。

私は、何度か、崖や塀から落ちて、怪我をしたことがあるんですが、
一度は、友達の家の塀の上で遊んでいて、塀から落ち、
その下にある階段を転げ落ちたことがあるんです。
その直後は、何事も無かったように、友達の家から自分の家に
戻り、戻った途端に倒れたのだそうです。

そして、医者が呼ばれ、私の瞳孔が開いていると言われ、
この子は もうダメだ。」
と一度は引導を渡されたらしい。

しかし、何の拍子か、息を吹き返してしまった。

私の母が、その時どんな様子だったかは、誰も話してはくれません。
しかし、それでも、私が親孝行をしたひとつには数えていいかも
しれません。
もしかしたら、気の強い母の念力だったかもしれませんが・・・

そんな私も、母が亡くなった60を超え、父が亡くなった70に
手が届くところまで生きてしまいました。

・・・・・

二つ目に思い出すのは、最初に書いた「質屋通い」です。

多分、私がまだ5歳前後の頃だったと思います。
だから、戦後10年ぐらいの時ですね。

おそらく一般の人たちにとっては、まだまだ食糧難の時代
だったかもしれません。

どこかのオバサンが私に言った事が、耳に残っているんです。

あなたの家は、お菓子屋さんだから、食べ物は心配しなくて
 いいから、幸せね。」

私自身は、そんなに良いものを食べたという記憶は一切ないん
ですが、空腹に苛まれるということはありませんでした。

たぶん、ちょくちょく、お菓子を盗んで食べていたからでしょう。

父は母をよく怒鳴り飛ばしていました
ただ、理不尽なことで怒鳴っていたわけではなく、
もっと頭を使ってなんとかしろ・・・ってなことだったと
思います。

覚えているのは、
「毎日毎日 食卓に同じものを出すんじゃない。
 もっと工夫したらどうだ
ということでした。

食べ物はそういうことだったんですが、お金はなかったようです。

恐らく、母は、幼い私の手を引っ張って、悔しい思いをしながら
質屋の玄関を開けたのだと思います。

私は、玄関先までの映像は残っているんですが、玄関に入った
ところからの記憶はありません。
もしかしたら、見てはいけない母親の姿を記憶に残したく
なかったのかもしれません。

・・・・

三つ目は私の身長です。
私が高校に入った頃だったと思います。
学校で担任の先生との親子面談があったんです。

その時の母の相談内容が信じられないほど記憶に残っています。

「この子の身長は伸びるでしょうか。」

まったくもって、馬鹿な質問なんですが、母親としては
大問題だったのでしょう。

母の身長は低く、父の身長は平均的。
前妻の息子である、私の兄は、バスケットボールの選手
だったらしく、身長は高い。

私の身長は、中学時代、そして、高校1年までは、
クラスの中でもほぼ一番前、つまり一番低いところで
3番以内の定位置にいたからです。
中学時代は、丸坊主だったこともあって、
「まるこめ」というあだ名もあったぐらいです。
可愛かったんです。

中学1年の頃だったと思うんですが、
ある日学生服を着て、広い坂道の左側を登っていたとき、
中学高学年らしき女学生3人がその道の反対側を下って
来ました。
そして、私の姿を見ると、わざわざその歩く路線を変更して
私が歩いている側に寄ってきて、進路を妨害するような
行動に出たんです。
そして、私がビビっていると、3人で笑いながら通り過ぎて
行きました。
きっと、私がとても可愛かったんです。(笑

しかし、驚いたことに、ここでも、母の念力が働いたらしく
高校時代3年間に20センチばかりぐんぐん伸びて、
卒業するころには、列の後ろから数えた方が早くなりました。

・・・・

四つ目は、受験生時代です。

高校時代には、受験生ってことで、個室を作ってもらいました。
ほんの2畳半ぐらいの狭い部屋です。
1畳はべニア板で作った手造りベッド。
そして、机と椅子と本箱があるだけ。

父母とはほとんど会話はありませんでした
まあ、あったんでしょうが、記憶に残るような会話はありませんでした。
父母は家業に忙しく、父母との会話なんてことになると
それはそれは重大事だったからです。

特に 姉が 「お父さんが呼んでるよ」 などと呼び出しにくると
緊張しまくりになるほど、恐ろしい存在だったんです。
我が家の憲法は父でした

受験生の部屋には、母が毎夜、和菓子と緑茶をお盆に載せて
二階に上って来ました。
そこでも会話があったわけではありません。
・・・だから、母がどのような考え方を持った人であったのかは
知らないままとなりました。

・・・・

しかし、状況証拠はいくつか考えられます。

それは、鹿児島の叔父や叔母から受けた印象です。

東京の叔母は、大学の舎監で生活態度にかなり厳しい。
私を帝劇に連れていって、ミュージカル「ラ・マンチャの男」
を見せてくれました。
文化的なことには興味があったようです。

宮崎の美容師だった叔母は、新興宗教に走ったらしく、
私の母が癌と闘っている時に いろいろあったらしい。

佐賀で教師をしていた叔母は、戦争未亡人となった後、
二人の子供たちを女一人で育て上げた。

鹿児島の叔父は、キリスト教に関する郷土史家であって、
キリスト教の信者の団体が、隠れキリシタンなどの
歴史を聞きに来るほどの知識があったようです。

こうやって母方の兄弟姉妹を見ると、私は父方からよりも
母方から大きな影響を受けているような気がするんです。

つまり、今現在 私がやっていることに繋がっている
ような気がするわけです。

ー 随分前のことですが、バギオ市制100周年の
  折に、バギオ建設に関与した日本人移民たちの
  ミュージカルを作り、公演しました。

ー 毎年、日比友好月間でなんらかのイベントの
  企画をする羽目になってしまいました。

ー 若い時から、哲学や宗教には興味があって、
  今では仏教の本をいろいろ読み漁っています。
  かと言って、信心があるかっていうと、ありません。

ー 公的な教員ではありませんが、日本語を過去15年ほど
  教えることになりました。

ー 日本人戦没者や日本人移民の歴史に興味を持ち
  今では 自称「バギオ市の郷土史家」みたいな
  感じになって来ています。(笑)

・・・・

たまたま、今 観無量寿経ってのを読んでいるんですけど、
ひょっとして、「観想」するっていうのは、
こんな風に、ある対象を頭の中でいろいろとなぞって観る
ことなのかもしれません。

そして、今の私をこのようにさせているのは、
もしかしたら、これもあれも、母の念力のなせる技かも
しれません。

怖いですねえ、怖いですねえ、でも、面白いですねえ・・・

そして、実に有り難いことです。

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