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2017年5月13日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 106  革命前夜 ホセ・リサールとボニファシオ

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

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「リサール博士とカティプナン」 

1896年6月、ピオ・ヴァレンズエラ博士はボニファシオの特使

として、ダピタンに向け出航し、来るべき革命へのリサール博士の

支援を求めた。 スペイン当局の眼から本当の使命を隠すため、

彼はリサール博士の専門的サービスが必要な盲目の男を連れて

行った。ダピタンに到着するや、直ちに、彼は追放された英雄

に相談した。  

ヴァレンズエラによれば、彼の回顧録の中で、リサールは反乱を 

開始するカティプナンの計画に賛成しなかったとされる。

それは、人々は未だ準備が出来ていないとの理由だった。

また、リサールは、カティプナンが彼を救出するという計画にも

反対した。 リサールは、当局に対し、逃走しないと約束し、

その約束を守るとしたからであった。

ヴァレンズエラは、革命的な策略にリサールの支援を確保すると

いう使命に失敗し、マニラに戻った。 ボニファシオがその特使の

報告を聞いた時、かっと怒り、強い調子で言った:

「まったく!  リサールはどこを読んでいるんだ。  

革命の為にあなたが最初に船と武器を持つべきじゃないのか? 

どこを読んでいるんだ?」

(このボニファシオの怒りの言葉は、イマイチ翻訳の自信は

 ありません。)

 

「カティプナンと日本」

革命を計画中に、カティプナンはその眼を日本に注いでいた

その当時、日本は西欧からの圧迫に対抗してアジアの解放を

すべき見込みのある擁護者としてぼんやりと浮かび上がって

いたからである。

1896年5月、カティプナンの代表団が、ジャシントと

ボニファシオに率いられて、訪問中の日本海軍将校と日本領事

マニラのジャパニーズ・バザールで相談をした。

通訳は モリトリ・タガワで、ブラカン州ボカウエの

フィリピン人女性と結婚していた。

彼はヴァレンズエラの友人でもあった。

p232

通常の挨拶を交わした後、ジャシントは日本の天皇へのカティプナンの 

覚書を提出した。 その中で、「日本を照らす解放の光が、フィリピン 

の上にもその光線を及ぼすように」、企画された革命の中で、日本の

助力をフィリピン人は祈っていた。

 

それは、カティプナンが日本の助力と同盟を懇願する良い理由で

あった。 その国はフィリピン人に対してずっと友好的であった

スペインの圧政から逃げた多くのフィリピン人たちは、日本で

歓迎され、日本の法律の下で完全に保護された。 ボニファシオは

日本で武器弾薬を購入しようとしたが、資金不足で失敗した。 

=== さて、日本がかなり期待されていたようですが、

    残念ながら上手くいかなかったようです。 

ここで、その当時の日本はどういう時代であったのかを

ちょっと振り返ってみましょうか。

1896年ごろ・・・・

日本はイケイケで軍事力を増強していた時代だったんですね。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB#.E5.B9.B4.E8.A1.A8

 

1883年(明治16年) 陸軍大学校開設。鹿鳴館開館。

1888年(明治21年) 海軍大学校開設。

1889年(明治22年) 大日本帝国憲法発布

1895年(明治28年) 下関条約で日本が台湾・澎湖諸島

遼東半島を獲得

1902年(明治35年)日英同盟締結

1904年(明治37年)日ロ戦争―1905年

1905年(明治38年)日本海海戦 

一方、フィリピンの年表は:

http://pichori.net/Philippines/history/philipino_chronology.html

1892年、ホセ・リサール帰国。「フィリピン同盟」を結成。
同年、ホセ・リサール、ダピタン島へ流刑。
同年、独立革命をめざす秘密結社カティプーナン結成。

1896年、カティプーナン機関誌「カラヤーン(自由)」創刊号発行。
同年、日本海軍練習艦金剛マニラに入港、カティプーナン代表が支援要請。
同年、ホセ・リサールの流刑生活が終わり、スペインに到着。
    カティプナンの独立闘争が開始され逮捕。
同年、アンドレス・ボニファシオ、武装蜂起(バリンタワクの叫び)
同年、エミリオ・アギナルド、カビーテで武装蜂起。
同年、ホセ・リサール、ルネタ(Luneta)で銃殺。

1897年、 米西戦争勃発、米軍マニラ占領。
エミリオ・アギナルド
、カビーテでフィリピン独立を宣言。  

「カティプナン 戦争を準備」

1896年の中旬までに、カティプナンは自由の為のストライキを

準備していた。 そのメンバーは設立いらい増えて、1896年

までにおよそ20,000人に到達していたと見積もられた。 

戦争の計画もボニファシオとジャシントによって準備され、

カティプナンの軍事オペレーションの戦略とされた。 

「カティプナンの発覚」

カティプナンが革命の準備に忙しくしていたころ、その存在に

ついての様々な告発がスペイン当局に届いた。

・・・・

1896年8月19日に、カティプナンはついにスペイン当局に

よって発見された。

・・・・

警告をされた、特にボニファシオ、ジャシント、そしてその他の

者たちはなんとか逃げて隠れることができた。

 

=== さて、さて、ホセ・リサールさんは ボニファシオさんと

    意見が合いませんでした。

    バギオの地元の若い人に聞いたことがあるんですけど、

    最近の人はどうもボニファシオの方が偉かったと

    思っているようです。

    学校なんかで学ぶ本としては、やっぱりリサールさんの

    方が圧倒的だと思うんですが。

    私は随分前にホセ・リサールの有名な二冊の本を

    読んだ時には、「今のフィリピンにもホセ・リサールが

    5人ぐらい必要だな」と思ったものでした。

 

    それはともあれ、今の日本は 他の国から期待される

    ほどの力と技量がありますかねえ?? 

・・・では、次回は 「第18章 フィリピン革命」 に入ります・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月12日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 105  暴力革命を目指すカティプナンとボニファシオ

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

 

さあ、いよいよフィリピン革命の始まりです・・・

 

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「カテイプナンの結成」

アンドレス・ボニファシオは リガ・フィリピナのメンバーであったが、

Compromisariosには参加しなかった。 それは保守的な知識人

(マビニやアンブロシオ・リアンザレス・バウティスタのような)

や、裕福な商人(ドミンゴ・フランコのような)のグループであった。

そして、ボニファシオは、貧しくて、行動の人であり、過激

考え方をしていたからだった。

彼は、フィリピンの人々の幸福と福祉は、改革への平和的な請願

では達成できず、暴力革命によるしかないと確信していた。

 p228

1892年7月7日の夜、彼と数人の、彼と同様に過激な愛国的な

友人が、・・・秘密裏に集まった。

この秘密会合で、彼らは秘密の革命共同体を結成した。

これは 

Kataastaasan Kagatanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan 

(Highest and Respected Soiety of the Sons of the People)  

(人々の息子たちの最高にして尊敬さるべき共同体)と呼ばれた。

あるいは、 K.K.K. 又は 簡潔に カティプナンとして知られている。 

K.K.K.の目的は、 

(1) フィリピン人を団結させる、 

(2) フィリピン独立の為に戦う

であった。

カティプナンの出現はフィリピンの歴史において顕著なものであった。

第一に、それは改革の為の平和的なキャンペーンの終焉であり、

武力革命運動の幕開けであった。

そして、第二に、フィリピンの人々は、絶望の中にあって、

もはや単なる改革を望まず、完全な独立を熱望したのである。

 

「カティプナン政府」

単なる秘密の共同体を超えて、カティプナンはそれ自体で

政府であった。  それは二つの憲法を持った。

最初の憲法は1892年に広められ、二番目(最初の憲法の

置換え)は1894年に公布された。

カティプナンの中央政府は最高協議会の中に、代表、

法務、書記長、財務そして監査を置いた。

それぞれの州には、州議会を置き、町ごとに民政議会を

置いた。 

カティプナンの初代の代表は、デオダト・アレラノで、

彼はマルセロ・H.・デル・ピラールの義理の兄弟であり、

ボニファシオの友人でもあった。

・・・・

 

p230

「カティプナンの文学」

カティプナンの3人の著作者は、ボニファシオ、ジャシント、 

そしてピオ・ヴァレンズエラ博士であった。

彼らは人々の愛国心を盛り上げる為、愛国的精神を起こす為に

扇動的文学を書いた。

・・・・・・ 

エミリオ・ジャシントは、サント・トーマス大学の若い法学部の

学生で、一番若く(19歳)そして最も知的であり、

最高の作家でもあった。

彼は、ボニファシオへの助言者となり、カティプナンの文書の

ほとんどを作成し、これによって、「カティプナンの頭脳」と

して知られるようになった。・・・・

ヴァレンズエラ博士はボニファシオやジャシントを助けて

KalayaanLiberty 自由)というカティプナンの新聞

編集した。

・・・・・

「 「Kalayaan(自由)」、カティプナンの機関誌」

1894年、カティプナンは、ビサヤ地方の愛国的フィリピン人

二人からの寛大な寄付金で、古い手動印刷機を購入した。

・・・この二人はオーストラリアで数年働き、その国で

福引の賞金を獲得したのだった。

・・・

 

印刷機の存在は極秘とされた。

ジャシントの監督の下で、二人の印刷者、ファウスティノ・ドゥクゥ

とウルピナオ・フェルナンデスは、カティプナンの機関誌である

Kalayaanを印刷した。

この革命的新聞は社会の理想を広めるために、ジャシントによって

創設された。 創刊号は1896年1月に出来上がった。

スペイン当局の眼を欺くために、発行人欄を偽り、編集者は

マルセロ・H.・デル・ピラールとし、横浜で印刷された

ことにしていた。

 

p231

「フィリピン独立の産声」

1895年の聖週間に、ボニファシオとKatipunerosの一団は

Montalbanの山々を偵察し、秘密会議を開く為の良い隠れ家を

探した。・・・・・

=== Katipunerosの意味は、こちらです:

Katipuneros

http://en.wikipilipinas.org/index.php/Katipuneros

List of Notable Katipuneros

これから判断するに、カティプナンのメンバーのことを

カティプネロスと呼ぶようです。 

1895年4月10日、ボニファシオと彼の仲間は

Bernardo Carpioの洞窟に入り、そこで秘密会議を開いた。

その会議の後、アウレリオ・トレンティノが炭の一片を

拾って、洞窟の壁にスペイン語でViva  la  Independencia Filipina!

(フィリピン独立万歳?)と書いた。

これがフィリピンの歴史に於ける フィリピン独立の産声であった。

 

==== さあ、いよいよフィリピン革命に向けての

     産声があがり、これから革命に向けて動きだします。 

・・・・ 次回 シリーズ 106号では 日本との関係も出てきます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 104  フリーメーソンとホセ・リサール One Like All

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

 

 

=== さあ、フリーメーソン(あるいはフリーメースン)が出て来ました。

    私のイメージは、秘密結社、世界的、陰謀論・・程度なんですが、

    フィリピンのバギオ市に来たら、フリーメーソンの看板が

    掛かった建物があって、おおっぴらだったんで驚きました。

    ちなみに、私にフィリピンの歴史を教えてくれている

    元大学教授もフリーメーソンだそうです。

    全然秘密でもなんでもありません。

 

フリーメイソン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3

フリーメイソン: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社
現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。

なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド・ロッジは「フリーメイスン」と表記している。

===それでは、さっそく本題にはいりましょう。

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p225

 

「フリーメーソンとプロパガンダ運動」

 

フリーメイソンはプロパガンダ運動で著しい役割を演じた。

多くのフィリピン人愛国者がフリーメーソンになった。

その中には マルセロ・H.デル・ピラール、G. ロペス・ジャエナ、

 

リサール、ポンセ、等がいた。 なぜなら、彼らは

改革の為に戦う上で、スペインやその他の海外のフリーメーソンの

助けが必要だったからである。

 

最初のフィリピン人フリーメーソン・ロッジrevolucionと呼ばれた、

はロペス・ジャエナによってバルセロナに設立され、1889年

4月に ドン・ミゲール・モライタが率いる グランデ・オリエンタル・

エスパノールによって認められた。

残念なことに、この最初のフィリピン人フリーメーソン・ロッジは

長くは続かなかった。

それは、1889年11月29日に尊敬すべきマスターの地位から

ロペス・ジャエナが退いた後に消滅した。

 

翌月、M.H.デル・ピラールは、ジュリオ・ロランテの助けを得て、

マドリードに ロッジ・ソリダリダッドを組織した。

・・・・やがて、ロッジ・ソリダリダッドは成功し、

他のフィリピン人たちも参加した。 そこには、リサール博士、

 

ペドロ・セラノ、バルドメロ・ロハス、ガリカノ・アパシブルなど

がいた。

スペインとフィリピンの全てのフィリピン人フリーメーソン・ロッジ

はプロパガンダの拠点となった。 彼らはスペインでの

改革のキャンペーンを支える必要資金を調達した。

 

=== このフリーメーソンですけど、日本ではかなり

    秘密結社で、陰謀がらみの話が多いようですけど、

    幕末ごろに日本でもフリーメーソンが関与して

    いたんじゃないかという話もあるみたいですね。

    確かに、誰が黒幕になって、資金を提供していたのか

    という点では気になるところです。

 

ちなみに、こんな本も出版されているんですねえ。

龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) 文庫」

https://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95-%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%A8%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E9%83%A8%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8A%A0%E6%B2%BB-%E5%B0%86%E4%B8%80/dp/4396335067

 

 

 

p226

「ヒスパノ-フィリピナ協会」

 

フィリピン人のプロパガンディスト及びスペインの協力者たちは

フィリピンの改革を確実にするために 1889年1月12日に

マドリードで ヒスパノ-フィリピナ協会を組織した。

・・・・

 

 

p226

「リガ・フィリピナ」

香港に住んでいる間に、リサールはフィリピン人によって構成

される市民団体を設立するアイデアを考え出した。

彼はそれを リガ・フィリピナ(フィリピン・リーグ)と呼んだ。

・・・・

 

 

1892年7月3日の夜、リサールは リガ・フィリピナ

(フィリピン・リーグ)をトンドのイラヤ通りにある家で

 

設立した。 その規約によれば、リーグの目的は次の

ようなものである:

 

1. 諸島をコンパクトで、強健な、均一な体制に統合する。

2. 緊急の必要があるいかなる場合にでも相互に助け合う。

3. すべての暴力や不正義に対して防戦する。

4. 教育、農業、商業の推進。

5. 改革の為の学習と実践。

 

 

このフィリピン・リーグのモットーは  Unus Instar Omnium

 

One Like Allであった。

その役員は以下の通り:

代表 アンブロシオ・サルバドール、

財務 オーガスティン・デ・ラ・ロサ

・・・・

(ここで、fiscalを財務と書いたんですが、スペイン語だと弁護士の

 意味があるようです。 財務のteasurerは別の人がいるので

 職務の内容が団体内部の規律を保つための役職のよう

 なので弁護士というか監査役のようなものかもしれません。)

 

 

 

p227

会員の中には次の名前があった、

アンドレス・ボニファシオ、アポリナリオ・マビニ

・・・・・・

 

リーグ・フィリピンはフィリピン人の市民団体であった。

その規約には、フィリピン全土の為の最高裁判所の設立

各州ごとの州議会、そして町ごとの民政議会

規定されていた。 ・・・・・

 

しかし、リーグの設立後3日で、リサールは逮捕された。

1892年7月14日、リサールは ミンダナオの

ダピタンに流刑となり、1896年まで刑に処された。

 

 

=== モットーの「One Like Allってのはどういう意味

    なんでしょうね。

    「一人はみんなの為に」ぐらいの意味になるん

    ですかね???

    「一人がみんなのように」???

 

リガ・フィリピナについては、こんなサイトがありました:

Today in Philippine history, July 3, 1892, Dr. Jose Rizal founded the La Liga Filipina

https://kahimyang.com/kauswagan/articles/735/today-in-philippine-history-july-3-1892-dr-jose-rizal-founded-the-la-liga-filipina

 

 

こちらのサイトでは、英語でのモットーが

http://worldfactsandknowledge.expertscolumn.com/article/filipino-reformist-movement-called-la-liga-filipina

 

The motto of La Liga Filipina is “Unus instar omnium” or “one like the others”.

 

One Like All ではなくて、 One Like The Others になっています。

しかし、その意味の解説は残念ながらありません。

 

こちらのサイトには以下のような文面があります:

https://www.pressreader.com/philippines/manila-bulletin/20160704/281878707690955

 

La Liga Filipina whose motto was Unas Instar Omnium – “One Like All”

- Involved  the people directly in the reform movement, through mutual

Aid, self-help, and setting up of cooperatives.

 

これが団体の趣旨に近いとするならば、改革運動に直接的に

人々を関与させる、そして、相互に助け合う・・・ということの

ようですので、「一人は皆のために」ぐらいの訳がいいかもしれません。

(自信はないですよ・・教えてください。)

 

=== この市民団体のメンバーの中に

    将来武力革命の立役者になるアンドレス・ボニファシオ

    入っていたんですね。

 http://ph-inside.com/site/hero/profile/07.htm

 

 

 

 

・・・では、次回は 「カティプナンの結成」を読みます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 103 フィリピン文学の開花とリサールの風刺演劇

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

 

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p223

 

La solidaridad、プロパガンダ運動の組織」

 

プロパガンダの目的を宣伝するマス・メディアの重要性を認識し、

グラシアノ・ロペス・ジャエナは 隔週発刊の新聞 

La Solidaridadを、バルセロナで、1889年2月15日

設立した。

この日の創刊号で、ジャエナは大胆にも、彼の社説で

La Solidaridadの目的を以下のように宣言した:

(1)フィリピンの惨めな状況を鮮やかに描く、

(2)政治的及び社会的改革を平和的に行なう、

(3)中世的及び反動的な悪の力と闘う、

(4)自由主義の考えと発展を主唱する、

(5)民主主義と幸福の為のフィリピン人の合法的な願望を

擁護する。

 

p224

La Solidaridadは2月15日から1889年10月31日まで

バルセロナで印刷され、その後、マドリードに移って、

1889年11月15日から1895年11月15日に最後の

発行をするまで印刷された。1889年12月15日に、

M.H.デル・ピラールがジャエナに代わり、編集者となった。

そして、7年間存続して、1895年11月15日に

La Solidaridadが活動停止するまで続いた。

 

La Solidaridadへの貢献者は主にフィリピン人で、

以下の人々であった。

M.H.デル・ピラール、ホセ・リサール博士、マリアノ・ポンセ

・・・(以下多くの人の名前を列挙)

 

La Solidaridadの最終号(1895年11月15日)で、

M.H.デル・ピラールは彼の別れを告げる社説で、

「我々は確信しています。 何の犠牲も無いということでは、

 奴隷制度で抑圧された国に権利と自由を勝ち取ることは

 ほとんど出来ないということを。」と書き記しました。

 

=== おそらく、ここでは、敗北宣言ということに

    なるのでしょうか。

    それが、その後の改革から革命、平和的運動から

武力闘争に変化するってことですかね?

 

ところで、これは半分冗談ですけど、

ある事業に貢献した人たちの名前をたくさん

列挙するというのは、こういう教科書にも

その伝統が表れているんでしょうかねえ。

いろんなイベントやらに参加すると、

そのイベントに協力した偉い人たちがいちいち

紹介されるというのが、フィリピン・スタイル

なんですよねえ。

それも、一回ならいいんだけど、スピーチを

する人たちが同じことを言うんだよねえ。

日本のスピーチは簡略で、長々とやると

嫌われますけどね。

 

 

p224

「プロパガンダ運動の文学」

 

政治的精神ではあったが、プロパガンダ運動は、フィリピン文学

の開花に貢献した一定の賞賛すべき文学作品を産み出した。

それは最初のフィリピン小説 Ninayを産み出し、それは

法学博士であり文筆家のペドロ・A・パテルノ博士によって、

1885年にマドリードで出版された。

・・・・

 

=== この小説については、以下のサイトで詳細を

    ご覧ください:

Nínay

https://en.wikipedia.org/wiki/N%C3%ADnay

 

Nínay is the first novel authored by a native Filipino. Originally written

in the Spanish language by Pedro Alejandro Paterno when he was

twenty-three years old and while living in Spain in 1885, the novel was

 later translated into English in 1907 and into Tagalog in 1908.

 

・・・ここにあるように、フィリピン小説とはいいながら、

最初は1885年にスペイン語、1907年に英語、

そして、1908年にタガログ語に翻訳されているんですね。

 

・・・で、どんな小説なのかっていうと:

 

The novel explores the life and love story of the female protagonist

named Ninay, a heartbroken young woman who died of cholera.

Her heartbreak was due to her separation from her lover Carlos

Mabagsic. Ninay's misfortune became harder to bear because of the

 loss of her parents.

 

小説のタイトルは主人公の女性の名前なんですね。

そのニナイの、人生と愛の物語だそうです。

失恋をして、両親を亡くして、コレラで死んじゃうんですね。

悲しいですね。

 

 

p224

グレゴリオ・サンシアンゴは、エコノミストで法学博士でも

あったのですが、El Progreso de Filipinas(マドリード、1881年)

という本と、フィリピンの植民地経済と政治の学術論文を著した。

M.H.デル・ピラールは、法律家でジャーナリストですが、

政治的なパンフレット著者として優れていました。

・・・・・

 

 

p225

リサール博士は、もちろんプロパガンダ運動の最高の著作者でした。

彼の有名な小説(Noli Me Tangere と El Filibusterismo)に加えて、

文学的価値のある多くのエッセーや詩を著しました。

彼はまた恐るべき論客で、中傷者への皮肉な返事で明らかでした。

その中傷というのは、とりわけ La Vision del Frey Rodrigues

(1889年)で、その中で、ホセ・ロドリゲス修道士という

ノリメタンヘレを攻撃した最初の修道士の愚かさと無能さを暴露し;

そして Por Telefono(1891年)で、ノリメタンヘレを

禁止しようと検閲委員会の報告書を書いた サルバドール修道士を

風刺したのでした。

 

 

=== この著書については、こちらにサイトがあります:

下のサイトでは Frayとありますが、教科書には Freyとなって

いますね。

下のサイトの英文には The Vision of Friar Rodriguez となって

いますので、 FreyFray=Friar=修道士と考えられます。

 

La Vision de Fray Rodriguez

http://en.wikipilipinas.org/index.php/La_Vision_de_Fray_Rodriguez

La Vision del Fray Rodriguez (The Vision of Friar Rodriguez) is a satire
written by Philippine national hero, Jose Rizal, pictures a conversation
between Saint Augustine and the Augustinian priest Friar Jose Rodriguez.

To counter the effects of “Noli Me Tangere,” especially those from
Fr. Jose Rodriguez, Jose Rizal wrote “La Vision del Fray Rodriguez”
(The Vision of Fr. Rodriguez) through a small pamphlet. He used his
pen name Dimas Alang (Cannot be Touched) and made it as a satire
with a simple plot.

Por Telefono

http://en.wikipilipinas.org/index.php/Por_Telefono

Por Telepono or By Phone is a play written by Philippine national hero,
 Jose Rizal. It discusses social issues and plans for the Philippines
by two Friars.
It was published in 1889 as a reply to a friar named Fr. Salvador Font
in connection to his discrimination about Noli Me Tangere and for
initiating the banning of Noli in the fall of 1889. The first pamphlet was
printed in Barcelona under the authorship of Dimas Alang.
Por Telefono is a satirical comedy about Father Font, who was
at Madrid speaking with a provincial priest in San Agustin Monastery
using a telephone line that is spear-headed by The Trans-Oceanic
Telephone Co.

=== これは、ホセ・リサールが Dimas Alangという名前で書いた
風刺コメディーの演劇のようですね。

 

・・・・ 次回 シリーズ 104号には フリーメースンが登場です。・・・

 

 

 

 

 

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2017年5月11日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 102  ホセ・リサール と プロパガンダ運動

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

Img_2755

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

p221

「プロパガンダ運動が願った改革」

 

プロパガンダ運動は革命的でもなく、又治安を乱すようなものでも 

なかった。 その運動を率いた者たちはスペインに忠実であった;

彼らは単に改革を望んだだけで、独立を求めたわけではなかった。

彼らが求めた改革とは以下のようなものであった;

1.法の下にフィリピン人とスペイン人が平等であること。

2.スペインの正規のいち地方としてのフィリピンの融合。

3.スペイン議会でのフィリピン代議員の復帰。

4.フィリピン教区教会のフィリピン化と修道士の排除。

5.言論の自由、出版の自由、苦情への補償について集まり

陳情をする自由などの、フィリピン人の人権。

 

p222

「プロパガンディスト(運動員)」

プロパガンディストは良家の子弟たちであり、高い教養があり、

教育を受け、愛国的で、そして勇敢であった。 彼らは

フィリピンの成人男性の精華のシンボルであった。

これらのプロパガンディストの中でも、偉大な一人は

ブラカンの マルセロ・H・デル・ピラールで、彼は

法律家でありジャーナリストでもあり、雄弁なタガログと

修道士の虐待に対して恐れずに貧乏人を守ったことで、

多くの人々に愛されていた。

その他のフィリピン人プロパガンディストで言及すべきは、

医師―小説家で多くの輝きをもつ天才 ホセ・リサール

プロパガンダ運動の最高の演説家 グラシアノ・ロペス・ 

ジャエナ; 医学生で伝記作家の マリアノ・ポンセ

・・・・

 

「プロパガンダ運動の海外の友人たち」 

フィリピン人プロパガンディストたちは改革の為のキャンペーンを

自分たちだけでやったわけではなかった。 彼らは自由と正義を

愛する海外の人々にも支えられていた。 その中の一番は、

オーストリア人教授、学者、そしてリサール博士の友人であった

フェルディナンド・ブルメントリットだった。

彼はリサールの二つの小説(ノリとフィリ)を称賛し、Morga

Sucesos de las Islas Filipinas(1890年パリ)の リサールの

注釈版に「序章」を書いた

 

=== さて、上記のMorgaについての関連記事はこちらです。 

Antonio de Morga

https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_de_Morga

He was also a historian. After being reassigned to Mexico, he published

the book Sucesos de las islas Filipinas in 1609, considered one of the most

important works on the early history of the Spanish colonization of the Philippines.

このモルガが書いたフィリピンに関する歴史書に

ホセ・リサールが注釈版を出したようです。

このシリーズの36号でこのように書かれていました:

36 フィリピン植民地は赤字経営だった」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/06/36-95aa.html 

多くのスペイン人の著者とは異なり、Morgaは偏見無しに書いています.
フィリピンの最大の英雄であり学者であったホセ・リサール博士は、
Morga
の本に感銘を受け、1890年にパリで、彼自身が注釈を
 
付けて、その本を再出版しているのです.

=== おお、素晴らしい. そんな本があったんですね.
    このホセ・リサールによる注釈というのがここにありました:

    「http://joserizal.info/Writings/Other/morga.htm

    その元になった、Morgaの本の英語版はここにありそうです:    「http://www.gutenberg.org/ebooks/7001?msg=welcome_stranger

 

=== しかし、上記の「偏見無しに」というのは やや疑問も

    あるようで、インターネットで検索してみると

    「偏見や間違いがあったから リサールが注釈版を書いた」

    と観る向きもあるようです。

 

Rizal's annotation of Sucesos De Las Islas Filipinas by Princess Siasit ...

https://prezi.com/.../rizals-annotation-of-sucesos-de-las-islas-filipina...

2013/09/26 - Spanish conquistador, gov't official, and historical anthropologist; author of Sucesos De Las Islas Filipinas ... Modern historians (including Rizal) have noted that Morga has a definite bias and would often distort facts or even ...

=== 原典を読めばわかるんでしょうけど、私に能力はありません。
あしからず・・・
フィリピン人の歴史の教授に聞いてみることにしましょう。

p223

「1888年の 反―修道士・宣言」 

1888年3月1日に、マニラは騒々しい出来事で封鎖された。

これは数百人のフィリピン人愛国者たちによる反修道士のデモで、

マニラの愛国的法律家であった ドロテオ・コルテスによって

率いられたもので、背後には M.H.デル・ピラールと、ロンドンで

教育を受けた裕福な商人でありフリーメーソンの指導者である

ホセ・A・ラモスがいた。

・・・・

この「1888年の反修道士宣言」は、反フィリピン人大司教の

ペドロ・パヨと悪徳修道士を非難し、運動への干渉、清貧への

修道士の誓いに反する彼ら自身の蓄財、フィリピン人への

スペイン語教育への反対、そしてフィリピンを反啓蒙主義に

維持しようとすることを告発した。

このデモは、フィリピンから修道士たちを追放することを

求めた。

この1888年の反修道士のデモと宣言の結果として、

権力を持つ修道士たちは宣言の指導者や歌手たちを迫害によって

報復し、彼らを逮捕させ、牢獄に放りこませた。

幸いにも、スペイン女王Regentは、1889年に愛国的デモ

参加者たちの恩赦を発令した。

 

=== 実に国際的なプロパガンダ運動ですねえ。

    もちろんスペインの植民地政策にたいする

    改革運動ですから、国際的にならざるを得ないの

    ですが、日本史で学ぶ日本国内の様々な出来事

    とはかなり雰囲気が違いますね。

 

・・・では、次回 シリーズ 103号を 宜しくお願いします・・・ 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 101 プロパガンダ運動とカティプナン

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

今日は記念すべき「第101号」なんですが、随分とさぼって

しまいました。 昨年の11月以来のカンバックです。

前回の100号は こちらです

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/11/100-f238.html

 

さて、今日からは新しい章に入ります。

いよいよ、ホセ・リサールの登場です。 

Img_2758

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」 

p221

GomBurZaの殉教は、フィリピン人愛国者を脅かす代わりに、

スペイン支配の悪と闘うことをさらに決意させた。

ホセ・リサール博士、M.H.デル・ピラール、そしてグラシアノ・ロペス・ 

ジャエナに率いられたillustrados(フィリピン人の知識階級)は、

プロパガンダ(主義の宣伝)運動を組織し、それによって改革への

平和的な聖戦が始まった。

これらの愛国者たちはプロパガンディストと呼ばれた。それは

彼らが、フィリピンに於けるスペイン支配の欠陥と、それを

治すための改革が急務であることを暴露しする為に、ペンと弁舌の

手段で運動を遂行したからであった。

プロパガンダ運動は失敗に終わった。 しかし、自由と正義の思想は、

1896年8月にBalintawakの丘で、カティプナンとアンドレス・

ボニファシオが始めたフィリピン革命への道を開く種をまくことと

なった。 

=== illustradoについて、詳しくはこちらでどうぞ:

https://en.wikipedia.org/wiki/Ilustrado

The Ilustrados (Spanish for "erudite,""learned”, or "enlightened ones"])
constituted the Filipino educated class during the Spanish colonial period
in the late 19th century.

They were the middle class who were educated in Spanish and exposed
to Spanish liberal and European nationalist ideals.

p221

「プロパガンダ運動の興隆」

1872年以降、フィリピンの状況はさらに悪くなった。

フィリピン人指導者たちのスペインの流刑地への国外追放、知識人への

迫害、そしてスペイン人の主人たちによる虐待は衰えることがなかった。

1872年のフィリピン人亡命者たち及び多くの海外の愛国的学生たちは、

香港、シンガポール、バルセロナ、マドリード、パリ、ロンドン、そして

その他の外国の都市で集まった。 共通の理由に触発され、彼らは

連帯し、父の国の福祉と幸福を増進する為の仕事に身を捧げた。

果敢に、しかし平和的に、著述と弁論を通じて、スペインの植民地

制度の悪を正すための改革運動を実施した。

この改革のための平和的なキャンペーンは、フィリピンの歴史の中では、

プロパガンダ・ムーブメント」として知られた。

それはGomezBurgos、そしてZamoraがルネタで処刑された1872年

に始まり、1896年、リサールがDapitanに流刑された年に

終わりを迎えた。 

=== 今回は短いですが、ここまでです。

    久しぶりの翻訳なんで、乗りが悪いんです。

ホセ・リサールさんが書いた著書については、こちらのページに

紹介してありますので、ご参考まで。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/09/post_a44c.html

なんと、2005年に読んだんでした。

もう12年も前なんですねえ。

忘れるわけだ・・・・

・・・では、次回 シリーズ 第102号をお楽しみに・・・・

    

 

 

 

 

 

 

 

 

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「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その6- 一応誰でも大丈夫みたいです、極楽

最終の その6 です。

漢文書き下しの中で気になる部分を、註釈をみながら
読んでみます。

Img_2610

P52
「汝よ、仏語を持ち、未来世の一切衆生の、苦を脱れんと
欲する者のために、この観地の法を説け。 もし、この地
を観ぜば、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて(のち)
他世に、必ず、浄国に生まれん。・・・・」

===註釈
八十億劫の生死の罪を除きーー八十億劫という永い期間に
わたって輪廻すべき罪
・・・いずれも観法の浅深と関係して除罪に多少があるのでは
なく、あらゆる罪を除くという譬喩的意味であろう。

===このフレーズは何度も出てきます。
   「あらゆる罪を除く」とありますから、
   例の例外規定についても、大丈夫だよということ
   になるんでしょうね。

   ところで、「劫」の意味はきわめて長い時間の意味らしい
   ので、時間の単位としてはほとんど意味をなさない
   ように思います。

p60
これを<像想>とし、<第八観>と名づく。 この観をなさば、
無量億劫の生死の罪を除き、現身の中において、念仏三昧をえん

===註釈
念仏三昧ーー古来、この個所の念仏三昧について、念仏を
観仏あるいは称名ととる。 後者の称名と解するのは隠の義
であり、真宗は次の第九「真身観」の念仏三昧と同じとみて、
弘願の念仏がこれであるとする。

===この部分の現代語訳を見てみると。
この観想を行なう者は、無量億劫の間、かれを生と死に
結びつける罪を免れ、この世に生きている間、
<仏を念ずることによる心の安らぎ>を得ることであろう。

===ってことを書いてあるんで、
   「念仏三昧」=「仏を念ずることによる心の安らぎ」
   という話になりますね。

===そもそも「三昧」ってどういう意味??
「読書三昧」とか「ぜいたく三昧」とかよく言いますけど・・・
こちらにあります:
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/92105/meaning/m0u/

「1 仏語。心を一つの対象に集中して動揺しない状態
  雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえ
  られるとする。」

「1 ともすればその傾向になるという意を表す。「刃物三昧に及ぶ」
2 そのことに熱中するという意を表す。「読書三昧の暮らし」
3 心のままにするという意を表す。「ぜいたく三昧な生活」」

・・・・何気なく使っている言葉ですが、説明してある言葉
・・・・も、いま一つしっくり来ません。なんでだろう。

===註釈より===
p102
一々の光明・・・--
原文「一一光明偏照十方世界、念仏衆生摂取不捨」の句は、
阿弥陀仏の救済の徳をたたえるものとして、搭婆の銘文に
書かれたりして、浄土教の人々に最も親しいことばである。

=== へえ~~、これが例の卒塔婆に書かれているのか。

卒塔婆(ストゥーパ)」って何を意味しているの?
https://www.e-ohaka.com/06omairi/o_sotoba.html
「卒塔婆に書かれる内容は以下のものがあげられますが、
それぞれの宗派、お寺さんによっても異なります。
[戒名(法名)/没年月日(命日)/経文・題目・聖句・
梵字/願主名/願主/供養年月日]」
※「浄土真宗」のように卒塔婆を建てる習慣がない宗派もあります。

・・・おお、ここでも浄土真宗はユニークなんだなあ。

===この註釈に大事そうなことが書いてあります。

念仏衆生摂取不捨」のところなんですが、

善導以来、読み方に二通りあり、いずれでもよい。
すなわち、第一はいまの書き下し文のごとく二段に切り、
あらゆる衆生のうち摂取の利益をうけるのは、念仏する
衆生だけ
であるとの読み方。
(つまり、「念仏の衆生、摂取して捨てたまわず。」と
 読む場合。)

第二は二段に分けずに、「一々の光明、あまねく十方世界
の念仏の衆生を照して、摂取して捨てたまわず」の読み方
である。

善導は仏の光明がなぜ念仏の行者だけを救いとるかの
理由を明かし・・・・
・・・法然や親鸞の理解では、念仏を称名ないし信心の
意にとっている

・・・善導さんー法然さんー親鸞さんの流れの中でも
   解釈が少しずつ変化しているわけですね。
   行から信心への流れかと思います。

===註釈
p103
仏身を観る・・・--
以下「もろもろの衆生を摂するなり」までの句も、
無縁の大悲をとくものとして有名である。このうち
無縁の慈しみ」とは、一切平等の理をさとっているから、
あれこれと相手を見わけて差別せず、平等に慈悲をたれる
こと。

・・・「差別せず」って書いてあるんですけど、
   上品・中品・下品で九ランクに分けているん
   ですよねえ・・・なんで??

===九品に関する註釈===

これにはいろいろ解釈の違いがあるみたいです。

天台、浄影などの諸師は(序説)中に出す三福を散善とし、
次の十六観を定善とする。・・・

善導は、この見解に反して、十六観中、前十三を定善、
後三をさきの三福を浄土往生の行として開いたとして
散善とみた。
・・・この散善をば、修する者の能力に応じて上輩・
中輩・下輩の三種に分け、かつ各々をさらに上中下の
三品に分けるから、すべて九品となる。

真言宗などで説くように、浄土に九種の世界があるので
九品というのではない。上輩とは大乗を学ぶ凡夫を指し、
三福のうちの行福を主として修する。
そのうち、上品上生の者とは大乗上善の凡夫・・・・

・・・とまあ、いろいろと宗派によって解釈が
分かれて行ったようですね。

よって、前回その5でリンクしたサイトの「まとめ」の
分け方も その中のひとつの解釈ってことになりそうです。

===書き下し文のp68 ===

「散心の凡夫、往生をうる九種の方法」の部分なんですが、
ここにこんな句があります。

三種の心を発さば、すなわち往生す。なにをか三とす。
一には、至誠心、 二には、深心、 
三には、廻向発願心なり

===「廻向発願心」の註釈

多分ここが 法然さんと親鸞さんの分かれ道みたいな
ところじゃないかなと思うんですが・・・・

浄土宗では浄土願生者の起こす菩提心と解するが、
真宗では・・・親鸞の独自の理解によって、自力と他力
二種に分けた。
特に後者を採り、阿弥陀仏が真実心中から衆生にふりむけ
給うた本願の正意を深く信じて、往生しようと願う心を
起こすとみて、他力廻向による発願心とした・・・

===「かくのごときの悪人」の註釈

・・生死輪廻する者を指している。
善導はこれを凡夫人、法然は罪人、源信は極重悪人と表現し
直した。 親鸞は源信の用法にのっとりながら、範囲を
広げて、定散二善のすべてを極重悪人ないし極悪深重の
衆生と呼んだ。 要するに親鸞の悪人正機の「悪人」とは、
輪廻の衆生一般
を指していたことがわかる。

・・・・・・・・・・・・・・・

はい、これで 「観無量寿経」 を一応読み終わったことに
なります。

さて、ここで私の読書感想文なんですが、なかなか難しい
ですね。

まず、復習をしてみると、全体としては下の三つが書いてあった
わけです:
1.「王舎城の悲劇」の親殺し事件
2.「13の観法」の解説 
   観法というのは、瞑想のことみたいで、極楽浄土や仏様を
   どのように観るかという方法論 - これが中心ですね。
3.往生するものの分類

私はどうしても、法然さんと親鸞さんに興味がいくんですが、
1.については、親殺しがこの経では明確に書かれているわけ
じゃなくて、他の経だったんですね。
だから、親殺しに関しては涅槃経らしい。
なので、親鸞さんの悪人正機説がらみで言うと直接的という
わけではなさそう。

2.はどのような修行をするかという内容だと思うんです。
なので、法然さんが無量寿経よりもこちらを重視するという
のは分かるような気がするんです。

3.はどのような人が極楽往生できるのかという区分
書いてあるんですけど、結局誰でも阿弥陀さんが救って
くれますよというのは分かりました。
ただその場合に、何を条件とするかってことが若干違う
わけですね。

で、最後のところに「廻向発願心」があって、
その意味の捉え方に親鸞さんの特殊な理解があるみたいです。

以前からいろいろ本を読んできて、だいたいのイメージは
あったんですが、やはりここでも、
法然さんまでは戒律や行が大切で、親鸞さんになると
あくまでも阿弥陀様に絶対的にお任せして信仰するという
ことのようです。

で、私としては、どっちが好きか、あるいは向いているか
って言うと、これがまた、ちょっと捻じれてしまうんですねえ。

これは、フィリピンで感じた カトリックとプロテスタント
から受けるフィーリングに似ている
んですが、

カトリックはなんとなく法然さんの浄土宗、
プロテスタントは親鸞さんの浄土真宗のイメージなんです。

カトリックはいろいろイベントも多いし、形が大事みたいな
雰囲気があって、教会や神父さんの衣装も豪華で、戒律的な
ものも感じるんです。

それに対して、プロテスタントは、かなり地味で、形と
いうよりも熱心な信者が多いイメージですね。
反面やや信仰的窮屈さを感じることもあります。

怠け者の私としては
修行や戒律というような面倒なものは嫌だなという感じも
あるし、かと言って、信仰に入り込むというような
真面目さもないし・・といういい加減な態度なんですねえ。

ブッダの原始仏教の雰囲気を残しているのは多分
法然さんの方だから文化的な興味から言えば法然さん。

でも、一方で、独特な理解で悪人正機説を展開した
阿弥陀様の一神教的な親鸞さんは凄いなと思ったり。

消化不良なままで終わりますが、
まあ、いずれ、こっちがいいなと思う時が来るのでしょう。

お付き合い、有難うございました。

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2017年5月10日 (水)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その5- 上品、下品はなんで決まるのか?

上品、下品という言葉の由来をちょっとチェックしてみたところ、
以下のサイトがありました。

http://yain.jp/i/%E4%B8%8A%E5%93%81

「品性、品格がよいさま。反対は「下品(げひん)」。」
「仏教では、「上品(じょうばん)」「下品(げぼん)」と読む。
 極楽浄土に往生を願う衆生を能力や資質によって上・中・下の
 「三品」に分け、「上品」は最上、「下品」は最下位になること
 からいうもの。 」

・・・ってことで、以下にそれがどういうものだかを読んでいきます。

Img_2621



p31
仏はアーナンダとヴァイデーヒーに告げられたーー
上品上生(じょうぼんじょうしょう)の者とは、
生ける者どもの中で、かの仏国土に生まれたいと願って、
三種の心を起こし、往ってかの仏国土に生まれる者のことである。
三つとは何であるか。
第一は誠実な心であり、第二は深く信ずる心であり、
第三は一切の善行の功徳を仏国土往生に振り向けてかの仏国土に
生まれたいと願う心
である。・・・」

「・・・また次の三種の生ける者どもはかの仏国土に生まれる
であろう。 三つとは何であるか。
第一は慈しみの心を持っていて殺さず。 さまざまな戒律を
守っている者。  第二は大乗経典を読誦する者。
第三は、仏・法・僧・戒・捨・天の六つを念ずる行を行なう

者である。・・・」

p33
<上品中生(じょうぼんちゅうしょう)の者>とは、
必ずしも大乗経典を学んだり読誦したりしないけれども、
よくその意義を理解し、最高の道理を聞いても心が動揺せず、
深く因果を信じて大乗を誹謗せず、これらの功徳を振り向けて
<幸あるところ>という世界に生まれようと願い求める
者のことである。・・・・

p34
<上品下生の者>とは、また原因結果の道理を信じて大乗を
誹謗せず、ただ無上道に向かう心をおこし、この功徳を
振り向けて<幸あるところ>という世界に生まれたいと
願い求める者のことである。
この修行者の命が終わろうとするとき、アミタ仏と
アヴァローキテーシヴァラとマハースターマブラープタは、
多くの従者たちとともに黄金の蓮花を持ち、五百人の
化身の仏を化作して、迎えに来られる。・・・・

・・・これを<上品下生の者>と名づけ、これを
<上位の者の往生の観想>(上輩生想)と名づけ、
<第十四の冥想>と名づけるのだ。・・・・

===極楽往生した衆生の能力・資質の一番上のランクを
   さらに3つに分けて上のように区分しているんです。
   私の場合なら、「大乗を誹謗せず」ぐらいなら
   なんとかなるけど、他は無理かなあ・・・
   まず、「信じる」ってことが出来ない天の邪鬼
   だからなあ。

   このレベルだと、500人で迎えに来るそうです。
   阿弥陀仏の来迎図ですね。
   でも、浄土真宗では、こういうのは無しだそうですよ。

p35
<中品上生の者>とは、生ける者どもの中で、
在家信者の守るべき五つの戒律を守り、八つの戒めを守り、
さまざまな戒律を修行して、五逆罪を犯さず、さまざまな
苦しみを嘗めることがなく、この善根を振り向けて
<幸あるところ>という世界に生まれたいと願い求める
者のことである。

p35
<中品中生の者>とは、生ける者どもの中で、
一日一夜の間八つの戒律を守り、あるいは、一日一夜の間
見習僧の戒律を守り、あるいは、一日一夜の間修行僧の
守るべき戒律を守って立居振舞に欠けたところがないという、
これらの功徳を振り向けて<幸あるところ>という世界に
生まれたいという願いを求める者のことである。

p36
<中品下生の者>とは、立派な若者または立派な娘で
あって、父母に孝養をつくし、世間の人々と深い友情を
以て交わった者のことである。

==== 少なくとも、私はこの<中品下生の者>では
     あり得ませんね。年齢制限で引っかかっちゃう。
     なんとか<中品中生>なら、時間制限があるから、
     いけるかも??
     <中品上生>は、毎日やらなきゃいけないから
     無理だよなあ・・・

p37
<下品上生の者>とは、生ける者どもの中で、さまざまな
悪しき行為を行なう者、大乗経典を誹謗することだけはしない
けれども、多くの悪しき行為を行なって、恥ずかしいと
思わぬ者のことである。・・・」

「立派な若者よ、お前は仏の名を称えたから、さまざまな
罪がみな消滅し、わたしがお前を迎えに来たのだ。」

p38
<下品中生の者>とは、生ける者どもの中で、五つの戒律、
八つの戒め、修行僧の守るべき戒律を犯し、僧団に属する物を
盗み、僧に供養された物を盗み、名誉や利欲のために説法して
恥ずかしいとも思わず、さまざまな悪しき行為で自分を飾って
いるような愚か者のことである。
このような罪深い人は、悪しき行為の結果として地獄に堕ちる
であろう。

===おお、ここで地獄が出て来ましたよ。ついに。

しかし・・・・その後があります・・・

p38
命が終わろうとするとき、地獄の猛火が一時に押し寄せる
その時、指導者が居て、大慈悲心からこの者のために
アミタ仏の持つ十種の力の徳について説き、広くかの仏の
光明の神秘的な力を説き、また戒律・精神の安定・智慧・
迷いからの自由・迷いから自由になった知見をほめ讃える
のに遇い、この人は聞き終わるや、八十億の間かれを生と
死とに結びつける罪から免れる
地獄の猛火は変化して清く涼しい風となり・・・・

=== ってことで、一旦は猛火に焼かれるみたいですけど、
    そこに阿弥陀様の代理が助けに来てくれるようです。

p39
<下品下生の者>とは、生ける者どもの中で、
不善な行為である五逆罪と十種の悪行を犯し、(その他)
さまざまな不善を行ない、このような悪しき行為の結果、
悪しき道に堕ち、長い間繰り返しくり返し苦悩を受けて
止むことのない愚かな者のことである。
このような愚かな者の命が終わろうとするとき、この者を
種々に慰め励まし、この者のためにすぐれた教法を説き
教え、仏を念じさせる指導者に遇う。
ところが、この者は苦しみに迫られて仏を念ずる暇がない
そこで指導者が言うのに、「お前がもし仏を念ずることが
できないのなら、無量寿仏よ、と称えなさい。」と。
このようにしてこの者は心から声を絶やさぬようにし、
十念を具えて、南無アミタ仏と称える
仏の名を称えるのであるから、一念一念と称える中に、
八十億の間かれを生と死に結びつける罪から免れるのだ。

これを<下品下生の者>と名づけ、これを<下位の者の
往生の観想>(下輩生想)と名づけ、<第十六の冥想>
と名づけるのだ。」

=== おやや??
    下品下生なのに、地獄という名前が出てこない
    ですね。 焼かれないのかな?
    
=====

こちらのサイトに まとめがありました:
http://tobifudo.jp/newmon/name/9hon.html
「浄土教では、生前の行いによって、極楽浄土に生まれ変わる
とき、九つのパターンがある、とされています。
九つのパターンは、上中下の三品と、上中下の三生の組み合わせ
で表されます。」

・・・このまとめで気付くのは、
・・・上品は大乗を修める人、中品は小乗を修める人と
・・・一般的な善を行なう人、そして、下品は身勝手な人
・・・と書いてあるところですねえ。

このまとめに書いてある点を 上記の本からの抜き書きと
比較してみると、どういうことになるでしょうか・・・

大乗を修める人と小乗を修める人という部分の表現
本に書いてある「大乗経典を誹謗する・・・」という
表現のある部分とは一致しないようなんですが

いろんな宗派によって、解釈が違うからなんでしょうか?
まあ、多分、私の読み方が間違っているんでしょうね。

====

p40
世尊は「ことごとくみな生まれるであろう。 かの国に
生まれたら、仏たちを眼の前に観る精神集中ができるで
あろう。」と予言せられ、無量の天人たちは無上道に
向かう心をおこした。

p41
そのとき世尊の足は虚空を歩いて、鷲の峰に還られた。
アーナンダは広く多くの人々のために先のようなことを
説いた。 無量の天人たち、竜や、ヤクシャ(夜叉)たちは、
仏の説かれたところを聞き、みな大いに歓喜し、仏を拝して
退出したのであった。

==== さあ、これで観無量寿経の日本語訳を読み終わり
     ました。
     次には、漢文書き下し文の註釈のページで
     上記の部分を拾ってみたいと思います。

・・・ その6が 最終回になります ・・・

=====================

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2017年5月 9日 (火)

あなたは「あなたのお母さん」のことを知っていますか?

これは 親不孝者の 追想です。

インターネットでこんな記事があったんです。

ホームレスにも自尊心がある・・・これこそ、日本が発展している部分だ!」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%83%9b%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%83%ac%e3%82%b9%e3%81%ab%e3%82%82%e8%87%aa%e5%b0%8a%e5%bf%83%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%81%93%e3%82%8c%e3%81%93%e3%81%9d%e3%80%81%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%8c%e7%99%ba%e5%b1%95%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e9%83%a8%e5%88%86%e3%81%a0%ef%bc%81%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBATDlP#page=2

                  
「あとで思い返しても、とても身震いする出来事だった。
社会の底辺にいるホームレスさえこのような自尊心を持って
いるということが、民族の発展を示す有効な方法になりうる
のだと思った」

Img_6462

私はこの記事をよんで、FACEBOOKにこんなことを書いたんです。

武士は喰わねど高楊枝・・・
私の母は私が24の時に癌で亡くなったんですが、
貧乏な家庭にありながら、高楊枝な母でした。
鹿児島の裕福な商家のお嬢さんだった人が、
貧乏な家に嫁いで、幼い私の手をひいて
質屋通いをしなくてはいけなかった時には
さぞかし悔しい思いだったろうと思います。

・・・・・

これを書いてからというもの、私は自分の母のことを
どのくらい分かっていたのだろうか
と、ふと思ったんです。

私は常々、母のことを知らないよなあ~~と思ってきました。

この際なので、亡き母のことを、自分の記憶を辿りながら
書き出してみたいと思ったんです。

今自分は66歳なので、記憶といってもいい加減なもの
だとは思うんですが。

・・・・・

私が最後に母に会ったのは、福岡にある国立癌センターの
病室でした。

その頃、私は24歳、母は60歳。

母が寝台に寝たまま、私に尋ねました。

「お父さんが、私に会いに行けといったの?」
(本当は九州弁ですが、一応標準語で書きますね。笑)

「うん・・・」

私の返事に、母は涙ぐんでいました。

その頃の私は、既に東京に出て、米系の石油メジャーで
働いていました。
父は、もう覚悟をしていたのでしょう、電話口で
私に「最後になるかもしれないから」と連絡してきたのでした。

そして、母がこう言いました。

情けない・・悔しい・・・・

私はそういう母の言葉を聞きながら、病室の窓から
外を眺めているだけでした・・・・

5img_6456

・・・・

母は鹿児島の生まれで、瀬戸物を商う家のお嬢さんでした。
母は、七人兄弟姉妹の長女。

その親は、伊万里焼や三河内焼などを仕入れて、海路で
佐賀県から鹿児島県へ運び、儲けていたそうです。

広い家だったようで、母が一度だけこんなことを言いました。

「夜の真っ暗な家の廊下なんかで、人を驚かすようなことを
 やっちゃいけないよ。
 長い真っ暗な廊下で、そんなことをされると、
 冗談じゃなく、本当に心臓が止まりそうになるんだから・・」

余程怖い目にあった経験があったのでしょう。

・・・・

母の一番下の妹が、東京の板橋にある東京家政大学の
学生会館の舎監をやっていました。
学生の生活指導が仕事でした。
それは厳しい叔母でしたが、おそらくこの叔母よりも
私の母の方が本来はもっと厳しかったのでしょう。

お姉さんがそんなことを許す訳がない

という口調で話を聞かされたものです。

戦時中の母は、まさにバリバリの軍国少女・婦人会だった
ようで、敗戦後は、価値観の激変に耐えられず
東京でキリスト教の洗礼を受けたと、その叔母から聞きました。

その母が私にポツリと言った言葉。
「あなたを、男の子を産むことができて、あの時はほっとした。」

戦後5年目の話です。
私の父は、満州からの引き揚げの時に妻と幼子2人を亡くして、
生き残った上の二人の子供を連れて日本に逃げ帰って来たのですが、
戦後に再婚した相手が私の母だったのです。

・・・・

私が19歳の時、上京して真っ先に挨拶に行ったのは、
板橋にある東京家政大学の叔母のところでした。

そして、中野のどこかにある某お屋敷に連れていかれました。
そこは、当時の大手レコード会社の重役の家だったようで、
母と叔母が東京の師範学校時代にお世話になったようでした。
裕福な商家の娘だったから、師範学校にも行けたのでしょう。

叔母がクラシック音楽を聞きながら、
こんな逸話を語ってくれたのもその時でした。

あなたのお母さんは、絶対音感があったのよ
 メロディーを一回聞いただけで、それを空で
 歌えたの。」

私にはそんな芸当はできなし、高校でピアノの授業が
あった時には、苦行みたいなもんでした。
しかし、小学生時代から公民館で習った詩吟だけは
得意でした。 大声だけは出せたので、クラスの中で
一番小さい身体だったのに、応援団のリーダーをやった
もんです。

・・・・

そんな母が、貧乏な和菓子職人の父に嫁いだのです。

私には、あまり母のエピソード記憶がありません。
何故かと言えば、母は家業と家事に忙しく、私の面倒を
みたのは、先妻の子である15歳上の姉だったからです。

それでも、今一所懸命思いだそうとすれば、いくつかの記憶が
浮かび上がってきます。

時系列に思いだすと、一番最初の記憶は、
私が病気の時に、リンゴを下ろし金でおろして、それを
布で濾して、リンゴ・ジュースを作ってくれた記憶です。

私は、何度か、崖や塀から落ちて、怪我をしたことがあるんですが、
一度は、友達の家の塀の上で遊んでいて、塀から落ち、
その下にある階段を転げ落ちたことがあるんです。
その直後は、何事も無かったように、友達の家から自分の家に
戻り、戻った途端に倒れたのだそうです。

そして、医者が呼ばれ、私の瞳孔が開いていると言われ、
この子は もうダメだ。」
と一度は引導を渡されたらしい。

しかし、何の拍子か、息を吹き返してしまった。

私の母が、その時どんな様子だったかは、誰も話してはくれません。
しかし、それでも、私が親孝行をしたひとつには数えていいかも
しれません。
もしかしたら、気の強い母の念力だったかもしれませんが・・・

そんな私も、母が亡くなった60を超え、父が亡くなった70に
手が届くところまで生きてしまいました。

・・・・・

二つ目に思い出すのは、最初に書いた「質屋通い」です。

多分、私がまだ5歳前後の頃だったと思います。
だから、戦後10年ぐらいの時ですね。

おそらく一般の人たちにとっては、まだまだ食糧難の時代
だったかもしれません。

どこかのオバサンが私に言った事が、耳に残っているんです。

あなたの家は、お菓子屋さんだから、食べ物は心配しなくて
 いいから、幸せね。」

私自身は、そんなに良いものを食べたという記憶は一切ないん
ですが、空腹に苛まれるということはありませんでした。

たぶん、ちょくちょく、お菓子を盗んで食べていたからでしょう。

父は母をよく怒鳴り飛ばしていました
ただ、理不尽なことで怒鳴っていたわけではなく、
もっと頭を使ってなんとかしろ・・・ってなことだったと
思います。

覚えているのは、
「毎日毎日 食卓に同じものを出すんじゃない。
 もっと工夫したらどうだ
ということでした。

食べ物はそういうことだったんですが、お金はなかったようです。

恐らく、母は、幼い私の手を引っ張って、悔しい思いをしながら
質屋の玄関を開けたのだと思います。

私は、玄関先までの映像は残っているんですが、玄関に入った
ところからの記憶はありません。
もしかしたら、見てはいけない母親の姿を記憶に残したく
なかったのかもしれません。

・・・・

三つ目は私の身長です。
私が高校に入った頃だったと思います。
学校で担任の先生との親子面談があったんです。

その時の母の相談内容が信じられないほど記憶に残っています。

「この子の身長は伸びるでしょうか。」

まったくもって、馬鹿な質問なんですが、母親としては
大問題だったのでしょう。

母の身長は低く、父の身長は平均的。
前妻の息子である、私の兄は、バスケットボールの選手
だったらしく、身長は高い。

私の身長は、中学時代、そして、高校1年までは、
クラスの中でもほぼ一番前、つまり一番低いところで
3番以内の定位置にいたからです。
中学時代は、丸坊主だったこともあって、
「まるこめ」というあだ名もあったぐらいです。
可愛かったんです。

中学1年の頃だったと思うんですが、
ある日学生服を着て、広い坂道の左側を登っていたとき、
中学高学年らしき女学生3人がその道の反対側を下って
来ました。
そして、私の姿を見ると、わざわざその歩く路線を変更して
私が歩いている側に寄ってきて、進路を妨害するような
行動に出たんです。
そして、私がビビっていると、3人で笑いながら通り過ぎて
行きました。
きっと、私がとても可愛かったんです。(笑

しかし、驚いたことに、ここでも、母の念力が働いたらしく
高校時代3年間に20センチばかりぐんぐん伸びて、
卒業するころには、列の後ろから数えた方が早くなりました。

・・・・

四つ目は、受験生時代です。

高校時代には、受験生ってことで、個室を作ってもらいました。
ほんの2畳半ぐらいの狭い部屋です。
1畳はべニア板で作った手造りベッド。
そして、机と椅子と本箱があるだけ。

父母とはほとんど会話はありませんでした
まあ、あったんでしょうが、記憶に残るような会話はありませんでした。
父母は家業に忙しく、父母との会話なんてことになると
それはそれは重大事だったからです。

特に 姉が 「お父さんが呼んでるよ」 などと呼び出しにくると
緊張しまくりになるほど、恐ろしい存在だったんです。
我が家の憲法は父でした

受験生の部屋には、母が毎夜、和菓子と緑茶をお盆に載せて
二階に上って来ました。
そこでも会話があったわけではありません。
・・・だから、母がどのような考え方を持った人であったのかは
知らないままとなりました。

・・・・

しかし、状況証拠はいくつか考えられます。

それは、鹿児島の叔父や叔母から受けた印象です。

東京の叔母は、大学の舎監で生活態度にかなり厳しい。
私を帝劇に連れていって、ミュージカル「ラ・マンチャの男」
を見せてくれました。
文化的なことには興味があったようです。

宮崎の美容師だった叔母は、新興宗教に走ったらしく、
私の母が癌と闘っている時に いろいろあったらしい。

佐賀で教師をしていた叔母は、戦争未亡人となった後、
二人の子供たちを女一人で育て上げた。

鹿児島の叔父は、キリスト教に関する郷土史家であって、
キリスト教の信者の団体が、隠れキリシタンなどの
歴史を聞きに来るほどの知識があったようです。

こうやって母方の兄弟姉妹を見ると、私は父方からよりも
母方から大きな影響を受けているような気がするんです。

つまり、今現在 私がやっていることに繋がっている
ような気がするわけです。

ー 随分前のことですが、バギオ市制100周年の
  折に、バギオ建設に関与した日本人移民たちの
  ミュージカルを作り、公演しました。

ー 毎年、日比友好月間でなんらかのイベントの
  企画をする羽目になってしまいました。

ー 若い時から、哲学や宗教には興味があって、
  今では仏教の本をいろいろ読み漁っています。
  かと言って、信心があるかっていうと、ありません。

ー 公的な教員ではありませんが、日本語を過去15年ほど
  教えることになりました。

ー 日本人戦没者や日本人移民の歴史に興味を持ち
  今では 自称「バギオ市の郷土史家」みたいな
  感じになって来ています。(笑)

・・・・

たまたま、今 観無量寿経ってのを読んでいるんですけど、
ひょっとして、「観想」するっていうのは、
こんな風に、ある対象を頭の中でいろいろとなぞって観る
ことなのかもしれません。

そして、今の私をこのようにさせているのは、
もしかしたら、これもあれも、母の念力のなせる技かも
しれません。

怖いですねえ、怖いですねえ、でも、面白いですねえ・・・

そして、実に有り難いことです。

=====

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2017年5月 8日 (月)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その4- 阿弥陀さん、観音さん、勢至さん大集合

さて、観想のマニュアルの説明が終わって、
その後のお話です。
・・・と思ったら、まだまだ続いていました・・・

p21
師はアーナンダとヴァイデーヒーに告げられたーー

「・・・これから言うことをよく思念しなさい。
仏は今、あなたたちのために、苦悩をとり除く法を
考え、それを解説する。・・・・」

こう言われたときに、無量寿(アミターユス・かぎりない命)
仏は空中に立たれた。 アヴァローキテーシヴァラ(観世音
とマハースターマブラーブタ(大勢至)という二人のすぐれた
人はその左右に侍して立った。

Photo

(この写真はバギオの寺院での写真です。釈迦三尊像なのか阿弥陀三尊像なのか、どっちだろう・・・)

p22
「かの仏を観たいと思ったならば、観想の念をおこさなければ
ならない。七種の宝石でできた大地の上に蓮花を観想するのだ。
・・・」

p23
・・・あるものはダイアモンドの台となり、あるものは真珠の
網となり、あるものはさまざまな花の雲となり、十方の方面に
おいて、観る者の思うままに変現して、仏の所作を現している。
これが<花の座の観想>であり、<第七の冥想>と名づけるのだ。

「このような美しい花は、もと修行僧ダルマーカラ(法蔵比丘)
の誓願力によってできたものである。・・・」

=== 蓮の花の上の阿弥陀三尊像を観るってことのようですね。

「このことを観終わったならば、次には仏を観想するのだ。
それは何故かというと、諸々の仏・如来たちは、存在するもの
すべてを身体とするものであり、すべての生ける者どもの
心想の中に入って来る
からである。それ故に、あなたたちが
心に仏を観想するとき、この心がそのまま仏の三十二の大相
あり、八十の小相なのだ。 この心が仏を作り、この心がそのまま
仏なのだ。・・・」

「・・・冥想中に聞いたことを記憶していて忘れず、経典の
記すところと照合してみるがよい。・・・これが<像の観想>
であり、<第八の冥想>
と名づけるのだ。・・・・
<仏を念ずることによる心の安らぎ>を得ることであろう。・・」

=== ここで註釈を読んでみますと・・・

p100
第八「像想観」。 この第八観以後は正報観であるが、
とくに第八観は第九観の真身観に入るための準備的観法である。
画像・木像を通じ、あるいは心中に三十二組の仏身が放つ
光明を観想して仏を思い、二菩薩を思い、そして浄土の
荘厳を観ずる。

・・・・・と書いてあるんですが、前半の言葉が分かりません。
・・・・・で、註釈のp96に戻ってみたらこんなことが
・・・・・書いてありました。

p96
禅定に入って観想する定善十三観を明かす。
善導によれば、十三を分けて依報(衆生のよりどころとなる
山河大地など)と正報(衆生の身体や精神)に関するものとする。
さらに各々に、浄土教家は仮観(かりにこの世のものについて
観ずる)と真観(真実の浄土について観ずる)の二つを分ける。

=== 要するに全部で 十三の観想があるって話です。
    今まで読んできたのは、その内の8までってこと。

p25
「この観想ができたならば、次にはさらに無量寿仏の身相と
光明とを観想するのだ。・・・
この観想を行なうのを<すべての仏たちの体の観想>と名づける。
仏の体を観ることは、また、仏の心を観ることになる。
仏の心とは大慈悲心である。無条件の慈しみを以てもろもろの
生ける者たちをおさめ取られるのだ。
この観想を行なう者は、死後に仏たちの前に生まれて、
<諸々の事物には自我というものがなく、生ずることもない、
と認容し得るような精神状態>に達するのだ。・・・・」

「・・・無量寿仏を観る者は、すなわち、十方の無量の仏たち
を観ることになる。・・・これが<あまねく一切の体や形を
観る観想>であり、<第九の冥想>
と名づけるのだ。

=== ここにとても大事そうな言葉がありますね。
    「無条件の慈しみ・・・」
    もしかして、ここが例の「除外規定」と矛盾する
    ところでしょうか??

p28
これが<アヴァローヒーデーシヴァラ(観世音)ぼさつの真実の
体の形を観る観想>であり、<第十の冥想>
と名づけるのだ。

p30
<マハースターマブラーブタ(大勢至)の形や体を観る観想>
であり、<第十一の冥想>
と名づけるのだ。

p30
この観想をするようになったら、自分自身の心に目覚めなければ
ならない。 西方の<幸あるところ>という世界に生まれて、
蓮花の中に両足を組んで座り、蓮花が閉じる観想を行ない、
蓮花が開く観想を行なうのだ。・・・

・・・仏たちの音声がみなすぐれた教法を説いており、
それがみな十二部経に説く所に一致していることを、冥想から
さめても忘れないようにするのだ。
このことを観想するのを<無量寿仏の幸ある世界の観想>と
名づける。 これが<完全な観想>であり、<第十二の冥想>

と名づけるのだ。

=== ここに来て、やっと、自分自身が極楽浄土の
    蓮の花の上に座っている場面を観るようです。

p31
「もし心から西方に生まれたいと願うなら、まず一丈六尺
の像が一つ、池の水の上にあると観想するのだ。
先に説いたように無量寿仏は身の大きさが無限であるから、
これは普通の人間の理解を超えている。・・・・」

「・・・・この二ぼさつはアミタ仏を助けてあまねく
一切の者たちを教化するのである。 これが<雑多の観想>
であり、<第十三の冥想>
と名づけるのだ。」

=== 十三番が出てきたんですけど、ここは読んだ感じは
    大したことを書いてないように思うんですけど、
    最後だから大事なはずですよね??
    名前も<雑多の・・・>ってどういうこと??

・・・随分長かったなあ・・・・・
・・・この後は、「上品上生の者・・・・・」という話が
・・・出てきますので、またまた長くなりそうです。

=== では、その5 でお付き合いください ===

=====================

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2017年5月 7日 (日)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その3- あの世と冥土は何が違うのか??

では、今回は、観無量寿経のメインである 観想のマニュアル
部分を読んでみます。

まず、極楽浄土に行きたい人は、こんなことをしなくちゃいけない
って言う、条件が書いてあります。

p15
かの仏国土に生まれたいと思う者は、三つの福利を修め
なければならない。

一つには、
父母に孝養をつくし、師につかえ、慈しみの心を持って
生けるものを殺さず、十種の善行を行なうこと、

二つには、
仏法僧の三宝に帰依し、多くの倫理的規定を守り、
誇りを失わないこと、

三つには、
覚りに向かうという願いをおこし、深く因果の道理を信じ、
大乗経典を読誦し、他の人たちにもこの道を勧めること、

=== う~~ん、極楽浄土への道は遠いなあ・・

p17
世尊はヴァイデーヒー(大王の奥さんですね)に告げられた
ーー「あなたと、そして、生ける者どもは、心を一筋にし、
思念を一処に集中して西方を観想するのだ。 さて、どのように
観想するかというと、・・・・・正座して西に向かい、はっきりと
太陽を観るのだ。 心をしっかりと据え、観想を集中して
動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空に
かかった太鼓のようであるのを観るのだ。
すでに太陽を観終わったならば、その映像が目を閉じている
ときにも、眼を開いているときにもはっきり残っている
ようにするのだ。 これが<太陽の観想>であり、
<最初の冥想>と名づけるのだ。

=== へえ~~~。要するに、日没の太陽をじっと見て、
    その残像を瞼の中に観るという雰囲気でしね。

Img_2615_2

p17
次には<水の観想>を行なう。
清らかな水を観たならば、その映像がはっきりと残って
いるようにし、想念がかき乱されないようにするのだ。
水を観終わったならば、<水の観想>をおこさなければ
ならない。 

氷の透き通ったさまを観終わったならば、<青玉の観想>を
行なう。 この観想をなし終えたならば、青玉の大地の
内も外も透き通っているさまを観るのだ。
下にダイヤモンドなどの七種の宝石に飾られた黄金の幢幡(はたぼこ)
があって青玉の大地を支えている。

・・・・そこには百の宝石から成る千万の楼閣があり、・・・
八種の清風が光明から吹きおこり、この楽器を鳴らして、
苦・空・無常・無我についての教えを聞かせる。
これが<水の観想>であり、<第二の冥想>と名づけるのだ。

=== この辺りから、極楽浄土の描写みたいな感じなんですが、
    書いてあることをCGの画像にでもしないことには
    理解不能です。

    しかし、「宝石に飾られた黄金の旗が青玉の大地を支え」   
    ってどういうこと???

    青玉の大地って、もしかして地球のこと???
    宇宙飛行士みたいな描写じゃないですか。

p18
この観想ができるようになったら、その一々をきわめて
はっきりと観られるようにするのだ。 眼を閉じているときにも、
眼を開いているときにも、その映像が散ってなくなったりしない
ようにする。

・・・このような観想に到達したら、ほぼ、<幸あるところ>
という世界を観たと言えるであろう。
さらに進んで精神集中ができるようになったら、かの仏国土を
はっきりと観ることになる。・・・これが<大地の観想>であり、
<第三の冥想>と名づけるのだ。

=== ここまで読んだだけで、凡人には無理・・と思って
    しまいますね。

p19
師はアーナンダに告げられたーーー
・・・この大地を観想する者があったら、その人は八十億劫の
間、かれを生と死に結び付ける罪から免れ、死後にはかならず
<幸あるところ>という世界に生まれるであろう。・・・

=== ああ、安心しました。
    こんなことが出来る人は特別な人みたいです。

p19
大地の観想ができたならば、次には宝石の木を観想するのだ。
宝石の木を観想するときには、七重に並ぶ七種の宝石の木の
一々を観想する。
・・・大光明は、無数の幢幡を吊るした宝石の天蓋と化し、
この宝石の天蓋の中に三千大世界の仏たちの一切の所作が
映っており、十方の仏たちの仏国土もまたその中に現れている。
この木々を見終わったならば、それらの一々を次々に観想
しなければならない。
幹・茎・枝・葉・花・果実を観想して、それぞれの映像を
はっきりとさせておく。 これが<林の観想>であり、
<第四の冥想>と名づけるのだ。

=== まあ、そういう木が極楽浄土には生えているって
    ことみたいですけど・・・
    かなりの想像力がないと無理ですね。

p20
次には池水の観想を行なわなければならない。・・・
<幸あるところ>という世界には、八つの功徳のある池水がある。
一々の池水は七種の宝石でできている。
・・・溝の下には、さまざまな色をもつダイヤモンドが
底砂となっている。 一々の水の中に六十億の七種の宝石の
蓮花があり・・・・・
・・・珠宝からは美しい黄金いろの光が流れ出し・・・
相和して鳴く声は甘美優雅であって、常に仏を思念し、
教法を思念し、僧団を思念することを讃える。
これが<八種の功徳ある池水の観想>であり、<第五の冥想>
と名づけるのだ。

=== いや~~。 こりゃあ現代のCGで映像にするって
    いうのも無理みたいっすねえ。
    六十億の七種の宝石だもの・・・・

p21
・・・国土の一々の境界の上に五百億の宝石の楼閣があり、
その楼閣の中に無数の天人たちが居て、天上の音楽を奏でる。
・・・・音楽はみな、仏を念じ、教法を念じ、僧団を念ずべき
ことを説いている。 この観想に到達したら、ほぼ、
<幸あるところ>という世界の宝石の木・宝石の大地・宝石の池
を見たと言えるであろう。
これが<総てを観る観想>であり、<第六の冥想>と名づける
のだ。 この観想を行なう者は、無量億劫のきわめて思い悪業
から解放されて、命が終わったのちかならず、かの仏国土に
生まれるであろう。

=== ああ、やっと、6つの観想の方法が終わりました。
    ところで、今頃気がついたんですけどね、
    「瞑想」じゃなくて「冥想」なんですね

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3
瞑想(めいそう、英:Meditation)とは、心を静めて神に祈ったり、
何かに心を集中させること、心を静めて無心になること、目を閉じて
深く静かに思いをめぐらすことである。この呼称は、単に心身の
静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、
絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るような
ものまで、広い範囲に用いられる。」

上のサイトでは、同じ意味のようなんですが、
こちらのサイトで 意味が異なることを述べています。
http://www.the-world-meditation.com/entry120.html
「瞑想は静かに座って精神を集中させることに対し、冥想は普段
から自分の内面を見ることという違いがあります
。ただ動かない
ことだけが“めいそう”ではないのです。」

しか~~し、私が漢字から受けるイメージとは違うんだなあ・・・

おお、やっとこちらにイメージしていた答えがありました:
http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/meisou/about.htm
「瞑想
〈冥想〉とも書く。〈冥想〉は漢語としては、目を閉じて深く
思索するという意味
。東晋の支遁(あるいは支道林、314-366)の
「詠懐詩」に「道会冥想を貴び、罔象 玄珠を掇る」とあり、
大道に合一するために冥想が貴ばれいる深い精神集中のなか
で根源的な真理と一体化することを「冥」の字を用いて表す
ことは、
『荘子』およびその郭象の注にしばしば見られる。」

「以上のように、瞑想あるいは冥想という言葉自体は、支那に
おいて主として道教から発せられたものです。しかも、日本では、
西洋のMeditationの訳語として近代において当てられたもの
であって、
伝統的にそのような言葉が使われてきたわけではありません。」

・・・ありゃりゃ、って感じの漢字ですねえ。

ところで、漢文とその書き下し文ではどう書かれているかって
いうと、以下のとおりです。

ー和訳ー
これが<八種の功徳ある池水の観想>であり、<第五の冥想
と名づけるのだ。

ー書き下し文ー
これを<八功徳水の想い>とし、<第五>と名づく。

ー漢文ー
是為八功徳水想、名第五

=== な~~んだ、そもそもの漢文には「観」としか書いて
    ないんじゃないの。
    和訳の、それも明治時代ぐらいからの日本の漢字
    みたいですねえ。

    私のイメージで言うと、極楽浄土=冥土だから、
    冥土を想って観るんだから「冥想」でいいんじゃないかって
    思ったんだけど。

    おっと~~、ここで私の大きな誤解を発見
    http://www.manaka-net.com/glossary/detail-367-7.html
    「冥土 (めいど)
    死者が行く迷いの世界
。あるいはそこまでの道程を意味する。
    生前、この世において仏道修行を怠ったものが、死後さま
    よい行く世界。この迷いの世界は、地獄、餓鬼、畜生、
    の三悪道で、そこは暗く、苦しい世界なので冥土と呼んだ
    道教の冥府信仰の影響もあります。盂蘭盆会、施餓鬼法要は、
    すべての冥土の 苦しみから逃れたいという表れという。」

私は、「あの世」=「冥土」だと思い込んでいたんですが、
上のとおり「冥土」は死後に行く「迷いの世界」で、「三悪道」。

こちらのサイトで類語辞典をみると:
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%81%AE%E4%B8%96

「あの世」は 「極楽浄土」から「地獄」までの全部を含むもの
みたいなんですねえ。

「あの世」の意義素 
「死んだ後に人が行くといわれている世界のこと。」

類語:
「黄泉 ・ 黄泉の国 ・ 黄泉比良坂 ・ 天国 ・ あの世 ・ 向こう ・
彼岸 ・ あっち側 ・ 死後の世界 ・ 冥府 ・ 陰府 ・ 冥界 ・
常夜の国 ・ 極楽浄土 ・ 浄土 ・ 天上世界 ・ 天界 ・ 天上の楽園 ・
後生 ・ 後世 ・ 来世 ・ 未来世」

浄土宗のお寺さんのサイトにこんなのがありました:

十六観行浄土宗坐禅 ~静の瞑想(メディテーション)~http://www.ennouji.or.jp/event/a-practices/posture.html

「浄土宗の三部経である観無量寿経という経典に書かれた瞑想法として「16観法」と言われるものがあります。 極楽浄土の様子を順々に観想していくことによって最後には魂が浄土に生まれて見仏します。」

「数ある瞑想法の中でも最も具体的な対象を観想するので、初心者には分かりやすい方法です。」

・・・本当に初心者にも分かりやすいのかなあ・・・・

 

=== 私の今までの大きな誤解を発見したところで、   
    次回 その4 に参ります ====

 

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