カテゴリー「心と体」の記事

2017年11月22日 (水)

「おかあちゃん」って誰のこと? 死を迎える著名な老医師のドキュメンタリー番組

 

「おかあちゃん・・・・」

男は言った。

「私はあなたのお母ちゃんじゃないよ!」

と、男の妻は言った。

妻は正しい。

 

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日本以外の国でどう言うのかは知らない。

しかし、日本では結婚して子供がいれば、多くが

子供の母さん、爺さん、婆さんという呼称を、そのまま

子供の父親である男が使う。

本来なら 子供との話の中だけで使うべき呼び方である。

 

それを、夫が妻を呼ぶ時に「おかあちゃん・・」と言うのは

甚だ可笑しい。

 

確かにそうなのだが、そこには何となく別の意味、

つまり男の母性に対する甘えみたいなものが転がっている

ように、ふと感じた。

 

かなり前なのだが、NHKのドキュメンタリー番組で、

著名な高齢の医師が「自分の死にざまを撮影してくれ」という

ようなことで、撮影が許され、放映された。

 

その著名な医師は、高齢者の自然な死を看取るということを

自分のスタイルとして実践してきた人であった。

 

だから、いざ本人が看取られる立場になっても、冷静に

毅然としたままで死を迎えるのだろうと期待されていた・・らしい。

しかし、テレビ班の期待とはいささか違った終末となった。

さすがの信念の老医師にも、いよいよと言う時になって、

動揺が見られたのだ。

 

老医師の妻も医師であって、最期を見守る立場となった。

「私が もっと早く気づいてさえいれば・・・・」

と、癌の早期発見が遅れたことを悔やんでいた。

 

老医師はその妻に支えられ、廊下をよたよたと歩いていた。

そして、支える妻に抱きつこうとした。

 

気丈にふるまう妻は、テレビ撮影の手前もあったのだろう、

「はい、ダンスしようねえ・・・・ダンス、ダンス・・」

と夫をなだめようとした。

 

この時の老医師の妻に対する溢れる思いは

「おかあちゃん・・・・(助けて)・・・」

なのではなかったか。

 

男の「おかあちゃん」には、そのような母性に対する思いが

あるような気がした。

 

夫を失った妻は自宅で泣き崩れた。

火葬場に向かう霊柩車にも乗ることができなかった。

毅然とした医師であった妻もまた、「おとうちゃん・・・」と

心の中で叫んでいたのかもしれない。

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2017年7月22日 (土)

宇宙の意識が あなたの身体に閉じ込められて 八百万の神が

 

宇宙の意識が あなたの身体に閉じ込められて

 

こんなニュースがありまして。

 “魂”は天国に行かないことが判明! 英化学者「意識はこの世に留まり、存在し続ける」http://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e3%80%90%e3%82%ac%e3%83%81%e3%80%91%e2%80%9c%e9%ad%82%e2%80%9d%e3%81%af%e5%a4%a9%e5%9b%bd%e3%81%ab%e8%a1%8c%e3%81%8b%e3%81%aa%e3%81%84%e3%81%93%e3%81%a8%e3%81%8c%e5%88%a4%e6%98%8e%ef%bc%81-%e8%8b%b1%e5%8c%96%e5%ad%a6%e8%80%85%e3%80%8c%e6%84%8f%e8%ad%98%e3%81%af%e3%81%93%e3%81%ae%e4%b8%96%e3%81%ab%e7%95%99%e3%81%be%e3%82%8a%e3%80%81%e5%ad%98%e5%9c%a8%e3%81%97%e7%b6%9a%e3%81%91%e3%82%8b%e3%80%8d/ar-BBECPNW#page=2

まずは、どんな内容かを上のリンクの日本語で確認してみてください。
非常に面白いニュースなので、いろいろと考えて、というより連想ゲームを楽しんでみたいと思います。

2017721_consciousness828324

・・・これの元のニュースを検索してみたところ、このサイトを発見。

やや違う内容もあるようなので、自分で翻訳してみることにしました。

ただし、私はど素人なので、意訳をするのは止め、出来るだけ直訳でやってみます。

(直訳だとかえって分かりづらくなるかもしれませんが・・・)

 

下記の文章の内、 ( )の中は させたもつのコメントです。

 

http://www.express.co.uk/news/science/828324/Human-consciousness-universe-quantum-theory

   

End of Heaven? Quantum science says you ALWAYS have existed and ALWAYS will exist

YOU and your consciousness existed before you were even BORN, according to a well respected doctor who specialises in biological and medical chemistry.

By Sean Martin

PUBLISHED: 06:32, Fri, Jul 14, 2017 | UPDATED: 07:59, Fri, Jul 14, 2017

 

天国の終わり?  量子科学は、 あなたは常に存在してきたし、常に存在し続けると言う。 あなたとあなたの意識はあなたが生まれる前でさえ存在した、と生物学及び医化学を専門とする 尊敬される博士が言うのである。

 

( この文章の中の 「意識はあなたが生まれる前でさえ存在した」ってところにひきつけられました。特に釈迦の「相依り」との関連性が何かないかなと期待しつつ・・でも、スピリチュアル系を期待しているわけじゃないですよ。科学あるいは哲学として・・)

 

Scientists are still baffled by consciousness and questions about why we have it and how we have it constantly arising remain unanswered.

 

科学者たちは 今でも意識によって困惑させられ、何故私たちは意識を持っているのか、どのように私たちは意識を持っているのかについての質問に 答えられないまま常に持ちあがってくる質問に当惑している。。

 

(・・ってことで、まずは、「意識」の定義を見てみましょうか。

Wikipediaでは:

 意識(いしき、Consciousness)は、一般に、「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを認識できている状態のこと」を指す。

意識がドイツ哲学において全面的に主題化されるのはドイツ観念論においてである。フィヒテは、デカルトやカントが cogito/Ich denke から遡行的に知られるとした "ich bin" 我あり、をデカルトにおいてそうであったような個我の自己認識から、カントが主題化した超越論的認識能力の原理へ拡大し、": das Ich"(日本語訳 自我)と呼び、その働きを定式化した。ここでdas Ichとは意識の能力にほかならない。
 精神分析学では人間の心を、意識・前意識無意識の三つに分ける。自分で現在認識している内容を意識という。つまり、我々が直接的に心の現象として経験していること、これは私の経験だと感じることのできることを総体的に意識という。

意識という言葉は実に様々な意味で使われており、意識という言葉の多義性は、議論や研究の中でしばしば混乱を引き起こしやすいものとなっている。

・・・などとあります。 今回の学者がどういう意味で「意識」という言葉を使っているのか分かりませんので、とりあえず一般的な意味ということで考えます。)

One theory is that consciousness is created on a quantum, sub-atomic scale through energy which is constantly contained in the universe.

ひとつの理論は、意識は、原子以下のスケールで、宇宙に常に含まれているエネルギーを通して、量子の上に創造されるというものだ。

The theory is based on Einstein’s famous quote, when he said: “Energy cannot be created or destroyed, it can only be changed from one form to another.”

その理論は アインシュタインの有名な言説に基づくもので、そこで彼は 「エネルギーは産み出されることも、壊されることも出来ない。 それはひとつの形から別の形に変化することが出来るだけだ。」と言ったのです。

Dr David Hamilton said all consciousness is and always has been in the universe through quantum particles, and when you are born, it is channeled into a physical being.

デビッド ハミルトン博士は、量子のPARTIDESを通じて、すべての意識は宇宙にあって、常に存在してきた。そして、あなたが生まれた時に、それは物理的な存在の中に流れ込む。

PartidesPartidaの複数形なのですが、意味が分かりません。スペイン語やポルトガル語みたいな語彙なのですが、アイテム、出発、作業班、荷物、積荷などの意味があるようです。文脈から推測するに、量子に付随するなんらかの性質なんでしょうか。)

 

 

Writing for website Heal Your Life, Dr Hamilton said: “I believe that each of us exists before we are born on earth.”

He added: “Each of us is pure consciousness, currently focused in a physical dimension.

HealYour Life(あなたの人生を癒す)というウエッブ・サイトに寄稿し、ハミルトン博士は 「私たち一人一人は地球上に生まれる前から存在していたと信じる」と語った。

博士は 「私たち一人一人は 純粋な意識であり、今現在は物質的な次元の中に収斂されている。」と付け加えた。

(この辺りから ど素人でもなんとか分かる話になってきているんです。
純粋な意識というのは いわば宇宙自体が持つ、あるいは量子が持つ意識ってことですかね? それが、私たちがこの宇宙に生まれた時からその身体に取り込まれて、いわゆる自我の意識になっていく。)

 

“Science would typically say that life is random, ultimately stemming from the random birth of subatomic particles, but I don’t quite agree with that.

“Mainstream science says that consciousness must be a side-effect of brain chemistry.

「科学は一般的に 生命は原子以下の粒子のランダムな誕生からのランダムで、究極的な発生であると言うであろうが、しかし私はそれに全く賛成というわけではありません。」

「主流の科学は、意識は脳化学の副作用でなければならないと言っています。」

“But I believe that the brain merely affects consciousness, much in the same way that the quality of wiring in a TV affects the signal processing and thus the quality of picture you get.

「しかし私は、脳は、テレビの配線の質が信号処理や、その結果としてのあなたが得る映像の質に影響するとほとんど同じように、単に意識に影響を及ぼすに過ぎないと信じます。」

“The TV does not create the program, and nor does the brain create consciousness.

“Consciousness is something fundamental to nature - it is stitched into the very fabric of reality.”

Consciousness transcends time and space, he said.

「テレビはプログラムを創造しない、そして脳も意識を作りだしたりはしない。」

「意識は自然に対して根元的ななにものかである - それはまさしく現実の構造に縫い込まれている。」

意識は時間と空間を超越するものである、と彼は言った。

 

(このテレビの例えは面白いですね。 量子レベルに意識があるとするならば、人体のみならず、動物にも、植物にも、もしかしたら、あらゆる有機体に、脳の有る無しに関係なく、意識というものがあるのかもしれないですね。

ひょっとして、八百万の神という神道の考え方は、あながち荒唐無稽の話ではないということにもなりそうな。 山にも、海にも、無限の生命体が生きているわけですから、意識で満ち溢れているのかもしれないですよね。)

(・・・たまたま 今日のニュースで発見したんですが、こんなのがありました。

「普通の微生物にあるエネルギー産生の仕組みを持たず、岩石からエネルギーを得ている可能性もあるという。地球の生命誕生や、火星など地球外生命の可能性を探る手掛かりになると期待される。論文は21日付の英科学誌に掲載された。」
https://news.nifty.com/article/domestic/society/12145-2017072101322/

岩石からエネルギーってことになると、岩石にも意識があるってことになるんですかね???  益々 八百万の神々になっちゃいますね。)

(・・・さらに考えを広げると、量子とエネルギーのあるところに意識は存在するってことになるんでしょうか?  ってことは、人工物であっても意識があるって話??
すると、AI 人工頭脳にも意識があるって結論に到るのでしょうか・・・・
しかし、人間の場合には、人が死ぬと意識は宇宙に戻るってことだから、少なくとも生命体でなくてはいけないという条件が前提になるんでしょうかね? 生きているものであることが前提ということで言えば、人工物ではなく、自然のものということになりますか? )

He added: “If you start with the assumption that you exist as pure consciousness, then you must have existed before you were born.

“Really, you are everywhere and everywhere!”

彼はさらに言う:「もしあなたが純粋意識として存在するという前提で出発するならば、あなたは生まれる前にも存在したに違いありません。」

「実際のところ、あなたはどこにでも、そして到るところにいるのです。」

( この「到るところにいる」というのは凄いですね。 
これで思い起こすのは、フィリピンの伝統的助産婦であるヒーロットと呼ばれる人たちの中に、いわゆる霊と呼ばれるものを見ることのできる人たちがいるんですけど、そのオバサンたちから聞いた話では、あの世の亡霊とか幽霊とかいう存在ではなくて、この我々と同じ空間に住んでいる「生身の人間とは別の人たち」が一緒に住んでいるって言うんです。
これは世界中であちこちで聞かれる 精霊とか、もののけ、とか言う類なのかもしれません。

このヒーロットの小母さんたちの話はこちらに書いています:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/11/post-097d.html   )

 

Dr Robert Lanza shares a similar theory.

He believes our minds exist through energy which is contained in our bodies and is released once our physical beings cease in a process he calls ‘biocentrism’.

As such, when our physical bodies die, the energy of our consciousness could continue on a quantum level.

ロバート ランザ博士は、同様の理論を共有しています。

彼は、私たちの心は、我々の身体に含まれ、また一旦物理的な存在が死ねば「バイオセントリズム」と彼が呼ぶプロセスの中で解放されるエネルギーを通じて存在すると考えています。

そのようにして、私たちの物理的身体が死ぬ時、我々の意識のエネルギーは量子レベルで存続することができるのです。

(「バイオセントリズム」については、辞書には以下のような説明があります。
A cosmological theory proposed in 2007 by American scientist Robert Lanza. In this view, life and biology are central to being, reality, and the cosmoslife creates the universe rather than the other way around.  これを翻訳してみますと・・・ アメリカの科学者 ロバート・ランザによって2007年に提唱された宇宙論的理論。 この見方の中に於いて、生命及び生物学は、存在、現実、そして宇宙の中心である。 - )生命が宇宙を創造するのであって、周りの他の方法ではない。)

(この辺りを読んでいて連想するのは、人間の右脳や左脳の機能の違いと、人体と外界との関係性なんです。 以前 NHKのTEDという番組で見たんですが、ある医学者が、左脳での脳梗塞を起こした時のことを自分で観察したんです。 左脳は言語脳ですから、言葉で規定される自分の身体というものが、外界と混じり合うような感覚だけを右脳で認識していたって言うんです。 つまり、外界の分子あるいは原子レベルのものが、自分の身体を構成している分子や原子とを区別できないような状態だったそうなんです。要するに、言語脳である左脳が 自分の身体の外形を認識出来なくなっていたって話みたいです。

ちなみに、私が過去に書いた記事はこちらです:

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-29b6.html  )

 

Dr Lanza says that “there are an infinite number of universes, and everything that could possibly happen occurs in some universe”.

As a result, he theorises that the consciousness continues to exist in a parallel universe.

ランザ博士は、「無数の宇宙があって、発生する可能性があることは何でも、いくつかの宇宙で起こる。」と言います。

結果として、彼は 意識は並列する宇宙に存在し続けると理論立てています。

( これもまためっちゃ凄い話ですね。 これは「多元宇宙」と呼ばれているもののようです。 
Wikipedia
では以下のようにあります:
多元宇宙は、理論として可能性のある複数の宇宙の集合である。多元宇宙はすべての存在を含む。これは、われわれが一貫して経験している歴史的な宇宙に加え、空間時間物質、およびエネルギーの全体、そして、それらを記述する物理法則および物理定数なども含まれる。この語は1895年にアメリカの哲学者で心理学者のウィリアム・ジェームズによって造られた。多元宇宙が含むそれぞれの宇宙は、平行宇宙と呼ばれることもある。

こういう話を聞いて、真っ先に思い浮かべるのは 仏教の密教にある「曼荼羅」の宇宙ですね。 曼荼羅にはたくさんの宇宙が描いてありますからね。

この関連のサイトにこんな言葉がありました:
http://h-kishi.sakura.ne.jp/kokoro-318.htm

真鍋:  全体は宇宙的な生命。つまりご承知のように、仏教はお釈迦さんが悟りを開いて仏教を成立させるわけですね。ところが、その身体は「仏身(ぶっしん)」と言いますが、その身体は教えによって変わってくるんですね。密教の場合は、「法身(ほっしん)」と言いまして、言い換えると、宇宙的な仏さん。そして、その中にも、一つのものではなくて、人間には心があっていろいろ動きますね。そういうものと、もう一つそれを支えている精神というものがある。そういう内と外の関係で、いわゆる悟りの原型というものが、もう一遍人間の形に還るんですね。その時に、法身という、宇宙的生命というものが意識されるんだ、と私は思うんですよ。 」

 

・・・実を言うと、私は親が浄土真宗だったもので、お釈迦さんの原始仏教から、大乗仏教の中論とか、その後の日本での法然さんの浄土宗と親鸞さんの浄土真宗の南無阿弥陀仏の本はいろいろ読んできたんですけど、まだ 空海さんの真言密教のことは知りません。

なので、かなりいい加減なんですけど、どうも密教の曼陀羅の世界が 今回の話となんだか繋がりそうな気がしているんです。 )

 

Dr Lanza points to the uncertainty principle – a 1927 theory from German physicist Werner Heisenberg which says that the velocity and position of an object can be measured at the same time.

The scientist stated in an article he penned for Huffington Post: “Consider the uncertainty principle, one of the most famous and important aspects of quantum mechanics. Experiments confirm it’s built into the fabric of reality, but it only makes sense from a biocentric perspective.”

ランザ博士は、不確定性理論を指し示す - ドイツの物理学者 ヴェルナー ハイゼンベルク の1927年の理論で、それは 物質の速度と位置は同時に測定できるというものである。

 

その科学者は ハフィンポストに寄稿した記事の中で述べている。:

「量子力学のもっとも有名で重要な側面のひとつ、不確定性理論を考慮せよ。 実験が現実の構造の中にそれが構築されることを確認するが、それは単にバイオセントリックの考え方から意味をなすものである。」

 

( ここの話は さっぱり分かりません。 物理学に詳しい方に教えてもらわないといけませんね。 )

 

==== これから下には、 させたもつが連想したことを ランダムに書いて見ます ===

 

― 宇宙自体に 量子レベルでの意識がある。

 

― 人間の意識は その身体に閉じ込められた 可哀相な意識である・・?

 

― あらゆる生命体に意識が宿る。 山や海にも意識が満ち溢れている。

 

― 左脳(言語脳)が働かない場合には、もしかしたら宇宙の意識と一体になるかも。

- こちらのYOUTUBEを参考までに。

苫米地英人「仏教・釈迦の悟りの内容とは?」

https://www.youtube.com/watch?v=t9HqpMAtU9Q

ここに人間が様々な制約に囚われていて、宇宙の真実を見ることができないということが語られていて、お釈迦さんが悟ったことというのはそれらの制約から解き放たれてすべてが見えるような状態を体感したのだ・・・というようなことが解説されているんです。これはもしかしたら、上記の言語脳(左脳)を封印して、右脳だけで宇宙と一体化したような状態を経験したんじゃないのかって思うんですよねえ。

― つまり、右脳で聴く音楽などは、宇宙の意識との一体化が可能かも。

 

― 「はじめに言葉ありき」という創世記の話は、もしかして「はじめに意識ありき」か。

 

― 釈迦の言う「相依り」は、ここで言う意識とテレビ装置の相互作用か。

 

― 人体というテレビの受信機のスペックによって、世界の見え方は異なる。

 

― もしかしたら、いわゆる発達障害といわれる人たちには別の宇宙が見えているのかも。

 

― ショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」は、私が20歳の頃に読んで、感銘を受けた本なんですが、タイトルが今回の話とかなり近いような気がする。

ただし、本の内容はすっかり忘れた。

それに、同じくショーペンハウエルの「哲学入門」。 出版社は違うんですが、この本を20歳頃によんで、世界の全てが分かったような気になったもんです。

https://www.amazon.co.jp/%E5%93%B2%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80-1954%E5%B9%B4-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%83%8F%E3%82%A6%E3%82%A8%E3%83%AB/dp/B000JB6AEK

 

― なぜ 意識には個別の意志があるんだろうか。

個別の人体、つまりテレビ装置の違いによって、DNAレベルで制約を受けるのか。

 

― ブッダは 身体の制約から解き放たれて、悟りを得たらしい。

つまり、宇宙の意識を感得したのかもしれない。

 

― 意識が人体に閉じ込められるって話は、なにやら 「ゴースト・イン・ザ・シェル」(攻殻機動隊)を思い出させる。英語のタイトルの方が今回の話を彷彿とさせる。

 

― 分野は忘れたけど、最先端の科学者の中には、すべては信号のネットワークだというひとたちがいるらしい。 これも この宇宙の意識と関係があるんだろうか。

 

― 八百万の神という考え方は、古代の世界には共通する考え方だったのだろうか。

 

― 意識が宿るのは生命体だけなのか。 進化するものには意識があるように思える。 動物や植物の進化をみると、めちゃくちゃ合目的的に進化しているとしか思えないものが多いですもんね。 そこには意識というか、意志を感じますよね。

 

― 人間は偏った見方、感じ方しかできない。都合のよいことしか受信できない。指向性が強い。 眼の前にあるのに見えないこともある。

 

― 宇宙の量子レベルでの意識が、たまたまあなたの身体に閉じ込められたのが あなた自身である。 それなら、釈迦みたいにすべてを捨て去って、宇宙と一体化して悟りを得ることは可能かもしれない。

 

 

・・・ってことで、今後の考えるヒントとしてメモ書きしました・・・

 

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2017年5月16日 (火)

私には情というものが足りない。 DNAのプログラムの損傷か?

私には情というものが足りない。 DNAのプログラムの損傷か?

先日 NHKの番組で、火野正平の「心旅」を見た。
倉敷編で、水島港が目的地。
大学時代に、水島港から丸亀港へのフェリーに乗り
香川県の大学で勉強した女性。
善通寺にある寮暮らしで、親恋しさに4年間泣き暮らした
という話だった。

こんなに情の深い人がいるんだなあと、
この番組を観て、私自身のことを振り返った。

私には情が無い。
前々からそんな気がしてきた。

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情が無いというよりも、感覚、感情がぼ~っとしている
と言った方が正確かもしれない。

私には15歳上の姉がいて、母親が家業や家事で忙しく、
姉が私の世話係だった。

小さい頃から、その姉からよく言われた。
あなたは 本当に暑さ、寒さが分からない子だねえ。」
・・・季節感覚が鈍く、着るものに無頓着で、
着た切り雀みたいな私だったからである。
そして、その姉が、これを着なさい、あれを着なさいと
やってくれていた。

私が24歳の頃、母親が癌で亡くなった。
30歳の時 父親が脳卒中で亡くなった。

しかし、その折も、なんだかぼ~~っとしていて、
涙を流した記憶は無い

特に父が、年末に、夕ご飯、晩酌の後、風呂上がりに
テレビを観ていて、昏睡状態に入り、数日間寝たままになり、
12月31日に、70歳の誕生日に他界した時には、
兄弟揃って 「上手に死んでくれた」 と笑い合った。

父と兄は、その当時 和菓子屋をやっていて、
兄嫁と姉も、一緒に働いていた、家内工場だった。

年末には、ご近所の多くのお客を相手に、正月の餅の
賃突きをするので、クリスマスの後、30日までは
その餅つきで毎年大忙しだった。
大忙しの間は、いびきをかいて寝てくれていた父、そして、
誕生日に死んで 市役所から70歳以上の死に際して
もらえる見舞金もゲット、と言うことで「上手に死んでくれた」のだった。 
だから涙も出ず、笑い合った。

私が高校生だった時までは、高校の同級生のアルバイトと
一緒に3~4人で、出来たての餅の配達をやったりした。
雪の中を配達した年もあった。
暑さ寒さに鈍感だったのは好都合だった。

高校を卒業した後、東京の英語専門学校で、貿易英語や
ビジネス英語を2年間学んだ。

貧乏だった実家からの助けが要らないように、
新聞配達の奨学生になり、神奈川県の販売店に寝泊まりして、
朝夕刊を配達し、集金をし、そして週末には営業活動もやった。

ここでも、季節に鈍感という体質は好都合だった。
雨や雪の日でも、雨合羽をかぶり、その殻の中に閉じこもるように
歌を歌いながらペダルを漕いでいた。

・・・・・

20歳の頃。
亀井勝一郎、小林秀雄などのエッセーや、ショーペン・ハウエル
などの哲学書にかぶれた。

その頃だったと思うが、「耳を澄まして、生きていこう」と思った。
自分の鈍感さを自覚して、もっと感覚を研ぎ澄まさなくてはと
思ったのだと記憶している。

しかし、その後の母と父の死に際しては、効果はなかったようである。

今考えると、理屈の耳は澄ませても、情の感覚を磨くことは
結局出来なかった
ということになる。

・・・・

情の感覚と言えば、おそらく恋愛に関する情が、誰しも
筆頭に挙げられるのだと思う。

私の場合も、ちゃんとDNAに刻まれたプログラムに従って、
それは起動された。

本来、情というのは、そのプログラムにどのように、どの
程度の強弱をもって刻まれているのか。 そして、それが
滞りなく起動されるかという問題かもしれない。

しかし、恋愛のプログラムは予定どおり働いたが、
親に懐く情や子供に関わる情は、私の場合は、上手く
プログラムされていなかったらしい。

もしかしたら、生まれた時にはちゃんとプログラムされて
いたのかもしれないが、小学校低学年の頃に、
友達の家で遊んでいて、崖から落ち、階段をごろごろと
転がり落ちて、頭を打ち、医者から「御臨終」を宣言され、
その後 息を吹き返した時に、プログラムに狂いが出たの
かもしれない。

・・・・

私は全く子煩悩ではなかった
親の情というものが まともに発達しなかったようにさえ思う。
小さい子供は 極端にいえば 猿に対する感覚に似ていた。

私が二人の娘に教えたことといえば、自転車の乗り方ぐらいであった。

勿論、親としての責任という、理屈に於いては、自覚はあった。
しかし、「子供が可愛いくてしょうがない」というような情は
なかった。

子供は 周りに影響されてその真似をする猿である・・・と
言うような気味の悪さがあった。

だから、自分なりの考えを持って、ものを言うようになって
初めて、「ようやく人間になったか」と嬉しくなった。

・・・やっぱり、こういう感覚は親子の情としては変だと
思うが、プログラムに損傷がある以上 しょうがない。

・・・・

ここ数年、仏教の経典に関連する本をいろいろと読んできた。

その中で一番印象に残っているのは、なんと言っても
原始仏教の釈迦が言ったとされる 「ブッダの言葉」である。

「「ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ」   
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

この中で、お釈迦様の思想を振り返ってみると、こんなことが
書かれていたんです:

3.つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を
空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り超えることができるであろう。

10.人間の迷いの世界である「世間」には五種の欲望の対象があり、
意(の対象)が第六であるとされる。
これらに対する貪欲を離れることによって、苦しみから解放されると
している。

5. 出家修行者のあり方については、
妻、子供、家族、親戚、世間との一切の接触を断ち、「独り」で
村はずれの洞窟や木の下に住み 一切の所有をしないことを求めている。
最初期の仏教修行者は住居とか臥床というものをもっていなかった。
さらに、せいぜい毛布か布にくるまって寝ていただけ、とも書いてあります。。

21. 子供が死んでも嘆くのは良くない
人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる。
亡くなった人のことを嘆くならば、悲しみに捕らわれてしまったのだ。
人間の絆を捨て、天界の絆を越え、すべての絆をはなれた人であれ。

==== どうも、こういうのを読んでいると、
     情を捨てろと言っているように見えるんですよねえ。

     出家ということだから、世間を捨てる、情を捨てる、
     子供が死んでも嘆かないってことにはなるんでしょうが、
     どうも 人間としては DNAのプログラムから
     解き放たれるように修行をしろと
言っているように
     思えてしまうんです。

     元々、お釈迦さんは、人間が苦から逃れる為には
     どうしたらいいのかを覚ろうと努力したそうですから、
     苦の元になっている情を断ち切れということには
     なるのだと思います。

     ってことは、私が小学校低学年の時に「御臨終」に
     なった時に、私は既に「仏」になっていたから、
     息を吹き返した後に 情を忘れちまったってことに
     なるのかな???
   

不真面目なオチで すんません。

 

===============

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2017年5月10日 (水)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その5- 上品、下品はなんで決まるのか?

上品、下品という言葉の由来をちょっとチェックしてみたところ、
以下のサイトがありました。

http://yain.jp/i/%E4%B8%8A%E5%93%81

「品性、品格がよいさま。反対は「下品(げひん)」。」
「仏教では、「上品(じょうばん)」「下品(げぼん)」と読む。
 極楽浄土に往生を願う衆生を能力や資質によって上・中・下の
 「三品」に分け、「上品」は最上、「下品」は最下位になること
 からいうもの。 」

・・・ってことで、以下にそれがどういうものだかを読んでいきます。

Img_2621



p31
仏はアーナンダとヴァイデーヒーに告げられたーー
上品上生(じょうぼんじょうしょう)の者とは、
生ける者どもの中で、かの仏国土に生まれたいと願って、
三種の心を起こし、往ってかの仏国土に生まれる者のことである。
三つとは何であるか。
第一は誠実な心であり、第二は深く信ずる心であり、
第三は一切の善行の功徳を仏国土往生に振り向けてかの仏国土に
生まれたいと願う心
である。・・・」

「・・・また次の三種の生ける者どもはかの仏国土に生まれる
であろう。 三つとは何であるか。
第一は慈しみの心を持っていて殺さず。 さまざまな戒律を
守っている者。  第二は大乗経典を読誦する者。
第三は、仏・法・僧・戒・捨・天の六つを念ずる行を行なう

者である。・・・」

p33
<上品中生(じょうぼんちゅうしょう)の者>とは、
必ずしも大乗経典を学んだり読誦したりしないけれども、
よくその意義を理解し、最高の道理を聞いても心が動揺せず、
深く因果を信じて大乗を誹謗せず、これらの功徳を振り向けて
<幸あるところ>という世界に生まれようと願い求める
者のことである。・・・・

p34
<上品下生の者>とは、また原因結果の道理を信じて大乗を
誹謗せず、ただ無上道に向かう心をおこし、この功徳を
振り向けて<幸あるところ>という世界に生まれたいと
願い求める者のことである。
この修行者の命が終わろうとするとき、アミタ仏と
アヴァローキテーシヴァラとマハースターマブラープタは、
多くの従者たちとともに黄金の蓮花を持ち、五百人の
化身の仏を化作して、迎えに来られる。・・・・

・・・これを<上品下生の者>と名づけ、これを
<上位の者の往生の観想>(上輩生想)と名づけ、
<第十四の冥想>と名づけるのだ。・・・・

===極楽往生した衆生の能力・資質の一番上のランクを
   さらに3つに分けて上のように区分しているんです。
   私の場合なら、「大乗を誹謗せず」ぐらいなら
   なんとかなるけど、他は無理かなあ・・・
   まず、「信じる」ってことが出来ない天の邪鬼
   だからなあ。

   このレベルだと、500人で迎えに来るそうです。
   阿弥陀仏の来迎図ですね。
   でも、浄土真宗では、こういうのは無しだそうですよ。

p35
<中品上生の者>とは、生ける者どもの中で、
在家信者の守るべき五つの戒律を守り、八つの戒めを守り、
さまざまな戒律を修行して、五逆罪を犯さず、さまざまな
苦しみを嘗めることがなく、この善根を振り向けて
<幸あるところ>という世界に生まれたいと願い求める
者のことである。

p35
<中品中生の者>とは、生ける者どもの中で、
一日一夜の間八つの戒律を守り、あるいは、一日一夜の間
見習僧の戒律を守り、あるいは、一日一夜の間修行僧の
守るべき戒律を守って立居振舞に欠けたところがないという、
これらの功徳を振り向けて<幸あるところ>という世界に
生まれたいという願いを求める者のことである。

p36
<中品下生の者>とは、立派な若者または立派な娘で
あって、父母に孝養をつくし、世間の人々と深い友情を
以て交わった者のことである。

==== 少なくとも、私はこの<中品下生の者>では
     あり得ませんね。年齢制限で引っかかっちゃう。
     なんとか<中品中生>なら、時間制限があるから、
     いけるかも??
     <中品上生>は、毎日やらなきゃいけないから
     無理だよなあ・・・

p37
<下品上生の者>とは、生ける者どもの中で、さまざまな
悪しき行為を行なう者、大乗経典を誹謗することだけはしない
けれども、多くの悪しき行為を行なって、恥ずかしいと
思わぬ者のことである。・・・」

「立派な若者よ、お前は仏の名を称えたから、さまざまな
罪がみな消滅し、わたしがお前を迎えに来たのだ。」

p38
<下品中生の者>とは、生ける者どもの中で、五つの戒律、
八つの戒め、修行僧の守るべき戒律を犯し、僧団に属する物を
盗み、僧に供養された物を盗み、名誉や利欲のために説法して
恥ずかしいとも思わず、さまざまな悪しき行為で自分を飾って
いるような愚か者のことである。
このような罪深い人は、悪しき行為の結果として地獄に堕ちる
であろう。

===おお、ここで地獄が出て来ましたよ。ついに。

しかし・・・・その後があります・・・

p38
命が終わろうとするとき、地獄の猛火が一時に押し寄せる
その時、指導者が居て、大慈悲心からこの者のために
アミタ仏の持つ十種の力の徳について説き、広くかの仏の
光明の神秘的な力を説き、また戒律・精神の安定・智慧・
迷いからの自由・迷いから自由になった知見をほめ讃える
のに遇い、この人は聞き終わるや、八十億の間かれを生と
死とに結びつける罪から免れる
地獄の猛火は変化して清く涼しい風となり・・・・

=== ってことで、一旦は猛火に焼かれるみたいですけど、
    そこに阿弥陀様の代理が助けに来てくれるようです。

p39
<下品下生の者>とは、生ける者どもの中で、
不善な行為である五逆罪と十種の悪行を犯し、(その他)
さまざまな不善を行ない、このような悪しき行為の結果、
悪しき道に堕ち、長い間繰り返しくり返し苦悩を受けて
止むことのない愚かな者のことである。
このような愚かな者の命が終わろうとするとき、この者を
種々に慰め励まし、この者のためにすぐれた教法を説き
教え、仏を念じさせる指導者に遇う。
ところが、この者は苦しみに迫られて仏を念ずる暇がない
そこで指導者が言うのに、「お前がもし仏を念ずることが
できないのなら、無量寿仏よ、と称えなさい。」と。
このようにしてこの者は心から声を絶やさぬようにし、
十念を具えて、南無アミタ仏と称える
仏の名を称えるのであるから、一念一念と称える中に、
八十億の間かれを生と死に結びつける罪から免れるのだ。

これを<下品下生の者>と名づけ、これを<下位の者の
往生の観想>(下輩生想)と名づけ、<第十六の冥想>
と名づけるのだ。」

=== おやや??
    下品下生なのに、地獄という名前が出てこない
    ですね。 焼かれないのかな?
    
=====

こちらのサイトに まとめがありました:
http://tobifudo.jp/newmon/name/9hon.html
「浄土教では、生前の行いによって、極楽浄土に生まれ変わる
とき、九つのパターンがある、とされています。
九つのパターンは、上中下の三品と、上中下の三生の組み合わせ
で表されます。」

・・・このまとめで気付くのは、
・・・上品は大乗を修める人、中品は小乗を修める人と
・・・一般的な善を行なう人、そして、下品は身勝手な人
・・・と書いてあるところですねえ。

このまとめに書いてある点を 上記の本からの抜き書きと
比較してみると、どういうことになるでしょうか・・・

大乗を修める人と小乗を修める人という部分の表現
本に書いてある「大乗経典を誹謗する・・・」という
表現のある部分とは一致しないようなんですが

いろんな宗派によって、解釈が違うからなんでしょうか?
まあ、多分、私の読み方が間違っているんでしょうね。

====

p40
世尊は「ことごとくみな生まれるであろう。 かの国に
生まれたら、仏たちを眼の前に観る精神集中ができるで
あろう。」と予言せられ、無量の天人たちは無上道に
向かう心をおこした。

p41
そのとき世尊の足は虚空を歩いて、鷲の峰に還られた。
アーナンダは広く多くの人々のために先のようなことを
説いた。 無量の天人たち、竜や、ヤクシャ(夜叉)たちは、
仏の説かれたところを聞き、みな大いに歓喜し、仏を拝して
退出したのであった。

==== さあ、これで観無量寿経の日本語訳を読み終わり
     ました。
     次には、漢文書き下し文の註釈のページで
     上記の部分を拾ってみたいと思います。

・・・ その6が 最終回になります ・・・

=====================

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2017年5月 9日 (火)

あなたは「あなたのお母さん」のことを知っていますか?

これは 親不孝者の 追想です。

インターネットでこんな記事があったんです。

ホームレスにも自尊心がある・・・これこそ、日本が発展している部分だ!」
http://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e3%83%9b%e3%83%bc%e3%83%a0%e3%83%ac%e3%82%b9%e3%81%ab%e3%82%82%e8%87%aa%e5%b0%8a%e5%bf%83%e3%81%8c%e3%81%82%e3%82%8b%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%83%bb%e3%81%93%e3%82%8c%e3%81%93%e3%81%9d%e3%80%81%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%8c%e7%99%ba%e5%b1%95%e3%81%97%e3%81%a6%e3%81%84%e3%82%8b%e9%83%a8%e5%88%86%e3%81%a0%ef%bc%81%ef%bc%9d%e4%b8%ad%e5%9b%bd%e3%83%a1%e3%83%87%e3%82%a3%e3%82%a2/ar-BBATDlP#page=2

                  
「あとで思い返しても、とても身震いする出来事だった。
社会の底辺にいるホームレスさえこのような自尊心を持って
いるということが、民族の発展を示す有効な方法になりうる
のだと思った」

Img_6462

私はこの記事をよんで、FACEBOOKにこんなことを書いたんです。

武士は喰わねど高楊枝・・・
私の母は私が24の時に癌で亡くなったんですが、
貧乏な家庭にありながら、高楊枝な母でした。
鹿児島の裕福な商家のお嬢さんだった人が、
貧乏な家に嫁いで、幼い私の手をひいて
質屋通いをしなくてはいけなかった時には
さぞかし悔しい思いだったろうと思います。

・・・・・

これを書いてからというもの、私は自分の母のことを
どのくらい分かっていたのだろうか
と、ふと思ったんです。

私は常々、母のことを知らないよなあ~~と思ってきました。

この際なので、亡き母のことを、自分の記憶を辿りながら
書き出してみたいと思ったんです。

今自分は66歳なので、記憶といってもいい加減なもの
だとは思うんですが。

・・・・・

私が最後に母に会ったのは、福岡にある国立癌センターの
病室でした。

その頃、私は24歳、母は60歳。

母が寝台に寝たまま、私に尋ねました。

「お父さんが、私に会いに行けといったの?」
(本当は九州弁ですが、一応標準語で書きますね。笑)

「うん・・・」

私の返事に、母は涙ぐんでいました。

その頃の私は、既に東京に出て、米系の石油メジャーで
働いていました。
父は、もう覚悟をしていたのでしょう、電話口で
私に「最後になるかもしれないから」と連絡してきたのでした。

そして、母がこう言いました。

情けない・・悔しい・・・・

私はそういう母の言葉を聞きながら、病室の窓から
外を眺めているだけでした・・・・

5img_6456

・・・・

母は鹿児島の生まれで、瀬戸物を商う家のお嬢さんでした。
母は、七人兄弟姉妹の長女。

その親は、伊万里焼や三河内焼などを仕入れて、海路で
佐賀県から鹿児島県へ運び、儲けていたそうです。

広い家だったようで、母が一度だけこんなことを言いました。

「夜の真っ暗な家の廊下なんかで、人を驚かすようなことを
 やっちゃいけないよ。
 長い真っ暗な廊下で、そんなことをされると、
 冗談じゃなく、本当に心臓が止まりそうになるんだから・・」

余程怖い目にあった経験があったのでしょう。

・・・・

母の一番下の妹が、東京の板橋にある東京家政大学の
学生会館の舎監をやっていました。
学生の生活指導が仕事でした。
それは厳しい叔母でしたが、おそらくこの叔母よりも
私の母の方が本来はもっと厳しかったのでしょう。

お姉さんがそんなことを許す訳がない

という口調で話を聞かされたものです。

戦時中の母は、まさにバリバリの軍国少女・婦人会だった
ようで、敗戦後は、価値観の激変に耐えられず
東京でキリスト教の洗礼を受けたと、その叔母から聞きました。

その母が私にポツリと言った言葉。
「あなたを、男の子を産むことができて、あの時はほっとした。」

戦後5年目の話です。
私の父は、満州からの引き揚げの時に妻と幼子2人を亡くして、
生き残った上の二人の子供を連れて日本に逃げ帰って来たのですが、
戦後に再婚した相手が私の母だったのです。

・・・・

私が19歳の時、上京して真っ先に挨拶に行ったのは、
板橋にある東京家政大学の叔母のところでした。

そして、中野のどこかにある某お屋敷に連れていかれました。
そこは、当時の大手レコード会社の重役の家だったようで、
母と叔母が東京の師範学校時代にお世話になったようでした。
裕福な商家の娘だったから、師範学校にも行けたのでしょう。

叔母がクラシック音楽を聞きながら、
こんな逸話を語ってくれたのもその時でした。

あなたのお母さんは、絶対音感があったのよ
 メロディーを一回聞いただけで、それを空で
 歌えたの。」

私にはそんな芸当はできなし、高校でピアノの授業が
あった時には、苦行みたいなもんでした。
しかし、小学生時代から公民館で習った詩吟だけは
得意でした。 大声だけは出せたので、クラスの中で
一番小さい身体だったのに、応援団のリーダーをやった
もんです。

・・・・

そんな母が、貧乏な和菓子職人の父に嫁いだのです。

私には、あまり母のエピソード記憶がありません。
何故かと言えば、母は家業と家事に忙しく、私の面倒を
みたのは、先妻の子である15歳上の姉だったからです。

それでも、今一所懸命思いだそうとすれば、いくつかの記憶が
浮かび上がってきます。

時系列に思いだすと、一番最初の記憶は、
私が病気の時に、リンゴを下ろし金でおろして、それを
布で濾して、リンゴ・ジュースを作ってくれた記憶です。

私は、何度か、崖や塀から落ちて、怪我をしたことがあるんですが、
一度は、友達の家の塀の上で遊んでいて、塀から落ち、
その下にある階段を転げ落ちたことがあるんです。
その直後は、何事も無かったように、友達の家から自分の家に
戻り、戻った途端に倒れたのだそうです。

そして、医者が呼ばれ、私の瞳孔が開いていると言われ、
この子は もうダメだ。」
と一度は引導を渡されたらしい。

しかし、何の拍子か、息を吹き返してしまった。

私の母が、その時どんな様子だったかは、誰も話してはくれません。
しかし、それでも、私が親孝行をしたひとつには数えていいかも
しれません。
もしかしたら、気の強い母の念力だったかもしれませんが・・・

そんな私も、母が亡くなった60を超え、父が亡くなった70に
手が届くところまで生きてしまいました。

・・・・・

二つ目に思い出すのは、最初に書いた「質屋通い」です。

多分、私がまだ5歳前後の頃だったと思います。
だから、戦後10年ぐらいの時ですね。

おそらく一般の人たちにとっては、まだまだ食糧難の時代
だったかもしれません。

どこかのオバサンが私に言った事が、耳に残っているんです。

あなたの家は、お菓子屋さんだから、食べ物は心配しなくて
 いいから、幸せね。」

私自身は、そんなに良いものを食べたという記憶は一切ないん
ですが、空腹に苛まれるということはありませんでした。

たぶん、ちょくちょく、お菓子を盗んで食べていたからでしょう。

父は母をよく怒鳴り飛ばしていました
ただ、理不尽なことで怒鳴っていたわけではなく、
もっと頭を使ってなんとかしろ・・・ってなことだったと
思います。

覚えているのは、
「毎日毎日 食卓に同じものを出すんじゃない。
 もっと工夫したらどうだ
ということでした。

食べ物はそういうことだったんですが、お金はなかったようです。

恐らく、母は、幼い私の手を引っ張って、悔しい思いをしながら
質屋の玄関を開けたのだと思います。

私は、玄関先までの映像は残っているんですが、玄関に入った
ところからの記憶はありません。
もしかしたら、見てはいけない母親の姿を記憶に残したく
なかったのかもしれません。

・・・・

三つ目は私の身長です。
私が高校に入った頃だったと思います。
学校で担任の先生との親子面談があったんです。

その時の母の相談内容が信じられないほど記憶に残っています。

「この子の身長は伸びるでしょうか。」

まったくもって、馬鹿な質問なんですが、母親としては
大問題だったのでしょう。

母の身長は低く、父の身長は平均的。
前妻の息子である、私の兄は、バスケットボールの選手
だったらしく、身長は高い。

私の身長は、中学時代、そして、高校1年までは、
クラスの中でもほぼ一番前、つまり一番低いところで
3番以内の定位置にいたからです。
中学時代は、丸坊主だったこともあって、
「まるこめ」というあだ名もあったぐらいです。
可愛かったんです。

中学1年の頃だったと思うんですが、
ある日学生服を着て、広い坂道の左側を登っていたとき、
中学高学年らしき女学生3人がその道の反対側を下って
来ました。
そして、私の姿を見ると、わざわざその歩く路線を変更して
私が歩いている側に寄ってきて、進路を妨害するような
行動に出たんです。
そして、私がビビっていると、3人で笑いながら通り過ぎて
行きました。
きっと、私がとても可愛かったんです。(笑

しかし、驚いたことに、ここでも、母の念力が働いたらしく
高校時代3年間に20センチばかりぐんぐん伸びて、
卒業するころには、列の後ろから数えた方が早くなりました。

・・・・

四つ目は、受験生時代です。

高校時代には、受験生ってことで、個室を作ってもらいました。
ほんの2畳半ぐらいの狭い部屋です。
1畳はべニア板で作った手造りベッド。
そして、机と椅子と本箱があるだけ。

父母とはほとんど会話はありませんでした
まあ、あったんでしょうが、記憶に残るような会話はありませんでした。
父母は家業に忙しく、父母との会話なんてことになると
それはそれは重大事だったからです。

特に 姉が 「お父さんが呼んでるよ」 などと呼び出しにくると
緊張しまくりになるほど、恐ろしい存在だったんです。
我が家の憲法は父でした

受験生の部屋には、母が毎夜、和菓子と緑茶をお盆に載せて
二階に上って来ました。
そこでも会話があったわけではありません。
・・・だから、母がどのような考え方を持った人であったのかは
知らないままとなりました。

・・・・

しかし、状況証拠はいくつか考えられます。

それは、鹿児島の叔父や叔母から受けた印象です。

東京の叔母は、大学の舎監で生活態度にかなり厳しい。
私を帝劇に連れていって、ミュージカル「ラ・マンチャの男」
を見せてくれました。
文化的なことには興味があったようです。

宮崎の美容師だった叔母は、新興宗教に走ったらしく、
私の母が癌と闘っている時に いろいろあったらしい。

佐賀で教師をしていた叔母は、戦争未亡人となった後、
二人の子供たちを女一人で育て上げた。

鹿児島の叔父は、キリスト教に関する郷土史家であって、
キリスト教の信者の団体が、隠れキリシタンなどの
歴史を聞きに来るほどの知識があったようです。

こうやって母方の兄弟姉妹を見ると、私は父方からよりも
母方から大きな影響を受けているような気がするんです。

つまり、今現在 私がやっていることに繋がっている
ような気がするわけです。

ー 随分前のことですが、バギオ市制100周年の
  折に、バギオ建設に関与した日本人移民たちの
  ミュージカルを作り、公演しました。

ー 毎年、日比友好月間でなんらかのイベントの
  企画をする羽目になってしまいました。

ー 若い時から、哲学や宗教には興味があって、
  今では仏教の本をいろいろ読み漁っています。
  かと言って、信心があるかっていうと、ありません。

ー 公的な教員ではありませんが、日本語を過去15年ほど
  教えることになりました。

ー 日本人戦没者や日本人移民の歴史に興味を持ち
  今では 自称「バギオ市の郷土史家」みたいな
  感じになって来ています。(笑)

・・・・

たまたま、今 観無量寿経ってのを読んでいるんですけど、
ひょっとして、「観想」するっていうのは、
こんな風に、ある対象を頭の中でいろいろとなぞって観る
ことなのかもしれません。

そして、今の私をこのようにさせているのは、
もしかしたら、これもあれも、母の念力のなせる技かも
しれません。

怖いですねえ、怖いですねえ、でも、面白いですねえ・・・

そして、実に有り難いことです。

=====

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2017年5月 1日 (月)

「浄土三部経ー無量寿経」を読む-その3- 第35願 「女人成仏の願」 

さて、今日は 「女人成仏の願」を読んでみます。

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ー サンスクリット版からの翻訳 -

35。 世尊よ。 わたくしが覚りを得た後に、あまねく無量・無数・
不可思議・無比・無限量の諸仏国土にいる女人たちがわたくしの名を
聞いて、きよく澄んだ心を生じ、覚りに向かう心をおこし、女人の
身を厭うたとして、(その女人たちが)(この世での)生を脱して
からふたたび女人の身をうけるようなことがあったら、その間は
わたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありません
ように。

=== さて、これは女性にとっては由々しき部分なわけですね。
    お釈迦様が生きた時代とインドという土地柄を考慮して
    どう考えたらいいんでしょうか・・
    まずは、注釈を読んでみます:

p259
「この第三十五願(法然によると「女人往生の願」、親鸞によると
「女人成仏の願」「変成男子の願」
)は支謙訳にはあるが、支婁迦讖訳
には欠けている。支婁迦讖は省いたのであろうか。

支婁迦讖は150年または167年に洛陽に来たから、それ以後に
加わったものである。その後になるとクシャーナ王朝の最盛期、
つづいてクシャトラバ王朝の西インド支配の行なわれた時期であるが、
これらはもともと遊牧民族で家父長制であったから、女人は従属視
されていた

では、浄土教では、その社会的事実をどう考えるか、ということが
問題となって、この女人往生の願が挿入されたのであろう。
ちなみに「女人往生の願」と呼ぶほうが、原意に近い
「往生」は「成仏」ではない。
「女人成仏の願」と解するのは、親鸞独特の解釈である。」

=== 今の現代でも、この世界のどこかには女性の人権が
    著しく毀損されている国や地域があることを考えれば、
    2世紀ごろと言えば日本は卑弥呼や邪馬台国の時代
    なんですねえ。中国は三国志の時代で、ヨーロッパは
    ローマ皇帝の時代。

=== 上記の翻訳をした支謙さんと支婁迦讖さんについては、
    こちらでご覧ください:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E8%AC%99
支 謙(し けん、? - ?)は、中国・三国呉の在家訳経者である。
月氏の出身。字は恭明、または越。」
「最初は華北で、支亮に就いて学び、6か国語に通暁した。後漢の
献帝代の動乱を避けて南渡し、呉の孫権のもとに至った。呉では、
博士となり、太子の孫登を補導した。孫登が亡くなると、穹隆山に
隱居し、六十歳で亡くなったという。
その訳経活動は、黄武元年(222年)から建興年間(252年 - 253年)
に至る。49経を漢訳した。また、梵唄も作り、仏教教理の庶民教化
にも尽力した。」

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E5%A9%81%E8%BF%A6%E8%AE%96
支婁迦讖(しるかせん、しるかしん、梵: Lokakṣema, ローカクシェーマ、
147年頃 - 没年不詳)は、中国・後漢の霊帝と献帝の時代に、西域より
渡来した訳経僧
である。月氏の出身。支楼迦讖、支讖とも称される。」

======

では、次に漢文書き下しの方をみてみましょう。

ー 漢文書き下し -

35. たとい、われ仏となるをえんとき、十方の無量・不可思議の
諸仏世界、それ、女人ありて、わが名字を聞き、歓喜信楽し、菩提心
を発し、女身を厭悪せん。(その人)寿終りてのち、また女像と
ならば、正覚を取らじ。

=== では、この部分の注釈を見てみましょう:

p318
女人成仏の願。 この題文は梵文和訳の35に相当する。
法然は女人往生の願といい、親鸞は女人成仏の願、変成男子の願と
呼んだ。「法華経」に説く八歳の竜女が成仏するという教えと
ともに、この願は古来有名
である。

浄土教では、女人成仏の願がなぜ別に誓われているかの理由に
二説をあげ、第一はすでに第十八願において男女老少のあらゆる
衆生が救われると誓ってあるが、女人は本性上うたがい深いから
別願をもうけて女人の疑念を除こうとした。

第二は親鸞の和讃に明かすごとく、弥陀の大悲の深きこと
仏智の不思議を示さんとして女人成仏の願を別出した、という。

・・・・浄土の往生人について、人間界でみるごとき男女の
区別のない清浄の色身
とだけ言う方が無難であろう。
浄土の生は、曇鸞のいう「生即無生」のものだからである。
ちなみに婦人を宗教的に差別してはならぬという思想は
原始仏教以来存する
。」

=== 凄いっすねえ・・「女人は本性上うたがい深い」と
    ありますね。 女性が読んだらイラっとくるんじゃ
    ないでしょうか。
    しかし、インドで仏教が生まれた時代には
    女は人間扱いされていなかったことを考えれば
    「女でも救われますよ」と言われても「怪しいカルトかな」
    と疑われても当然かもしれないですね。
    原始仏教の時から男女差別はしないってことは
    その頃のインドでの宗教事情を考えれば
    めちゃくちゃ画期的、先進的な考えだったんでしょう。
    日本で婦人参政権が実現したのは、ついこの前ですもんね。
    未だに男女共同参画とかやってるし・・・

=== 私のこの35願の読みは 間違っているかもしれませんが、
    上のサンスクリット版とこの書き下し文を合わせて
    考えると以下のような理解です。

我が師、世自在王仏(法蔵菩薩=阿弥陀仏の師匠)さま。
わたくし(阿弥陀仏の修行時代の名である法蔵菩薩)が覚りができた
後に、あちこちの世界にいる女たちが、私の覚り後の阿弥陀仏という
名前を聞いて、私を信じて、女である身を憂いて、死んだ後に
また再び女として生まれ変わる(男になれない)ようなことが
あったら、私は覚りを得て 法蔵菩薩から阿弥陀如来になる
なんてことは出来ません。この私の願いが叶わないんだったら
私はずっと修行僧のままでいいですよ。阿弥陀仏に昇格したって
意味がないから・・・。

=== 最後に 注釈のp319を引用して終わります。

「心よく静まり、智慧顕われたならば、
 正しく法を見るものに、女性たることが何の障りがありましょう。
 われは男か女かと、かくのごとく惑って、
 そもそもわれは何ものぞや、と思う者こそ、
 悪魔が語るにふさわしいのです。」

(「悪魔が語る・・・」の意味が理解できません・・・)

・・・・・・・では、その4 でお会いしましょう。

 

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2017年1月19日 (木)

最先端の量子論? もしかしたら、あの世があるかも・・・??

たまたまfacebookで、こんなサイトを発見。
嘘か本当か 私には分かりませんが、
お釈迦さんの色即是空、相依りの考え方との関係がないかどうか
に興味があるんです・・・

【ガチ科学】 「死後の世界」が存在することが量子論で判明!
米有名科学者「脳は意識の受け皿にすぎない
http://tocana.jp/2017/01/post_12042_entry.html

「量子論と意識の奇妙な関係

afterlife0116_02.jpgランザ博士「Robert Lanza.com」より引用

 米ニュースサイト「Collective Evolution」(1月14日付)によると、
ランザ博士は著書「Biocentrism: How Life and Consciousness Are
the Keys to Understanding the True Nature of the Universe
生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための
鍵であるか)」において、物質ではなく生命と意識こそ現実理解の
ための基礎的な要素である
と断言、意識は肉体的な死とは別物で
ある上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している
というのだ!」

「量子論の生みの親であるマックス・プランクは、
「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と
驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者
ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の
法則を定式化することは不可能だった」と語っている。」

「もし全宇宙から人間を含めた意識を持つ者が全て絶滅しても、
宇宙は存在するだろうか? 」

「この論理に従うと、肉体(物質)と意識の因果関係が逆転する。
つまり、意識が現実を生み出しているならば、発生の順番が脳
(物質)→意識ではなく、意識→脳(物質)でなければならない
ため、肉体(物質)が死んでも、意識まで消滅する必要はない。
こうして死後の(意識)世界が認められるというわけだ。」

「そもそも科学はおろか、哲学においても「意識とは何か?」
いう根本的な問いにさえ答えることができていないのが現状である。
意外と魂の不滅を認めるキリスト教や、輪廻転生を絶対的事実と
するヒンドゥー教などの方が、科学よりもずっと真実に近いの
かもしれない。」

==== 上記の最後にあるように、
     もしかしたら、古代の人類は宇宙というものを
     現代人が思っているよりずっと高いレベルで理解
     していて、一般人には分かりにくいから
     それを宗教という形で残してくれたのかもしれないな、
     なんてことを思う訳です・・・どうでしょうね?

     と言う意味では、もしかして最先端の宇宙論や
     量子物理学なんかが、将来の宗教になったりして??

==== ちなみに、私が過去にお釈迦さんの「ブッダの言葉
     を読んだ時に いろいろ考えたのは
     こちらに書いています。
     御用とお急ぎでない方は、是非ご覧ください。

たわごと: 科学とは 人間の脳の義手である ??  
言霊とダークマター
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/11/post-a324.html

ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ   
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

右脳・左脳と ブッダの仏教の「空」は なにか関係があるのか・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-29b6.html

以上、私の妄想です。

     

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2017年1月 2日 (月)

「心はどこにある?」 ー 馬鹿にできない諺や言い伝え

明けまして おめでとうございます。

今年も どうぞ 宜しくお願い致します。

=====

たまたま、先日 NHKの「サイエンス・ゼロ」をちらりと観たんです。
その時は 「最新科学が解き明かす「心」の謎」 というのをやっていたんです。
http://www.nhk.or.jp/zero/

現代の人だったら、「心とは身体のどこにあるのか?」という質問に
対して、おそらく大多数は 「心は脳にある」と言うのでしょう。

番組の中で紹介されたのは、(正確には覚えていませんが)、下のような
哲学者などの考え方でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83

心はどこにあるのか

バビロニア ー 肝臓
ヒポクラテス - 脳
プラトン - 脳と脊髄
アリストテレス - 心臓
旧約聖書 - 心臓

これに対して、上記のwikipediaによれば、東洋の学者などは
ちょっと異なる意見だったようです。

古代中国 - 心臓、腹部、胸部
陸象山 - 宇宙は便ち是れ吾が心
天台宗 - 十界論

これだけを見ると、西欧と東洋の考え方には、割と大きな
違いがあるように思えますね。

さて、そこで、
最近流行りの「腸内細菌」関連のニュースで、こんなのが
ありました:

「英国とスペインの学者は、腸内フローラ(腸内細菌)が
「幸せホルモン」セロトニンの分泌を操り、人間の気分
影響をおよぼすことができる。論文は科学誌『PLoS One.』に掲載された。」

https://jp.sputniknews.com/science/201612313202297/

要するに、お腹の中の状態が 人の気分、感情などに大きく
寄与しているっていうんですね。

まあ、これはPRのサイトですけど、腸内細菌と心の関係が
書かれていたんで・・・・
http://enjoy-tuhan.com/category/%E8%85%B8%E5%86%85%E3%81%AE%E5%85%8D%E7%96%AB%E6%A9%9F%E8%83%BD

セロトニンは私たち人間の精神面に大きな影響与え、心身の安定や
心の安らぎなどにも関与することから、『幸福ホルモン』とも
呼ばれています。
セロトニンはノルアドレナリンやドーパミンが過剰に出過ぎる
ことを抑えてくれて、心の均衡・バランスを整えてくれる伝達
物質です。ですので、セロトニンの分泌が減少してしまいますと
心のバランスが崩れてしまい、不安になったり、暴力的になったり、
うつ症状・うつ病・不眠症などの精神疾患を発症すると言われています。」

現代人に 「心は腹にある」なんて言ったら、「おまえはアホか」
と言われそうなんだけど、

昔の人は 「腹にいちもつ、背ににもつ」などと言って、
腹=心 と言ったわけですが、これは真理を言い当てていたよう
ですね。 

「腹に一物
【読み】  はらにいちもつ 
【意味】  腹に一物とは、表面は何事もないようで、心の中では
     何かたくらんでいることのたとえ。  」
http://kotowaza-allguide.com/ha/haraniichimotsu.html

昔からの諺や言い伝えは、馬鹿に出来ません。

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2016年12月15日 (木)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その13(中断)

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。

今日は「第18回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34967

・・・・ ななな~~んと!!

前回読んだときには 第39回まで全部読めたのに・・・・

二回目の今回は、このページから
この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。」
・・ってことになっちまっている。

ああ、大ショック!!

ということになりましたので、
残念ながら このシリーズはここで中断と致します。

いや~~、真に残念です。

しかし、私にこの著者みたいにフォトグラフィック・メモリーの
能力があれば、第39回まで全部を記憶して、きっちり最後まで
書けたのになあ・・・

ただ、考えてみるに、
大体ここまでの回が、著者本人の子供のころの体験や、それに
絡んで息子の行動や発言などを書いてある部分なので、
私が目的としている「日本語の論理」と「空気」という面では
ほぼ材料と出来る部分は読んだかなと思います。

つまり、この後の回は、著者が大人になってからの話ですし、
本人が社会での立ち振る舞い方を修得してきた結果としての
行動、発話がほとんどなので、第17回までの話で
私の目的とするところはカバー出来ているかなと思います。

ということで、このシリーズは終わります

お疲れ様でした。

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2016年12月10日 (土)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その11

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。

今日は「第14回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34699

               
「まだ、大学で親しい友達は1人もできていなかった。だから、
早い時間帯であっても、授業が終われば大学にいてもやることがない。
一刻も早く自宅に戻りたかった。」

Numbers研究会  私たちは"数"を愛する人を大歓迎するサークルです
  ○月△日17時、××号教室で入会説明会をします!」

「いくらASD(自閉症スペクトラム障害)特有の「他人とコミュニ
ケーションを取るのが大の苦手」という部分を抱えているとはいえ、
一人でいると淋しいと思うことはあった。家族以外にも、
本音を語れる友達が欲しいと思うときもあった。」

「「彼らは「10個の数字にさまざまな計算を施して結果を10にする」
というゲームをやっていたのだ。一人が問題を出し、残りの者が解く。
それを繰り返していたのである。計算には四則演算だけでなく、
平方根(√)や対数(log)も使っていた。」

「同類がいる、仲間がいる・・・。僕は名状しがたい嬉しさで、
全身がゾクゾクするのを感じていた。」

「1人の学生が、頭を掻きむしりながら天井を仰ぎ、「ああ、この問題、
どうしてもわからん。どうやっても10にならない。俺、バカになった
かも!」と叫んだ。すると、問題を出したらしい学生が「こんなものが
できないなんて、お前、確かにバカだよ」と応じた。」

「ここでは"いい奴"を演じる必要がないんだ」

==== なんか、いいですねえ・・・・
     「お前、バカだよなあ~~」と言える雰囲気、好きです。

「理由を聞くと、ジャグリングの修得で磨かれる感覚と、数学の問題
を解くのに必要な感覚はよく似ており、数字が好きな学生の多くが
大道芸にハマるのだという。」

=== どういう関係があるんでしょうね。
    ジャグリングの軌道計算でも感覚的にやるんですかね?

「メンバーには、数学科や理系学科の学生だけでなく、哲学科や
心理学科、経済学部の学生もいます」

「学生が作ったパズルの中には、今でいう「数独」と非常によく
似たものもあった。数字を使ったパズルも、ジグソーパズルも、
僕は子供の頃から大好きだった。」

=== 私は ゲームみたいなものがさっぱりダメなんです。
    根気がないってのもあるし・・・
    こういう人とは全く逆で、興味がないんですねえ。

「君、新入生かい?? この研究会に入りたいの?? 入るのは自由だけど、
僕たちは何も教えないからね。数学に必要なものは、ただ一つしか
ありません。それは才能です。才能だけ。努力なんかしても無駄だから」

「そして教授は、僕の目をじっと見つめて、「君はどっちかね??
バカ?? それとも天才?」 と尋ねてきた。」

「バカです」

「それでよ~し!」

「教授は満足したような大声を出し、「そうか、やっぱり君はバカ
なのか。きっとそうだろうと予想していたよ。ハハハ」と笑った。」

=== この会話。 凄いですね。
    しかし、いさぎが良くていい感じ。
    日本語的に言えば、そのものズバリの質問と答ですね。

・・・・ ここから 「第15回」に入ります。・・・・・

「人に嫌われることを気にせずに振る舞うことのできる場は、
ただひたすら楽しかった。とにかくメンバーたちは皆、僕と同じく
「数」や「数学」を愛し抜いているのだ。「人生で初めて仲間が
できた!
」と、躍り上がりたいような気分だった。」

「メンバーの学生たちは、何でもズケズケと本当のことを言う
連中ばかりだった。」

「本当のこと、つまり客観的な事実と、自分が実際に思うこと
素直に話していればいいのである。無理に"いい奴"を演じる必要もない。」

=== この部分ですね。
    「空気の研究」やら、「国語学者・大野晋の生涯」での
    キーワードになっている言葉。
        客観的な事実と論理性
    大野晋という人は、こういう人だったんじゃないかと
    感じるんです。
    それで、周り中が敵だった。
    それでも、「日本語、タミル語起源説」を実証する
    研究を続けた。

「あたかも実家の家族と一緒にいるときと同じように、リラックス
して、「自制」ということを忘れて振る舞うことができた。」

=== 高校まで住みにくい、生きにくいと思っている人たちは
    大学に同類がいると思って頑張るしかないですね。
    世の中、世界は広い。
    今の自分が居る場所だけが、世界じゃないってこと。

         日本という狭い範囲に限定する必要もありません。

Tの行動は皆にとって謎だった。なぜ、いつも授業の最後の10分
だけに現れるのか。なぜ、一番後ろの扉から入ってきて、最前列の
席まで、周囲の目を気にせず大きな音を立てて歩いていくのか。」

「俺がいつ授業に来ようが、どの席で授業を聞こうが、お前たち
にはどうでもいいことやろ。何かお前たちに迷惑かけてるか??
なんでそんなことを気にするの?」

「Tは必ず、「美しい!」と感嘆するしかない絶妙な解法で答えを
導き出してくれたからだ。しかも、教え方も抜群にうまかった。」

「こんなに詳しく予定を決めて旅行に行って、何が楽しいのか、
僕には理解できなかったが、実際に分単位のスケジュール
こなしているときのMの顔は喜びに満ちていた。途中、△△公園
という場所が思ったより小さく、30分くらいで一周してしまったので、
僕は「もう次に行こうぜ」と提案した。
 するとMは顔を真っ赤にして、「何を言ってるんだ。あと25分は
ここを散策するって俺がスケジュールを立てたじゃないか!」と怒り出した。」

「ダイヤの乱れなどが原因で、予定通りに「すれ違う」ことができないと、
「ああ、この旅行は台なしだぁ~」と叫びたくなるほど深い絶望感に
襲われるという。」

「後に松本清張の『点と線』を読んだとき、真っ先に思い出した
のがMのことだった。」

=== 上には上があるってことですね。
    さすがのアスペさんも このアスペさんには驚いている。

 

自分を客観視できないところ、周囲の空気が読めていないところが、
まさに僕も持つASD(自閉症スペクトラム障害)の特徴と重なる。
わかりやすく言うと、Yは完全に「勘違い」しており、しかもその
勘違いに自分で気づいていなかった。」

=== ここは、ちょっと興味深いところですね。
    「自分を客観視できない
    自分以外のことになると、客観的に事実をずばりと
    いいのけてしまい、周りを固まらせる人たちなのに。

    自分を客観視するということ自体が、他人の
    意見を集約したものだからでしょうか?

    そうすると、客観視というのは、事実ではない
    ということも言えるのかな?

    自分というのは何なのかというのは
    自分が決めるものなのか、他人が決めるものなのか
    って話ですもんねえ。 難しいなあ・・・

「そんなある日、Hは喫茶店でTとMとYと僕と5人でコーヒーを飲んで
いるとき、急に「俺は女好きだけど、愛というものがまったく
わからないんだ」と告白し始めたことがある。」

「一緒にいて楽しいという気持ちはある。可愛いなと思う気持ちもある。
もちろん性欲もある。でも、相手に愛情を感じるという心の動き自体
がわからないんだ。どうしたらいいんだろう?」

「「愛って何なんだ」とつぶやいて頭を抱えた。」

=== う~~ん。
    確かに、これは 「う~~ん」と唸るしかないですね。

    ここまで書いた後にベッドで寝たんですが、
    「愛情を感じるという心の動き」というのを
    考えこんでしまいました。

    このH君のいう「愛情」が恋のことか、愛のことかは
    明確ではありませんが、もしこの恋と愛を別物として
    考えるならば
、どんな定義が考えられるでしょう。

    H君は、ここで、「楽しい」「可愛い」「性欲」という
    言葉を使っています。
    これは、本人が自らの身体を通じて感じ取ることが
    出来る感情と言えると思います。
    それが 「恋」であると定義しましょう。
    そうすると、これは具体的であり本人にとっての
    事実であることは間違いないでしょう。

    一方、「愛」はどうでしょうか。
    これは考えれば考えるほど、人様々で表現するのは
    難しいでしょうね。
    本人自らの身体を通じて直接的に感じられる
    と言うよりも、かなり抽象的で観念的なものの
    ようにも思えます。
    また、同時に、毎日の生活に根差していて、
    じわりと湧き出してくるもののようでもあります。

    それに、敢えて付け加えれば、家族に対する慈しみ
    責任感、ある種の覚悟、観念的でありながら、
    日常の生活という具体的な地面から発するような
    ものにも思えます。
    しかし、これは、事実と言うには、抽象的過ぎて
    アスペルガー的な人には実感を持てないもの
    なのかもしれません。

    そして、これは、ちょっと飛躍するんですが、
    「家族(夫、妻)とは空気のようなもの」という表現が
    ありますが、ある意味 「空気の研究」に出てくる
    日本社会に醸成される「空気」にも似たような部分が
    あるのではないかという気がします。
    「いわずもがな」の関係とでも言うのでしょうか。

「彼らは、僕がどれだけ「空気を読まない発言」をしても、
決して否定的な視線でこちらを見なかった。それどころか、
僕の気持ちを十分に理解してくれた。
逆に彼らの言うことも、僕は素直に理解できた。」

母以外に、こんなにストレートに気持ちが通じ合った
相手に出会ったのは初めてだった。」

「僕たち5人の付き合いには、もう一つ特徴があった。誰も、
絶対に不満や愚痴、そして他人の悪口を言い合わなかった
いうことだ。全員、その種の話にまったく興味がなく、
下らないと思っていたのである。」

「もし、彼らに会えていなかったら、僕の人生はどうなって
いただろう。 もし、大学1年の夏休み前のあの日、Numbers
研究会の勧誘のポスターを目にしなかったら・・・
そう考えるたびに、僕はゾッとしつつも、同じ悩みを抱え、
生涯助け合っていける友人たちを得た幸運を、改めて噛み
しめているのだ。」

=== これは、素直に読めば、友人関係としては
    理想形なんじゃないでしょうか。

    裏の無い正直な発言を否定しない。
    変な顔もしない。 そのまま受け取る。

=== 人間関係の煩わしさというのは、世界中どこにでも
    あることなのでしょうが、
    フィリピンに住んでいる者としては時々考える
    ことがあります。

    私は、日本語教師という立場もありますが、
    バギオの地元の言語が全く分かりません。
    と言うより、学ぼうとする気持ちがありません。
    
    建前から言えば、
    直接法で日本語を教える教師としては、
    地元の言語が分かるのは邪魔になる。
    (英語でも同じなのですが、日本語を媒介語で
     説明し出すと、きりが無くなり、生徒自身が日本語を
     話す時間を奪ってしまうからです。)
    
    もうひとつは、地元の人たちの世間話や
    ゴシップ、悪口などを耳に入れたくない
    ・・・と言うことなんです。

    英語の場合は、一般的に、日本語と違って、
    論理的であり、ストレートに思っていることを
    表現できると聞きます。
    言語によって、一人の人の人格が変化するとも
    言います。

    ヨーロッパ言語の場合は、そもそも個人主義に
    根ざした言語であることから、日本のようには
    周りを気にしないということもあるようです。
    日本語の敬語は、立場によって言い方を変える
    というのが典型的な例でしょう。

    つまり、もしかしたら、英語の方が日本語よりも
    アスペな人たちによっては、住みやすいのかも
    しれません。
    もっともこれは、ネイティブ・スピーカーに
    とってはあまり機能しないかもしれません。
    英語の微妙な言い回しまでは理解できない
    あまり英語に堪能ではない日本人だけかも
    しれませんが・・・・

・・・・・・・

それでは 次回 その12 に続きます。

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