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2017年5月16日 (火)

私には情というものが足りない。 DNAのプログラムの損傷か?

私には情というものが足りない。 DNAのプログラムの損傷か?

先日 NHKの番組で、火野正平の「心旅」を見た。
倉敷編で、水島港が目的地。
大学時代に、水島港から丸亀港へのフェリーに乗り
香川県の大学で勉強した女性。
善通寺にある寮暮らしで、親恋しさに4年間泣き暮らした
という話だった。

こんなに情の深い人がいるんだなあと、
この番組を観て、私自身のことを振り返った。

私には情が無い。
前々からそんな気がしてきた。

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情が無いというよりも、感覚、感情がぼ~っとしている
と言った方が正確かもしれない。

私には15歳上の姉がいて、母親が家業や家事で忙しく、
姉が私の世話係だった。

小さい頃から、その姉からよく言われた。
あなたは 本当に暑さ、寒さが分からない子だねえ。」
・・・季節感覚が鈍く、着るものに無頓着で、
着た切り雀みたいな私だったからである。
そして、その姉が、これを着なさい、あれを着なさいと
やってくれていた。

私が24歳の頃、母親が癌で亡くなった。
30歳の時 父親が脳卒中で亡くなった。

しかし、その折も、なんだかぼ~~っとしていて、
涙を流した記憶は無い

特に父が、年末に、夕ご飯、晩酌の後、風呂上がりに
テレビを観ていて、昏睡状態に入り、数日間寝たままになり、
12月31日に、70歳の誕生日に他界した時には、
兄弟揃って 「上手に死んでくれた」 と笑い合った。

父と兄は、その当時 和菓子屋をやっていて、
兄嫁と姉も、一緒に働いていた、家内工場だった。

年末には、ご近所の多くのお客を相手に、正月の餅の
賃突きをするので、クリスマスの後、30日までは
その餅つきで毎年大忙しだった。
大忙しの間は、いびきをかいて寝てくれていた父、そして、
誕生日に死んで 市役所から70歳以上の死に際して
もらえる見舞金もゲット、と言うことで「上手に死んでくれた」のだった。 
だから涙も出ず、笑い合った。

私が高校生だった時までは、高校の同級生のアルバイトと
一緒に3~4人で、出来たての餅の配達をやったりした。
雪の中を配達した年もあった。
暑さ寒さに鈍感だったのは好都合だった。

高校を卒業した後、東京の英語専門学校で、貿易英語や
ビジネス英語を2年間学んだ。

貧乏だった実家からの助けが要らないように、
新聞配達の奨学生になり、神奈川県の販売店に寝泊まりして、
朝夕刊を配達し、集金をし、そして週末には営業活動もやった。

ここでも、季節に鈍感という体質は好都合だった。
雨や雪の日でも、雨合羽をかぶり、その殻の中に閉じこもるように
歌を歌いながらペダルを漕いでいた。

・・・・・

20歳の頃。
亀井勝一郎、小林秀雄などのエッセーや、ショーペン・ハウエル
などの哲学書にかぶれた。

その頃だったと思うが、「耳を澄まして、生きていこう」と思った。
自分の鈍感さを自覚して、もっと感覚を研ぎ澄まさなくてはと
思ったのだと記憶している。

しかし、その後の母と父の死に際しては、効果はなかったようである。

今考えると、理屈の耳は澄ませても、情の感覚を磨くことは
結局出来なかった
ということになる。

・・・・

情の感覚と言えば、おそらく恋愛に関する情が、誰しも
筆頭に挙げられるのだと思う。

私の場合も、ちゃんとDNAに刻まれたプログラムに従って、
それは起動された。

本来、情というのは、そのプログラムにどのように、どの
程度の強弱をもって刻まれているのか。 そして、それが
滞りなく起動されるかという問題かもしれない。

しかし、恋愛のプログラムは予定どおり働いたが、
親に懐く情や子供に関わる情は、私の場合は、上手く
プログラムされていなかったらしい。

もしかしたら、生まれた時にはちゃんとプログラムされて
いたのかもしれないが、小学校低学年の頃に、
友達の家で遊んでいて、崖から落ち、階段をごろごろと
転がり落ちて、頭を打ち、医者から「御臨終」を宣言され、
その後 息を吹き返した時に、プログラムに狂いが出たの
かもしれない。

・・・・

私は全く子煩悩ではなかった
親の情というものが まともに発達しなかったようにさえ思う。
小さい子供は 極端にいえば 猿に対する感覚に似ていた。

私が二人の娘に教えたことといえば、自転車の乗り方ぐらいであった。

勿論、親としての責任という、理屈に於いては、自覚はあった。
しかし、「子供が可愛いくてしょうがない」というような情は
なかった。

子供は 周りに影響されてその真似をする猿である・・・と
言うような気味の悪さがあった。

だから、自分なりの考えを持って、ものを言うようになって
初めて、「ようやく人間になったか」と嬉しくなった。

・・・やっぱり、こういう感覚は親子の情としては変だと
思うが、プログラムに損傷がある以上 しょうがない。

・・・・

ここ数年、仏教の経典に関連する本をいろいろと読んできた。

その中で一番印象に残っているのは、なんと言っても
原始仏教の釈迦が言ったとされる 「ブッダの言葉」である。

「「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ」   
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

この中で、お釈迦様の思想を振り返ってみると、こんなことが
書かれていたんです:

3.つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。

10.人間の迷いの世界である「世間」には五種の欲望の対象があり、
意(の対象)が第六であるとされる。
これらに対する貪欲を離れることによって、苦しみから解放されると
している。

5. 出家修行者のあり方については、
妻、子供、家族、親戚、世間との一切の接触を断ち、「独り」で
村はずれの洞窟や木の下に住み 一切の所有をしないことを求めている。
最初期の仏教修行者は住居とか臥床というものをもっていなかった。
さらに、せいぜい毛布か布にくるまって寝ていただけ、とも書いてあります。。

21. 子供が死んでも嘆くのは良くない
人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人であれ。

==== どうも、こういうのを読んでいると、
     情を捨てろと言っているように見えるんですよねえ。

     出家ということだから、世間を捨てる、情を捨てる、
     子供が死んでも嘆かないってことにはなるんでしょうが、
     どうも 人間としては DNAのプログラムから
     解き放たれるように修行をしろと
言っているように
     思えてしまうんです。

     元々、お釈迦さんは、人間が苦から逃れる為には
     どうしたらいいのかを覚ろうと努力したそうですから、
     苦の元になっている情を断ち切れということには
     なるのだと思います。

     ってことは、私が小学校低学年の時に「御臨終」に
     なった時に、私は既に「仏」になっていたから、
     息を吹き返した後に 情を忘れちまったってことに
     なるのかな???
   

不真面目なオチで すんません。

 

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