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2019年4月22日 (月)

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 - その7 福岡・西南学院、東京・國學院と上智

 

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 

- その7 福岡・西南学院、東京・國學院と上智

World Cultural Heritage : Hidden Christian
Sites in the Nagasaki and Amakusa Region

http://kirishitan.jp/en

 

2018年から2019年にかけて廻った隠れキリシタン

・潜伏キリシタンゆかりの地を見ていただきましょう。

 

その7は、福岡の西南学院大学で行われていた

「キリシタン 日本とキリスト教の469年」展、

今回の9日間のツアーの最終日の「潜伏キリシタン」を訪ねての旅です。 

 

2018年11月9日の朝・・・・

 

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博多から地下鉄で西新へ。

 

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西南学院大学に到着。 

 

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この「キリシタン 日本とキリスト教の469年」展は、

東京の國學院大學との相互協力で開かれていました。

 

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日本に初めてキリスト教が伝えられたのは 1549年。

ザビエルはバスク人で、イエズス会の創設メンバーの一人

とされています。

 

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そして、1582年に 巡察師ヴァリニャーノの企画で

大友宗麟、大村純忠、有馬晴信の名代という建前で

4名の少年がローマへと派遣された。

巡察師というのは 地方の布教状況をチェックして廻る

役割らしい。

 

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「千々石ミゲル夫妻伊木力墓」

仏教式の墓石の下に眠っていた二基の墓石のひとつが

ミゲルの妻のものとみられることがわかり、

しかもそこにキリシタンであることを示す遺品が見つかった

ことから、もうひとつの墓にはミゲルが眠っているのでは

ないかと期待されている。

 

ここで、ついでに、10月27日に行ってみた

東京の國學院大學での おなじキリシタン展の様子をちょっとだけ。 

 

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國學院大學。 学園祭みたいな準備をしていました。 

 

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ここでやっていたのは、長崎県平戸の生月島の

隠れキリシタンに関する 特別講義。

 

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さらについでに、10月13日に開催された考古学的な

発見に関する講演。 

 

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私の興味の焦点は・・・

 

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この中でも、特に 大石一久氏の

「天正遣欧使節と千々石ミゲル」でした。 

 

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キリスト教信徒の中では、悪魔とされてきた 千々石ミゲル

あるいは 大村藩の千々石清左衛門は、果たして実際に棄教したのか

という疑問です。 

 

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ミゲルは4人の少年の中でも 藩主の名代という身分において

疑いのない血縁にあった。

 

https://ja.wikipedia.org/wiki/天正遣欧少年使節

「伊東マンショ(主席正使) 大友宗麟の名代。宗麟の血縁。

日向国主伊東義祐の孫。後年、司祭に叙階される。1612年長崎で死去。

千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代。純忠の甥で有馬晴信の従兄弟。

後に棄教。

中浦ジュリアン(副使) 後年、司祭に叙階。1633年、長崎で穴吊るし

の刑によって殉教。2007年に福者に列せられる。

原マルティノ(副使)後年、司祭に叙階。1629年、追放先のマカオで死去。」 

 

伊東マンショは主席正使なんですが、企画したヴァリニャーノを

良く思わないイエズス会内部の反対派から、正当な名代では

ないとのいちゃもんをつけられたりしているんです。

 

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はい、これが ミゲルの墓じゃないかと期待され、

発掘をまっている墓石なんです。

 

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出ました! 天草四郎はミゲルの息子だった説。

この噂は、私みたいな者のとっては都合の良い話でして、

ミゲルが大村藩に仕えた後の足取りやどこで死んだかも

分からないような歴史になっているので、

もしかしたら、信仰は捨てずに、自分の息子を

天草四郎にするための画策をしていたのでは

ないか・・などと夢想するわけです。

 

そして、さらについでに、 2018年12月8日、上智大学。

この講演会は 期待以上に面白かったんです。 

 

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第一部と第二部の途中までしか座っていなかったんですが・・・ 

 

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 日本へのキリスト教の布教は 侵略を意図していたのか

どうか・・というような核心の議論が出てきたんです。 

 

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もちろん、当時は大航海時代で、植民地を拡大することが

常識的な大前提としてあったのでしょう。 

 

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ここで興味深いのは、

― フィリピンは「事業」として失敗した感覚と

  有益な植民地支配のための見通しの欠如

― 経済的な要請から - 布教活動による新帝国主義

の辺りでしょうか。

 

つまり、正確ではないかもしれませんが、

日本に対しては 一番下の

― 宣教師を守ることと 布教活動優先

と言うことになっていた時代かなと思います。

 

フィリピンではビジネスとしては失敗したんですが、

今のフィリピンのキリスト教の普及を見ると

成功したように思えます。

 

しかし、信長の時代はともかく、秀吉以降は

ビジネスはやるけれども、日本を統一するためには

キリスト教はお断りという状況になっていたわけですね。

 

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これはかなり日本人を持ち上げている感じではありますが、

こういうことをヴァリニャーノは理解していたからこそ

日本人司祭を育てようと 天正遣欧使節を企画したのでしょう。 

 

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一方で、中国征服の中には、中国にフィリピンを植民化

させるというアイデアもあったのですね。

 

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・・・というようなわけで、

 

2019年7月・8月の日比友好月間イベントのコンセプトを

どんなストーリーでまとめるか・・頭が痛いわけです。 

 

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そこで、脳みそに活力を与えるために・・・

 

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上智大学に来たら、ここに立ち寄るってことになります。

 

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これで、11月1日からの9日間の長崎ツアーと

東京でのおまけの講演会の部を終わります。 

 

おまけのオマケですけど、

福岡の西南学院大学の近くには こんなのがありました。

 

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次回 ― その 8 - では、

まだ行ったことのない長崎・外海と ハウステンボスの巻です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

======

 

 

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2019年4月21日 (日)

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 - その5 大浦天主堂

 

世界文化遺産・長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産を巡る旅 - その5 大浦天主堂

World Cultural Heritage : Hidden Christian
Sites in the Nagasaki and Amakusa Region

http://kirishitan.jp/en

 

2018年から2019年にかけて廻った隠れキリシタン

・潜伏キリシタンゆかりの地を見ていただきましょう。

 

その5は、長崎市での2日間、今回の9日間のツアーの内

5日目と6日目の資料探しの旅です。

 

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長崎市での一日目は、新地中華街の隣のホテルから出発。

 

 

 

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坂道を登って、大浦天主堂を目指します。 

 

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大浦天主堂と右側に連なる博物館。

 

 

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公式サイトでの解説では、

https://nagasaki-oura-church.jp/history

「大浦天主堂は、正式には、「日本二十六聖殉教者聖堂」と言い、

1862年に二十六人の殉教者たちが聖人に列せられたのを受け、

捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である

西坂に向けて建てられています。」

との記載があります。

 

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国宝であり世界遺産になったのは、この潜伏キリシタンと

「信徒発見」によるところが大きいようです。

 

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こちらのマリア像「日本之聖母像」は、手を合わせた

「ルルド(地方)のマリア」と呼ばれている形のようです。

 

「この像は、「日本に数多くの潜伏キリシタンたちがいた」

というニュースが全世界に伝えられた際に、フランスから

その記念として贈られたものです。」と記載されています。

 

教会内部の様子は、こちらの公式サイトでどうぞ:

https://nagasaki-oura-church.jp/archives/category/point

 

「信徒発見のマリア像」は、教会の祭壇にあります。

 

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そして、石畳の坂を歩きながら、グラバー園へ向かいます。

 

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修学旅行で来て以来・・・何十年ぶりだろう・・・

旧グラバー住宅

昔はグラバー邸って言っていたように思いますが・・

 

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公式サイトはこちらです:

http://www.glover-garden.jp/about

 

 

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博物館の中。

さまざまな船のミニチュアが展示されています。

 

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博物館二階からの展望。

大型客船がすぐ近くに停泊していました。

 

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季節外れの桜も咲いていました。

今日は2018年11月5日です。

 

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もちろん 蝶々夫人の像もあります。 

 

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プッチーニと オペラ「マダム・バタフライ」。 

 

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長崎伝統芸能館は グラバー園の一部でした。

 

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「長崎のお祭り「長崎くんち」に奉納される龍踊りの白龍、

青龍、各町の奉納踊りを先導する「傘鉾(かさぼこ)」と

呼ばれる豪華な飾りなどが展示されており、長崎くんち

の映画も放映されています。」

http://www.glover-garden.jp/gardenmap/ntpa-center

 

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2019年8月にバギオ市で開催する日比友好イベントで

何を展示したらよいか迷っているところです。

もちろん、長崎のなにかをイメージできるものを

制作するということなんですが。

 

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坂本龍馬も魅力的なんですが、フィリピンとは

関係ないしなあ・・・

 

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四海楼のちゃんぽんを一度はこの店で食べてみたいんですが・・・ 

 

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満席でした。

インターネットショップでこの店のちゃんぽんと

称するものを食べてみたんですが、

微妙な味だったんですよねえ・・・

 

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大型客船がど~~んと横づけしていました。

こちらのサイトで、大型客船情報をどうぞ:

http://www.nagasaki-port.jp/index.html

 

「長崎港 は、1571年開港し、オランダや中国との交易で栄え、

さまざまな文化や学問を発信してきました。

 19世紀には、日本と中国(上海)の架け橋として、

多くの人の交流の場となりました。

 現在は、日本屈指の観光船寄港実績があり、長崎水辺の

森公園など親水空間が整備され、多くの人に親しまれています。」

 

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長崎と言えば、この路面電車も魅力。

便利です。 

 

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では、大浦天主堂から出島まで行ってみましょう。

 

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長崎港の「出島ワーフ」という処へ向かいます。

 

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さて、ここが「出島ワーフ」のカフェ。

ぬいぐるみみたいなワンちゃんもお散歩。 

 

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なぜここに来たかと言いますと、情報収集の為に

午後の約束があったからなんです。

で、その前にランチ。

 

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カプチーノを頼んだら、こんなんが出てきました。

 

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二階からの展望。 いいっすねえ~~、港町。

 

「長崎は今日も雨だった 内山田洋とクールファイブ」

https://www.youtube.com/watch?v=YGfseX5WdVE

 

「ああああ~~、ながさき~~わ~~

きょうも~~ はれ~~だあった~~」

 

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で、私がアポを取ったのは、

「長崎の教会群 インフォメーションセンター」です。

 

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インフォメーションセンター内の展示。 

 

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私がこの潜伏キリシタンの歴史の流れの中で

注目している部分は、

 

1637年: 「島原・天草一揆」 から

キリシタンの「潜伏」が始まり、

平戸、出津、大野、崎津集落での「黙認」時代、

 

そして、1797年の共同体維持のための移住先

として 久賀島、野崎島、頭ケ島、さらに佐世保の黒島

という流れです。 

 

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しかし、その前に、1582年に長崎から出航し、

1590年に長崎に帰着した「天正遣欧少年使節」とを

どういうストーリーで繋ぐか・・・なんです。

 

そして、この迫害時代に、日本とフィリピンとの

間でどのような交流があったのか・・・・

 

実は、このインフォメーションセンターのセンター長の

方が、「フィリピンと長崎のキリスト教500年の歩み」

500 Year History of Christianity in the Philippines

and Japan-Nagasaki という本を編集されていたので、

そのお話を伺いに行ったのでした。

(ただし、この本は 英語版だけがフィリピンで出版

 されているとのことでした。)

 

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次に私が行ったところは・・・・ 

 

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西坂の「日本二十六聖人殉教地」

ここへは、11月5日と6日の両日行ったので、

二日分をごちゃまぜに書きます。

 

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ここでは私にとっての大発見がありました。 

 

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最初のフィリピン人殉教者

聖ロレンゾ・ルイス

この像は、フィリピンから寄贈されたものだそうです。

 

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そして、マニラの世界遺産・聖アグスティン教会とも

縁のある アグスティノ会の司祭 トマス金鍔次兵衛。

 

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神出鬼没の司祭で、忍者のような活動で、

こちらのサイトには以下のように記載されています。

 

1631年、侍に変装して帰国に成功した。長崎奉行所の

馬丁になり、クルス町の牢に囚われた宣教師や信者を訪れる

など、至る所に出没して使徒職を果たした。隠密によって

彼の人相書きが作られるに及んで、次兵衛は外海の山中に逃れた。」

https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/saintbeato/kibe187/densetsu/

 

 

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そして、こちらのユニークな塔をもつ教会。

この教会は、「二十六聖人のひとりで、メキシコ人フランシスコ会

修道士聖フィリッポ・デ・ヘススに捧げられた教会。」

であるとされています。

https://www.nagasaki-tabinet.com/junrei/1076/

 

 

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こちらのサイトで、二十六聖人の中に

フィリッポ・デ・ヘススというメキシコ人の名前があります。

https://ja.wikipedia.org/wiki/日本二十六聖人

 

「フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス、

本名・フェリペ・デ・ラス・カサス)

メキシコ人、24歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。

メキシコの初聖人。」

 

メキシコ人でありフランシスコ会ということであれば、

当時のメキシコとフィリピンはスペインの領土でしたから、

おそらくマニラから長崎に渡ってきた人だと思われます。

 

この教会には、多くのフィリピンの人たちも礼拝に来ていると

聞きましたので、おそらくこのような歴史的背景も

あっての礼拝かと思います。

 

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次に 5日と6日の両日資料探しにいったのは

こちらの中町教会です。

 

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聖トマス西という フィリピンのドミニコ会で叙階された

司祭と、フィリピン人初の殉教者がここに含まれているからです。

 

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そのフィリピン人というのは、5番目にある 聖ロレンソ・ルイスです。

すでに上の方でその像を見た人です。 

 

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こちらの教会では、こんな像になっています。 

 

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そして、もう一人 気になるのが 7番目にある

「長崎の聖マグダレナ」なんです。 

 

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この写真の真ん中の女性です。

なぜ気になるかと言いますと・・・・

 

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実は、マニラのイントラムロスにある

世界遺産である聖アグスティン教会博物館に

こんな絵画が展示されているからです。

 

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博物館の一階から二階へいく階段の壁に

数点の長崎での殉教を描いたと思われる絵画が

展示されているんですが、その中にこの絵が

あるんです。

 

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タイトルは明記してないのですが、

学芸員の方によるとこれは「長崎のマグダレナ」

を描いたものだとの話でした。 

 

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ところで、この中町教会の場所なんですが、

実は昔は大村藩蔵屋敷があったんですね。

 

「大村純忠、大友宗麟、有馬晴信のキリシタン大名らは、

ヨーロッパのキリスト教文化を見聞させ、日本をヨーロッパに

紹介するため、10代半ばの4人の少年をローマに派遣しました。

一行は活版印刷機械などヨーロッパの進んだ技術や知識を

持ち帰り、日本文化に貢献しました。」

https://www.e-oomura.jp/sansaku/oomura

 

大村藩は 当時キリシタン王国を築いた藩でした。

 

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そして、少年使節と言えば、謎の多い千々石ミゲル。

この大浦天主堂博物館の研究部長さんのお部屋に

お邪魔して、千々石ミゲルの墓と思われるところの

発掘事業のことやら、日本とフィリピンとの関連性

についてお話を伺いました。

 

そこで伺った驚くような話。

大村藩の古文書の中に、大村藩に仕えたミゲルが

他の家臣と伴に、ルソン島に派遣されたようなことが

記録されているというのです。

これはその文書を読んでみるしかないのですが・・・・

 

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そして、主な長崎ツアーの目的のひとつはここでした。

 

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潜伏キリシタン関連の観光ポスターやパンフレットを

日比友好月間イベントに提供していただけるよう

お願いに上がったわけです。

 

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そうです、私はがんばらんといけんとです。

(長崎弁、佐世保弁に自信がなくなった・・・)

 

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長崎二日目のランチは 「トルコ・ライス」でした。

どこがどう「トルコ」なんだか分かりません。 

 

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そして、11月6日の午後、長崎から諫早を経由して

島原へ向かいました。 

 

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島原鉄道・・・

一番海に近い駅・・・ってのがありました。

 

ローカル線は 実に魅力的です。

 

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これが島原駅。 

 

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そして、下校中の高校生で満員の路線バスにのって

南島原市へ・・・・

バスを降りたら 辺りは真っ暗。

 

右も左も分からず、うろうろしていたら、

近くの体育館みたいなところで スポーツをやっていた

人が声を掛けてくれて、その夜の宿まで送り届けて

くれました。

なんと、その男性は、翌日訪問予定の南島原市役所の方でした。

ああ、ありがたや、ありがたや・・・

 

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お宿での晩御飯。

到着時刻が遅かったので、出前です。 

 

と言うことで、長崎ツアー6日目の夜は更けていきました。 

 

― その6 - に続きます

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月25日 (月)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その41 若者よ、世界に飛び出せ、天正遣欧少年使節のように

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p436

 

1622年に元和の大殉教が起こった。

これは近世の殉教史上最大のもので、・・・長崎の西坂で、

神父や修道士ばかりでなく、老若男女含めて五十五人が殉教

した事件である。 神父はイエズス会、ドメニコ会、フランシスコ会

を含んでいる。

 

ことの起こりは・・・イギリスのエリザベス号が平戸に入港したことで、

・・・イギリス船船長は、その(拿捕したポルトガル船)船客の

なかにキリスト教の修道士がふたりいたことを幕府に訴えたので

ある。

 

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p438

 

集団的な憎しみがキリシタンに集中していたのであろう。

それはナチのユダヤ人虐殺の場合と同じである。

 

徳川はこの憎しみの上に鎖国体制を布いたのである。

世にいう太平の世もいっぽうにおいてこのような憎しみと

流血を土台にしていたのであった。

 

p439

 

イギリス、オランダ商館は連名して幕府に訴状を出し、

スペインの侵略の危険を訴え、両国の艦隊によるマカオ、マニラ

攻撃を予告し、朱印船のマカオ、マニラ寄港停止とポルトガル、

スペインの人、貨物の輸送を禁止するように願った。

 

 

p440

 

・・ネーデルランドの北部七州が・・・スペインから独立した

ときにスペインは致命的な打撃を受けた

このときイギリスのエリザベス女王はオランダ独立を側面から

援助した。

 

=== そして、スペインの無敵艦隊がイギリスに負けちゃった。

 

p441

 

三回にわたる英蘭戦争を通じてオランダは世界支配から交替し、

イギリスとフランスの支配の図式に変わる。

 

キリシタンは二重の意味で血の制裁を受けなければならなかった。

ひとつにはスペイン・ポルトガル帝国のスパイであるという理由

によって、もうひとつは神道の敵すなわち国体の敵であるという

理由によってである。

 

p442

 

長崎ではもっとも苛烈な禁制が実施され・・・

人界の地獄」と言われたほどの苛酷さであった。

・・・温泉の熱湯責めなどの拷問・・・

宣教師に便宜をはかった者と、その家族、妻子までを

刑の対象にした・・・男性は殺し、女は奴隷(性的奴隷)にした。

 

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=== 上の像は、フィリピン人で最初の殉教者

    されている ロレンゾ・ルイスです。

 

 

p443

 

家光は政権を確立し・・・

奉書船以外の海外渡航と、外国に住む日本人の帰国が

死刑をもって禁止され、それが第一次鎖国令となった。

 

1633年 小倉でジュリアンも捕まり、長崎に送られた。

・・処刑されたのはこの年の10月18日であった。

 

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=== 上の碑は、「長崎のマグダレナ」などの名前が

    あります。長崎市の教会の庭で撮影。

 

 

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=== 上の絵は、マニラの聖アグスティン教会博物館

    に掲げられているもので、左の絵が「長崎のマグダレナ」

    その遠景に「穴吊り」の光景が描かれています。

 

 

p444

 

穴吊りもまた竹中采女正が考案した拷問である。

・・・穴の中に逆さに吊る拷問・・・

地上に出ているのは腰から下だけになる。

 

転ぶという合図をするまでこのまま放置され、

転ばない場合はそのまま死ぬ。

・・・イエズス会のフィレイラは五時間で転んだ。

・・・ジュリアンは、・・五日間耐えた。

 

「幸いなるかな 正義のために迫害される者、

 天の王国はその人のものである」

 

=== さて、本文はこれで終わりました。

    結局 千々石ミゲルの関連は史料がなく

    謎のままであるようです。

    後は、大村藩の記録などを読むしかないのでしょうが、

    昔の漢文を読むほどの能力はなく・・・

 

 

p447

 

「エピローグ」

 

日本の歴史も日本一国の歴史資料ではとらえることができない

それが大航海時代以降の世界である。

・・・この近代世界は・・・スペインとポルトガルの世界帝国

支配が大きな枠組みになっているからである。

 

p448

 

大きく見れば世界のなかのすべての国を世界のひとつのシステム

のなかに包みこもうとする近代世界への大きな流れだった。

 

・・・江戸幕府が第一次鎖国令を出す1633年までの

八十余年間、日本はまさに「キリスト教の世紀」を迎えて

いたのである。

そのときほど日本が世界的であったことは明治以前にはなかった。

そのシンボルとして少年使節の派遣があったのである。

 

===  さて、この読書も完了しました。

     一言で乱暴に言ってしまえば、

     この本は「天正遣欧少年使節」の本というよりも、

     「戦国日本史とキリシタン世界史」みたいな本でした。

     それも、小説ではなく資料集+エッセイみたいな

     感じなのに、堅苦しい講義ではなく、著者のおちゃめな

     コメントもあいまって、その当時の人物の性格までを

     浮彫にしてくれるような歴史講座でした。

     こんなに長い本、分厚い本を、私のような忍耐力の

     ない男が最後まで読めたというのは、著者のお陰としか

     いいようがありません。

 

     どうもお付き合い、有難うございました。

 

== 完 ==

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019年2月23日 (土)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その36 やっと日本に戻った天正遣欧少年使節、楽器を秀吉に取られてしまって・・・

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

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p328

 

マンショ、ミゲル、マルティーノ、ジュリアンの四人は

ヴァリニャーノとともに長崎に帰ってきた。

長崎は歓喜に湧き返った。 フロイスは、・・・・禁令公布以前の

教会がもどったかのようであったと書いている。

 

船のついた翌日・・・ドン・パルトロメウ純忠の息子である

サンチョ喜前が・・・そのつぎの日には有馬のドン・プロタジオ

晴信が多くの家臣を連れて・・・

 

p329

 

喜前は、・・・ミゲルを見て、こういうことなら自分の弟の

レオンを使節にすればよかったと言った。

・・・おおぜいの人間が、こういうことなら自分の子息を

送ればどれほどよかっただろうと思ったと報告書には

書いてある。

 

 

ミゲルも・・・相手が老けてしまっていたので、有馬の殿以外

の親族を見分けることができなかった。

・・・父母さえもが彼の自分の子供だとわからなかった・・・

 

p330

 

使節を送った三人の領主の後継者のうち、ふたりはこのように

して教皇の書簡と贈り物を受けてその返書を書いているが、

最大のキリシタン君主であった大友宗麟の嗣子義統はここから

外れた。 彼は秀吉を恐れてみずからキリシタンではないこと

を示すために領内のキリシタンを迫害していたのである。

 

 

=== 送り出す時は死ぬかもしれないと引き留めたり

    身分のあまり高くない者を送ったのに、

    いざ無事で立派な姿で帰って来たのをみた途端に

    ころっと言うことが変わる・・・

    まあ、しかし、海の上より、国内の方がよほど危機的な

    状況になってしまって・・・・

 

 

p331

 

秀吉との会見も円滑にはすすまなかった。

ぐずぐずしているあいだに・・・この使節がぺてんかもしれないと

疑いはじめた。

 

p332

 

現在の兵庫県室津・・・西国から大坂に来る大名はみなこの

室の津を通過したので、四人の使節は多くの大名の訪問を

受けることになった。

 

大友義統が・・マンショに、教会や巡察師と和解したいので

仲介をしてくれと頼んだ。 ・・・しかし、マンショは

「心中ほかに決するところがあったので」豊後には行かなかった

 

p334

 

ヴァリニャーノは・・・四万人以上のキリシタンが住んでいた

領地の荒廃を目にすることになった。・・・・今は異教徒の

領主のもとで分散し、見捨てられているのを見た。

 

フロイスは夫を失った女性たちの悲惨な状態について・・・

「高貴で尊敬されていた多数の婦人たちが、子供や夫に

先立たれ、食べ物にも事欠くありさまで、・・・賤しく貧しい

女のように生きているありさまに・・・・」

 

 

=== すっかり変わってしまった日本の状況。

    信長から秀吉へ、 オバマからトランプへ・・・・・

    人ひとりで、こんなにも世界は変わってしまう。

    考えてみれば恐ろしいことですねえ。

    絶対君主制でも民主主義の世界でも、それは同じか・・

 

 

p335

 

右近の支配していた高槻では・・・農民がかりのキリシタンの

いくつかの村で博多・・・自分たちの集落に異教徒をひとりも

入れない決心をしていた・・・

・・・これこそ、世界史にも稀な日本の「隠れキリシタン」の

始まりであった。 明治に至るまでその信仰を守った・・・

 

 

=== 長崎ばかりかと思っていたら・・高槻にも!!!

 

茨木市立キリシタン遺物史料館

https://ja.wikipedia.org/wiki/茨木市立キリシタン遺物史料館

「この付近はかつてキリシタン大名として有名な高槻城主・高山右近

領地であった影響で、当時キリスト教信者となった領民が多く、キリスト

教禁制後も隠れキリシタンとなり、山奥のこの地で信仰を密かに守り

つづけた人々がいた。1919年にキリシタン研究家の藤波大超が、

この地が隠れキリシタンの里であることを突き止め、それをきっかけ

に付近の多くの家から隠れキリシタン遺物が再発見された。」

 

 

p336

 

この行列のありさまはすぐに秀吉に報告された。

なにが気に入ったのかわからないが、秀吉は突然その態度を

変えたとフロイスは書いている。

・・秀吉は突然使節のことを話はじめて、もうそのこと

しか話さず、「異常なほどの満足の意をあらわし・・・・」

豪華華麗な行列を組んで整然と来たので、これは偽物では

ないと思ったのであろう。

 

==== 秀吉というのは、いろんな情報に左右され

     易いタイプの人間だったんですかねえ。

     それとも、猜疑心、嫉妬心、唯我独尊???

 

 

p338

 

3月3日、巡察師は登城するように招聘された

・・・四名の使節、十三人のポルトガル人、使節の供である

小姓七名、通辞一名、・・・巡察師、その通訳・・・

 

 

p341

 

秀吉は・・・ことに伊東マンショに対しては、・・・

汝の親類を日向の国に復帰せしめた。もし汝が予に仕える

気持ちがあるならば、多大の報酬をとらせよう。・・・・

 

・・・マンショは儒教的な武士の仁義を楯にしてうまくその場を

逃れたが、この挿話は神父らの胆を冷やした・・・・

 

同じようなことがミゲルにも起こった。関白はミゲルに

生国を尋ねて、それでは汝は有馬の一族かと聞いた。

・・・晴信に危害が及ぶかもしれないと恐れて、自分は

千々石の者だと答えた・・・・

 

=== 私は個人的には、千々石ミゲルに注目しているんですが、

    この辺りの秀吉とのやりとりは 臨場感がありますね。

    よくまあ、こういう状況が記録されていたものだと

    思います。

    最近の記録は、国会の記録ですら怪しいですからね。

    立派なもんです。

 

 

p343・・・

 

謁見の最後は余興の音楽演奏で終わった。

・・・音楽が聴きたいと関白が言うと、

その楽器はあるからで枢機卿・・から贈られた クラヴォ、

ハープ、リュート、ヴィオラである

四人は長い旅のあいだにすっかり熟達していたので、

・・・みごとに演奏した。

 

関白は音楽を喜び、三度も繰り返し演奏させ歌わせ、

楽器を手にとってさわり、・・・・

関白は、これらの楽器を全部ほしいと言った

それは使節にとっては打撃だったが・・・・

 

=== あらららら・・・楽器を全部とられちゃった。

    せっかくヨーロッパから運んで、演奏も立派に

    なっていたのに。

    その後、秀吉はその楽器をどうしたんだろ??

 

    ちなみに、これらの楽器は、熊本県天草市の

    「コレジヨ館」で復元展示、そして演奏されて

    いますよ。

    http://hp.amakusa-web.jp/a1050/Photo/Pub/PhotoKakudai.aspx?PhotoUrl=http%3a%2f%2fhp.amakusa-web.jp%2fa1050%2fSozai%2fMg%2fFileAccess.aspx%3faplUseNo%3d11823%26angoFolderKey%3dgdBCoHbcEXCtpJiF4wQSWg%253d%253d%26angoFileKey%3dRELYOlAjKUnjzkxTy7stXA%253d%253d&title=31%e5%b9%b4%e5%ba%a6%e4%bc%81%e7%94%bb%e5%b1%95&biko=

 

 

 

5_497

 

p344

 

甲冑や銃の優秀さや、自分の俸禄よりも神父への恩義を

優先させた教養豊かで優美なキリシタン武士がいたことも

秀吉にとってはおもしろくないことであった

 

=== さて、この謁見が 吉とでるか凶とでるか。

    それはまた次回をお楽しみに。

 

 

 

 

< その37に続く >

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その35 三成のリスト、長崎二十六聖人の処刑とバウチスタの後悔 

 

 

 

 

若桑みどり著「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

05_089

 

p296

 

パジェスが書いた・・「日本キリスト教史」・・・近代日本最古の

神父ヴィリヨンが加古義一に翻案させた「日本聖人鮮血遺書」は、

明治二十年に出て、当時たいへんな感動を日本人に与えた。

・・キリスト教迫害の血の歴史を、日本人がはじめて知った・・・

 

 

p299

 

三成は代官に命じて個別に調査をし、フランシスコ会かどうか

を聞いて回らせたが、信徒たちはみな意気揚々と自分はキリシタンだ

と答え、しかも確認の印鑑を押した。 そのことはすなわち死を

意味することであるのに・・・・

 

 

p302

 

こうした役人のずさんさは最初から目立っている

・・・代官は自分で修道院に行ったのではなく、修道院に

使いをやって自己申告させたのである。

 

=== ここで言っているのは、石田三成が秀吉の

    指示で罰すべきキリシタンのリストを作ったん

    だけれども、出来るだけ人数を減らしたい三成

    の意図が末端の役人にきちんと通じていなかった

    ということのようです。

    なので、フランシスコ会の人間ばかりじゃなく、

    イエズス会のものたちや、庶民がたくさん

    リストに入ってしまった。

 

 

p305

 

1月3日未明、上京一条の辻に引き出された二十四人

ひとりずつ左の耳を削がれた。刑場は鮮血で染まった。

彼らは獄吏に頼んで自分の耳を手に入れ、それを遺族への

形見とした。

 

p312

 

このとき彼(バウチスタ)は自分のやりかたが失敗だったと

思って泣いたのではないかと思う。

・・・バウチスタはロドリゲスを呼んでいたく後悔して言った

「副管区長およびほかの神父がたに、わたしがおかけした

迷惑を許してくださるようにお願いします」。

・・・ほんとうはパウロ三木もディエゴもジュアンも、

とんだとばっちりで死ぬことになったのだが、今となっては

覚悟はできていた。

 

 

p314

 

イエスは最高の美徳として謙遜を教えたのだが、しばしば

聖なる殉教者はその謙遜を忘れていた。 彼らは自分こそは

神のために死ぬのだからきわめて崇高で偉大な人間だと

思わずにはいられなかった。

しかしパウロら日本人はそうではなかった。 じつは随伴

していた神父らが、素朴な受刑者から教えを受けていたのだった。

 

=== ずさんなリスト作りによって、多くの庶民が

    処刑されることになってしまったんですが、

    外国の神父たちは、その日本の庶民たちから

    イエスの教えである謙遜を学んだということ

    のようです。

    つまり、「あなたは聖なるかたです」と言われる

    ことを望まなかったという話です。

 

p315

 

十字架がしっかり固定されたあと、執行人が十字架につけられた

人をやりで突き刺す。 このとき槍は下から斜めに心臓を

刺すので巧みな執行人がやった場合には即死できた

ときにはふたりが突いて鎖骨で交差する。槍は刃先が広く

よく切れるのですぐに血がどくどくと流れ、まもなく絶命する。

それでも死なないときは首を突き刺すことになっていた。

 

                             

 

p317

 

処刑人が槍の鞘を払ったとき、刑場にいた信者らはいっせいに

「イエズス・マリア」と叫び始め、最後の処刑が終わるまで

その声は刑場に響き渡った。

槍をもった四人の執行人は駆けながら殉教者を刺していった。

 

=== 想像しただけで ぞっとする光景ですが、

    これはその後に続く大々的な迫害や処刑の

    始まりに過ぎなかったのですね。

    しかし、26人の処刑に4人の執行人とは・・・・

 

 

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p324

 

1587年5月29日、リスボンを出港して以来13カ月半で

4人の使節はゴアにもどってきた。

・・・使節はスペイン王と教皇の援助をとりつけ、外交使節と

して西欧諸国で日本人の評判を高くした。

 

p325

 

ヴァリニャーノはインド副王のドン・ドアルテ・デ・メネーゼスの

秀吉あての親書を発行してもらった。 ・・・こんどは自分自身が

インド副王の使節という資格で日本にわたることにした。

 

 

p327

 

・・・マカオに着いた。 もう日本はすぐだったのに、

あいにく日本へ渡航する船がなかったので、18カ月マカオに

いることになった。

そしてそこで最悪のニュースが彼らを待っていた。

 

p327

 

ヴァリニャーノは・・・少年たちの・・日記をもとに、くわしい

見聞録を書いて、・・ラテン語文に訳させ、・・マカオで出版させた。

 

p328

 

ようやく一行は・・・1590年7月21日・・・八年と五カ月

と一日ののち、日本にもどったのであった。

 

 

==  ああ、やっと日本に戻りました。

    ここまでの この本も長かった。

    さて、次回はいよいよ 4人の少年使節たちの

    日本での動向が語られます。

 

 

< その36に続く >

 

 

 

 

 

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2019年2月13日 (水)

若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その23 広告塔にされた少年使節、ヴァリニャーノは無罪だよ

 

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」<下巻>

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

003

                             

 

 

p45

 

フロイスと教皇庁の式典部長アラレオーニは凱旋入市のもよう

をつぎのように書いている。

「ローマにては未曽有の最大の行事のひとつであると確信できる

ほど豪華壮麗をきわめた儀式なりき。

行列の戦闘には教皇の二騎馬隊、一様の装いをなし、スイス兵に

付き添われ、ときどき高き音を放つ荘厳なるトランペットを

ともないて進行せり」

 

=== 全体が撮影できず申し訳ないんですが、

    下の写真が この凱旋入市のパレードの絵画と思われます。

 

01_495

 

 

はっきりとは分かりませんが、もしかしたら、3人の使節は

右側の下から二段目の列の3人じゃないかと思います。

白っぽい服の3人です・・・・

 

 

p45

 

・・・枢機卿の驢馬が続いた・・・驢馬ごとに頭に赤い頭巾

をかぶった家臣が・・・・枢機卿の数は非常に多かった・・・

枢機卿の家人が続いた。 服装はそろって深紅で・・・・

そのあとはローマに駐在する各国の大使たち・・・

そのつぎは教皇の侍従、教皇庁の職員全員が真っ赤な長い衣で

・・・教皇の近くに仕える聖職者・・・ローマの騎士団・・・

騎士団のうしろから、十三人の鼓手がやってきた。

・・・そしていよいよ「ことごとく黄金で飾りたる黒ビロードの

覆い布」をかけた三頭の駿馬にまたがって、三人の使節が

やってきた。

 

彼らは白い羽根と金の房のついた灰色の帽子をかぶり、

「金糸とさまざまな色の糸で織った鳥および花で飾った

白い絹の服、首に優雅な首巻きをし・・・・刀を帯びて」いた。

この三人の周りをびっしりと教皇の護衛兵が付き従って・・・

 

先頭はマンショで、・・・二番目はミゲルで・・・三番目は

マルティーノで・・・・・・

・・彼ら三人のあとから通訳としてメスキータが続いた。

 

=== この説明では 灰色の帽子に白い絹の服とありますから、

    上の絵の3人で多分まちがいないでしょう・・・

    馬に黒ビロードの覆い布ってのが気になりますが。

 

 

p48

 

ローマ、ザネッティ発行の報告書には、つぎのような式次第

が書かれている。

 

まず豊後の王ドン・フランチェスコの書状朗読、

つぎに有馬の王ドン・プロタジオの書状朗読があった。

・・・これは日本語で教皇に奉呈されたが、メスキータ師が

イタリア語で説明した、と書いてある・・・

 

 

=== さて、いよいよ謁見式に突入です。

    前回紹介したサイトで絵を見たように

    なんだか雑然というか騒然とした謁見式だった

    ようですね。 何人も周りに人がたかって・・・

    日本人的には、「もっときちっと整列しろよ」と

    いいたくなるような光景。

 

p49

 

「日本の島、それはわれわれから海と陸によって遠く

隔てられていて、われわれは今までわずかにその名前を知って

いるだけであった。 ・・・それは「知られざる土地・・」で

あった。 そして今でさえも、まだ、それが存在するかどうかを

信じることができない人びとがいるほどである。 しかるに、

至聖なる教皇よ、それは存在するのであります」

 

・・どうやらわれわれはやっと存在していることを認めて

もらったのである。

ヴァリニャーノ師よ、おめでとう、日本が存在していることを

認めてもらってよかったですね

 

=== あははは。 この著者のこういうちょっとした

    おちゃめなコメントが実にいいっすねえ。

    歴史上の人物がすっと現れそうな臨場感。

 

 

p50

 

「・・・そこには多くの人が住み・・・すぐれた武器を作り、

・・・真の神のことばさえ知っているならば、われわれにも

劣らない人びとであります。・・・

神の恩寵をもってしだいに貴族のあいだにも教えが弘まり

そしてついに、ああついに、・・・貴族、公子、しかして王の

もとへ及んだのであります。・・・・ なぜなら、近年カトリック

世界を揺り動かしたあの異端(プロテスタント)に対抗し、

あなたはカトリックを復興するために・・・・」

 

p52

 

グレゴリオ・・・は、1572年から85年まで、長いあいだ

教皇のザにいた。 ・・・彼によってローマはただ宗教的中心

であるばかりでなく、神学と学問の中心になった。

グレゴリオ大学は今でも神学、宗教学、布教学の中心である。

 

・・この教皇のもとに、東洋の若いセミナリオの学生が来た

ことは、教皇の人生のひとつの達成とでもいうべき象徴的事件

だった。

 

=== ここでは、カトリックとプロテスタントの覇権

    争いを背景として、カトリックがついにやったぞ

    ってことを褒めたたえているわけですね。

 

    教皇はこの謁見のあと数日で死んでしまうわけなんで、

    正に忌野清志郎なわけですから、感激もひとしおだった

    でしょう。

 

 

p55

 

このように、少年たちは、シェナからローマに来る道のなかばで、

教皇庁によってイエズス会の神父たちの手から取り上げられ

別の次元に入った。 それは計画者ヴァリニャーノのまったく

予期しない規模のものであった。 ・・・

・・・教皇庁にとってだいじなことは、使節を、宗教改革に対抗

するカトリック教会の勝利を証言する証言者、「東方の三人の王」

祭り上げ、・・・広告塔にすることだったのだ。

 

=== ここまで読んだところで言うならば、

この著者がこの本を出版したのは、正にヴァリニャーノ

を弁護するためだったと思えますね。

実際本人もそのように宣言しているわけですけど。

ヴァリニャーノが日本の歴史家などからも不当に

疑われ、非難されてきたことに憤慨していたのでしょう。

 

 

<その24に続きます>

 

 

 

 

 

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若桑みどり著「クアトロ・ラガッツィ」<下巻>を読む - その21 有名な大公夫人との舞踏

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

<下巻>の2回目です。・・・・・

 

006

 

p23

 

マンショは「いや実際、ひとつにはその所作を知らぬための

羞恥の念と、今ひとつにはかような婦人に対する畏敬の思いや、

・・・とても困惑した。 ・・・野暮臭くみえないようにと

・・・勇を鼓し、あえてそれを敢行するほかはなかった」と、

まるで戦場に行ったときのように武勇談を語っている。

 

 

マルティーノは「・・・マンショとミゲルのおかげで

あとに続くわれわれはすこし羞恥の念が軽くなるはずだった

(しかし・・・・)。 ・・・ジュリアンが相手の女性を

選ぶときに、じっと自分を見ていた婦人を選んだのだが

それは(もうダンスをしない)老女だったので、みんなが

どっと笑ったんだ」

 

p24

 

リノ「いや・・・・観衆はかたや紅顔の少年、片や年齢の

重荷を背負った老婦人とがともに顔を赤らめるのを見て、

その組み合わせをおもしろがったのだろう」

 

 

実際ダンスなどというものは日本人にはまったくやっかい

ものだ。

・・・マンショが・・・・自分の外交的使命を自覚し、

不得手なことも一所懸命、日本人の恥になるまいとして

がんばっていた。 けっこう身につまされる話である。

現代になっても、初期の留学生はみなこういう思い

したものだった。

 

=== 昔の舞踏会は 当然のことながら

    社交ダンスでしょうから、そりゃあ経験がないと

    大変だったでしょうねえ。

    私も米系の会社だったので、若い時には、

    銀座のダンスホールに通ったりして基本的な

    ものを習ったこともありました。

 

    今は、どうでもいいダンスが多いので

    テキトーでもごまかせますが・・・・

 

    外国で生活していると、嫌でも日本人代表みたいに

    扱われることがあるので、外交的な態度がなんとなく

    要求される場面におかれることがあります。

    しかし、あまりに外交的になってしまうと、

    これもまたよそよそしい雰囲気になってしまうので

    難しいですねえ。

 

 

 

p25

 

フィレンツェの年代記作者セッティーマーニの・・・記述では、

「この四人の少年は髭がなく、・・・あまり背は高くないが

つり合いがとれている。 彼らは扁平な顔、扁平な鼻、小さな頭

をもつ。 体色は白く、外見では、単純、善良、柔和な相を呈す」

とある。 

 

p26

 

しかし、彼らを「インドの王」と誤報したシェナの

マルカントニオ・トロメイの・・・書簡では「顔色浅黒く、

黒人に似た顔つきで、目は外に出て灰色にして小さく、

あたかも高いところをみることができないようであり、また唇

は厚く、そのほかもすこぶる醜い」とある。

 

これなどは第二次大戦中に、白人が日本人はサルに似ているから

脳が小さく知能が低いと言い、日本人は白人が目がひっこんで

いるから左右を見ることができないので、すぐれた飛行士では

ないと言ったのとよく似ていて、・・・・

 

・・・国王や大公の宮廷人たちは国際外交に慣れているので

「差異」によってではなく「共通性」によって彼らの教養と

礼節を評価している。 

 

=== 先日から NHKの「100分 de 名著」の

    オルテガ著「大衆の反逆」をちょこちょこと見て

    いたんですが、この「共通性」によって評価するという

     いわゆる「高貴」な人たちの態度が話題になって

     いました。

     高貴というのはなにも大金持ちとか成功した人と

     いうのではなく、普通の人たちの中にもいる

     「高貴」な人のことなんですが、

 

http://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/84_ortega/index.html#movie

 

「「一つの同質な大衆が公権力を牛耳り、反対党を押しつぶし、

絶滅させて」いくところまで逢着するという。」

 

「オルテガは、大衆化に抗して、歴史的な所産である自由主義

(リベラリズム)を擁護する。その本質は、野放図に自由だけを

追求するものではない。そこには「異なる他者への寛容」が含意され

ている。多数派が少数派を認め、その声に注意深く耳を傾けること。

「敵とともに共存する決意」にこそリベラリズムの本質があり、その

意志こそが歴史を背負った人間の美しさだというのだ。」

 

=== 私がここで理解したのは、様々な人びとの違いを認めた

    上で、多様性の中で平和に生きていくことを旨とする

    人たちこそが「高貴」であるということじゃないかと

    思ったわけです。

    そういう意味では、最近の世界も日本も変な道に

    入りつつあるんじゃないかと危惧しています。

 

 

p27

 

長いあいだの経験によって断言するが、イタリアで無知で教養の

ない人または自分がえらいと思っている視野の狭い中流の

女性、こういう人間は頭から東洋人を「遅れている」と信じていて、

われわれをあわれむように見る。

・・・この経験はじつに微妙で、またしばしば起こる。

 

いっぽう教養のある人びとはすぐさまわれわれの「高い」教養や

知識を理解し、相応に尊敬する。 理解は階級によって文化的

水準によってさまざまだ。 

 

 

しかし、概して80年代以降は、とくに若者はもう人種を

なんとも思っていない。 いい人間かどうかしか判断しない

からである。

 

=== この著者の経験の部分は概ね分かるような気がする

    んですが、最後の「いい人間かどうかしか判断しない」

    という言葉は どういう意味で言っているんでしょうね。

    もっとしっかり相手の教養や知識をみて尊敬に値するか

    どうかを判断しなくちゃダメだっていうことですか?

 

 

p32

 

「・・・ヴァリニャーノは、これらの使節のために、教皇の

指摘な謁見を望み、おおげさな設えや、いかなる豪華さも

どうかやめていただきたい、・・・・と願っていた」

 

しかし、この年代記は続けて、・・・壮麗な歓迎を受けることに

なった経緯を要約する。

・・・・日本では少年は十四歳になるかならぬかで、刀をもたず

には外に出ない。 ・・・高貴な武士の刀の鞘はきわめて豪華、

真珠母貝で絵を描き、・・・」

さてこうした装いで彼らはスペイン国王に謁見、王子、二王女

とともに、「国王はカッパ(マントのことをカッパという

日本語で合羽になった。)を肩に、・・・・謁見した

 

 

p36

 

「このような結論を得たので、グレゴリオ教皇はヴィテルボの

副公使チェルソ師に命じ、使節が教皇領に入ったときには

すべての方式にのっとって盛大に一行を迎えるように指示した。」

そこで使節一行は二百人もの騎馬軍隊に迎えられて一日を

ヴィテリボで過ごし、つぎに枢機卿ガンバラの別荘バニャイアに

行き、・・・・・・

 

ここで使節がなにを見せられたのか・・・・・

 

 

=== つまり著者は、ヴァリニャーノの弁護士であるわけ

    なので、ここでも 大袈裟なことにしたのは

    ヴァリニャーノのせいではないから、非難されたり

    疑われたりするには及ばずということなのでしょう。

 

    ここでは、合羽がカッパ(マント)から来た外来語

    であったことが分かっただけでも、日本語教師としては

    ありがたいことです。

 

    さあ、では、何を見せられたのか・・・つづきます。

 

 

<その22に続きます>

 

 

 

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2019年2月 4日 (月)

若桑みどり著「クワトロ・ラガッツィ」を読む - その12 信長・秀吉が聴き惚れた西洋音楽

 

  

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

002

 

p430

 

安土の屏風は、荒波を越えて、ほんとうにローマ教皇に

献上された。 ヴァリニャーノが派遣した少年使節のひとり

千々石ミゲルのことばとして、「日本遣欧使節見聞対話録」には

こう書いてある。

 

「その贈り物のなかに巡察師さまに信長が贈り物とした絵画

もあり、この絵画のうちには信長が築いた安土の非常に広大な

城壁が描かれていた。 ・・・・猊下はたいへんご満足の

ようすをはっきりと示され・・・・」

 

この屏風はヴァティカン宮殿のなかの「地図の廊下」に

置かれていたが、いつのまにか行方不明になった。

・・・おそらく乾燥と修理方法の知識のなさで放置された

結果消え去ったのであろうと推測する。

 

 

=== これは本当に残念でしたねえ。

    この安土城の屏風がのこっていたら復元の一番の

    史料になったでしょうに。

 

 

 

p434

 

今日まで日本に送って日本人がもっとも喜んだものは

オルガン、クラヴォ、およびヴィオラを弾くことである。

・・・のちに秀吉も使節が帰朝して奏楽を行うのを聴き、

感動している。

 

 

p435

 

たしかに、神父らは、安土のセミナリオに信長が突然

やってきて、少年たちが奏でるクラヴォとヴィオラに聴きほれ

なかなか帰ろうとしなかったのを見て感激した。

 

信長がとくにほめた少年はクラヴォを弾いた日向の領主の甥、

伊東義勝だった。・・・・日向は豊後の領主大友宗麟の親族である。

のちに宣教師報告は、ヴァリニャーノがスペインとローマに

派遣する使節の正使として白羽の矢を立てたのは、この少年

だったと書いている。

 

 

=== この秀吉の前で、日本に戻った少年使節が

    演奏をしたと言われていることですが、

    天草市が運営するコレジヨ館に所属する

    「コレジヨの仲間」というグループが

    復元された古楽器を使って演奏会を

    やっているんです。

 

古楽器演奏グループ「コレジヨの仲間」

http://hp.amakusa-web.jp/a0907/Oshirase/Pub/Shosai.aspx?AUNo=8144&Pg=1&OsNo=3

 

https://this.kiji.is/449189965358482529?c=92619697908483575

「コンサートでは、リュートなど復元した西洋古楽器

地元音楽グループ「コレジヨの仲間」が演奏。」

 

5_467

昨年の6月に天草を訪問して実際に聴かせていただいて・・

このグループをバギオ市に招聘して、演奏会をやりたい

んですけどねえ・・・・先立つものがどうなるか・・・

 

                             

 

 

 

p439

 

巡察師は安土から、そこのセミナリオでラテン語を教えていた

ポルトガル人修道士・・・のディオゴ・デ・メスキータを九州

に連れて帰った。彼は少年使節の長期の旅におけるラテン語の

教師として、終始ローマまで付き添っていき、いっしょに

日本に帰って迫害の時期にも日本に残り、日本を愛して

日本で死んだ宣教師である。

 

・・・イエズス会古文書館で、結城了悟師が見出して

翻訳された。 彼は終始ヴァリニャーノに共鳴し、彼にきわめて

近かったので、その語るところはもっとも巡察師の真意に

近いものと思われる。

 

 

p444

 

ヴァリニャーノがこの日本における新しい布教方針をまとめた

決議文の署名の日をわざわざ「東方三賢王礼拝の日」としたのは

彼の心のなかの決意を示すものであったとみることができる。

 

メスキータには、これらのことから巡察師が東の王、すなわち、

宗麟、純忠、晴信の「三人の王」のローマ教皇礼拝を思いついた

のは、自然のなりゆきだったと思われたのである。

 

=== 三賢王はカトリックにとっては大きな意味がある

    ようですね。 4人の少年を使節として派遣したけど、

    一人はスペアだったので、教皇に会えなくて泣いた

    少年もいたとか・・・・

 

https://tabicoffret.com/article/74724/index.html

「日本には馴染みがないけれど、スペインのクリスマスには

欠かせない存在。それが東方の三賢王(三博士、三賢人、三

賢者とも)です。」

 

「三賢王とされるメルチョール、ガスパール、バルタサールは

遠い東の地の占星術師で、1224日の夜にひときわ輝く星を

見つけ、"ユダヤ人の王(救世主)"の生誕を知った」

 

 

 

 

p444

 

パードレは大村からはこのふたり、すなわち原マルティーノと

中浦ジュリアンを派遣することに決めた。 三人目は豊後の王

の家臣で親戚である伊東マンショ、四人目は有馬殿の従兄弟で

ドン・バルトロメウ(純忠)の甥にあたる千々石ミゲルだった。

 

=== 下が少年使節4名のプロフィールのまとめです。

    私が興味を持っているのは ミゲルとジュリアン。

    4人とも、結構当時としては長生きなんですね。

 

 

Scan_img_20190204_0001

 

p446

 

今のところ彼ら(日本人)の多くはなにも理解することが出来ない。

彼らはわれわれが貧しい国民であって、自分の国で食いはぐれた

ので日本になにかいいことがあるか幸運を探してやってきたのだと

思っており、天国について説教をするのはただその金儲けの口実

にすぎないと思っている・・・・

 

私もイタリアの庶民が、日本ではまだ切腹をしてサムライが

ゲイシャと心中していると思っているのを見ると腹が立つ

彼らは、日本の車やオートバイやコンピューターをたくさん

見ているのに、その偏見をあらためようとしない。

サムライがちょんまげを結ってコンピューターを抱えて

オートバイに乗っているとでもいうのだろうか?

 

=== 宣教師は清貧を絵に描いたような貧しい身なりを

    して、布教をしていたらしいので、こいつらは

    詐欺師じゃないかと思われたんでしょうね。

 

    この本には、著者の本音や冗談みたいなことが

    ちょくちょく出てきて、笑ってしまいます。

 

 

p447

 

ヨーロッパの支配者たちが、アジアの島にこのように高度な

人間たちが住んでいることを信じようとしない、宣教師が

いくら書いても信じない、だから「実物」を見せたい・・・・

 

・・・いっぽうでは、狭い中華思想のためにヨーロッパの高度の

文明を信じない日本人・・・

 

=== 現代で言うならば、いくらインターネットやSNS

    世界中を繋いでいるといっても、実際に住んでみないと

    なかなか本当のところは分からないもんです。

    そういう意味でも、最近日本人留学生が減っていると

    いうのは将来に向けて心配ではあります。

    日本が息苦しいと思ったら、広い世界にちょっと

    行って、住んでみましょう。

 

 

 

 

<その13に続きます>

 

 

 

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2019年2月 2日 (土)

若桑みどり著「天正少年使節・・」を読む - その7  女だって天国にいける営業戦略

 

 

 

 

若桑みどり著

天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」を

よんで、私が感じたことを ランダムに書いています。

 

 

 

p252

 

類似点は双方の宗教の儀式や祭典にもあった。

・・・・カトリックのミサと、茶道の作法のなんと

似ていることか。 袱紗の使い方など、どう見ても茶道が

まねたのだとしか思えない

 

p253

 

多くの初期の信者は聖母マリアを観音だと思って拝んだし、

隠れキリシタンはマリア像を観音の像と合体して拝んだ。

ここには普遍的な母性崇拝がひそんでいた。

これほどの類似があるので、布教の初期においては仏僧は

キリスト教を、天竺から渡来した仏教の一派、天竺宗であると

信じたほどだった。

一般民衆はなおさらそう思った。

 

=== 当時 西欧の宣教師が持ち込んだマリア像と

    いわゆる隠れキリシタンが拝んだマリア観音像を

    ちょっと見てみましょうか。

    これは 島原城キリシタン史料館で撮影したものです。

    どうでしょう。似ていますか?

01_074

上は宣教師が持ち込んだマリア像。

下は日本の隠れキリシタンが拝んだマリア観音像。

01_091

 

p261

 

 

この宗教は・・・・

人間の霊魂が不滅であって、神によって理性という光を

与えられた尊厳のある存在であり、死後に動物などには

生まれ変わらないということを教えた。

当時の日本人がどのように考えたかは、布教後、三十年で

15万、なかには30万と数える歴史家もいる、改宗者の数字が

証明している。

 

 

p264

 

古代の山は神聖で、女性は厳禁だった。

(古代の山は申請で、女性は現金だった。・・・冗談)

 

 

まず女性を成仏に導くには、最初にその罪業の深いことを

教え、つぎに、念仏をとなえれば女性でも成仏すると説いた。

成仏とはつまり男性になることだから、女性たちは、阿弥陀の

名号願力によらなければ女身を転ずることはできないということで、

そのためにみな念仏にはげむようになった。

 

 

p270

 

一般の罪深い女や高僧の母が地獄に堕ちるだけではなく、

紫式部は「虚言をもって源氏物語を創作した罪」

堕とされ、皇極天皇さえ女性であるゆえに堕地獄となった。

 

 

p271

 

なんら自分の罪ではなく、女に生まれただけのために

最初から地獄に行くという話はどうしても納得できない。

そのこともあって、熱心なキリスト教徒になった人に、

いかに女性が多かったかという理由が推測できる。

 

・・・ただし、ここでぜひ断っておきたいのは、

キリスト教もりっぱな女性蔑視の宗教であったということである。

 

==== 仏教の場合は輪廻で当然のように地獄に

     落ちるってんじゃあ、そりゃあキリスト教に

     改宗したくもなるってもんですよねえ。

 

     じゃあ、元々のお釈迦様はどんなことを言って

     いたかを原始仏教の「スッタニパータ」で

     見て見ますと・・・・

 

     「「ブッダのことば」(スッタニパータ)」

     http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2012/08/post-4c5c.html

     「<出家修行者の理想像>

5. 出家修行者のあり方については、

妻、子供、家族、親戚、世間との一切の接触を断ち、

「独り」で村はずれの洞窟や木の下に住み 一切の所有

をしないことを求めている。

最初期の仏教修行者は住居とか臥床というものをもって

いなかった。さらに、せいぜい毛布か布にくるまって寝て

いただけ、とも書いてあります。。」

 

「8. カースト制度のインドにあって、「生まれによって

賤しい人となるのではない、行為によって賤しい人となる」

としている。」

 

・・・ここまでだと、はっきりとは分からないのですが、

こちらのサイトにその辺りのいきさつがまとめてありました。

 

http://syuronoki.blog.jp/archives/1047748363.html

お釈迦さんは男女の差別観はもっていなかった

お釈迦さんは「人には男女の区別があるが、人の本性

に差異があるのではない。男も女も道を修めれば、然るべき

心の道筋を経て悟りに至る」と語っておられるように、

男女の差別観はもっておられなかったのですが、お釈迦さん

入滅後に「五障・三従」のような女性差別的な思想が入り込み

仏寺でも女性禁制の場所が至る所にでき、宗教的に女性は

「救いがたき者」「仏になれない」という考えが仏教の常識的

な思想となっていったようです。」

 

「釈迦入滅から、およそ500年後頃に作られたとされる

無量寿経において、「男女は平等」というお釈迦さんの

教義を取り戻すべく、法蔵菩薩さんの第35願で女性が

変成男子となって仏になるという教えができました。」

 

 

 

p272

 

少なくとも、歴史的に見た場合、人間が自然で素朴な原始的

状態にあったときには、動物のように、生殖し生殖するために

いきていたのだから、性が罪として意識されてはいなかった。

そのころは繁殖の支配権は女性が握っていて、子供の親は

母親しかわからなかった。

 

・・・農業牧畜ができて、それに従っていた男性の地位が、

子供を生む女性の地位よりも高くなったのである。

 

・・・そこで、生殖することや、その生殖器官を賤しいもの、

穢いものとし、その器官をもっている女性をまとめて

低い存在にする宗教を考えだした。

 

 

p273

 

ザビエルも仏教を批判する手紙のなかで・・・・

「(仏僧は)女たちは地獄から救われる手段がないと説きます。

そして月経があるために、どの女も世界じゅうのすべての男の

罪を合わせたよりも罪が深く、・・・・・

女たちが地獄から救われるために残された最後の方法は、

女たちが男たちよりもたくさんの布施をすることで・・・・」

 

=== 要するに日本の場合は「穢れ」の思想があるって

    ことですね。

 

    上のリンクの親鸞さんは、最終的に、

    「浄土和讃での変成男子論の誤りをこの源信さん

の思想でハッと気付かれたのかも知れません。ここに

至って、親鸞さんの思考には、もはや変成男子の意識は

なかったでしょう。男であっても女であっても、みんな

平等に何ら変わることなく、阿弥陀如来のふところに

抱かれ、やすらかな人生と西方浄土が約束されていると

いう確信だけです。」

 

・・・この辺が 当時 一向宗が民衆受けした点かも

しれないですね。

 

ちょっとそこで「穢れの思想」が元々どこから来たのか

ですけど、こちらのサイトでは:

 

「穢れの概念はもともと日本にはなかったと考えられる。

なぜなら日本に住んでいた縄文人が狩猟民族であるからだ。

動物を殺して肉を食べるのだから「死」に抵抗を感じて

いたら生きていくことはできない。 これに対し、弥生人は

米を生産する農耕民族なので基本的に動物を殺さなくても

生きていくことができる。農耕民族にとって「死」は豊穣の

対極にある嫌なものであると考えられる。外からやって来た

弥生人は穢れ思想を持っていたと思われる。」

 

・・とされているようです。

弥生人が持ち込み、されに仏教が穢れという考えを加速

したようです。

 

 

p275

 

この厳格な一夫一婦制の教えが日本の実情にも性的慣習にも

合わなかったのである。

 

このことが当時の日本の一夫多妻の習慣や心のありかたに

どれほどの衝撃を与えたかは想像を越えたものがある。

 

日本人の性道徳は非常にゆるやかで、男女とも純潔、貞節と

いう考えは希薄だった。 

・・・人妻だろうが、娘だろうが、女を多く奪い、

蓄えるのが男子の甲斐性ということであったし、・・・・

・・・・性的モラルがルーズだということは、けっこう

自由な恋愛もあったし、離婚した女にけちがつかないという

こともあったと歴史家は指摘している。

 

 

p278

 

複数の宣教師が狂った女たちがキリスト教で治った例を報告

しているので、それは事実であったと思われる。

これは悪魔の問題ではなくて、もちろん精神医学に関係

する。 西洋でも女性はきわめて気が狂いやすいという報告

があり、アリストテレスはそれは女の子宮(ヒステリア)

原因だというのでヒステリーと名づけた。

 

 

279

 

このような心の病いは、女性たちが性的な意味で塗炭の苦しみ

忍んでいたせいであろう。 とりわけ嫉妬は身も心も苛む

恐ろしい狂気である。

まして、自分が男の子供を生むことができず、ほかの女が

夫の跡継ぎを生むようなことがあれば、その理不尽な苦痛

は想像にあまりあるものがある。

 

しかも、儒教や仏教は、嫉妬すれば地獄に堕ちると教えて

いるのだから、・・・地獄に堕ちる恐怖もいっしょに味わう

ことになる。

 

苦しみを告白し、せめて地獄には堕ちないと言われるだけでも、

すこしは平安をとりもどすことができただろう。

 

さらにまた、キリスト教は正式な夫婦しか認めないという

教えを聞けばいっそう心の誇りをとりもどすことができる

だろう。

 

=== 戦乱の世の中では、特に女性を人格とは見ない

    習慣が蔓延していたんでしょうね。

    それは戦争中の慰安婦問題でも日本に限らず

    歴史的にみられることのようです。

 

    これはもう本能のレベルになってしまうような

    過酷な環境があったと感じます。

    狂った状況で理性的な判断ができるわけがない。

 

 

p280

 

歴史上稀代の女狂いは太閤秀吉だったが、正妻北の政所は

さぞ苦しんだであろう。 

・・・この政所にはふたりの熱心なキリシタンの侍女がいた

そうで、・・・政所はこう言ったそうだ。

「それでわたしには、キリシタンの掟は道理にかなっているから、

すべての掟のなかで、もっともすぐれており、またすべての

日本の諸宗派よりもりっぱであるように思われる」。

 

 

p281

 

太閤の正室がキリシタン信仰に傾いていたということは

多くの報告から知られているが、・・・太閤のあまりの好色を

耐えることができないということから、・・・「掟」に惹かれた

のであろう。

 

=== どうも、秀吉の場合は、単に色狂いなんですかね??

    まあ、昔から英雄色を好むという言葉はありますが。

 

 

 

 

 

<その8に続きます>

 

 

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若桑みどり著「天正少年使節・・」を読む - その1 アルメイダと織田信長

 

 

 

若桑みどり著

「天正少年使節と世界帝国・クアトロ・ラガッツィ」

を読んでいます。

 

クアトロ・ラガツィというのは四人の少年という意味の

イタリア語だそうです。

 

002

これはちょっと気になった部分をランダムに抜き書きし、

私の個人的な感想を書いたものです。

 

 

私がこの本を読む目的は、日比友好イベントの準備で、

「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連世界遺産」を題材にする

ことに決めたので、戦国時代のキリシタン関連の情報が欲しい

ということでした。

特に四名の少年の中でも千々石ミゲルがどのような人物

であるかを知るためなんですが・・・。

 

そしてこの本は小説だと思っていました。

ところが、この本は歴史小説ではありませんでした。

でも、戦国時代の信長、秀吉、そして徳川などと

ヨーロッパの当時の事情が臨場感をもって描かれていると思います。

 

ちょっとよい表現がみつからないのですが、

まるで大学で歴史の授業を受けているような感じがしました。

基本的にはいろいろな史料をもとに解説をしてあるようで、

そのあちこちに教授の本音とも冗談とも言えないような

主張がちりばめられていて、クスっと笑いたくなるような

楽しい授業です。

 

 

 

 

p51

 

1559年には、彼は二百人もの病人を治した。

アルメイダ自身、あまりにも回復率が高いので自分で驚いた

と書いている。・・・・・・

 

=== アルメイダについては、こちらでどうぞ:

    http://oitahistory.jp/ruisdearumeida.html

    アルメイダは、1525年にリスボンで生まれました。

    彼は大友宗麟の城下町、豊後府内(大分市)に行き、

私財を投じて乳児院を建てました。なぜなら、彼は親が

幼子を大分川の入り江の砂地におき、満ち潮で溺死

させるのを目の当たりにしたからです。

 

 

病院の食事が相当に影響したのではないかと考えられる。

フロイスが書いているところをみると、まず貧しい者には

けっして口に入らない米が主食で、魚、犬、猿、猪、鶴、

猫などの肉、野菜に味噌汁というバランスのよい食事で、

その上、牛乳、バター、チーズ、鶏卵などが栄養食として

だされていた。

 

 

p56

 

キリスト教が・・・・・

なぜ、伝道後数十年にして信者が九州の全人口の30パーセント

をこえる三十万に達したのか。

・・・キリスト教がまず貧民の救済事業を行ったということが

大きく関係している。

 

==== 30パーセントというのは物凄い数字ですね。

     現在の日本におけるキリスト教徒は

     こちらのサイトでは 1%とされています。

     https://ja.wikipedia.org/wiki/日本の宗教

 

 

 

p61

 

キリスト教では貧乏や病気は本人の罪ではない。 

しかし、仏教には輪廻と前世の業の思想があって・・・

 

p65

 

ハーレンは一般の庶民にとってもこの新しい宗教は魅力が

あったのだと言っている。

それは、日本では貧困は天罰だとされていたが、

新しくやってきたパードレたちは「貧困は美徳だ」と

説教したからだと。

 

ヨーロッパとちがって、日本では貧しいということは

たいへん不名誉なことである。 ヨーロッパでは司祭は

貧しい服装をしているほうが尊敬されるが、日本では

服装が貧しいとまず尊敬されない。

 

=== 私が今まで思ってきたこととはちょっと違和感が

    あるんです。

    子供の頃から「清貧」という言葉をよく聞いて

    いたし、それが良いことだと思ってきたので。

    日本ではいつから「清貧」のイメージが出て

    きたんでしょうね?

    戦後のイメージ戦略でもあったんでしょうか?

    「成金」のイメージが対比できるような気が

    しますが・・・・

    ちなみに、戦前の日本の古い写真をみると

    フィリピンのバギオ市にあっても

    日本人は良い身なりをしていました。

    映画館に家族で行くのにも、ほとんど正装

    をして出かけていたとバギオ生まれの日本人

    の方に聞きました。

 

 

p71

 

アルメイダは、薬品をマカオから買ったり、医者の卵を

育てたり、病院を経営したりするために非常にお金がかかり、

その上、宣教師は貧乏なので、その仕事を助けようとして、

資金の調達を考えるようになった。

それには、彼が熟達していた商人としての腕を利用した。

 

p78

 

1571年にはスペイン人がフィリピンのマニラを占領したので、

それ以後、ここはスペイン人による中国・メキシコ交易の中心

になった。 ・・・日本との交易はもっぱらマカオに基礎が

おかれ続けた。

すべての交易が長崎に限定される1634年までは、こうして

「マカオから来る大きな船」が日本と中国と西洋をつないで

いたのだ。

 

=== 1571年に日本ではどんなことが起こっていたか

    と言えば・・・・

    https://ja.wikipedia.org/wiki/比叡山焼き討ち_(1571)

    織田信長による比叡山の焼き討ち・・・です。

    織田信長がいたからこそ、キリスト教はこの時期

    拡大できたようです。

    ただし、信長には彼なりの野望があったようですが・・

 

 

<その2に続きます>

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