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2019年2月25日 (月)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その41 若者よ、世界に飛び出せ、天正遣欧少年使節のように

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p436

 

1622年に元和の大殉教が起こった。

これは近世の殉教史上最大のもので、・・・長崎の西坂で、

神父や修道士ばかりでなく、老若男女含めて五十五人が殉教

した事件である。 神父はイエズス会、ドメニコ会、フランシスコ会

を含んでいる。

 

ことの起こりは・・・イギリスのエリザベス号が平戸に入港したことで、

・・・イギリス船船長は、その(拿捕したポルトガル船)船客の

なかにキリスト教の修道士がふたりいたことを幕府に訴えたので

ある。

 

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p438

 

集団的な憎しみがキリシタンに集中していたのであろう。

それはナチのユダヤ人虐殺の場合と同じである。

 

徳川はこの憎しみの上に鎖国体制を布いたのである。

世にいう太平の世もいっぽうにおいてこのような憎しみと

流血を土台にしていたのであった。

 

p439

 

イギリス、オランダ商館は連名して幕府に訴状を出し、

スペインの侵略の危険を訴え、両国の艦隊によるマカオ、マニラ

攻撃を予告し、朱印船のマカオ、マニラ寄港停止とポルトガル、

スペインの人、貨物の輸送を禁止するように願った。

 

 

p440

 

・・ネーデルランドの北部七州が・・・スペインから独立した

ときにスペインは致命的な打撃を受けた

このときイギリスのエリザベス女王はオランダ独立を側面から

援助した。

 

=== そして、スペインの無敵艦隊がイギリスに負けちゃった。

 

p441

 

三回にわたる英蘭戦争を通じてオランダは世界支配から交替し、

イギリスとフランスの支配の図式に変わる。

 

キリシタンは二重の意味で血の制裁を受けなければならなかった。

ひとつにはスペイン・ポルトガル帝国のスパイであるという理由

によって、もうひとつは神道の敵すなわち国体の敵であるという

理由によってである。

 

p442

 

長崎ではもっとも苛烈な禁制が実施され・・・

人界の地獄」と言われたほどの苛酷さであった。

・・・温泉の熱湯責めなどの拷問・・・

宣教師に便宜をはかった者と、その家族、妻子までを

刑の対象にした・・・男性は殺し、女は奴隷(性的奴隷)にした。

 

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=== 上の像は、フィリピン人で最初の殉教者

    されている ロレンゾ・ルイスです。

 

 

p443

 

家光は政権を確立し・・・

奉書船以外の海外渡航と、外国に住む日本人の帰国が

死刑をもって禁止され、それが第一次鎖国令となった。

 

1633年 小倉でジュリアンも捕まり、長崎に送られた。

・・処刑されたのはこの年の10月18日であった。

 

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=== 上の碑は、「長崎のマグダレナ」などの名前が

    あります。長崎市の教会の庭で撮影。

 

 

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=== 上の絵は、マニラの聖アグスティン教会博物館

    に掲げられているもので、左の絵が「長崎のマグダレナ」

    その遠景に「穴吊り」の光景が描かれています。

 

 

p444

 

穴吊りもまた竹中采女正が考案した拷問である。

・・・穴の中に逆さに吊る拷問・・・

地上に出ているのは腰から下だけになる。

 

転ぶという合図をするまでこのまま放置され、

転ばない場合はそのまま死ぬ。

・・・イエズス会のフィレイラは五時間で転んだ。

・・・ジュリアンは、・・五日間耐えた。

 

「幸いなるかな 正義のために迫害される者、

 天の王国はその人のものである」

 

=== さて、本文はこれで終わりました。

    結局 千々石ミゲルの関連は史料がなく

    謎のままであるようです。

    後は、大村藩の記録などを読むしかないのでしょうが、

    昔の漢文を読むほどの能力はなく・・・

 

 

p447

 

「エピローグ」

 

日本の歴史も日本一国の歴史資料ではとらえることができない

それが大航海時代以降の世界である。

・・・この近代世界は・・・スペインとポルトガルの世界帝国

支配が大きな枠組みになっているからである。

 

p448

 

大きく見れば世界のなかのすべての国を世界のひとつのシステム

のなかに包みこもうとする近代世界への大きな流れだった。

 

・・・江戸幕府が第一次鎖国令を出す1633年までの

八十余年間、日本はまさに「キリスト教の世紀」を迎えて

いたのである。

そのときほど日本が世界的であったことは明治以前にはなかった。

そのシンボルとして少年使節の派遣があったのである。

 

===  さて、この読書も完了しました。

     一言で乱暴に言ってしまえば、

     この本は「天正遣欧少年使節」の本というよりも、

     「戦国日本史とキリシタン世界史」みたいな本でした。

     それも、小説ではなく資料集+エッセイみたいな

     感じなのに、堅苦しい講義ではなく、著者のおちゃめな

     コメントもあいまって、その当時の人物の性格までを

     浮彫にしてくれるような歴史講座でした。

     こんなに長い本、分厚い本を、私のような忍耐力の

     ない男が最後まで読めたというのは、著者のお陰としか

     いいようがありません。

 

     どうもお付き合い、有難うございました。

 

== 完 ==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月24日 (日)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その40 千々石ミゲルの謎・・・天草四郎はミゲルの息子???

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p415

 

排耶蘇文書のひとつである「伴天連記」では、大村喜前が幕府に

よって長崎・大浦知行替えを強制されたとき、家臣となっていた

ミゲル千々石清左衛門が、この幕府の命令のかげにはイエズス会の

陰謀があるとして、キリスト教団全体の故事来歴を暴露したと

書いている・・・

 

・・それを聞いた喜前はただちに伴天連、イルマンを長崎に

送り帰し数多の教会を破壊し、肥後から尊い法華妙典の

上人を申し受けて・・・

 

p416

 

もしこの話を信用するとすればミゲルはファビアンとまったく

同じ動きをしたキリシタン奪国論の背教者であったということに

なる。

 

しかし、この大浦長崎知行替えについては、ルセナは「伴天連記」

とまったく異なる証言をしている。

 

p422

 

奇妙なことに、ルセナは、ミゲルが喜前の愛顧を失った

ばかりでなく、喜前は何度も彼を死刑にしようとしたので、

いとこにあたる有馬に逃れ、その家臣になったと書いている。

・・・そこで彼は家臣に重傷をおわされた。最後に有馬も彼を

追放し、1622,3年ごろまだ長崎に生きていると書いている。

ミゲルの最期はわからない。

要するに、ミゲルになにが起こったかはまったくほんとうのことは

わからないのである。

 

ルセナがミゲルにおいてもっとも許しがたいと見たのは、彼が

なにものも信じていないことであった。

 

p423

 

もしミゲルが、大村藩や有馬藩で、キリシタンではないにも

かかわらず殺されそうになったとすれば、それは仏を拝まなかった

からであろう。 こうして彼はどちらの勢力からも見捨てられた

のである。

 

=== ことほど左様に、千々石ミゲルは謎なのでありますねえ。

    そこで、もしその墓だと期待が出ているものが

    本当にミゲルのものであって、そこにキリシタンの

    印となるものが出てきたとしたら、どうでしょう。

 

    もしかしたら、ミゲルはキリシタンの信仰を守って

    いたけれど、だからといって、いきなり仏教に鞍替え

    するということもできなかったということじゃ

    なかったのかなと思うんですけど・・・・

    組織としてのキリスト教には見切りをつけたけど、

    信仰は保っていて、死ぬまでそのことは隠し、

    それこそ一人隠れキリシタンになったんじゃないか・・・・

 

p423

 

1638年・・・この年の10月20日に日本を出発し、

11月4日にマカオに着いた・・・二隻の船・・・

1637年に勃発した「島原の乱」についての消息を持ち帰った。

 

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p424

 

「・・・十八歳の青年(天草四郎のこと)を長に選んで

領主に反乱を起こしました。 その青年は昔ローマに行った

四人の日本人の一人ドン・ミゲルの息子であると言われています。

彼らは城塞のようなものを作ってそこに立て籠もりました。」

 

・・・この荒唐無稽な話は、・・・長崎で人々が語り合っていた

噂のなかで、ミゲルがどのように言われていたかを示すもの

でしかない。

 

===  いいですねえ、こういう謎めいた話。

     もしかしたら、このようなプロジェクトの為に

     ミゲルは敵も味方も欺いていたのかも・・かも?

 

 

 

 

p426

 

マルティーノとちがってジュリアンは長崎では顔を知られて

いなかったので、信者のあいだに潜伏した。

それから二十年におよぶ苦難の潜伏布教がはじまった。

 

=== 20年も潜伏したとは凄いことですね。

    この当時なら 今みたいに近隣も疎遠じゃなく、

    周りの監視の目も厳しかっただろうに。 

 余程キリシタンのネットワークが

    しっかりしていたとしか思えない。

 

 

p427

 

1614年の追放令が出たあと、 忠興は秀次にキリシタンを棄て

させようとした。・・・

 

p429

 

1620年に忠興は隠居して息子の忠利が豊前の領主になった。

・・・1632年、細川家は肥後五十四万石の領主として熊本城に

移ったが、忠利は秀次一家を見守るかたちで熊本に来させた。

 

・・・寛永十年に幕府のキリシタン摘発は苛烈になり・・・

懸賞付きの訴人の高札が・・・・

 

この価格はどんどん高くなって・・・・このまま明治維新を迎えた。

 

=== そのまんま摘発が300年ほども続いたというのが

    こりゃまた凄いなあ。

    これじゃあ隠れキリシタンになりますよね。

 

 

p430

 

崩れというのはキリシタンの大量検挙のことで・・・

大村崩れというのは最初の事件で、1658年・・・608人が

逮捕され、411人が断罪、牢死79人、永牢20人となった。

 

このほか江戸時代をとおして崩れが続いた・・・・・

 

 

p431

 

小笠原秀次・・・は、 みや夫人と、源八郎、まり、くり、佐左エ門、

三右衛門、四郎、五郎、つち、権之助という九人の子供、女房、下女

あわせて十五名とともに首を斬られた。

 

p436

 

信者は危難に際して全力をもって神父をかくまった。

神父を完全に失ったあとも隠れキリシタンたちは何百年にも

わたって神父がふたたびもどってくることを夢見て待ち続けた

のである。 

 

 

=== 明治になって隠れキリシタンが大浦天主堂に出てくる

    わけなんですけど、禁教令はまだ終わってはいなかった。

    そんな中で罰せられることを覚悟で出てくるという

    その信仰の強さは驚愕するしかないですねえ。

 

 

 

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< その41に続く >

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その39 高山右近がもし大坂城に入っていたら・・・ 千々石ミゲルは本当に棄教したのか・・

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

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p391

 

このとき京都には神父が8人、 イルマンが7人、同宿が20人

ほどいた。

教会は神父3人、修道士3人、同宿6人の報告しかしなかった。

・・・潜伏させておかなければならない・・・

 

フェレイラは・・穴吊りの拷問に耐え切れずに転び、キリシタン

目明しとして、キリシタンの摘発に力をつくした。

彼は日本人の妻をめとり、沢野忠庵と名乗って「転び伴天連」の

代表になった。

 

=== このフェレイラは映画の中にも出てきましたね。

 

映画「沈黙 - サイレンス -」

https://eiga-watch.com/silence/

 

=== ちなみに、私なんぞは、根性なしなので

    すぐに「転ぶ」タイプです。悪しからず。

 

 

 

p393

 

豊臣秀頼の使者が、右近を大阪城に迎えようとして・・・・

右近はすでに出帆していた。

・・・もし右近が大坂に入城していたらおそらく大坂城は

陥落しなかっただろうと人びとが噂しあったと書いている・・・

 

家康はあるとき、「右近の手兵千人はほかの武将の一万人より

恐ろしい」と言ったという。

 

=== 家康は右近を長崎で殺そうと考えていたらしいですよ。

 

 

 

p394

 

マニラで右近は国賓のように歓迎され、その死後、彼の孫は

総督の養子となった。

 

右近の乗ったマニラ行きの船の出帆は11月9日だった。

そしてその前の日の8日に、原マルティーノが乗ったマカオ行き

の船が出ていった。

 

 

=== マニラでの高山右近のその後は、こちらでどうぞ:

 

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 82  

高山右近の日本人町 サン・ミゲール

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/82-d814.html

「二つ目の日本人町は、サン・ミゲールと呼ばれ、

Juan de Silva知事によって1615年に創られた。

ここでは、300人以上のクリスチャンの日本人国外追放者

たちが住み、有名な高山右近とその家族、そして、

日本の貴族の人びとも含まれていた。

この町は、当初は、ディラオに隣接した、パシグ川の

南側の川岸に造られていた。」

 

 

 

p395

 

日本の信者のなかにはいずれ日本人管区長が生まれるであろうが、

それはマルティーノであろうと思う者が多かった。

 

 

p397

 

1999年ポルトガルから中国に返還される前年、私はマカオに

行ったが、そこではマルティーノがなにを感じていたかがわかった。

マカオは西洋と東洋の出会う場所であった。

 

・・・彼は1629年・・・日本に帰ることなくマカオで死んだ。

・・・マカオの大聖堂の地下墓室に・・・そこで今も師

ヴァリニャーノとともに眠っている。

 

=== そのマカオの大聖堂はこちらでどうぞ:

 

聖ポール天主堂跡

https://ja.wikipedia.org/wiki/聖ポール天主堂跡

 

「日本人キリスト教徒の殉教者や、イエズス会の神学校コレジオの

マカオでの設立者アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父を含む修道僧

の遺骨とともに、数多くの宗教遺物も一緒に発見された。」

 

 

 

p398

 

ミゲルがどこでどうして死んだかだれも知らない。

1593年にはコレジオにいたことが記録されている。

1603年にはもう記録がないのでこのあいだにイエズス会を

離れていったものとみられる。

 

 

「伴天連記」は・・・

「シカル処ニ、大村ノウチニ千々石清左衛門トイフ侍アリ・・・・

伴天連ヲスコシウラムル仔細アリテ寺ヲ出ル。大村公ニ奉公ス

 

p399

 

このわずかな情報で判断すれば、ミゲルは病身で学業が身につかず、

そのため留学の選にもれたので恨んで脱会したことになる。

 

しかし、この留学生選抜では、学業優秀な原マルティーノも、

準教師格であった才人ファビアンも選にもれている。

 

p400

 

こうした西洋人神父と日本人修道士の摩擦または不和というものが、

日本のキリスト教会にとって致命的な結果を生むことになった。

強力な背教者ファビアンを出してしまったのだ。

 

 

p402

 

1587年7月の秀吉の伴天連追放令の結果、大坂のセミナリオは

肥前、生月島、 同年11月は長崎、11月始めには有馬、

1589年には 八良尾、加津佐に移動したが、ファビアンも

ともに移動して、1592年には天草に移った。

彼は日本の学問に精通していたので、天草のコレジオでは

二十七歳にして日本人イルマンのための日本語教師となった・・

 

 

=== キリシタンの学校が、どんどん西へ追いやられて

    頻繁に移動しているのがよく分かりますね。

 

 

 

p409

 

彼は長崎奉行にしたがって長崎に行き、キリシタン弾圧のブレーン

となった。 彼の奪国論の恐ろしさ(あるいは効果)は、外国が

軍事力をもって日本を奪うとはしていないことである。

そうではなくて、思想、洗脳によって「千年かけてでも」

この国を奪おうとしているのだとした・・・

 

 

 

p411

 

「・・このようなスコラ的思弁の世界に置くかぎり異文明の人間は

その下に置かれてしまう。 彼らのなかで、深遠な問題を

言語で理解できたのはおそらく原だけであり、ミゲルには

無理だった」として、ファビアンとミゲルの棄教の原因を

西洋哲学の理解困難にあったとみている。

 

このことは西洋文化を学ぶ者には常につきまとう問題である。

 

p413

 

ミゲルはファビアンと同様に、まずはマカオ留学に落ちたことを

契機としてイエズス会内部での自分の将来に見切りをつけて

会を去ったことは疑いがない。

 

p414

 

記録によれば、彼は従兄である大村喜前に仕えたとある。

・・・大村喜前が1606年に宣教師を領内から追放し、

法華宗になったとき、ミゲルもまたキリシタンを棄てたと

述べている。

 

ルセナは・・・背教後長時間彼と話、彼は心から信仰を棄て、

とくにキリストの神性を否定していることがわかったと書いて

いるからである。 しかし、・・無神論になったにもかかわらず、

仏教の信奉者にもならなかったと言っている・・・

 

=== このミゲルが その後キリスト教を棄てたのか

    どうかについては、いろいろと議論が書いてあるんです

    けれど、 最近の長崎での研究では、ミゲルの妻の墓

    からキリシタンであることを示すものが発見されたので、

    その隣にあるミゲルと思われる墓にも 信仰を棄てたの

    ではない証拠が見つかるのではないかと期待されています。

 

「天正少年使節の千々石ミゲルの墓続報 出土の歯は

25~45歳女性 、ミゲルの妻のものか」

https://www.christiantoday.co.jp/articles/24787/20171127/chijiwa-migeru-wife.htm

 

「これまで、その晩年は謎に包まれていた。そのミゲルの生涯に

新たな光を当てたのが、ミゲルの石碑を発見し、調査を続けてきた

大石一久さん(大浦天主堂キリシタン博物館副館長)だ。ミゲルは

棄教していなかったと考えた大石さんは、ミゲルの行動を詳細に

追った。そして2015年、その研究成果を著書『天正遣欧使節 

千々石ミゲル―鬼の子と呼ばれた男』(長崎文献社)としてまとめ、

「ミゲルは修道会からは脱会したが、信仰そのものを捨てたわけでは

なかった」という説を打ち出した。」

 

=== 2019年の末までには 発掘されるそうですので、

   楽しみです。



 

 

 

< その40に続く >
















 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その38 日本初の印刷機、 ポルトガル・スペイン vs オランダ・イギリスの中傷合戦

 

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p367

 

それはこの天草のコレジオで創始されて、日本文化史上

もっとも大きな貢献となった印刷出版事業にかかわった

・・・コレジオというところは、外国人に日本語を教え、

日本人に外国語を教えるばかりではなく、双方に共有できる

ような知識の普及伝播を発信する場所でもあったことが

わかる。

 

p368

 

そしてドイツのグーテンベルクが発明した加圧式の鋳造活字

による印刷機が少年使節の帰来といっしょに日本にもって

こられたのだった。

これが日本初の活版印刷機である。

 

 

そのときコレジオのあった加津佐にまず置かれ、翌年天草の

河内浦に運ばれて、待望の日本・ポルトガル語辞典、文法書、

日本語による宗教書などのいわゆる切支丹版がつぎつぎと

印刷されたのだった。

 

p369

 

その時代にこの印刷機があったのは東洋ではここだけだった・・・

 

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=== この写真は、天草のコレジヨ館で撮影したものです。

    館長さんが印刷の実演もしてくれました。

 

 

p371

 

彼らの運命は・・・日本を亡命するか、または殉教である。

このリストにない者は消息不明の者たちである。

その多くは棄教者であった。

 

マンショは四十二歳で病死・・・マルティーノは国外追放となり

マカオで死んだ・・・ジュリアンは潜伏し、長崎で殉教・・・

ミゲルがいつ死んだかはわからない。

 

=== 私が興味を持っているのは、

    殉教した中浦ジュリアンと 棄教したとされる

    千々石ミゲルです。

    この二人とフィリピンとの何等かの関係を

    探しているのですが、なかなか見つかりません。

 

 

p372

 

秀吉の最期については、イタリアのイエズス会士フランチェスコ・

パシオが・・くわしく報告している。秀吉の死は宣教師たちに

とって朗報であった。

・・・しかし、1600年関ヶ原の合戦が起こり、最後まで

秀吉に忠実だった小西行長は敗北し、捕らわれて処刑された。

新しい政府の枠組みができつつある・・・・

 

 

p375

 

歴史を見ていて不思議なのは、家康が最初宣教師に寛大であった

ように見えることである。

 

しかし、・・・

「予はこれ(キリスト教)を許すこと能わず。何となれば、

我邦は神国と称し、仏像を祖先の代より今に至るまで大いに

尊敬せり・・・・日本に於いては決して其の地の教えを説き、

之を弘布すべからず」

 

・・・家康がその本心を出すきっかけになったのが1612年

に起こった岡本大八事件であった・・・・

 

p379

 

この事件の怖さは、この事件を調べているうちに駿府の旗本や

その侍女のなかにキリシタンがおおぜいいること、民衆のなか

にもおおぜいいることがわかったことである。

 

 

p380

 

家康は・・・家臣団のなかのキリシタンを点検した・・・

これは寛永時代に「五人組」として組織された相互監視

制度の始めである。

・・・それは戦時中の隣組を彷彿とさせ、また慄然とさせる。

私は戦争にまけると言ったり反対だと言ったりしたら

すぐに憲兵に連れて行かれて帰ってこられないと親に言われた

ものである。

 

=== この制度って、最近の近隣の大国でも現在実施されて

    いるようなニュースをみますね・・・

    日本のやり方を真似ているんでしょうか?

 

p380

 

幕府はいわゆる条々五箇条の御禁制を発令したが、そこには

タバコの喫煙売買の禁止、牛殺しの禁止とともに、キリシタンの

禁止が宣言されている

 

=== おやおや、禁煙と同じレベルでしたか・・・

    今現在・・・フィリピンでは大統領令でかなり厳しい

    禁煙が実施されていまして、日本よりも徹底しています。

    しかし、考えてみるに・・・江戸時代のタバコ禁止と

    いうのは何が理由なんでしょうかね?

    火事の大きな原因だったとか・・・??

 

p381

 

このような禁制のかげには、外国貿易についての幕府の政策転換

が少なからぬ要素になったと考えられる。

・・・イギリス人・・・ウィリアム・アダムズが・・・

スペイン人らを侵略者として家康に進言した・・

幕府はオランダやイギリスなどプロテスタント国との交易を

重視してゆき・・・

 

 

p383

 

キリスト教排除は日本の権力者の基本方針であって、

その口実はなんでもよかった。

 

 

p384

 

1614年1月・・・「伴天連追放令」を発した・・・

そこには「神敵・仏敵・仁道の敵」である「伴天連の徒党」は

日本国内のいかなる場所にもいてはならない、これを一掃する、

と書かれている。 これがキリシタン根絶の法令であり・・・

 

=== そうですか。 これが最後の決定版になったわけですか。

 

 

p385

 

原マルティーノは、・・・演説原稿はゴアで、日本に持って帰る

グーテンベルク式の例の印刷機でさっそく印刷された。

・・・片岡弥吉氏はこれを日本人発行の最初の新聞だとしている。

 

 

p388

 

このような大禁令が出た動機について1614年イエズス会年報

は・・・「だいじなのはイギリス人とオランダ人の中傷です。

このふたつの国民が、しきりに将軍に説き立て、国土の「防衛」

についてその心を動かしてしまた・・・」

 

 

=== この三浦按針のことをチェックしたところ、

    下のようなことが書いてありました。

    宣教師がオランダ人やイングランド人を即刻処刑するように

    ・・・ こりゃあ中傷合戦になるよなあ~~

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/ウィリアム・アダムス

 

「関ヶ原の戦いの約半年前の1600429日(慶長5316日)、

リーフデ号は豊後臼杵の黒島に漂着した。自力では上陸できなかった

乗組員は、臼杵城主・太田一吉の出した小舟でようやく日本の土を踏んだ。

一吉は長崎奉行の寺沢広高に通報した。広高はアダムスらを拘束し、

船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収したのち、

大坂城の豊臣秀頼に指示を仰いだ。この間にイエズス会の宣教師たちが

訪れ、オランダ人やイングランド人を即刻処刑するように要求している。」

 

 

 

p390

 

キリスト教国は日本を侵略するという侵略論、愛国論が

いちばん有効な排除の手段である。事実それは功を奏した。

 

十六世紀にスペインとポルトガルが日本を侵略しなかったのは、

しなかったのではなくて、できなかったのである

国家は財政的に破綻して・・・・資源の乏しい国に植民する

ことは・・・まったく引き合わなかった・・・

 

=== 幕府は、その時 どの程度スペインやポルトガルの

    事情を把握していたんでしょうね。

    朝鮮半島や中国ならある程度は掴んでいたんでしょうが・・・

 

 

< その39に続きます >

 









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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その37 千々石ミゲルの決心、 修行院やコレジオが天草へ

  

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

 

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p344

 

秀吉は一行に聚楽第を見学させた

・・・宣教師側の詳細なこの記録が非常に貴重なものだそうで・・

・・この建物は木造としてこれ以上のものを望むことができない

ほど壮大で華麗であり、ヨーロッパのどこへ持っていっても

大いに賞賛され感嘆されるほどのものだった。

 

・・西洋に劣っているとも報告・・・

・・第一に材質の脆弱さである。「・・大砲四門をもってすれば

半日で破壊されるであろう。・・少しばかりの出火でまたたく間に

焼失するであろう」

 

=== 見た目はヨーロッパ以上に凄いけど、

    戦火にまみえたら瞬く間になくなってしまうほど

    もろい日本の建物。

    だから、第二次大戦でも焼夷弾なんてものが

    わざわざ開発されちまった。

 

 

p348

 

秀吉の心が和らいだことは事実であったとしても、

それで事態が根本的に変わることは期待できなかった。

 

p350

 

秀吉の背景には伝統的な仏教勢力が控えている以上、

いかんともしがたいのが実情であった。

 

 

p352

ロドリゲスとかなり重要な会話をした。

それは秀吉個人が宗教をどのように考えていたかをうかがわせる。

第一に、・・・伴天連たちには本来罪はない、悪いのは度を越した

信仰心から家臣をむりやり改宗させたり、寺社を破壊したりした

諸侯である。

第二に、信仰は自由であってよく、とくに下賤の者がキリシタン

になるのはいっこうに差支えがないと語った。

 

=== この宗教観は 実にまともだと思います。

    しかし、為政者としては、国体を揺るがせるような

    動きは封じなくてはならん・・・ってことですね。

 

 

p356

 

(秀吉のインド副王への書簡)

・・・つまり、自分は中国を支配するから、インドの王である

お前とはいっそう親しくしたい、という意味である。

 

=== この部分は、なんとまあ誇大妄想狂という感じですかねえ。

    この時期は、朝鮮半島や台湾、そしてフィリピンなんかを

    侵略しようという動きをしていたそうなんで、

    威勢のいいことを大風呂敷を広げてディールしたかった

    んでしょうかねえ。

 

 

p357

 

帰国した四人の使節は・・・・秀吉との謁見ではむしろ本心を

隠し、勧められる仕官を断る口実を探し、自分の素性を隠さなく

てはならなかった。

 

p358

 

その式典のあとで、四人は晴信の城で盛大な祝宴にあずかった。

・・・天草に移ったコレジオで修練を続けるために天草に行った。

 

=== さて、ここで熊本県天草市のコレジヨが出てきました。

    去年行ってきたので、身近に感じます。

 

                             

 

==== 他の本を何冊か読んだんですが、天草のコレジオの

     当時の状況を書いたものはなかなかなくて・・・

     この本は割と詳しく書いてあるので助かります。

 

 

p359

 

そこからの選択は彼らの自由であった。・・・

・・・実際にミゲルの母はようやく帰ってきたひとり息子を

放そうとせず、あらゆる手段で息子が宗教の道に行くことに

反対した。

 

ヴァリニャーノは事情をよくわかっていたので、じゅうぶんに

出世のできる身分であるミゲルとマンショについては、自分で

よく将来のことを考えるようにと言った。

 

p360

 

ミゲルは有馬でどのような領地を与えられてもイエズス会に

入ることを止めることはできないと晴信に言った

のちの彼の生涯を知っている者には、この選択は悲惨なものに

見える。

 

p361、

 

彼ら四人を決心させた最大の原因は信義であった。

・・・その実見したことを語る実証者となる業務以外のことを

日本で行うことは忘恩以外のなにものでもない。

それは武士としての面目を潰すことであると同時に、この使命を

自分たちに与えた神の命令に背き、自分たちの霊魂を危うく

することである。

 

=== もちろん、日本語も忘れるほどの期間、西欧を見て

    廻って、それもまかり間違えば死んでいた長旅

    だったわけだし、特に精神的な成長も大きな時期に

    経験したんですから、そういう決心をするでしょうね。

 

p363

 

・・・もっとよく黙想し信仰を確認できるようにするために

数日間イエズス会の精神修養である「心霊修行」を行った。

・・・これは天草で1596年に「スピリツァル修行」と題して

出版され、信者の心を固めるために頒布された

 

この黙想のあと、ヴァリニャーノは四人を天草に連れて行った。

 

・・・天草の領主天草種元を招待し、四人の使節、そして

コレジオの神父や修道士とともに食事をし、それから

彼ら四人を修練院に連れて行き、その師に彼らを引き渡した。

これでヴァリニャーノの手から四人は完全に離れた。

おおかたの「天正少年使節」の話もここで終わる。

しかし、われわれの話はまだ終わらない。

 

=== いいですね。 ・・まだ終わらない。

    実は、私が知りたいのは、この後の千々石ミゲル

    のことなんです。

    特に、フィリピンの聖アグスティン教会で叙階した

    金鍔次兵衛神父と会ったことがあるのかな?

    とか、ミゲルが大村藩の家臣に戻った時の

    話とか・・・・興味津々なんですけどねえ・・・

 

p363

 

四人が入った修練院は、かつては大友の領地府内にあったのだが、

・・・すべて肥前の有馬の領地内に移され・・・結局1588年

に天草の河内浦に移された。 その当時の天草の領主天草久種ジュアン

政治的な理由もあってその領内に修練院やコレジオを誘致

することを希望していたのである。

 

p364

 

天草、志岐、上津浦、栖本、大矢野の五人は島津征伐のとき

秀吉の傘下に馳せ参じたのでその本領を安堵された・・・

小西行長の支配に臣従することが命令された。

・・・ヴァリニャーノが・・室の津に滞在していたとき、

神父は小西に天草との和解を申し出た・・・

・・その恩義のために久種は六十人近い神父、二十人以上の

同宿、四十人以上の下僕などを入れるコレジオと数軒の家、

それに仕事場を提供した。

 

1591年7月25日には、このコレジオはすでに

できていたとされている。

 

=== 天草のコレジオなどの話。なかなか詳しく書いて

    ありますね。 ありがたい。

    小西行長はこんな危ない時期でも、まだ柔軟だった

    ようですね。 それ以降に、こんなに学校みたいなのが

    天草に造られたというのが驚きです。

 


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p366

 

マンショは初級のラテン語クラスに属し、「日本の文字は

あまり知らない」と書かれている。

いかにも帰国子女らしい。

 

ミゲルとジュリアンは上級のラテン語クラスにいる。

 

マルティーノは「すでにラテン語を修了し日本文字を勉強しつつ

あり」と書かれていて、すべての生徒の中で飛びぬけている

 

=== あれれ、伊東マンショは筆頭の使節正使だったのに、

    初級のラテン語で日本文字はよくわからんってのは

    マズくないですかね??

    ヨーロッパを廻っていた時は、ポルトガル語、

    スペイン語、イタリア語でもしゃべっていたのかな?

 

 

< その38に続きます >

 

 

 

 

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2019年2月23日 (土)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その36 やっと日本に戻った天正遣欧少年使節、楽器を秀吉に取られてしまって・・・

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p328

 

マンショ、ミゲル、マルティーノ、ジュリアンの四人は

ヴァリニャーノとともに長崎に帰ってきた。

長崎は歓喜に湧き返った。 フロイスは、・・・・禁令公布以前の

教会がもどったかのようであったと書いている。

 

船のついた翌日・・・ドン・パルトロメウ純忠の息子である

サンチョ喜前が・・・そのつぎの日には有馬のドン・プロタジオ

晴信が多くの家臣を連れて・・・

 

p329

 

喜前は、・・・ミゲルを見て、こういうことなら自分の弟の

レオンを使節にすればよかったと言った。

・・・おおぜいの人間が、こういうことなら自分の子息を

送ればどれほどよかっただろうと思ったと報告書には

書いてある。

 

 

ミゲルも・・・相手が老けてしまっていたので、有馬の殿以外

の親族を見分けることができなかった。

・・・父母さえもが彼の自分の子供だとわからなかった・・・

 

p330

 

使節を送った三人の領主の後継者のうち、ふたりはこのように

して教皇の書簡と贈り物を受けてその返書を書いているが、

最大のキリシタン君主であった大友宗麟の嗣子義統はここから

外れた。 彼は秀吉を恐れてみずからキリシタンではないこと

を示すために領内のキリシタンを迫害していたのである。

 

 

=== 送り出す時は死ぬかもしれないと引き留めたり

    身分のあまり高くない者を送ったのに、

    いざ無事で立派な姿で帰って来たのをみた途端に

    ころっと言うことが変わる・・・

    まあ、しかし、海の上より、国内の方がよほど危機的な

    状況になってしまって・・・・

 

 

p331

 

秀吉との会見も円滑にはすすまなかった。

ぐずぐずしているあいだに・・・この使節がぺてんかもしれないと

疑いはじめた。

 

p332

 

現在の兵庫県室津・・・西国から大坂に来る大名はみなこの

室の津を通過したので、四人の使節は多くの大名の訪問を

受けることになった。

 

大友義統が・・マンショに、教会や巡察師と和解したいので

仲介をしてくれと頼んだ。 ・・・しかし、マンショは

「心中ほかに決するところがあったので」豊後には行かなかった

 

p334

 

ヴァリニャーノは・・・四万人以上のキリシタンが住んでいた

領地の荒廃を目にすることになった。・・・・今は異教徒の

領主のもとで分散し、見捨てられているのを見た。

 

フロイスは夫を失った女性たちの悲惨な状態について・・・

「高貴で尊敬されていた多数の婦人たちが、子供や夫に

先立たれ、食べ物にも事欠くありさまで、・・・賤しく貧しい

女のように生きているありさまに・・・・」

 

 

=== すっかり変わってしまった日本の状況。

    信長から秀吉へ、 オバマからトランプへ・・・・・

    人ひとりで、こんなにも世界は変わってしまう。

    考えてみれば恐ろしいことですねえ。

    絶対君主制でも民主主義の世界でも、それは同じか・・

 

 

p335

 

右近の支配していた高槻では・・・農民がかりのキリシタンの

いくつかの村で博多・・・自分たちの集落に異教徒をひとりも

入れない決心をしていた・・・

・・・これこそ、世界史にも稀な日本の「隠れキリシタン」の

始まりであった。 明治に至るまでその信仰を守った・・・

 

 

=== 長崎ばかりかと思っていたら・・高槻にも!!!

 

茨木市立キリシタン遺物史料館

https://ja.wikipedia.org/wiki/茨木市立キリシタン遺物史料館

「この付近はかつてキリシタン大名として有名な高槻城主・高山右近

領地であった影響で、当時キリスト教信者となった領民が多く、キリスト

教禁制後も隠れキリシタンとなり、山奥のこの地で信仰を密かに守り

つづけた人々がいた。1919年にキリシタン研究家の藤波大超が、

この地が隠れキリシタンの里であることを突き止め、それをきっかけ

に付近の多くの家から隠れキリシタン遺物が再発見された。」

 

 

p336

 

この行列のありさまはすぐに秀吉に報告された。

なにが気に入ったのかわからないが、秀吉は突然その態度を

変えたとフロイスは書いている。

・・秀吉は突然使節のことを話はじめて、もうそのこと

しか話さず、「異常なほどの満足の意をあらわし・・・・」

豪華華麗な行列を組んで整然と来たので、これは偽物では

ないと思ったのであろう。

 

==== 秀吉というのは、いろんな情報に左右され

     易いタイプの人間だったんですかねえ。

     それとも、猜疑心、嫉妬心、唯我独尊???

 

 

p338

 

3月3日、巡察師は登城するように招聘された

・・・四名の使節、十三人のポルトガル人、使節の供である

小姓七名、通辞一名、・・・巡察師、その通訳・・・

 

 

p341

 

秀吉は・・・ことに伊東マンショに対しては、・・・

汝の親類を日向の国に復帰せしめた。もし汝が予に仕える

気持ちがあるならば、多大の報酬をとらせよう。・・・・

 

・・・マンショは儒教的な武士の仁義を楯にしてうまくその場を

逃れたが、この挿話は神父らの胆を冷やした・・・・

 

同じようなことがミゲルにも起こった。関白はミゲルに

生国を尋ねて、それでは汝は有馬の一族かと聞いた。

・・・晴信に危害が及ぶかもしれないと恐れて、自分は

千々石の者だと答えた・・・・

 

=== 私は個人的には、千々石ミゲルに注目しているんですが、

    この辺りの秀吉とのやりとりは 臨場感がありますね。

    よくまあ、こういう状況が記録されていたものだと

    思います。

    最近の記録は、国会の記録ですら怪しいですからね。

    立派なもんです。

 

 

p343・・・

 

謁見の最後は余興の音楽演奏で終わった。

・・・音楽が聴きたいと関白が言うと、

その楽器はあるからで枢機卿・・から贈られた クラヴォ、

ハープ、リュート、ヴィオラである

四人は長い旅のあいだにすっかり熟達していたので、

・・・みごとに演奏した。

 

関白は音楽を喜び、三度も繰り返し演奏させ歌わせ、

楽器を手にとってさわり、・・・・

関白は、これらの楽器を全部ほしいと言った

それは使節にとっては打撃だったが・・・・

 

=== あらららら・・・楽器を全部とられちゃった。

    せっかくヨーロッパから運んで、演奏も立派に

    なっていたのに。

    その後、秀吉はその楽器をどうしたんだろ??

 

    ちなみに、これらの楽器は、熊本県天草市の

    「コレジヨ館」で復元展示、そして演奏されて

    いますよ。

    http://hp.amakusa-web.jp/a1050/Photo/Pub/PhotoKakudai.aspx?PhotoUrl=http%3a%2f%2fhp.amakusa-web.jp%2fa1050%2fSozai%2fMg%2fFileAccess.aspx%3faplUseNo%3d11823%26angoFolderKey%3dgdBCoHbcEXCtpJiF4wQSWg%253d%253d%26angoFileKey%3dRELYOlAjKUnjzkxTy7stXA%253d%253d&title=31%e5%b9%b4%e5%ba%a6%e4%bc%81%e7%94%bb%e5%b1%95&biko=

 

 

 

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p344

 

甲冑や銃の優秀さや、自分の俸禄よりも神父への恩義を

優先させた教養豊かで優美なキリシタン武士がいたことも

秀吉にとってはおもしろくないことであった

 

=== さて、この謁見が 吉とでるか凶とでるか。

    それはまた次回をお楽しみに。

 

 

 

 

< その37に続く >

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その35 三成のリスト、長崎二十六聖人の処刑とバウチスタの後悔 

 

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p296

 

パジェスが書いた・・「日本キリスト教史」・・・近代日本最古の

神父ヴィリヨンが加古義一に翻案させた「日本聖人鮮血遺書」は、

明治二十年に出て、当時たいへんな感動を日本人に与えた。

・・キリスト教迫害の血の歴史を、日本人がはじめて知った・・・

 

 

p299

 

三成は代官に命じて個別に調査をし、フランシスコ会かどうか

を聞いて回らせたが、信徒たちはみな意気揚々と自分はキリシタンだ

と答え、しかも確認の印鑑を押した。 そのことはすなわち死を

意味することであるのに・・・・

 

 

p302

 

こうした役人のずさんさは最初から目立っている

・・・代官は自分で修道院に行ったのではなく、修道院に

使いをやって自己申告させたのである。

 

=== ここで言っているのは、石田三成が秀吉の

    指示で罰すべきキリシタンのリストを作ったん

    だけれども、出来るだけ人数を減らしたい三成

    の意図が末端の役人にきちんと通じていなかった

    ということのようです。

    なので、フランシスコ会の人間ばかりじゃなく、

    イエズス会のものたちや、庶民がたくさん

    リストに入ってしまった。

 

 

p305

 

1月3日未明、上京一条の辻に引き出された二十四人

ひとりずつ左の耳を削がれた。刑場は鮮血で染まった。

彼らは獄吏に頼んで自分の耳を手に入れ、それを遺族への

形見とした。

 

p312

 

このとき彼(バウチスタ)は自分のやりかたが失敗だったと

思って泣いたのではないかと思う。

・・・バウチスタはロドリゲスを呼んでいたく後悔して言った

「副管区長およびほかの神父がたに、わたしがおかけした

迷惑を許してくださるようにお願いします」。

・・・ほんとうはパウロ三木もディエゴもジュアンも、

とんだとばっちりで死ぬことになったのだが、今となっては

覚悟はできていた。

 

 

p314

 

イエスは最高の美徳として謙遜を教えたのだが、しばしば

聖なる殉教者はその謙遜を忘れていた。 彼らは自分こそは

神のために死ぬのだからきわめて崇高で偉大な人間だと

思わずにはいられなかった。

しかしパウロら日本人はそうではなかった。 じつは随伴

していた神父らが、素朴な受刑者から教えを受けていたのだった。

 

=== ずさんなリスト作りによって、多くの庶民が

    処刑されることになってしまったんですが、

    外国の神父たちは、その日本の庶民たちから

    イエスの教えである謙遜を学んだということ

    のようです。

    つまり、「あなたは聖なるかたです」と言われる

    ことを望まなかったという話です。

 

p315

 

十字架がしっかり固定されたあと、執行人が十字架につけられた

人をやりで突き刺す。 このとき槍は下から斜めに心臓を

刺すので巧みな執行人がやった場合には即死できた

ときにはふたりが突いて鎖骨で交差する。槍は刃先が広く

よく切れるのですぐに血がどくどくと流れ、まもなく絶命する。

それでも死なないときは首を突き刺すことになっていた。

 

                             

 

p317

 

処刑人が槍の鞘を払ったとき、刑場にいた信者らはいっせいに

「イエズス・マリア」と叫び始め、最後の処刑が終わるまで

その声は刑場に響き渡った。

槍をもった四人の執行人は駆けながら殉教者を刺していった。

 

=== 想像しただけで ぞっとする光景ですが、

    これはその後に続く大々的な迫害や処刑の

    始まりに過ぎなかったのですね。

    しかし、26人の処刑に4人の執行人とは・・・・

 

 

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p324

 

1587年5月29日、リスボンを出港して以来13カ月半で

4人の使節はゴアにもどってきた。

・・・使節はスペイン王と教皇の援助をとりつけ、外交使節と

して西欧諸国で日本人の評判を高くした。

 

p325

 

ヴァリニャーノはインド副王のドン・ドアルテ・デ・メネーゼスの

秀吉あての親書を発行してもらった。 ・・・こんどは自分自身が

インド副王の使節という資格で日本にわたることにした。

 

 

p327

 

・・・マカオに着いた。 もう日本はすぐだったのに、

あいにく日本へ渡航する船がなかったので、18カ月マカオに

いることになった。

そしてそこで最悪のニュースが彼らを待っていた。

 

p327

 

ヴァリニャーノは・・・少年たちの・・日記をもとに、くわしい

見聞録を書いて、・・ラテン語文に訳させ、・・マカオで出版させた。

 

p328

 

ようやく一行は・・・1590年7月21日・・・八年と五カ月

と一日ののち、日本にもどったのであった。

 

 

==  ああ、やっと日本に戻りました。

    ここまでの この本も長かった。

    さて、次回はいよいよ 4人の少年使節たちの

    日本での動向が語られます。

 

 

< その36に続く >

 

 

 

 

 

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2019年2月22日 (金)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その34 KYだったバウチスタと 間が悪かったサン・フェリペ号の土佐漂着

 

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p265

 

イエズス会贔屓のグレゴリオ教皇のあとを襲ったシスト五世

が「フランシスコ会は東インドおよび中国のすべての地域で

修道院や司祭館を建てることができる」という小勅書を

出したのだから、日本を中国の一部とすればフランシスコ会が

日本で活動することは合法的だという論法だった

 

p267

 

秀吉の書状は船長カルパハールがマニラにもっていったが、

・・・着いたのは1594年4月15日だった。

これに先立って、3月24日、総督はスペイン国王にあてて

手紙を書いている。

日本は今年でなければ来年襲ってくるであろう

まだ使節が返事を持って来ないが、監視を怠らず、要塞や

小砲を準備している。・・・セブ島に・・・昨年到着した

大型船サン・フェリペが停泊している・・・」

 

・・・刻一刻と、確実に、二十六人の殉教へとことが

運ばれていく・・・

 

=== フランシスコ会がマニラから日本に入った時、

    母国ではポルトガルがスペインに飲み込まれ、

    教皇が替わり、日本で既得権を持っていた

    イエズス会と 新参者のフランシスコ会などが

    すったもんだしていたんですねえ。

    それも、日本事情が分からないフランシスコ会だった。

 

 

p268

 

・・日本に返書がくるまでとどまっていたバウチスタ師らは、

自分たちが住む場所を秀吉に要求し・・・許可した・・・

彼らの家では説教したり集会をしてはならないと厳命・・・

しかし司祭らはおかまいなしに・・・

 

p269

 

その記録は・・・第一次史料だから・・

・・最初から公刊される目的で書かれたものではないので、

あまり政治的な配慮がない。 彼はバウチスタの態度が

いかに秀吉や武士たちを挑発するものだったかを教えてくれる。

 

p270

 

「会見に及んだとき、・・・通訳は「臣下として太閤に応答せよ」

と求めた。 ・・バウチスタは「わたしたちの国王および国民は

全世界の主である天主のみを王として認めるのであるから、

殿下に対して臣下として対するべきではない」と答えた。

太閤は激しい怒りとともに「マニラに帰れ」と言った・・・・」

 

p272

 

フランシスコ会は貧者の味方であり、慈善の精神をもつ宗派

であって、今で言うハンセン病棟のある病院を作り

貧者を救うことに熱心であった。

・・・秀吉の甥秀次さえ寄付をしたそうだが、秀次が秀吉に

切腹させられるとまずいことになった・・・・・

 

=== このハンセン病(らい病)患者については、  

    フィリピンの大学で使われている教科書にも

    次のように書かれています:

 

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/01/83-bacd.html

「1614年に高山右近に率いられたグループとは別に、

もっと多くの迫害された日本人キリシタンが、その後にも

マニラに到着した。1632年に、日本当局は、船一隻のらい病

患者の人びとをマニラへ送った。これらのらい病患者は、

フランシスコ会の修道士たちの下に置かれ、San Lazaro

病院でよく世話をされた。」

 

・・・ただし、これは徳川家光の時代だったようです・・・

 

「日本人移民の増加と減少

前述のとおり、1570年に、Goiti元帥はマニラで20人の

日本人を発見した。 1592年、秀吉の侵略の脅威があった

時には、フィリピンに300人の日本人居住者がいた

日本でのキリスト教徒の迫害と排斥にともない、マニラには

次々に日本人が落ち着くことになった。

1619年、日本人の人口は2,000人に達し、1612年

には、この数字は3,000人に増え、スペイン時代では

最高の記録となった。 」

=== ああ、ここでも編集がきっちりされていませんね。

    1612年じゃなくて、1621年でしょうね。

 

 

 

p273

 

・・・メキシコとフィリピンの場合、宣教師は強力に組織化

された国家や宗教を相手にしたわけではなく、・・スペインの

植民地であった。 しかし日本の場合はまったく事情がちがう

・・・フランシスコ会士はそのことを理解できなかった。

 

p275

 

1596年10月19日に、マニラからメキシコに行く途中の

スペインのナウ船サン・フェリペが土佐の浦戸の浜に漂着

して座礁した。

・・・これから太平洋を横切る航海をはじめようというときに

猛烈な台風にあってしまい・・・

・・・一か月以上漂流を続けたが、・・その後二度の台風

に見舞われながら日本近海をさまよい・・・・

 

 

p277

 

・・・・難破が10月19日で、・・・25日に大阪に着いて

・・27日にはこの船を没収することが決定していた・・・

 

 

p278

 

バウチスタは秀吉に抗議文を送った。

これは当時の状況では正気の沙汰ではなかった。

これらのことは殉教の一週間後、司教が裁判を行って

種々の証言を集めた結果わかったことである。

 

 

p281

 

フランシスコ会のオイテンブルグは、「当初没収を望んで

いなかった」秀吉がなぜその方向へ傾斜したかについて、

秀吉のその当時の経済的、政治的状態が最悪だったせい

と書いている。

 

=== はい、ここでその原因として挙げられているのが

    以下の3つです:

    - 朝鮮侵略の失敗

    - 火山の噴火、京都、伏見、大阪、堺に大被害

    - 巨大台風の襲来

 

 

p284

 

ペレス師の「宣教師の殉教に関する書簡」によって

ラウレス師が書いた・・・・

増田は船長に向かって、彼とその部下は海賊であって、

日本征服に来たのであり、メキシコ、ペルーおよびフィリピンで

やったように、この日本征服のためにフランシスコ会の宣教師

を派遣したのだろうと言った・・・

 

p285

 

・・このときこの航海士は、スペイン王の世界的領土征服に

ついて述べ、その征服にはカトリック神父が先駆的な役割

を果たすのだと言ったとされている。

このひとことが、秀吉の怒りを買って、フランシスコ会を

はじめとするキリシタンの大量処刑に発展したとされてきた

 

 

p286

 

高知県中央図書館蔵の「南蛮絵図」が、サン・フェリペ号の

問題の世界地図の写しだと特定された。

・・・空欄に日本語で増田右衛門尉が太閤の命令で来たとき

に南蛮人がもってきた絵図の写しであると由来が書いてある。

 

p287

 

これらの記録は、少なくとも、イエズス会側では迫害の原因

がスペイン人船員の言動にあって、自分たちのせいではない

ことを証明しようという立場で書かれていることを

割引して読まなければならない。

・・・秀吉側にとっても民衆が聞いたら非常に愛国心を

刺激される上に、宣教師やキリシタンを売国奴、スパイと

見させるにはすばらしい宣伝になった・・・

 

=== なるほどねえ。

    いろんな本を読んでみても、大体がその船員の

    せいにされていますよね。

    しかし、ちょっと注意して史料を読んだ方が

    いいよと、著者は言っているわけです。

 

p290

 

秀吉はイエズス会士は無罪にするとしたが、フランシスコ会士の

死刑は譲らなかった。

・・・石田は最後まで希望を棄てず名簿を最小限にし・・・

・・・ところが12月30日、施薬院が、また秀吉に迫り、

・・・秀吉はすぐに石田を呼び、彼らの耳と鼻を削いで

京都、大阪、堺を引き回しの上、長崎で処刑するように命じた。

 

 

こうして十六世紀における、最初の大規模な殉教が起こった

のである。 ・・京坂の・・・二十六人が捕らえられ、

徒歩で長崎に曳かれ、1597年2月5日長崎の西坂で

十字架に架けられた。

 

05_076


p291

 

西欧世界ではこの事件についての同時代の史料はうなるほど

ある。 その理由は、二十六人の信徒の磔刑という大規模な

殉教は、少なくとも近世では、ほかの国では起こったことが

なく、ただ古代ローマの大迫害時代にしかその例を見なかった

ので、全世界のキリスト教徒に戦慄を与えた歴史的事件

だったからである。

そのためキリスト教世界の各地に日本二十六聖人殉教の

祈念碑や絵画が残っている

 

=== ということで、昨年世界遺産になった

    長崎の大浦天主堂や二十六聖人の記念碑などは

    一気に脚光を浴びているわけですが、

    このような歴史を知らなかったのは

    300年近くも世界に向かって窓を閉じていた

    日本だけだったのかもしれないですね。

    しかし、よくまあ、その後、ヨーロッパの

    どこの国も日本を攻めなかったもんですね。

 

< その35に続きます >

 

 

 

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その33 秀吉、フィリピンを侵略か!? スペインが日本に侵攻か??

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 


005


p245

 

関白秀吉は瞬時の怒りや思い付きでこんどのことをやったのでは

なかった。 彼はただ時期を待っていただけである。

 

宣教師の国外追放も一種の脅しに過ぎなかった。

 

p246

 

彼はキリシタンの家臣に命じて、彼らの陣営や船舶から十字架

が描かれている旗をすべて破棄するように命じた。

・・・また多くの武将にたいして、熊野権現を礼拝して

血判状をもってキリシタン信仰を棄てるように命令した。

これは最初の「踏み絵」のようなものであった。

 

・・・最大の狙いは、キリスト教の自治区にひとしかった

長崎の没収であった。

 

 

p247

 

この知らせを聞いた長崎の住民は驚愕し、なすべきことを

知らず、さながら「最後の審判の日」を迎えたようだったと

フロイスは書いている。

 

 

コエリョは・・・・多くのキリシタン大名に書簡を送って、

・・・秀吉に金で取り入って宣教師の追放令を撤回して

くれないかと頼んだ、・・・

 

p248

 

黒田は、コエリョが多数の武将にあてて書いた書状を

秀吉に見せぬほうがいいと思い自分の手元にとどめてしまった。

 

コエリョとフロイスたちは、このとき、・・・秀吉に軍事力で

対抗し、報復しようとして画策していたのである。

 

 

=== 黒田は流石に思慮深いですね。

    それが徳川時代にも生き残る知恵だったということ

    なのでしょう。

    コエリョたちは秀吉の恐ろしさを知らなかった・・・

 

 

p249

 

「(禁令発布のあと)コエリョはただちに有馬に走り、

有馬殿およびそのほかのキリシタン大名をそそのかし力を

結集して関白敵対を宣言するように働きかけた。

・・・すんでのところで戦争が勃発するところだった。

 

しかし「つぎに彼はスペインの軍隊を日本に導入するという

別の妄想に入った」

・・・そこでフィリピンの総督、司教、神父らに書簡を送り、

援軍を送ってほしいと要請した。

フィリピンはそれを嘲笑し、・・・援軍を送ることは適当では

ないし、その軍事力もないと答えた

 

=== この辺りは、流石にイタリア人の巡察師

    ヴァリニャーノの見通しが正しかったということ

    なんでしょう。 ポルトガルやスペインの

    征服主義とはちょっと違う。

 

 

p250

 

それでもコエリョは懲りなかった

・・・彼は、神父ベルショール・デ・モーラを中国(マカオ)に

派遣して、兵士二百人と多量の食糧、弾薬をもたずには日本に

帰還してはならないと・・・・

・・国王、インドおよびフィリピンの総督たちに働きかけて、

・・援軍の派遣を懇請させようとした

 

 

p252

 

追放令のあと宣教師らは平戸に集結して議論した。

・・・書簡では教会のため長崎に城塞を築く提案があったこと

がわかる。 

 

p253

 

フィリピンのスペイン軍に援助を要請することに強く反対

したのはこのなかではただひとりイタリア人のオルガンティーノ

だけだった。

 

p254

 

「・・・一方で、中国人よりも勇敢な日本国民の力を見誤り、

日本に勝ちそうもないポルトガルの屈服と敗北を準備する

ことになろう。 ・・・・」

 

=== この当時は、おそらく倭寇などの影響もあり、

    また、海外に出て暴れていた侍もいたらしいので、

    日本人は乱暴者という評判だったようです。

 

 

p256

 

武力には武力を、権力には権力を。 異なった宗教は壊滅させ、

排撃すべきだ。 その点で、フロイスは秀吉と変わらない。

 

 

 

p257

 

歴史家が「運命の船サン・フェリペ」と呼ぶスペイン商船の

漂着である。  

・・・スペイン商人が相手だったので、結果は破滅的なことに

なってしまった。

 

 

1591年にマニラにやってきた原田喜右衛門なる人物が、

マニラが砦をめぐらしていないことを見届けると、

・・・秀吉にルソン島の軍備が貧弱なことを告げた

 

p258

 

秀吉は・・・ルソンに対して日本に入貢せよという脅迫的な

国書を原田にもたせてマニラに派遣した。

・・・「日本の国王の手紙」と題する秀吉の書状は胆をつぶす

ほど傲慢なものであった。

 

 

=== この手紙を読んでいると、まるで現在の米国の

    トップのディールを思い出させるような内容です。

    誇大妄想で口ばかり・・・・

    部下を信用せず、猜疑心が深く、女漁り・・・・

    まあ、それにしても、秀吉は日本を統一して

    しまったわけですが。

    その点は、米や世界をディバイドした大統領とは

    一味違いますかね?

 

 

p259

 

この原田喜右衛門という男は、棄教した元キリシタンで、

一種のぺてん師だった。

 

 

p260

 

マニラの総督および武将は日本国王の傲慢と使節の身分の

低さに困惑したが、ほんとうに日本が攻めてくるのでは

ないかという恐れで混乱が起こった。

 

 

・・・教皇によって、イエズス会だけが布教するように

限定されていた日本に、今やイエズス会が追放されたのだから、

こんどはフィリピンからスペイン人のほかの教団の会士 ――

フランシスコ会やドミニコ会 ―― が行くことができれば

いいという、まったく情勢判断を誤った希望もあった。

 

ほんとうの悲劇はここから芽生えた

しかし、マニラではだれも先を読める者はおらず、・・・

・・・総督は・・・確認のために使節を送る、・・・

ドミニコ会士のフライ・ファン・コボ神父に親書と

・・・をもたせて日本に派遣した。

 

通訳をしたのは原田と長谷川だったので、・・・

・・・秀吉はフィリピンが服従を示したものだと信じた。

 

=== いやいや、ペテン師が通訳になっちまった。

    通訳は信頼できる人じゃなきゃいけません。

 

    やっとここで、フィリピンのマニラから宣教師

    たちが日本に入ってくることになるわけですが、

    まあ、いかにもマズイ時に入ってしまったもんです。

 

    実は、私がこの本を読んでいる理由は、

    日比友好イベントのネタ探しの為なんですが、

    こりゃあだんだん不安になってきちゃうよなあ。

 

 

p261

 

この(秀吉の)書状をもってマニラに帰るはずであった

コボ神父・・・悪天候のために船が難破して

死んでしまった。

 

p262

 

ロペスは日本で聞いた噂として、

「・・・日本人百名はスペイン人の二百名あるいは三百名に

匹敵する力を持っているのだから、まず台湾を征服して

島づたいにフィリピン諸島を征服することは困難ではない」

と秀吉が言ったと証言した。

どうもこの話を聞いていると、ますます秀吉は二十世紀の

日本軍事国家の先駆者だったのではないかと思う。

 

=== 本当に、日本人は16世紀から好戦的な人種だった

    んですねえ。 大丈夫か平和国家ニッポン!

 

 

p263

 

ロペスがコボ神父に向かって「近くフィリピンで戦争が

起こるだろうかと聞くと、それはないだろうが、マニラ要塞

が完成するまで、フランシスコ会の神父を日本に送って

彼らを牽制しておくのがよい。

彼らは金銭を要求しないし、日本人は心がやさしい。

・・・」

 

このあとほんとうにフィリピンからフランシスコ会士が

日本に裸足でやってくる。 というのは、フランシスコ会士

は裸足にサンダルなので。

 

 

=== ここで言っている「マニラ要塞」というのは

    もしかして「イントラムロス」のことかな?

    上の原田の話が 1593年にマニラに着いた時の

    ことだとなっていますので、確かにイントラムロスが

    建造中だったようです。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/イントラムロス

「イントラムロスの計画は157373日サン・ロレンソで

発布されたスペイン王フェリペ2世の王令に基づいている。」

イントラムロスは1606年に完成され、フィリピンがスペイン

の植民地であったとき、スペイン人の政治、軍事、宗教の中心地

として機能した。イントラムロス内にはいくつかのローマ・

カトリックの教会(例えばマニラ大聖堂やサン・アグスティン教会)、

女子修道院そして教会の運営する学校(例えばサント・トマス大学、

サン・フアン・デ・レトラン大学、アテネオ・ムニシパル・デ・

マニラ大学(現アテネオ・デ・マニラ大学))がある。それらはふつう

ドミニコ会、聖アウグスチノ修道会、フランシスコ会、イエズス会と

いった修道会によって運営されていた。」

 

05_061



p264

 

イエズス会側のフロイスの文書によると、

最初にマニラから使節団がきたとき、随伴した

スペインの船長らが秀吉に向かって、ポルトガル人と

イエズス会のことを悪く言ったために、秀吉は激高して、

長崎に残っていた壮麗な教会や住院を破壊してしまったという

事実を告げている。

植民と交易と布教をめぐるスペイン対ポルトガル、イエズス会

対フランシスコ会の愚かな抗争が、弱りかけた日本のキリスト

教界を破滅の淵に曳いていった。

 

p264

 

総督も・・・フランシスコ会で尊敬されている フライ・ペドロ・

バウティスタ師を選んだ。 このとき、この神父は長崎で

殺されるために選ばれたのである。

 

=== 話がいろいろとややこしくなってきましたが、

    いずれにせよ、今から多数の殉教に向かって

    まっしぐらに転がっていくということになります。

 

    ちなみに、上のイントラムロスの記事の中に

    聖アグスティン教会が出ていますが、

    この世界遺産である教会には、長崎の殉教に関する

    大きな絵が6点ほど展示されています。

    その中のひとつは「長崎のマグダレナ」と題材と

    したものです。

 

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< その34に続きます >

 

 

 

 

 

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2019年2月20日 (水)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その32 秀吉の伴天連追放令、高山右近の放浪、そして奴隷問題

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 


003

 


005



p224

 

右近一行は船で博多を出て、博多彼岸の一孤島に落ちたが、

そのとき秀吉は右近のゆくえが知れないということを間諜から

聴いて、中国に落ちたのであろうと思い・・・「右近は日本で

暮らしても差支えなかったのだ」と言った。

 

その後、右近は淡路島、小豆島と転々としたが、間諜はその

すべてを追跡し・・・・多くの大名が右近を訪ねて援助を

提供した事実を秀吉に報告した。

 

 

p226

 

「それまでは快適な生活を送ってきた明石のキリシタン武士

の婦女子、か弱い子供達が、突然極貧となり、・・・明石の町を

放浪する光景を見ることは・・・・」

 

 

p227

 

ポルトガル人が奴隷の売買をやっていたことは有名な話

である。  

 

p228

 

・・・奴隷売買は人類の歴史と同じくらい古い。

日本では八世紀の大宝律令で人身売買を禁じているから、

それがもうあったということを証明する。

 

十四世紀に入ってから、九州各地で奴隷的な労働をやっていた

人々には倭寇によって略奪されてきた高麗人が多かった。

 

・・・高麗はしばしば日本に対して農民の返還要求をしていて、

・・・秀吉が・・・二度・・の朝鮮侵略では、・・ふたりの

王子をはじめ多くの職人、学者、奴隷を連れ帰った

 

 

・・・大名のなかには、朝鮮で人民を略奪してそれを売却して

遠征の費用を捻出した者が数多くいた。

・・・これを平戸や長崎でポルトガル人に売って絹や鉄砲と

交換した・・・

 

 

p229

 

ポルトガル商人によって日本人が売買されたことは記録に

残っている。

 

 

==== 長崎という場所は、 いわゆる「からゆきさん」が

     売り飛ばされていた港でもあったということが、

     1900年代の初期にも記録されています。

     フィリピンのバギオ市が開発途上にあった頃にも、

     長崎で売り飛ばされた女性たちが、香港の日本人女衒

     を経由して、マニラに入ったという話があります。

     その当時は、フィリピンはスペインからアメリカ統治に

     変わっていて、アメリカ軍兵士のための吉原みたいな

     街が出来ていたそうです。

     そこには、日本人だけでなく、世界のあちこちから

     女性が集められていたようです。

 

「日本人の女は「売春婦」、男は「ならず者」だった」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/11/post-be3f.html

 

 

p221

 

岡本氏は「日本人奴隷の分布図は、まず十六世紀後半に

ポルトガル人の勢力の及んだ諸国にわたっていると見て差支え

ない。 遠くポルトガルまで連れて行かれた形跡がある」と

書いている。

 

1603年にゴアの市民が・・陳情書回教の中に 「日本においては

その民は近隣の回教国へ平然と売られ、毎年船にて積み出されて

ついに回教に帰す。 ・・・」

 

・・・ポルトガルが占拠する東インド、マラッカ、マカオでは

これらの日本人男子は忠実で勇敢な兵士として欠かすことが

できない人材だった・・・・

・・・女性の奴隷ははるかに悲惨であった。

・・・性的奴隷にされたからである。

 

p234

 

この武士は嬉しそうにこういった・・・・

「・・・この迫害はこれからあとずっと続くことでしょう。

・・司祭がたを殉教へとお導きになるかも・・・

・・・ともに死ぬ覚悟ができています

こんな話を聞いて神父らははじめてぞっとしたであろう。

実際、日本の武士は暴君の恐ろしさを知っていてキリシタンに

なったのだから、最初から命がけだった。

・・・でもコエリョたちはまったくそういう事態を覚悟して

いなかった。 いっしょに死のうなどと言われて彼らは

さぞ震えあがったにちがいない。

 

=== そりゃあそうでしょうね。

    日本の武士はいつでも切腹する覚悟はできている。

    自分で死ぬか、殉教するかの違いはあるけれど・・・

    ポルトガルの神父にしてみれば、征服あるいは布教に

    来たわけだから、殉教という栄誉があるにしても、

    遅れている国で それが現実のものになるとは・・・

    ただし、その後、長崎での殉教が世界に知れ渡る

    ようになると、フィリピンなどでは日本に行きたいという

    神父がたくさんいたようです。

 

 

p237

 

フロイスの「日本史」のなかには、もし出版されると

国家間の問題になるようなあまりにも多くのこと ――

内裏が貧乏だとか、将軍が愚かだとか、秀吉が欺瞞者だとか、

・・・ポルトガル人の宗教的先入主にうんざりするが、

・・別の面から見られた当時の日本のありさまが鮮明に

見えてくる・・・・

 

 

p238

 

秀吉の全国統一の最大の障害は、もはや一国二国の大名では

なく、多くの大名らを封建制とは別の価値観によって

結びつける「キリスト教」であったということに、

もう何年もたってからフロイスはようやく気付いたのである。

数多くの大名を感化した右近が狙われたのは、彼がその危険の

象徴だったからである。

 

 

p239

 

奴らは一見、一向宗に似ているが、予は奴らのほうがいっそう

有害であり危険であると考える。

一向宗が広まったのは百姓や下賤の者のあいだに留まるが、

伴天連らは、より高度な知識を根拠とし、日本の大身、貴族、

名士を獲得しようとして活動している。奴らの相互の団結力は

一向宗のそれよりも堅固である。

 

=== 一向宗(浄土真宗)がキリスト教に似ているという話は

    当時の宣教師の記録にもあるそうです。

    私が仏教のいろんな本を読んだ中でも感じたことですが、

    ブッダの原始仏教は哲学であって、それがその後

    中国に到達したころには仏教になっていて、

    法然さんの浄土宗の時までは、戒律と修行の仏教だった

    のが、親鸞さんの浄土真宗になって 一神教みたいな

    信仰になった・・・という感じです。

 

p240

 

「・・・予は日本のいかなる地にも汝らが留まることを

欲しない。 ここ二十日以内に、日本中に分散している者どもを

集合せしめ、日本の諸国より退去せよ、と」

 

 

松浦家はもともと反キリシタンであったばかりでなく、

関白が追放する宣教師らをポルトガルの定期船が来る迄

集結させておく場所として平戸を定め・・・・

 

=== 私は長崎県出身なんですが、平戸市には松浦藩の

    平戸城があって、博物館にはいろいろなキリシタン

    関連のお宝がたくさん展示してあったので、

    てっきりキリシタン大名なんだと思い込んでいました。

    それに、最近にわかに隠れキリシタンの伝統的な

    ならわしも脚光を浴びていますし。

 

平戸城

https://www.hira-shin.jp/record/index.cgi?field=14

 

平戸の聖地と集落

http://www.nhk.or.jp/fukuoka/sekaiisan/kyokai/006.html

 

 

 

p240

 

この布告は・・・・

「日本は神国たる処、きりしたん国より邪法を授け候儀、

甚だもって然るべからず候事」

 

・・これはすでに、信長が殺されたとき以来の伏線だったのである。

 

p241

 

日本が神の国であるとする宗教思想または信仰は神国思想

と呼ばれるが、それは基本的には国家神道や天皇制擁護思想

と結びついているものの、時々の情勢に応じて政治的主張や

体外的信念となってあらわれてきた。

 

p242

 

秀吉は宣教師の弾劾文を作らせたときに、この蒙古襲来当時の

排外思想と神道思想をよみがえらせたことはたしかである。

 

 

たいへんおもしろいことに、奈良哲三氏によると、

キリシタンの迫害がはじまった時期がまさにお伊勢参りが

発生した時期だった・・・

1622年に長崎で大殉教と呼ばれた五十五人の処刑があった

翌々年には神宮をめぐる「伊勢踊り」が大流行・・・

・・・伊勢参宮はキリシタンでないことを示すための、

あるいはカモフラージュのための民衆の一大パフォーマンス

だったらしい。

 

=== これに関連しては、長崎の「くんち」も

    諏訪神社のお祭りですが、キリシタンを排除するための

    ものだったとの話があります。

    さらに、熊本の天草市を訪問した時に、正月でもないのに、

    しめ縄が家々の玄関口に飾ってありました。

    地元の人に聞いたところ、「うちはキリシタンではありません」

    と示すためのもので、一年中飾るのが伝統になっているのだ

    そうです。

 

 

p244

 

思えば、大名が分立抗争する地方分権的な戦国時代こそが

日本に三十万に及ぶキリスト教徒を醸成させた社会的政治的

苗床であった。  秀吉が始め、徳川が完成させた中央集権

的封建制社会は、行為ばかりか心までもひとつに統制せずには

おかなかった。

 

西欧では、同じ十六世紀、まさに信仰の自由と個人の権利

封建制的な諸勢力と抗争をはじめ、それがやがて絶対主義

を崩壊させていったのだが・・・

 

 

=== これによって、日本の進歩は止まった。

    そして、日本のガラパゴス化が始まったということ

    でしょうか。

    自由主義、個人主義、民主主義が いまだに

    日本では本物になっていないと感じるのは、

    この日本の「ひきこもり」に原因があるのかも

    しれません。

 

 

 

< その33に続きます >

 

 

 

 

 

 

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2019年2月19日 (火)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その31 秀吉の豹変、ポルトガルの大型ナウ船を博多港に回航させよ

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

002

 

p195

 

運命の歯車は、ぎりぎりとすこしずつ無分別な人間たちによって

回されていった。

博多に現れたコエリョのフスタ船が、やがて無数の人間、

女や子供を含む無辜の人間たちの破滅につながる最初の引き金

になるとは、そのときはだれにもわからなかった。

 

p196

 

長崎のフスタ船とは・・・・・

この船は、一本か二本のマストをもち、ラテン型の三角帆をつけた、

二百から三百トンの船で、ポルトガル人が主としてアジアで使用

していた船の名だった。 この船の特徴は、小型で底が浅く、

遠浅の港にも出入りができたことと、数門の大砲を具備していた

ことである。

 

・・・秀吉もその船を見に行き、実際にその船に乗って、博多湾を

周航した。 

 

 

p198

 

・・・関白がフスタ船に乗ったのは六月十四日であった。

・・・六月十五日に・・・イエズス会の幹部を引見し、

・・・コエリョに向かって、こう言った。

「長崎は遠いことだから、もう帰るがよかろう」

 

・・ところが、その四日後、秀吉はあの「伴天連追放令」を

出したのである。

 

清水紘一氏は、「長崎に帰るがよかろう」ということばは、

もはや宣教師と話すことはないということ、つまり、コエリョ

が望んでいた長崎の港を教会に与えるという保証をもらうという

ことが失敗したことだったと書いている。

 

 

 

p199

 

もともと戦国の戦乱が激しかったときには、弱小のキリシタン

諸国はどうしても宣教師とその背後のポルトガル船に頼って

軍事防衛にあたらなければならないことが多かった。

 

1565年に平戸の船五十隻が、二隻のポルトガル船と

大村領の福田港で戦い、結果はポルトガル船が勝った。

 

 

p200

 

1578年には、竜造寺と深堀が長崎を襲撃しているが、

このとき、「唐物長崎記」によれば、キリスト教徒は「ふすたと

申す軍艦をこしらえ、大筒(大砲)にて打ち散らす」ので

敵もどうしようもなかったと書いている。

これは長崎がポルトガル船の応援を得て敵を撃退したということ

である。

 

 

有馬の場合も同じで、 1579年に竜造寺の包囲を受けて

滅亡に瀕したときに、・・口之津に上陸したヴァリニャーノを

乗せてきたポルトガル船とイエズス会から食糧、武器の補給を受け、

有馬氏は壊滅を免れた

 

 

p200

 

日本や中国についても、武力によってそこを征服して手っ取り早く

カトリック信仰を宣布すべきだという主張が宣教師の一部のあいだ

に根強くあったと述べている・・・

 

=== 秀吉が「フスタ」という軍艦を見てしまった。

    そして、実際にポルトガルに支援された九州のキリシタン

    たちが、仏教派である竜造寺などの侵攻を食い止めた。

    そういう話が秀吉の耳に入っていたとなれば、

    当然のように これは危ないと思うでしょうね。

 

 

p205

 

疑心暗鬼が秀吉を襲った。 神父らが有力なキリシタン大名

をほんとうに自分の思うがままに動かし、金力や武力を背景と

して、いつか自分に背くだろうという疑いである。

・・・九州征伐が終わった段階で、秀吉の心中にはあらためて、

その疑惑が浮上した。

 

 

p206

 

関白殿はみずからそのフスタ船訪れ・・・・

コエリョに向かって・・・これは軍艦であると言った。

・・・右近と小西は関白の心中や気性をよく知っていたので、

大きな災難が及ぶことを恐れると警告し、この船は彼(関白)

のために造らせたのだと告げて、関白に、このフスタを献上

してしまうように忠告した。

そこにいた何人かのパードレもそう勧めた。

 

・・・しかしコエリョは自分の言ったことをまったく気にして

おらず・・・なにか大きな報酬を受けるだろうと思い込んでいた。

 

 

p209

 

秀吉はそのとき、コエリョに向かって、自分はまだポルトガルの

定期船(ナウ船)をみたことがないので、そのとき平戸に入港

している船を見たい、それを博多に回航させよ、・・命じた・・

 

p212

 

・・・フスタよりも大きく堅固なポルトガル船はもっと大きい

大砲を備えているかもしれない・・・

 

日本の一艦隊に匹敵するポルトガル船は秀吉に危惧と嫉妬

の心を抱かせた。 そこで実際に大型の定期連絡船を見たく

なったのである」

 

船長は・・・浅瀬で渡航困難として拒否した・・・

この船長の引見の日が六月十八日・・・

 

だがしかし、そのまさに同じ夜に秀吉はキリシタン迫害者に

変身したのである。

 

 

=== 秀吉はフスタ船よりももっと大きいポルトガルの

    定期船を見せろといったけれども、船長は

    それを拒否した。

    コエリョは、周りの忠告を無視してしまった。

 

 

 

p215

 

その夜、秀吉は突如として宣教師の日本追放と高山右近の

改易と追放を命じた。

 

 

ペドロ・モレホンの1615年の年報によると、秀吉の態度

急変の直接の原因は、・・・施薬院全宗の訪問だった

かれはかねてから高山右近の領地で仏寺が破壊されることを

恨んでいて、・・・

 

秀吉に頼まれたある美女を獲得しそこなった・・・

この美女は有馬のキリシタンの女性で・・・関白の寵を受ける

ことを拒んだ・・・・

 

p216

 

秀吉にとっては全国の軍事的征服と女の征服は、心理的に

同じ価値があった。

 

p217

 

「英雄色を好む」などといった俗っぽいことばで、秀吉の

行為を見逃すことは自分自身が男根中心主義である男性の

歴史家のやることである。

 

 

p219

 

このとき、二度目の使者に立ったのは、右近の茶の師匠で

ある千利休であった・・・・

利休は秀吉の意を体して右近に改宗を勧めたが、右近は

従わず、・・・

 

===  おまけに、女狂いの秀吉に従わない

     キリシタンの女の話が、仏教の僧侶から

     伝えられ、いろんなことを言い含められて

     酒に酔ったいきおい? で、切れてしまったらしい。

     さて、キリシタンの運命はどうなるのか・・・

 

<その32に続きます>

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月18日 (月)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その30 秀吉の九州征伐、大阪発の十字軍 高山右近

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

003_2

 

p175

 

このように軍事に介入することは、危険なことであったので、

オルガンティーノと右近はこの話題を転換しようとしたが

フロイスはこの話題に固執した。 そしてこの話題こそ、

秀吉が最大の注意を払って聴いていたものだった。

 

ヴァリニャーノはオルガンティーノからこの話を聞き、

心底怒った。 ・・・戦国大名の猜疑心を知っていたので、

・・・実は秀吉の猜疑心が増すということを心配した

 

ヴァリニャーノはつぎのように書いた。

「・・・有馬と大村の領主や、豊後のフランチェスコ王が

危険にさらされたのを機会に、コエリョは彼らを助けるという

口実でそこに介入し、非常に無謀で軽率な行動に及んだ。

・・・キリスト教徒の領主たちをして全員結束して関白殿に

味方させようと約束した。・・・中国にわたるときには、二艘の

ポルトガル船を提供しようと言った。・・・」

 

p181

 

しかし、秀吉は長いあいだ朝廷・公家と信長のあいだにキリシタン

許可をめぐって対立があったことを知っていた。

・・・だから、「イエズス会を迎えた秀吉が公・武どちらの法を

継承するかは、すぐれて政治的決断を要する課題」であった。

 

 

p181

 

この段階では、(信雄が生きていたので)、秀吉は信長の政策を

継承してみせることで正統的なポスト信長継承者であることを

印象づける必要があったとも清水氏は言っている。

 

 

=== この時期の秀吉の政策というか戦略は本当に

    巧妙というか、よく考えられていますねえ。

    猜疑心から出ているとしても、その秀吉の心の内を

    見抜けなかったコエリョやフロイスは、結局

    大きな迫害が起こるとは思ってもいなかったのでしょう。

    秀吉は単純じゃなかった。

 

p182

 

秀吉は天下を掌握したあと、草創期に大いに秀吉に貢献した

有能な人間を多く処分してしまっている

軍功あらたかな秀長がそうであり、千利休がそうである。

 

実際、大友宗麟は・・・「ここですべてを仕切っているのは秀長と

利休である」と家人に書いている・・・ 右近もまた処分された

側近である。 ・・・そうやって彼は人間を使い捨てた

キリシタンもまた使い捨てられたのである。

 

==== ああ、正に、規模は違えど、 現代のブラック企業と

     同じ使い捨て・・・・

 

 

p184

 

性的に放縦であり、女漁りに目がなかった秀吉は、キリスト教徒の

純潔と夫婦間の貞節が信じがたいものに見えたが、そのいっぽうでは、

そうした清潔な人間のことは尊敬もした。

 

 

p185

 

右近、行長、黒田孝高、蒲生氏郷らのキリシタン武将は、秀吉に

とって彼らの敵である仏教徒の島津を滅ぼし、大友、大村、有馬

キリシタン領主を救うための「聖戦」に駆り立てることのできる

利用価値の高い者たちだった。

 

 

p188

 

これは如水の先見の明であった。 ・・・黒田はじつは自分が天下を

取ることを内心考えていて、それを秀吉に見透かされたというのである。

 

p189

 

如水は政界から去ることで秀吉の警戒心を避けたが、秀吉への

憎悪は深く、関ヶ原では父子ともに家康側に着いた。

・・・息子の長政は禁教令下に生き延びるため、黒田家と

キリシタンとの関連を示す文書その他を抹消した。

 

=== これはまた、サラリーマンじゃないけど、

    生き残るのは大変だったんですねえ。

    その為には 自分の家の歴史さえ抹消しなくちゃ

    いけなかった。。。。。

    そういう意味では、日本で書かれた記録よりも

    外国人が書いたものの方が客観的であるとも

    言えるのでしょう。

 

p191

 

九州征伐は、キリシタンの武将たちにとって一種の十字軍

なった。 ・・・「大阪で予は関白の出陣を目撃した。・・・

彼らのある者は紋章、兜、ひざに亦武装のうえに十字架を

つけていた」。 ・・・・右近がこれらの軍勢の指揮者で、

・・・ ある者は着物にも十字架あるいはイエスの苦難の

しるしをつけていた。 ・・・そのなかには美しいロザリオを

かけた者も・・・・」

 

・・・九州に着いてから右近に多数のキリシタン武士が

加わった。  

・・・ 本隊に先立って出陣していた秀長と黒田が日向を征服、

・・・ 先陣は大友義統、黒田孝高、・・・・

 

 

=== こういう場面を大河ドラマで見てみたいもんですね。

    キリシタンの派手な装いの軍団の姿を。

 

 

 

p192

 

秀吉は・・・肥後の八代で・・・

フロイスにこう語ったそうだ。

「・・・中国にわたり、その国を征服する決意であるが、

ポルトガル人がこれを喜ぶや否や」。

 

・・・「ポルトガル人らの答えを聞くと、関白は無上に満悦した。

・・」

 

どうやら「ポルトガル人ら」は秀吉の中国征服計画を支持した

としか思えない。

 

p193

 

秀吉は定期船が堺付近の港に来ることを強く希望した。

 

どうもこの時点では秀吉は世界と通商する偉大な日本の国王に

なるつもりだったらしい。

 

=== とりあえず、今のところは、信長の意志を継いでいる

    という形もとらなくちゃいけないし・・・・

    ここら辺りも、ポルトガルの真意を探るための

    やらせっぽい部分だったのか・・・・

 

 

 

p195

 

秀吉は・・・大友には父祖伝来の豊後を安堵した

しかし、これが定まる前・・・大友宗麟はその苦悩にみちた

生涯を終わった。

 

この再配分で、その貧しさやよるべなきを中傷された

伊東マンショの叔父伊東祐兵は揖斐と日向の一部をとりもどし

結果としてマンショが近親であることが証明されることになった

のである。

 

=== 良かったねえ、伊東マンショ。

    これで、いろんな中傷を結果的に跳ね飛ばすことが

    できたわけですね。

    ・・さて、次回はいよいよ、決定的な瞬間になっていきます。

 

<その31に続く>

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その29 現代は ブラック企業の強制労働 と 秀吉時代の武士道・・??

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

2017_02_toyotomi_hideyoshi_koudaiji

 

=== さて、本能寺の変。

    百花繚乱の説の中で 「天皇・朝廷黒幕説」を

    展開中です。

 

003

p154

 

本能寺の記録を生々しく伝えたふたりの公家、吉田兼見と

勧修寺晴豊が、誠仁親王の意を受けて終始動いていたことが

浮かび上がってくる。 

・・・公家、近衛前久も事件に相当関与していたものとみられる。

 

光秀の軍勢が信長を討ったあと、長男の信忠を討ちに行き、

彼が籠った二条城を攻めた時に、隣には近衛の屋敷があったので、

その屋敷から二条城に向けて矢を放ったという記録が

「信長記」にあり・・・・

・・・前久はその後信孝に詫びを入れるために出家し、・・・

 

 

p155

 

甲州を攻めた時・・・・

信長は「近衛、わごれなんどは、木曽路を上らしませ」と

言ったというのだ。 これは「暴言」だとされた。

というのは太政大臣を「近衛」と呼び捨てにした・・・

 

 

p155

 

秀吉は・・・光秀亡き後、天皇と直結した公的な朝廷

守護の武将に昇格した。 ・・・あとは織田の血筋を

断ってしまえば秀吉の天下である。

 

 

p159

 

光秀の最期のようすについても外国史料と日本側史料は

まるでちがう記述をしている。

イエズス会年報では、光秀は勝竜寺城から坂本城に逃亡

するため農民に報奨金を出して道案内を頼んだが、その

農民は刀と金を奪うために光秀を殺したと不名誉な

死にざまを書いているのに反し、「明智軍紀」では、

・・・農民に腹を刺され、近臣溝尾茂朝に・・・介錯されて

自害したという、・・・

 

p161

 

 

日本ではキリシタン側の史料は一般に低くみられる傾向

あるが、実際にはその記述は相当に公正である。

彼らにはだれかを栄光化する必要がない。

ただし、キリシタンは別である。

 

「わたしが修道院から見ていたところでは、明智の軍勢が

武器を捨てて退却しながら修道院の前を通過するのに二時間も

かかった」などというふうに一人称で書かれた部分は、とりわけ

史料価値が高い

 

・・・歴史家としては余計な配慮や作為があまり入り込むひま

のない同時代の史料を第一に信用するしかない。

 

=== この辺りは、様々な個人的、立場的な原因に繋がり

    そうな事情がたくさんでてくるんですが、

    それが記録されるときには、不都合なことは

    省かれたり、いわゆるフェイクが書かれたりするので、

    歴史家としては史料の読み方に注意しなくちゃ

    いけないっとことが何度も繰りかえして述べられて

    います。

    まあ、私などは研究家でもなんでもないので

    只々 面白がって読むだけなんですが・・・

 

p162

 

キリシタン側の史料の特色は・・・

日本の公文書作者に固有の紋切り型文章ではなく、いわゆる

リアリズムで細部を記述するところに特徴があり、・・・・・

・・・覚めた冷静な観察を行っていることである。

 

信孝と秀吉は明智軍の首を・・・・・最初千を超す首が

信長の供養のために晒されたが、このときの本能寺界隈に

ただよう臭気について語るところは特徴的なリアリズムだ。

 

「・・・あまりにもひどい臭気を放つため、その方向から

風が吹いてくるときには窓を閉めなければ教会にとどまって

いられないほどだった。 ・・・数人の男があたかも羊か

犬の頭を運ぶかのように三十以上の首を数本の縄に吊って

もってきたが、彼らの顔には一片の感情もなかった。・・・」

 

 

p164

 

宣教師たちは各地で起こった殺戮を報告した。

子供が優美な人たちであったというくだりには、

「ヨーロッパの貴族のように」というところは余計だが、

滅んでいった光秀一門へのあわれみがある。

 

 

p165

 

信孝は、宣教師たちが深く期待を寄せる君主であったが、

しかし、それゆえにこそ、もっとも君主になっては

ならぬ人物であった。

 

 

p166

 

フロイスの書簡では、いっそうくわしく勝家の最後の盛大な

酒盛りや、それに続く女子供の殺害、最後に上がる火の手に

ついて書いている。 宣教師は、燃え上がる炎の音よりも

悲鳴のほうが高かったといい、幼い子供の年齢や涙を少しも

顧みない、この野蛮な風習を嘆いている。

 

 

p168

 

秀吉が大阪城の建造にどのような権力を行使または誇示したか

をリアルに報告しているのはやはりイエズス会年報である。

秀吉の「偉業」を賞賛するだけではない冷静な視点が

ここにある。

 

「この工事において万人がもっとも不思議に思い、また驚嘆と

畏怖の念を抱いたのは、かくもおびだだしい石材をどこから

集めてくるかということだった。 ・・・ジュスト右近殿が

陸路を一里、海路を三里も運ばしめた石のごときは、輸送に

千人の人手を要し・・・・・

 

・・・堺の町だけでも毎日二百隻の石船・・・

尋ねてみた。・・千隻以上であることを認め・・・

・・・たとえ一個でも盗んで・・・・ただちに斬首された。

・・諸侯を・・・果たしていない者があると・・・

追放し、その封禄や領地を没収した。

 

・・・強制労働に従事している人々(それは奴隷ではなく

武将たちだった)の信じがたいほどの労苦や経費・・・

 

彼らの多くは遠国、僻地の者だったので、多大の経費と

責任を負わされ、あらゆるものを国許からとりよせるしか

なかった。 ・・・刀剣、鉄砲、甲冑、鞍、・・・それらを

二束三文で売り払って生活していた。

・・・彼らを支配し謀反や反乱を企てる機会や時間を

与えない・・・・

・・・絶望のあまり・・切腹して死ぬ者もかなりいた。

・・・彼らがよく苦しみから抜け出すことができたと

いって、それを勇敢で賢明な行為だと賞賛した」

 

ローマの昔から・・・当然蜂起や反乱を呼ぶはずなのだが、

日本では自殺が唯一の解決として賞賛されたという・・・

 

・・西洋史を学んだ人間にとって日本はまさに異文化の国

である。 だが、これが私たちの国の歴史なのだ。

 

=== これにはさすがに驚きました。

    農民などではなく、武将が強制労働をさせられ、

    挙句の果てに切腹というよりも自殺を図って

    苦から逃げ出した。

    そして、それが賞賛された。

 

=== ここでちょっと「武士道」という言葉が気になった

    ので、下のリンクをご覧ください。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/武士道

 

「武士道」という言葉が日本で最初に記された書物は、江戸時代

初期に成立し、原本が武田家臣春日虎綱(高坂昌信)の口述記と

される『甲陽軍鑑』である。ここでの武士道は、個人的な戦闘者の

生存術としての武士道であり、武名を高めることにより自己および

一族郎党の発展を有利にすることを主眼に置いている。」

 

「武士(さむらい)が発生した当初から、武士道の中核である

「主君に対する倫理的な忠誠」の意識は高かったわけではない。

なぜなら、中世期の主従関係は主君と郎党間の契約関係であり、

「奉公とは「御恩」の対価である」とする観念があったためである。

この意識は少なくとも室町末期ごろまで続き、後世に言われる

ような「裏切りは卑怯」「主君と生死を共にするのが武士」と

いった考え方は当時は主流ではなかった。体系付けられた

いわゆる武士道とは言えず、未熟である。」

 

=== つまり、まだ信長や秀吉の時代には「武士道」という

    観念があったわけじゃないという話です。

    主従関係は契約関係・・・ってことは、

    この場合は正に「ブラック企業」のおぞましい契約

    という実態だったわけですね。

 

    さらに、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」と

    上記の「自殺」がどういう関係になるかなと思って

    下のリンクでちょっと考えてみます。

 

葉隠 「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり」

https://ja.wikipedia.org/wiki/葉隠

 

「『葉隠』(はがくれ)は、江戸時代中期1716年ごろ)に書かれた書物。」

 

「そのような解釈は全くの見当違いである。葉隠の真意は、自己を

中心とした利害に基づく判断からの行動は、結局のところ誤った行動

となってしまう。そのため、本当に最良の行動ができる心境とは、

自己を捨てたところ、すなわち自身が死んだ身であるという心境から

の判断であり、そのような心境から得られる判断が、自分も含めた全体

にとって最良の結果を生むというところにある。」

 

=== 江戸時代中期になれば、このように

    「自身が死んだ身であるという心境からの判断」   

    というのが真意ということなんですが、

    秀吉の時代には、そこまでは行かず、

    正に「ブラック企業の慈悲のない強制労働」から

    抜け出すための自殺だったわけですね。

    今の時代とあまりにも似ているのでぞっとします。

 

p171

 

秀吉の九州平定にあたって、・・・少年使節の送り主で

あった大友、有馬らの殿とひさしぶりで再会する。

 

・・・1584年、竜造寺隆信は有馬の従弟大村を征服し、

有馬の大部分を支配した上で、有馬晴信に決定的打撃を

下そうとしていた。


201924_9syu5

 

・・・有馬は島津に援軍を乞い・・・・竜造寺は敗北・・

 

・・島津は勢いを駆った日向、肥後、肥前、筑後を占領し、

その同盟者である秋月が筑前、豊前の一部を大友から奪って

いた。 ・・・豊後を残すのみ・・・・

 

 

秀吉は・・・・・大友・毛利間の和議を約束させ、島津との

確執について援助するという話し合いを大友とやっていた・・・

 

p172

 

秀吉は、いかなる代償を払ってでも、大友ならびにほかの

キリシタン大名の信用を獲得せねばならなかった。 それは

彼らを島津を倒すのに使うため、そしてつぎには、朝鮮侵略の

ためだった

 

 

秀吉は九州平定計画である「九州分目」を出した。

・・・そのなかに「高麗渡海計画」もあった

 

 

p173

 

秀吉は、正しい人柄のために、宣教師らに絶対の信頼を得ている

高山右近を司祭らのそばに座らせ、フロイスを通訳として

コエリョに向かっていかにも親しく胸中を語ってみせた。

 

 

p173

 

「・・太閤殿は・・・朝鮮と中国を征服すること決心し、

そのため木材を切らせて彼の軍勢を運ぶ二千の船を造るように

命じた」

 

「彼が司祭たちに助力を頼みたいのは、彼のために装備の整った

二隻の大型帆船(ナウ)を調達するように交渉してもらうようにこと・・・

 

p174

 

フロイスの報告書のつぎの部分は問題が多い。

「さらに、太閤は、日本の半分または過半数をキリシタンにする

つもりである、と言った。・・・・」

 

 

p175

 

フロイスがわけあってぼかしたこの会話の中身を、

同じくその場にいたオルガンティーノ・・・の書簡が補っている。

 

・・・ コエリョと同じく好戦的なフロイスは、太閤が九州に

進撃することを願い、それが実現したときには、副管区長は

九州の全キリシタンを秀吉側につかせるように尽力すると

言明したのである。

 

・・・・つまり、このとき秀吉は、宣教師がキリシタン大名を

戦争に動員することができるし、彼らを支配できる、ということ

を「確認」したのである。

これがのちの切支丹神父大弾圧の火種になった。

 

 

==== さて、さて、やっと 天正遣欧少年使節の

     おひざ元である九州に話が戻ってきたんですが、

     秀吉はここで、キリシタン宣教師と危ない話を

     していたんですねえ。

     それが、キリスト教大弾圧の導火線になった。

     宣教師側もうかつなことをしたものです。

     人間、調子に乗ってしゃべると ろくなことは

     ありません。

 

 

<その30に続きます>

 

 

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その28 本能寺の変、朝廷・天皇黒幕説の筋書き

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p132

 

「殺されるまでの伏線」

 

立花氏は、三職推任は朝廷の意思ではなく信長の働きかけ

であったとみるし、朝廷はその官位のどれにも信長を

つける状態にはなかった・・・・

 

いやがる「馬揃え」に天皇や公家を招いて威嚇し、

・・・支配を強めていた。 ・・・朝廷は信長を嫌い、

明智の謀反も知っており、いちはやく明智に使者を送ったという

説を立てた。

 

 

p133

 

・・・岩沢氏と立花氏は、結論はちがうが、どちらも

同時代の日記史料をていねいに読んで、いろいろなことを

私たちに教えてくれる。

 

しかし・・・抜けているものがある。

それはキリシタンの問題である。

村井早苗氏は、日本で最初にキリシタン禁令を発令したのは

天皇で、終始、天皇の最大の敵はキリシタンだったということを

明らかにする本「天皇とキリシタン禁制」を書いた。

 

・・考えられるのは、馬揃えで信長が最高の賓客としたのが

朝廷ではなくて宣教師ヴァリニャーノだったということからも

わかるような、信長のキリスト教保護策であり、決定的だったのが、

総見寺参拝事件である。

 

・・・どちらも、伝統的な宗教の構造と、その上にのっている

朝廷の考える神聖な国家のかたちを破壊するものであった。

 

p134

 

・・・秀吉とはすぐに話がついたが、それは秀吉が既存の

宗教勢力を維持する政策を出したからであるし・・・・・

・・キリシタン追放をやってくれたからである。

 

=== 秀吉は朝廷の言う事を聞いたけど、

    信長はいろいろと朝廷を無視するようなことを

    やっていたってことですね。

 

 

p134

 

村井早苗氏の論証に即して、天皇によるキリシタン禁制の

経過をたどってみよう。

 

天皇の綸旨による第一回の禁教令は、永禄八年(1565年)

7月5日に早くも出されている。・・・正親町天皇は詔勅によって

京都の町から宣教師を追放した。

 

綸旨が出たしだいは、公家の竹内三位が熱心な法華宗信徒で、

これが本山の僧と合議して天皇に働きかけ・・・

・・この竹内李治は・・信長によって処刑された。

 

p135

 

なかでも万里小路惟房、輔房父子は、フロイスによれば、

「最悪の敵」で、しかも、惟房の叔母は天皇の生母で妹房子は

後宮、つまり彼らは天皇の外戚だった。

 

 

p136

 

これで、将軍義昭が不快を理由に宣教師に会わなかったほんとうの

理由がわかった。 彼は朝廷から会うなと言われていたから・・

その後、信長が会えと言ったときには会った

・・・朝廷は不愉快だったにちがいない。

 

p137

 

フロイスとロレンソが心配し岐阜に駆けつけると、信長は

彼らを歓待して、「内裏も公方も気にするには及ばぬ。すべて

は予の権力の下にあり、予が述べることのみを行い、

汝は欲するところにいるがよい」と答えた。

 

=== この時には、すでに信長は傍若無人に振る舞って

    キリシタンを保護していた。

    天皇の周辺には仏教派の親戚がいて、

    反キリシタンであった。

 

 

p137

 

「川角太閤記」などでは、明智が襲撃の前夜に五人の武将に

謀反を打ち明けるときに、裏切りの理由を説明している。

それは岐阜で大名高家の前で面目を失ったことと、信濃の

諏訪で折檻されたこと、家康が安土にきたときの御馳走法を

非難され西国へ出陣させられたことの三つである。

 

p138

 

信長は殺された上に、悪人になってゆくのである。

これは日本人の心性にはよく合うものだ。

日本人はいじめに耐えて恨みを堪え、ついに復讐する

話が好きである。

きっとみんなそういう思いをして生きているのだろう。

 

 

=== ここでは、明智光秀側の理由が諸説を含めて

    述べられています。

    「いじめを耐えて」というのは ちょっと「おしん」

    を思いださせますねえ。

    本当にああゆうお話が好きなんですねえ。

    もっとも、世界でも広くヒットしたそうですが。

 

p140

 

光秀はなんらかの談合をこのころ、仏教勢力や朝廷と

かわしていたのではないかと思われる。

よほどの目算がなければ天下を取る計画はたてられないだろう。

・・・信長に危機感を抱き、旧い秩序の回復のために

旧勢力とひそかに結んだのだと私は考える。

 

=== 「いじめ」が原因のひとつだったとしても、

    光秀は頭が良かったそうなので、私恨だけでは

    天下をひっくり返すようなことはやらなかった

    と考えるのが妥当のように思えます。

 

 

p143

 

ローマ教会の教皇グレゴリオ十三世が、おおぜいの反対を

押し切って千五百年以上世界を支配していたユリウス暦

から、今世界で通用しているグレゴリオ暦に変えたのである。

信長が尾張で通用している暦を朝廷に採用せよと言ったことは

当寺の常識からいえばたいへんな越権行為で、

朝廷の神聖な権威を侵すものだった・・・・

・・彼は朝廷が独占しているきたさまざまな神聖なまつりごとを

奪おうとしていたのである。

 

=== カレンダーがそんなに神聖なものだというのは

    庶民には分かりませんなあ・・・・

    歴史の教科書にそういうことが書かれていても、

    「そうなのか~~」で通り過ぎますね。

 

p145

 

信長の小姓らは光秀の謀反とは思いもよらず、

家臣同士の喧嘩だと思った。

 

本能寺から百メートルの距離にあった南蛮寺にいた宣教師の

報告は、非常に臨場感があって実況的である。

 

 

p147

 

「安土の市はこのとき、最後の審判の日のようであった。

ある者は一方向に避難し、ほかの者は別のところに逃げ、

・・・民衆の混乱と狂気の沙汰は慨嘆すべきものがあった。

・・・」

 

p150

 

光秀が信長親子を討って京都から出てゆくときに、公家吉田

兼見は粟田口で光秀と対面していることが「兼記 別本」に

出ている。 偶然起こった謀反への対応にしては、これは

早すぎる。

 

さらに変から五日後の七日、安土に入った明智に対して

勅使が派遣された。 

 

この「京都之儀」とは、一般に親王から光秀軍の乱暴停止

命令だったとされているが、それならなぜ進物をやったのか、

また乱暴禁止にしてはもう彼が京都を出てしまっているのに

おそいではないかという考えもある。

 

朝廷は確固とした意志をもって信長殺害者光秀を朝廷守護の

武将として認知したという解釈がなりたつと推論した。

 

九日に光秀は上洛したが、このとき、なんと、五摂家公家衆と

上下京衆は残らず光秀を出迎えた・・・・

・・・朝廷からの朝敵征伐者としての位置づけを表明した

ことで・・・

 

 

p152

 

しかし、明智がこれほど早く十三日にはもう敗北してしまう

という事態では、応援したほうの人間たちはさぞ狼狽し、

必死に事態をとりつくろう必要があっただろう。

だから後代に書かれた記録はたいてい嘘ばかりである。

・・・勝者の立場からしか書かれないし、その時の支配者に

不利なことは消されてしまうからである。

 

=== 確かに、これが実際の状況だったとしたら、

    そりゃあもう狼狽しまくりだったでしょうね。

    でも、やってきたのが朝廷の言う事をきく

    秀吉でよかった・・・ってことでしょうか。

 

 

p154

 

もし織田家が後継者ということになると信長打倒計画の

首謀者がだれかについての追求がきびしくなるからである。

・・・信長打倒を承認したという事実を抹消し、信長打倒を

・・・光秀の個人的謀反に帰し、信孝、秀吉(とくに秀吉)

への認定を急いだのだ。

 

 

=== 朝廷側はよりマシな秀吉にことがバレないように、

    証拠隠しをやったんでしょうかねえ。

    もっとも、その後の経緯を見ると、ある程度

    秀吉も朝廷・天皇黒幕説を知っていたかもしれない

    ですけど。

 

 

<その29に続きます>

 

 

 

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2019年2月15日 (金)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その27 信長が壊そうとしたもの・・・安土総見寺はなんだったのか?

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

p105

 

日本の教会の将来に対する明るい希望、それはかの信長

の与えた希望だったのに、・・出帆した四カ月後に・・死んで

いった。

 

・・・天下人となった秀吉が、・・・「宣教師追放令」を出し、

高山右近を追放し、京都と大坂の南蛮寺を破壊・・・

・・これがその後300年に渡って継続したキリスト教迫害の

はじまりだった。

 

2017_04_takayama_ukons

                             

 

=== 高山右近はマニラで死んでしまいました。

    それも熱病になったらしく到着してからすぐに・・・・

 

 

 

p107

 

それまでは、日本は世界に顔を向けて立つ、世界のなかの

ひとつの国であった。

 

・・それ以後、日本は、他人を征服するか、または征服されるか

という関係しかもつことのできないひとりの男、秀吉によって

支配され、・・・巨大権力機構の一元的支配をつくりあげた

恐るべき徳川に支配された。

 

1582年5月14日・・・・・夜九時、安土の空に

大きな彗星が出現した。・・・西欧の占星術では、・・・

王朝の滅亡や交替を予告するものとされていた・・・

 

 

=== 大きな彗星が流れた。

    それが信長の死を意味していた・・・のか。

    でも、著者はここから本能寺の変の本当の

    原因を探っていくんですねえ・・・

    明智との個人的ごたごたなんか目じゃないよ。

    大きな野望があったんだよ・・・・

 

 

p108

 

本能寺の変は突然に起こった異変ではない。 信長は破滅に

いたる伏線をすでに深く張っていた

 

・・・信長は安土山にその豪壮華麗な天守閣に対峙して、

荘厳な七堂伽藍をもつ広大な寺院総見寺を建立した

・・・もともと仏教や仏教勢力と戦ってこれを破壊してきた

信長が、・・・宣教師らによれば、「この寺は信長自身を

拝ませるもの」だったというのである。

 

・・・信長は「予みずからが神体である」と言っていた。

 

p109

 

フロイスは、信長が触れを出して、もしも信長の誕生日に

総見寺に参拝すれば現世において利益を得て、子孫は繁栄し、

後生は救済される方と知らせた・・・・

 

不思議なことにこの事実は、外国人だけが書いていて

日本側のそのころの記録にはないのである。

「信長記」は、総見寺のことはひとことも書いていない。

 

 

・・・じつは、日本では、人間が神になることはそれほど

奇妙なことではなかった。

秀吉も、家康も、死んでからは神々のひとりになって神社に

祀られた。

・・・信長がまだ生きているのに、自分を礼拝させた・・・

あまりにも荒唐無稽だと思ったのか、日本の歴史家は

このことを重大視していない。

 

=== この安土総見寺をちょっとチェックしてみますと。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/総見寺

 

「天正年間に安土城築城に伴って、織田信長によって城郭内に

建立された。開山は、織田一族の岩倉城主主織田信安の三男で

禅僧の剛可正仲とされているが、実際の創建時の住職は尭照で

あったようである。」

歴代の住職は織田家の一族から選ばれることになる。」

 

・・・ことさら信長がご神体というような説明はありません。

 

こちらのサイトにはありました:

「信長50・・・信長と総見寺」

https://bochan.exblog.jp/12069128/

 

「フロイスは「日本史」で次のように記している。

 信長は安土城内に七堂伽藍を持つ本格的な寺院である総見寺を

建立した。

信長はもはや、自らを日本の絶対君主と称し、諸国でそのように

処遇されることだけに満足せず、(中略)自らが単に地上の死すべき

人間としてでなく、あたかも神的生命を有し、不滅の主であるかの

ように万人から礼拝されることを希望した。

 そしてその冒涜的な欲望を実現するべく、自邸に近く城から離れた

円い山の上に一寺(総見寺)を建立することを命じ(下略)」

 

・・・ さらに こちらのサイトには写真付きで

    詳しく安土城跡にある総見寺の訪問記があります。

 

https://blog.goo.ne.jp/saiyu-ki_2007/e/db1a1562d73c8061adb56f44f73a978f

「総見寺は 安土城の築城に際し 織田信長によって城内に建立された

寺院です。 現在は 安土城跡の徳川家康邸跡と伝えられる場所にあります」

「総見寺の玄関から 本堂です 正面の像は信長公でしょうか」

「二番目の部屋は織田信長公の像があり 写真撮影は禁止されています」

 

・・・ この書き方から推測すると、一応 織田信長が

    ご神体という扱いになっているんでしょうかねえ。

    ちょっと観に行きたくなりますねえ・・             

   

 

p111

 

じつは、私がこのことにこだわるのは、このような宗教観の

ちがいが、日本でのキリシタンの迫害と深く関係があるからで

ある。 

 

・・・つまり秀吉は、日本は「神国だから、この国では

キリスト教は邪悪な教えだ」と言ったのである。

・・・「神々とはわが国では諸侯以外のなにものでもなく

彼らはその偉大さと勝利のゆえに神として崇められるように

なった。 ・・・できる限り力を尽くして神になろうと

している」と答えている。

 

・・・宣教師たちの証言によれば当時日本人は過去の偉大な

天皇、公家、諸侯などのなかで特別に指定された人々を

神と読んでいたということである・・・・

 

p112

 

安土山上に張り出された文面は以下のようなものであった。

「偉大なる当日本の諸国のはるか彼方から眺めただけで、

見るものに喜悦と満足を与えるこの安土の城に、

全日本の君主たる信長は、総見寺と称する当寺院を建立した。

当寺を拝し、これに大いなる信心と尊敬をよせる者に授けられる

功徳と利益は・・・・・」

 

p114

 

誕生日を祝日とするのはキリスト教のアイデアだが、

本来自分が神体であるというのはたしかに神道の考えである。

 

もともと彼が天皇の三職を受けなかったことは有名だし、

このとき信長はなんの地位身分も固有の名称も持っていない。

・・・彼がほんとうに狙ったのは「天皇」になることでは

なかったかということである

そのためには、彼は神にならなければならない。

 

=== 出ました。 信長は天皇にとって代わりたかった。

    レベルの低い官位なんかどうでもよかった。

    ってことになると、天皇、朝廷はどう動くか・・

    ・・・が焦点になりますか?

 

p116

 

神格化ということだけでは、信長が特殊なのではない

しかし、あとのふたりがやって成功したやりかたと比較すると、

信長のやりかたは非常に危険だった・・・

 

 

=== この著者はここで独自の本能寺の変の原因を

    示唆しようとしているのですが、

    一般的にはどんなことになっているのか

    こちらでおさらいしてみます・・・・・

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変#変の要因

 

「本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、時代の大きな

転換点となったにもかかわらず、信長を討った光秀がその動機を明らか

にした史料はなく、また光秀の重臣も短期間でほとんど討たれてしまった

ため、その動機が明らかにされることはなかった。」

 

「日本中世史研究においてはあまり重視されたテーマではなく、

日本中世史を専門とする大学教授が本能寺の変を主題と

した単著は極めて少ない。本能寺の変の歴史的意義としては信長が

死んだことと秀吉が台頭したことであり、光秀の動機が何であれ、

黒幕がいたとしても後世の歴史に何の影響も与えておらず、

光秀の動機や黒幕を探る議論は「キワモノ」であると評価されている。」

 

・・・めちゃくちゃ多くの説がありますが、この中から

   この著者が示唆しているものと近いものを上げてみると:

 

神格化阻止説

信長が神格化されることを嫌った光秀が謀反を起して阻止しようと

したという説。根拠とされるのは主にフロイスの『日本史』で、・・

・・・また信長が神格化されることを光秀が嫌っていたとはフロイスも

誰も書いておらず、これを謀反と結びつけるのは飛躍がある。」

 

朝廷黒幕説(朝廷関与説)

暦改訂問題(尾張暦採用問題)、正親町天皇の譲位問題、三職推任

問題などで、信長と朝廷との間には緊張状態があったという前提で、

朝廷が光秀に信長を抹殺させたという説。・・・・

信長が朝廷を滅ぼす意思を持っていた、あるいは持っているのでは

ないかと彼ら朝廷側が思っていたということも前提とされ、この2

の前提を土台にして成り立っている。(前述のように有力視された

時期もあったが)朝廷黒幕説も仮説の域を出ていない。」

 

 

・・・ まあ、いずれにしても史料がないからどうにも

    ならんということですかね。

    「キワモノ」ってことは、大河ドラマ的には

    非常に都合がいいってことでしょうか?

 

 

 

p118

 

日本が明治時代に外圧によって国民国家を作りあげはしたものの、

みずから西欧的な意味における近代社会をつくりあげることが

できなかったのは、なによりもまず、西洋が近世に入った時期

つまりまさに戦国時代の末期に、日本が世界に向けてドアを

閉ざし、・・・・・知識の窓を閉ざしてしまえば、その成長は

遅れる。

 

 

 

オルガンティーノは、こともあろうに、秀吉が迫害を

はじめたときにもなお、「いつか秀吉は改宗してくれるかも

しれない」と書いて、歴史家をびっくりさせ、この善良な

神父はばかじゃなかろうかといわれている。

しかし、このオルガンティーノは、奇妙にもただの一度も

信長の改宗を期待していない

・・・実際、信長の目のなかに、いっさいの超自然や

いっさいの神秘を根底から信じていない、その意味では、

あくまでも冷静な近代人を見抜いていた

いっぽう秀吉には、神仏への中世的な信仰心があり・・・

 

 

p120 

 

西洋で起こったイギリス王の教皇への反乱も、キリスト教を

否定するのではなくて、自分がイギリスの国家教会の首長だ、

もう教皇には頼らない、というやりかたでの独立だったので

ある。 オランダもそうで、・・・自立した新教のもとに

自治都市国家をつくるのだということであった。

 

 

=== この見方が当たっているとすれば、

    信長は西欧での近代化の進み方を自ら見通して

    いたということになりますか。

    新たな宗教の頂点に立って、従来の宗教の体制から

    干渉されない独自のものを作るという発想。

    なんだか、オウム真理教を思い出しますが・・・

 

 

p121

 

つまり、日本という国土について民衆が抱いている神秘的な

信仰心を利用しなくては、この国は支配ができなかった、

ということであろう。

 

 

p121

 

「日本書紀」によれば、欽明天皇十三年(552年)百済の

聖名王が釈迦の仏像と経を献じたのが仏教の日本への伝来

だとされている。

 

仏教伝来以前に、・・・日本は「神政国家」つまり、神が統治

する国、というかたちをつくりあげていた。

 

 

p122

 

邪馬台国の卑弥呼のむかしから、神の祭祀を主宰する

「シャーマン」だったとされている。

 

p123

 

このころの仏教というものは、個人のやすらぎや救いを

目的としたものではなく、国家と同一視された天皇

・・・中心の祈禱仏教だったということである。

 

・・・最澄が開いた天台宗も「鎮護国家の秘法」・・・・

空海の真言密教における「大元帥法」は、・・・・ミカドの

永遠の命・・・を祈る秘法であった。

 

 

p124

 

・・・理想的な本体である釈迦を本地として、歴史的な現実の

身体であった釈迦をその現れ(垂迹)とする仏教の考えを、

仏が神となってあらわれると説明しなおすことによって、この二つ

を関連づけようとする教説をつくった・・・

たいへん日本的な本地垂迹説である。

 

 

p126

 

外国から日本に来た宣教師たちも、日本という国の天皇が、

宗教的な支配者であって、なにかカトリックの法王のような

ものだと感じたらしい。

 

 

p127

 

秀吉は、いっぽうで宗教団体を圧迫しながら、他方では

国家祈禱と鎮護目的で伝統仏教を再編したのである。

・・・日本の古い構造を根本から変えるものではなかったから、

賢明なやりかただったと言えるだろう。

 

p129

 

しかし、秀吉は、自分の権威を天皇や古くからの

公家からもらおうとしていたので、彼らを凌駕しようとは

していない。

 

家康自身は自分を対外的には「日本国王」と名乗っていたので、

天皇が国の王だというふうには考えていなかった。

 

 

p131

 

信長は、神道も仏教も、とにかく天皇という古代以来の

権力に関係する宗教を全部否定し、自分で自分を最高神と

しようとした。

 

日本という国は、神でなければ支配できない、そのことを

彼は、神の子孫である天皇から学び取ったのにちがいない。

 

・・・だから、新しい宗教を起こさなければならない。

・・・それはとりもなおさず、天皇を中心にする古い

日本の国体を根こそぎ破壊することであった。

それこそ、確実に信長の破滅を招いた「暴挙」だったのだ。

 

 

=== やっと、著者の主張が出ました。

    さて、これからいろいろな伏線が展開されることに

    なるんですが、著者はどの線が一番 本能寺の変に

    インパクトがあったと考えたのか、興味津々です。

    いずれにせよ、素人も参加の「キワモノ」という

    レッテルを貼られたテーマなんですが・・・・

 

 

 

 

<その28に続きます>

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その26 カトリックの傀儡だ??  ぼ~~っと生きてんじゃね~~よ・・・

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

Nhk_013


あの~~。 パレードの絵にこだわっているんです。

前回は、NHKの「その時 歴史が動いた」の絵の解説

間違っているよって書いたんですけど、それを補強できる

大学生のろんぶ~~んを見つけました。

 

卒論の準備段階での研究旅行だったようです・・・

また、この大学生は若桑みどりさんの本に触発されたようです。

 

「ヨーロッパから見る、西欧文化と日本の最初期の頃の出会い」

http://www.seinan-gu.ac.jp/kokubun/report/2016/yamasoto.pdf?fbclid=IwAR1nNLp8EcO7hECEqvVgsV0IPs395TzCzzLJqcI3ppiFJZkrBRdwPoTNIaE

 

 

                             

 

Nhk_012

該当するページをパソコン上で撮影しました。

「ラテラノ教会行幸図」の写真の中に丸が4つ加筆してあります。

使節は4人が写っていて、和装ではありません。

教皇シスト五世によるパレードだと書いてあります。

 

 

。。

 

 

Nhk_001

(上はNHK番組のビデオ動画です。

バチカン宮殿に向かう三人の少年というナレーションになっています。)

Nhk_007

一方、NHK番組のビデオでは、ナレーションを聞くと

グレゴリオ教皇に謁見と言いながら、同じ絵を流しているんです。

グレゴリオ教皇との謁見では、3人であることが強いられ

中浦ジュリアンは参加できませんでしたし、

和装での謁見が指示されていましたから、この絵を使ったのは

間違いという話です。

 

また、シスト教皇のパレードは、戴冠式の為のパレードで、

サン・ピエトロ寺院であると書かれています。

 

ああ、すっきりした。

鬼の首を取ったような気分です・・・あははは

 

 

=== では、本を読み進めましょう・・・

    ここから先は、引用したい部分がたくさんあるん

    ですが、多すぎるので、本を買って読んでください。

 

p94

 

マカオにおいてヴァリニャーノは一行の見聞録をまとめ、

これをサンデにラテン語訳させて出版し、さらに日本人

ロヨラに日本語訳させるつもりであった。

・・・ラテン語の見聞録は昭和になるまで日本人に

読まれることはなく、読まれたあともその評価は極めて

低い。

 

・・・文化史に疎い過去の日本人歴史家が見落とした

ばかりではない。 それがもっぱら「カトリック的宣伝臭」に

満ちているということが価値を下げた第一の理由である。

それでは私は訊きたい。この世のどこになんらかの思想的

政治的傾向をもたない史料があるのかと。

 

=== いいっすねえ、この反骨精神。

    ここで、著者は過去の日本の歴史家が歴史的に

    大きな意味のあることを偏見に基づいていかに見落として

    来たかを語っているんです。

    まあ、自分に都合の良いことしか、人間は

    見ようとしませんからね。 私もですけど・・・

 

p94

 

これはヴァリニャーノが日本の神学生に読ませるために書いた

宗教文化史的教科書である。 それをいかに読むかが

歴史家に問われているのだ。

 

・・このように家永氏は、彼らは西欧の建造物、都市などの文明

ばかりでなく、音楽について、服装や文字の合理性、ローマ字の

長所について、身分階級の保証、法律の整備などを学んだのだと

指摘している。

 

・・・「ミゲル   すべての人は完全な権利の内に確保され、

かつ士族および貴族が平民になんらかの暴力を加えるという

こともなく、万民が平等の権利をもって生活し、めいめいに応分

の権利がある」

 

ミゲル   わたしはヨーロッパの富強の原因は、ヨーロッパが

平和と静穏の中に生きていることにあると思う。・・・・

・・われわれ日本においては全国を通じて絶え間ない戦争の災厄

が浸潤しているので、容易に畑に種をまくことも、収穫をとりいれる

こともできず・・・・・

第三の原因は交通の便にある。・・・・あらゆる海をわたり、

要するに祖国を富ましめ国威を高めるためのあらゆる方法を

追求している。・・・・」

 

p97

 

「このようにもし彼らがほんとうに自分で考えたならば

幕末明治の先覚者と似た日本の進歩改善になったであろうが・・・」

 

 

岡本良知氏はこれを世界史的に見る。

「凡そ古来の遣欧使節のうちでは、その時代の外国・日本の

双方の情勢からみて天正の遣使ほど意義が大きく、歴史的

興味の深いものはない。・・・・」

「その人物にして傑出していたならば、いかにも大きな結果が

期待せらるべきであった。 然しながら天正の我が使節は

この条件を完全には具えていなかった。・・・・・」

 

「極端に考えれば「彼らはキリスト教の傀儡であったというて

差支えあるまい。」・・・・」

 

 

p99

 

この岡本氏にかぎらず、キリスト教徒ではない歴史家たちは、

おおよそ、少年たちをヴァリニャーノの傀儡であり、・・・

・・・社会の真実を洞察することはできなかったとするか、

あるいは、見聞録と称するものは結局はヴァリニャーノの

創作であるから、・・・・

 

新村出氏は彼らを竜宮を見て来た浦島太郎のように

見ている。

 

私はこれらの先人の時代と社会の認識のずれに呆然とする。

遣唐使の昔から、日本の朝廷や、高い権威をもった寺からは、

仏教を学ぶため、あるいはそのほかの学問や文物を

輸入するために選ばれた学識者が外国に入り、帰国して

その知を広めてきた。

また明治が近代国家の体裁を整えようとしたとき・・・・

 

日本を世界に知らせ、世界を日本に知らせるために

一神父が企画した少年使節は、日本の政府、日本の国策とは

いささかのかかわりもないものであった。

 

 

p101

 

しかし、それは彼らが傑出していなかったからだろうか?

彼らが傀儡だったからだろうか? いったいだれが、

封建制の上に立つ絶対権力を組織化しているさなかの日本で、

法と正義と平和の主張をなしえたであろうか?

 

・・・少年たちが見たもの、聴いたもの、望んだものを

押し殺したのは当時の日本である

世界に扉を閉ざし、世界を見てきた彼らの目を暗黒の

目隠しで閉ざしたのは当時の日本である。 

 

p102

 

人間の価値は社会において歴史において名前を残す

「傑出した」人間になることではない。

それぞれが自己の信念に生きることである。

 

=== パチパチパチパチ!!

    若桑みどりさん、凄い!!!

    わかくわ屋~~~~~ にっぽんいち~~~~~!!

    私は信念もなく、ぼ~~っと生きている庶民ですが・・・

 

 

 

<その27に続きます>

 

 

 

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2019年2月14日 (木)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その25 その時 歴史は変わった 信長から秀吉へ

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 


003

 

その25までお読みいただき有難うございます。

ちょっと趣向を変えて、下の動画でもごらんください。

 

NHK番組 「その時 歴史が動いた」のふる~~い動画がありました。

「天正遣欧使節 ~日本の運命を背負った少年たち~」

なんと、この番組のゲストは この本の著者 若桑みどりさんじゃ

あ~~~りませんか。 びっくり!!

https://www.youtube.com/watch?v=g78PUj2_zik

 

この本をダイジェストにしたような内容になっています。

御用とお急ぎでない方は是非ごらんください。

 

私的には、千々石ミゲルが言ったという言葉

ところどころに出てくるので、もう大興奮です。

 

ただ、これも又 絵画の話なんですが、

この番組にでてくる「ラテラノ教会行幸図」というのが

亡くなった教皇グレゴリオ13世が実施したパレードだと

なっているんです。

この番組の中の絵と私が天草の博物館で撮影したものは

同じだと思うんですけどねえ・・・・

ちょっとこちらのサイトの絵でも確認してください:

イタリア聖地巡礼の旅日記

  http://sawarabi.a.la9.jp/07.07ITALY/11Roma2.htm

ラテラノ教会へ行幸する新教皇の行列に、4人の使節

も騎乗し参加しましたが、そのラテラノ教会へ向かう

その記念すべき絵「ラテラノ教会行幸図」が、バチカン

図書館シスト五世の間に残されていました。」


 

前回に書いたとおり、この絵は新しい教皇のパレードの

絵じゃないかと思うんですが・・・どうなってんだ??

 

おまけに、この番組の終わりに千々石ミゲルの墓

思われる墓石が発見されたと出てくるじゃないですか。

いいねえ~~~。

 

少年使節がリスボンに到着したのが 1584年8月11日で、

1586年4月12日ようやくリスボンを出てとありますから、

1年と8カ月ぐらいポルトガル、スペイン、イタリアなど

巡り歩いたということになります。

 

=== では、この辺で、若桑さんの本に戻りましょう。

 

p91

 

87年5月に、ゴアに着いた。

そこで彼らは待ちかねていたヴァリニャーノと再会した。

少年たちはもはや男の子ではなかった。・・・・

・・・ヴァリニャーノの手紙が、彼らを

「ラガッツィ(少年)」ではなく、「シニョーリ(紳士)」

書いたことからも推察できる。

 

・・・ラテン語とイタリア語とポルトガル語で話ができた。

彼らはさながら帰国子女であった。

 

=== おお、日本初の帰国子女の誕生ですか。

    しかし、日本語を含めて4か国語が出来るとは凄い。

    往復8年ほどの旅の間に・・・・

    私なんぞは、14年もフィリピンに住んでいるのに

    フィリピン語はさっぱりです。

    帰国ジジイにはなんの成果もありません・・・とほほ・・・

 

 

p91

 

信長は死に、1587年、その後を襲った秀吉は宣教師追放令

を出していた。

 

p92

 

マカオから教皇にあてたマンショの手紙は・・・・

「・・・・キリストの法は日本の仏教神道にとってよろしからず

そのほかの日本の立法にも反し、習俗にさからうものであるとして

宣教師らを国外に追放することを命令いたしました」

=== これは既に書いたように、天皇の意向が大きく

     影響していると感じます。

     もちろんスペインが侵略してくるという話も

     大きな原因だと思いますが。

 

p92

 

マルティーノに、長文のラテン語のオラティオ(演説)を

させることにした・・・・・

 

・・・なによりも感嘆するのは、この文章が示す驚くべき

教養である。 ・・・

 

・・・冒頭がボッティチェッリも描いた「三美神」の

寓話説明から始まっているのは驚きである。 つまり古代から

伝わる三美紳の新プラトン主義的解釈は、最初の女神が

与えた恩恵をそのほかのふたりが二倍に返すというものである。

・・・このことは・・・・日本人の名においてこのように

ルネサンス的人文主義の思想がしかも十六世紀にラテン語で

書かれたこと・・・・

 

・・・なによりも重要なことは、ゴアの西洋人たちが、

日本人少年の教養の高さを認識したということである。

 

=== このあたりの、著者の興奮の度合いは、

    上のNHK番組の中で 若桑さんがまとめの言葉として

    語られた「その時」の重要性が奈辺にあったかを

    示しているような気がします。

 

 

<その26に続きます>

 

 

 

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その24 コンクラーベは根比べ 教皇が代わってしまって・・

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

004

p56

 

少年たちは、自分たちを荘厳な枢機卿会議で迎え、あたたかい

配慮を約束してくれた教皇が死んでしまったと聞いたとき

「胸をえぐられる」思いがした。

 

彼らは、日本の祖国でよく起こる君主の交替とそれによる

さまざまな家臣や住民の壊滅や災いを知っていたので・・・

・・なしとげたことが全部崩れてしまうのではないかと

一瞬呆然とした。

 

その殿ひとりが敗死するか、殺されるかしてしまえば

(まさにそのことが、すでに信長に起こっていたのを彼らは

まだ知らなかった)、相手は殿の一族血縁をことごとく殺し・・・

 

=== 確かに日本は戦国時代の目まぐるしい真っただ中で

    すから、それはそれは衝撃的なことだったでしょう。

    信長が本能寺に倒れたことで、この少年たちの

    運命もがらりと変わっていくわけです・・・・

 

 

p62

 

ヴァリニャーノはこの機会に教皇が枢機卿たちの互選によって

選出され決定されるということをヨーロッパの美風として少年たちに

教えておきたかったらしく、非常にくわしくこの「教皇選挙」の

しかたについて説明している。 この教皇選挙はイタリア語で

コンクラーベと呼ばれるので、日本人にはそれが「根比べ」に

聞こえる。そしてそう理解することはあまりまちがっていない

 

=== 今の時代は このコンクラーベがテレビで全世界に

    放映されますから、キリスト教徒ならずとも知って

    いるわけですが、この本ではここから延々と

    「根比べ」の様子が書かれているんです。

    ここでいう「根比べ」はまさに選挙戦の生々しい

    どろどろとした駆け引きのことなんです。

    スペイン、ポルトガル、イタリア、その他の国々

    の枢機卿や実力者の間で様々な駆け引きが

    詳しくかかれています。

 

p68

 

敵も味方もみなモンタルト枢機卿に向かって礼拝した。

圏外にいたファルネーゼと数人の支持者はこの思いがけない

事態に呆然としたが、それでもみなにならって頭を下げた・・・

 

p70

 

彼は強靭な体格の醜い男性で、激しい性格であったと年代記作者は

みな書いている。 賤しい出身であるため、貴族の出の

ファルネーゼや・・・に不当に軽蔑され、それがこの人物の

起爆力になった。  彼が・・・の近くにモンタルト荘を建てた

ときに、グレゴリオ教皇は側近に向かって「貧乏な男がこんなこと

はするべきではない」と言ったと伝えられている。

 

p71

 

1590年・・・モンタルトすなわちシスト五世が死んだときに、

その机の上に、教会の改革についての勅令が署名されずに残って

いたので、・・・イエズス会士が教皇に毒を盛ったのだという

噂が出るくらいだった。

こんな噂は信じられないが、シストが即位してから日本の布教に

フランシスコ会士が乗り出してきて、重大な迫害に発展する

のは、大本の教皇庁のこのような変化が原因だったのはたしかだ

 

=== さて、お立合い。

    私は過去にフィリピンと日本のこの時代の関係、特に

    キリスト教関連でのいきさつを読んで来たんですが、

    イエズス会と他の修道会との関係が良く分からなかった

    んです。 そのもやもやしていた部分がこの辺りの

    記述で明らかになってきました。

 

    イエズス会はザビエルから始まってポルトガルから

    マカオを拠点に日本に入って、日本国内で一定の

    既得権というか安定した布教活動を続けていたんです。

    なので、他のフランシスコ会、ドミニコ会、

    アウグスティノ会の宣教師がスペインを出てマニラを

    拠点に日本に入ろうとしていた時に、イエズス会から

    拒否されていたんです。

    でも、その後、スペインで何かが起こって、

    日本に入ってもいいよと決定が翻ったんです。

    たぶん、ポルトガルがスペインに飲み込まれたり、

    この教皇の交替などが大きかったんでしょうね。

 

    イエズス会の布教はいわばトップダウンで、気品ある身なり

で、日本の慣習を学んだうえで、大名などを貿易を餌に攻略して

改宗させその領地のみんなをまとめてキリスト教徒に

    してしまうというやり方だったんです。

 

    でも、マニラから遅れてやってきた3つの修道会は

    汚いみなりで裸足で貧しい者たちからボトムアップ

    布教活動をやったようなんです。

    まったく逆の布教の仕方だった。

    どうも、そのあたりのやり方が秀吉の怒りを買った

    ようなんですね。

    ただし、それだけなじゃくて、スペインが日本を

    軍事征服する先駆けとして宣教師が入ったという話

    が大きかったのかもしれません。

 

    それに、この本の上巻にもあったように、

    天皇周辺が「キリスト教はやばいよ」と禁教令を

    出したのが一番大きかったのかもしれません。

 

 

p73

 

ここで意外な展開が少年たちにあった。

シスト五世は、少年使節がローマ市民のあいだに巻き起こして

いる異常な感動を、自分の即位式のために利用することを考え

ついた。 フロイスは、「・・・もしもこの教皇の当選が

ローマに、尋常でない大きな歓喜を呼び起こしたとすれば、

その歓喜の最大の要素はこの公子たちのおかげであった」と

書いている。

 

p76

 

シスト五世は、この双方の儀式と祝祭の主賓として少年使節を

選んだのであった。新しい教皇に挨拶に行った使節に対して、

シスト五世は、日本のことは先の教皇に劣らぬように心がける

と約束した。

 

 

p78

 

三重の宝冠を戴いた教皇はサン・ピエトロの広場に現れて

大観衆の歓呼を受ける。

このときのようすは、のちにシストによって整備された

ヴァティカン宮殿内図書室に描かれた。・・・・

・・・ここにアジアからの使節が参加していることが、新教皇

の国際性を象徴したとグァルチェーリは強調している。

 

・・・教皇は「お国の王に今日の式典の話をしてくれるように」

と頼んだ。 まるで信長がヴァリニャーノに馬揃えの折りに

頼んだときのようであった。

 

=== もともとは、ヴァリニャーノは教皇への私的な

    謁見を望み、日本での布教への協力を頼むことが

    主たる目的だったのが、こんな大事に巻き込まれて

    しまったんですねえ。

    仮にヴァリニャーノが一緒にいたとしても

    こういう大きな歴史の流れには竿させなかったでしょう。

 

p81

 

行列の中心である教皇は、白い祝祭用の馬に乗り、その両側に

やはり馬に乗った日本の少年使節を従えていた。

 

 

p86

 

教皇は、1585年にヴァティカン図書館を拡大して、シストの

大広間を作らせ、そこに自分の即位式や獲得式の壁画を描かせた。

その正面の半月型壁には少年使節を描いた美しい行列

描かれている

 

ここで奇妙なのは、アラレオーニの日記とも、この図書館の

装飾についての解説を描いたムーツィオ・バンサの記録とも

ちがったことが描かれていることだ。

 

p87

 

パンサの記録は信頼すべきものとされているので、

私おそれを疑わなかった。 だが、「三人の若いインド人」

ということばは、まちがっているようだ。なぜなら、

この壁画には、使節がどう見ても四人いるからである。

 

=== さて、ここからが問題のポイントなんです・・・

    絵画のことなんですけど。

 

p87

 

この壁画の最前面の中央には白馬に緋色の馬覆いと緋色の

肩マントの教皇が描かれているので、その上部に蛇行する

行列が遠くまで連なっている。 全景から二番目の列のなかに

ひとりひとり白馬にまたがり、シルバーグリーンの長い衣と

同じ色の帽子をかぶり、同じ色の馬覆いの上に乗った

三人の少年が、ひときわ目立って描かれている。

この三人の部分だけが、人物が密集していないのと、

すらりとした華奢な姿で、マントも飾りも武具もつけて

いないので、ほかとはちがった人たちであることがわかる

ように描かれている。・・・そろって顔を上に向けている。

しかし、三番目の列のなかにもまた同じ姿の少年が

描かれている。

つまり使節は四人描かれているのである。

 

描かれた記録が、書かれた記録よりも信ずるべきであると

するなら、ポッセッソにはジュリアンも馬に乗って加わる

ことができたことになる。

 

=== 下の絵をじっくり見ていると、

    ここに筆者が書いている説明がかなり同じ絵の

    ことを言っているんじゃないかと思えるんです。

    前回の<その23>で同じ写真をアップして

    前教皇のグレゴリオの時のパレードの絵かと

    思っていたんですが、この新教皇のパレードの

    説明の方がより近いのではないかと思えます。

    この写真は 天草市のコレジヨ館で撮ったもの

    なんですが、絵の説明を記録しておくべきでした。

    しかし、この著者の分析が本当なら

    中浦ジュリアンもやっと晴れのパレードに

    参加することが出来たんですねえ。

    よかった、よかった。

 

                             

 

こちらのサイトに写真は出ているんですが、

絵画の解説はありません・・・

https://www.t-island.jp/p/spot/detail/88

 

解説してある部分を拡大するとこんな感じです。

 

 

02_495

 

p88

 

教皇は三人の九州の王に金銀の細工のある剣と真珠を

ちりばめたビロードの帽子を、返書とともに贈った。

また、宗麟には黄金の薔薇、純忠には聖なる十字架の

一片を納めた聖遺物函、晴信には回勅を贈った。

 

・・・これはたいへんな資金であった。

おかげでヴァリニャーノは秀吉に豪華な土産をもって

帰ることができた。

 

 

p90

 

第七、彼らが通った土地では、どこでも宣教師たちの

あいだに大きな興奮があった。 みな日本へ行きたいと

熱情と希望をもったのである。 そのための総会長あての

嘆願書を数多く預かっている。

 

p91

 

一行は1586年4月12日ようやくリスボンを出て

87年5月に、ゴアに着いた。

 

 

=== やっと、ヨーロッパでの使節の旅は終わりました。

    大旋風を巻き起こし、まるでビートルズの

    日本でのライブの大騒動のようなもの。。。。

    まあ、それ以上の大興奮だったのでしょう。

    お土産もごっそりいただき、日本での布教の資金も

    教皇からいただき、ヴァリニャーノの意図とは

    大きく反れたものになってしまったとはいえ、

    結果的には目的を果たしたことになります。

 

    しか~~し、日本では、全く異なった状況が

    少年たちを待ち構えているわけですねえ。

 

    ヨーロッパの宣教師たちが日本に行きたがるという

    のは、こういう背景もあったのでしょうが、

    別の本によれば、フィリピンにいた宣教師たちは

    禁教令で殉教も相次ぐ中、殉教は最も望むところだと

    言うことで、日本行きの希望者が多かったのだそうです。

 

 

<その25に続きます>

 

 

 

 

 

 

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2019年2月13日 (水)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その23 広告塔にされた少年使節、ヴァリニャーノは無罪だよ

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」<下巻>

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

003

                             

 

 

p45

 

フロイスと教皇庁の式典部長アラレオーニは凱旋入市のもよう

をつぎのように書いている。

「ローマにては未曽有の最大の行事のひとつであると確信できる

ほど豪華壮麗をきわめた儀式なりき。

行列の戦闘には教皇の二騎馬隊、一様の装いをなし、スイス兵に

付き添われ、ときどき高き音を放つ荘厳なるトランペットを

ともないて進行せり」

 

=== 全体が撮影できず申し訳ないんですが、

    下の写真が この凱旋入市のパレードの絵画と思われます。

 

01_495

 

 

はっきりとは分かりませんが、もしかしたら、3人の使節は

右側の下から二段目の列の3人じゃないかと思います。

白っぽい服の3人です・・・・

 

 

p45

 

・・・枢機卿の驢馬が続いた・・・驢馬ごとに頭に赤い頭巾

をかぶった家臣が・・・・枢機卿の数は非常に多かった・・・

枢機卿の家人が続いた。 服装はそろって深紅で・・・・

そのあとはローマに駐在する各国の大使たち・・・

そのつぎは教皇の侍従、教皇庁の職員全員が真っ赤な長い衣で

・・・教皇の近くに仕える聖職者・・・ローマの騎士団・・・

騎士団のうしろから、十三人の鼓手がやってきた。

・・・そしていよいよ「ことごとく黄金で飾りたる黒ビロードの

覆い布」をかけた三頭の駿馬にまたがって、三人の使節が

やってきた。

 

彼らは白い羽根と金の房のついた灰色の帽子をかぶり、

「金糸とさまざまな色の糸で織った鳥および花で飾った

白い絹の服、首に優雅な首巻きをし・・・・刀を帯びて」いた。

この三人の周りをびっしりと教皇の護衛兵が付き従って・・・

 

先頭はマンショで、・・・二番目はミゲルで・・・三番目は

マルティーノで・・・・・・

・・彼ら三人のあとから通訳としてメスキータが続いた。

 

=== この説明では 灰色の帽子に白い絹の服とありますから、

    上の絵の3人で多分まちがいないでしょう・・・

    馬に黒ビロードの覆い布ってのが気になりますが。

 

 

p48

 

ローマ、ザネッティ発行の報告書には、つぎのような式次第

が書かれている。

 

まず豊後の王ドン・フランチェスコの書状朗読、

つぎに有馬の王ドン・プロタジオの書状朗読があった。

・・・これは日本語で教皇に奉呈されたが、メスキータ師が

イタリア語で説明した、と書いてある・・・

 

 

=== さて、いよいよ謁見式に突入です。

    前回紹介したサイトで絵を見たように

    なんだか雑然というか騒然とした謁見式だった

    ようですね。 何人も周りに人がたかって・・・

    日本人的には、「もっときちっと整列しろよ」と

    いいたくなるような光景。

 

p49

 

「日本の島、それはわれわれから海と陸によって遠く

隔てられていて、われわれは今までわずかにその名前を知って

いるだけであった。 ・・・それは「知られざる土地・・」で

あった。 そして今でさえも、まだ、それが存在するかどうかを

信じることができない人びとがいるほどである。 しかるに、

至聖なる教皇よ、それは存在するのであります」

 

・・どうやらわれわれはやっと存在していることを認めて

もらったのである。

ヴァリニャーノ師よ、おめでとう、日本が存在していることを

認めてもらってよかったですね

 

=== あははは。 この著者のこういうちょっとした

    おちゃめなコメントが実にいいっすねえ。

    歴史上の人物がすっと現れそうな臨場感。

 

 

p50

 

「・・・そこには多くの人が住み・・・すぐれた武器を作り、

・・・真の神のことばさえ知っているならば、われわれにも

劣らない人びとであります。・・・

神の恩寵をもってしだいに貴族のあいだにも教えが弘まり

そしてついに、ああついに、・・・貴族、公子、しかして王の

もとへ及んだのであります。・・・・ なぜなら、近年カトリック

世界を揺り動かしたあの異端(プロテスタント)に対抗し、

あなたはカトリックを復興するために・・・・」

 

p52

 

グレゴリオ・・・は、1572年から85年まで、長いあいだ

教皇のザにいた。 ・・・彼によってローマはただ宗教的中心

であるばかりでなく、神学と学問の中心になった。

グレゴリオ大学は今でも神学、宗教学、布教学の中心である。

 

・・この教皇のもとに、東洋の若いセミナリオの学生が来た

ことは、教皇の人生のひとつの達成とでもいうべき象徴的事件

だった。

 

=== ここでは、カトリックとプロテスタントの覇権

    争いを背景として、カトリックがついにやったぞ

    ってことを褒めたたえているわけですね。

 

    教皇はこの謁見のあと数日で死んでしまうわけなんで、

    正に忌野清志郎なわけですから、感激もひとしおだった

    でしょう。

 

 

p55

 

このように、少年たちは、シェナからローマに来る道のなかばで、

教皇庁によってイエズス会の神父たちの手から取り上げられ

別の次元に入った。 それは計画者ヴァリニャーノのまったく

予期しない規模のものであった。 ・・・

・・・教皇庁にとってだいじなことは、使節を、宗教改革に対抗

するカトリック教会の勝利を証言する証言者、「東方の三人の王」

祭り上げ、・・・広告塔にすることだったのだ。

 

=== ここまで読んだところで言うならば、

この著者がこの本を出版したのは、正にヴァリニャーノ

を弁護するためだったと思えますね。

実際本人もそのように宣言しているわけですけど。

ヴァリニャーノが日本の歴史家などからも不当に

疑われ、非難されてきたことに憤慨していたのでしょう。

 

 

<その24に続きます>

 

 

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」を読む - その22 ペンタゴンの中の日本、 涙の中浦ジュリアン

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

004


p37

 

だがもっとも重要なものはこの館の大広間である

「世界地図の間」であろう。

ここの部屋のすべての壁には世界の地図が描かれており、

中央には会議用大テーブルがあって、さながらペンタゴンの

指令室にいるかのようである。

 

ここは十六世紀後半における教皇庁の世界征服(布教)会議

の場であった。

 

p38

 

そして天井は星図である。 その星図の海には巨大な船が、

蛇か龍をのせて波濤を越えていく。 そしてアジアの地図には、

ベーリング海峡の入口にぶらさがるようにして小さい小さい島

「日本」が描かれている。

 

 

この「地図の間」を見てグレゴリオ教皇は自分でも

ヴァティカン宮殿に1580年から83年に「地図の廊下」

を描かせたのだった。

そしてそこに信長の屏風が設置された・・・・・

 

 

「ここに来るまでに二年二カ月も必要だった」と繰り返される

旅程の長さ。その賛辞のなかに、かくも遠い土地を支配した

(精神的に)という勝利の想いがこめられたのだ。

 

=== う~~ん。 これには四人の少年たちも

    度肝を抜かれたでしょうね。

    地図の端っこにちょこんとぶらさがる日本。

    今でいうならば、世界を支配するグローバル企業の本社の

    戦略企画室で世界戦略を聞かされるような・・・・・

 

    こちらの「MAGI」のサイトの動画の中に

    信長が送った屏風を推定したものが出てきます。

    「貴重な金屏風とともに撮影された織田信長のワンシーンの

ビジュアルにも注目のドラマ『MAGI-天正遣欧少年使節-』」

    https://www.rbbtoday.com/article/2019/01/15/166736.html

 

p41

 

ジュリアンの身になってみよう。 彼は海浜で育った

海の子で、旅行中みなが病気をしたのに、彼だけはまったく

健康だった。 それがよりによってまさにそのために来た

ローマ教皇の晴れの謁見式の日に、急に寝台から起きては

ならないということになったのだ。

いったいなんのために・・・・

 

・・・本当に死ぬほどの病気だったのか。 でも気力は

十分だったようだ。 

 

・・・いや、これはちがう。 なぜなら彼は、

馬車でひと足早く教皇の部屋に行って会っているのだ、

・・・教皇に説得されて帰ったとフロイスは書いているのだ。

 

p42

 

もし私の推測が正しいとしたら、それは東方から来た

公子が四人では困るからだ。 東方から来た公子は

三人でじゅうぶんだ、いや三人でなければならない!

 

=== さて、ここでは、使節は4人なのに、なぜ

    ジュリアンは正式の謁見式から外されたのか

    って話です。

    カトリックのCMの都合上、物語のとおりに

    三人じゃないと「やらせ」が完成しないって

    ことですねえ。 可愛そうなジュリアン。

 

こちらのサイトに謁見式の絵がありました。

でも、まあ、雑然とした謁見式なんですねえ・・・    

 

Boys who journeyed to Rome

https://christian-nagasaki.jp/en/stories/3.html

 

たしかに、サムライらしき人は3人ですね。

 

伊東マンショのパレード姿はこちらにあります:

http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/unit/hito_24/page1.html

 

こちらにパレードの絵がありますが、

どこに3人がいるのか・・・分かりません

https://cardiac.exblog.jp/26126281/

 

こちらのサイトには、パレード全体の絵があるのですが、

下のようなコメント付きでした・・・・・

https://fumiemve.exblog.jp/6972793/

「肝心の祝祭行列のフレスコ画は、1番奥にあるから、やはり許可を

もらって近づいてみないと、絵の細かいところなどは残念ながら見えない。

あのヴァチカン宮殿の中にしてはむしろ小さめなくらいのルネッタ

(半月壁)のなかに、延々と続く行列が数段に渡って描かれ、ものすごい

たくさんの参列者が細かくびっしりと描きこまれている。・・・

この中から、いったいどうやって「日本人」を探せばいいのか・・・???」

 

 

p42

 

すべてのキリスト教徒はすぐに気づくだろう、アジアから

馬に乗ってイエスを礼拝しにきた三人の王がここに再現

されたことを。 ・・・だから三人の少年は、この日、

馬に乗って行ったのである。 そして馬に乗った王は

三人でなければならない。

 


5_495

                             

=== 上の写真は 天草コレジヨ館で撮影したものです。

印刷機がメインで映っていますが、実はその背後の

絵画が 四少年がパレードに参加したときの様子を

描いたものなんです。

もっときちんと見ておけばよかった・・・

(絵の撮影は許可されていません。)

 

 

p44

 

ヴァリニャーノにとっては、「東方三人の王」とは

宗麟、純忠、晴信だったが、その使節もまた三人で視覚化

されないとまずい・・・・

だから、ジュリアンは盛大な行列がまさに教皇宮殿に向かおう

とするその道を避けるように、ひとりで馬車に乗って宿舎に

帰っていった。

 

いまここで、この四人のなかで、穴吊りの処刑によって殉教し、

もっとも壮絶にその信仰を貫いたのがこのジュリアンで

あったことを思ってみることが我々には必要だろう。

 

ミゲルはかなり早く棄教してしまった。・・・・

 

=== はい、そうなんですねえ。

    4人の中で殉教したのは中浦ジュリアンだけなんです。

    ミゲルは棄教したことになっているんですが、

    最近の研究で もしかしたら信仰は捨てていなかった

    という話になるかもしれないそうです。

    2019年中に考古学的な発見があるかもしれません。

    そして、あとの二人は病気で亡くなっています。

 

    私が興味をもっている人物は、ミゲルが一番、

    ジュリアンが二番です。

 

    というのも、ある研究者から聞いた話によれば、

    大村藩に仕官したミゲルが、その後他の侍とともに

    藩の命令でフィリピンに渡ったとの記録がある

    のだとか・・・・

 

    もしかしたら、スペインの侵略の意図などを

    探りにいった密偵だったのかもしれません。

    (これは単に私の妄想です・・・)

 

 

<その23に続きます>

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その21 有名な大公夫人との舞踏

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

<下巻>の2回目です。・・・・・

 

006

 

p23

 

マンショは「いや実際、ひとつにはその所作を知らぬための

羞恥の念と、今ひとつにはかような婦人に対する畏敬の思いや、

・・・とても困惑した。 ・・・野暮臭くみえないようにと

・・・勇を鼓し、あえてそれを敢行するほかはなかった」と、

まるで戦場に行ったときのように武勇談を語っている。

 

 

マルティーノは「・・・マンショとミゲルのおかげで

あとに続くわれわれはすこし羞恥の念が軽くなるはずだった

(しかし・・・・)。 ・・・ジュリアンが相手の女性を

選ぶときに、じっと自分を見ていた婦人を選んだのだが

それは(もうダンスをしない)老女だったので、みんなが

どっと笑ったんだ」

 

p24

 

リノ「いや・・・・観衆はかたや紅顔の少年、片や年齢の

重荷を背負った老婦人とがともに顔を赤らめるのを見て、

その組み合わせをおもしろがったのだろう」

 

 

実際ダンスなどというものは日本人にはまったくやっかい

ものだ。

・・・マンショが・・・・自分の外交的使命を自覚し、

不得手なことも一所懸命、日本人の恥になるまいとして

がんばっていた。 けっこう身につまされる話である。

現代になっても、初期の留学生はみなこういう思い

したものだった。

 

=== 昔の舞踏会は 当然のことながら

    社交ダンスでしょうから、そりゃあ経験がないと

    大変だったでしょうねえ。

    私も米系の会社だったので、若い時には、

    銀座のダンスホールに通ったりして基本的な

    ものを習ったこともありました。

 

    今は、どうでもいいダンスが多いので

    テキトーでもごまかせますが・・・・

 

    外国で生活していると、嫌でも日本人代表みたいに

    扱われることがあるので、外交的な態度がなんとなく

    要求される場面におかれることがあります。

    しかし、あまりに外交的になってしまうと、

    これもまたよそよそしい雰囲気になってしまうので

    難しいですねえ。

 

 

 

p25

 

フィレンツェの年代記作者セッティーマーニの・・・記述では、

「この四人の少年は髭がなく、・・・あまり背は高くないが

つり合いがとれている。 彼らは扁平な顔、扁平な鼻、小さな頭

をもつ。 体色は白く、外見では、単純、善良、柔和な相を呈す」

とある。 

 

p26

 

しかし、彼らを「インドの王」と誤報したシェナの

マルカントニオ・トロメイの・・・書簡では「顔色浅黒く、

黒人に似た顔つきで、目は外に出て灰色にして小さく、

あたかも高いところをみることができないようであり、また唇

は厚く、そのほかもすこぶる醜い」とある。

 

これなどは第二次大戦中に、白人が日本人はサルに似ているから

脳が小さく知能が低いと言い、日本人は白人が目がひっこんで

いるから左右を見ることができないので、すぐれた飛行士では

ないと言ったのとよく似ていて、・・・・

 

・・・国王や大公の宮廷人たちは国際外交に慣れているので

「差異」によってではなく「共通性」によって彼らの教養と

礼節を評価している。 

 

=== 先日から NHKの「100分 de 名著」の

    オルテガ著「大衆の反逆」をちょこちょこと見て

    いたんですが、この「共通性」によって評価するという

     いわゆる「高貴」な人たちの態度が話題になって

     いました。

     高貴というのはなにも大金持ちとか成功した人と

     いうのではなく、普通の人たちの中にもいる

     「高貴」な人のことなんですが、

 

http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/84_ortega/index.html#movie

 

「「一つの同質な大衆が公権力を牛耳り、反対党を押しつぶし、

絶滅させて」いくところまで逢着するという。」

 

「オルテガは、大衆化に抗して、歴史的な所産である自由主義

(リベラリズム)を擁護する。その本質は、野放図に自由だけを

追求するものではない。そこには「異なる他者への寛容」が含意され

ている。多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾けること。

「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その

意志こそが歴史を背負った人間の美しさだというのだ。」

 

=== 私がここで理解したのは、様々な人びとの違いを認めた

    上で、多様性の中で平和に生きていくことを旨とする

    人たちこそが「高貴」であるということじゃないかと

    思ったわけです。

    そういう意味では、最近の世界も日本も変な道に

    入りつつあるんじゃないかと危惧しています。

 

 

p27

 

長いあいだの経験によって断言するが、イタリアで無知で教養の

ない人または自分がえらいと思っている視野の狭い中流の

女性、こういう人間は頭から東洋人を「遅れている」と信じていて、

われわれをあわれむように見る。

・・・この経験はじつに微妙で、またしばしば起こる。

 

いっぽう教養のある人びとはすぐさまわれわれの「高い」教養や

知識を理解し、相応に尊敬する。 理解は階級によって文化的

水準によってさまざまだ。 

 

 

しかし、概して80年代以降は、とくに若者はもう人種を

なんとも思っていない。 いい人間かどうかしか判断しない

からである。

 

=== この著者の経験の部分は概ね分かるような気がする

    んですが、最後の「いい人間かどうかしか判断しない」

    という言葉は どういう意味で言っているんでしょうね。

    もっとしっかり相手の教養や知識をみて尊敬に値するか

    どうかを判断しなくちゃダメだっていうことですか?

 

 

p32

 

「・・・ヴァリニャーノは、これらの使節のために、教皇の

指摘な謁見を望み、おおげさな設えや、いかなる豪華さも

どうかやめていただきたい、・・・・と願っていた」

 

しかし、この年代記は続けて、・・・壮麗な歓迎を受けることに

なった経緯を要約する。

・・・・日本では少年は十四歳になるかならぬかで、刀をもたず

には外に出ない。 ・・・高貴な武士の刀の鞘はきわめて豪華、

真珠母貝で絵を描き、・・・」

さてこうした装いで彼らはスペイン国王に謁見、王子、二王女

とともに、「国王はカッパ(マントのことをカッパという

日本語で合羽になった。)を肩に、・・・・謁見した

 

 

p36

 

「このような結論を得たので、グレゴリオ教皇はヴィテルボの

副公使チェルソ師に命じ、使節が教皇領に入ったときには

すべての方式にのっとって盛大に一行を迎えるように指示した。」

そこで使節一行は二百人もの騎馬軍隊に迎えられて一日を

ヴィテリボで過ごし、つぎに枢機卿ガンバラの別荘バニャイアに

行き、・・・・・・

 

ここで使節がなにを見せられたのか・・・・・

 

 

=== つまり著者は、ヴァリニャーノの弁護士であるわけ

    なので、ここでも 大袈裟なことにしたのは

    ヴァリニャーノのせいではないから、非難されたり

    疑われたりするには及ばずということなのでしょう。

 

    ここでは、合羽がカッパ(マント)から来た外来語

    であったことが分かっただけでも、日本語教師としては

    ありがたいことです。

 

    さあ、では、何を見せられたのか・・・つづきます。

 

 

<その22に続きます>

 

 

 

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2019年2月12日 (火)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その20 フロイスを信用するな

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

002

 

いよいよ<下巻>に突入です・・・・・

 

 

p14

 

この女性の肖像は多くの画家が描いているが、フロイスの「使節記」

によれば、使節のなかのひとりがやはり彼女の肖像を所望したところ・・・

・・・ウッフィーツィ美術館に行かれたら、そこのトリブーナと

いう真っ赤な部屋に入ってトスカーナ公の家族の肖像を鑑賞して

いただきたい。 もしかしたら使節はそういうものをもって日本に

帰ったかもしれない・・・・

・・とにかく生身の日本人が、これほど現場のルネサンスに近づいた

ことはないので、私は美術史家として興奮を抑えきれない。

 

=== さすがに美術史の専門家ですねえ。

    私は一時期 マニラの聖アグスティン教会にあるとされた

    天草、島原、あるいは長崎のキリシタン関連の

    謎の壁画を博物館や書籍の著者を通じて探そうとしたことが

あって、結局見つからずじまいですが、この著者の興奮が

    少しは分かる気がします。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2018/09/post-9760.html

 

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p14

 

フロイスはしきりに「あの有名な大公夫人」「あの有名な」

繰り返しているが・・・・彼女はカトリック的には認めがたい

夫人だった。 モンテーニュも大公を訪問したときに、

「夫人はイタリア人から見れば美人だった」と書いている。

彼は彼女の胸がたいへん大きいことに感動しているが、

フランス人から見ると彼女は太り過ぎだったらしい。

 

=== この絵に関する評では、結局「胸が大きい」ことが

    ポイントのようですが、進んでいるイタリア人と

    その逆のフランス人では見方が違うようで面白い。

    ちなみに、私がアフリカで日本語を教えていた時に

    日本語学校のオーナーであったゾマホン氏から

    「アフリカでは太って、お尻が大きい女性が美人だ」

    と聞いたことがあります。

 

p15

 

でもメディチ家の先祖はもともとは貴族でもなんでもなく

ただ農夫あがりの薬屋だった。 だからこそ共和国フィレンツェで

人気があったのだ。

・・・ フェィレンツェは、フランチェスコ一世の時代までは

その輝かしいルネサンス的光輝を維持していた。

・・・・フィレンツェの栄光はその「人文主義(異教的、古代的、

科学的、人間的)文化」にあるからだ。

このあとメディチ家がやったことといえば、地球が球体で

太陽を中心にして回っていると言ったために、それが聖書の

記述に反するとして教会に処罰されたガリレオを、かくまい

保護したことくらいである。

 

=== この時代に 日本から4人の少年たちが使節として

    イタリアなどを見て廻ったということは

    その後日本に戻ってからその知識を活かせなかった

    ことは残念でしたが、一気に科学的知識を得る

    最大のチャンスだったのでしょうね。

    そして、ヴァリニャーノがイタリア人だったことが

    この人間的文化を通じて、日本を好意的に見てくれた

    理由だったのかもしれません。

 

 

p16

 

二十世紀のなかばごろになって、フランチェスコがたいへん

英明な君主だったということがわかってきた。

・・・ヴァリニャーノは「見聞録」のなかで少年たちに

この君主が案内した動物園や、ブラトリーノ庭園や、水力学による

奇想人を驚かす噴水やからくりを絶賛させ、多くのページを

割いている。

 

ただヴァリニャーノに最初からトスカーナ大公に謁見させる

計画があったとは思えない。

・・・この町の雰囲気はこの当時、カトリック的な荘厳さを

もっているというよりは、むしろエロティックで異教的だったから、

教育のために見せるというわけにはいかなかったし、

ボッティチェッリは女の裸を描き、・・・ミケランジェロと

きたら、そのダビデにしても全部素っ裸で広場に立っていたから、

神父たちは、おお、マンマ・ミーア(なんてこった)と思って

少年の目を覆ったにちがいない・・・・・

 

=== おお、凄いですねえ。

    その当時の町に漂う雰囲気が臨場感をもって迫って

    くるような解説ですね。

    考えてみると、九州の大名に近い武士の少年たちが

    こんなものを見たら腰を抜かすでしょうねえ。

    この時代の先端のリベラリズムが もしその後

    日本に入って来ていたとしたら、どんなことに

    なっていたんでしょうか。

 

 

p17

 

予定外のトスカーナ大公訪問はどうして起こったか

この思いがけぬトスカーナ滞在がその後さまざまな番狂わせ

を起こす原因になった。 というのは、このあと、イタリアの

すべての、われこそはと思う都市国家がいっせいに使節の

ご当地誘致運動をはじめたからである。

・・・その触れ込みが全部「東洋の王子」になってしまったので

ある。 これがあとで大いに非難されることになった・・・・

 

・・・ことの起こりは、なによりもまず、フランチェスコが

フェリペと張り合いたかったことにあったと私は信じる。

・・・イタリアは政治的には完全にスペインの支配下にあった。

・・・五百年間ヨーロッパをひっぱってきたフィレンツェを

見ずにヨーロッパを見たと言えるか。

スペインのような「田舎」を見てどうする

 

 

=== まあ、今でいうならば、客寄せパンダか

    熊本のくまモン扱いされたってことでしょうか?

    支配下にあったとは言え、イタリアには

    「八百年もイスラムに占領されていた」スペインなど

    ヨーロッパじゃないという差別意識があったそうで。

 

p18

 

フェリペ王がローマのスペイン大使オリヴァレスに送った・・

書簡では、一行は、「マンショ 日向の王の孫(または子孫)、

ミゲル 有馬の王の甥(フロイスが「使節記」に書いた

ポルトガル語では、マンショを日向の王の従弟と書いてあった

ために、日本の歴史家に避難された。・・・フロイスの書き間違い

であることがわかる。 ・・・)・・・したがって、

一行がスペインにいるあいだは彼らの素性は歪曲されていない

 

とくにフェリペの的確なことは非常に顕著だ。

 

日本をインドと混同したり、・・・スペイン宮廷で厚遇された

公子だと早合点したりするようなまちがいは、羊毛と塩と

使節の到着を同じ報告書に書くような男がやったことである

 

p20

 

さらに1584年のシェナ年代記は、「彼らはザビエルによって

帰依したインドの王のため教皇に服従をあらわさんとて来れり」

と記し、ドン・マンショは「ブンゴ」の使節ではなく、「コンゴ」の

王の大使(!)となっている

もうなんでもあり(シェナ古文書館)。

 

=== ここではフロイスの間違いを元に、日本の歴史家が

    いろいろと非難していることを著者は皮肉っているようです。

    その他の史料にも とんでもない間違いがある。

    この当時のポルトガル、スペインそしてイタリアでの

    権力争いも巻き込んだ騒動によって、日本の歴史家は

    目つぶしを喰らったといいたいのでしょうかねえ。

    何が信頼できる史料であるかを しっかりみんかい!

    ってことでしょうか?

 

p22

 

ピサについてはもう言うまでもないことで、この都市の大学こそは

中世哲学、科学のメッカであった。 ガリレオがピサの斜塔で

実験をやったことは有名で、・・・・

 

・・・使節らはここで狩りに招待されたり、大舞踏会で「有名な」

大公夫人とマンショが踊ったりして、王侯らしい数日を過ごさなければ

ならなかった。 なにしろ胸の大きい夫人のことであるから、

ダンスも骨が折れたであろう。

 

=== ここは、その時の様子を描いた絵の一枚も

    是非みたいもんですねえ。

    この舞踏会の様子は その21で・・・・・

 

 

<その21に続きます>

 









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2019年2月 8日 (金)

バギオ市に高レベルの歯医者・歯科医院を発見、日本人も好評価

バギオ市に2018年に開院したと思われる
高いレベルの歯科医院を発見しました。
Samson_004
その名は 上のとおり、 SAMSON DENTAL CENTER です。
・・
Samson_002
どこにあるかといいますと、上の写真をご覧ください。
右の端に見えるのが ビクトリー・ライナーのバス・ターミナルで、
左側のビルの中にあります。
Samson_003
これがそのビルの正面です。
一番上の方にその サムソン・デンタル・センターがあります。
Samson_009
これが受付です。
この歯科医院は、既に3名日本人が治療をしてもらったそうで、
いずれも高い評価をしている歯医者さんです。
Samson_008
治療経験者の話によれば、この写真からも分かるとおり、
日本の小さな歯医者さんに勝るとも劣らない設備で、
歯科医5名が治療をしているそうです。
料金は、通常の治療であれば、他の歯科医院とほぼ変わらない
料金だそうですが、 難しい治療の場合は 日本円で数万円に
なることもあるので、事前に相談するのが良いかもしれません。
ご覧のように、コンサルテーション・ルームもあります。
この歯科医院の院長は、学会などで忙しい人だそうですが、
難しい治療が必要な場合は、院長を指名し予約を入れた方が
よいだろうとの話もあります。
ただし、歯科治療の中でも親知らずなどの、日本でも普通の
歯科医院では難しいケースは、日本の大病院の「口腔外科」などで
手術をすることが必要かもしれません。
Samson_006
診療時間と連絡先は上のとおりです。
尚、このビルは、この S SAMSON CORPORATION の自社ビルだとの
話も聞きました。
個人病院ではなく、会社として経営されているようです。
(この情報は2019年2月現在の情報です。)
 

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2019年2月 6日 (水)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その19  フェリペ2世とフィリピン、そしてマドリード

 

 

(上巻の最後です。)

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

Scan_img_20190205_0002_3

 

 

 

p549

 

そのころポルトガルの国王は・・・フェリペ二世だったが、

彼は、その甥にあたるオーストリア出身の枢機卿アルベルト

ポルトガルの統治をゆだねていた。

 

枢機卿は一行を待ち構えていて、少年たちがひざまづいてその手

に接吻しようとしたときに、それを断って、みずから彼らを

迎えるために起立したほどであった。

・・・これは相当異例なことであった

私が知っているかぎりでも、枢機卿にまでなった人は

みなたいそういばっている。

 

=== おや、こんなところで著者の本音を出しちゃっていいの?

     あははは・・・・

 

p550

 

フロイスは、リスボンでは彼らの周りで大騒ぎをしなかったし、

群集がひしめきあうこともなかった。 ここではアジア人は

めずらしくなかったからだと書いている。

 

=== ほお、さすがにリスボン。ポルトガルの首都。

    世界中からいろんな人種が来ていたんでしょうね。

 

 

コレジオを訪問し、学生たちに歓呼で迎えられた。

・・・イエズス会の上長が、日本の民族衣装を見たいと

いうみんなの願望を汲んでそうやらせたのであろう。

・・・和服を着ただけでなく、盃の礼事をしてみせたので

みな大感激だった。・・・・・

 

こういうことになると、だんだん見せ物っぽくなってくる

ヴァリニャーノがいたら絶対させなかったろう

和服は王侯の正式謁見のみと言っていたし・・・・

 

 

p551

 

つまり和服をつけた優雅な少年たちがジャニーズ系に見えた

わけではないということをフロイスは言いたいのである。

 

 

この若い王子は自分も戦争がしたいとハプスブルグの血が

騒いだのかもしれない。 日本刀をかざした枢機卿というのは

私の好きなシーンではある。

 

 

=== あはははは・・・ この著者は本当におちゃめですねえ。

    しかし、いずれにせよ、ヴァリニャーノが決めていた

    基本方針はいきなり ここで破られてしまった。

 

 

p551

 

その当時、ドメニコ会の最高の説教師でありすぐれた著述家

であったルイス・デ・グラナダに会えたことは少年たちに非常に

いいことだった。

このとき、フロイスは「日本語に訳されたその書」を献呈した

とかいている。

しかし、この学者の著作の日本語訳は1590年天草で

出版された 「ヒイデスの導師」「ぎやどべかどる」

「どちりなきりしたん」であるから、そこからみると活版印刷

される前に、翻訳が終わっていたのであろうか。

 

 

=== 熊本県天草市のコレジヨ館には、この印刷機の

    複製品と当時印刷されたという本が展示されて

    います。

 

 

p555

 

レオ「そこは大きなちがいだ。 日本ではただの一日でも

獄舎につながれたとなると、血と生命をもって償おうとする」

 

ミゲル「・・・だから、生命にふりかかる危険を暴力と武器とで

払いのけることに躊躇しない。それというのも、不当に死を

言い渡されて残酷に殺されたほかの人びとのことを知っている

からだ。 そこでは法も正義も行われなかったので・・・」

 

 

 

p557

 

講義であって、彼ら同士がこんなりっぱな会話をしたわけではない

巡察師はこの「見聞録」を日本の青年に読ませ、教育によって

日本を変えようと願っていたのである。

 

ここで語られた暴君はあまりにも秀吉に似ている

獄舎に繋がれて死ぬ運命はあまりにもジュリアンに似ていた。

 

この「見聞録」は日本語にならなかった。

もしなっていたら、まっさきに焚書の憂き目にあっていただろう。

 

=== この使節の4名が日本に戻った時には

    日本国内の状況はがらりと変わって、危機的な

    状況になっていましたから、仮に日本語版が

    作られていたとしても読む人はほとんどいなかった

    でしょうね。

    ちなみに、今は翻訳版があるのかな?

 

 

p557

 

一行は、26日間リスボンにいたあと、9月5日にマドリードに

向かった。 枢機卿殿下は・・・・だれもその荷物には手をふれる

ことを許さないという旅券をそえた。

荷物のなかにはまだ信長の屏風があったのである。

これは西洋人の目から見るとかなり脆いものであった。

 

 

p559

 

彼らは、なんべんもヴァリニャーノが日本人は優秀でしばしば

ポルトガル人より聡明だと言っているのに、どうしても信じられない、

どうしても、アジア人が文字をかいたり、ラテン語を引用したり、

書いたりすることが、その目でみるまでは信じることができな

かったようにみえる。

その意味ではヴァリニャーノは目的を果たしたと言える。

 

=== ヴァリニャーノはイタリア人だから、ポルトガル人と

    日本人の比較ができたんでしょうかねえ。

    ポルトガル人、スペイン人、イタリア人などの

    間でもいろいろとありそうだし。

    それはともあれ、その当時は、黒人=動物みたいな

    意識だったそうなので、さもありなんということ

    でしょうか。

    アジアに動物じゃないのがいたぞ!???

 

 

p560

 

ここでも日本の衣服はたいへん評判で、カタリナ夫人は和服を

ひとそろいもってこさせ、仕立て屋に命じてこれを作らせ、

二男のドン・ドアルテに着させたくらいであった。

 

=== スペインかポルトガルの博物館あたりに、その時の使節団の

    衣装か、その複製品みたいなのはあるんでしょうかねえ。

    絵画はあるんでしょうけど。

 

トレドでは疱瘡がはやっていて、二千人もの子供がそれで死んだ。

ミゲルがそれにかかり、死ぬような病気になって、一行は

十六日間そこにとどまった。 ・・・ミゲルは十六日めに

ようやく回復し、疱瘡のあともほとんどなくなったそうである。

 

二十日には首都に着いたが、こんどはマルティーノがひどい

病気になった。 脈が不整になり、高熱がでた・・・

七日めに熱が下がり、十五日後に全快した。

 

=== 船の旅はなんとか乗り越えてきた少年たちが、

    陸地に上がってから死ぬような目にあうとは・・・

    しかし、考えてみれば、四人ともに揃って

    日本に戻れたというのは奇跡的ですよね。

 

 

p562

 

この礼拝堂のなかの、国王がミサを聴く高台を見て、

その席がもうすでにある伯爵夫人やそのほかの貴婦人に

予定されていることを知ると、「この席は日本人にあてよ」

言った。

 

 

p565

 

古代ローマの皇帝たちを除けば、フェリペ王ほど多くの、

しかもあのように「遠く離れた」地方にまで自分の軍旗を

進めた王は今までひとりもいなかった

 

・・・世界の五つの部分、すなわちヨーロッパ、アフリカ、

アジア、アメリカと南方の未知の部分のうち、フェリペ王は

そっくりそのなかのひとつ、つまりアメリカをそのまま自分の

支配下においているからである。

・・・さらには有名なモルッカ諸島、そして王の名にちなんで

つけられた名前をもつフィリピナス(フィリピン)をもっている。

 

=== 4人の少年使節は、フィリピンという国の名前が

    この国王の名前からきていると知って、どんな

    ことを思ったでしょうかねえ。

    もしかして、その後大村藩に仕えた千々石ミゲルは

    なにかを考えていたかもしれないですね。

    スペインが日本を征服するというのは絵空事じゃない

    という証左ですから。

 

 

=== フェリペ2世をちょっとチェック。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/フェリペ2_(スペイン王)

「スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した偉大なる王で、

絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の

絶頂期に当たり、ヨーロッパ、中南米、アジア(フィリピン)に及ぶ

大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて

勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を

統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承した。その

繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。」

 

 

 

p567

 

このようにして血統の存続と、その相続によって拡大し、

または崩壊する王国の運命にとっては、子供が生まれないと

いうことこそ、王朝と支配権の終焉を意味する。

そのためここでは子供が女性であるか男性であるかは問題に

ならない

 

 

=== 日本の現在の政治側は、女は好まない雰囲気が

    あるようですが・・・

 

 

 

p571

 

マンショが進み出て国王に恭順を示すためひざまづいて

その手に接吻しようとしたとき、国王は彼をおしとどめて、

彼を立たせ、親しく抱擁した。

 

=== ここでも、国王の応対は格別だったわけですが、

    おそらくヴァリニャーノが思っていたこととは

    違っていたのでしょう。

 

 

p572

 

彼らの着物は絹の地紋のある白地に、鳥や花などをみごとに

染め抜いたものだったそうである。 そして、金糸で刺繍が

してあった。 和服は安土桃山時代の日本の工芸の最高峰

である。 ぜいたくがわかる人たちには、中国の上等の絹と

日本の染めや縫いのすごさがわかったはずだ。

 

=== この当時は、絹は メイド・イン・チャイナだった

    わけですが・・・・

    世界中のお宝を集めまくっていた国のトップの

    目の肥えた人たちから見れば、その良しあしは

    鑑定団のようにすぐにわかるのでしょう。

 

 

(国王は)・・・手袋を「熟視」し、袴の背にある腰板に注目し、

柔らかいか堅いか手でさわって確認した。

このエピソードは笑いを誘う。というのはこのスペイン宮廷

十六世紀末の衣装ときたら、人間の身体にさからうことを

至上命令としていたようで、すべてを幾何学に押し込めて

いたのである。

・・・しかし、袴の腰板に手を突っ込まれたマンショは

さぞくすぐったかったであろう。

 

=== こういうところに面白さを見つけるこの著者は

    さすがに美術史の専門家だけのことはありますね。

 

若桑みどり

https://ja.wikipedia.org/wiki/若桑みどり

「西洋美術家としての専門はイコノロジーの方法を用いた、イタリアを

中心とするルネッサンス、マニエリスム、バロック美術である。いち早く

カラヴァッジオを取り上げた他、マニエリスム芸術を日本に紹介した功績

は大きい。またミケランジェロによるシスティーナ礼拝堂フレスコ画の

総合的解釈で知られる。」

 

 

 

p574

 

もし先のポルトガル王が生きていたら、その名誉は彼には

こなかったはずであった。

だからこれはスペイン王国の極東支配権のおそらく最初の

外交的確認だった

・・・フェリペは、この東方の使者に歓喜した。

 

 

p575

 

あいかわらず「皇后陛下」はいなかったので、午後四時には

また例のアヴェイロ公爵夫人(フロイスがなんの説明もなく、

この夫人の名だけをやたら出すのはどうも意味ありげである)

や女官たちが列席する王宮内の礼拝堂の晩禱に一同は

出かけた。 ご婦人たちが少年を見たかったからである。

 

中庭には交通規制が必要なほど人びとが殺到していた。

町はもっと大騒ぎで、「ある貴婦人がたは、一行をイエス様が

生まれたときに礼拝に来た聖なる三博士ででもあるかのように

語った」

 

 

003_3



=== やっとのことで上巻を終わりました。

    しばらく休憩してから 下巻を読みます。

 

<下巻に続く>

 

 

 

 

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若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その18 船上で鳥を釣って、リスボンに到着

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 


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p545

 

その航海のようすをメスキータはヴァリニャーノに

書き送っている・・・・

「・・・聖マタイの教えは非常に彼らの気に入ったとみえて、

たえずたがいにこの教えについて議論した。とくにその第五、

第六、第七章を好んだが、それは、そこに不動の教えが含まれて

いたからである」

 

 

この第五章には有名な「山上の垂訓」がある。

・・・最初にザビエルの教えに帰依し、彼を日本に導いた

ヤジローもまたマタイを暗記したそうである。

それはキリスト教徒に固有の教えではなく、・・・非キリスト

教徒にとっても深い真理を含んでいる。

 

・・・これらの教えはキリスト教が本来、古代ローマによって

征服されその重圧と隷属のもとに喘いでいたユダヤの民

の心の支えとしてうまれたものである・・・

 

=== このヤジローですが、

    この本の中では、翻訳がちょっといい加減な

    ところがあって、それが誤解を生んだことも

    あったと書いてあります。

 

ヤジロウ

https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤジロウ

「ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を

問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す

日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。」

 

ザビエルとヤジロー 鹿児島

https://kagoshima-machiaruki.com/category2/entry41.html

「日本でのキリスト教の始まりの地が、

このザビエル公園とザビエル教会なのです。」

 

=== ちなみに、私の母は鹿児島の出身なんですが、

    その弟が生前には いわゆるアマチュアの

    郷土史家でして、特にキリシタンの歴史に詳しく、

    博物館などで観光客を相手に解説などもしていました。

    本人はキリシタンではなく、仏教徒だったのですが、

    日本全国のカトリックの人たちが説明を受けていた

    そうです。

 

    鹿児島の芋焼酎が好きで、鉄道でのローカル線の

    旅が好きな叔父でした。

    戦争中は、航空隊の隊長の運転手で、インパール作戦

    から命からがら生き残ったという話を聞きました。

    私の母は、その叔父のことを「熊次ではなく

    熊次郎だ」と、気位の高い「昔は瀬戸物屋のお嬢様」

    だった片鱗を私に見せたものでした。

    弟の名前の品格にこだわりがあったようです。

    その母も貧乏な和菓子屋の父に嫁いで、

    苦労をしたと思います。

 

 

p547

 

「・・・ある朝、爽快なる風を得て帆走していたあいだに、

彼らがかねて用意した糸で一時間ならぬに大きな鰹十二尾を

採った。 その一尾の重さは十五人ないしは二十人分に相当

したから、ついに釣り針をこわしてしまった。

また魚のみならずして釣り針と糸で鳥をも捕らえた

 

 

p547

 

メスキータは植物や動物に非常に興味があって、結城了悟氏に

よれば、日本に初めてイチジクを植えたのはこの人だったということだ。

 

=== イチジクが日本国内のどの県に多く広がったかはしりま

せんが、少なくとも長崎県佐世保市の私の生家の近くには

    たくさんありました。

    熟し過ぎて、地面に落ちて、ハエがぶんぶんたかるのには

閉口したものです。

そんな果物が、スーパーに並ぶようになったのは

いつ頃からだったでしょうか。 驚いたものです。

 

 

メスキータのもとで少年たちは船旅を大いに楽しんだ。

海辺に育ったジュリアンなどはここで大活躍をしたであろう。

いっぽうは母ひとり子ひとりで溺愛されていたミゲル若様

ほうはそうは思えない。

マンショはこんな楽しみを知らなかっただろう。

マルティーノは学者肌だから見物していただけかもしれない。

ドゥラードとかジュリアンのようなふつうの少年のほうが

こういうことがうまいのが常である。

 

p548

 

セント・ヘラナ島に逗留するころには、みなが釣りバカに

なったようだ。

・・・「漁獲があまりにも多くときには甲板が魚市のように見え」

「それを食するに苦しみ」「貧困者に与え、残余はリスボンに

送った」 

 

=== 中浦ジュリアンがいてよかったですねえ。

    長いながい航海の中で、釣りに没頭できたのは

    精神衛生上も良かったんでしょうね。

    おまけに釣り針で鳥まで捉まえたとは・・・凄い。

    千々石ミゲルは「若様」だったんですねえ。

    「ふつうの少年のほうがこういうのは上手い」

    とあるんですが、これは昔を振り返ると

    確かにそういう才能のある友達がたくさんいたなあ

    と思います。

    私もフツーだったんですが、なんの才能も

    ありませんでした・・・・涙

 

 

胸、腹の病気で船内に三十二人の死者が出るという災危が

あったにもかかわらず、一行はぶじに1584年8月11日に

リスボンに着いた。

 

 

 

 

<その19に続く>

 

 

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若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その17 ヴァリニャーノがプロジェクトから外される

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

「クワトロ・ラガッツィ」というのは「四人の少年」という

意味だそうです。

 

 

009

 

p531

 

私はローマのイエズス会古文書館でマンショのポルトガル語

の手紙の筆跡をみたが、たいへんに端麗で、几帳面な字体だった。

 

恐ろしく速く書かれた達筆で美麗な、気取った装飾入りの

ヴァリニャーノの斜め文字とはまったくちがう。

 

いっぽうフロイスやコエリョの文字ときたらひどいもので、

ところどころ汚れや書き損ないがあり、汚くて保存も悪い。

 

 

=== いやいや、ワープロがあってよかった。

    私の手書きは自分でも読めなくなるほどの悪筆で

    みみずが這いまわっていますんで・・・・・

    しかし、文豪なんかの作品はやっぱり自筆の

    ものであって欲しいですね。

    歴史の残るような人たちの自筆のものは是非お願い

    します。 性格までイメージできていいですからね。

 

 

p531

 

マラッカからゴアまで一行は暑さに悩まされ、無風に苦しみ、

こんどはマンショが熱病になった

彼は「一時はもはや絶望か」と思われたが・・・・

 

 

おまけに水が尽きてきて・・・酷暑のなかで船長から日に

二回だけ与えられる水では足りなかったので何人かは

水を求めて海に飛び込んで死んだ

 

p532

 

ようやく船はセイロン島のコロンボについて一同は

ほっとした。

 

=== おお、きわどいところを生き残ったんですね。

 

 

このあたりを航海しているとき、私は日本とヨーロッパの

あいだにはこれらの見知らぬ国々(われわれの多くはアジアを

知らない)があり、そこには広大な海が横たわっており、

それゆえに、日本は、じつに西洋から遠いのだと感じた。

 

=== 著者がいうとおりだと思います。

    私は十数年フィリピンに住んでいますが、

    「われわれの多くはアジアを知らない」というのは

    実にそうだと思います。

    学校教育でも、マスコミでも、映画でも、多くは

    欧米関連で、身近なはずのアジアについては少ない。

    日本人は観光客として欧米などには多く旅行していると

    思いますが、アジアはまだまだなんじゃないかという

    気がします。 

 

 

ここからゴアに至るまでの航海は、針路誤認、暗礁、海賊

いう、このころの航海につきものの災厄がいっせいにやって

きたかと思われるほど危険なものであった。

 

 

p533

 

それから内インドのピスカーリアに一行を上陸させ、

・・・陸路で岬の反対側に出てコチンに出る船を

つかまえることにした。

 

 

インドのコチンに着いたが、・・・それから半年間、十月まで

船は出なかった

 

=== 針路誤認というのは船長が誤認して、経験豊富な

    宣教師が間違いに気が付いて、暗礁に乗り上げずに

すんだそうです。

そして、すんでのところで海賊から逃げたことも

書いてあります。

それに、帆船ですからね。風が頼りの航海です。

 

 

サンデの「見聞録」は、このへんで、ポルトガルによる

インド植民の歴史を長々とミゲルの口を借りて語らせて

いるのだが、・・・基本的に「世界の中心」にいる人間の

立場で語られているので、植民を自己批判する気配などは

まったくない。

 

p534

 

彼らに絶対主義の統一王権のもとでの「世界帝国」(世界システム)

についての認識を与えた。この知識がなければ世界に出て行く

ことはできなかったのである。

 

 

p535

 

ミゲルのもうひとりの従弟レオ(晴信の弟)が言う。

「ヨーロッパにおけると同じように、キリスト教の教えが

栄え、その力によって、謀反と離反を常とする日本人の心を

平和にし、日本においてこのように絶え間なく続くこの戦争が

止みますように。

 

国家や経済や政治の局面では戦いと力が支配していたが、

個人の領域ではキリスト教徒はモラルを守ることを重視した。

国内における家臣の関係、親子の関係、夫婦の関係においては、

キリスト教の誠実と愛の教えはかなり守られていた。

 

p536

 

実際に、信長も秀吉もキリスト教の臣下は欲のために主君を

裏切らないということを経験によって知っていたので、

彼らをそばにおき、その忠誠心をしばしば利用した。

 

=== スペインによるインドなどの植民地化を

    この4少年はどのように見たんでしょうね。

    千々石ミゲルが後になってイエズス会を脱会した

    のは、いろんなことを見過ぎたからじゃないかと

    いう噂もあります・・・

    組織と個人と信仰。

    棄教したとされているけど、脱会しただけで、

    本当は死ぬまで信仰を棄てなかったのではないか  

    という見方が最近出てきているらしい。

 

p539

 

ノアの二男のハムが嘲笑ったので、目覚めたノアはハムに

その子孫を呪い「奴隷となって兄たちに仕えよ」と言った

そこからその後このハムが黒人の先祖となったという解釈が

生まれた。 このように黒人であることが罪の罰であるかの

ような解釈がなされた理由は、白人が自分たちが抱いている

人種的偏見と黒人奴隷制度を正当化するためであった。

ヴァリニャーノが少年たちにこのように語ったということは、

この当時の知識人の限界を示している。

 

=== へえ~、そんなことが書いてあるんですか。

    奴隷というのがこんなところで公認されてしまって

    いるわけですね。

    解釈とか方便とかで、時代によって変化していく

    ということでしょう。

 

p540

 

この古きゴアは、インドおよび東南・東アジアの布教の本部で、

今もその神々しいほどの荘厳さは驚くばかりである。

ここはインドでもないが、ヨーロッパでもない。

それ以上のものであり、それ以外のものである。

 

 

むろん、この都市を一歩はずれて奥地に行けば根強くヒンドゥー教

を信じる部族の人びとがいて、女神や男神をまつる神殿には

赤や黄色の花を捧げている。

 

=== こういう文章を読むと、この場所に行きたくなりますね。

    もっとも、この著者は美術史家ですから、それだけ

    平凡な私のような人間には感じることのできない

    アンテナがあるのでしょうが。

    「インドでもなく、ヨーロッパでもない、・・・・」

 

p541

 

ゴアにはローマの新しい総会長・・・から手紙が来ていた

それはヴァリニャーノをインドの管区長に任命するもので、

そのために彼は使節を連れてローマに行くことができなく

なったのだ。

・・・この事業は彼のものであってほかのだれのものでも

なかった。

 

 

ヴァリニャーノが彼ら少年たちとともにローマに行っていた

なら、これから起こる多くの誤解を招くようなさまざまなこと、

ヴァリニャーノにとって心外なことは起こらなかったにちがいない。

 

 

p542

 

どのような計画であれ、最初に企画立案した人間が途中で

降りた場合には、うまくいくわけがない。

非常に邪推すれば、イエズス会は、ヴァリニャーノの手から

この企画をとりあげたのである。

 

 

その後、教皇庁での使節の名声は驚嘆すべきものだったから、

これでイエズス会は一挙に名声をあげたと言っても過言ではない。

 

 

p544

 

統率者を失った一行は、1583年12月の末にゴアを発ち、

1584年1月にコチンに着き、コチンから2月20日に

リスボンに向かった。

船は5月10日に喜望峰を回り、29日にセント・ヘレナ島に

着き、・・・いよいよ最終寄港地リスボンに向かった。

 

 

=== ああ、青天の霹靂。

    ヴァリニャーノがこのプロジェクトから外されて

    しまった。 そして、ここから、いろんな横やり

    やら、誹謗中傷みたいなものが出てくるわけです。

    その詳しい内容は この本の下巻に詳しく出てくる

    ようですよ。

    そして、そこがどうも、日本の歴史家たちも

    いまだに惑わされている点・・・らしい。

    でも、この著者は、ヴァリニャーノの弁護士なんです。

 

006

 

 

<その18に続きます>

 

 

 

============

 

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若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その16 ついに出航、マカオへ 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

004

 

 

p513

 

シュッテは続ける。

「このような詐欺が、日本の大名の三家から抗議を受けないわけ

はなく、またこのような詐欺が通るほど法治国であるスペインは

甘くない。 さらに世界じゅうに布教地をもち厳格なコントロール

を布く教皇庁はなおさらである。」

 

 

p515

 

このフライ・ファルティンの「反イエズス会攻撃」は、印刷した

ものではバジャスの「日本切支丹宗門史」で読める。

 

p516

 

ヴァリニャーノの議論の大半は、このフライ・マルティンが、

スペイン帝国による日本征服論者であったために、これを攻撃し、

否定することに費やされているので、使節のことはほんとうに

すこししか比重を占めていない。

 

フライは長崎には三万人キリシタン武士がいるから、これを

味方にして日本を攻撃可能であると言っているが・・・・

 

p516

 

イギリス人学者のモラン氏によれば、この神父(フライ)は

「悪党で愚か者」である。 イエズス会はスペイン系の

フランシスコ会士が「はだしで日本にやってくること」

反対した。 したがってフライはイエズス会に敵意をもっていた。

 

=== 日本人なら「土足でやってきた」と言うところですかね。

              イエズス会はそれまでの経験で、日本では身なりが

    大事だと言うことが既に分かっていたらしい。

    そこへ、マニラ経由で遅れて入ってきた

    みすぼらしい格好のフランシスコ会などが布教を

    始めたので、今までの苦労がぶち壊されると

    思ったようです。 

    布教の方針がかなり違っていたのでしょう。

    それも、日本の状況がかなり微妙な時だった。

 

 

p517

 

太閤が憤慨して彼ら(フランシスコ会士)全員が処刑されたこと

について「殉教は彼らにとって善いことだった。 だが、キリスト

教全体にとってはこれはきわめて悪いことだった」と書いた。

殉教はキリスト教徒の最高の信仰の行為であるから、それについては

黙ってしまうほかはないのに、大胆で冷静なことばである。

 

ヴァリニャーノは、フランシスコ会士がイエズス会を悪く言う

ことで、日本でのキリシタンの立場全部がだめになると思い

そのために躍起になった。

 

 

p519

 

船出

1582年2月20日・・・・一行九人が長崎を出帆した。

 

 

p520

 

青山敦夫氏が「活版印刷人ドゥラードの生涯―天正遣欧使節の

活版印刷」という本を出され、この忘れられていた日本最初の

活版印刷工に光を当てた。

それによると、ヴァリニャーノが彼を一行に加えたのは、

使節の世話をするとともに、やはり西洋の印刷技術を習得

させるためだったそうだ。

 

p521

 

青山氏は、このドゥラードには日本名がないが、それは

彼はポルトガル人との混血児で捨てられたところを教会に

拾われ、そこで育ったからだとしている。

彼がひどくポルトガル語がうまいので、・・・有馬の

セミナリオに入れた・・・

 

青山氏の本は小説仕立てになっているが、史料はみな押さえて

あるので、なかなかおもしろい。

・・・感動的である・・・・たいへんだいじなことをしたのに、

歴史の下に沈んでいたもうひとりの少年が日の目をみることに

なった。

 

 

松田氏は、ドゥラードとは金銀細工師という意味で、父親は

諫早の金銀細工師で、家業に近い活版印刷事業のために

連れて行かれたと推論する

しかしポルトガル語で鍍金屋のことはドゥラドールというので

ある。 そしえドゥラードとは金に塗られた、鍍金されたもの

という意味で、文字のままとれば、「金色に塗られたもの」

ということである。 これはまったく私の推論であるが、

彼は金髪だったのではないだろうか

「史料がない」から推定である

 

==== なんとも面白い議論展開ですねえ。

     歴史家の権威に対して、チクリチクリとやって

     いるのがなんとも愉快です。

     しかし、日本語でも英語でも、同じ単語に

     複数の多くの意味があったりするし、

     特に漢字熟語なんてのは同音異義語が多いですもんね。

     英語から日本語、日本語から英語に

     翻訳するときなんかなは どれを選ぶのが

     正しいのか、背景が分からないと決められない

     ことも多々ありますしねえ。

 

松田毅一

https://ja.wikipedia.org/wiki/松田毅一

松田 毅一(まつだ きいち、192151 - 1997

518日)は、日本の歴史学者。香川県高松市出身、大阪市育ち。

専門は戦国時代から江戸時代初期の日欧交渉史、特にポルトガル・

スペインとの関係史。 ヨーロッパ各地(ポルトガル・スペイン・

バチカン等)やフィリピン、マカオ等の文書館に保存されている

日本関係史料の発見・翻訳・紹介に取り組み、また多数の著書・

論文を発表して日本における上記分野の研究の進展に貢献する一方、

こうした研究成果の一般市民への啓発・普及、関係諸国との学術・

文化交流にも尽力した。

 

 

=== まあ、こんな歴史学の大御所を相手に、批判的に書いて

    いるんだから、この若桑さんは凄い。

    度胸があるねえ・・・

 

p522

 

ヴァリニャーノはこの船長の厚遇に深い恩義を感じていたので

マカオでもっと設備のいい、最新式の大型船に勧誘されたときに

それを断り、この小さい船に乗り続けた

ところが、その大型船は座礁し、ほとんどの乗員が死んだ。

もしこのとき誘いにのって大型船に乗っていたら、使節団は

インドに着く前に全滅していただろう。

 

 

====  おお、これは運命の分かれ道だったんですねえ。

      情けはひとの為ならず・・・・

      大きな最新型が安全とは限らない。

 

p523

 

ここで、これからの旅路については、たくさんの報告があるので、

それらを参照しながら、できるだけ信用のおける情報で

語っていきたいと思うが、いくつかの主な報告のなりたちや

特徴を言っておきたいと思う。

 

 

いちばん有名で定評があるフロイスの使節記は、じつは、

彼が使節に同伴していたのではなく、そのあいだずっと

日本にいたので、彼の報告書がおおよそそうであるように

実際に見聞したほかの宣教師の報告や書簡から編纂された

ものである。

・・・総合的であることはたしかだが、個々の事実の詳細

部分になると、彼個人が見たことではないので、誤りもあり、

生彩を欠いている。

 

 

同様に有名なサンデの「見聞録」は、事実上の編纂者は

ヴァリニャーノ、サンデはそのラテン語への訳者である。

・・・岡本良知氏によれば、ヴァリニャーノもメスキータ

およびそのほかの随行者、そしてなによりも使節ら自身から

記録をとって書いたものである。

 

・・・その主たる目的は日本の神学生の勉強のための

目的で編纂されているので、その内容は教化的、教育的で、

これで日本の神学生に西洋文化史を教えようとする意図がある。

・・・その目的が教化である以上、それをさまたげるような

ことは書いてないので、それはそう思って読む必要がある。

 

 

p524

 

岡本氏は・・・

「あらゆる記録がヨーロッパ人の作成にかかり、しかもほとんど

カトリック関係者が作るところであるから一面的

あることを免れない」と言っている。

 

 

日本人であっても、カトリック的な共感をもって書かれたもの、

逆に、非キリスト者の立場や、日本のナショナリズムの立場

を強調するものなど、いろいろである。

 

 

私は、宗教はあまり関係がないと思っている。

もしカトリック側の史料が全部だめなら、西洋人の多くが

カトリックだから、西洋史がなりたたない

客観的であろうとしていることと、狂信的な信仰心で

事実を誇張したり、ゆがめているということさえなければ

それでいい。

 

・・・書いてあることを鵜呑みにしないということが

われわれにはいつも必要なことである。

 

=== 確かにもっともなんですが、

    批判的に読むというのが難しいからねえ・・・

    それに、そもそもポルトガル語もスペイン語も

    イタリア語も分からんし。

    翻訳が正しいかも疑い始めたらきりがない。

 

p525

 

最大の問題は、ヨーロッパと日本の双方を同時に眺めようと

する視野が今までなかったことだ。

・・・なにしろ、まったく異なったふたつのものが出会って、

稀にみるこの時代ができあがったのだから。

 

 

p526

 

サンデの「見聞録」は、さすがに、ミゲル自身の口を借りて、

出発時のありさまをこんなふうに書いている。

 

「・・・今にも出帆せんとしていたわれわれに少なからぬ

障害を(人類の敵)は加えようと謀った。・・・

・・われわれの母たちは、・・・いよいよわれわれがすっかり

旅支度をととのえ、出帆の用意もすべてできあがったのを

見ると、今さらのように祈りをあげ、涙を流すなど、・・・

・・・この旅行から呼び戻そうとした。」

 

p527

 

「・・・この誓いを破ったとあっては、われわれの名を汚す

ことになったのだ。 とくにそれを、眼の前に恐怖や脅威を

つきつけられて破るとあっては、なおさら不名誉である」。

さすが十三歳でも武士の子である。

 

 

p528

 

家族に泣いてもらえなかったのはドゥラードだけではなかった。

正使であるマンショの母と家族がこの遠方まで来ていたとは

考えられない。

 

====== さて、そろそろ、出帆の状況が始まりました。

       ここまで、527ページはイントロだった

       んですねえ。 長かったなあ~~~。

       途中でめげそうになりました。

 

それほど遠くない昔、ヨーロッパに船で向かった日本の

若者がおおぜいいた。 横浜の港が見えなくなったころの

暗い海の記憶、その恐怖と寂寥は私の思い出のなかにもある。

 

=== これは、著者の経験とのオーバーラップですね。

    まだ、飛行機でちょっとひとっ飛びういうわけには

    いかなかった留学生。

 

p529

 

少年たちは船酔いに苦しみ胃液まで吐いてのたうちまわった。

このときマンショだけは平気で、みんなの苦痛を「笑って見ていた」

しかし、マンショに言わせれば、酔って苦しんでいたほうが、

死の恐怖と向かい合っているより楽だったそうだ。

 

=== 私は完全に「胃液まで吐いてのたうちまわる」タイプです。

    実際に中学生の時の修学旅行は地獄でした。

    バスで私の隣に座ってしまった荒木君には今でも

    時々すまなかったと思いだします。

 

 

この少年たちのなかでなにかと話題を提供するのは人気の

高いミゲルで、お坊ちゃんでかわいらしく、母親にも愛されて

育ったので、やさしいところがあり、仲間にも宣教師たちにも

もっとも愛されていた。

 

=== ほお~~、もっとも愛されていたミゲルが

    迫害に加担したとされ、棄教したとされ、

    最後には「悪魔の子」と言われるように

    なったわけですか・・・・

 

マンショは責任のある立場を意識しているせいか、または性格

からか、常に正しい姿勢、動じない平静さを崩すことがない。

口数は少なく、端然としている。

 

=== 伊藤マンショは筆頭の正使ですから、それなりに

    その性格などをしっかり見て選ばれたんでしょう。

 

 

十七日め、3月9日には船はマカオに入り・・・・

・・・そのころのマカオはポルトガル商人やイエズス会宣教師

でにぎわっていて・・・

 

 

司教館は今も残っている。 ・・・壮麗としか言えないような

大聖堂は正面壁を残すのみだが、・・・ この廃墟のなかの地下室

には、マカオで死んだイエズス会宣教師らの墓が安置されている。

じつはここにマルティーノが眠っている

 

=== この壁だけが残る大聖堂。

    聖ポール天主堂跡

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/聖ポール天主堂跡

「この遺跡は、今、南側の石造りのファサード(イタリア人の

イエズス会士カルロ・スピノラのもとで、本国から追放された

日本人キリスト教徒と現地の職人によって、1620年から1627年の間に

複雑に彫刻された)と、この天主堂を創設し維持したイエズス会士

の地下納骨堂からなっている。」

 

「日本人キリスト教徒の殉教者や、イエズス会の神学校コレジオ

のマカオでの設立者アレッサンドロ・ヴァリニャーノ神父を含む

修道僧の遺骨とともに、数多くの宗教遺物も一緒に発見された。」

 

https://plaza.rakuten.co.jp/libpubli2/diary/201703130000/

原マルティノはマカオで帰天。享年60歳。

 遺骸は(今は正面のファサードだけが残る)マカオの聖ポール

大聖堂(写真)の地下に、自らをローマに送ってくれた生涯の師

であったアレッサンドロ・ヴァリニャーノと共に葬られている。」

 

 

 

p530

 

彼らは風を待って十カ月もマカオに逗留した。

・・・そこで使節らは語学と音楽を学習し、イエズス会の

宗教儀式に参加して将来の司祭職の準備をした。

 

 

 

<その17に続きます>

 

 

 

===============

 

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2019年2月 5日 (火)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その15 ヴァリニャーノ vs ラモン : 伊東マンショは何者か

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

 

p481

 

フロイスは「・・王フランシスコはその甥にして日向王の

妹の子」ドン・マンショの派遣を決めたと書いている。

長崎発コエリョの総会長あての手紙は、

豊後の王の甥にして日向の王の子」とある。

実際にはフロイスが正しくてコエリョがまちがっている。

 

 

p482

 

・・・つまり、伊東マンショは国主伊東義祐の孫ということに

なる。 宗麟にとっては、姪の夫の妹の子である。

 

 

多くの歴史かは、外国の文献で「日向の王の甥」となって

いたり、「王の孫」となっていたりするので、マンショの

出自がうたがわしいと考えてきた。

しかし、これは「王」をどっちにするかであって・・・

 

=== 長崎文献社の「旅する長崎学・キリシタン文化II」には

    このようなまとめがあります。

 

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もうひとつ問題がある。 ラテン語、ポルトガル語、イタリア語

のいずれにおいても、「甥」と「孫」または「子孫」は同じ

ネポーテまたは二ポーテまたはネポスである。

 

・・・こういう混乱は二重だから始末がわるい。

 

 

=== こういう親戚関係ってのは、昔はけっこう頻繁に

    養子縁組とか政略結婚とかあったようなので

    複雑怪奇ですね。小説なんかでこういうのを読んでも

    私は頭が混乱するばかり・・・・

 

    その上、この場合は、主たる史料がカトリック関係の

    海外に保存されているから、言語の問題も重なって・・

    その解釈の違いで 歴史家の見解も違ったり・・・

 

 

p483

 

また教皇庁ではネポーテという言葉には特別の意味、

教皇の隠し子という意味があった。

これは教皇庁の人事が教皇の血縁で占められることを

いうことばで、いわゆるコネ人事という意味である。

 

p484

 

つまりいずれの場合にも、ヴァリニャーノは「日向の候の甥」

と断っているのである。 混乱の多くは、不正確な翻訳に

あるのだ。

 

これはヴァリニャーノの発想の順序をさしている。

まず宗麟の息子(跡継ぎだからだめ)―― 妹の子の

義賢(これも長男だからだめ)―― その弟ジェロニモ

がいい、かわいいし、信長にもほめられた、これなら

宗麟の甥だし(でも遠くにいるからだめ)、では

祐勝の従弟でキリシタンの同じ年代の子がいたはずだ・・

・・・それにしよう。

 

=== ここで「信長にほめられた」というのが

    安土のセミナリオで楽器を弾いていた少年ですね。

    「遠くにいるからだめ」というのは、安土にいるので

    長崎から出発する時期に間に合わないという話。

 

    p435でこういう一行がありました:

    「信長がとくにほめた少年はクラヴォを弾いた

日向の領主の甥、伊東義勝だった。・・・・

日向は豊後の領主大友宗麟の親族である。

 

 

p486

 

伊東氏は名門であり、・・・秀吉は彼が帰国して挨拶に行った

ときに、自分の軍門伊東家の人間だということで大いに歓迎し、

自分に仕官しないかとまで言った。

 

なんというめんどうな系図説明を学者はやってきたことか!

しかし、このどうでもいいようなことが、この時代には

西洋でも日本でもたいへん重要なことだったのである。

 

=== この辺りにも、著者のいわゆる歴史学者に対する

    チクリ・・が出ているように見えます。

 

 

p487

 

だいたいそのころ西洋に行くなどということは、半ば

死にに行くのと同じことだった。

だから大家の長男は、ここにはいないのである。

 

親に敵対している大名や武将の城に生命を脅かされながら

明日をも知らぬ命を生きるよりは、荒れ狂う世界の海に、

希望を胸に出てゆくほうがはるかにいい

死ぬ覚悟を教えられて育った武士の子供たちの平静さに

宣教師たちは感嘆した。

 

=== これを読んでくださっている皆さんだったら

    どちらを選びますか?

    明日死ぬかもしれないという戦国の世の中で

    生活していくか、それともどこで命を落とすか

分からない大海原に乗り出すか。

 

 

p488

 

内部告発者

それにしても、いったいどうしてこれほどしつこく

少年たちの素性が議論されなければならなかったのか?

・・・・スキャンダラスな内部告発のためである。

 

使節派遣を疑わしいとみる見かたは今でも、日本では、

あとを断たない議論である。

 

この内部告発文書は・・・・昭和24年にローマの

イエズス会古文書館で見いだしたものである。

 

内部告発者は、スペイン人のペドロ・ラモンであった。

 

p489

 

ラモンとヴァリニャーノのあいだの最大の対立は、

布教の方針についてであって、スペイン人であるラモン

は常にカブラル側に立っていた。

 

「遣欧使節となった少年たちは、日本ではただの非常に

貧しく哀れな者たちにすぎません。それなのに、

ローマでは彼らを日本の王侯などと称して待遇された

そうで、それを聞いてわたしは恥ずかしくて顔を覆いたく

なるほどです。」

 

=== 詳しいことは知りませんが、

    カトリック教会内部と、ポルトガル・スペインの

    王国の中での いろんな勢力争いがあったんでしょうね。

    おまけに、ポルトガル人かスペイン人かイタリア人か

    などという出身国も絡んでいるようです・・・・

 

p492

 

しかし、ラモンの文章にはいろいろ矛盾があり、まちがい

があり、曖昧なところが多い。

 

 

p493

 

しかし、日本の歴史家も、マンショの少年時代に関する

記録はラモンのものしかないので、ラモンを信用する人が

多い。

 

 

しかし、高崎隆男氏はマンショの少年時代に関する記録を

発見された。

・・・「錦袋録」のなかに・・・・

このことを信ずるならば、マンショは侍臣をともなって

大友家に身を寄せていたことになり・・・・

 

=== 歴史家も大変ですねえ。

    新史料が発見されたり、発掘されたら、

    今まで自分が言って来たことが根底から覆る

    ことだってあるわけで・・・・

    確たる史料があったとしても、それが必ずしも

    本当のことを書いてあるとは限らないし。

    歴史学の場合は 実証するのはなかなか難しい。

    解釈の余地がたくさんあるのが楽しくもあり・・・

 

 

p495

 

これらの少年は王侯としてではなく、セミナリオの初穂と

して、日本人の知性と教養を見せるために派遣されたので

あり、・・・・これを王侯のように遇したのは、まったく

ローマ側のやったことなのだ。

 

 

p499

 

この歴史についての権威松田毅一氏はフロイスにある

「巡察師はにわかに決意した・・・・・・」

・・と断言しておられるが・・・・

 

・・こういうことを考慮すれば、会議のあとにのみ

計画が生まれたのだと断言することはできないのである。

 

 

=== 元々 ヴァリニャーノが意図していたのは

    日本でのキリスト教の発展のために、セミナリオに

    いた少年たちにローマを見せ、生き証人になって

    もらい、将来の日本での布教の発展に力を発揮して

    もらいたいという計画だから、それが、いつの間にか

    変な方向に行っちゃったってことのようですね。

 

    まあ、海を渡っていくだけでも2~3か月はかかる

    わけだから、ヴァリニャーノ本人が最後まで引率

    しなくちゃ本意は伝わらないでしょうね。

    SNSが日常になっている今ですら、発言者の

    真意は伝わりにくい世の中なんだから・・・

 

 

p501

 

人間を理解するにはその歴史を見なければならない。

・・・絶対に知らなかった、と言い切るには、ただひとり

の証言ではじゅうぶんではない。

 

p502

 

・・ヴァリニャーノに悪意をもっているような場合、

承認としてはそのまま信用しないのは裁判の常識である。

 

ラモンがこの告発を書いたときは派遣から五年後の

1587年で、しかお当の宗麟は死んでいた。

ということは死人に口なしということである。

 

 

p503

 

だからいつも連続した時間でその人間の本質を判断

しなければならない。 紙よりも人間理解のほうがだいじだ。

 

p504

 

だが、このことの最大の被害は、それが理由で

その後の日本の歴史家が、この外交使節問題を犯罪視する

ようになったということである。 もともと耶蘇嫌いの

日本人に対して、この「醜聞」は格好の攻撃の種

提供したし、いまも提供しつづけている。

 

=== さあ、ここで著者の主張が 歴史家批判とともに

    爆発してきます。

    私はど素人ですから、どっちが正しいと言える

    立場じゃないんですが、史料というものが

    必ずしも真実を書き記したものではないという

    ことから言えば、「人間を観る」というのは

    視点としては正しいような気がします。

    ただ、史料だけが実証的なものだという視点からは

    許せない態度かもしれませんが・・・・

 

 

=== ちなみに、こちらの日本二十六聖人記念館が発行

    した本では、イエズス会の記念館館長が

    下記のようなことを伊東マンショについて

    書いています。

 

 

Scan_img_20190205_0001

・・・

 

 

Scan_img_20190205_0003a

 

 

p510

 

断るまでもなく私はキリスト教徒でもないし、個人的に

この宗旨の味方をしているのでもない。 しかし、弁護士

であるとするならば、私はよろこんでヴァリニャーノ個人

の弁護に立つ。 私は彼の差別観のない布教方針を評価し、

彼が日本文化を尊敬し、日本の少年を尊敬したことを評価

している。 彼の人間性を信じているのだ。

 

私は一枚の史料よりも、その人間の行為や言動の総合によって

判断する。 早い話がラモンのひとことよりも、ヴァリニャーノ

が三十三年間アジアと日本でやったことを信じるのだ。

 

証拠? 人間よりも一枚の紙や一個の印鑑を信じるのが歴史家

ならば、私は自分が歴史家ではないことに確信をもっている。

史料ではなく、人間を読む歴史家だと言いかえてもいい。

 

 

=== さて、ここで架空の法廷が開かれるわけです。

    そして、著者は上に書いてあるように

    ヴァリニャーノの弁護人であると宣言しています。

    いわば、歴史学者に対する叛旗を上げたとも

    みえる大胆な行為ですねえ~~。

    わくわくしますねえ~~。

    ちなみにこの本の著者はこういう方です:

 

 

 

001

 

 

 

 

 

<その16に続きます>

 

 

==============

 

 

 

 

 

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若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その14 系図から抹消されたキリシタン

 

  

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

5_250

 

 

p460

 

1564年・・の書簡で、フロイスは、ファン・フェルナンデスが

作成した日本文典と葡日・日葡辞典について言及している。

 

 

ヴァリニャーノは・・・彼がもってきた日本最初の活版印刷機で、

まず1595年に羅日辞典が天草で印刷され、日葡大辞書は長崎で

1603年から4年に出版された。 

 

1577年日本にやってきたジョアン・ロドリゲス・・・が作った

日本語文法「日本大文典」は1604年から8年に長崎で印刷

された。 

 

p461

 

これらの辞書はヨーロッパの体裁で編纂されていて、

ローマ字と表音的仮名づかいと意味説明がついているので、

当時の発音やことばの使われ方がわかるから、日本語研究

の上では非常に貴重な資料になっている。

 

=== 日本語のその当時の発音が外国の辞書で分かる

    ってのが不思議な感じ。

 

=== この天草にあったという活版印刷機なんですけどね。

    熊本県天草市のコレジヨ館ってところに複製品が

    展示されているんです。

 

天草コレジヨ館

http://hp.amakusa-web.jp/a1050/MyHp/Pub/Free.aspx?CNo=25

5_010c

5_495

                             

グーテンベルク印刷機の複製品

天草市 コレジヨ館

=== ちなみに、上の印刷機の右側に見えている絵画は

    少年使節がローマでパレードをしている絵だそうです。

 

ジュタイシェン師は、純忠を「本能の人」と呼び、

元来日本人は宗教的であるというよりは迷信的である」と

批判している。

 

=== 宗教的というのと、迷信的というのと、

    どれほどの違いがあるかってのが問題ですかねえ・・・

    おそらくこのコメントはカトリック以外は迷信だ

    という意味じゃないかと思うんです。

    あるいは、神道のことを言っているのか、仏教の

    ことを言っているのか・・・

    黒人は動物であって人間じゃないという人たちの

    定義づけですし・・・

 

 

p463

 

一般に、日本の布教をめぐって、イエズス会とフランシスコ会は

犬猿の仲だったのだが、ルセナはイエズス会であるにもかかわらず、

フランシスコ会士を住院に迎えて殿に会わせ、殿が感嘆したこと

をもって、「これがこの殿の抱えていた信仰から出た深い

りっぱな考えである」と賞賛した。

 

 

=== いろんなこの時代の本を読んでいると、

    大雑把にいって ポルトガルからのイエズス会が

    マカオ経由で日本に入ってきて、既得権を守ろうと

    していたんだけど、スペインからのフランシスコ会、

    イエズス会、アウグスティノ会の3つの修道会が

    マニラ経由で遅れて入ってきて、イエズス会から

    言わせれば 日本を掻き廻したという雰囲気みたい

    ですね。 布教の仕方も相当違っていたようで。

 

 

p466

 

「唐物長崎記」によれば、このとき長崎勢は「ふすたと申す

軍船をこしらえ、・・・・・」

この記録では、長崎は1579年にはこの一種の軍艦を装備して

防御にあたっていたことがわかる。 このような軍船は日本には

なかったので、これは純忠を救うためにポルトガル人が彼に

もたらしたものであることは明らかである。

 

=== 「ふすた」fustaはポルトガル語だそうです。

     辞典によれば、

    「16世紀から17世紀にかけて貿易活動に従事したポルトガルの

小型帆船。南蛮船として日本にも来航。フスタ船 (ぶね) 。」

 

 

p476

 

ヴァリニャーノも・・・書いている。

「実際日本でのキリスト教会は本質的に不安定で、つねに

危険をはらんでいます。 たえまない戦乱がつづいている上に

日本人は敵になったもののすべてを破壊する習慣があるから

です。 こういうわけで・・・・長崎の港を確保する必要が

あるのです。」

 

 

p470

 

純忠とヴァリニャーノの話合いの結果、

1580年6月9日の公文書によって、長崎の町と港の

支配権はイエズス会に委託されたのである。

 

 

p471

 

晴信は、いっぽうでは龍造寺の重圧下に、他方では家臣の

反逆下にあったが、天正七年、口之津に到着したヴァリニャーノ

の援助によって「多量の食糧」「船と塩硝」などをポルトガル船

から調達し、この援助で窮地を脱した。

 

・・・その年、有馬にセミナリオが建てられた。

その後、彼の領内にはキリシタンが増え、その数は約六万

と言われた。島原半島にいかに深くキリスト教が根付いた

かは、やがて起こる島原の乱が証明する。

 

 

=== 長崎がどんどんキリシタンの拠点になるに従って、

    あるいは、キリシタン大名が劣勢になるに

    したがって、外国の力も借りないと守れない

    という意識は働いたでしょうね。

    しかし、ふすた船みたいな外国の軍艦みたいなのが

    実際に出てくると、日本も警戒しだすということ

    でしょうか。

 

 

p475

 

この四人の少年のなかで、副使となったふたりの少年

マルティーノとジュリアンは大村領の出で、大名の子または

近い親族ではない。 ・・・彼らは1580年に

ヴァリニャーノによって有馬に創建されたセミナリオの

一期生である。

 

 

・・・しかしこの二人は大身ではないので、日本側の史料

は少ない。 

 

== この「大身」という言葉、知りませんでした。

   国語辞典によりますと:

   おおみ【大身】

刃わたりの長いこと。 「 -の槍」

たいしん【大身】

身分の高い人。高位・高禄の人。小身 「 -の旗本」

   ・・・読みによって意味が違うとは・・・・

 

 

p476

 

 

原マルティーノは彼がローマの市民権を得たときの市民会議

の議決書に「肥前国ハサミの首長たる顕栄なるドン・ファラ・

ナカズカラ」の子であると記されているいることから、

波佐見生まれであることが推定される。

 

・・・問題は中務純一の男子は家政しか系図にのっていない

ことである。 松田氏によればキリシタンになったものは

迫害以後系図から抹消されることが大村家の場合にもあった

そうだ。

 

=== 系図から抹消ですか。

    なかなかシビアですねえ。

    その親戚筋はどんな扱いを受けたんでしょう。

    しかし、考えてみると、

    大村藩の民衆は強制的にキリシタンに改宗させられた

    わけだから、全員抹消ってことになっちゃうん

    じゃないの??

 

 

p478

 

兄弟(と思われる)家政は、のちに龍造寺のあと肥前の領主と

なり、島原の乱を鎮圧し、長崎の警護役となった鍋島家の

家臣となったので、有名なキリシタンだった原マルティーノ

の記録は、彼には好もしくないので家系図から消された

みてよい。

 

=== なるほど、鎮圧側になってしまったとなれば、

    それは都合が悪いですねえ・・・

 

 

p478

 

中浦ジュリアンについても、・・・・

「肥前中浦の領主中浦甚五郎の子」と読むべきである。

・・・中浦のどの領主かわかっていない・・・

 

松田氏によれば、中浦という西彼杵半島の海岸の集落の

中央に「タチ」という高台があり、そこには昔中浦の

支配者の屋敷があったということで、土地の人が今そこに

ジュリアンの史蹟をたてているということである。

 

=== その記念公園はこちらです:

中浦ジュリアン記念公園(資料館)

http://oratio.jp/p_resource/nakaura-jurian-park

https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20091128_JulienPark.php

 

 

 

p479

 

のちにマルティーノがラテン語と日本語のすぐれた才能

発揮するが・・・・

 

ジュリアンについてはなんら特別の才能も特筆されておらず・・

 

これらふたりの少年は副使つまりは随員だから、厳密には

三王の使節ではない。 正式の使節は大名と明らかに関係

のある身分の高い 千々石ミゲルと伊東マンショだった。

 

=== 有名になると、いろいろと個人の才能まで

    噂されて大変ですねえ。

    有名税ですかね。

 

p480

 

ミゲルだが、彼についてはその史料も一致していて食い違い

がない。 ルセナやフロイスも

「有馬の殿の従弟で、ドン・バルトロメウの甥」とはっきり

書いている。

 

・・・また大村家歴代家伝史および「伴天連記」には

彼が清左衛門と呼ばれていることが記されている

こういう大名になると多くの史料や記録があり、彼に

ついてはなんら疑うところもない。

有馬と大村の双方の領主と近い親戚なので、ひとりで

両家を代表したことになる。

 

=== 千々石ミゲルは棄教して、どこで死んだかわからない

    ということになっているんですが、

    最近の研究によって、ミゲルの妻の墓の

    隣に埋葬されているのではないかと期待され、

    2019年中には発掘が予定されているそうです。

 

    天正遣欧少年使節・千々石ミゲルの墓と思われる石碑

    https://www.city.isahaya.nagasaki.jp/post03/1441.html

    「清左衛門は喜前にキリスト教は邪教と進言し、それから

喜前はキリシタン禁制を出した。当時多数いたキリシタン側

からは強い非難の声があがり「大敵は喜前、その根源は

清左衛門である」とされ、裏切り者としての烙印を押された。

喜前はキリシタン禁制発布後の藩内の動揺を鎮めるため、

非難の矛先を清左衛門ただ1人に押し付け、見せしめ的に処罰した。

その後の清左衛門は藩政・キリシタンの両方の勢力から追われる

ように大村を逃げ出し、島原半島の有馬晴信のもとに身を寄せた。

だが、ここでも家臣に瀕死の重傷を負わされるなど厳しい

仕打ちをうけたため、長崎に移り住んでいた。」

 

 

p480

 

もっとも問題が多いのは、主たる正使であった伊東マンショ

である。 ・・・・豊後の領主大友宗麟の使者となるべき

少年でなければならなかった。

 

この家族はなかなか複雑であって・・・・

 

=== さて、ここで4人の少年のプロフィールが出て

    きたんですけど、東方の3賢王あるいは3博士

    と重複するイメージがどうしても必要だから

    いろいろとこだわりがあるわけですね。

    下のサイトに伊東マンショの肖像画などがありました

 のでご覧ください:

 

日曜美術館「少年たちはローマを目指した~絵でたどる天正遣欧使節~」

https://blog.kenfru.xyz/entry/2016/08/13/日曜美術館「少年たちはローマを目指した%EF%BD%9E絵でた

 

 

=== 下のリンクのサイトの 下の方に

    中浦ジュリアンの肖像画とされるものがあります。

    フィレンツェ・ローマ旅3(ローマ)

    Santa Maria dell' ortro サンタマリアデロルトロ教会

    https://4travel.jp/travelogue/11112694

 

 

 

<その15に続きます>

 

 

 

 

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2019年2月 4日 (月)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その13 キリスト教原理主義の大村純忠と龍造寺家の圧迫

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。


 

001

 

p452

 

天下が統一されて最高の権力者がいっさいの争乱を禁じ、動かない

秩序によって自分の全国支配の組織を固定させるまでは、大名は

自分の領土の一部を教会に寄進することもできたし、寺社に寄進

することも勝手だった

ただし、それらを暴力で取り上げるのも勝手だった。

 

こういう事情がなければキリシタンはこれほど大きくならなかった

であろう。 領主はそうと望めば領民全部を改宗させることも

できたからである。

 

 

殿が考えを変えたり、迫害に転じたり、または領土が別の宗旨の

殿のものになったりしたら、そのとたんに生命、財産、布教は

根拠を失うか、壊滅する。

 

==== つまり、全国が統一されていない状態では

     それぞれの戦国大名がなんでも決められて、

     長崎をイエズス会に寄進することもできた。

     だから、九州では人口の3割がキリシタンにも

     なったということですね。

 

 

p456

 

純忠はとにかくどうすればいいキリスト教徒になれるかを

一所懸命勉強した。つまり、最初から政策としてキリシタンに

なることを決めていたとしか思われない。

 

 

p457

 

当時の大村をめぐる情勢は非常に緊迫していて、肥前の豪族

龍造寺家は隆信の時代に戦国大名となり、九州の覇権を大友と

争い、近隣の大村や有馬も狙っていたが、純忠が洗礼を受けた

その日、彼の兄である有馬義貞とこの龍造寺のあいだに戦端

開かれた。

 

そこで大村は翌日ただちに出陣した。 しかし、彼は出陣に

先立って、旧来いくさの神として武士の崇拝を受けていた

摩利支天の像を破壊した。 ・・・彼は摩利支天の堂に馬で

乗り入って、家来にその像を焼けと命じ、自分はその像の

頭についていた雄鶏をもって出てきて、「おお、あまえは

これまで幾度も予をだましおったな!」と言ってそれを

一刀のもとに斬り捨てた。

 

・・・彼は、あまりにも多くの敵に囲まれ、一向に武運が

ふるわなかったので、それまで信心してきた摩利支天には

ご利益がないから嘘だと思った。 ・・・

・・・しかもこの戦争は彼の勝利に終わった。

・・・その勝利はデウスのおかげだと・・・・

 

=== 周りと敵に囲まれた中で、キリスト教を受け入れれば

    ポルトガルなどの軍事的な支援も期待できるし、

    交易で経済的にも潤って、軍費もまかなえる。

    おまけに、今まで負けていた相手に、デウスの

    お陰で勝っちゃった。となればますます・・・

 

    下の地図のように、大村藩は周りをぐるりと

    佐賀藩と平戸藩に囲まれているようなもんですからね。

 

 

                             

201924_ee6f83cfc135178a73e2fbf76e18

 

=== この頃の勢力争いについては、こちらのサイトで

    詳しく語られています。

    「九州の北側では・・・ 龍造寺家がその勢力を拡大して

いました。

「耳川の戦い」 で敗れ 大友家 が弱体化すると、

すかさず龍造寺家は大友領へ進攻を開始。

筑前・筑後(現在の福岡県の西部)に進軍し、この地の

大友家側の勢力を次々と撃破、従属させていきます。

 

さらに肥前の西部(現在の長崎県)を支配すると、その南部

を支配する大名 「大村家」 「有馬家」 も従属させ、肥後

(現在の熊本県)の北部にまで勢力を伸ばし、九州の北部に

大きな勢力を築き上げました。」

・・・平戸松浦家も大友の傘下だったようです・・・・

 

201924_9syu5

 

    大村家と有馬家はキリシタンだったのが、龍造寺家に

    追いまくられて危機的状況に陥っていたわけです・・・

 

p458

 

大村藩が編纂した「郷村記」によれば、この後純忠が破壊した

寺は四十二、神社は二十であった。 また領地のなかで蜂起した

キリシタンが寺僧を迫害、殺害した。

・・・村落上層の有力者である豪士、つまり小領主化した人間が

キリシタンの指導者になっていったのである。

このときに先祖崇拝も劇的に破壊され・・・

 

・・・寺社破壊は急激であり、原理主義的で、一般領民に対して

伝統的な宗教との絶縁を迫り、祖先崇拝を媒介として神仏に

結びついていた民衆に衝撃を与えた。

 

 

p459

 

こういう極端なやりかたは、家臣の内部にも、仏教徒にも、

仏教を奉ずる周辺の大名にも大村打倒の口実を与えた。

 

 

ルセナによれば、それは上からの改宗であって、多くの住民は

キリスト教について深い知識をもっていなかったし、

また、もっといけないことは、大村の宣教師たちがほとんど

日本語ができなかったので、・・・・キリスト教の教育をなにも

していなかったことである。

 

 

=== 現代で言うならば、ISSみたいな原理主義的で

    破壊的行動で、強制的に宗教を変えさせた。

    まさに恐怖政治みたいなことがあったわけですね。

    それも我が出身地の長崎県。

    こんな歴史、いままで知りませんでした。

    遅すぎたかな・・・・

 

    そのころの佐世保と言えば、下のリンクのとおりで、

    結局、平戸藩の端にあって、佐賀藩から大村藩への

    通り道になっていたように見えます。

 

http://www.sasebosengoku.com/002/sasebojou/002.htm

「約500年ほど前の戦国時代から、佐世保城があったことが

いくつかの書籍に記載されているそうです。城主が誰であった

かはっきりしないところがあるようですが、大智庵城主の

丹後守政(たんごのかみまさし)の弟、松浦丹後源三郎諌(いさむ)

が佐世保を領して、佐世保諌(させぼいさむ)を名乗り、佐世保城

を築城したと伝えられています。

諌の死後、遠藤但馬守(えんどうたじまのかみ)が城主となりますが

飯盛城主、九郎親の策略により佐賀の龍造寺氏に内通したとして、

だまし討ちにされてしまいます。」

 

http://www.sasebosengoku.com/003/kojin/endo-tajimanokami/endo-tajimanokami.htm

佐世保城主 遠藤但馬守

「但馬守の代になると佐世保城や鼻操城を居城として佐世保

一帯を治めるまでに成長している。しかし、宗家松浦が平戸松浦

の支配下に置かれたあと、佐賀の龍造寺氏と内通したとされ、

一族はことごとく滅ぼされた。」

 

 

さらに、こちらのサイトの解説を見てみましょう。

大友家に報告の上でポルトガル貿易をやっていた平戸ですが、

佐世保が属していた平戸藩の松浦氏は、大村純忠を屈服させ

娘を嫁にもらって和睦したようなんです。

その後龍造寺が台頭してきたんで、そちらに入って、

さらに龍造寺が討ち死にすると独立したとあります。

https://senjp.com/mathiura/

 

 

でも、佐世保出身のぼ~~っと生きて来た私としては、

佐世保というのは明治になって佐世保が軍港として

俄然脚光を浴びるようになるまでは、平戸藩のはずれの

寒村であったというイメージしかなかったんです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/佐世保市の歴史

 

 

 

 

<その14に続きます>

 

=========

 

 

 

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若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その12 信長・秀吉が聴き惚れた西洋音楽

 

  

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

002

 

p430

 

安土の屏風は、荒波を越えて、ほんとうにローマ教皇に

献上された。 ヴァリニャーノが派遣した少年使節のひとり

千々石ミゲルのことばとして、「日本遣欧使節見聞対話録」には

こう書いてある。

 

「その贈り物のなかに巡察師さまに信長が贈り物とした絵画

もあり、この絵画のうちには信長が築いた安土の非常に広大な

城壁が描かれていた。 ・・・・猊下はたいへんご満足の

ようすをはっきりと示され・・・・」

 

この屏風はヴァティカン宮殿のなかの「地図の廊下」に

置かれていたが、いつのまにか行方不明になった。

・・・おそらく乾燥と修理方法の知識のなさで放置された

結果消え去ったのであろうと推測する。

 

 

=== これは本当に残念でしたねえ。

    この安土城の屏風がのこっていたら復元の一番の

    史料になったでしょうに。

 

 

 

p434

 

今日まで日本に送って日本人がもっとも喜んだものは

オルガン、クラヴォ、およびヴィオラを弾くことである。

・・・のちに秀吉も使節が帰朝して奏楽を行うのを聴き、

感動している。

 

 

p435

 

たしかに、神父らは、安土のセミナリオに信長が突然

やってきて、少年たちが奏でるクラヴォとヴィオラに聴きほれ

なかなか帰ろうとしなかったのを見て感激した。

 

信長がとくにほめた少年はクラヴォを弾いた日向の領主の甥、

伊東義勝だった。・・・・日向は豊後の領主大友宗麟の親族である。

のちに宣教師報告は、ヴァリニャーノがスペインとローマに

派遣する使節の正使として白羽の矢を立てたのは、この少年

だったと書いている。

 

 

=== この秀吉の前で、日本に戻った少年使節が

    演奏をしたと言われていることですが、

    天草市が運営するコレジヨ館に所属する

    「コレジヨの仲間」というグループが

    復元された古楽器を使って演奏会を

    やっているんです。

 

古楽器演奏グループ「コレジヨの仲間」

http://hp.amakusa-web.jp/a0907/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=8144&Pg=1&OsNo=3

 

https://this.kiji.is/449189965358482529?c=92619697908483575

「コンサートでは、リュートなど復元した西洋古楽器

地元音楽グループ「コレジヨの仲間」が演奏。」

 

5_467

昨年の6月に天草を訪問して実際に聴かせていただいて・・

このグループをバギオ市に招聘して、演奏会をやりたい

んですけどねえ・・・・先立つものがどうなるか・・・

 

                             

 

 

 

p439

 

巡察師は安土から、そこのセミナリオでラテン語を教えていた

ポルトガル人修道士・・・のディオゴ・デ・メスキータを九州

に連れて帰った。彼は少年使節の長期の旅におけるラテン語の

教師として、終始ローマまで付き添っていき、いっしょに

日本に帰って迫害の時期にも日本に残り、日本を愛して

日本で死んだ宣教師である。

 

・・・イエズス会古文書館で、結城了悟師が見出して

翻訳された。 彼は終始ヴァリニャーノに共鳴し、彼にきわめて

近かったので、その語るところはもっとも巡察師の真意に

近いものと思われる。

 

 

p444

 

ヴァリニャーノがこの日本における新しい布教方針をまとめた

決議文の署名の日をわざわざ「東方三賢王礼拝の日」としたのは

彼の心のなかの決意を示すものであったとみることができる。

 

メスキータには、これらのことから巡察師が東の王、すなわち、

宗麟、純忠、晴信の「三人の王」のローマ教皇礼拝を思いついた

のは、自然のなりゆきだったと思われたのである。

 

=== 三賢王はカトリックにとっては大きな意味がある

    ようですね。 4人の少年を使節として派遣したけど、

    一人はスペアだったので、教皇に会えなくて泣いた

    少年もいたとか・・・・

 

https://tabicoffret.com/article/74724/index.html

「日本には馴染みがないけれど、スペインのクリスマスには

欠かせない存在。それが東方の三賢王(三博士、三賢人、三

賢者とも)です。」

 

「三賢王とされるメルチョール、ガスパール、バルタサールは

遠い東の地の占星術師で、1224日の夜にひときわ輝く星を

見つけ、"ユダヤ人の王(救世主)"の生誕を知った」

 

 

 

 

p444

 

パードレは大村からはこのふたり、すなわち原マルティーノと

中浦ジュリアンを派遣することに決めた。 三人目は豊後の王

の家臣で親戚である伊東マンショ、四人目は有馬殿の従兄弟で

ドン・バルトロメウ(純忠)の甥にあたる千々石ミゲルだった。

 

=== 下が少年使節4名のプロフィールのまとめです。

    私が興味を持っているのは ミゲルとジュリアン。

    4人とも、結構当時としては長生きなんですね。

 

 

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p446

 

今のところ彼ら(日本人)の多くはなにも理解することが出来ない。

彼らはわれわれが貧しい国民であって、自分の国で食いはぐれた

ので日本になにかいいことがあるか幸運を探してやってきたのだと

思っており、天国について説教をするのはただその金儲けの口実

にすぎないと思っている・・・・

 

私もイタリアの庶民が、日本ではまだ切腹をしてサムライが

ゲイシャと心中していると思っているのを見ると腹が立つ

彼らは、日本の車やオートバイやコンピューターをたくさん

見ているのに、その偏見をあらためようとしない。

サムライがちょんまげを結ってコンピューターを抱えて

オートバイに乗っているとでもいうのだろうか?

 

=== 宣教師は清貧を絵に描いたような貧しい身なりを

    して、布教をしていたらしいので、こいつらは

    詐欺師じゃないかと思われたんでしょうね。

 

    この本には、著者の本音や冗談みたいなことが

    ちょくちょく出てきて、笑ってしまいます。

 

 

p447

 

ヨーロッパの支配者たちが、アジアの島にこのように高度な

人間たちが住んでいることを信じようとしない、宣教師が

いくら書いても信じない、だから「実物」を見せたい・・・・

 

・・・いっぽうでは、狭い中華思想のためにヨーロッパの高度の

文明を信じない日本人・・・

 

=== 現代で言うならば、いくらインターネットやSNS

    世界中を繋いでいるといっても、実際に住んでみないと

    なかなか本当のところは分からないもんです。

    そういう意味でも、最近日本人留学生が減っていると

    いうのは将来に向けて心配ではあります。

    日本が息苦しいと思ったら、広い世界にちょっと

    行って、住んでみましょう。

 

 

 

 

<その13に続きます>

 

 

 

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若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その11 主賓じゃなかった天皇と本能寺の変

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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島原・口之津のヴァリニャーニ像。

 

 

p399

 

ヴァリニャーノの風貌を描いた一枚の版画が残っているが、

それによると、波うつ髪と印象的な大きな美しい目をもった

りっぱな男である。

すべての記録が彼の異常なまでの背の高さと堂々たる

体躯について書いている。

 

その背の高さだけでも話題になるにはじゅうぶんだったが、

彼はなにを思ったのか黒人の忠実な従者を連れていた。

日本人はまだ真っ黒な人間を見たことがなかったので、

堺ではこのコンビが大評判になって丁慶のところには

見物の群集が殺到した。

 

 

 

 

p400

 

安土神学校生徒が歌う天使の声のような聖歌の合唱、

オルガンの響きは日本の人びとには初めてのことだった。

 

 

p401

 

信長もその黒い男を見たいと言ったので、オルガンティーノは

まずこの黒人を連れて行った。信長はしげしげと黒人を眺め

たが、皮膚が最初からそれほど黒いということを信じることが

できなかったので、上半身裸になるように命じて家来に

目の前で徹底的に洗うように命令した。  ・・・・・

 

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・・・結局この黒人はこれをほしがった信長の長男信忠が

もらい受けた。

・・・この長男も二条城で討たれたが、そのとき、この黒人は

主人のために最後まで戦ったそうである。

しかし、敵方は彼を罰しなかった。 かれは「動物」である

から罰するに値しないという理由であった

最後にどのような終わり方をしたのか今のところわからない。

 

 

=== この時、その黒人 弥助はどんな気持ちだったん

    でしょうね。 人間じゃないから助けられた。

    弥助についてはこちらでどうぞ:

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/弥助

「本当に彼の肌が黒いことに納得した信長はこの黒人に大いに関心を

示し、ヴァリニャーノに交渉して譲ってもらい、「弥助」と名付けて

正式な武士の身分に取り立て、身近に置くことにしたと、イエズス会

日本年報にあり、信長は弥助を気に入って、ゆくゆくは殿(城主)に

しようとしていたという。また、金子拓によると、『信長公記』の筆者

である太田牛一末裔の加賀大田家に伝わった自筆本の写しと推測される

写本(尊経閣文庫所蔵)には、この黒人・弥助が私宅と腰刀を与えられ

時には道具持ちをしていたという記述がある。」

 

 

p404

 

ヴァリニャーノは・・・王家につながる貴族の出で、

大学で法学博士の学位をとり、神学校で教えていた最高の

知識人である。 しかもインド・東アジア一帯の

視察官であって、彼が日本で見聞きしたことはすべて

インド、リスボン、マドリード、そしてローマに報告される。

 

p405

 

信長は・・・京都で行われた「馬揃え」に、ヴァリニャーノ

を招待したのである。

・・「馬揃え」とは、戦国時代の武将が行った一種の

軍事パレードである。

・・・このとき信長が行った馬揃えは歴史上もっとも有名な

ものになった。

 

 

p408

 

信長のいでたちはたいへん変わっていて・・・・・

・・その華やかないでたちは、「左ながら住吉明神御影向も

かくや」と思われた。 つまり神のようだったというわけ

である。

 

 

p409

 

戦国の武家の文化の豪華さやその好みを知ることも

おもしろい。 少なくとも、それは江戸時代を通過した

いわゆる地味な日本の好みではない。 それは目もあやな

絢爛たる派手な趣味だった。

その点ではない派手ずきの西洋の十六世紀、十七世紀

バロックと似たようなもので、日本がなにも地味な幽玄

ばかりではなく、異常なまでの豪華趣味をもっている

という認識はほんとうだろう。われわれには豪華絢爛、

人目を驚かす珍奇な美の伝統がある

 

=== 日本にはこの頃から「ガラパゴス」な血が流れて

   いたんでしょうかねえ。

 

 

p411

 

だいたいキリシタン武将はその服装に西洋渡来のものを

身に着けてみずからをキリシタンとして誇示する習慣があって、

ロザリオ、大きな十字架、西洋風の合羽、十字架をつけた馬覆いや

ローマ字を染め抜いた金の房のついた真っ赤な旗などの意匠を

競っていた。 それが信長の戦陣に加わるといかにもモダンで

強そうだった。

 

==== 残念ながら この馬揃えの屏風画はなさそうですね。

     これが近いかんじかな?

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洛中洛外図

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/46rakuchu.html

 

 

=== こちらに馬揃えの詳しい説明のサイトがありました:

 

https://194116410.at.webry.info/201406/article_2.html

 

https://bushoojapan.com/tomorrow/2014/02/27/15245

京都馬揃えの陣容

一番部隊……丹羽長秀・摂津衆・若狭衆・革島一宣

二番部隊……蜂屋頼隆・河内衆・和泉衆・根来寺大ガ塚・佐野衆

三番部隊……明智光秀・大和衆・上山城衆

四番部隊……村井貞成・根来衆・上山城衆

織田一門……織田信忠・美濃衆・尾張衆・織田信雄・伊勢衆・

織田信包(のぶかね)・織田信孝・織田信澄・織田長益・織田長利・

織田勘七郎・織田信照・織田信氏・織田周防・織田孫十郎

公家衆……近衛前久・正親町季秀・烏丸光宣・日野輝資

旧幕臣衆……細川昭元・細川藤賢(ふじかた)・伊勢貞景・

一色満信・小笠原長時

九番部隊……お馬廻り衆・お小姓衆

十番部隊……柴田勝家・柴田勝豊・柴田三左衛門尉・不破光治・

前田利家・金森長近・原政茂

十一番部隊……お弓衆百人(平井久右衛門と中野一安が先導)

 

 

 

p416

 

この一大デモンストレーションは、内裏、公家、諸侯、民衆

に向けて自分の偉大さを示すものであったと同時に、世界に

向けて、日本の国王が彼であることと、その偉容とを知らせ

ようとしたものである。 帽子と椅子は世界の王侯と相互交換

可能なシンボルである。

 

また宣教師らに特別の高台を作って観覧させたのは、当然

彼らが主賓であることを示している。 内裏や公家がどこに

いたかは語られていないが、特別の高台にいたのは

ヴァリニャーノであった

 

 

p417

 

予告もなしに天皇と親王はこの日、キリスト教神父と同席

をさせられたのであった。 しかも彼は明らかに彼らより

重要な客、主賓であった。 朝廷にとって、公家にとっては

なおさら、これ以上の侮辱はない。

朝廷はかねてからキリスト教の最大の敵であり、都における

キリスト教禁令の勅は、まだ有効性を保っていたのである。

 

=== 朝廷や公家にとっては、行ってみたら自分は

    主賓じゃなかった・・・こりゃあビックリでしょうね。

    それも、追放令を出した当の宣教師が主賓とは。

 

 

p420

 

乱世を終わらせて全国統一を行うには、天皇のもつ権限が

不可欠だったから、実際には自分が支配しているにもかかわらず、

天皇を利用したのは信長に限ったことではない。

秀吉も徳川も同じである。

 

 

p424

 

立花氏はこの三職推任問題と、一か月後の本能寺の変とは関係が

あるとして、信長を許すべきではないと思った宮中がなんらかの

働きかけを光秀にしたのではないかと示唆されている。

本能寺の変四日後の六月七日に、朝廷は、信長を討った明智光秀

に勅使を遣わし、九日に光秀が上洛し、五摂家全部が迎えている。

朝廷は信長の滅亡を大喜びしたのである。

 

=== 本能寺の変の本当の理由というか黒幕は

    だれだったんでしょうか?

    いろんな説があるんでしょうけど・・・・

    Wikipediaではこんなことが書かれていました。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/本能寺の変

「光秀が謀反を起こした理由については、史学的には重要な

研究テーマと見られておらず、定説が存在していない

一方で「日本史の謎」「永遠のミステリー」などと呼ばれ、

専門の中世史研究家ではない多くの人々が多種多様な説を発表

している。」

 

「本能寺の変は当時最大の権力者であった信長が死亡し、

時代の大きな転換点となったにもかかわらず、信長を討った

光秀がその動機を明らかにした史料はなく、また光秀の

重臣も短期間でほとんど討たれてしまったため、その動機が

明らかにされることはなかった。更に光秀がおくった

手紙等も後難を恐れてほとんど隠蔽されてしまったため、

本能寺の変の動機を示す資料は極めて限定されている。

しかしこれは裏返せば、個人の推理や憶測といった想像を

働かせる余地が大きいということであり、中世史研究家

ではない「素人」でも参入しやすい。」

 

「平成頃になって史学会では朝廷黒幕説(朝廷関与説)が脚光

を浴びて、有力な説の1つのように見なされるようになった。」

 

=== あらまあ、難しすぎて史学的なテーマには

    できないってことなんでしょうか?

    あるいは、史料のないところに歴史は無い・・か。

「主流中の主流」の考えは、野望説と怨恨説であった

 ・・と書いてありますから、大河ドラマなんかも

 ほぼそんな流れですけどね。

 さすがに陰謀説はとりにくいかな、NHKなんで。

    この本の著者は黒幕説を臭わせていますね。

    まあ、それにしても、いろんな説があるもんだ。

 

 

p425

 

フロイスは、信長の最終目標は「アジア征服」にあったと

述べている。 信長は・・・「・・・日本の全六十六ヵ国の

絶対領主となったならば、中国にわたって武力でこれを

奪うため一大艦隊を準備させること・・・・意を決していた」

 

 

自分がキリスト教を保護する日本国の国王となり、かつ

東アジアの帝国の王となることは、スペイン・ポルトガル王

がやっていることとまったく同じである。

 

 

p430

 

南蛮画のなかでも非常に有名な「泰西王侯図」や「世界都市図」

などを信長マインドなジャンルだと思っている。

 

・・・これらの絵の発想は鎖国以前のものであり、特に

織田時代のものである。

 

・・・世界の王侯の華美、勇壮な騎馬姿を描くこれらの

屏風絵には、信長の「馬揃え」姿が重なっている。

 

 

=== 「泰西王侯騎馬図屏風」は、こちらのサイトに

    あります。

    信長もこの4人の絵の中に入りたかったのでしょうか。

 

https://cardiac.exblog.jp/17020961/

400年の時を越えて @NHK日曜美術館

「本図の成立にあたっては、日本布教を意図するイエズス会

が作ったセミナリオ(神学校)が関与したとされている。

セミナリオでは、ラテン語、音楽、画の模写などが教えられており、

画の教師はイタリア人修道士ジョバンニ・ニコラオであったこと

が分かっている。

遠近法や陰影法、さらには凹凸などを駆使したこの屏風の表現は

西洋風だが、金箔や顔料などは日本画の手法で、高い完成度と

品格をもつ和洋の折衷様式となっている。」

 

「屏風は右からタタール汗、モスクワ大公、トルコ王、

および神聖ローマ皇帝ルドルフ2世とされ、キリスト教徒と

異教徒が王どうし闘う構図になっている。」

 

 

 

 

<その12に続きます>

 

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若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その10 天皇のキリシタン追放令と織田信長

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

009

 

p338

 

高山ダリオは五畿内における最強の大名であった大和の領主

松永久秀の有能な家臣として沢城を預かっていた。

もともと摂津高山出身で、先祖は宇多天皇の皇子敦実親王だと

されている。

 

日本の歴史家も、もろもろの史料にもとづいて、彼の偉大な

容貌、剛勇、すぐれた騎手、有能な武将、明朗快活、愛嬌あり、

上品な教養、領民への思いやり深く、多くの慈善をなし、

慈悲心あり、高潔、廉直、正直、つまりは「理想の武士」だと

している。 

 

=== ちょうどこれを書いていた時、NHKの「知恵泉」で

    松永久秀のことをやっていた。

    松永久秀は悪の権化みたいに言われているが

    最近の一次史料に基づく研究では、主君殺しや将軍殺し

は濡れ衣であって、下剋上は都合が悪い徳川時代の

創作であり、本当はとても主君思いの実力者であったと

いう話であった。

    主君の三好長慶は、当時は足利将軍をしのぐ勢いの

    三好政権を作った大名であったらしい。

 

 

p339

 

仏僧とキリシタン神父の「宗教論争」はこのころしばしば

行われたのである。

 

琵琶法師ロレンソ・・・・・

みごとな語り口で多くの日本人を教化してきた実績と自信が

あって、・・・・とにかく学者と日本語で議論することが

できるのはそのころはロレンソしかいなかった。

彼は盲目であった。

 

 

ロレンソはまず宇宙には作者がいることと、人間の霊魂の不滅

について数日間にわたって話し続け、ひっきりなしに討論したが、

聞いていた高山は自分の目からウロコが落ちるような気がした。

 

討論の相手もふたりの吟味役もキリスト教に入信してしまった・・

 

ふたりの吟味役の改宗は、ふたりが名望のある人物であったから、

周囲に深い影響を与えた。

 

=== 論争した仏僧と審判が 論争の末に改宗しちゃったと

     言うんだから、それはまあロレンソが論客だった

んでしょうね。

たった今、壇蜜のタイでのロケ番組をやっていたん

ですが、仏教も輪廻転生があるとはいいながら

私には霊魂の不滅を意味しているような気が

するんですけどね。 まあ、この当時のキリスト教は

黒人を動物とみなして、人間の霊魂はないような

扱いをしていたそうなんで、ちょっと不思議な

感じがしますけど。

 

私の個人的な最近の「信じてみたい」理屈としては、

最先端の素粒子物理学のアメリカの学者だかが

「意識」というものは素粒子レベルに属する

いうようなことを言っているらしいんです。

もしそうだとするならば、それがもしかしたら

魂が不滅だということだったりしたら面白いなと

思うんですけどね。

この宇宙の95%はまだ人間にはみえていない

暗黒物質みたいなもので出来ているらしいし、

巷の噂では、前世のことを覚えて生まれてくる

子供もいるとかいうし・・・・

 

 

p343

 

信長にとって、まさしく、天皇の命令を尊重してキリシタンを

追い出すか、またはそれを無視してキリシタンを保護するかの

二者択一の瞬間であった。

 

和田、高山の尽力によってついにフロイスは・・・信長と将軍に

会うことになったが、それに先立って、このことを知った朝廷

から、将軍義昭にむけて、信長をして宣教師を追放させるように

との要求があった。

 

そのことを頭に入れておくと、

和田に頼まれてフロイスに会ったときの信長のふしぎな態度が

よく理解できる。

多くの歴史家はなぜかこのときの態度を別の理由にしているが。

 

=== 朝廷が宣教師を追放するように元々言っていたのに、

    なぜか多くの歴史の専門家がこのあたりの事情を

    十分には考慮していないと この著者は不思議に

    思っているわけです。

 

 

 

p344

 

「信長は奥に引っ込んで音楽(能楽?)を聴いていた。

彼はもっと近くでパードレに会い、話をしたかったのであるが、

これがはじめてのことで、いろいろなことを慮ってそうは

しなかった。・・・・ 信長は進物品を見終わってから、

そのうちの三つをパードレに返させて、ビロード帽だけを

とった」

 

そのまま宣教師たちは退出した。つまりこの第一回のときは、

信長はじかに引見したとは言えない

 

=== 相手がどんな連中かが分からないし、

    朝廷から追放しろとも言われていることだし、

    正式に引見したという形にはしたくなかった・・・

 

 

p347

 

シュタイシェンは、「信長は何人にも、一度として外国人にも

恐れを抱かなかった。 彼は秀吉や家康が当時日本に住んで

いた外国人に心から恐怖を抱いていたのに反して、自分自身

ならびにその祖国の実力について確乎たる信念をもっていた

からである」と書いている。

 

 

p348

 

松永のことばのなかには、すでに後代の決まり文句が出て

きている。 つまりキリスト教は日本の国を破壊する

忌まわしい宗教だという考えである。

 

信長自身、この国家のなかの国家のような仏教の勢力を

なんとかしなければ天下を真に掌握できないと思っていた

のである。 だから、遠くから来た宗教がこうした仏教の

専制的支配を崩し、少なくとも、相対化して平地にして

くれるのならば、それは大いにけっこうだと思っていた。

 

=== 信長は神も仏もあるものかと合理的に考えて

     いたわけだから、天下を取るためには

     キリスト教もうまく利用しようとしたので

     しょうか。

 

 

信長は・・・・もう一度来て対面するように言った。

 

・・・行く先は屋敷ではなく、工事現場だった。

信長はこのとき二条城を建設中だった。

 

p351

 

彼らの会話は戸外でおおぜいの群集の前で行われていたので

(それが信長の狙いだった。 密室ではなく、工事現場を

借りて、公開の引見を行うことで、群集になにが話された

かを知らせることが最初からの目的だった。 むろん、そのなか

には心配してまぎれ込んでいた仏教の僧侶たちがいることも

わかっていた)、・・・・・

 

=== なかなかの策士というか、公明正大というか、

    仏僧、ひいては朝廷にも信長の考えを

    聞かせようとの行動だったわけですね。

 

 

p358

 

信長がしばしば口にした「彼らは日本人が見たことも聞いた

こともない遠方の大きな国からやってきたのである」という

ことばは、信長が、国内ではなく、国外にまなざしを

向けている人間だということを示している。

 

 

彼が喜んで神父からもらったもののひとつに地球儀がある。

その後、安土において多数の武将がいるところで、

オルガンティーノとロレンソと信長は三時間も論議をした。

宣教師らの知性を愛した。しかし、宣教師たちのどの報告を

読んでも、彼らは信長が宗教に関心があったとは書いていない

信長は、彼らがほんとうに来世を信じているとは信じなかった。

 

==== 信長の興味は宗教にはなかった。

     世界征服をするための道具・方法が欲しかった

     ってことでしょうか。

     ポルトガルやスペインがやっているやり方を   

     盗み取ってやろうじゃないか・・・・

 

 

p359

 

信長はあるとき、フロイスに向かって、

予はおまえたちの神を信じない。日本の神も仏もだ」と言った。

もしそれがほんとうなら、信長がキリスト教を保護したのは、

政治的な理由のためである。

 

 

p370

 

信長は仏教徒との戦争に、キリシタン兵士を数多く用いたのだ

という推測ができる。 1527年にカトリック総本山

ヴァティカンを襲撃略奪した皇帝軍に、多くのルター派の兵士

がいたのに似ている。・・・信長が仏教勢力を屈服させる梃子

としてキリスト教を用いたということは概略わかっているが、

一向一揆合戦にキリシタン兵士を使うということは知らなかった。

 

・・・いっぽうでは、キリシタンは、信長を仏教を滅ぼす

神の手だと思っていた。

 

=== キリシタンはキリシタンで、信長を利用したかった。

      お互い様ということですか。

 

 

p374

 

それまで、通常貧民の死体は賤しい人によって火葬場に運ばれて

いたが、(高山)ダリオはこれを禁止した。 彼は、最下層の人間でも

名誉ある葬儀をしてもらう権利があると言い、ときに身寄りのない

貧しい者の棺を息子の右近とともにかついだ。

 

=== 日本には穢れ思想がこの時にはあったから

    こういう慣習もあったんでしょうね。

    そこに大胆な意識の変革を求める宗教が入ってきた。

    子殺しや親殺しが当たり前の乱世でこういうことが

    出来たというのも画期的なことだったんでしょう。

 

 

p377

 

こうして信長旗下の最大のキリスト教保護者和田惟政を殺してから

七年後、同じ荒木村重は信長自身に向かって弓をひくことになった。

その謀反の原因はフロイスの「日本史」によれば、やはり仏教との

深いつながりに端を発している。

荒木は石山本願寺包囲の際に、包囲された町内に食料品を供給

させたそうだ。

 

 

p378

 

信長はひっきりなしに謀反を起こされており、1577年には

松永久秀が天下をとろうとして叛旗をひるがえし、いままた

1578年に荒木村重が同じく叛旗をあげた。彼もその周囲の

武将も、信長を倒して天下をとろうと思ったに相違なく、

しかもいずれもが仏教信者であった。

・・・三回めが明智であって、突然ということではない。

 

=== 荒木村重は 優柔不断だったという話もありますね。

      だから、惨めな結末になってしまった。

      こういう話になってくると、本能寺の変は

      天皇や仏教界が裏で動いていたんじゃないかと

      思えて来ますね。

 

 

p384

 

オルガンティーノが驚きのうちに考えたことは、もし右近が

信長の味方をしたら、信長のキリシタンへの保護は異常な進歩

をするだろうし、もし右近が信長の敵になったら、予想も

できない大迫害が起こるかおしれないということだった。

 

・・・父子は人質の問題さえかたづけば信長の味方に

なると答えた。

 

p385

 

もしもこのことがうまくゆかなければ、疑いもなく信長は

ロレンソやイエズス会士たちを皆殺しにするだろうから、

ぜひ村重に和平を説得してくれという手紙である。

 

・・・この間の事実関係は、宣教師のあいだでも、日本側

史料のあいだでも、くいちがいがあって・・・・・・

 

 

=== このあたりは、話がごちゃごちゃしていますんで、

    本をしっかり読まないと筋が分かりません。

    お買い求めください・・・笑

 

 

p394

 

和平交渉は三たび決裂した。 信長は有岡に人質として残った

村重の妻子、親戚三十六人を京都で斬首し、百二十人の女を

尼崎で磔にし、五百四十人を火あぶりにした。

 

信長の残酷は戦国大名の常とはいえむごいものがあるが、

もともと主君に反乱をはじめたときに、村重にはなんら

正当性はないのだから、負けたとなったらあっさり城など

あきらめて裸一貫になればよいのである。 そうすれば、

婦女子の血が流れることもなかったものを、すべてを

捨ててすべてを救った右近とはまさに対照的であった。

 

=== しかし、それにしても、36+120+540

    の村重派を女子供も関係なく殺したっていうのは

    確かにむごすぎますね。

    潔くなかった村重の罪なんですかねえ・・・

 

 

p395

 

信長はオルガンティーノに恩義を感じ、彼に約束したように

前にもまして絶大な保護を教会に与えるようになった。

まさに、この1578年(天正6年)から信長暗殺の

1582(天正10年)が、日本キリスト教の絶頂期

をかたちづくる。 そしてこの絶頂期にヴァリニャーノは

日本に来て、信長に会い、使節を連れて去ったのである。

思えば、天正少年使節とは、この絶頂期が生み出したもの

であった。

 

 

p395

 

信長は安土にいかなる宗教施設も建立させなかったにもかかわらず、

キリスト教会と住院の建立だけを許可し、しかも、城山のふもとに

建てることを許可したのである。