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2017年5月 6日 (土)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その2- 殺人未遂か殺人か、それが問題だ

さて、観無量寿経の中身で、私が気になったところを抜き書き
してみます。

その前に、目次を見てみますと、
漢文和訳の部分は、32ページ、その註釈も32ページあります。
つまり、和訳しただけでは、その意味を理解することはなかなか
困難であるってことですね。
しかし、その註釈というのも、かなりの知識がないと訳が分かりません。

なので、いい加減なコメントを書きますので、ご容赦ください。

Img_2621




この観無量寿経には、サンスクリット原文が発見されておらず
現代語訳は漢訳本を元にされているそうなんですが、
それにしても、流布本、高麗本、宋本、元本、明本などが
相互にチェックされ、さらに、中国や日本でそれぞれの時代の
僧侶たちによって、様々に解釈されて発展して来ているので、それを
ど素人の私がどう感じるかのフィーリングだけの話になります。

=== では、まず、註釈から入ってみます。

p87
43 観無量寿経 -- 経の題名は無量寿仏(阿弥陀仏)と
その仏国土を思念の対象として観察する方法を明かす経
の意。
・・・阿弥陀仏は西方、極楽浄土の教主であるから、本経に説く
観察とは、その仏国土や教主をとりまく聖衆および阿弥陀仏自身を、
観行者がそれらの具体的形相によって自己の心中にそのまま現出
させて(事観という)観察し、あるいはまた、観察力の弱き者は
仏名を称えることによって、減罪・見仏・往生の利益を得る
ことを
目的としている。

=== まあ、これだけ読めば、全部読んだも同然の解説
    なんですけど、それじゃあ身も蓋もないので、
    我慢しながら読みましょう・・・あはは

p11

あるとき師は、千二百五十人もの修行僧たち、法の王子である
マンジュシュリー(文殊)を上首としる三万二千人の求道者
たちとともに、ラージャグリハ(市)の<鷲の峰>(グリドゥフ
ラクータ)に滞在しておられた。

註釈
p88 
43 - 文殊師利王子ーー文殊菩薩のこと。法王子とは
法(仏の教え)の王子、したがってやがて仏となる菩薩をいう。

43 - 王舎城 --すなわちラージャグリハは中インドの
マガダ国の首都。 ・・「無量寿経」や「法華経」もこの山
(霊鷲山)を説法の会座としている。

=== 33,250人・・・って本当かなあ??
    
https://kotobank.jp/word/%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C-49688
こちらのサイトでチェックしてみると、
「中国で424~442年ころ良耶舎(きょうりょうやしゃ)(カーラヤシャス)
によって翻訳されたというが、サンスクリット原典がなく、
チベット訳もなく、漢訳のなかでも他に異訳が存在しない。
ただウイグル語訳断簡が現存しているが、これは漢訳から重訳された
ものである。これらの点から、『観経』の成立については、インドで
編纂(へんさん)されたとみることは困難
である。」

・・・ 釈迦が生きていたのは、
釈迦(しゃか)は、紀元前5世紀ごろの北インドの人物で、仏教の
開祖である。」ってことですんで、釈迦の時代から800年ぐらい
後に多分中国あたりで作られたお経の可能性が高いってことですもんね。
日本の現在で言えば、鎌倉時代の話を今書いているって話ですもん。

しか~~し、こちらのサイトにこんなことが書いてありました。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99
「上座の長老たちが新しい見解を否定して、ついに上座部と大衆部に
根本分裂した。仏滅後約100年のことで、この戒律の異議のため、
毘舎離で七百人の比丘を集めて第二結集が行われた。さらに仏滅後
200年には、アショーカ王の時代に、パータリプトラで1,000人の比丘
を集めて、第三結集が行われた。」

・・・・これがあったのが紀元前4世紀のころって話なんで、
この時に1,000人の修行者がいたってことになると、
その700年後に3万人ってのはアリですかねえ。

Img_2615

p11~15 「王舎城の悲劇」の親殺し事件の部分

・・・アジャータシャトル(阿闍世)と名づけられるひとりの
太子がいた。・・・父なる王ビンビサーラ(頻婆娑羅)をとらえ、
・・・幽閉し、・・・。
・・・大王を敬愛していた・・ヴァイデーヒー・・国王の大夫人は、・・
ひそかに王に(食物を)与えた

アジャータシャトルは・・・怒って・・・母を殺そうとして

ひとりの大臣が・・・「大王よ、・・・はるかな昔よりこのかた、
さまざまな悪王があり、帝位に早くつくためにその父を殺した者
一万八千人に上っている。しかし、未だかつて非人道にもその母を
殺したというためしは聞いたことがない。・・・」
・・・
王はこの言葉を聞いて、懺悔して救いを求めた。すなわち、剣を
捨てて、母を殺すことを止め・・・幽閉してふたたび外に
でられないようにした。

幽閉されたヴァイデーヒーは・・・・師を礼拝して・・・
如来よ、尊き師よ、・・・」・・・
師・釈尊の体は紫を帯びた金色に輝き、数百の宝石の蓮花の
上に座られ、マハーマウドガリヤーヤナは左に、アーナンダは
右に侍し、シャクラ(帝釈天)・ブラフマン(梵天)・護世の
天人たちは虚空にあって・・・・・

・・・十方の仏たちの清らかな美しい国土はすべてこの光の中にお
現れた。
・・・・ このような無量の仏たちの国土の荘厳で
きらびやかなありさまをヴァイデーヒーに見せしめられたのである。

・・・わたくしは今、<幸あるところ>という世界のアミタ仏
(阿弥陀仏)のみもとに生まれたいと願っております。

・・・師は・・告げられたーー
「あなたは知っているであろうか。 アミタ仏のいられるところが
ここから遠くないといいうことを。 あなたは思念を集中して
はっきりとあの仏国土を観想しなさい。・・・・・
・・・未来にあらわれる一切の生ける者どもの中で清らかな
行ないをしようとする者が、西方の<幸あるところ>という世界に
生まれることができるようにしよう

==== 11ページから15ページに渡って、概ね上のような
     ことが書かれているんですが、「父殺し」というのは
     書いてないんですよ。

     この後には、観想のマニュアルが書いてあるんです
     けどね。
     だから、観無量寿経の中では、父を幽閉し、母も幽閉
     したことしか書いてないんです。
     だから、「殺人未遂」に終わっているんですけどねえ。

=== そこで、註釈を見てみると、

p87
43 -- 「涅槃経」などの伝えによれば、父王は王子のいない
のを心配し占師に尋ねたところ、ある仙人がやがて死んで
王子として生まれるであろうと予言した。
父王は仙人の死をまちきれず殺させたところが、王妃韋提希
(いだいけ)はただちに懐妊した。 占師は、いつかは生まれ出る
王子すなわち阿闍世が仇を報ずるであろうといったため、
出産のとき高楼から産み落として殺そうと夫婦が相談した。
しかしながら、王子は手の指を折っただけで一命をとりとめたという。
これは阿闍世が父王を幽閉する動機となったという。

・・・

大乗涅槃経」は、王が父を殺害したために、心に悔熱を生じ、
それが原因で身体全体に瘡を生じ・・・・・ブッダの教えを仰ぎ
瘡癒えて菩提心を発したという。
親鸞は「教行信証」の信巻末に右の記事を長々と引用し、・・・
阿闍世王をあげ、もって如来の大悲に背きつつある愚悪の凡夫の
救われゆくすがたを暗示している。

=== この註釈にもあるように、結局「父殺し」の話は
    「観無量寿経」にはないみたいで、「涅槃経」にある
    みたいなんですねえ。
    「親殺し未遂」VS「親殺し」です。
    どういうこと!??
    ・・まあ、未遂とは言え、父親を餓死させようとして
    いたわけなんですけど。

=== 結論が判明しました。
    こちらを読むと、母親を幽閉した後に、食糧をもらえなく
    なった父親が餓死した
と書いてありました。
    やっと納得。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%88%E3%83%AB
    
「成長したアジャータシャトルは、釈迦仏に反逆し新教団を形成せん
としていた提婆達多(デーヴァダッタ)に唆され、その言を入れて
ビンビサーラを幽閉した。また母が身体に蜜を塗って王に施していた
事を知るや母も幽閉せしめ、ついに父王は餓死し命終してしまった
。」

・・・しかし、これだと、親鸞さんもいろんなお経から題材を
引っ張ってくるのに大変だっただろうなあ・・・・

殺人未遂と殺人じゃあ、インパクトが違うからねえ・・・・・

=== 註釈にこんな記事がありました。

p91
45 父を殺害するものーー王子が王位につこうとして父なる
国王を殺すということは、釈尊の時代またはその後に実際に
しばしば行なわれたこと
であった。
恐らく当時は異母の王子が多勢いたであろうから、王位に
即きたい王子は、こういう強行手段に訴えたのである。

・・・・家族が大きければいいってものでもなさそうですね。

=== では、その3 では、観想のマニュアルを読んでみます ===
  

=====================

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「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その1- 極楽浄土や仏様をどのように観るか

前回までに「仏説無量寿経」を読みました。

「浄土三部経ー無量寿経」を読む
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2017/04/post-89d0.html

6年前の2011年には、こんな本を読みまして。

「あなただけの阿弥陀経」を読む - その3
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/11/post-0c25.html

浄土三部経は 3冊の本ってことですから、私が読んだ順番で言えば:
1冊目は 「仏説阿弥陀経」
2冊目は 「仏説無量寿経」
3冊目は 「仏説観無量寿経」

・・・・で、昨晩 この3冊目の「仏説観無量寿経」の
漢文書き下し文の章を ぱらぱらと読んでしまいました。

Img_2608

ところで、この「観無量寿経」は、サンスクリット原文は
発見されていない
そうでして、漢文からの現代語訳への和訳だ
そうです。

手抜きで悪いんですけど、
概略の内容は、こちらでご覧ください:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C#.E4.BB.8F.E8.AA.AC.E8.A6.B3.E7.84.A1.E9.87.8F.E5.AF.BF.E7.B5.8C

「阿闍世という名の太子が、悪友の提婆達多にそそのかされて、
父の頻婆娑羅王を幽閉し餓死させようとした「王舎城の悲劇
を導入部として、王の后である韋提希夫人の願いにより釈迦が、
極楽世界や阿弥陀仏、観音・勢至の二菩薩を観想する13の観法を説く。
そして、極楽世界に往生する者を「上品上生」から「下品下生」
まで九品に分類し、最後に釈迦が阿難に向って「無量寿仏の名号を、
常に心にとどめ続けよ」と説く。」

つまり、
1.「王舎城の悲劇」の親殺し事件
2.「13の観法」の解説 
   観法というのは、瞑想のことみたいで、極楽浄土や仏様を
   どのように観るかという方法論 - これが中心ですね。
3.往生するものの分類

・・・・で、私が気になった部分を以下に書いてみます。

まず、上記1なんですけど、
親鸞さんは、これをかなり重視しているみたいで、
その著書「教行信証」の中でいろいろと書いているんです。

2011年にこの本を読んだ時に下のように感想を書きました。

「『教行信証』を読む」を読む - その5」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/10/post-6046.html

(師である法然さんが「これしかない」といったお経は「大無量寿経」で、
親鸞さんも「そうだ」とは言ってみたものの、そこには、その第十八願
には「除外規定」がある、浄土教の伝統のなかでは、「五逆と誹謗正法」
を除外するってことになっていたわけですよね。 五逆と言うのは、
母殺し、父殺し、聖者(阿羅漢)殺し、仏の身体を損傷する、教団を
破壊する、の五つの罪悪でした。 ・・・で、親鸞さんは上記の
アジャセの話を「大般涅槃経」の中に見つけたわけです。 
そこに突破口がありそうだってね。)

(この話のようなわけで、「父殺し」であっても、「懺悔」をすれば
助けてもらえそうだってことが見えてきたんですね。 ・・・で、
どうやって見つけたかというと・・・)

(どうも善導さんが既に、親鸞さんと同じようなことを考えていたんですね。
「観無量寿経」っていうお経には、上記のアジャセの父殺しの物語があって、
これを憂いた王妃の願いに応じた釈尊が、どのようにしたら往生できるか
を教えたということが書いてある
そうなんです。 その方法として
「観想」という修業や、それも出来ない悪人のための念仏などを教えた
らしいんです。 そして、その「観無量寿経」を研究した善導さんが 
その研究論文を残してくれていたってことですね。 そこに懺悔という
のが含まれていた。 「観想」って言葉は「一心に思いを凝らす」と
いう意味のようですが、仏教では、浄土や仏様の姿を精神統一をして
心の中に観る
というようなことのようです。 )

p viii

親鸞が最終的にたどりついた結論が、条件づきの悪人救済の道だった。 
善き師につくこと、そして深く懺悔すること、の二条件がそれである。

( と言うわけで、唯円さんの「歎異抄」にも辿り着いたし、「懺悔」
することが条件なのかということも分かったし、これでいいのかな? 
とも思うんですけど、さらにここから、この「懺悔」って何? って
ことと、悪人が善人と同じような浄土にすんなりと行けるんかって
ところが気になってくるわけです・・・ね? )

=====

しかし、この「観無量寿経」だけを読む限りで言うならば、
どっちかっていうと、やはり上記2の「13の観法」の解説が
重点だろうと思うんです。

で、この「浄土三部経(下)観無量寿経・阿弥陀経」の表紙の
裏側にこんなことが書かれているんです。

「日本では浄土宗は「観無量寿経」、浄土真宗は「無量寿経」、
時宗は「阿弥陀経」に重点を置く・・・」

Img_2610

・・・・

これを読んで思ったんですが、
私のフィーリングで言えば、
   
ー 法然さんは中国から来た浄土教やその経典に書かれている
  ことを忠実に、そして戒律を重んじて修行をする立場
  この観法を中心に書かれた「観無量寿経」に重点を置いた
  のではないか。
  (修行をする時、座禅なんかをする時に、瞑想をする。
   その瞑想をする時に必要なのがこの観法なのかな?)

ー 親鸞さんは、かなり独自の解釈で、「絶対他力」やら
  「悪人正機説」を唱え、戒律よりも信心に重きを
  置いたので、その論拠として「無量寿経」が中心になった
  のではないか。
ー 時宗については、まだ読んでいないので、分かりません。

・・・親鸞さんについては、「教行信証」の中で、こんな
ことを言ったらしいんです:
(2010・2011年に読んだ本の感想文から)

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/11/post-4ee2.html
「「無量寿経」は親鸞さんが「教行信証」に、「それ真実の教を
あかさば、すなわち大無量寿経これなり」と述べた
経典であり、
釈尊がこの世に現れた目的は阿弥陀如来の本願を説きたいがためで
あった・・・と書いてあるんです。」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/06/post-ce90.html
「「われは、念仏を選ぶ」といった師の法然にたいして、それでも
なおその師に抗して「われは、大無量寿経を選ぶ」と言わざるを
えなかったのはなぜか。 

(それで、その法然さんが信奉している浄土三部経のひとつ
「大無量寿経」は絶対なわけ。親鸞さんも「これだよ!」って宣言した。 
ところがどっこい、よくよく読んでみると、「みんな助ける」けど
「こんな悪いやつは例外だからね」ってことが書いてあったわけですよ。 
親鸞さんは困った。 「ぼくは例外なく助けたほうがいいんじゃない
かなと思う。」って多分思っていたんでしょうね。 ・・・で、
まずいな、先生と考え方がちがっちゃう、どうしよう。) 」

=== それでは、「観無量寿経」の その2 に続きます ===

 

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2017年5月 3日 (水)

「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その8- 金色の仏像には革命的仏教思想があった

漢文書き下し文の 註釈をピックアップして
勝手なことを考えています。

Img_2579

ちょっと漢文書き下しのところに戻って、

p155

3. たとい、われ仏となるをえんとき、国中の人・天
ことごとく真金色ならずんば、正覚を取らじ。

=== これの註釈がなかなか興味深いんです。

p303
155  3 --悉皆金色の願

梵本によれば、「すべて、一色、すなわち金色で
ないようであったら」とあり、色は皮膚の色をさすと
同時に、インドのカースト制度からいえば、同一の
種姓を意味する。
「漢訳」以外の諸本はすべて金色、真金色と訳出して
いるが、これはおそらく右の諸本の成立時代における
インドの経済・文化の影響に基づくものと思われる。

紀元後のインドが中近東やギリシャの諸国との貿易により
多量の金を保有したことと、バラモン教の興隆に伴って
カースト制度が次第に固められ、外来人の渡来とその
文化の接触が白色・黄色・黒色などの雑多な皮膚
人種差別を惹起したことなどから、カースト制度を打破し
一味平等の平和社会を建設しようとする仏教の理念が、
この願文の中に同一の金色の皮膚をした人々の社会建設
として、宗教的に打ち出されている・・・・

「呉訳」は、人・天とせずに「わが国中のもろもろの菩薩・
阿羅漢」とし、かつ、第六天の人のごとしとする。

=== な~~るほど。 前出の時に、極楽浄土に
    往くのはいいけど、自分の身体がキンキラキン
    になっちゃうのは嫌だなあ~~とか、
    仏像がキンキラキンも嫌だなと書いたんですが、
    こんな社会的背景が当時のインドにあったん
    ですねえ。

    海外のキンキラキンの仏像もそういうことだったんですね。
    そういうことなら、キンキラキンでも納得です。 
    でも、自分の顔が金色になったら、どんな感じになるかなあ。   

    それに比べて、今の仏教界の情けないこと・・・

    まあ、仏教界に限らず、政治も世界的に
    理念を無くしちゃって混乱状態だけどねえ。

    人間の幸せという原点に戻って、政治理念を
    追究してほしいもんです。

p312

19ーー臨終現前の願
・・・この願は、諸本を通じて阿弥陀仏の見仏と臨終来迎
を誓っている願にほかならない。 阿弥陀仏信仰がインドに
おいて発生し伝播した過程において、見仏ないし来迎
期待する宗教的情念が主流をなしていた点を見落としては
ならないであろう。

親鸞が不来迎の説をたて、臨終来迎は待つべきではないとの、
平生業成の立場をとったのは、親鸞独自の発揮による。

=== おお、これもびっくりです。
    阿弥陀仏来迎図のお迎えなんですが、浄土真宗の
    場合は、不来迎・平生業成と言って、出迎え無用
    と言っているそうです。
   
    「平生業成」については、こちらのサイトで:
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%9F%E6%A5%AD%E6%88%90
    、「平生に業事成弁(生きている平生に、往生の業事が、
      完成(成弁)する)」
    http://labo.wikidharma.org/index.php/%E5%AE%89%E5%BF%83%E8%AB%96%E9%A1%8C/%E5%B9%B3%E7%94%9F%E6%A5%AD%E7%94%9F
    「「平生」とは臨終に対する語で、つねに日ごろという意味。
     「業成」とは業事成弁とか業因成就という意味で、
      往生の業因が行者の上に成就することであります。
     臨終になり、仏の来迎を得ることによって往生が決まる
     (臨終業成)というのに対して、平生業成とは、つね日ごろ
      仏法を聞信したときに往生は決定するというのであります。」

    2012年に浄土真宗はかなりユニークだってことは
    読んだんですが、これは知りませんでした。
    http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/05/post-9417.html
    
    詳しいことはお調べください。

=== さてさて、註釈に 法然さんと親鸞さんの違いの部分を
    書いてありました。

p324

四十八願建立について、浄土宗と真宗とは見解を異にする。
浄土宗では「大経」の説の通り、一国王が発心・出家し、
世自在王仏の教えをうけ、五劫の思惟をへて本願を立て、
その願が成就して阿弥陀仏となった。 その本願の成就
すなわち成仏は今から十劫の昔であって、久遠の弥陀を
説かない。

真宗では、久遠実成の阿弥陀仏と十劫正覚の阿弥陀仏を
考え、久遠の弥陀が方便を現じて法蔵菩薩となり、十劫の
昔に本願を成就して仏となった(十劫正覚)。
釈尊は久遠の弥陀の応化身であるから、釈迦・弥陀二尊は
一致するという。 その意味で、池本氏は弥陀の本体は
釈尊が菩提樹下においてさとった法であると論じている・・

=== なかなか難しい註釈です。
    私の理解が当たっているかどうかは分かりませんが、
    こんな風に解釈しました:

ー 法然さんは、この無量寿経に書いてあるとおりに
  理解して、法蔵菩薩が世自在王仏に教えをうけ
  願を立てて成就し阿弥陀仏となった。
  それ以外に阿弥陀仏はいない。 お釈迦様とは別人
  である。
  言い方を変えれば、多仏思想

ー 親鸞さんは、永遠の存在である阿弥陀仏を考え、
  方便として法蔵菩薩となり、その後 その同じ
  阿弥陀仏がお釈迦様に化身して現れた。
  つまり、法蔵菩薩もお釈迦様も阿弥陀仏が
  姿を変えて現れた同一人物ってことのようです。
  言い方を変えれば、阿弥陀仏の一神教
  
・・・これは、前回その7で書いたことと同じです。

私の今までの理解は、法然さんの浄土宗までは多仏思想で、
親鸞さんから阿弥陀さんだけの一神教になったということ
ですかね?

p358

202 弥勒菩薩 -- これまでは阿難(アーナンダ)を
相手に説法してきたのが、以下は釈尊についでこの地上に
仏となる弥勒・・・を専ら対告衆の代表として出す。

=== 途中でアーナンダさんから弥勒菩薩に代わった
    理由は書いてありませんが・・・

p359

202 善をなしーー浄土宗は善を称名念仏ととり、
真宗は廻向された念仏の功徳を得ると解す。

202 道の自然なるを念じ --浄土宗は因としての
念仏往生の道が熟するとき、仏果をうること自然である
という道理を信ずると解す。
真宗は阿弥陀仏の本願の大道が願力自然(他力)であって、
凡夫のはからいを離れているということを信ずるとみる。
親鸞は他力を自然法爾とも呼んだ。

p364

212 五悪ーー 五悪を解釈するのに二通りあり、
浄土宗は不殺生・不偸盗・不邪婬・不妄語・不飲酒の
五戒に背くことを五悪とする。
真宗は五善を仁・義・礼・智・信の五常ととり、
五悪はその五常に背くことと解する。
しかし、中国仏教以来、不殺生などの五をそれぞれ、
仁・義・礼・信・智に配当して、五常と五戒は異名同義
だと考える説も行なわれた。

・・・・浄土宗は「不飲酒」がしっかり書いてあるな・・・笑

・・・・ 上記の「廻向された念仏の功徳」の関連は、こちらで:
回向(廻向、えこう、: Pariṇāmanā, パリナーマナー)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9E%E5%90%91
自分の修めた善行の結果が他に向って回(めぐ)らされて所期の期待を満足することをいう。善行の報いは本来自分に還るはずだが、大乗仏教においては一切皆空であるから、報いを他に転回することが可能となる。善行の結果を人々のためになるよう期待し、それを果すのを「衆生回向」といい、善行の結果を仏果の完成に期待するならば、それを果すことは仏道への回向である。」

 

=== 同じ経典を元にした、法然さんの浄土宗と
親鸞さんの浄土真宗ですが、註釈のページを読むと
上記以外にも多くの解釈の違いを書いてあります。

かなり難しいので、私にはきちんと理解できません。

ちなみに、2012年にこんな本を読んでいましたので、ご参考まで:

「山折哲雄著「法然と親鸞」を読む(15) 決定的な法然と親鸞の違い」http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/09/post-0295.html

 

以上、中途半端な感じですが、これで一応
「無量寿経」が全体としてどんなものかは分かった
つもり・・・としましょう

お付き合い有難うございました。

 

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2017年5月 2日 (火)

「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その7- なに? 阿弥陀さんはお釈迦さん? 浄土教は一神教??

残すところ 梵語訳は あと20ページほどとなりました。
一気にいきましょう。

前回は「五つの悪」の染まっている人間の話でした。

Img_2574a

p118

師はマイオレーヤ(弥勒菩薩)に言われたーー
「世間のありさまはこのようである。<目ざめた人>たち
は皆、これをあわれみ、威力を発揮して、さまざまな悪を
うち砕き滅ぼし、すべての人を善に向けさせるのだ。
(自分のことばかりを考える)考え方を捨てて、経典に
説かれている戒律を守り、正しい法に従って生きる
生き方を実行して違反せず、ついには完成や、永遠の
安らぎを得ることができるようになるのだ。」と。

=== 私みたいな悪さをする人間ばかりなんで、
    ちゃんと戒律を守って修行をした人たちに
    頑張ってもらって、憐れみをもって助けて
    いただくということかな?

p120

他の方角にある諸々の仏国土は、善をなす者が多く
悪をなす者は少なく、自然に福徳が積まれ、悪を犯す
ことがない所なのだ。
ところが、この世界にだけは悪が多く、自然に善をなす
などということはなく、人々は苦しみを求めて次々に
偽り欺き、心も体も苦しんで、苦を飲み、毒を食している。
・・・このようにあわただしく生きるばかりで、安らかさ
というものは全くないのだ。

p121

こう言われたときに求道者マイトレーヤは合掌して言った
ーー 「師の教えは甚だ親切であります。 世の中の人々は
まことに師の言われるとおりであります。 如来はあまねく
慈悲の心をもって、あわれんで、すべての人々を解脱され
ました。師のねんごろな教え諭しを受けて、わたくしどもは、
そむいたりはいたしません。」と。

=== ありゃりゃ・・・どうも、多元宇宙の中で、
    他の宇宙はそこそこ良い奴が住んでいるんだけど、
    この我々の宇宙だけが、不良が集まっている
    らしいです。
    こいつら自分たちじゃどうにもできないみたい
    だから 憐れんで救ってやらなくちゃ・・・って
    ことらしい。
    かなり足元みられちゃってますね。
    弥勒菩薩さんも、立場がないなって感じかなあ。
    スミマセンね。

p124

師は、求道者・すぐれた人・アジタ(=弥勒菩薩)に告げ
られたーー「アジタよ。 そなたはかの仏国土において、
みごとな特徴や装飾や配置がそなわっているのを見たで
あろうか。 また、上は虚空において、美しい園林や、
美しい森や、美しい庭園や、さまざまな宝石よりなる
青蓮花・紅蓮花・黄蓮花・白蓮花に満ちた美しい川や池を
見たであろうか。 ・・・・・如来によって現わし出され
た種々の鳥の群れが棲みついているのを見るであろうか。」
と。

p126

かれら求道者たち・立派な人たちは、両脚を組んで安座した
姿で紅蓮花のうちに出現する。

=== 出ましたね。 極楽浄土の映像と、蓮の花の上に
    座る仏さんたちの姿。

その映像は、こちらの中国製アニメでご覧ください:
https://www.youtube.com/watch?v=DPTEFcjP6nM

p134

そのとき、師はまたこれらの詩句を説かれた。

1.功徳を積まぬ者どもは、このような(教えを)聞くことは
ないであろう。
ただ勇猛にして、一切の目的を成就した者たちのみ、この説
を聞くであろう。

5.ただ仏のみが、仏の徳を明らかに知る。
神々・竜・アスラ(阿修羅)・ヤクシャ(夜叉)や、教えを
聞くのみの修行者たちは、(知ら)ない。
仏の智が説き明かされても、独居する修行者たちは、
これを知るいかなる道があるであろうか。

=== やっぱり、真面目に道を求める人は
    かなり厳しい修行を通りぬけないとダメなんですね。
    私なんぞは、楽をすることしか考えてないし・・・

p136

9.あるときには人間の身をうけることとなり、
あるときには仏となって出現する。
信も智慧もきわめて長い時を経て得られるであろう。
その意義を知る智慧ある人々は精進をおこすべきである

=== おお、人間になったり、仏になったり出来る人が
    いるみたいですね。
    いわゆる「霊界」と行き来ができる人なのかな?
    これを読んで、精進したいと思った方は是非
    頑張ってください。
    私は書類選考で没ですね。

p137

尊師がこの法門を説かれたとき、十二億の百万倍の生ける者
どもは、諸々の事物に対して・・・清らかな法の眼を得た。
二十四億の(生ける者どもは)<もう決して生まれ変わって
来ない者>という成果(不還果)を得た。
八百の修行僧たちは、執着が無くなって、いろいろな汚れ
から心が解放された。 二十五億の求道者たちは、<存在する
ものには自体がなく、生ずることもないという認知>を得た。

=== まあ、何度も書いてあるとは言え、
    十二億の百万倍って何ですか。
    人類がこの地球に現れて、何万年だかしりませんが、
    合計して何人ぐらいになるんでしょうねえ。
    しかし、この無量寿経では、どうも多元宇宙論を
    論拠??にしているみたいなんで、他の宇宙の
    人数もカウントしているのかな??

    
=== ここで、注釈を見てみますと:

p279
もう決して生まれかわって来ない者>という成果ーー
・・・欲界の煩悩を断じつくした聖者の位をいう。
死後、色界・無色界には生ずるが、欲界には二度と生を
享けないから、このようにいう。

・・・・つまりは、輪廻転生から抜け出すことが出来た
ということなんでしょうか。

=======================

=== 以上で、「サンスクリットからの訳」の章を
    終わりました。

    この後は、漢文書き下し文の「注釈」の中から
    気になる言葉を拾ってみます。

p288

142 微妙の法 - 釈尊がさとったさとりの内容は
縁起の理法であった。 ここでは、菩薩らがそれぞれ、
すぐれた理法をさとって仏となることを示す。

=== へえ~、お釈迦様が全ての創始者ってことじゃ
なくて、いろんな菩薩が 博士論文を書いて、それぞれの
理論で合格して来たってことのようですね。

p294

146 浄土教の註釈家たちの説によれば・・・・
釈尊は阿弥陀仏を、阿弥陀仏は釈尊を相互に念ぜられて
いるから、本経を説く釈尊はこれまでの釈尊とちがって、
実に阿弥陀仏その人とみて差し支えない。
従って、本経こそ阿弥陀仏の直説法であると解釈している。

p296

147 三界 -- 輪廻する迷いの生存を三つに分けて
欲界・色界・無色界の三界とする。 また、三界にとどまる
衆生をいう。

p296

147 乃往過去 -- 乃往(ないおう)とは、むかしの意。
・・・世自在王仏の出現以前の過去仏五十三を挙げ、法蔵菩薩
が第五十四番目の世自在王仏の許で、はじめて仏になったのでは
ないことを強調する。
過去仏思想については、ブッダを第七仏とする過去七仏の観念
はすでに古く成立し、ブッダの神格化の発展につれ、過去二十四仏、
過去三十二仏が考えられた。

浄土教は大乗仏教の多仏思想を阿弥陀仏(実は釈迦牟尼仏と
一致する)一仏で統一しようとする意図を有していた
から、
「魏訳」では五十三仏と阿弥陀仏の師仏たる世自在王仏の
過去諸仏を列挙する。

=== おお、びっくりしたあ~~~。
    ここにさりげなく書いてありますけど、
    「阿弥陀仏=お釈迦様」ってこと???
    私の今までの理解は、法然さんの浄土宗までは多仏思想で、
    親鸞さんから阿弥陀さんだけの一神教になったと
    思っていたんですが、元々浄土教が一神教を
    意図していた
とは驚きです。

p297
149 世自在王 -- 阿弥陀仏の師仏
ローケーシヴァラとはヒンドゥー教でシヴァ神の別名である。

=== おお、これもまたびっくり。
    まあ、インドには元々たくさんの神々がいたわけで、
    驚くには当たらないとも言えるんですが、
    阿弥陀様の先生がシヴァ神に繋がっているとはねえ。

シヴァ神」については、こちらで確認:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B4%E3%82%A1
「シヴァ([ˈʃivə]; サンスクリット: शिव, Śiva、「吉祥者」の意)
はヒンドゥー教の神(英語版)である。現代のヒンドゥー教では
最も影響力を持つ3柱の主神の中の1人であり、特にシヴァ派では
最高神に位置付けられている。」

「最も賞揚される文脈では、シヴァは形の無い、無限の、超越的な、
不変絶対のブラフマンであり、同時に世界の根源的なアートマン
(自我、魂)であると語られる。」

「現代のヒンドゥー教で知られているシヴァの特徴は、ヴェーダ時代
のルドラの持つ特徴と多くが共通しており、ヴェーダ神話に登場する
暴風雨神ルドラがシヴァの前身と考えられている。」

p298

149 法蔵 -- 仏法を蔵して失わぬという意に解せられるが、
原義は「法の鉱床」「法の堆積」という意味である。
阿弥陀仏が菩薩として修行していたときの名。

p301

154 五劫 -- 非常に長い時間をいう。
浄土教では、法蔵菩薩が発願して衆生救済と浄土建設のために
長年月を要した修行を「五劫思惟」と呼ぶ。
・・・法蔵菩薩は「一の静処に往きて独座し、功徳を修習し、
仏刹を荘厳せんことを思惟して、大誓願を発し
」(宋訳)た
のである。 ・・・原始仏教以来ブッダをはじめ仏弟子たちが
修した基本的瞑想法である。
真宗では五劫を発願に至るまでの思惟とみ、修行とはみない。

=== やっぱり、日本では、法然さんまでは修行、
    親鸞さんでは思惟あるいは信仰・・・となるわけですね。

=== ちょっとここで、漢文読み下しに戻りまして:

p154

法蔵比丘、二百一十億の諸仏の妙土の、清浄の行を摂取せり。

・・・この文の「妙土」の註釈なんですけど・・・

p302

154 妙土の -- 「梵本」では諸仏苦にの荘厳よりも
八十一倍もすぐれたものとする。 しかしながら、他の
大乗経典例えば「華厳経」では、阿弥陀仏の浄土を娑婆穢土
に最も近い最劣の浄土としている

=== ほお~~、阿弥陀さんお浄土は、一番娑婆に近いんで、
    いまいちパッとしない所みたいですね。
    これって、上記のp120の「不良の世界」
    一致するポイントでしょうかね??

    我々人間どもは、阿弥陀様にかなりご迷惑をお掛け
    しているようですね。
    申し訳ない・・・

・・・ では、漢文読み下しの註釈を その8 でも続けます ・・・

=====================

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「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その6- 「智慧の完成」と「五つの悪」と「自己責任」??

今回も、内容的にはメイン以外の その他の拾いものの続きです。

実は、この無量寿経・・・一回目を読んだ時は
私にとっては かなり辛抱が必要な本だなと思ったんです。

Img_2502

何故かって言うと、カタカナの名前が多いことや、繰り返しの
フレーズが延々と続く
こと、大仰な大言壮語がこれでもか
と出てくる表現・・・いくら偉い仏様を称賛する話だと
言ったって 言い過ぎだろう・・・謙虚さはないのか・・
みたいな、日本人感覚から遠い記述が多いわけですよ。

・・でもね。 よくよく考えてみるに、
お釈迦さんが実際に生きていた時代や、その後仏教が盛んに
なったインドでは、印刷物やラジオやテレビやインターネットは
なかったわけで、多くの人々が集まって尊いお坊さんの話を
聞いていたってことですもんね。

おそらく、まるで歌うような、韻をふんだ、浪曲とか謡曲の
ような節廻しなんかもあって、お客さんたちに受けるような
大げさな話も必要だったんでしょう。
「おお、凄いなあ・・・極楽浄土って素晴らしいところだなあ」
なんてことを感じてもらうためのパフォーマンスでもあった
んじゃないかな・・って思ったんです。

そういうことを考えながら、辛抱しながら、ささっと、
面白そうなところだけを飛ばし読みしていたら、結構このお経
いけるんじゃないかって感じだしたんです。

誰か、この本を漫画かアニメにしてくれないかなって・・・・
真面目な映画なんかにしちゃったら、宗教臭くて面白く
なくなると思うんだけど、アニメだったら、この何でもアリの
極楽浄土を描いてあるようにそのまま描いて、昔の絵巻物
以上の迫力が出せるんじゃないかと思うわけですよ。

と思っていたら・・・youtubeで 中国製の「仏説無量寿経」のアニメ
を発見しました:
https://www.youtube.com/watch?v=v-k2ACJdF6E

なんと、3時間以上の超大作。

もうひとつ、こっちの方が短くて、アニメとしてもいい感じだな。
https://www.youtube.com/watch?v=DPTEFcjP6nM

日本だったら もっと個性的で、もっと面白いのが出来そうだけどなあ・・・
とりあえず 日本語版が見たいなあ・・・

 

・・・・・

じゃあ、次に行ってみましょう・・・・

p93

アーナンダよ、かの<幸あるところ>という世界に生まれた
求道者たちには、その人々のうちのいずれか一人という想い
がなく、<自分に属するもの>という想いもない
<わたしのもの>という想いがない。 争いもなく、論争も
なく、紛争もない。 平等の心の無い者は存在しない。
かれらには平等な心あり、人のためをはかる心あり、
友情ある心あり、柔軟な心あり、やさしい心あり、軽快な心
あり、浄く澄んだ心あり、堅固な心あり、なにものにも妨げ
られない心あり、不動の心あり、乱されない心あり、濁らない
心あり、智慧の完成のための行ないを実行する心があり、
心の連続に覚知作用が入り、智慧は海にひとしく、覚りは
スメール山にひとしく、多くの徳を積み集め、覚りを完成
するのになくてはならぬもの(七覚支)を唱えることを
楽しみ戯れ、仏の(名を)唱えることに努めているのだ。

・・・・ふう~~~。 これひとつの文章ですよ。
こんな感じなんで、嫌になりませんか、・・・読んだら。
これが歌みたいに、誰かが歌ってくれるんなら結構すっと
入ってくるのかも。

=== 上の文章の中に、「智慧の完成」って言葉が出て
いるんですけど、この言葉は「般若心経」にも出ている
言葉なんです。

こちらのページにそのことがちょっと書かれています:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/12/post-d94f.html
「空性を核とした般若波羅蜜多という智慧の完成を説く「般若心経」」

こちらのサイトに詳しく書いてあります:
http://readiary0134.cocolog-nifty.com/blog/2016/05/post-2258.html
「「般若」と音写された「プラジュニャー」の意味は「智慧」です。
・・「波羅蜜多」と音写された「パーラミター」の意味は「完成」です。
・・以上の二語を合わせた「ブラジュニャー・パーラミター」は、
とりあえず「智慧の完成」と訳すことができるでしょう。
「智慧の彼岸に到ること」と訳すことも可能です。・・
「般若波羅蜜多心」とは、「智慧の完成の心(または精髄)」という
意味である、と結論付けることに何の問題もないように思われる
かもしれません。・・ところが、そうではないのです。最大の問題は、
そのように語義解釈をしてしまうと、「般若心経」本文が伝える内容と
かみ合わなくなってしまうのです。」

=== さらに、上記の中の「覚りを完成する」の部分について
    以下の注釈がありました:

p274
覚りを完成するのになくてはならぬものーー普通は七覚支を立てる
(1)情念。 思い続けること。 (2)教えに対する弁別判断。
(3)精進。 (4)正しい教えを実行する喜び。
(5)身心の軽快。 (6)精神統一。 (7)心の平静。

・・・(2)は論理的思考を感じさせるものですが、
それ以外はすべて心の持ち方のようですね。

=== さて、私が上記の文章の中で、ちょっと気になった
    部分は、「その人々のうちのいずれか一人という想い
    がなく、<自分に属するもの>という想いもない。
    <わたしのもの>という想いがない。」です。

    なんでかって言うと、自他というか、自分の身体の
    境界面が宇宙に溶け込むというか、一体化すると
    いうような意味じゃないかと思ったからです。

    それで、思い出したのがNHKのTEDSで観た
    この番組の内容でした:
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-29b6.html
「「腕を見ると もはや自分の体の境界が分からなくなっている
ことに気付きました 腕の原子分子が壁の原子分子と混じり合って 
一緒になっているのです 唯一感じ取れるのは エネルギーだけでした」
・・ってことになるわけですね・・・
これって 釈迦が言っている「色即是空」ってこっちゃないですか?」

=== もしかしたら、空海さんの真言密教なんかは
    こんな感じの宇宙と自分の一体化を覚りだとしているんじゃ
    ないかと思ったりするわけです。
    もっとも、空海さんは密教と顕教と分けて密教が優れている
    と考えたらしいので、最澄さんの小乗と大乗とまず区別して
    大乗の中に密教があるという考えかたからしたら、
    無量寿経の中で今ここで考えているということ自体を
    空海さんは良しとしないでしょうけど・・・

p97

師は求道者マイトレーヤ(弥勒菩薩)や神々や人間たちに
言われた -- 「無量寿如来の仏国土の法を聞く修行者や
求道者の功徳や智慧は言葉で説明することができない

=== 「言葉で説明することができない」んですねえ。
    これは 空海さんが最澄さんを邪険に扱った
    ひとつの理由かもしれません。
    詳しくは、こちらのサイトでどうぞ:
    http://shina.hatenablog.com/entry/2015/08/21/%EF%BC%97%E5%A4%A7%E5%AE%97%E7%A5%96%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%AE%E6%BF%83%E5%8E%9A%E3%82%AD%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%EF%BC%9A%281%29%E7%A9%BA%E6%B5%B7%E3%81%8C%E6%9C%80%E6%BE%84

p98

世の人は浅はかで心卑しく、急ぐ必要のないことを
争い求める。・・・・・
持てる者も持たざる者もその憂き思いにかわりはない
うろうろと愁え苦しみ、心配ばかり積み重なり、心は
追い回されて安らぐ時がない。
田があれば他を憂え、家があれば家を憂え・・・・・
横あいから思いがけず、水火や、盗賊や、怨みを抱く者や、
債権者に(それらの財物は)、焼かれ、流され、奪われて、
消え失せ、散り失せ、こすれ砕け滅びるのだ。

=== 二千年ぐらい前のインドで、既に「心は追い
    回されて安らぐ時がない」状態
だったのか。
    今現代の忙しさは殺人的と言っていいん
    でしょうねえ・・・・

    いずれにせよ、何かを所有するってことは
    憂いの始まりだってことですかね??

  
p100

人はこの愛欲の世間に ひとりで生まれ、ひとりで死に
ひとりで去り、ひとりで来るのだ。
行なうところに随って苦しみの人生を得たり、幸福な
人生を得たりする。 行なう者自身がその報いを受ける
のであり、代わりに受けてくれる者はだれもいないのだ

=== そうか、「自己責任」ってやつか。
    でも、「ひとりで去り」って書いてあるけど、
    阿弥陀様にお願いすれば「阿弥陀仏来迎図」
    みたいに、お迎えが来てくれるんだよね??

=== この後 「五つの悪とは何か」の説法が続きます:

p107

第一の悪とは、神々たちや人間たちから地に這う虫に至る
まで皆、さまざまな悪事をなそうとしている。・・・・
・・命を終わって後に行く世界においては、さらに深く、
さらに烈しいのだ。かれらは暗黒の中に陥り、転々として
世を受け、肉身を受ける。・・・・
・・そこから逃れ出る時がなく、解脱を得がたい。・・・
天地の間に自然にこの(ような世界が)ある。

p109

第二の悪とは、世間の人々、父子や兄弟や家族や夫婦が
すべて義理を知らず、法律に従わず、贅沢であり・・・
・・・言葉に誠実さがなく、・・・臣下はその君主を
欺き、子は父を欺き、・・・互いに欺き合う。
・・・富裕でありながら物惜しみして与えようとせず
・・・終わりが来ても、頼りになるものは何ひとつ
してない。・・・命が終わると同時に、魂は(肉体を)
離れ、悪しき所に堕ちる。

p111

第三の悪とは・・・互いに相依り相助けてこの天地の間に
共に生を営んでいるけれども・・・常に邪悪な心を懐いて
いる。・・・ひとのものは欲しがり、自分のものは惜しんで、
・・武器を執り、互いに戦う。・・・他人のすることには
常に悪意を向けるけれども、自分からは、なにも仕事をしない。
・・・思いのままに振舞って自ら楽しみ・・・

p112

第四の悪とは・・・世間の人々は、善をなそうとは思わず
互いにそそのかし合って、共にさまざまな悪をなす。
かれらは二枚舌をつかい、悪口を言い、心とはうらはらな
ことを言い、お世辞を言う。 人を中傷し、・・・・
友人に対する信義がなく、・・・自ら思いあがって・・・
他人から尊敬されたがる・・・進んで善をなそうとはせず、
常にそれでよいと思いこんでいる。

p114

第五の悪とは・・・人々はうろつきなまけて、積極的に
善をなしたり、身を修めたり、仕事をしたりするということを
せず・・・恩にそむき、義理に違い、報いようという心がない。
・・・酒を飲み、美食を摂り、飲食に節度がない。・・・
人間らしい心情を知らず・・義理もなければ礼儀もなく・・
古の聖人たちや<目ざめた人>たちの説いた道理を信ぜず、
・・・しかも、人間の生がどこから来て、どこに去るかという
ことさえも知らないのだ。
・・・死は待ってはくれないのだ。・・・

=== 私の場合、第一の悪は、いま一つはっきりとは
    分かりませんが、二から五まではしっかり該当者に
    なりますね。
    もう、これは、阿弥陀様に助けてもらうしかないね。
    お迎えを予約しなくちゃね。

  
・・・では、 その7 に続きます ・・・・

=====================

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「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その5- 天国良いとこ、一度はおいで・・・

今回は、内容的にはメイン以外の その他の拾いものです。

=== 極楽浄土の様子を描いた部分をちょっとだけ
    ご紹介しましょう。

Shoujyuuraigou

p72

もしも、かれらが、どのような宮殿でも、どのような色彩や、
標識や、形状や、乃至、高さや広さがあるものであろうとも、
種々の宝石でできた百千の尖塔に飾られ、種々の天界の布を
うちかけられ、美麗な座布団を敷いた宝石の長椅子のあるような
宮殿を欲するときは、正にその通りの宮殿が、かれらの前に
現れる。 かれらは思うままに現われ出た諸宮殿のなかで、
それぞれ七千人の天女に侍かれ、敬われて、住み、戯れ、
喜び、逍遥するのだ。

=== さてさて、御用とお急ぎでない方。
    ここをしっかり読んでくださいな。
    「天国良いとこ一度はおいで、酒は旨いし
     ネエちゃんは綺麗だ・・・・・
」の部分ですよ。

    「帰ってきたヨッパライ」 フォーク・クルセーダーズ      
    https://www.youtube.com/watch?v=HgW5KUyJarw

    それどころか、どんな宮殿でも、あなたの好きな
    ようにデザインされた、カスタマイズされた
    宮殿も思いのまま。 天女はそれぞれ七千人
    だってさ。 そりゃあもう、この世じゃ
    あり得ない天国の凄さ満載。

    でも、酒のことは書いてないですね。
    やっぱ禁酒かな。

p73

かの世界では、世俗の習慣的な表現によって、神々とか
人間とかいう風に区別して数え立てるだけのことであって、
神々と人間との区別は存在しない

=== みなさん、あなた自身が神々と同格になれるん
    ですよ。
    昔、ある国に、天孫降臨の末裔で現人神と言われた
    神がいましたが、その後「私は人間だ」って言い
    ましたね。
    上の話は、その逆バージョンが実現するって
    ことみたいですよ。
    あなた自身が、天に昇って神々になるみたい。

p74

アーナンダよ、かの仏国土には、火とか、太陽とか、遊星とか、
星宿とか、星群とか、暗黒とか、闇
とかいうような名称を
つけて表現することも全くない。 また、夜とか昼とかいう
名称をつけて表現することも全くない。
ーー ただし如来がそのような名称をつけて表現される場合
別である。 家屋を所有するという思いもないのだ。

=== これはなんとも、宇宙的で凄い表現ですね。
    「星宿」ってなんでしょうね?
    こちらのサイトにこの名称はあるんですが・・・
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%9F%E5%AE%BF
    「星宿(せいしゅく・ほとほりぼし)は二十八宿の一つで、
     南方朱雀七宿の第4宿。距星はうみへび座α星。」
    なんか関係があるんですかね?

    「夜とか昼とかいう名称をつけて・・・如来が・・・」
    って部分は、キリスト教の創世記の「光あれ!」
    って言った話を連想させませんか?
    「家屋を所有するという思いもないのだ。」って
    ところは、上の「思うがままの宮殿」の話と
    ちょっと矛盾するような感じも
あるんですが、
    所有じゃなくてレンタルって話なのかなあ・

    レンタルだったとしたら、ビットコインみたいなのを
    使っているのかも??

=== 「師はこれらの詩句を説いて言われた」として
    次のような詩が書いてあります。

p76

3. 誰であっても、世界の最微小の原子のごとく、
打ち砕いて微塵となしたとしよう。
その(微塵の数)よりもさらに多くの世界を
宝石で満たして、それらを布施する者があったとしよう。

=== これって凄くないですか?
    「最微小の原子」「微塵」「さらに多くの世界」
    ・・・なんだか、現代の最先端の宇宙論を連想
    させませんか?

    「微塵」の意味は、こちらの辞書では:
     http://www.weblio.jp/content/%E5%BE%AE
     「② 〘仏〙 物質の最小単位の極微(ごくみ)が
      六方から集まったきわめて小さい単位。」
     (〘仏〙とありますから、仏教用語ですね。)

    「多くの世界」って、多元宇宙論みたいな・・・
     曼荼羅にあるような・・・

     さすがにゼロを発見したインドならではでしょうか。
     

「ゼロの発見」については こちらをご覧ください:
https://ja.wikipedia.org/wiki/0

「古代インドの数学で「膨れ上がった」「うつろな」の意
サンスクリット語: शून्य, śūnya (シューニャ 膨れ上がった物は
中が空であるとの考え方
から来ている。)すなわち数としての
「0」の概念が確立された。ブラーマグプタは、628年に著した
『ブラーマ・スプタ・シッダーンタ』において、0 と他の整数
との加減乗除を論じ、0 / 0 を 0 と定義した以外はすべて現代と
同じ定義をしている。そしてこれがアラビア数学に伝わり
フワーリズミーの著作のラテン語訳 羅: Algoritmi de numero
Indorum により西欧に広まっていった。しかし、ヨーロッパでは
得体の知れない概念から悪魔の数字とみなされ
ローマ法王により
使用が禁じられた時代もあった[10]。」

「仏教における 0
詳細は「空 (仏教)」を参照
仏教ではシューニャ(漢訳で空)」

=== 「ゼロ」が仏教では「空」であるというのは印象的ですね。

p77

5.勝てる者(=仏)のことばと想いを信ずる人々の福徳は、
これよりもなお多いであろう。
そのわけは、信こそは世の人々にとって(<幸あるところ>
という世界に)到達するための根本
であるからである。
それ故に、(わたしのことばを)聞いて疑いを除くべきである、と。

=== ここは真面目に読みますが、まず注釈は、

p270
信こそは・・・根元である・・・
信こそは世の人々にとって、極楽に達するための根元である」
という意味になり、「華厳経」にいう「信は道元なり」という
思想に通ずるものがあることになる。
なお、「信」の原語はsraddhaであるが、これはことばをそのまま
受けとること、普遍的な理法に従うこと
である。

=== もしかしたら、この「信心」ということこそが
    親鸞さんが「絶対他力」の元だと考えたことに
    繋がっているんでしょうか?

    阿弥陀様を信じて、すべてをお任せする為の
    「南無阿弥陀仏」であるという話かな?

p78

いかなる生ける者どもであろうとも、かの如来のことを、
すがた形ある者としていくたびも心に思い、多くの、
無量の善根を植え、覚りに心を向けて、かの世界に生まれたい
と願うであろうならば
、かれらが死ぬ時期が迫って来たときに、
かの敬わるべき人・正しく目ざめた人・無量光如来は、
多くの修行僧たちの群にとりまかれ
、恭敬されて、(その前に)
立たれるであろう。 かれらはかの世尊を見て、静かな
澄んだ心になって死んで、かの<幸あるところ>という世界に
生まれるのである。

=== これは「阿弥陀如来の来迎図」の描写ですかね?
    極楽往生をしたい人がいたら、阿弥陀如来が
    弟子たちをひきつれてお迎えに行きますよ・・って。
 
阿弥陀二十五菩薩来迎図 (国宝) 知恩院  
http://www.chion-in.or.jp/04_meiho/hob/rai.html

=== そして、上記の続きで、怠け者の私にもなんとか
    お願いできそうな話が出てきました。

p79

また、誰であっても、かの如来を多く思念すること無く
またしばしば多くの善根を植えることもしないけれども
かの仏国土に心を向ける者があるならば、かれの臨終の
時分に、色も、形も、高さも、広さの点でも、修行僧たちの
群にとりまかれている点に関しても、かの敬わるべき人・
正しく目ざめた人・無量光如来に全く同ような化身の仏
(かれらの)前に立つであろう。

=== これは本物じゃないけど、「化身の仏」さんが
    来てくれるって話です。
    今時の言葉で言えば、初音ミクみたいな仏さんかな
    本格的なリアルなもんじゃないけど、略式の
    バーチャルなもんでいいでしょ、ってことみたい。
    まあ、信心の深さによって、ランク付けしちゃう
    から、そこんとこちゃんと事前に分かって
    おいて頂戴ねってことですね。
    まあ、阿弥陀さんも、そのお付きのお弟子さん
    たちも忙しいだろうから、そりゃあしょうがないね。

p89

そのとき、若きアーナンダは尊者に向かってこう言ったーー
「尊師さま、善き人であるその二人の求道者・すぐれた人は
何という名でありますか。」と。
師は言われたーー「アーナンダよ。 かれらの中の一人は
求道者・すぐれた人・アヴァローキテーシヴァラ(観自在
であり、第二の人は スターマ・プラープタ(勢至)という
名の人なのだ。

=== おお、これが釈迦または阿弥陀三尊像の由来でありますな。
    アーナンダの師である お釈迦様と、阿弥陀如来には観音菩薩
    そして勢至菩薩です。

    (釈迦三尊像の場合は、組み合わせがいろいろみたいですけど・・)

 

Photo

    この三尊像は、フィリピンのバギオ市にもあるん
    ですよ。 ご存知ですか?

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E4%B8%89%E5%B0%8A

阿弥陀三尊(あみださんぞん)は、仏教における仏像置形式の一つである。

阿弥陀如来を中尊とし、その左右に左脇侍[1]観音菩薩と、右脇侍[1]勢至菩薩を配する三尊形式である。根拠は『無量寿経』・『観無量寿経』である。

 

・・・・ その6 に続きます ・・・・・

 

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2017年5月 1日 (月)

「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その4- 天国では洗濯をしなくても大丈夫

さて、一応 この無量寿経の中での メイン・イベントである
第18願と第35願は読んだので、それ以外の部分
さらっと読んでいきます。

四十八の願の中で、ちょっと気になったものをピックアップ:
私のコメントは、いい加減な理解の元に書いていますので
誤解のなきようにお願いします。

Img_2571

第2願

「世尊よ。 もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた
生ける者どもの中で、さらにそこから死没して地獄に堕ちる
者や、畜生(動物界)に生まれる者や、餓鬼の境遇に陥る
者や、アスラの群となる者があるようであったら、その間は、
わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることが
ありませんように。」

=== 阿弥陀さんは、一旦極楽浄土に引き受けたら
    その後地獄に落としたりはしませんよ、ってこと
    みたいですねえ。

    しかし、その極楽浄土で「さらにそこから死没」って
    ことが前提になっているのが怖いですね。
    輪廻転生が前提になっているわけですか。

第3願

「世尊よ。 もしも、かのわたくしの仏国土に生まれた者どもが、
すべて一色、すなわち金色でないようであったら、その間は
わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがあり
ませんように。」

=== あっら~~。 極楽浄土に行ったら、みんな金色の
    キンキラキンの身体になるってこと
    日本の有名な美術品みたいな仏像なんかは
    キンキラキンは年代で落ちてしまって、渋い趣が
    日本的でいいなと思ってんですけど、
    日本以外の国の仏像は かなりケバケバしい金色
    ですよねえ。
    マジで言うと、ああいうキンキラキンは嫌だなあ。

・・・これから下の願の表示は、
「世尊よ。かのわたくしの仏国土において、・・・・・その間は
わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありま
せんように。」の同じ文の繰り返しを省略して、中身だけを書きます

第4願

「・・ただ世俗の言いならわしで神々とか人間とかいう
名称で呼んで仮りに表示する場合を除いて、もしも、神々たちと
人間たちとを区別するようなことがあるならば、・・・」

=== ここで「神々」が出てくるんですけど、注釈をみると
インド人は神々は単に人間よりはすぐれた存在にすぎぬと
解し、また多くは天に住むと考えられていた。 現代の口語で
「天人」と訳し得る場合もあるが、身体をもたない神々もいる。」
とあります。
・・・ってことは、日本の神話に出てくるような天孫降臨した
神々のイメージでしょうかねえ。
これはどっちかっていうと、自然崇拝の山の神とか海の神が
人格を持ったようなことで考えていいんでしょうか。

ヒンデゥー教では、めちゃくちゃたくさんの神々がいて、
その一部は日本の神様になったものもあるらしいですしね。

こちらのサイトで、ちょっとだけご確認を:
https://syukatsulabo.jp/article/355
「代表的な神様たちしかお伝えできなかったのですが、日本と
関係のある神様がいます。サラスヴァティーは弁財天
シヴァは大黒天、ラクシュミーは吉祥天というように日本でも
有名な神様たちは、ヒンドゥー教の神々が伝来し発展したものです。」

第10願

「・・・少なくとも自分の身体についてでも少しでも
執着する想いを起こすようであったら、・・・・」

=== 注釈を見ると、
「自分の身体について・・・ここには徹底した無我思想
見られる。 ここで「自分の身体」というのは「自分の存在
を意味する。 (原始仏教でも同様)」 とあります。

・・・ってことは、この世はすべて実体がないのだってことを
言っているのでしょうか?
色即是空で全て「空」だよ。だから、執着するのは止めなさい、
ってことになりますか?

第11願

「・・・大いなる心の平安(パリニルヴァーナ)に至るまで
の間、いつかは正しい目ざめ(仏となる)るに決まっている
状態にいないようであったら、・・・」

=== 注釈にはこうあります:
「大いなる心の平安 - ・・・漢訳に「大涅槃」という。
・・この文から見ると、極楽に生まれることは、ニルヴァーナ
に達する以前の前段階なのである。 往生即涅槃と解する
浄土真宗の教義は、日本で成立した独自のものなのである
。」

=== つまり、阿弥陀様に連れられて、極楽浄土に
行ったとしても、それは最終段階じゃないよってことです。
でも、親鸞さんは、そこをめっちゃ便利にしてくれて
往生即涅槃の直行便を作ってくれたという話・・・かな??

第32願

「・・・芳香ある種々の宝石の花の雨が常に降り注ぐことが
無く、また妙なる音声を出す楽器の雲が常に(音楽を)奏でて
いるということがないようであったら、・・・」

=== 匂いと、宝石の花の雨と、音楽・・・・
    なんだか、落ち着かないと思いませんか?
    極楽浄土ってのは、かなりギラギラしていて、
    匂いがきつくて、うるさい場所みたいな雰囲気なんだけど・・

第37願

「・・・求道者の中の誰かが、衣服の洗濯や乾燥や裁縫
染色をしようと思い立つと同時に如来が許された宝のような
立派な新調の衣服を自分の身につけていることも気がつかないで、
衣服の洗濯や乾燥や裁縫や染色の仕事をしなければならない
ようであったら・・・」

=== おお、こりゃあまた、凄いリアルな話が出てきましたね。
ここに書かれた「衣服の洗濯・乾燥・裁縫・染色」という仕事は
極楽浄土に行ったらやらなくてもよくなるよ・・・って言って
いるってことは、かなりの重労働だとの認識から来ているの
でしょうかね??

ちょっと注釈を読んでみましょう:

「宝のような・・衣服・・・極楽にいる菩薩たちは、宝石で
キンキラキンの豪華な服装をしていたのではなくて、伝統的
教団で許された僧衣をまとっていたのである。 それは、
マトゥラー美術の初期における、法衣をまとった菩薩像に
対応する。 
さらに、洗濯や裁縫をしなくてよい、というのは、伝統的
保守的僧団の理想
であった。」

=== 成程。 古代の僧侶は僧衣が寝袋みたいなことにも
使われて、托鉢をすることが日課だったようですから、
その衣服の手入れがかなりの負担だったんでしょうね。

現代の家庭でも、裁縫や染色というのは専門家任せですが、
洗濯や乾燥、そして片付ける作業は毎日の大きな負担
ですもんね。 かなり電化、自動化はされましたが。

私が小さかった頃は、裁縫と繕い物は母や姉がやって
くれていましたけど・・・
衣服は貴重品でしたからね。
うちは貧乏だったし。

第45願

「・・求道者たちが、説法を聞きたいと願ってそういう心
をおこすと同時に、期待するとおりの説法を聞くことが
できないようであったら・・・・」

=== へえ~~、これって「顧客第一主義」じゃないですか?
極楽浄土としても、お客様のニーズに的確に対応しないと
商売がうまくいかないっていう危機感ですかねえ・・・笑

流石に、この部分の注釈は書いてありませんね。
まあ、自由に解釈することにしましょう。

=== 48願あるはずなんですが、この本の中の番号は
    47番までしかなくて、その後に
    「さて、アーナンダよ。 かの修行僧ダルマーカラは、
     このような特別の誓願を説きおわって、その時に、
     仏の威力によって次の詩句を説いたーー」
    って書いてあるので、その詩句というのが
    第48願ってことになるんでしょうかねえ・
・・

=== その詩句が4ページほどありまして、最後は
    以下のような詩句になっています。

(ダルマーカラのことばに応じて)、
大地は震動し、花は雨と降った。
数百の楽器は空中に鳴り響いた。
天の甘美なxx檀の抹香が撒かれた。
(空中にあって言う)
かれは来世に仏となるであろう。」と。

=== これで、ダルマーカラ(法蔵菩薩)が阿弥陀如来への
    昇格を内定されたってことみたいです。
    誰が判子を押したかは書いてありませんけど・・・
    でも、次にこのようにありますね。

p53

「かの修行僧ダルマーカラは、かの世尊ローケーシヴァラ・
ラージャ如来の前で、神々と悪魔とブラフマン(梵天)とを
含む世人の前で、しゃもんとばらもんと民衆と神々と人間と
アスラとを含む生きとし生ける者どもの前で、これらの
特別な誓願を説示して、その通りに、誓願を実行した。」

・・・とありますから、もしかしてこれらの合議制ですかね??
ローケーシヴァラ・ラージャ如来というのは前出のとおりで
阿弥陀さんの師匠の世自在王仏のことですね。

=== この後は、お釈迦さんが弟子のアーナンダに話す形で、
    この阿弥陀如来を讃えるものや 極楽浄土の素晴らしさ
    を語る内容の文章が続いています。
    その中で 注記を含め、気になった部分だけを ちょっと
    抜き書きしてみます。

                          
    - その5 - に続きます

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「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その3- 第35願 「女人成仏の願」 

さて、今日は 「女人成仏の願」を読んでみます。

Img_2574b



ー サンスクリット版からの翻訳 -

35。 世尊よ。 わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・
不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちがわたくしの名を
聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の
身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱して
からふたたび女人の身をうけるようなことがあったら、その間は
わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありません
ように。

=== さて、これは女性にとっては由々しき部分なわけですね。
    お釈迦様が生きた時代とインドという土地柄を考慮して
    どう考えたらいいんでしょうか・・
    まずは、注釈を読んでみます:

p259
「この第三十五願(法然によると「女人往生の願」、親鸞によると
「女人成仏の願」「変成男子の願」
)は支謙訳にはあるが、支婁迦讖訳
には欠けている。支婁迦讖は省いたのであろうか。

支婁迦讖は150年または167年に洛陽に来たから、それ以後に
加わったものである。その後になるとクシャーナ王朝の最盛期、
つづいてクシャトラバ王朝の西インド支配の行なわれた時期であるが、
これらはもともと遊牧民族で家父長制であったから、女人は従属視
されていた

では、浄土教では、その社会的事実をどう考えるか、ということが
問題となって、この女人往生の願が挿入されたのであろう。
ちなみに「女人往生の願」と呼ぶほうが、原意に近い
「往生」は「成仏」ではない。
「女人成仏の願」と解するのは、親鸞独特の解釈である。」

=== 今の現代でも、この世界のどこかには女性の人権が
    著しく毀損されている国や地域があることを考えれば、
    2世紀ごろと言えば日本は卑弥呼や邪馬台国の時代
    なんですねえ。中国は三国志の時代で、ヨーロッパは
    ローマ皇帝の時代。

=== 上記の翻訳をした支謙さんと支婁迦讖さんについては、
    こちらでご覧ください:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E8%AC%99
支 謙(し けん、? - ?)は、中国・三国呉の在家訳経者である。
月氏の出身。字は恭明、または越。」
「最初は華北で、支亮に就いて学び、6か国語に通暁した。後漢の
献帝代の動乱を避けて南渡し、呉の孫権のもとに至った。呉では、
博士となり、太子の孫登を補導した。孫登が亡くなると、穹隆山に
隱居し、六十歳で亡くなったという。
その訳経活動は、黄武元年(222年)から建興年間(252年 - 253年)
に至る。49経を漢訳した。また、梵唄も作り、仏教教理の庶民教化
にも尽力した。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E5%A9%81%E8%BF%A6%E8%AE%96
支婁迦讖(しるかせん、しるかしん、梵: Lokakṣema, ローカクシェーマ、
147年頃 - 没年不詳)は、中国・後漢の霊帝と献帝の時代に、西域より
渡来した訳経僧
である。月氏の出身。支楼迦讖、支讖とも称される。」

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では、次に漢文書き下しの方をみてみましょう。

ー 漢文書き下し -

35. たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の
諸仏世界、それ、女人ありて、わが名字を聞き、歓喜信楽し、菩提心
を発し、女身を厭悪せん。(その人)寿終りてのち、また女像と
ならば、正覚を取らじ。

=== では、この部分の注釈を見てみましょう:

p318
女人成仏の願。 この題文は梵文和訳の35に相当する。
法然は女人往生の願といい、親鸞は女人成仏の願、変成男子の願と
呼んだ。「法華経」に説く八歳の竜女が成仏するという教えと
ともに、この願は古来有名
である。

浄土教では、女人成仏の願がなぜ別に誓われているかの理由に
二説をあげ、第一はすでに第十八願において男女老少のあらゆる
衆生が救われると誓ってあるが、女人は本性上うたがい深いから
別願をもうけて女人の疑念を除こうとした。

第二は親鸞の和讃に明かすごとく、弥陀の大悲の深きこと
仏智の不思議を示さんとして女人成仏の願を別出した、という。

・・・・浄土の往生人について、人間界でみるごとき男女の
区別のない清浄の色身
とだけ言う方が無難であろう。
浄土の生は、曇鸞のいう「生即無生」のものだからである。
ちなみに婦人を宗教的に差別してはならぬという思想は
原始仏教以来存する
。」

=== 凄いっすねえ・・「女人は本性上うたがい深い」と
    ありますね。 女性が読んだらイラっとくるんじゃ
    ないでしょうか。
    しかし、インドで仏教が生まれた時代には
    女は人間扱いされていなかったことを考えれば
    「女でも救われますよ」と言われても「怪しいカルトかな」
    と疑われても当然かもしれないですね。
    原始仏教の時から男女差別はしないってことは
    その頃のインドでの宗教事情を考えれば
    めちゃくちゃ画期的、先進的な考えだったんでしょう。
    日本で婦人参政権が実現したのは、ついこの前ですもんね。
    未だに男女共同参画とかやってるし・・・

=== 私のこの35願の読みは 間違っているかもしれませんが、
    上のサンスクリット版とこの書き下し文を合わせて
    考えると以下のような理解です。

我が師、世自在王仏(法蔵菩薩=阿弥陀仏の師匠)さま。
わたくし(阿弥陀仏の修行時代の名である法蔵菩薩)が覚りができた
後に、あちこちの世界にいる女たちが、私の覚り後の阿弥陀仏という
名前を聞いて、私を信じて、女である身を憂いて、死んだ後に
また再び女として生まれ変わる(男になれない)ようなことが
あったら、私は覚りを得て 法蔵菩薩から阿弥陀如来になる
なんてことは出来ません。この私の願いが叶わないんだったら
私はずっと修行僧のままでいいですよ。阿弥陀仏に昇格したって
意味がないから・・・。

=== 最後に 注釈のp319を引用して終わります。

「心よく静まり、智慧顕われたならば、
 正しく法を見るものに、女性たることが何の障りがありましょう。
 われは男か女かと、かくのごとく惑って、
 そもそもわれは何ものぞや、と思う者こそ、
 悪魔が語るにふさわしいのです。」

(「悪魔が語る・・・」の意味が理解できません・・・)

・・・・・・・では、その4 でお会いしましょう。

 

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2017年4月30日 (日)

「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その2 - 親鸞の悪人正機説はここか?

さて、今回は、一番興味のある部分、48の請願の中の第18願
お勉強です。

Img_2574a



この本には、梵語(サンスクリット語)の和訳と漢文書き下しの
ふたつが掲載されていますので、まずそれを引用します。

サンスクリット語については、こちらで:
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%88
「釈迦の時代にはすでに日常の生活においてインド各地の地方口語
(プラークリットと呼ばれる)が用いられるようになっていたが、
その後にサンスクリットは逆に文書の公用語として普及し、宗教
(ヒンドゥー教・仏教など)・学術・文学等の分野で幅広く長い期間
にわたって用いられた。」

ー サンスクリット版の和訳 -

18.世尊よ。もしも、わたくしが覚りを得た後に、他の諸々の世界に
生ける者どもが、<この上ない正しい覚り>を得たいという心を
おこし、わたしの名を聞いて、きよく澄んだ心(信ずる心)を以て
わたくしを念いつづけていたとしよう。 ところでもしも、
かれらの臨終の時節がやって来たときに、その心が散乱しないように、
わたくしが修行僧たちの集いに囲まれて尊敬され、かれらの前に
立つということがないようであったら、その間はわたくしは、
<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

19.世尊よ。 もしも、わたくしが覚りを得た後に、無量・無数の
仏国土にいる生ける者どもが、わたくしの名を聞き、その仏国土に
生まれたいという心をおこし、いろいろな善根がそのために熟する
ようにふり向けたとして、そのかれらが、 -- 無間業の罪を
犯した者どもと、正法(正しい教え)を誹謗するという(煩悩の)
障碍に蔽われている者どもを除いて 
-- たとえ、心をおこすことが
十返に過ぎなかったとしても
、(それによって)その仏国土に
生まれないようなことがあるようであったら、その間はわたくしは、
<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

=== 上記への注釈をみますと:

p256
念い -- この語は、無量寿仏のすがたや諸の徳を心に
思い浮かべていることをいう。必ずしも称名念仏のことではない。」

p256
無間業とは五逆罪の異称である。 五逆罪とは、母を殺し、
父を殺し、阿羅漢を殺し、仏の身体から地を出し、僧団の和合を
破ることを言う。」

=== 一方で、漢文書き下しでは。

ー 漢文書き下し -

17.たとい、われ仏となるをえんとき、十方世界の無量の
諸仏、ことごとくシシャして、わが名を称えずんば、正覚を
取らじ。
(シシャ=讃歎すること。ほめたたえること。)

18.たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に
信楽して、わが国に生れんと欲して、乃至十念せん
もし、生ずれば、正覚を取らじ。 ただ、五逆(の罪を犯すもの)
と正法を誹謗するものを除かん

=== さて、この注釈を読んでみますと:

p308
念仏往生の願。 この願文は梵文和訳の19の後半に相当する。
・・・法然は十念往生の願名を斥け、善導の意図をとって
念仏往生の願と名づけている。
親鸞は「選択集」における法然の真意をうけて、この大願を
「教行信証」の信巻において、念仏往生の願、選択本願
名づけ、・・・・」

「この願は曇鸞以来、中国・日本の浄土教家たちによって、
四十八願中の眼目として重視され、願文の解釈は、各宗派の
教学の根本的立場を示すものとなった
。」

浄土宗では心に至心・信楽・欲生の三心を具足して、
口に称名念仏を相続する衆生を救うことを誓った本願とし・・・」

真宗は仏に向かって三心具足の念仏行を修するとはみずに
第十七願に誓われた諸仏称賛するところの名号を聞き、・・・
如来廻向の三心の起こるとき往生は決定すると解して、
称名念仏はそれ以降の仏恩報謝の行であるとする。」

=== この部分は 親鸞さんのいわゆる「絶対他力」への分かれ目
    でしょうか?
    念仏を唱えることも行とは考えずに、一心に阿弥陀様に
    お願いするという他力・・ということかな?

       確か、高校の授業で習った 「歎異抄」のところですね。

=== つまり、この部分の解釈の仕方で、宗派が分かれて
    いるってことのようです。
    なにせ、ひとつの経典が元でもいろいろ解釈はできる
    のに、さらに、梵語の経典、漢文の経典になると
    唐訳やら魏訳やら呉訳、おまけにチベット訳やらあるって
    言うんだから、なおさら大変。

    さらに注釈を読んでいきますと:

p317
乃至十念せん -- 十念ということが中国・日本の浄土教では
非常の重要な論題となり、善導大師によって 「十たび念仏を
(口に出して)声で唱えること
」 という意味に解されているが、
しかし原文によって見る限り、「極楽浄土に生まれたいと願う
心を十たび起こすことによってでも
」という意味である。」

=== どの経典をどのように解釈するかでいろいろあるみたい
    ですねえ。
    念仏ってのは、声に出さなくちゃいけないのか、
    何回言わなきゃいけないのか、心に思うだけでいいのか、
    いろんな説が飛び交っているようです。

    私としては、怠け者なんで、心の中で一回ってことに
    してもらいたいなあ・・・

 
=== ここで、もうひとつ重要なのが、
「 五逆(の罪を犯すもの)と正法を誹謗するものを除かん。」
の部分の解釈ですね。 「除く」ってところが問題。

親鸞さんの「悪人正機説」の分かれ道の部分です。

p312
「唯除の文は、五逆罪の者と正法をそしる者とは仏の救済から
除外される
と、古来、理解されてきたから・・・・

善導は・・・「大経」の文は衆生が二罪をつくることを恐れて、
予め方便をもって二罪を犯せば往生はできないとさとした
ものであり、仏の大悲ははじめから衆生を摂取するにある。 
また、「観経」に五逆だけをとり謗法を省いてあるのは、
五逆はすでに下下品の衆生がつくった罪であるから仏の
大悲は見すてることなく臨終の十念によって摂取したもうが、
謗法はいまだつくらない罪であり、もしもつくったならば
当然、救うと解している。・・・「謗法(ぼうほう)も闡題
(せんだい)も廻心すれば皆往く」と述べている。」

=== なかなか難しくて、はっきりとした理解は出来ないん
    ですが、多分、
    - 従来の理解は、五逆の罪と正法を誹謗するものは
      いかに阿弥陀様と言えども救ってくれませんよ。
    だったんだけど、親鸞さんなんかは、
    - 善導さんの解釈である、阿弥陀様は寛容な仏様
      だけど、ふたつの罪を犯しちゃアウトだよ。
      でも、仮にそれをやっちゃったとしても、
      死ぬ時にしっかり念ずれば救ってくれるのが
      阿弥陀さんの大悲ってもんですよ。
    ・・・・ってことなのかな??

    つまり、信心さえあれば、戒律を犯したとしても、
    阿弥陀様の有り難い絶対他力によって往生できますよ
    ってことでいいのかな??

以上、第18願を読みました。

次回 その3は、一足飛びに 第35願の 「女人成仏の願」に
行ってみましょう。

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「浄土三部経 -上ー 無量寿経 中村元ほか訳」を読む - その1

Img_2502

今、「無量寿経」を読んでいるんですけど、
その中に こんな文章がありました。

「かれは、求道者の行ないを実行しながら、自分や他人や自他両方を
傷つけるような言葉を口に出すのをやめて、自分や他人や自他両方に
利益と幸福とをもたらすような言葉を口にすること、そのことだけに
いそしんでいた。」

・・・これを、つい先日 復興大臣を辞めた議員、その他の政治家、
果ては海の向こうの大国の大統領などに、僭越ながら捧げたい気持ちです。

それはともあれ、
過去にこんな本を読みまして・・・・。

そもそもは、2010年頃に こんなことを書きました
「そろそろ棺おけが見える歳になると こんな本を読みたくなるらしい。」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/10/post-ed72.html

それと、フィリピンのバギオ市に住んでいると、
たま~~に、70年以上前の日本とアメリカ・フィリピンの戦争で
激戦地となった当地での亡霊、日本兵の戦没者の幽霊が出るから
慰霊をして欲しいなどという依頼が舞い込むことがあるので、
お経のひとつも読めないとまずいかなという出発点でした。

「「ブッダのことば」 中村元 訳 (1) お釈迦様の生の声 ?」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/02/post-b443.html

「その8 中村元著「龍樹」ー大乗仏教の思想- インドの浄土教ってどんなん?」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/12/post-5c59.html

「「あなただけの阿弥陀経」 を読む - その1」
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2011/11/post-cafd.html

それで、原始仏教にも立ち返って、既に7年ということになります。

ここで、阿弥陀仏=無量寿仏=アミターバ=法蔵菩薩と、同じ仏に
いろんな名前がありまして、混乱するんですが、
浄土三部経の中の大経である 「大無量寿経」に辿りついたわけです。

それで、その概略を復習してみると、こちらに書いていました:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2010/11/post-b2c1.html

「無量寿経には、法蔵菩薩の48の願いが書かれていて、
特にそのなかの第18願が大切なんですって。

その第18願と言うのは、
「すべての人々が、心の底から私を信じ喜び、浄土に往生したいと願い、
私の名を称えて、もし浄土に生まれることができなかったら、
私は決して仏にはならない」
と言ったとか、言わなかったとか。」

そこで、この第18願と、第35願にフォーカスして、他の所は
パラパラと読んでいくことにします。

第18願は 「念仏往生の願」
第35願は 「女人成仏の願」

などと呼ばれているそうです。

・・・・・・・・・・・・

p17
オーム。十万の、果てもなく、限りもない世界に安住される、
過去・未来・現在の、一切の覚った人たち、求道者たち、教えを聞く
修行者たち、独り修行をする修行者たちに礼したてまつる。
無量の光あるものに礼したてまつる。 無量の命あるものに礼し
たてまつる。 ・・・・」

=== いきなり 「オーム」で始まるんですねえ。
私の世代だと、オーム真理教のテロ事件を思い出すんで、あまり
良い印象はないんですが、本当は次のような意味なんだそうです。

p245(注釈)
「オーム・・・a・u・mの三字から成る言葉と解釈されて、
古来インドでは聖なる意味と神秘的な力を持つものとして尊ばれて
いる。 三字はそれぞれ、発生・維持・終滅をあらわし
この一語で全世界が成立しまた滅びる過程を象徴するのである。」

=== これはヒンデゥー教で同じような考え方があるそうです。

=== で、いきなりいろんな仏さん達の名前がたくさん出てきて
うんざりする文章が続くんですが、その中に 「アーナンダ」さんと
言うちょっと馴染みの名前もありました。

それで、この本の場面設定としては、このアーナンダさんが
師であるブッダ(お釈迦様)にいろいろと質問をして、
それにお釈迦様が答えるという書き方になっています。
「仏説無量寿経」ですから、お釈迦様が説くお話ってことですね。

p21
「アーナンダよ、如来は、もしもそうしようと思えば、
一食分の施された食物で、一劫の間この世にとどまることが
できるであろう。 あるいは百劫も、あるいは千劫も、百千劫も、
あるいは百千億の百万倍の劫に至るまでも、あるいはそれを
過ぎてもなおこの世にとどまることができるであろう。」

=== まあ、こういう表現が何回も出てくるとウンザリして、
    中国の白髪三千丈なんてのも目じゃないなと思うんですが、
    インドはこういう発想なのか、あるいは、宇宙そのもの
    がそういうものだと言うことが当時から分かっていたのか。
    小国じゃあ無理・・・笑

    ちなみに、「劫」というのは、
    「想像を絶するほどに永い時間」のことだそうですよ。

    ところで、ここに出てくる「如来」ってのが
    阿弥陀如来のことのようです。つまり無量寿仏ってことですね。

p22
「アーナンダよ、(他人の)福利を願い、利益を尋ね、なさけの
心あり、大悲を実行する如来
たちの出現は得がたいことだ。」

=== そして、またまた、この後、3ページ半に渡って、
様々な仏さまたちの名前が延々と書いてあるんです・・・
そして、その後にやっと、以下の文章が出て来ます・・・

p26
「アーナンダよ。 シンハ・マティよりもさらに前に、ローケーシヴァラ
ラージャ(世間において自在である王、世自在王)という名の如来・
敬わるべき人が世に出られた。かれは、正しく目さめた人・知も行も
共に具わっている人・・・・・・・・世尊であった。
アーナンダよ。 そのとき、また、・・・ローケーシヴァラ・ラージャ
如来が教えを説かれたときに、きわめて記憶力のある、理解力のある、
叡智のある、きわめて努力精進する、高大な理解力のある、
ダルマーカラ(法蔵)という名の修行者がいたのだ。」

=== はい、これは何かといいますと、話の中の話で
    誰が誰に教えたのかってことです。
    ローケーシヴァラ・ラージャ(世自在王)というのが
    阿弥陀仏(無量寿仏)の先生だったんですねえ。
    その世自在王に教えられた人が阿弥陀仏さんで、
    別名を法蔵菩薩とかダルマーカラとか無量寿仏とか
    呼んでいたらしい。

    つまり、お釈迦さんがアーナンダさんに説法する中の
    話で、世自在王さんが、法蔵菩薩さんに説法していた
    内容がここに書かれるわけです。

    要するに、法蔵菩薩さんが聞いた話を、アーナンダさんが
    お釈迦様から聞いているってわけ。

p26
「アーナンダよ。 そのとき、かの修行僧ダルマーカラは
座から起き上がり、一方の肩に上衣をつけ、・・・この世尊
ローケーシヴァラ・ラージャ如来に向かって合掌し、・・・
このような詩句によって讃えて言った - 」

=== はい、法蔵菩薩(阿弥陀)さんが、世自在王さんを
    大いに讃える詩句がここで続きます。
    例えばこんな感じ:

p27
「智力かぎりなく、たとえるものなき、無量の光明ある仏よ。
 ・・太陽、宝石の光りや、月の光は
 それらの光りで、一切世間に輝くことはないであろう。」

「得られた法は深遠にして、広大で、細やかな理法が体得された。
・・・心の荒みと憎悪とを捨てて、彼岸に渡られた。」

=== これがまた、3ページほど続きまして。

    いよいよ、無量寿仏(阿弥陀)さんの請願の部分
    突入していくわけです。

p31
「さて、アーナンダよ。 かの修行僧ダルマーカラは、
・・・・世尊ローケーシヴァラ・ラージャ如来の両足を頭に
頂いて敬礼し、・・・・もとから退いた。 それからさらに
五劫の間、・・・仏国土のみごとな特徴や装飾や配置の完成
おさめとった。 そうして、さらに広大な請願を起こした
のであった。」

=== ここで「仏国土の見事な特徴や・・・」と言うのは、
この後に書かれている 「極楽浄土」の素晴らしさのことの
ようです。 「天国良いと一度はおいで・・・」の部分ですね。

それでは、請願の部分は その2 で書きたいと思います。

お付き合い有難うございます。

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niftyに障害の届けは出してありますが、未だに処理されておりません。

「フィリピンの歴史教科書から学ぶ- 22-23  第8回目の授業 バギオ心霊療法の真偽」

・・・に、コメントを書き込んでいただいた MR.KDさんへの返信です。

Mr. KDさん、
コメントを有難うございます。
私は「無駄だからやめとけ」と言います。
理由は、過去1回は通訳として立ち会い、
その他2回は、場所の案内だけで関わったことがありますが、いずれも日本に帰国後 「検査してもらったら、取り除かれた筈の患部に変化はなかった」という報告をいただいたからです。

 

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