カテゴリー「心と体」の記事

2017年1月19日 (木)

最先端の量子論? もしかしたら、あの世があるかも・・・??

たまたまfacebookで、こんなサイトを発見。
嘘か本当か 私には分かりませんが、
お釈迦さんの色即是空、相依りの考え方との関係がないかどうか
に興味があるんです・・・

【ガチ科学】 「死後の世界」が存在することが量子論で判明!
米有名科学者「脳は意識の受け皿にすぎない
http://tocana.jp/2017/01/post_12042_entry.html

「量子論と意識の奇妙な関係

afterlife0116_02.jpgランザ博士「Robert Lanza.com」より引用

 米ニュースサイト「Collective Evolution」(1月14日付)によると、
ランザ博士は著書「Biocentrism: How Life and Consciousness Are
the Keys to Understanding the True Nature of the Universe
生命中心主義:いかに生命と意識が宇宙の本質を理解するための
鍵であるか)」において、物質ではなく生命と意識こそ現実理解の
ための基礎的な要素である
と断言、意識は肉体的な死とは別物で
ある上、脳が意識を生み出しているわけではないと主張している
というのだ!」

「量子論の生みの親であるマックス・プランクは、
「意識は物質よりも根源的で、物質は意識の派生物に過ぎない」と
驚きを持って受け入れ、ノーベル物理学者を受賞した理論物理学者
ユージン・ウィグナーも「意識に言及することなしに、量子論の
法則を定式化することは不可能だった」と語っている。」

「もし全宇宙から人間を含めた意識を持つ者が全て絶滅しても、
宇宙は存在するだろうか? 」

「この論理に従うと、肉体(物質)と意識の因果関係が逆転する。
つまり、意識が現実を生み出しているならば、発生の順番が脳
(物質)→意識ではなく、意識→脳(物質)でなければならない
ため、肉体(物質)が死んでも、意識まで消滅する必要はない。
こうして死後の(意識)世界が認められるというわけだ。」

「そもそも科学はおろか、哲学においても「意識とは何か?」
いう根本的な問いにさえ答えることができていないのが現状である。
意外と魂の不滅を認めるキリスト教や、輪廻転生を絶対的事実と
するヒンドゥー教などの方が、科学よりもずっと真実に近いの
かもしれない。」

==== 上記の最後にあるように、
     もしかしたら、古代の人類は宇宙というものを
     現代人が思っているよりずっと高いレベルで理解
     していて、一般人には分かりにくいから
     それを宗教という形で残してくれたのかもしれないな、
     なんてことを思う訳です・・・どうでしょうね?

     と言う意味では、もしかして最先端の宇宙論や
     量子物理学なんかが、将来の宗教になったりして??

==== ちなみに、私が過去にお釈迦さんの「ブッダの言葉
     を読んだ時に いろいろ考えたのは
     こちらに書いています。
     御用とお急ぎでない方は、是非ご覧ください。

たわごと: 科学とは 人間の脳の義手である ??  
言霊とダークマター
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/11/post-a324.html

ブッダのことば」(スッタニパータ)(42) 感想・まとめ   
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

右脳・左脳と ブッダの仏教の「空」は なにか関係があるのか・・・
http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2013/12/post-29b6.html

以上、私の妄想です。

     

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2017年1月 2日 (月)

「心はどこにある?」 ー 馬鹿にできない諺や言い伝え

明けまして おめでとうございます。

今年も どうぞ 宜しくお願い致します。

=====

たまたま、先日 NHKの「サイエンス・ゼロ」をちらりと観たんです。
その時は 「最新科学が解き明かす「心」の謎」 というのをやっていたんです。
http://www.nhk.or.jp/zero/

現代の人だったら、「心とは身体のどこにあるのか?」という質問に
対して、おそらく大多数は 「心は脳にある」と言うのでしょう。

番組の中で紹介されたのは、(正確には覚えていませんが)、下のような
哲学者などの考え方でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%83

心はどこにあるのか

バビロニア ー 肝臓
ヒポクラテス - 脳
プラトン - 脳と脊髄
アリストテレス - 心臓
旧約聖書 - 心臓

これに対して、上記のwikipediaによれば、東洋の学者などは
ちょっと異なる意見だったようです。

古代中国 - 心臓、腹部、胸部
陸象山 - 宇宙は便ち是れ吾が心
天台宗 - 十界論

これだけを見ると、西欧と東洋の考え方には、割と大きな
違いがあるように思えますね。

さて、そこで、
最近流行りの「腸内細菌」関連のニュースで、こんなのが
ありました:

「英国とスペインの学者は、腸内フローラ(腸内細菌)が
「幸せホルモン」セロトニンの分泌を操り、人間の気分
影響をおよぼすことができる。論文は科学誌『PLoS One.』に掲載された。」

https://jp.sputniknews.com/science/201612313202297/

要するに、お腹の中の状態が 人の気分、感情などに大きく
寄与しているっていうんですね。

まあ、これはPRのサイトですけど、腸内細菌と心の関係が
書かれていたんで・・・・
http://enjoy-tuhan.com/category/%E8%85%B8%E5%86%85%E3%81%AE%E5%85%8D%E7%96%AB%E6%A9%9F%E8%83%BD

セロトニンは私たち人間の精神面に大きな影響与え、心身の安定や
心の安らぎなどにも関与することから、『幸福ホルモン』とも
呼ばれています。
セロトニンはノルアドレナリンやドーパミンが過剰に出過ぎる
ことを抑えてくれて、心の均衡・バランスを整えてくれる伝達
物質です。ですので、セロトニンの分泌が減少してしまいますと
心のバランスが崩れてしまい、不安になったり、暴力的になったり、
うつ症状・うつ病・不眠症などの精神疾患を発症すると言われています。」

現代人に 「心は腹にある」なんて言ったら、「おまえはアホか」
と言われそうなんだけど、

昔の人は 「腹にいちもつ、背ににもつ」などと言って、
腹=心 と言ったわけですが、これは真理を言い当てていたよう
ですね。 

「腹に一物
【読み】  はらにいちもつ 
【意味】  腹に一物とは、表面は何事もないようで、心の中では
     何かたくらんでいることのたとえ。  」
http://kotowaza-allguide.com/ha/haraniichimotsu.html

昔からの諺や言い伝えは、馬鹿に出来ません。

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2016年12月15日 (木)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その13(中断)

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。

今日は「第18回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34967

・・・・ ななな~~んと!!

前回読んだときには 第39回まで全部読めたのに・・・・

二回目の今回は、このページから
この続きは、プレミアム会員になるとご覧いただけます。」
・・ってことになっちまっている。

ああ、大ショック!!

ということになりましたので、
残念ながら このシリーズはここで中断と致します。

いや~~、真に残念です。

しかし、私にこの著者みたいにフォトグラフィック・メモリーの
能力があれば、第39回まで全部を記憶して、きっちり最後まで
書けたのになあ・・・

ただ、考えてみるに、
大体ここまでの回が、著者本人の子供のころの体験や、それに
絡んで息子の行動や発言などを書いてある部分なので、
私が目的としている「日本語の論理」と「空気」という面では
ほぼ材料と出来る部分は読んだかなと思います。

つまり、この後の回は、著者が大人になってからの話ですし、
本人が社会での立ち振る舞い方を修得してきた結果としての
行動、発話がほとんどなので、第17回までの話で
私の目的とするところはカバー出来ているかなと思います。

ということで、このシリーズは終わります

お疲れ様でした。

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2016年12月10日 (土)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その11

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。

今日は「第14回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34699

               
「まだ、大学で親しい友達は1人もできていなかった。だから、
早い時間帯であっても、授業が終われば大学にいてもやることがない。
一刻も早く自宅に戻りたかった。」

Numbers研究会  私たちは"数"を愛する人を大歓迎するサークルです
  ○月△日17時、××号教室で入会説明会をします!」

「いくらASD(自閉症スペクトラム障害)特有の「他人とコミュニ
ケーションを取るのが大の苦手」という部分を抱えているとはいえ、
一人でいると淋しいと思うことはあった。家族以外にも、
本音を語れる友達が欲しいと思うときもあった。」

「「彼らは「10個の数字にさまざまな計算を施して結果を10にする」
というゲームをやっていたのだ。一人が問題を出し、残りの者が解く。
それを繰り返していたのである。計算には四則演算だけでなく、
平方根(√)や対数(log)も使っていた。」

「同類がいる、仲間がいる・・・。僕は名状しがたい嬉しさで、
全身がゾクゾクするのを感じていた。」

「1人の学生が、頭を掻きむしりながら天井を仰ぎ、「ああ、この問題、
どうしてもわからん。どうやっても10にならない。俺、バカになった
かも!」と叫んだ。すると、問題を出したらしい学生が「こんなものが
できないなんて、お前、確かにバカだよ」と応じた。」

「ここでは"いい奴"を演じる必要がないんだ」

==== なんか、いいですねえ・・・・
     「お前、バカだよなあ~~」と言える雰囲気、好きです。

「理由を聞くと、ジャグリングの修得で磨かれる感覚と、数学の問題
を解くのに必要な感覚はよく似ており、数字が好きな学生の多くが
大道芸にハマるのだという。」

=== どういう関係があるんでしょうね。
    ジャグリングの軌道計算でも感覚的にやるんですかね?

「メンバーには、数学科や理系学科の学生だけでなく、哲学科や
心理学科、経済学部の学生もいます」

「学生が作ったパズルの中には、今でいう「数独」と非常によく
似たものもあった。数字を使ったパズルも、ジグソーパズルも、
僕は子供の頃から大好きだった。」

=== 私は ゲームみたいなものがさっぱりダメなんです。
    根気がないってのもあるし・・・
    こういう人とは全く逆で、興味がないんですねえ。

「君、新入生かい?? この研究会に入りたいの?? 入るのは自由だけど、
僕たちは何も教えないからね。数学に必要なものは、ただ一つしか
ありません。それは才能です。才能だけ。努力なんかしても無駄だから」

「そして教授は、僕の目をじっと見つめて、「君はどっちかね??
バカ?? それとも天才?」 と尋ねてきた。」

「バカです」

「それでよ~し!」

「教授は満足したような大声を出し、「そうか、やっぱり君はバカ
なのか。きっとそうだろうと予想していたよ。ハハハ」と笑った。」

=== この会話。 凄いですね。
    しかし、いさぎが良くていい感じ。
    日本語的に言えば、そのものズバリの質問と答ですね。

・・・・ ここから 「第15回」に入ります。・・・・・

「人に嫌われることを気にせずに振る舞うことのできる場は、
ただひたすら楽しかった。とにかくメンバーたちは皆、僕と同じく
「数」や「数学」を愛し抜いているのだ。「人生で初めて仲間が
できた!
」と、躍り上がりたいような気分だった。」

「メンバーの学生たちは、何でもズケズケと本当のことを言う
連中ばかりだった。」

「本当のこと、つまり客観的な事実と、自分が実際に思うこと
素直に話していればいいのである。無理に"いい奴"を演じる必要もない。」

=== この部分ですね。
    「空気の研究」やら、「国語学者・大野晋の生涯」での
    キーワードになっている言葉。
        客観的な事実と論理性
    大野晋という人は、こういう人だったんじゃないかと
    感じるんです。
    それで、周り中が敵だった。
    それでも、「日本語、タミル語起源説」を実証する
    研究を続けた。

「あたかも実家の家族と一緒にいるときと同じように、リラックス
して、「自制」ということを忘れて振る舞うことができた。」

=== 高校まで住みにくい、生きにくいと思っている人たちは
    大学に同類がいると思って頑張るしかないですね。
    世の中、世界は広い。
    今の自分が居る場所だけが、世界じゃないってこと。

         日本という狭い範囲に限定する必要もありません。

Tの行動は皆にとって謎だった。なぜ、いつも授業の最後の10分
だけに現れるのか。なぜ、一番後ろの扉から入ってきて、最前列の
席まで、周囲の目を気にせず大きな音を立てて歩いていくのか。」

「俺がいつ授業に来ようが、どの席で授業を聞こうが、お前たち
にはどうでもいいことやろ。何かお前たちに迷惑かけてるか??
なんでそんなことを気にするの?」

「Tは必ず、「美しい!」と感嘆するしかない絶妙な解法で答えを
導き出してくれたからだ。しかも、教え方も抜群にうまかった。」

「こんなに詳しく予定を決めて旅行に行って、何が楽しいのか、
僕には理解できなかったが、実際に分単位のスケジュール
こなしているときのMの顔は喜びに満ちていた。途中、△△公園
という場所が思ったより小さく、30分くらいで一周してしまったので、
僕は「もう次に行こうぜ」と提案した。
 するとMは顔を真っ赤にして、「何を言ってるんだ。あと25分は
ここを散策するって俺がスケジュールを立てたじゃないか!」と怒り出した。」

「ダイヤの乱れなどが原因で、予定通りに「すれ違う」ことができないと、
「ああ、この旅行は台なしだぁ~」と叫びたくなるほど深い絶望感に
襲われるという。」

「後に松本清張の『点と線』を読んだとき、真っ先に思い出した
のがMのことだった。」

=== 上には上があるってことですね。
    さすがのアスペさんも このアスペさんには驚いている。

 

自分を客観視できないところ、周囲の空気が読めていないところが、
まさに僕も持つASD(自閉症スペクトラム障害)の特徴と重なる。
わかりやすく言うと、Yは完全に「勘違い」しており、しかもその
勘違いに自分で気づいていなかった。」

=== ここは、ちょっと興味深いところですね。
    「自分を客観視できない
    自分以外のことになると、客観的に事実をずばりと
    いいのけてしまい、周りを固まらせる人たちなのに。

    自分を客観視するということ自体が、他人の
    意見を集約したものだからでしょうか?

    そうすると、客観視というのは、事実ではない
    ということも言えるのかな?

    自分というのは何なのかというのは
    自分が決めるものなのか、他人が決めるものなのか
    って話ですもんねえ。 難しいなあ・・・

「そんなある日、Hは喫茶店でTとMとYと僕と5人でコーヒーを飲んで
いるとき、急に「俺は女好きだけど、愛というものがまったく
わからないんだ」と告白し始めたことがある。」

「一緒にいて楽しいという気持ちはある。可愛いなと思う気持ちもある。
もちろん性欲もある。でも、相手に愛情を感じるという心の動き自体
がわからないんだ。どうしたらいいんだろう?」

「「愛って何なんだ」とつぶやいて頭を抱えた。」

=== う~~ん。
    確かに、これは 「う~~ん」と唸るしかないですね。

    ここまで書いた後にベッドで寝たんですが、
    「愛情を感じるという心の動き」というのを
    考えこんでしまいました。

    このH君のいう「愛情」が恋のことか、愛のことかは
    明確ではありませんが、もしこの恋と愛を別物として
    考えるならば
、どんな定義が考えられるでしょう。

    H君は、ここで、「楽しい」「可愛い」「性欲」という
    言葉を使っています。
    これは、本人が自らの身体を通じて感じ取ることが
    出来る感情と言えると思います。
    それが 「恋」であると定義しましょう。
    そうすると、これは具体的であり本人にとっての
    事実であることは間違いないでしょう。

    一方、「愛」はどうでしょうか。
    これは考えれば考えるほど、人様々で表現するのは
    難しいでしょうね。
    本人自らの身体を通じて直接的に感じられる
    と言うよりも、かなり抽象的で観念的なものの
    ようにも思えます。
    また、同時に、毎日の生活に根差していて、
    じわりと湧き出してくるもののようでもあります。

    それに、敢えて付け加えれば、家族に対する慈しみ
    責任感、ある種の覚悟、観念的でありながら、
    日常の生活という具体的な地面から発するような
    ものにも思えます。
    しかし、これは、事実と言うには、抽象的過ぎて
    アスペルガー的な人には実感を持てないもの
    なのかもしれません。

    そして、これは、ちょっと飛躍するんですが、
    「家族(夫、妻)とは空気のようなもの」という表現が
    ありますが、ある意味 「空気の研究」に出てくる
    日本社会に醸成される「空気」にも似たような部分が
    あるのではないかという気がします。
    「いわずもがな」の関係とでも言うのでしょうか。

「彼らは、僕がどれだけ「空気を読まない発言」をしても、
決して否定的な視線でこちらを見なかった。それどころか、
僕の気持ちを十分に理解してくれた。
逆に彼らの言うことも、僕は素直に理解できた。」

母以外に、こんなにストレートに気持ちが通じ合った
相手に出会ったのは初めてだった。」

「僕たち5人の付き合いには、もう一つ特徴があった。誰も、
絶対に不満や愚痴、そして他人の悪口を言い合わなかった
いうことだ。全員、その種の話にまったく興味がなく、
下らないと思っていたのである。」

「もし、彼らに会えていなかったら、僕の人生はどうなって
いただろう。 もし、大学1年の夏休み前のあの日、Numbers
研究会の勧誘のポスターを目にしなかったら・・・
そう考えるたびに、僕はゾッとしつつも、同じ悩みを抱え、
生涯助け合っていける友人たちを得た幸運を、改めて噛み
しめているのだ。」

=== これは、素直に読めば、友人関係としては
    理想形なんじゃないでしょうか。

    裏の無い正直な発言を否定しない。
    変な顔もしない。 そのまま受け取る。

=== 人間関係の煩わしさというのは、世界中どこにでも
    あることなのでしょうが、
    フィリピンに住んでいる者としては時々考える
    ことがあります。

    私は、日本語教師という立場もありますが、
    バギオの地元の言語が全く分かりません。
    と言うより、学ぼうとする気持ちがありません。
    
    建前から言えば、
    直接法で日本語を教える教師としては、
    地元の言語が分かるのは邪魔になる。
    (英語でも同じなのですが、日本語を媒介語で
     説明し出すと、きりが無くなり、生徒自身が日本語を
     話す時間を奪ってしまうからです。)
    
    もうひとつは、地元の人たちの世間話や
    ゴシップ、悪口などを耳に入れたくない
    ・・・と言うことなんです。

    英語の場合は、一般的に、日本語と違って、
    論理的であり、ストレートに思っていることを
    表現できると聞きます。
    言語によって、一人の人の人格が変化するとも
    言います。

    ヨーロッパ言語の場合は、そもそも個人主義に
    根ざした言語であることから、日本のようには
    周りを気にしないということもあるようです。
    日本語の敬語は、立場によって言い方を変える
    というのが典型的な例でしょう。

    つまり、もしかしたら、英語の方が日本語よりも
    アスペな人たちによっては、住みやすいのかも
    しれません。
    もっともこれは、ネイティブ・スピーカーに
    とってはあまり機能しないかもしれません。
    英語の微妙な言い回しまでは理解できない
    あまり英語に堪能ではない日本人だけかも
    しれませんが・・・・

・・・・・・・

それでは 次回 その12 に続きます。

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2016年12月 9日 (金)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その10

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における
日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いつつ、どっちかと言えば、自分の性格の分析や
他人を理解するための勉強みたいになっていますけど。
済みませんね。

今日は「第13回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34637

「あれこれ考えた末、自分が持つ唯一の武器である、あの「フォトグラフ
ィックメモリー
」を駆使する勉強法を編み出した。そして、それを武器に、
受験勉強に邁進しようと考えたのである。」

「後に同級生にその話をすると、「他の人間にはまったく参考にならないよ」
と酷評された。」

=== 大昔の雑誌にこれに類する「記憶術」が掲載されていました
    けど、即座に「これは自分には無理」と思いました。

    と言うのは、私は昔から、人の顔の画像認識能力が
    足りないんじゃないかと思うぐらい、人の顔の識別が
    苦手だし、記憶できないんです。
    よく、銀座の女将みたいな人たちの中には、お客さん
    一人一人の名刺と顔をばっちり記憶している人というのが
    いると言いますね。
    とても、そんな芸当は私には無理なんです。

    私は、なにかのエピソードがないと、その人を記憶できない
    という感じなんです。 だから、そういう意味では
    ある一定の文脈の中でしか、人物を記憶できないって
    ことになるのでしょうか。

    その意味では、歴史の授業が苦手だった私は、
    あの「ビリギャル」の映画の中に出てくるような
    「歴史はマンガで覚える」というやり方が合っていた
    のかもしれません。

「文章の聞き取りでも同じだった。「英語の文章を読むときは、記憶して
いる例文と照らしてすぐに意味が把握できるのに、なぜ、聞くと何も
わからないのだろう」と、我ながら不思議だった。」

「僕の絶対的な記憶力も、その多くは視覚に頼るものだ。逆に、聴覚で
情報を得てそれを記憶したり、視覚経由の情報に関連させたりする能力は、
医師によると、平均よりかなり劣っているという。」

「耳から入ってきた音声は、僕の中で何も形を結ばないのだ。」

=== この辺りは、脳科学で是非とも解明してもらいたいですねえ。
    フォトグラフィィックメモリーで記憶領域を使い過ぎて
    その他の脳機能の分野が影響を受けているんじゃないかという
    気がしますけど・・・

「ASDを抱える僕は、他人の気持ちを理解するのが苦手(正確に言えば、
ほとんど不可能)である。だから、現代文の試験で「このときの主人公
の気持ちを○○字以内で述べよ」といった問題が出されると、お手上げ
になってしまう。」

目の前にいる人の気持ちさえわからない僕のような人間に、
物語の登場人物の気持ちがわかるはずもない。」

=== ここは国語の受験対策の部分なんですが、
    ここが一番ASDの人にとっても、そうでない人に
    とっても重要な部分かなと思います。

    「目の前にいる人の気持ちさえわからない」というのは
    理論的に言えばまったくの正論だと思うからです。
    他人の心の中を見とおせる超能力を持っているなら
    ともかく、そんな能力は普通の人間にはないですもんね。

    まあ、普通の人は、人間関係の一般的なルールみたいな
    ものに順応して、その範囲で「他人を理解した」気に
    なっている
ってことなんでしょう。
    そう思いこまないとやってられませんしね。
    だから、何かあると「あいつに裏切られた」なんてことも
    出てくるんでしょう。

「今考えると、とんでもない行動に出た。すべての問題について、
「これは正解ではないだろう」と考えた選択肢のマークシートを
塗りつぶしていったのだ。
すると1ヵ月後、意外な結果が出た。何と、満点だったのだ。」

==== まあ、これは笑っていいのか、悲しんでいいのか
     分かりませんが、それだけASDの人は
     真逆に感じてしまうということなんですね。

     これは、日本語の面から言えば、かなり由々しきこと
     じゃないかと思うんです。

     つまり、アスペルガー的な人が「事実に基づいて
     論理的に」語り、理解するという前提が正しいと
     するならば、日本語はかなりいい加減な非論理
     な言語だってことになるからです。

     まあ、非論理的とは言わないまでも、かなりの
     部分が省略された「舌足らず」な言語という
     話になるかもしれません。

     ・・だだし、ヨーロッパ言語の人たちの中にも
     「コミュニケーションに問題がある」人たちは
     いるのでしょうから、論理的だとされる言語の
     国々の人たちが どんな形で言語上の問題を
     抱えているのか、それとの比較が必要なんでしょうね。
     誰か研究してくれませんかねえ・・・・

「国語とは反対に、一つだけ、子供の頃から高校時代までずっと
好きだった科目があった。数学である
数学が好きだった理由は簡単だ。数学ならば、教科書を見ても、
参考書を見ても、そしてテストの問題を見ても、いたるところに
「数字」が溢れていたからである。」

「たとえば、今でも覚えているのが、僕たち家族の車の前に、
ナンバープレートの上下に数字が「330 7264」と並ぶ車が走って
いたときのことだ。僕はゼロを使用せず、次のように計算して、
答えを10にすることができた。
〔{3×3+(6÷2)}÷4〕+7=10 」

「困ったのが、学生時代に運転免許を取り、自分で運転するよう
になった後だった。ハンドルを握りながら、どうしても前を走る
車のナンバープレートばかりを見てしまう。しかし、あまりにも
危険なので、「運転中は絶対に他の車のナンバープレートは見ない」
と固く決意し、今も守っている。」

「数学の問題に取り組んで、正解を得る瞬間が僕は大好きだった。
一つの問題を何時間も考えてたどり着いた、たった一つの正しい答え。
国語の問題のような曖昧な答えなど、数学では絶対にあり得ない。」

=== 私は、2002年ごろから日本語を教えているんですが、
    生徒の傾向をいろいろと分析してみると
    どちらかと言えば数学やITなどの理系の学部を卒業した
    人たちの方が、日本語の修得の速度が速いという結果
    でした。

    少なくとも、外国人の初級クラスなどでは、
    日本語の構造を文法的にはっきりと教えている限りは
    論理的思考に強い生徒の方が 早く目標のレベルに
    到達できるようです。

    一方で、会話だけをやる練習の時には、とても元気の
    ある生徒が、ひらがなや漢字などを含む筆記試験では
    さっぱりダメだということもあります。
    この生徒はひらがなをきちんと画像認識できていない
    のではないか、というぐらい、芸術的文字を書いたり
    します。

「数学についても、僕には一つ問題があった。
「数字」を分解したり、「数式」の性質を考えたりすることは好き
だったが、「図形」の問題、いわゆる幾何にはさっぱり興味が持て
なかったのだ。まぁ、図形の問題には数字があまり多く出てこない
のだから仕方がない。
よく「数学が好き」と言うと、数学のどの分野もおしなべて
できるように思われがちだが、そうとは限らない。僕のような
例外もいるのだ。」

===  これは、私の場合は正反対でした。
     物理や幾何は大好きで、成績もよかったんですが、
     代数になってからはさっぱりダメになりました。
     脳味噌には、図形的な思考と数字的な思考の
     別の領域がありそうですね。

「暗記には自信があった僕の脳も、酷使が過ぎ、さすがにパンク
しそうになった。あるとき、1日に覚えられる記憶容量を超えて
しまったのか、突然、熱が出て、何を読んでも頭に入らなくなった
母は笑いながら「本当に機械みたいな脳だね」と言って手当をして
くれた。翌日、熱が下がると、また以前のように、いろいろなこと
を記憶できるようになった。」

=== これは面白いですね。
    私のパソコンも、熱を持ちすぎて、ぷっつんと画面が
    真っ黒になって切れてしまいました。
    仕方なく、今はパソコンの下に扇風機みたいな
    パソコン・クーラーを置いています。

    人間の脳も、その内、パソコンの仕様書みたいに、
    この人のCPUの速度はこれくらいとか、
    メモリーの容量はこれくらいとか、判定する計測器が
    出てくるんじゃないですかねえ。
    それが、就職試験の時の、履歴書の必須添付資料に
    なったりして・・・ああ、怖い。

    まあ、私なんかは、今でも、外部記憶装置が欲しいくらい
    ですけどね。

古文や漢文はもっとひどかった。両方とも中学生の頃からまったく
興味がなく、ろくに勉強したこともない。そのため、基礎的な知識が
身についておらず、高校時代も「今さらやっても遅すぎる」と考えて、
手もつけていなかった。誇張ではなく、古文も漢文も0点に近いレベル。
もう、どうしていいかわからなかった。」

「奥村、お前はいつも『古文が全然できねえ』って言ってるけど、
暗記力がすごいんだから、それを使ってみたらどうだ??お前の志望校って、
入試によく『源氏物語』を出すだろ。だから源氏物語に絞って、
原文と現代語訳を覚えたらどうかと思ってさ。お前ならできるんじゃないか」

「そして、ようやく入試当日の1週間前、400ページの分厚い参考書に
左右対訳形式で記された原文と訳文を、すべて覚えることに成功した
のである。原文を見ただけで、瞬時に訳文がすらすら書けるレベルに
までなっていた。」

===  古文と漢文・・・・
     ひらがなと漢字。
     この人は、源氏物語を丸ごと暗記して成功したわけ
     ですけど、このふたつの違いって何なのでしょうね。

     私は古文は全く苦手だったんですけど、
     漢文は大好きだったんです。

     おなじ日本語の筈なのに、なんでそんなに苦手、
     得意という結果になるのか・・

     
=== そこで、思い出したのが、この本です。
    この本は、私が2001年ごろに、日本語教師養成学校
    で教授法を学んでいたころに読んだ一冊です。

    「二重言語国家・日本」(石川九楊著)
    https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%8C%E9%87%8D%E8%A8%80%E8%AA%9E%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%83%BB%E6%97%A5%E6%9C%AC-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%9F%B3%E5%B7%9D-%E4%B9%9D%E6%A5%8A/dp/4140018593
     
    「日本語は、語彙的に中国の漢語と孤島の和語に分裂し、
     構造的には漢語の詞を和語のテニヲハが支える二重言語
     ある。また、音楽を発達させた西洋の声中心言語に対し、
     日本語は、漢字という表意「文字を聞く」書字=文字中心
     言語。この文字中心言語から盆栽など線の文化が、
     二重言語からは、日本人のもたれ合いの精神構造などが
     再生産されてくる」

     私の頭の中はどうも、「漢字という表意」を中心とした
     意味の理解が中心になっていそうです。
     ひらがなばかり、あるいはカタカナだけで書かれている
     日本語にはイライラしてしまうんですねえ。

     古文というのは、輸入された漢字の音を
     適当に大和言葉の音に当てはめて読ませていただけなの
     でしょうから、漢字には意味はなかったわけですね。
     https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%92%8C%E8%A8%80%E8%91%89

     
=== ここに、受験対策のサイトですが、古文と漢文の
    興味深い攻略法が書かれています。
    http://takeda-shinjuku.com/%E6%9C%AA%E5%88%86%E9%A1%9E/%E5%8F%A4%E6%96%87%E3%81%AE%E5%8B%89%E5%BC%B7%E6%B3%95%E3%80%90%E5%81%8F%E5%B7%AE%E5%80%A4%E3%82%9210%E4%B8%8A%E3%81%92%E3%82%8B%E3%80%91/

    「漢文と古文の勉強方法の違い
     漢文は古文と似たイメージがあるかもしれませんが
     勉強すべきポイントを考えると、古文の方が学ぶべき
     ことが多くあります。

     例えば、漢文では単語帳を使うことがほとんどありませんね。
     句形のような文法上のルールの方が漢文の読解では重要に
     なるからです。

     古文では単語を知らないと何について述べているのかも
     理解できません。

     さらには、現代の日本語と似たような言葉もあるので
     知っているつもりで間違った意味で捉えてしまうこともあります。

     長文が多いことも古文では悩みの種となるでしょう。」

     ・・・つまり、日本の文学である古文の方が単語自体の
     意味をとることも難しく、長文が多くて読解が難しい
     ってことのようです。

     逆に言えば、漢文は、文法を理解していれば、
     論理的に理解し易いってことでしょうか。

「ところが大学生活が始まってみると、そんな不安は瞬く間に吹っ
飛んでしまった。なぜなら大学には、僕と同じ、「他人の気持ちが
わからない人間」や「空気を読めない人間」が何人もいたからだ。
今思うと、彼らがASDなどの発達障害を抱えていたのはおそらく
間違いないと思う。言動を振り返ると、そうとしか考えられないのだ。」

=== さて、ASDなどを抱えている人にとっては、
    大学という場所は ある意味のパラダイスになっている
    そうなんです。

・・・・・

では、続きは その11で。

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2016年12月 8日 (木)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その9

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

今日は「第12回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34553

「息子は、小学校に入学して以来、同じことをずっと繰り返してきた。
夏休みでも、春休みでも、あるいはゴールデンウィークでも、長い休暇
の後は、必ず身体が不調だと言い出すのだ。登校前になると、頭が痛く
なったり、気分が悪くなったり・・・。
 こう聞くと、「どうせ仮病だろう」と思う人もいるかもしれないが、
そうではない。」

「学校という場は居心地のいい場所であるはずがない。右を見ても左を
見ても、人間関係を築くことの難しい他人ばかり。その中で毎日、
数時間も一人で過ごすというのは、息子にとって、ものすごく大きな
ストレスになる。」

「その冬休みの間、僕は「本当の自分」でいることができた。」

「その年末年始も同じだった。僕は、親戚の人たちとの会話の中で、
同級生なら決して看過してくれそうにない無神経なことや、座を凍ら
せるようなことを、何度も言っていたと思う。」

「上品な和菓子をお土産に持ってきた叔母に向かって、
「僕、和菓子って嫌いなんだよね。おいしいと思ったことがないんだよ。
ケーキの方が好きなんだけど」」

「俺も中学のとき、隣の席に座っていた奴がまったく年号を暗記
できなくてさ、みんなに『バカ』と呼ばれて笑われてたよ。俺も
そいつのことをバカだと思ってた

===  こりゃあ正に本当のことをズバリと言い過ぎですね。
     確かに言われた方は、内心穏やかじゃないでしょう。
     これにさらりと綺麗に切り返す話術は なかなか
     高度なテクニックが必要だと思います。
    
     しかし、一面では、それで自分がどう思われるか
     予想が出来ないというのが、いいような、悪いような。
     もしかして、「こだわり」の匠のような人の中には
     弟子を厳しく育てる場合にこういうことになるのかも
     しれないですね。
     そして、それを良い方に受け止めることができる
     弟子は伸びる、というような。

「ちなみに僕にとって、時間に遅れるというのは、身体を切り刻ま
れるのと同じくらい苦しいことだった。だから、絶対に遅刻だけ
はするつもりはなかった。「いい人を演じる」のもストレスが
かかるが、遅刻の方がずっとつらい。遅刻するくらいなら、
いい人を演じた方がましなのだ。」

「休み明けに体調が悪化する→再び学校生活に慣れて体調が回復し、
いい人の演技を続ける」

「だから、息子が今、布団の中からグズグズと窮状を訴えても、
僕は心を鬼にして何も反応しない。放っておくだけだ。下手に
相手をすると、さらに息子はおかしくなる。それを僕は経験で
知っているのだ。」

「かつて医師から強く忠告されたことがある。「息子さんがASDでも、
決して嫌なことから逃げることを覚えさせてはいけません」と。」

「 特に、「嫌なこと=対人関係」である場合は、絶対に逃げ
させてはいけないそうだ。」

=== 大昔のことを思い出しました。

    何かの飲み会の時だったと思うんですが、職場の若い
    女性から相談を受けたんです。
    「この社内の人間関係に疲れちゃって、自分に合って
     いないんじゃないかと思うんです。会社を辞めた方が
     いいかもしれないと・・・」

    この時、私が答えたのは、
    「社会とか職場とかいうのは、結局社交場なんだから、
     その社交場で自分をどう演じるかを考えたら
     いいんじゃないの? どこの会社に行っても
     同じだと思うけどなあ・・・・」

    それから私が転職した後の事だったと思うんですが、
    前の会社の同窓会で、その女性から「あの時、職場は社交場だ
    って言ってもらって助かりました」 と聞きました。

    まあ、今流行りの「ブラック企業」だったら
    「さっさと辞めな」って言いますけどね。

=== もうひとつ、似たようなことが家庭内でありました。
    娘が小学生の時だったと思うんですが、
    「エレクトーンに行くのは嫌だ」と言い出したんです。

    何故嫌なのかと尋ねたところ、
    「先生が嫌い」という答だったんです。
    そこで私は こう言ったんです。
    「そうか、分かった。それじゃあ、明日からは
     エレクトーンの練習には行かなくて良い。
     その代わりに、嫌な人と付き合う為にはどうしたら
     良いかを練習しに行きなさい。
     その為に月謝を払ってあげるから・・・。
     大人になったら、嫌な人たちがたくさんいるからね。」

    小学生の娘が、それをどう理解したかは知りませんが、
    最後までエレクトーンを辞めることはありませんでした。

  
「この話の中で、医師が「注意すべき点」として指摘したのが、
子供が「師範の厳しい指導」を「自分を嫌いだから」という理由に
勝手に結びつけ、完全にそう思い込んでいる点である。ASDを抱える
子供には「期待しているからこそ厳しい指導をする」といった、
普通の人なら言わずもがなの理屈が通じないことが多いそうだ。」

=== ここが 私にはちょっと理解しがたいところなんです。
    「他人の気持ちが分からない」とされているアスペな
    人たちが、なぜ「自分を嫌いだから」と思うのか、です。
    「厳しい」=「嫌い」という直接的な結びつきが発想
    されると言うことなんでしょうか。

 
「算数でも、僕には得意なところと得意じゃないところがあるじゃ
ないか。一冊全部というと、得意なところもまたやれってことでしょ。
そんなの時間の無駄だよ。どうしてそんなことをさせようとするの? 
お母さんは僕が嫌いだからそんなことを言うんだ」

=== これなんかも、確かに正論ですね、そのまま意味をとれば。
    自分にとって苦痛である指示は「嫌い」ということと
    結びつくということになりますか。
    まあ、論理的と言えば論理的ですかね。

「君には空手の才能がある。先生はそれに気がついていて、君に非常
に期待しているんだ。もっと指導をすれば、君はさらにうまくなると
信じているし、実際、うまくなる。少年大会で優勝する可能性もある。
だから先生は、君の実力をさらに伸ばしたくて仕方がない。

 そう考えているときに、君が練習で手を抜いたように見えたから、
先生はきちんと注意したんだよ。もし、君に才能がないのなら、
仮に適当に手を抜いて練習していても、決して注意なんかしない。
つまり先生は、君を『嫌い』どころか『大好き』なんだ。それで厳
しくんだよ。だから、これからも道場に通って練習しよう」

=== う~~ん、なるほど。
    これが真実を論理的に述べる、ということですかねえ。
    実に、面倒くさい長々しい話し方ですね。
    ごく普通の生徒だったら、どんな言葉で納得するでしょうね。

    一般的には、こんな感じで理解されますかね?

    「君には空手の才能がある。
     才能がないのなら、注意なんかしない。」

    普通に日本語ですけど、じっくり眺めると
    確かに「行間を読め」的な文章ではありますね。

「本当に深刻な問題がある場合は、もちろん、そこから逃がして
あげる必要がある(たとえば、ひどいいじめに遭っているとか、
本当に先生に嫌われて毎日罵倒されている場合など)。ASDを
抱える子供を持つ親には、その違いを見極めることが、常に
求められている。」

=== これは、アスペな子供に限らずに親としては
    注意をしなくちゃいけないところでしょうね。

・・・・・

次回は その10 になります。

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アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その8

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における日本語と、
アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

今日は「第11回」から読みます・・・
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34490

「息子と同年代くらいの可愛い男の子がハッとしたように視線を上げ、
こちらを見た。そして、息子に声をかけてきた。」

「よう、奥村!」

「顔は完全に無表情。男の子に返事もしない。その後も、男の子は何度か
、「奥村、どこに行くの?」などと声をかけてきたが、息子は一言も発し
なかった。しまいには、プイッと横を向いてしまったのである。」

「息子のただならぬ様子を見て、僕はふと「これはASD(自閉症スペクト
ラム障害)に関わる症状に違いない」と気づいたのである。」

「だって僕、水泳クラブで、『奥村』って言われたことがないんだもん。
友達はみんな、いつも僕を『オク』って呼んでるんだよ

「「そういうこと。僕は水泳クラブで『オク』って呼ばれているんだから、
クラブの人から『奥村』って呼ばれても困るよ。返事なんかしたくない。
あのクラブでは、僕は絶対に『オク』なんだ」と答えるのだった。」

=== これは想像も出来ない驚くべきことなんですけど、
    ある一定の本人が決めた「文脈」の中でしか、対応が
    出来ないってことなんでしょうか。

    私は、この連載を、日本語の視点から読もうとしている
    ので、「文脈」なんて話をしているんですが、
    日本語は「文脈の言語」だっていう説もあるんです。
    地球にへばり付いて、話者間での一定の相互理解の
    前提の上に、「連歌」みたいに言葉の投げ合いをする
    という感じでしょうか。

    そういう観点からみれば、普通の日本人同士の会話よりも
    かなり限定された場面の中でのコミュニケーションしか
    出来ないと言うことになるかもしれません。
    いわば「究極の日本語」ってなことになるのかも?

=== ほとんど関係は無いんですが、ふっと思い出したことが
    あります。

    大分県に単身赴任していた昔に、アパートの近所の
    坂道をうろうろと散歩していた時のこと。
    坂道を息を切らしながら登っていると、向こうから
    お爺さんが坂道を下って来たんです。
    
    お爺さんが、「こんにちは!」って挨拶をしてきたんです。
    それに応えようと声を出そうとしたら、喉がカラカラに
    なっていて、声が出なかったんです。

    お爺さんは、「何故挨拶をしないんだ!」って怒りだした
    んです。
    事情を説明して謝ったら解ってもらえましたけど・・・

    ハイキングなどの山道ですれ違う際には、
    挨拶を交わすのは常識みたいなもんですが、
    中途半端な住宅街だと「場面」を推し量るのが難しいですね。

  
「僕は子供の頃から、他人の気持ちを忖度(そんたく)したり、
場の空気を読んだりすることができず、周囲との軋轢(あつれき)
が絶えなかった。特に小学校時代にそれが顕著だった。」

 
「僕は小学校時代、先生からかなりひどい扱いを受けていたにも
かかわらず、「自分が嫌われている」と認識したことが一度もなかった。
だからこそ、高校1年のときに偶然聞いたSとYの発言は、大きな
ショックだった。僕はこのとき初めて、「自分は周囲から嫌われている
ということを知ったのである。 」

「そこで僕は、ある決心をした。同級生、特に人気者になっていた
クラスメートの行動を観察して、「どういう言動が他人を不愉快に
させず、喜ばせるのか」を学習しようと考えたのである。」

「観察し、学ぶべき対象として、野球部に所属するOに白羽の矢を立てた。
Oの周りにはいつも友達が大勢いて、楽しそうにゲラゲラと談笑して
いた。かと言って、軽すぎる雰囲気も、不良っぽい雰囲気もなかった。」

「Oが発する言葉と、その言葉に同級生がどんな反応をしているのかが
知りたくてたまらなかった。バカバカしいと思われるかもしれないが、
僕は必死だった。」

「そのルールとは「他人とのコミュニケーションにおいては、決して
本当のことを言ってはいけない場合がある」というものである。」

「本当の思いを口に出すと、他人を嫌な気持ちにさせることがある。
そういうときは、本当のことは言わない方がいい」

「他人が自分のためにしてくれたことには、どんなに不満があっても、
ありがとう」と感謝の言葉だけを言っておけばいい。他人の
言動に対しては、そもそも評価などしなければいい。」

「でも、結局のところ、僕はOの言動を真似していただけで、
本質的に他人の感情を理解できるようになった訳ではない。
本当の自分を隠し、嫌われないようにひっそりと過ごす
テクニックを覚えたに過ぎない。」

母は、僕のASD的な行動には極めて寛容だった。いつだって、
うんうんと頷きながら、僕の話を辛抱強く聞いてくれた。
あのとき、母にまで自分の言動を否定されていたら、僕は完全に
内にこもってしまったに違いない。」

=== 自らを演じるということで言うならば、
    特に社会人になる時には、多かれ少なかれ誰しも
    ある一定のルールを学びながら大人になり、社会人に
    なって行くのでしょうが、この人の場合は実に
    意識的にやらなくてはいけないという大きな困難さが
    あったんですね。

    しかし、そういう苦労を辛抱しながら、陰になって
    支えていた母親の苦労は、もしかしたら、本人
    以上だったのかもしれません。

    それにしても、様々な人たちの話を虚心坦懐に聞く
    ことの難しさを感じます。
    相手が本当のことを言っても、怒らないで、
    じっくり聞くだけの耳を持ちたいものです。

・・・・・

では、次回は その9 です。

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2016年11月30日 (水)

アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その7

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における日本語と、
アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いながら、結局 自分の人間分析になっちゃってます。
すんません。

今日は「第9回」の途中から読みます・・・

まず、こちらの問題をご覧になって、答えてください:
(朱記されている部分です)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/34414?page=4

「ここで質問です。この場を気まずくさせたのは誰だと思いますか? 」

「ただ、しばらく考えて、きっと答えは「おじさん」なのだろうな
と思った。それは、僕がこれまでの人生で、必死で「学習」を
重ねてきたから推測できたことだ。」

「仮にその行為に欠けているところや、部分的な問題があっても、
一切指摘してはならず、全面的に感謝と誉め言葉を述べなければ
ならない。そうしないと、場の雰囲気が悪くなり、人々の怒りを買う---。」

「考えてみると、僕も十代の頃までは、料理を作ってくれた人に
「まずい」とか「これ、嫌い」などと平気で言う人間だった。
それを周囲の人たちに注意され、叱られるうちに、「どうやら、
何かをしてもらっているときは、少しでもそれについてネガティブ
なことを言ってはいけないらしい」ということを推測し、理解し、
後天的に身につけたのである。」

=== こういう正直な発言をする人はたまに居ますね。
    それでその場の雰囲気がぶち壊しになることは確かに
    あります。

    
「少なくとも、作り始める前に、「チーズケーキは好き?」という
質問くらいしておけばいいではないか。簡単なことだ。それを
怠った方が悪い。」

=== これは もっともな話だと思います。
    確かに押し売りになってしまう。
    恐らく、こういう事が何度かあって、その女の子Aちゃん
    は、「おもてなし」の意味を理解していくのでしょう。

=== ここで、私が疑問に思ったことは、
    何故 著者が この問題文を読んだ時に意味が分からなかった
    のかという点です。
    どういう文章であれば、気まずさというのが理解できる
    文章になるのか・・・です。

    上記の「押し売り」の論理が前提にあるので、
    理解できないということだとは思うんですが、
    それじゃあ、その前提があっても、論理的に「気まずさ」
    を伝える文章が作れるものだろうか、という疑問です。

    例えば、A子ちゃんが、こんな風に言ったとしたら
    どうなんでしょう:

    「私、おじさんのためにチーズケーキを作っているのよ。
     これは私が一所懸命作っているチーズケーキなんだから、
     叔父さんが不味いなんて言ったら、私は気まずくなって
     泣いちゃうからね。 絶対美味しいと言って食べてよ。」

    ・・・どんなもんでしょうね?

    なんで、こんな文章を考えたかっていうと、
    日本語ってのは、「地上の会話」であって、ボールの
    投げ合いで、「点と点を繋いで文脈をつくる」言語だ
    というような学者の説があるんです。
    (英語は 空から俯瞰的に地上を見る「神の視点」で
     文を作ると言われています。)

    だから、早い話が、「舌足らず」な言語ってことですね。
    なので、上記のように、自分の気持ちを「点」で表す
    「おじさんのために・・作っているのよ」という
    舌足らずな表現ではなく、「線」として、一連の気持ち
    の流れを論理的?な繋がりとして表現したらどうなる
    んだろう・・・ってことです。
    どこまでしつこく説明したら アスペな人がその意図を
    理解できるレベルになるんだろうか・・・・ですね。

ここから 「第10回」に入ります。

「給食の時間、担任の先生が僕たち児童に向かって
給食は最後まで食べなさい」と言ったことがあった。」

「僕はこの言葉を、「教室で給食を食べている最後の一人になるまで
食べ続けなさい」という意味だと受け取った。」

「ところが数ヵ月後、ひょんなことで、先生の「給食は最後まで
食べなさい」という言葉の意味が、「給食は残さず全部食べなさい」
であることがわかった。」

=== ここで、「ひょんなことで」としか書いてないので、
    どうやって本来の意味が分かったのかがわかりません。

    A「最後まで食べなさい」
    B「最後になるまで食べなさい」
    C「残さず全部食べなさい。」

    ・・・こうやって並べてみると、Aの文は
    確かにCよりもBに近いですね。

「先生が黒板に式か何かを書き、それを指差して、「ここに注意しなさい
と強調したことがある。僕は、「ここ」というのを「先生の指先」だと思い込んだ。」

「チョークを持ったり、窓を開けたり、尻を掻いたり、鼻をほじったり
する先生の指から、僕はずっと視線をそらさなかった。」

「先生が「どうした?」と聞いてきた。僕は瞬間的に「何か勘違いを
したらしい」と気づいて、・・・」

「普通の人なら自然に理解できる「言わずもがなのこと」について、
まったく違う意味だと思い込んだり、記憶が完全に抜け落ちて
しまったりすることが多いらしい。でも、本人は勘違いしている
つもりは皆無なので、周囲が気づいて指摘してくれない限り、
延々と「おかしな行動」を取り続けることになる。」

=== これは日本語教師的には、面白いところです。
    日本語の入門講座では、「ここ、そこ、あそこ、どこ
    というのを教えるからです。
    私は媒介語を使わない日本語だけの直接法で教えるので、
    場面設定をして、感覚的に「ここ」が分かるように
    教えないといけません。
    もしかしたら、初めて日本語を学ぶクラスで勉強したら
    アスペな人は 外国人と同じ感覚で日本語を学べる
    のかもしれません。

    なぜかと言えば、初級ほどフル・センテンスで
    いわばシツコイ日本語で意味が取れるように教え、
    中級に上がって行くほど、徐々にしつこい説明の
    部分を削除しながら 日本語の会話の形に
    近づけていくやり方をしているからです。

「これら一連の行動は、僕が教室で一部の同級生から「嫌われ者」に
なる理由として十分だった。しかし、困ったことに、このときの
僕の言動の背後には悪意も嫌みもなく、ただ、「相手がうまく
行っていない理由を聞いて、うまく行く手伝いをしてあげたい」
という好意しか存在しない。」

=== こういうのを「押しつけがましい」って言うんでしょうか?
    好意が悪意に受け取られることは、良くある話
    だと思います。要するにその人のなんらかの期待値
    がどこにあるのかが、人それぞれに異なることが
    原因になっているのでしょうか。
    期待するからこそ厳しく指導するって話もあるし。

「小学校時代の僕のように、学校で他の生徒に理解できない言動
を取り続けたせいで いじめに遭い、不登校になってしまった
発達障害の子供たちがいるそうだ。気の毒でたまらない。」

「僕が深刻ないじめなどに遭わなかったのは、やや鈍感で図々
しかったのと、母親が僕の、発達障害に特徴的な言動を否定
しなかったおかげだと思う。その意味で、発達障害の子供の
成長には、周囲の理解が極めて重要だろう」

=== こういうのは現場をしらない私としては
    何も言えません。

「そして翌朝、とんでもない行動に打って出た。登校すると、
女子児童を一人一人つかまえて、「どうして俺にチョコレート
をくれないの?」と聞いて回ったのである。」

「彼女たちの表情には、明らかに蔑みと哀れみと嫌悪があった。
その光景は、今もくっきりと脳裏に刻み込まれている。
一人一人の表情を克明に覚えているのだ。苦い記憶である。」

「最近、この話を職場の仲間たち(全員男性)にしたところ、
「自分はモテると思っていたのに、バレンタインデーに
チョコレートをもらえなかった」という経験は珍しくなかった。
でも、女子の同級生一人一人に「なぜ自分にチョコレートを
くれないのか?」と理由を問いただして回った男は一人もいなかった。」

=== 疑問に思ったら、どうしてもその理由を知らずには
    いられないという衝動でしょうか。

    その5 で書いたことですが、
    男の脳の働きのところで、
    「【男性】
      •一つのことにしか集中できない
      •他人の感情を読み取るのが苦手」 

     ・・の部分が、偏って強く出ているってことでしょうか?
     思い込みが激しいというのは、私にもありますが・・・
     しかし、いずれにせよ、自分に自信がないと
     出来ることではないですね。

     上記2つを言いかえれば、
     ・ ひとつのことに集中できる。
     ・ 他の人の思惑を考えずに執着できる。
     ・・・この点は、いろんな研究者に必要な資質で
     あるような気がします。
     この前読んだ孤高といわれた国語学者の大野晋などは 
     そういう人だったんじゃないかと思えてきます。

・・・・

それでは、次回は その8 になります。

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アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」 その6

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における日本語と、
アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いながら、結局 自分の人間分析になっちゃってます。
すんません。

今日は「第8回」から読みます・・・

「『今日の午後、塾に行きなさい』って言うんだよ。そんなことを
突然言われても・・・。どうすればいいんだよ~!」

「さっき、塾から送ってきた資料をもう一度読みかえしたら、補習は
来週じゃなくて今日だったの。お母さんが間違えちゃった。ごめんね」

「お母さんは自分が間違えたのに、僕が悪いみたいに言うんだよ。
お母さんは僕のことが嫌いなんだ!」

「お母さんは『たったの1時間半』って言ったんだよ。お父さんも
聞いてたでしょ? 何なの? 『たったの』って。なんでああいう
言い方をするの!」

「「たったの」という言葉を使われたことに執拗にこだわり、
それに対する不満を爆発させ続けるのだった。」

「息子も僕も、想定外の出来事に対応するのが極端に苦手だ。
そのことは、医師から「ASDの人にありがちな傾向です」と言われている。」

「嬉しそうにスケジュール帳に書いていたのに、いくら予定が1週間
早くなったからと言って、なぜあんなに怒るのかしら」

「。「突然、スケジュールが変わったこと」だけが問題なのである。」

「事前に立てた計画にこだわり、それが変更になると激しいパニック
に陥る僕たち親子。同じような傾向を持つASDの人は、医師に言わせると、
「時間に強い執着心を持つタイプ」が多いらしい。」

「たとえば「○○通りの三つ目の信号を渡るのは午後4時13分」と決めて、
必ず4時13分きっかりにそこを渡ろうとするのだ。もし、
それが1分でも遅れたら、大変なことになる。」

=== こういう人は、フィリピンには住めませんね。(笑)
    フィリピンでは、約束の時間は あってなきがごとし
    で、30分や1時間の遅れは当たり前。
    そもそも、そういうので怒ったりしたら、
    「あんた、どうかしちゃったの?」の世界ですからね。
    そもそも、そんなところで怒る人をみたことがない。
    もしかしたら、アスペルガーなんてのはフィリピンには
    存在しないのかな?

    それに、仮に「フィリピン時間」が「日本時間」に
    なったとしても、交通インフラが そもそも整備されていないし、
    お客が十分に乗ったらジプニーが動く・・ってな感じの運用
    ですから、出発時刻すら分からず、秒単位でうごく
    電車なんてありえない。
    
    私の日本語教室では、
    「日本では、約束の時刻の10分前にはその場所
     到着しなさい。」
    「I am on the way。 今、そっちに向かっています、
     という言い方はするな。
     今、どこそこに居るので、何時何分にはそこに着きます。
     と事前に伝えなさい」
    ・・・と教えることにしています。

    フィリピン人に「日本人の良い点は?」と聞くと、
    まず最初に挙げられるのが 「規律正しい」「時間に正確
    だったりするんですが、こりゃあ「一億総アスペルガー」
    みたいなもんじゃないかと思ったりもするわけです。

「バス通学のせいで、僕は毎日、登下校のたびにパニックを起こし
かけていたのである。理由は簡単。バスが定刻通りにバス停に来る
ことはほとんどなかったからだ。」

「僕は昔も今も、どんなことであっても、「定刻から遅れる」と
いうことが嫌いだ。だから当時、高校の前のバス停に3時55分に
バスが姿を見せないと、僕の心の奥底から急速に苛立ちが
こみ上げてきて、あっという間に全身を支配してしまうのだった。」

「途中のバス停を通過するたびに、「このバス停では定刻から何分
遅れているんだろう」という風に、やはり時間が気になって仕方が
なかったからだ。」

=== なるほど~~。
    電車や駅のアナウンスが、「何分遅れております。
    ご迷惑をおかけしております」と言うのは、こういう
    人たち向けという側面もあるんでしょうかねえ。

    まあ、フツーの人でも、乗り継ぎが出来なかったら
    「どうしてくれるんだ」と怒るでしょうけど。

そんなくだらないことに怒っても仕方ないだろ」 

「確かに同級生の言う通りだ。理屈ではわかる。しかし、そう自分に
言い聞かせて感情をコントロールしようと試みても、腕時計の針が
3時55分を指し、そのときにバスが見えないというだけで、僕の心
には不意に巨大な波が立ち始めるのだった。自分でも不思議で
ならなかった。」

=== こういう押さえられない感情が湧きあがるというのは
    本当にやっかいでしょうね、。

    もしかしたら、恋愛感情に似たような動きなのかも
    しれませんね。
    馬鹿馬鹿しいと思ったとしても、押さえられない恋心
    ・・・かな?
    もしかしたら、ストーカーみたいになっちゃったりして。

「僕は葬儀場に教科書や参考書を持ち込み、机と椅子を借りて
それらを広げ、通夜の場で、事前に立てた勉強の計画をやり遂げた。」

「僕は決して勉強熱心ではない。はっきり言って勉強は嫌いだった。
でも、事前に立てた計画を崩すことはもっと嫌いだ。」

=== 他人の心が分かるって人は、もしかしたら超能力者が
    いるかもしれないけど、
    外から観察して判断するその人の気持ちなんてのは
    分かるわけがないって思うんです。

    その判断がどのくらいの確率で当たるかは分からないけど、
    人の行動とその動機や心持ちなんてのは、全く
    正反対だったりすることもありますからねえ。
    受け取る側の勝手な妄想だったり、美しい誤解だったり、
    好意を悪意と受け止めたり、余計なお世話だと思ったり、
    皮肉を褒められたと勘違いしたり・・・

  
・・・これより 「第9回」です・・・・

「結構おいしいカレーが作れるようになったのである。これは、
「物事が計画通りに進むこと」に無上の喜びを感じる僕にとって、
本当に嬉しいことだった。」

「へぇ、そうなの。僕、お父さんのカレーを食べてみたいな」

「僕は「どうだ、おいしいか?」と聞いてみた。事前に味見をした限り、
うまくできているはずだ。妻はすぐに「おいしいね」と誉めてくれた。
あながちお世辞でもなさそうだ。」

「お母さんのカレーの方がおいしいよ。お父さんのカレー、
イマイチだね

「言うまでもないことだが、息子にはまったく悪気がない。ただ、
「思ったこと」をそのまま口に出しただけなのだ。」

「息子の頭の中で、「おいしいカレーの味」は、普段食べている
お母さんのカレーの味」と完全にイコールで結ばれている。
それ以外の味は一切、「おいしいカレーの味」とは認識されない。」

「これはカレーに限らない。超一流のシェフが腕によりをかけて
作った豪華な料理でも、あらかじめ頭の中で「おいしい味」と
決めているものと合致しなければ、息子には「おいしくない」
で片づけられてしまうのだ。」

「そして、ここからもまたASDの特徴的な点なのだが、息子は、
事実だと思ったことについて、相手の気持ちを忖度(そんたく)
して発言するということができない。つまり、思ったことを、
何かしらのオブラートに包んで相手に伝えるという能力が欠如しているのだ。」

==== ここで、ちょっと、私がこれを読んでいる目的を
     思い出してみましょう。
     それは 日本語の論理性です。
     アスペルガーの日本語は、事実を論理的に述べる
     ・・ってことであるのか・・・です。

     それと 事実に基づかないことを、非論理的に
     述べる 「空気をつくる」日本語なのか・・ってことです。

     上記の部分で感じたことなんですけど・・

     「イマイチ」という言葉は曖昧ではないか。
     「美味しくない」という言葉を使わなかったのは何故か。

     それと、味というのはかなり抽象的なものなので
     非常に難しいんですが、その場合の事実というのは
     何なのかです。

     もちろん、美味しい、不味いに絶対的な尺度はないと
     思いますが、「お母さんの味」が一番美味しいという
     尺度がいつも使われるのなら納得なんです。
     「あらかじめ頭の中で決めているもの」というのが
     なんなのか、です。

     一般に、味に関しては、「自分がどう思うか」なので、
     ひとりひとりに一定の尺度があって、美味しい、不味い
     を決めているのでしょうから、著者の息子の判断も
     一般と同じじゃないかと思うわけです。

     ただ、ここで「イマイチ」と言ったのも、
     お父さんだから「不味い」とは言えなかったという面も
     感じられるような気がします。

     いつも、テレビの料理番組や旅番組を見ていて
     思うんですが、芸能人などが なんでもかんでも
     「美味しい」ということを聞いて 私は もう少し
     言い方を変えられないもんかと思うことが度々あります。

     いきなり「これは不味いっすねえ」とは流石に言えない
     でしょうけど・・・笑
     洒落た言い方が出来る人は 凄いなと思います。

           洒落た言い方というのは嘘とは違います。

     「イマイチ」という評価は家庭の外ではできない
     これは「空気を破る」ことになりますよね。
     でも、家庭内の親子の間であれば「イマイチ」は
     それには当たらないんじゃないかと思います。

「しかし、作った側(つまり僕)は、カレーの味に自信があっただけに、
大きなショックを受けてしまう。」

=== だから、ここは、カレーを作ったお父さんの側の
    期待値に対して予想外の息子の判定にがっくりしたと
    いうことなんでしょうね。
    私だったら、「そうか、イマイチだったか」で
    終わりですね。

    実は、私は根が正直なんで、「美味しい」という言葉は
    めったに口から出てきません。
    だから、本当に美味しいものじゃない時は、無口に
    なってしまうんです。
    だから、洒落た言い方がないものかと考えるんですね。

    私が本当に美味しいなと思ったのは、
    大昔に家族で尾瀬に行った折、尾瀬を抜けて
    反対側の山裾の蕎麦屋で食べた 「ざるそば」でした。
    今でも あれが食べたいと思います。

    それと、メルボルンで日本語を教えていた頃、
    イタリアン・レストランで食べた「ほうれん草の
    スパゲティー」でした。
    これは 2~3度食べたんですが、
    パリパリとしたほうれん草に、スパイスと塩が
    効いていて、絶品でした。
    その後は季節が終わったと言われ、二度と食べられず、
    「幻のスパゲティー」になってしまいました。

    ただ、このような場合は、事前に私の中に尺度が
    あったわけではなくて、過去の蕎麦なりスパゲティー
    の味を超えていたと言うことになります。
    「今まで食べたことが無いほど、美味しい」って
    ことですね。
    それが、私にとっての「事実」ということです。

=== ここで、非常に興味深い問題が出てくるんですけど、
    それは 次回のお楽しみ・・・

・・・・・

次回 その7 に続きます。

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アスペルガー、発達障害の日本語の論理 と 「空気の研究」  その5

奥村隆「息子と僕のアスペルガー物語」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33846

上記のサイトをじっくり読みながら、日本に蔓延している「空気の醸成」における日本語と、アスペルガーの「論理的」な日本語の違いを見て行きたいと思います。
これはあくまでも、日本語教師としてのお勉強なので、誤解のないようお願いいたします。
また、アスペルガーを持つ「個性」についても 思ったことを書いてみようと思います。

・・・などと言いながら、結局 自分の人間分析になっちゃってます。
すんません。

今日は「第6回」から読みます・・・

 

「誰もが自然にできる「あること」が、自分にはできない---。」

「僕はS太郎の横で、口を開けたまま、絶句してしまったのだ。
なぜか、口からまったく歌詞が出てこない。」

「何ということだろう。メロディーは頭に入ってくるのだが、
肝心の歌詞が記憶に残らない
。」

「「どんなに好きな歌を聴いても、自分はその歌詞を自然に
覚えることができない」という事実だ。」

「正確に表現すると、「僕は歌を聴きながら、同時に歌詞を
覚えるという行為ができない」となる。」

「メロディーと歌詞という2つの情報が耳から入ってくると
理由はまったくわからないが、メロディーしか脳にインプット
されないのである。」

「しかも、視覚情報として脳にプリントした歌詞を、メロディー
に合わせて歌うには、さらなる努力が必要となる。なぜなら、
「メロディーに合わせよう」ということに意識が向くと、覚えた
はずの歌詞が口から出てこなくなるからだ。」

「ピアノの伴奏に合わせて歌詞を歌おうとすると、これが非常に難しい。」

「正直に告白すると、僕はいまだに『君が代』が歌えない。ただし、
これは思想信条とは何の関係もない話である。」

=== こういうのって、脳科学的にはどう説明できるんでしょうね。
    フォトグラフィクメモリーで記憶する領域が広すぎて、
    それが他の機能をもつ脳の部分まで使っちゃっていると
    いうような話なんでしょうか。

    メロディーはOK、歌詞もOK、だけど、そのふたつを
    シンクロさせる機能の部分がうまく働かない・・・のかな?

    まあ、私が考えても無駄な話ですけど。

では、「第7回」に入ります。

「突然、体育教師の声が聞き取れなくなったのである。
ほんの数メートル先で彼が何を話しているのか、内容が急にわからなくなった。」

「教師が喋っているのは聞こえる。周囲で同級生たちがお喋りしている
のも聞こえる。しかし、体育教師が発する言葉が、あたかもクラスメー
たちの声に溶け込んでしまったかのように、何を意味しているのか急に
理解できなくなったのだ。」

「教師の太い声は、音としては十分に僕の耳に入っており、単純に「聞く」
ことはできる。同級生たちのお喋りでかき消されているわけではない。」

「言ってみれば、同級生たちの声と体育教師の声が、僕の頭の中で混在し、
一緒に鳴り響いているような状態だった。その音のカオスの中から、
教師の声のみを選んで意味を取ることができなくなったのだ。」

「隣に座っていた生徒に「ちょっと聞き逃しちゃたんだけど、俺、どの
チームになった?」と尋ねて、事なきを得た。」

「いや、「忘れていた」というのとは違う。正確に言えば、僕には、
リポートの宿題を出されていたことの記憶が最初からまったくなかったのだ。」

「原因はすぐわかった。隣の席のHが、前の席のKとボソボソ喋っている。
その声が、教師の話を理解するのを邪魔するのだ。彼らの声と教師の声が
僕の中で重なり、絡まり合って、またも音声のカオスが出来上がる。
どう集中しても、そこから教師が喋っている話だけを取り出して、
意味を汲み取ることができない・・・。」

 

=== これは非常に自分にとっても興味があるところです。
    もちろん、この著者のように明確な支障があるわけでは
    ないのですが・・・・

    これで思い出すのは「指向性」という言葉です、
    私の場合は、何かをやっていると、いつの間にか周りの
    音が聞こえなくなります。 雑音が気にならなくなります。

    かと言って、場面によってはそうではない。
    大昔の話ですが、運転免許の試験会場での話。
    試験中に、試験官が床の音をたてながらミシリ、ミシリと
    歩いたんです。 それがめちゃくちゃ気になって
    試験問題に集中できなくなった

    仮免許はとれたんですが、コメント欄に、注意力が
    散漫になりやすいというようなことが書かれていたんです。
    つまり、運転中に同乗者と話なんかしていると、
    話の方に気持ちがいっちゃうよということです。
    かなり危ない・・・二度ほど、それでヒヤリとしたこと
    があります。

        つまり、興味のある方に指向性が働く、集中しちゃうってこと?

=== また、聖徳太子も思い出しますね。
    複数の人たちの話を同時に理解することが出来たという話。
    https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E5%BE%B3%E5%A4%AA%E5%AD%90
    「豊聡耳
     ある時、厩戸皇子が人々の請願を聞く機会があった。我先に
     と口を開いた請願者の数は10人にも上ったが、皇子は全ての
     人が発した言葉を漏らさず理解し、的確な答えを返したという。」

    著者のような人がいるということは、その反対の能力
    を持っている人がいても不思議じゃないのかもしれません。

=== もうひとつは、女の方が、脳科学的に言語能力が高いという
    話です。 これも関係がありそう・・・

    http://informationnow.xyz/archives/11475.html
    「脳梁とは、左右の大脳皮質をつなぐ神経線維の束で、
     言語や知能といった情報が流れる通信回路の役割を果たし
     てる部分です。
     この脳梁の太さを比べると、女性は男性よりも太いのです。
     この差が男女の違いを生む要因の一つであると指摘する
     専門家も少なくありません。」   

     「右脳と左脳の情報を交互に操あやつりながら複数のこと
      を同時に処理できます。
      また男脳は、言葉をつかさどる領域が左脳にしかありませんが、
      女脳は、左右の6~7ヶ所に言語中枢が散らばっています。」

     「女性】 •複数のことを同時にできる 
         •コミュニケーション能力に優れている

     ・・・だから、女性の脳は、子育てができる・・らしい。
     ・・・だから、会社でも複数の部下を操れる・・かな?  
  
     「【男性】
      •論理的で、空間認知能力や情報処理能力に優れている
      •決断力や直観力に優れている
      •一つのことにしか集中できない
      •地図や表を素早く理解できる
      •他人の感情を読み取るのが苦手」   

     つまり、聖徳太子は極めて女性的な脳をもっていて、
     著者の場合は きわめて男性的な脳をもっている
     ・・・ってことになりませんか?
     それぞれの特徴が はっきりと出ているように見えます。

     コンピューターに例えれば、並列的な分散処理ができるか、
     あるいは直列的な集中処理になっているかって話??
    
     私の場合は、全く分散処理が出来ないコンピューターに
     なってしまっているようです。

===  こういう話になってくると、今流行りの人工頭脳なんかも、
     どういう機能をもった部品をどういう風に繋ぐかで
     あるいは どの程度の感度をひとつひとつの部品に
     持たせるかで、人間と同じように「個性」が出てくる
     ということになるんでしょうか?

「僕はたどたどしく、「すみません、他の人たちの話が耳に入ると、
なぜか先生の話がよく聞き取れなくなってしまうんです」などと言って
みた。考えてみれば、僕はこのとき初めて、「耳の症状」について
人に説明したのだった。
 でも、顧問教師はわかってくれず、「ごまかすんじゃねえ!」
「人の話をきちんと聞け!」とひたすら怒鳴り続けた。」

「正確に言えば、相手は口頭で約束したと思っているのだが、
僕の頭には入っていないため、そもそも約束したという認識がない。
結果として、約束をすっぽかしたということになってしまう。」

「今、奥村さんが説明してくださった二つの症状の根本には、
同じものがあると考えられます。それは『複数の音を同時に耳
聞いたとき、それらの情報を脳内で処理することが困難』という、
ASD(自閉症スペクトラム障害)の人によく見られる症状の一つなんです」

「しかも、聴覚情報を処理する能力と、視覚情報を処理する能力
との差が大きければ大きいほど、深刻なケースになる可能性が
高いのだという。」

=== こういうのを読むと、学校と会社には、
    少なくとも保健の先生やら人事部には、こういうことが
    人間にはあり得るのだということをきちんと勉強し
    基本的な部分だけでも理解し、サポートできる人が
    必要ですね。
    根性論じゃなくて、医学的あるいは脳科学的に
    概略の説明やアドバイスが出来る啓蒙家が必要
    だと思います。
    そうでなければ、卓越した能力をもつ個性を
    潰してしまうことになってしまう。
    それは、日本という国にとっても大いなる損失と
    いうことになりかねません。
    最低でも、小学校や中学校の先生たちには
    そういう知識と自覚を持ってもらわないといけない。

・・・・・

それでは 次回 その6 に続きます。    

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