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2017年5月20日 (土)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 113 ボニファシオの処刑、アギナルド 香港亡命??

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

「第18章  フィリピン革命」

 

 

Img_2759

p249

 

「ボニファシオ兄弟の処刑」

 

非劇的にも、アンドレス・ボニファシオと彼の兄弟 プロコピオは

反逆罪で有罪となり、死ななければならなかった。

1897年5月10日の朝、・・・銃殺隊を指揮し、処刑した・・・

 

 

Biaknabatoの退却」

 

同日(5月10日)、ボニファシオ兄弟が処刑された時、

スペイン軍がMaragondonを攻撃した。 ・・・・

5月12日、二日間の激戦の後、アギナルドの軍は、その町から

退却せざるを得なかった。

 

 

p250

・・・ブラカン州サン・ミゲールのBiaknabatoへの退却を始めた・・・

 

・・・アギナルド大統領は、・・・北へ向かい、1897年6月24日に

Biaknabatoについに到着し、そこで本格的な司令本部を建てた。

 

 

「革命の継続」

 

総督プリモ・デ・リヴェラの1897年6月24日の

「革命は終わった」という早すぎる宣言とは裏腹に、

自由を求めるフィリピン人の闘争は続いた。

 

・・・鼓舞するような宣言に呼応して、新しい反乱が

南タガログやルソン島中部の州で爆発した。

 

 

p251

 

「Biaknabato共和国」

 

1897年10月末に向かって、交戦が静かだった期間に、アギナルド

大統領は、革命将軍及び指揮官たちの会議を Biaknabatoで招集した。

この会議で、全てを掛けて解放戦争を継続し、Biaknabato共和国

樹立することが決められた。

 

・・・この憲法は、1895年のキューバ憲法をモデルにして

制定された。

・・・Biaknabato憲法は、ほんの2年間有効であった。

 

・・・共和国の公式言語は タガログ語であった。

 

Biaknabato憲法は、人々の人権を守る為に、人権宣言

含まれていた。

 

=== この時初めて、公式言語がスペイン語からタガログ語に

    なったようですね。

    スペイン植民地時代は スペイン語、

    アメリカ植民地時代は 英語、

    そして、その後しばらくしてから、

    英語とフィリピン語が公用語になったんですね。

    ですが、バギオの裁判所などでは、英語が裁判時の

    公用語とされています。

 

 

=== ブラカン州のビアクナバト共和国については、

    こちらのサイトにちょっとだけ書いてあります。

 http://www.ph-inside.com/site/pres/profile/01.htm

 

    もっと詳しくは、こちらで。(英文)

 http://msc.edu.ph/centennial/biak.html

 

 

p252

 

「プリモ・デ・リヴェラの和平方針」

 

戦争が引きずられて行くに従って、総督プリモ・デ・リヴェラは

武力で革命を鎮圧するのは不可能だと悟るようになった。

 

・・・従って、彼はアギナルドとの和平を望んだ。

 

 

Biaknabatoの協定」

 

ついに、パテルノは、「ビアクナバト協定」として知られる

和平合意を協議することに成功した。

この協定は3つの文書からなり、最初のふたつは12月14日に

署名され、3つ目は1897年12月15日に署名された。

 

「プログラム」と呼ばれた最初の書類には、総督プリモ・デ・リヴェラ

が、武装している者たちに800,000ペソを支払い、アギナルドと

その仲間たちが香港へ自主的に国外退去することが書かれた。

 

二つ目の書類は、「協定の行為」と呼ばれ、武装解除をした者への

恩赦を認めることと、フィリピンあるいは海外に自由に住む特権を

くり返し書いてあった。・・・・

 

三つ目の種類では、損害賠償の問題が検討された。

それは、スペインが合計1,700,000ペソの損害賠償を

する・・・・・というものだった。

 

 

p253

 

Biaknabato協定」の3つの書類のどこにも、改革を認めるという

政府の約束に関しては書かれていなかった

 

これらの改革とは・・・・・・:

(1)フィリピンの教区教会の世俗化と、宗教的命令の排除。

(2)スペイン議会でのフィリピン代表の復帰

(3)法の下での、スペイン人とフィリピン人の平等

(4)フィリピン人に有利なように、資産、税及び行政区を

    調整すること。

(5)人権、言論の自由、結社の権利の保証。

 

 

 

p253

 

「アギナルドの国外退去」

 

その「協定」に付随する書類は、1897年12月14日と15日に

署名され、アギナルド将軍はビアクナバトを離れ、自由意思で

香港に国外退去する準備をした。 

・・・・

1897年12月27日、アギナルドと28人の仲間は、

蒸気船Uranusに乗船し、香港へと渡った

 

・・・・

 

香港では、アギナルド将軍は、いわゆる「香港議会」と呼ばれる

ものを再組織し、革命政府を継続した。 そして、それを

「国家最高委員会」へと拡大した。

 

 

p253

 

「協定違反」

 

スペインとフィリピンの当局は双方ともに、「ビアクナバト協定」

の条件に忠実に従うことが出来なかった。

 

・・・

 

戦争賠償金の1,700,000ペソの内、600,000ペソは

スペインにより実際に支払われた。

・・・・・その他の1,100,000ペソは支払われることが 

なかった。 ・・・・

武装解除し田舎に戻ったフィリピン人の愛国者の多くが、

逮捕され、投獄され、迫害された・・・

・・・改革はひとつも認められなかった・・・・

 

 

p254

 

フィリピン人側も、・・・スペインによる支配を転覆する計画を

継続した・・・・

 

 

「ビアクナバト後にも平和はなかった」

 

ビアクナバトに於いてスペインが買い取った平和は、幻想となった。

 

・・・Zambalesの革命家・・・南イロコス州のCondon、・・・

スペイン軍がビサヤの船乗りを虐殺・・・セブでの反乱・・・

1898年の「血の聖木曜日」・・・ルソン島中部・・・

ボホール、セブ、パナイ、その他の島々・・・

 

フィリピンではそのような状況であった。

その時、世界のあちら側では、スペインとアメリカの 

戦争が勃発していた。

 

・・・革命は、ほんの束の間の休暇をとれただけだった。

新しい力の登場によって短くされた ―― アメリカ合衆国である。

 

 

=== さてさて、ボニファシオが処刑され、共和国が樹立され、

    和平協定が結ばれ、アギナルド大統領が香港に移った

    けれども、革命の反乱は収まらず。

 

    そのどさくさに、アメリカがスペインと戦争を

    おっぱじめた。

 

    次回 114号は 「アメリカがやって来た」ですよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 112  革命政府転覆の共謀とボニファシオ最後の闘い

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」

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p246 

「新しい革命政府転覆の試み」

欲求不満のボニファシオは、好意での彼の指導力を失うことを

受け入れることを拒否し、新しく樹立された革命政府を転覆

しようと努力を傾けた。 

=== さて、この後は、ごちゃごちゃといろんなことが

    書かれているんですが、重要なポイントになる部分は

    すでに翻訳したところだと思うので、

    しばらく手抜きで進めます 

p247 

ボニファシオの、アギナルドとその革命政府を転覆させる

ために軍を組織しようという計画は、子供の風船がちくりと

針をさされたように破裂してしまった

 

Naic革命会議」

アギナルド大統領は、1897年4月17日にNaicに於いて、

革命会議を招集した。 度量の大きい男は、彼に対して

ボニファシオと共に陰謀を企てたマグディワンの役員たちを

許し、その会議に彼らを招待した。

このNaic会議で、アギナルド大統領は組閣を行なった

 

p248

Naic会議で取り上げられ承認された重要事項は以下の通り:

(1)新しい国旗、赤、白、青、白い三角形の中心に

太陽を描いたものを採用し、カティプナンの赤い旗を

置きかえる。

(2)革命軍に新しい戦闘部隊を加えて再編する。

(3)軍人の制服を採用 - rayadillo

(4)軍人の階級と階級章を新しい規則で定める。 

=== フィリピンの国旗については、こちらのサイトでどうぞ:

http://philippinesflag.facts.co/philippinesflagof/philippinesflag.php 

平和な時と、戦時とでは、国旗の掲げ方が違うんです:

http://labaq.com/archives/51810242.html

=== ちなみに、バギオ市内に、「アギナルド博物館」が

    あります。 独立当時と思われるフィリピンの国旗も

    館内に展示されています。

 http://janl.exblog.jp/13856326/ 

    また、こちらのマニラ新聞のサイトには、

    戦前にバギオに住んでいた古屋正之助氏

    アギナルド大統領との関係、そして国旗の写真も

    掲載されています。

 http://www.manila-shimbun.com/navi_manila/navi_pdf/vol3/navi0309.pdf

 

p248

「ボニファシオの最後の闘い - Limbon

彼の危険な試みが崩壊した後、ボニファシオは、彼の妻、

二人の兄弟、そして忠実な兵士とともに、Limbonに逃走した。

そこで彼は、彼の基地をつくった

・・・アギナルドは・・・Limbonに派遣し、ボニファシオと

その仲間を逮捕しようとした。 

・・・ボニファシオは抵抗し、激しい戦闘となった。

いつものように、ボニファシオは負けた。

・・・ボニファシオは、・・・囚人となり1897年4月29日に

Naicに連行された。 

p248

「ボニファシオ兄弟の軍法会議」

p249

次の日(5月6日)、戦争委員会はその裁定を下した。

ボニファシオ兄弟を有罪とし、死刑が宣告された

ボニファシオは、・・・「幽閉」に変更するように命令をだした。

・・・その減刑の命令を聞いて、ノリエル将軍とピオ・デル・ピラール

は、アギナルド大統領のところに急ぎ、その減刑の命令を取り下げるよう

懇願した、それは「ボニファシオを生かしておくことは、革命運動を

危機に落し入れる」からであった。

・・・説得され、アギナルドは、減刑の命令を撤回した。 

=== 革命のリーダーでありながら、戦闘では負け続けた

    ボニファシオ。 そして、革命政府転覆の共謀罪。

    なぜ、このボニファシオが人気があるのか、

    フィリピンの人たちに聞いてみないといけません。

    この本の著者がスペイン系の人らしいので、

    そこになんらかの理由でもあるんでしょうかね。

    この本自体がアギナルドに偏っているとか・・・

・・・ さて、次回 113号は 革命運動の章の最後の部分です・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月19日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 111 革命政府樹立と 選挙に敗れた ボニファシオ

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」

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p243 

「イムス会議」 

マグダロとマグディワン議会の対立は革命運動に対して破滅的な

ものであることが証明された。 それは、Polaviejaの部隊に対して

彼らの分断された兵力は敗北したからである。

彼らの違いを調整し、ひとつの革命政府の下に統合するため、

マグダロは二つの派の総会を1896年12月31日に主催した

――それはリサールの処刑の翌日であった。

この会議で、脱兎のごときボニファシオは、マグディワン議会の

議長であったのだが、正しくはマグダロ議会の主催者及び長として、

バルドメロ・アギナルド将軍に属すべき議長の座を、傲慢にも奪取した。

ボニファシオは、重要なポストを全てマグディワン議会の役員

割り当てた。

・・・・・・

そのイムス会議では、なんら決定的なものは成し遂げられなかった。

 

p243

「総督Polaviejaの総攻撃」 

革命を壊滅する目的をもって、総督Polaviejaは、1892年

2月15日に総攻撃を開始した。 この日、フランシスコ・

ガルビス将軍は、総督の戦闘将軍の一人であったが、ザポテを

攻撃し、一方 Lachambre将軍は、ふたつの部隊を率いて、

ラグナ-カビテの境界を越えて、シランに向けて行軍した。

2月17日、エバンゲリスタ将軍は、アギナルド将軍の勇敢な

将軍の一人であるが、スペインの射撃手によって殺害された。

二日後(2月19日)、シランはLachambreによって奪取された。

アギナルド将軍は、ビト・ベラルミノ将軍とアルテミオ・リカルテ

の支援を得て、反撃を準備したが、シランの奪還には失敗した。

・・・・・ 

p244 

「テジェロス会議」

 

1897年3月22日、戦争の潮目が革命派に不利であった頃、

脱兎のごときボニファシオのマグディワン議会は、Tejeros

総会を開催した。 ・・・・・

・・・アギナルド将軍と他のマグダロの役員達は、その時

スペインの攻撃からマグダロの町を防衛していたので

欠席であった 

・・・AlvarezMontenegroの爆発的確執は、会議を混乱

中に落とし入れた。大混戦を避けるために、Lumbreras

休会を求めた。  

p245

・・・新しい革命政府を設立すべしというのが大多数

願いであった。 ボニファシオはこの政府の役員の選挙を

求めることを強要された。  しかしながら、彼は、

誰が選出されようと、それに反対することは出来ないという

多数の意見を確保することが出来た。 

無記名による投票は、驚いたことに、以下の結果となった: 

大統領・・・・・ エミリオ・アギナルド

副大統領・・・・ マリアノ・トリアス

総司令官・・・・ アルテミオ・リカルテ

戦争長官・・・・ エミリアノ・リエゴ・デ・ディオス

内務長官・・・・ アンドレス・ボニファシオ

・・・・

ボニファシオは、議会の規則と作法を知らず、怒って、

選挙の無効を宣言し、会議を解散し、彼のボディー・ガードと

一緒に会議場を立ち去った。 

しかしながら、愛国者の大多数は、選挙の結果とカティプナンに

代わる新しい革命政府の設立を認めた

・・・・

アギナルド将軍は、部下と共に、Tejerosへ向かい、1897年

3月23日の黄昏時に到着した。 しかし、彼の入場を拒否する

ボニファシオの兵士たちによって入口が警護されていたので、

Recollect   estate-houseに入ることができなかった。

アギナルドは、敵対する土地にいることを悟り、サンタ・クルズ

デ・マラボン(タンザ)に向かった。そしてそこのカトリック教会で、

マリアノ・トリアス(副大統領)、エミリアノ・リエゴ・デ・ディオス

(戦争長官)、そして アルテミオ・リカルテ(総司令官)と共に、

宣誓し就任した。

 

=== ボニファシオは 結構我がままな人だったんですねえ。

    選挙の結果には従うと言いながら、怒って出ていくなんて・・

    あっと驚く選挙結果に「茫然自失」ってところでしょうか。

    しかし、地元の若者たちには、アギナルドよりも

    ボニファシオの方が人気があるみたいなんですけど、

    何故なんでしょうねえ・・・・

 

=== こちらのサイトにこの当時の歴史に関連する

    観光地の解説があります。 (英文)

Cavite Historical Tour

https://traveleronfoot.wordpress.com/tag/bonifacio-trial-house/

 

・・・ それでは、次回 シリーズ112 を お楽しみに・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月16日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 110  ホセ・リサールの共謀罪、公開処刑、辞世の句

  

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」 

Img_2758

p242

リサールは軍事裁判所で、反乱、扇動、違法共謀について裁かれた

彼の裁判は、彼が有罪であるという決め手になるものがなく

茶番狂言であった。 それにも関わらず、軍事法廷は彼に死刑を

宣告した。 Potavieja総督は、軍事法廷の死刑の評決を確認し、

12月30日の朝にリサールを処刑することを命じた。

1896年12月29日に、リサールは親友である フェルヂナンド・

ブルメントリット教授(オーストリア人)に最後の手紙を書き送り、

以下の通り無罪であることを宣言した:

「私は反乱の罪に関しては無罪である。 私は穏やかな道義心を抱いて 

死んでいく。」

1896年12月30日の夜明け、彼の処刑の2~3時間前に、

リサールは 香港から来たアイルランド人の恋人ジョセフィン・ブラケンと

フォート・サンチャゴの礼拝堂で、カトリックの儀式にのっとって結婚した。

結婚式は ヴィンセント・バラクエル神父(イエズス会)によって

執り行われた。 

午前6時、リサールはルネタでの公開処刑の準備が出来ていた。

30分後に、フォート・サンチャゴからルネタへの死の行進

始まった。 リサールは、黒いスーツを着て、腕は後ろ手に

肘から肘に縛られ、厳重な警護の中を、太鼓の鈍い音の中へ

行進した。 フィリピン人と外国人の大きな群衆が その死の行進を

見つめた。 ルネタに到着すると、リサールは静かに、銃殺執行隊

に背を向けて立てと言われたその場所へと歩いた。

7時30分丁度、銃殺執行隊は彼を背中から銃撃した。

超人的な力を持って、彼は銃弾だらけの身体を翻して、

地面に倒れ落ちた。 ―― リサールの顔は昇る太陽に向かって

上を向いた。 こうして、リサールは、彼が辞世の句に描いた

ように、最期をとげた。 

我は死す。 夜明けに天国が絢爛たる時に。 

そして、最後の日はその夜の上に昇り、 

朝がそのあかね色を深めるならば、 

我が生ける血を受け取れ、そして広めよ 

呼び覚ますおぼろげな光を受けとめよ。 

=== 一応 上のように翻訳はしましたが、

    私には詩歌を翻訳する才能はないので、こちらのサイトで

    邦文訳をご覧ください 

今日の辞世の句 - 新・立命館大学戦史研究所

http://ufononatu.blog10.fc2.com/blog-entry-503.html

「空が朱に染まるのを見る時私は死ぬ
 
夜の暗い闇の後で私はこう言おう
 
もし朝の光を染めるために色が必要ならば
 
我が血潮を注ぎ正しい瞬間に散らして
 
君の旭で金色に輝かしてくれ!」

 

p242 

「リサール受難の重要性」 

リサールを処刑したことは、フィリピンでスペインが行なった

大きな失敗のひとつであった。 フィリピンの人々は彼を

自由の殉教者として喝采を送り、フィリピンの国民的英雄となった

のである。

スペインの銃殺隊の銃弾はリサールの息の根を止めたが、

スペイン帝国を破壊するという愛国者たちの思想を止めることは

出来なかった。 例えば、偉大なフィリピンの叙事詩人である

セシリオ・アポストルは スペイン語で熱狂的に歌い上げた 

おお、奴隷とされた国の救い主よ! 

その墓の神秘の中で、泣くのではない 

スペイン人のつかの間の勝利を気にかけることはない; 

もし銃弾が汝の頭蓋骨を破壊したというのなら、 

同じように、汝の思想は帝国を破壊したのだ。

 

=== 上の詩も私の翻訳なので、あてにしないで下さい。

    残念ながらこの詩の翻訳はインターネットでは

    探し出せないのでご勘弁ください。

    要するに、ホセ・リサールという人物を

    わざわざスペインから呼び戻して、公開処刑に

    しちゃったのは、火に油を注ぐ 結果になって

    しまったということですね。

 

    キューバの医者の仕事をやらせときゃ、こんなこと

    には成らなかったかもしれないのにねえ。

    まあ、いずれにしても、フィリピン革命は時間の

    問題だったのでしょうが。 

・・・ では、次回 シリーズ 111 でお会いしましょう・・・・

 

 

 

 

 

 

 

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私には情というものが足りない。 DNAのプログラムの損傷か?

私には情というものが足りない。 DNAのプログラムの損傷か?

先日 NHKの番組で、火野正平の「心旅」を見た。
倉敷編で、水島港が目的地。
大学時代に、水島港から丸亀港へのフェリーに乗り
香川県の大学で勉強した女性。
善通寺にある寮暮らしで、親恋しさに4年間泣き暮らした
という話だった。

こんなに情の深い人がいるんだなあと、
この番組を観て、私自身のことを振り返った。

私には情が無い。
前々からそんな気がしてきた。

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情が無いというよりも、感覚、感情がぼ~っとしている
と言った方が正確かもしれない。

私には15歳上の姉がいて、母親が家業や家事で忙しく、
姉が私の世話係だった。

小さい頃から、その姉からよく言われた。
あなたは 本当に暑さ、寒さが分からない子だねえ。」
・・・季節感覚が鈍く、着るものに無頓着で、
着た切り雀みたいな私だったからである。
そして、その姉が、これを着なさい、あれを着なさいと
やってくれていた。

私が24歳の頃、母親が癌で亡くなった。
30歳の時 父親が脳卒中で亡くなった。

しかし、その折も、なんだかぼ~~っとしていて、
涙を流した記憶は無い

特に父が、年末に、夕ご飯、晩酌の後、風呂上がりに
テレビを観ていて、昏睡状態に入り、数日間寝たままになり、
12月31日に、70歳の誕生日に他界した時には、
兄弟揃って 「上手に死んでくれた」 と笑い合った。

父と兄は、その当時 和菓子屋をやっていて、
兄嫁と姉も、一緒に働いていた、家内工場だった。

年末には、ご近所の多くのお客を相手に、正月の餅の
賃突きをするので、クリスマスの後、30日までは
その餅つきで毎年大忙しだった。
大忙しの間は、いびきをかいて寝てくれていた父、そして、
誕生日に死んで 市役所から70歳以上の死に際して
もらえる見舞金もゲット、と言うことで「上手に死んでくれた」のだった。 
だから涙も出ず、笑い合った。

私が高校生だった時までは、高校の同級生のアルバイトと
一緒に3~4人で、出来たての餅の配達をやったりした。
雪の中を配達した年もあった。
暑さ寒さに鈍感だったのは好都合だった。

高校を卒業した後、東京の英語専門学校で、貿易英語や
ビジネス英語を2年間学んだ。

貧乏だった実家からの助けが要らないように、
新聞配達の奨学生になり、神奈川県の販売店に寝泊まりして、
朝夕刊を配達し、集金をし、そして週末には営業活動もやった。

ここでも、季節に鈍感という体質は好都合だった。
雨や雪の日でも、雨合羽をかぶり、その殻の中に閉じこもるように
歌を歌いながらペダルを漕いでいた。

・・・・・

20歳の頃。
亀井勝一郎、小林秀雄などのエッセーや、ショーペン・ハウエル
などの哲学書にかぶれた。

その頃だったと思うが、「耳を澄まして、生きていこう」と思った。
自分の鈍感さを自覚して、もっと感覚を研ぎ澄まさなくてはと
思ったのだと記憶している。

しかし、その後の母と父の死に際しては、効果はなかったようである。

今考えると、理屈の耳は澄ませても、情の感覚を磨くことは
結局出来なかった
ということになる。

・・・・

情の感覚と言えば、おそらく恋愛に関する情が、誰しも
筆頭に挙げられるのだと思う。

私の場合も、ちゃんとDNAに刻まれたプログラムに従って、
それは起動された。

本来、情というのは、そのプログラムにどのように、どの
程度の強弱をもって刻まれているのか。 そして、それが
滞りなく起動されるかという問題かもしれない。

しかし、恋愛のプログラムは予定どおり働いたが、
親に懐く情や子供に関わる情は、私の場合は、上手く
プログラムされていなかったらしい。

もしかしたら、生まれた時にはちゃんとプログラムされて
いたのかもしれないが、小学校低学年の頃に、
友達の家で遊んでいて、崖から落ち、階段をごろごろと
転がり落ちて、頭を打ち、医者から「御臨終」を宣言され、
その後 息を吹き返した時に、プログラムに狂いが出たの
かもしれない。

・・・・

私は全く子煩悩ではなかった
親の情というものが まともに発達しなかったようにさえ思う。
小さい子供は 極端にいえば 猿に対する感覚に似ていた。

私が二人の娘に教えたことといえば、自転車の乗り方ぐらいであった。

勿論、親としての責任という、理屈に於いては、自覚はあった。
しかし、「子供が可愛いくてしょうがない」というような情は
なかった。

子供は 周りに影響されてその真似をする猿である・・・と
言うような気味の悪さがあった。

だから、自分なりの考えを持って、ものを言うようになって
初めて、「ようやく人間になったか」と嬉しくなった。

・・・やっぱり、こういう感覚は親子の情としては変だと
思うが、プログラムに損傷がある以上 しょうがない。

・・・・

ここ数年、仏教の経典に関連する本をいろいろと読んできた。

その中で一番印象に残っているのは、なんと言っても
原始仏教の釈迦が言ったとされる 「ブッダの言葉」である。

「「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ」   
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

この中で、お釈迦様の思想を振り返ってみると、こんなことが
書かれていたんです:

3.つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。

10.人間の迷いの世界である「世間」には五種の欲望の対象があり、
意(の対象)が第六であるとされる。
これらに対する貪欲を離れることによって、苦しみから解放されると
している。

5. 出家修行者のあり方については、
妻、子供、家族、親戚、世間との一切の接触を断ち、「独り」で
村はずれの洞窟や木の下に住み 一切の所有をしないことを求めている。
最初期の仏教修行者は住居とか臥床というものをもっていなかった。
さらに、せいぜい毛布か布にくるまって寝ていただけ、とも書いてあります。。

21. 子供が死んでも嘆くのは良くない
人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人であれ。

==== どうも、こういうのを読んでいると、
     情を捨てろと言っているように見えるんですよねえ。

     出家ということだから、世間を捨てる、情を捨てる、
     子供が死んでも嘆かないってことにはなるんでしょうが、
     どうも 人間としては DNAのプログラムから
     解き放たれるように修行をしろと
言っているように
     思えてしまうんです。

     元々、お釈迦さんは、人間が苦から逃れる為には
     どうしたらいいのかを覚ろうと努力したそうですから、
     苦の元になっている情を断ち切れということには
     なるのだと思います。

     ってことは、私が小学校低学年の時に「御臨終」に
     なった時に、私は既に「仏」になっていたから、
     息を吹き返した後に 情を忘れちまったってことに
     なるのかな???
   

不真面目なオチで すんません。

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 109  革命軍の分裂、そして リサールの運命

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」 

Img_2759

p240

「マグディワンとマグダロの議会」

革命が勃発した時に、カビテ州では、ふたつのライバルとなった

カティプナンの州議会があったことに留意すべきであろう。

―― バルドメロ・アギナルド(エミリオ・アギナルドの従兄)が

率いるイムスを州都とするマグダロ議会と、マリアノ・アルバレス

(ボニファシオの妻であるグレゴリア・デ・ジーザスの叔父)を

代表とする、ノベレタを州都としたマグディワン議会である。

ボニファシオがカビテに到着するとすぐに、マグディワン議会は

以下の役員をもって再組織された:

King (王)…………………………………………….Andres Bonifacio

Vice-King(副王)…………………………………Mariano Alvarez

(以下省略)

・・・・・

これに負けじとばかり、マグダロ議会は同様に以下の役員で

組織した: 

President(大統領)……………………………Baldomero Aguinaldo

Vice-President(副大統領)……………….Edilberto Evangelista

Lieutenant General(中将)……………….Emilio Aguinaldo

(以下省略)

=== この時点では、エミリオ・アギナルドはふたつの議会の

    一方の中将に過ぎなかったわけですね。

    まあ、軍の大臣ということでしょうが。

    しかし、一番上の地位を キング(王様)ってするのって

    どういうことかな? 革命軍なのに・・・

    スペインに対抗して、こっちだって王様だ~~いって

    言いたかったのかな?

 

p241 

ボニファシオがカビテ州に来る前までは、これらのふたつの

カティプナン議会は、ライバルではあったものの、お互いに

協力して共通の敵に対していた。 ・・・・・ 

カビテにボニファシオが到着すると、この・・・良い関係は

終わり、不和が自由論者の依って立つところを弱体化させた。 

・・・・ 

p241

「リサール博士の処刑」 

1892年以来、リサールはミンダナオ島の寂しいスペインの

辺境の地であったダピタンに流刑の身となっていた。

彼はそこで、医療行為を行ない、町の水道設備を造り、

少年たちの為の学校を開き、文学の著作や科学的な研究を

続けていた。 

4年間の静かな生活の後、彼はキューバにおけるスペイン軍の

外科医の職に希望を出した。その当時、キューバでは革命の

嵐が吹き荒れていた。  彼の陳情は認められ、マニラに向け

出航し、1896年8月にマニラに到着した。

フィリピン革命はその時勃発した。

少々遅れて、彼はスペインへ行くことを許可された。

スエズ運河で、船長はマニラから電信を受け取った。

それは、船長にリサールの逮捕を命じるものだった。

バルセロナに到着すると、リサールは囚人とされ、

マニラに送り返された。 そして、そこでフォート・サンチャゴに

投獄された。 

==== さあ、さあ、さあ、皆さま お立ち会い。

     いよいよ、かの有名な ホセ・リサールの処刑ですよ。

     この処刑がフィリピンの歴史の中でどのような

     意味をもっているのか、実に興味のあるところです。

     しかし、キューバで外科医の職に就きたいって、

     そんなエピソードがあったんですね。

     リサールはどんなことを考えていたんでしょうか。

・・では、次回 シリーズ 110 をお楽しみに・・・

 

 

 

 

 

 

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2017年5月14日 (日)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 108  人気のボニファシオ と 実力のアギナルド

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

Img_2758

「第18章  フィリピン革命」

 

 

 

p236

 

「武装抵抗の拡大」

 

サン・ファンでのボニファシオの破滅的敗北の後、革命の炎は

森林火災のように、マニラ周辺や他の町々へと広がっていった。 

武装蜂起が、パシグ、パテロス、タギグ、マンダルヨン、モンタルバン、

サン・マテオ、そして、モロング(現在のリサール州)の

政治的地区の町々で勃発した。

ボニファシオ指令下のこれらの全ての反乱はスペイン軍によって

鎮圧された。 

しかしながら、カビテ州に於いては、その反乱はもっと成功した。

なぜなら、その愛国者たちには有能な軍の指揮官、とりわけ

エミリオ・アギナルドがいたからだった。 彼は、1896年

8月31日にカウィットでの反乱を率い、又、同日にノベレタを

解放したマリアノ・アルヴァレズも居た。

 

 

p237

・・・・やがて、カビテ州は革命の拠点となっていった。

 

北部では、マリアノ・ラネラ司令官が 「ヌエバ・エシハの叫び」

という反乱を起こし、サン・イシドロ(ヌエバ・エシアの州都)の

スペイン軍の陣地を1896年9月2日に攻撃した。

彼は、町を占拠したが、スペインの鎮圧軍が到着したため、

4日後に撤退した。

 

・・・

 

=====

「ヌエバ・エシアの叫び」については、こちらのサイトでどうぞ:

Mariano Llanera

https://en.wikipedia.org/wiki/Mariano_Llanera

 

Mariano Nuñez Llanera (1855-1942) of Cabiao, Nueva Ecija. He was a Filipino

General who fought in the provinces of Bulacan, Tarlac, Pampanga, and

Nueva Ecija. He is one of the three Fathers of The Cry of Nueva Ecija, along

with Pantaleon Valmonte and Manuel Tinio.[1]

 

 

 

 

p237

 

「恐怖のスペイン統治」

 

スペイン当局は、革命の上昇機運を抑え込む為、死に物狂いで

恐怖政治を進めた。 マニラや州に於いて、数百人のフィリピン人

著名な知識人や産業界の著名人なども逮捕され投獄された。

サンチャゴ要塞、ビリビド刑務所、そして市の城壁の下の地下

の牢獄は無実の被害者で溢れ返った。

 

例えば、サンチャゴ要塞の下の小さな地下牢には169名が

投獄された。 この地下牢には通気の為のひとつの小さな空気穴

があるだけだった。  ある雨の日、馬鹿な見張り番が、雨が

入らないようにと、この空気穴を塞いでしまった。

翌朝、窒息のため、54人の囚人が死体となっていた。

 

1896年9月6日、4名のカティプナンのメンバーが

・・・・銃殺刑に処され・・・カティプナン最初の受難者となった。

 

 

p238

 

およそ1,000人の愛国者たちは、銃殺刑を免れ、

グアム、フェルナンド・ポ(アフリカ)、その他のスペインの

流刑地に流された

 

 

=== グアムにフィリピン人が多いというのは

    こういう歴史にも理由があるんですね。

    おそらく流刑された人たちが親戚などを呼び寄せた

    こともあったでしょう。

    フィリピン人の移民については、こちらでどうぞ:

 http://www.waseda.jp/sem-urata/2003/report/taikou-semi98/keio98/keio9800.html

 

 

    ちなみに、アフリカのフェルナンド・ポというのは

    こちらに地図がありました。

    ポルトガルが持っていたものをスペインが取ったようです。

 http://www.zum.de/whkmla/histatlas/centrafrica/haxgeq.html

    今のカメルーン(ナイジェリアの東隣り)の領土に

    なっているように見えます。

    今はBIOKOという名前のようです。

    ・・・おっとっと・・・カメルーンじゃありません。

    カメルーンの方に近いけど、赤道ギニアの領土だそうです。

    「ビオコ島」

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%82%AA%E3%82%B3%E5%B3%B6

    「1472年にポルトガルフェルナン・ド・ポー (Fernão do Po)

よって発見され、フェルナンド・ポー島と命名された。」

 

p238

「ビナカヤンとダラヒキャンの 対をなす戦闘」

スペイン軍に対する革命軍の初期の勝利の中で、ビナカヤンと

ダァヒキャンのふたつは決定的に輝いていた。

これらの対の戦闘は、1896年11月9-11日に

同時に戦われたもので、スペイン正規軍の初めての屈辱的

敗北を見て、又、スペインの誇る旗がフィリピンの塵に

初めて汚されたものであった。

・・・・・・

ふたつの戦闘は1896年11月9日の朝に始まった。

それは総督ラモン・ブランコの直々の指揮によるスペインの

侵略軍が、スペイン艦船による重海軍砲兵隊を伴ったもので、

ダラヒキャンの海岸に上陸し、彼は指揮所を建てたのでした。

直ちに、彼はその軍を二つの縦隊に分けた。 ・・・・

3日の間、物凄いハリケーンのような激しさで戦闘は

荒れ狂い、双方の兵士たちは甚大な犠牲を被った。

p239

 

11月11日の夕刻、ブランコは二つの戦闘に勝つことは

出来ないとみて、総退却を命令した。 敗退した部隊を

待機していた艦船に引き揚げさせ、勝利の冠も無いままに

出航した。・・・・・

 

「アギナルド将軍の頭角」

革命の騒乱と戦闘の中から、ボニファシオと交代する運命の

新しいリーダーが頭角を現した。 それはカウィットの

若き町長 エミリオ・アギナルドで、闘う愛国者であり

大学中退者であった。

 

=== アギナルド将軍については、こちらでどうぞ:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9F%E3%83%AA%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89

マニラサンファン・デ・ルトラン高校に進学したものの、

1882コレラによる高校の閉鎖後、復学せずに13歳にして

学校教育を終えている。」

・・・今読んでいる本では、college drop-out(大学中退)と

書いてあるんですが、wikipediaでは高校中退とあります。

13歳ですから日本でいえば中学中退ですね。

しかし、17歳で地区長、25歳で町長になっていますね。

これは私の下衆の勘繰りなんですが、この歴史本は大学で

使われる教科書ですし、フィリピンは学歴を非常に重視

するお国柄なので、もしかしたら著者自身が将軍の為に

学歴詐称をしているのかも・・・???

 

p239

アギナルドが最初に世間の注目を集めたのは、彼が

単発の戦闘で 市民警察隊の軍曹を打ち負かし、かれの

故郷の町カウィットで起こした反乱が成功した時であった。

・・・・1896年11月の初期に、彼はバタンガスまで

遠征し、スペイン軍からタリサイの町を解放した。

革命家たちの多くに印象付けたのは、・・・彼の指揮官と

しての功績であった。

 

「ボニファシオ、カビテに行く」

カビテのマグディワン地区のカティプナンの招待により、

ボニファシオはモロングの隠れ家を出て、カビテ州に行き、

アギナルドの回顧録によれば、1896年12月1日に到着した。

彼は、妻と二人の兄弟、ルシノ司令官と20名の兵士を伴っていた。

アギナルドは、その時、ザポテ、ラス・ピニャスそしてバコールで

スペイン軍と闘っていたが、部隊を離れ、マグダロ議会の拠点で

あるイムスで ボニファシオを歓待した。

・・・・

p240

その後すぐに、マグディワン議会は緊急会議を開催し、ボニファシオに

Hari」(王)の称号を与え、彼を喜ばせた。

 

=== さあ、フィリピン革命は 本格的な戦争に突入しました。

    この後 どんな展開をしていくのでしょう。

 

・・・ 次回 シリーズ 109 をお楽しみに・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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夢で会えたら~~、素敵なことね~~~: ハン、ハン、ハン の オノマトペ

ハン、ハン、 ハン、・・・・・

日曜日の朝、私はこんな感じの音で目が覚めた。

なんだこの音は?

かなり大きな男の声のような・・・

寝室の外の道路側から聞こえていた・・・

誰かが携帯電話で話しているのか?

しかし、 ハン、ハン、ハン・・・
それとも ハッ、ハッ、ハッ・・か?

しばらくその声を聞いていたら

その声の他に 遠くから犬の声も聞こえてくる。

結局、遠くの2,3匹の犬に呼応して
寝室のすぐ外にいる犬が 吠えている・・・らしい。

私は、安心して、また寝入った。

・・・・

そこは何の部屋だか分からなかった。
しかし、多分 なにか演劇の練習でもしているような
部室のような雰囲気だった。

乱雑なその部屋にテーブルがあった。
そして、その上に何か書いたものが置いてある。

その紙はたぶん演劇の台本みたいなものだったのだろう。

私の眼に 「班」という文字が輝きながら飛びこんできた。

ああ、この文字の音だったのか・・・

現実に聞いた犬の声らしきものの文字が、夢の中で示された

しかし、本当に「班」だったかどうかはいまひとつ定かではない。

もしかしたら、その文字は、

犯、版、判・・だったかもしれない。

でも、半ではなかったし、反でも藩でもなかったと思う。
シンプル過ぎず、煩雑すぎない漢字だった。

・・・・・

「夢で会えたら」

https://www.youtube.com/watch?v=RYdsGLvOyfo

・・・・

5img_2590

毎日曜日の朝食は アルスカルドと呼ばれるフィリピンのお粥
と決まっている。 鶏肉が入っていて、ゆで卵も入れる。

私がこの家に住むようになって以来の約束事である。
食事は大家さんの台所でいただく。

食事をしていると、私のスプーンとフォークの音を聞きつけて、
トラちゃんとミケちゃんがやってくる。

ミャ~、ミャ~、ミャ~・・・」

遠慮がちな か細い声は男のトラちゃん、

ニャ~~、ニャ~~、ニャ~~・・・」

クリアな大きい声は 女のミケちゃん。

トラちゃんは、猫用の皿が置いてある冷蔵庫の上で
うろうろしている。

ミケちゃんは、台所のドアを頭で押して、ドアをばたばた
させるのが常である。

・・・・

朝食の後、外に出て一服していた。

犬の声が聞こえてくる。

ワン、ワン、ワン・・・」 正統派の声である。

ウォン、ウォン、ウォン・・・」と太い声も聞こえる。

しかし、あの 「班、班、班・・・」は聞こえない。

「ハン、ハン、ハン・・」なんて犬の声は
生まれて初めての経験だった。

おそらく この犬の声が 日本語に犬の声として
登録される日はこないだろう。

日本語の オノマトペ は面白い

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 107  ボニファシオの特攻隊と大虐殺

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

いよいよ フィリピン革命です・・・・

 

 

「第18章  フィリピン革命」

Img_3982_18

 

p234

フィリピン革命(1896-1898)は、自由に向かっての

フィリピンの人々の国民的闘争であった。 これはスペインに

対しての100以上の反乱の頂点となったが、部族反乱の全てが

部族民の反乱であり、失敗へと消滅していった。

 

 

フィリピン革命は1896年8月26日にバリンタワクの丘で

始まった。 それは、アンドレス・ボニファシオ司令官の下で

起こされたタガログ民衆のカティプナンの反乱としてであり、

この反乱は主に軍の機能不全によるボニファシオの引き続く

敗北によって失敗した。アギナルド将軍が軍の最高司令官

として彼にとって代わることによって、革命政府の設立

失敗したカティプナンのテジェロス会議での解体がなされ、

革命の動きは新たな推進力を得たのだった。

アギナルドの有能な指導力の下で、それはフィリピンの人々

(知識人、中間層、そして民衆)の自由の為の国民的革命と

なり、カウィットでフィリピンの独立を宣言し、マロロスに

於いて最初のフィリピン共和国を建国することとなった。

 

「バリンタワクの叫び」

1896年8月19日のカティプナンの非劇的発覚の後、

ボニファシオ、エミリオ・ジャシント、そして多くのマニラの

カティプナンのメンバーたちはスペインの法律の捜査網を

逃れなければならなくなり、カロオカンとその近隣の村に 

逃げ込んだ。 

・・・・・ 

会議は順調に開始された。・・・・・

メンバーたちの荒れ狂う論争に怒り、ボニファシオが怒鳴った

「兄弟たちよ! 君たちはスペイン人の手に落ちた我々の仲間

の非劇的な運命を分かっているな。 我々の運は尽きた。

我々は家に戻ることは出来ないんだ。 もしそうしたら、

逮捕されて処刑されるだろう。 今、我々は何をすればよいのか?」

p235

「闘うぞ!」、愛国者たちの多くが叫んだ

ボニファシオは演劇のように彼のセデュラ証明書(スペインの

臣下であることのシンボル)を取り出し、それを破り捨て、

そして叫んだ、「フィリピンよ永遠なれ!」。

彼に倣い、カテイプナンの仲間たちは、自身のセデュラ証明書を

破り捨て、気勢を挙げた。 

「革命の最初の銃撃」

1896年8月26日の朝、嵐のような会議の後、

ボニファシオとカティプナンのメンバーは、空腹で疲れていた・・・

・・・昼食の後・・・・市民警察が来るとの警告があった・・・

市民警察が近づいたので、愛国者たちは攻撃した。

彼らの武器は劣悪で、軍としての規律も不足しており、

敵のマウサーとレミントンの銃には及ばなかった

・・・このカティプナンのメンバーが革命の最初の犠牲者と

なった。

 

「サン・ファンの戦い」

・・・・それは嘆かわしいほどに不利な闘いであった ――

スペインの砲兵隊と近代的なライフルに対し、フィリピンの

ボロ刀、竹槍、魔よけ、そしていくつかの古い鉄砲があるだけ

だった。 戦術も戦略もなく、ボニファシオは 彼の兵隊たちを

雨あられの一斉砲撃とライフルの銃弾に対して、特攻させた。

 

=== 圧倒的な武器の差・・・刀と竹槍、それに魔よけ??

    第二次世界大戦の時のどこかの精神論の国の

    やり方と似ていますね。

    ボニファシオは自分の仲間たちを玉砕させてしまった。

    ホセ・リサールにはそれが見えていたのでしょうか。

 

p236

ボニファシオの苦境に留めを刺すべく、・・・マニラからのスペイン

増援部隊が到着し、・・・・この戦闘は大虐殺となった 

・・・ボニファシオは軍司令官には向いていなかったことを

証明してしまった。 しかし、彼は偉大な革命の組織者であり

勇敢な戦闘員であった。・・・・

全部を合わせると、ボニファシオは29の戦闘を闘い、全てに敗北した。

 

「ブランコ総督による戒厳令の宣言」

1898年8月30日の午後、サン・ファンで朝の戦闘があった

午後に、ブランコ総督はルソンの8州に戦争状態を宣言する

声明を発した。 - それは、マニラ、カビテ、ラグナ、バタンガス、

ブラカン、パンパンガ、ヌエバ・エシハ、そしてターラック州だった。

それらは、現在のフィリピン国旗の8つの金色の光線によって

表わされている。 

=== あっけなく敗北してしまった 血気盛んなボニファシオ。

    しかし、それがその後 どんな事態につながっていったのか。

 

・・・・ シリーズ 108 をお楽しみに・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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