カテゴリー「旅行・地域」の記事

2017年9月29日 (金)

ビクトリー・ライナーの謎・・・マニラーバギオ路線 First Class の不思議

先日 ちょっと日本国大使館に用事がありまして・・・

一週間の間をおいて バギオーマニラ間を2往復したんです。

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Victory Liner というバスには 途中で2~3回休憩が入る普通バスと
バギオからマニラのパサイのターミナルまで休憩なしの直行便である
ファースト・クラスのバスってのがあるんです。

普通バスだと 8時間前後。

First Classだと 5時間前後でマニラに到着できます。

もちろんその時の渋滞次第ですけどね。

さて 本題ですけど・・・・・

一回目の往復の時

このファースト・クラスのバスには 「スチュワーデス」と自ら名乗る
女性が同乗していまして チケットの確認やら 水のボトルとお菓子の
配布・・・そして車内トイレの掃除なんかをやっているんです。

スチュワーデスなんて言葉は もう死語になっているんかと思って
いたら なんとバスの中で復活しているんですねえ・・・
もっとも フィリピンだけの話かもしれません。

ちなみに スチュワーデスという言葉を辞書で確認してみると:::

stewardess【名】
スチュワーデス◆【無性語】flight attendant 

航空乗員と言うのがその意味になっていて・・ 

日本では「フライト・アテンダント」ですよね。 

フィリピンでは いつの間にか 航空乗員の意味が バスの乗員に
なっているみたいです。

その1回目のマニラ往復の時の スチュワーデスが
シートベルトをお締めください・・・・・」
って 言ったんです。

まあ フツーのことですよね。

はい もちろん シートベルトはありました。

ところが・・ですね・・・

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このシート・・・何か気付きませんか?

ファーストクラスのバスの座席です。 立派です。

ゆったりと座れます。

・・・ところが・・・・シートベルトが無い・・・

この写真は 2回目の往復の時に乗った
ファースト・クラスのバスなんです。

1回目のバスにはあった シートベルトが
2回目のバスには無かったんです。

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さすがに 2回目のバスのスチュワーデスは
「シートベルトをお締めください」とは
口が裂けても言えません。 言いませんでした。

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・・・さて この新兵器にお気づきでしょうか?

なんと バスの全席にこんなパネルが・・・・

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映画も見られます・・・凄い!!

スチュワーデスだけかと思ったら ここにも
飛行機並みのサービスがあるんですねえ・・・

しか~~し 安心してはいけません・・・

ここはフィリピンです・・・

スチュワーデスさんが イヤホーンあるいは
ヘッド・セットってのを乗客みんなに配ると
思うじゃないですか・・・・

そんな様子が全くないんです・・・

じぇじぇじぇじぇ・・・

隣の乗客がスチュワーデス嬢と話しているのが
聞こえてきました・・・

「by your own・・・・・」

つまり 「持参してもらっています」 って話みたい。

映画を見ることはできるけど

その音を聴きたかったら自分のイヤホーンを
持参しなさい・・・・ってことらしいんです。

流石に「自己責任」のお国です。

びっくらこいちゃいました・・

椅子からすべり落ちそうでした・・・

シートベルトも無いことだし。

まあ 最近は いろんな携帯電子機器を持って
いる人が多い時代ですから ちゃんと持参している
人もいるんでしょうけどねえ・・・・・

配っちゃうと無くなってしまうし・・・涙

・・・・・

さて 一回目のバスと 二回目のバスを比較して
みましょうか:

項目       1回目      2回目

エアコン     超寒い     やや寒い

シートベルト   有り       無し

テレビパネル  有り       有り

イヤホーン    無し       無し

・・・・

エアコンの事を書いているのは
ビクトリー・ライナーのバスは 超寒いというのが
定説だからです。

冬の装備で乗らないと後悔します。

普通バスの場合は エアコンの冷気の吹き出し口
の調節がほぼできません。
壊れています。

ファーストクラスのバスは その点はほぼ大丈夫。
自分のところの吹き出し口を自分で締めることは
出来ます。

でも他の座席の吹き出し口まで締めて廻るわけには
いきません。

寒いです。

・・・・・・

ファースト・クラスのお客ならではのもうひとつの
メリットがあります。

それは これです:

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パサイのターミナルの二階にあるんです。

冷房の利いた ラウンジです。

一階の待合所は めっちゃ暑いです。
汗がだらだら落ちます。

ファースト・クラスのチケットを持っていたら
二階のラウンジで待ちましょう。

・・・・・

これは番外の極秘情報ですが・・・

愛煙家の皆さんに特別な情報です。

基本的にバス・ターミナルは全面的に禁煙です。

大統領令に逆らうと 銃殺されても文句は言えない
お国柄です。

しか~~し ここはフィリピンです。

バス・ターミナルの奥に行くと
キャンティーン(食堂)があります。

それをさらに通り抜けて奥に進むと
運転手などの従業員の為の休憩所があります。

従業員が椅子にひっくり返って寝ていたりします。

そこでは煙を楽しむことが出来ます。

これは極秘情報です。

おおっぴらにするのは「藪蛇」になる可能性があります。

男は黙って利用しましょう。

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2017年9月 3日 (日)

108周年 BAGUIO DAY パレード 2017 - 福者・高山右近のお神輿が・・・

2017年9月1日は バギオ・デイ と呼ばれる バギオ市制108周年のお祝いの日でした。

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毎年 この バギオ・デイ・パレードには参加しているんですけど・・・

昨年までは コスプレ団体からのお声掛かりで コスプレのグループに混ぜてもらっていたんです。

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今年は バギオ・コスプレ・コミュニティーのリーダー不在ということで 

この写真の 高山右近さんが リーダーになりました。

・・・ってなことはありません。

羽織袴の日系人団体の事務局長さんがバギオ市からの招待を受け

私たちにも声をかけて下さったというわけです。

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では ちょっと 他のグループの様子を眺めてみましょう。

上は バギオ・シティー・ナショナル・ハイスクールのブラスバンドですね。

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こちらは 地元山岳民族の衣装で参加の子供たち。

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小学校の器楽合奏部のようです。

フラワー・フェスティバルなどでも大活躍しています。

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これも山岳民族の民族衣装・・・・男は大変です。

この褌は上着です。 日本の褌は下着ですけどね・・・・

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KNIGHT(騎士)という文字が見えます・・・が・・・なんだか分かりません。

秘密結社ですかねえ・・・・それにしちゃあ派手・・・・

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さて・・・・この バギオ・デイ・パレードは バギオ市の108周年記念イベントなんですけど・・・毎年 バギオ市の歴史を振り返る いわば 「歴史絵巻」 を表しているんです。

・・・で このセクションは 「先住民の時代」 ってことになります。

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・・・で 山岳民族の衣装のグループなわけです。

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フィリピンと言えば スペインの植民地時代が 長かったんですけど・・・

スペイン植民地時代(1565年-1898年)だそうです。 300年以上なんですねえ。

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・・・・で その後には スペインからアメリカに売られちゃった。

アメリカ合衆国植民地時代(1898年-1946年)ってことです。

ただし・・・バギオ市は 1903年ごろから開発が始まっているんで

スペインの影響はあまり大きくはなかったようです。

山岳民族が スペインに対してかなりの抵抗をしていたらしい。

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そして この1946年までのアメリカ植民地時代に 殴り込みをかけたのが

いわずと知れた 大日本帝国なわけですね。

1941年12月から1945年8月の終戦まで 日本軍の占領時代になるんですね。

・・・実は・・・

10年ほど前に 初めて このパレードで この日本軍のパレードを見たときには

正直言って いたたまれない気持ちになったもんです。

まあ それは歴史の事実ですから 受け止めなくちゃいけない話なんですけど。

パレードで歩いている日本軍の扮装をした若いフィリピンの人たちが

なんだか「いやいややっている」風に見えて複雑な感じでした。

それは私の心の投影だったんだと思うんですけど・・・・

・・・でも 上の写真の参加者たちが 笑顔であったので 救われたような気持ちになりました。

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日本軍と言えば フィリピン人の間で今も生きている 「山下財宝」。

実は この集合場所である バギオ・コンベンション・センターの周辺にも

その財宝が眠っているという噂があって。。。実際に発掘の申請書が

市役所などに提出され それが認可された・・・って話です。

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さて・・パレードは 10AMに出発の予定で 我々の日本人コミュニティーのグループは 準備完了です。

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・・・コスプレ・グループにもFACEBOOKで声をかけたら

十数人が来てくれました。

嬉しいですねえ。

・・・・ ところが・・・・ 写真でもおわかりのとおりで・・・雨が・・・・

朝から怪しい雲行きだったんです。。。。

で10AMが近づくにつれ パラパラが だんだん 小雨状態になりまして。

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どんどん 悲観的状況になって行きました・・・

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高山右近さんも 風前の・・・いや雨下のともしび状態・・・・

紙で作られた七夕飾りも どこまで耐えられるかという危機的状態になりました。

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・・・そして ついに 10:30amごろ パレード担当の係員が

グループを廻って 「パレード中止」 を伝えたのでした。

ああああ・・・・無情の雨・・・・

雨がしょぼふる中を ショボショボと歩いて帰るのか・・・

高山右近のお神輿は どうやって持って帰るのか・・・

ややパニック状態。

コスプレ・グループに 「パレード中止」を告げると 「ああ~~」

「ええ~~~」 と軽い悲鳴。。。。。悪かったねえ。。。

せっかくメイクに時間をかけて参加してくれたのに・・・・

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・・・ところが・・・

みんな暗い気持ちで 高山右近さんを担いで 日系人会館へ戻ろうと

歩き始めると・・・・

なんと 空模様が回復してくるじゃあないですか!!

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英語留学中の3人衆が 「わっしょい! わっしょい!」 の音頭をとり

それに他のみんなが 声を合わせて 盛り上げてくれました。

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雨も上がって 地面もほぼ乾いて・・・・

フィリピン大学バギオ校の隣にある公園で 高山右近のお神輿を囲んで

記念写真を撮ることに・・・・・

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コスプレ・グループは現地解散したんですけど・・

日本人の観光客の3名さんは ここまでお付き合いして下さいました。

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目抜き通りの セッション通りを練り歩くことはできませんが

ここからは 「撤退パレード」を開始。

日本人コミュニティーだけのパレードとなりました。

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バギオ博物館の横を通過・・・・

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 Baguio City National High School の前を渡り。。。。。

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コーディリエラ大学の横を 浴衣姿が練り歩き・・・・

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バーンハム・パークを通過するころには 高山右近さんも 乾いてきました。

雨に濡れた七夕飾りも ぎりぎりセーフ。

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阪神タイガースも 元気です・・・・

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日系人団体アボンのスタッフも 「わっしょい! わっしょい!」と元気。

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(写真: Jonas Castilo さん)



公園を抜け・・・・最後の坂道にかかります・・・

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そして・・・・・日系人会館「アボン」に到着です。

この間・・・雨は一滴も降らず。

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「な~~んだ・・・これなら パレードを中止しなくったって 良かったじゃん・・・」

という恨み節も聞こえそうな お天道様でした。

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でも・・・結果よければすべて良し。

最後は 自分たちのパレードだけで 満足 満足の一日になりました。

・・・そして お昼前から ビールで乾杯。

とするうちに 大雨になりました。

まあ よく 我慢してくださいました。

てるてる坊主に ちょっとだけ感謝。

 

 

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2017年6月22日 (木)

日本の少子化対策はあるのか・・・フィリピンの田舎でふと思う

最初に断っておきますが、これは真面目な経済対策なんかを
書いているわけじゃありませんので・・・悪しからず。

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昨日、大家さんちで働いているヘルパーさんのお母さんが
亡くなったということで、田舎の葬儀に顔を出して来たんです。

この男のヘルパーさんには、2005年以降ずっと、いろいろと
助けてもらっていて、特にインターネットやケーブルテレビでは
お世話になっているもんで・・・

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それに、フィリピンの幅広い話題についても、なかなか面白い
話を聞かせてくれるので、重要な情報源にもなっているんです。

なんで、葬式に行って、日本の少子化のことなんぞを
考えたかっていうと、
・・・・・こんな田舎の光景を見たからなんです。

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それに、田舎まで行かなくても、日頃からバギオ市の下宿屋の
周りでも、犬や猫の代替わりを何度も見て来ましたしねえ。

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ところで、ちょっとばかり、フィリピンと日本の経済的
あるいは人口的なデータを思い出してみましょうか・・・

「人口増加率や経済成長率から見る「フィリピン」の現状と将来性」
http://gentosha-go.com/articles/-/2384

「フィリピンの人口は、JETROのHPによれば2014年には1億人を
突破しました。その出生率は3.08人と、東南アジアで最も高い
数字を誇ります。
何より若い世代で構成されているのが最大の強みです。
全国民の平均年齢は、約23歳。つまり生産年齢人口が、圧倒的に
多いというわけです。
なお日本の平均年齢は45.2歳で、県によっては50歳を超えています。」

「フィリピンは、人口規模で言えば、ASEANの中ではインドネシアの
2億5000万人に次ぐ規模です。国連の人口中位推計によれば、
2028年には1億2300万人に達して日本を追い抜きます。そしてその後
も人口は増加し続け、2091年までは右肩上がりとなる見込みです。
このように安定的な人口増加が続くフィリピンでは、豊富な労働力
の供給が長期的に期待できます。」

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・・・・

人口のピラミッドの図表なんかをみると、歴然としますよねえ。
日本のは「ぞっと」し、フィリピンのは「おお~~」って
感じです。

フィリピンの田舎の光景を見て、私は昔の、自分が小学生
だった頃の 地方都市(長崎県佐世保市)や、佐賀県の
お米がたくさんとれる平野地帯の田舎を思い出したんです。

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田舎には、もちろん鶏が遊んでいたし、地方都市でも
犬や猫は放し飼いでした。

あちらこちらで、動物たちの自然な営みが見られました。
そういうのが子供の頃からの性教育でもあったんですねえ。

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おまけに、うちでは、中学生の頃だったと思うんですけど、
雑誌の袋とじのページのようなものの中に浮世絵の
なんとかかんとか四十八手みたいなものが
さりげなく、今思えば意図的に、縁側なんかに置かれていたり・・・

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こういうやつですね・・・

浮世絵春画曼荼羅
http://www.toenta.co.jp/ukiyoe/

まあ、あの頃は、夜も早かったですけどね。
さっさと街中も暗くなったし・・・・

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いろいろと難しい専門家の解説もあるんでしょうが、
子供の頃の 身の周りの自然な光景というのも 思いの外
インパクトがあるんじゃないかなあ~~、なんて思うわけです。

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・・・・・そして、人の生き死にってのも、自然がいいよなあ~~なんて

心底思う 今日この頃な訳ですわ。

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・・・なっ、そうだよな? 黒ちゃん・・・・

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・・・ん??   何か ご意見でも???

   

 

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2017年5月16日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 109  革命軍の分裂、そして リサールの運命

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」 

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p240

「マグディワンとマグダロの議会」

革命が勃発した時に、カビテ州では、ふたつのライバルとなった

カティプナンの州議会があったことに留意すべきであろう。

―― バルドメロ・アギナルド(エミリオ・アギナルドの従兄)が

率いるイムスを州都とするマグダロ議会と、マリアノ・アルバレス

(ボニファシオの妻であるグレゴリア・デ・ジーザスの叔父)を

代表とする、ノベレタを州都としたマグディワン議会である。

ボニファシオがカビテに到着するとすぐに、マグディワン議会は

以下の役員をもって再組織された:

King (王)…………………………………………….Andres Bonifacio

Vice-King(副王)…………………………………Mariano Alvarez

(以下省略)

・・・・・

これに負けじとばかり、マグダロ議会は同様に以下の役員で

組織した: 

President(大統領)……………………………Baldomero Aguinaldo

Vice-President(副大統領)……………….Edilberto Evangelista

Lieutenant General(中将)……………….Emilio Aguinaldo

(以下省略)

=== この時点では、エミリオ・アギナルドはふたつの議会の

    一方の中将に過ぎなかったわけですね。

    まあ、軍の大臣ということでしょうが。

    しかし、一番上の地位を キング(王様)ってするのって

    どういうことかな? 革命軍なのに・・・

    スペインに対抗して、こっちだって王様だ~~いって

    言いたかったのかな?

 

p241 

ボニファシオがカビテ州に来る前までは、これらのふたつの

カティプナン議会は、ライバルではあったものの、お互いに

協力して共通の敵に対していた。 ・・・・・ 

カビテにボニファシオが到着すると、この・・・良い関係は

終わり、不和が自由論者の依って立つところを弱体化させた。 

・・・・ 

p241

「リサール博士の処刑」 

1892年以来、リサールはミンダナオ島の寂しいスペインの

辺境の地であったダピタンに流刑の身となっていた。

彼はそこで、医療行為を行ない、町の水道設備を造り、

少年たちの為の学校を開き、文学の著作や科学的な研究を

続けていた。 

4年間の静かな生活の後、彼はキューバにおけるスペイン軍の

外科医の職に希望を出した。その当時、キューバでは革命の

嵐が吹き荒れていた。  彼の陳情は認められ、マニラに向け

出航し、1896年8月にマニラに到着した。

フィリピン革命はその時勃発した。

少々遅れて、彼はスペインへ行くことを許可された。

スエズ運河で、船長はマニラから電信を受け取った。

それは、船長にリサールの逮捕を命じるものだった。

バルセロナに到着すると、リサールは囚人とされ、

マニラに送り返された。 そして、そこでフォート・サンチャゴに

投獄された。 

==== さあ、さあ、さあ、皆さま お立ち会い。

     いよいよ、かの有名な ホセ・リサールの処刑ですよ。

     この処刑がフィリピンの歴史の中でどのような

     意味をもっているのか、実に興味のあるところです。

     しかし、キューバで外科医の職に就きたいって、

     そんなエピソードがあったんですね。

     リサールはどんなことを考えていたんでしょうか。

・・では、次回 シリーズ 110 をお楽しみに・・・

 

 

 

 

 

 

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2017年5月12日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 105  暴力革命を目指すカティプナンとボニファシオ

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

 

さあ、いよいよフィリピン革命の始まりです・・・

 

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p227

「カテイプナンの結成」

アンドレス・ボニファシオは リガ・フィリピナのメンバーであったが、

Compromisariosには参加しなかった。 それは保守的な知識人

(マビニやアンブロシオ・リアンザレス・バウティスタのような)

や、裕福な商人(ドミンゴ・フランコのような)のグループであった。

そして、ボニファシオは、貧しくて、行動の人であり、過激

考え方をしていたからだった。

彼は、フィリピンの人々の幸福と福祉は、改革への平和的な請願

では達成できず、暴力革命によるしかないと確信していた。

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1892年7月7日の夜、彼と数人の、彼と同様に過激な愛国的な

友人が、・・・秘密裏に集まった。

この秘密会合で、彼らは秘密の革命共同体を結成した。

これは 

Kataastaasan Kagatanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan 

(Highest and Respected Soiety of the Sons of the People)  

(人々の息子たちの最高にして尊敬さるべき共同体)と呼ばれた。

あるいは、 K.K.K. 又は 簡潔に カティプナンとして知られている。 

K.K.K.の目的は、 

(1) フィリピン人を団結させる、 

(2) フィリピン独立の為に戦う

であった。

カティプナンの出現はフィリピンの歴史において顕著なものであった。

第一に、それは改革の為の平和的なキャンペーンの終焉であり、

武力革命運動の幕開けであった。

そして、第二に、フィリピンの人々は、絶望の中にあって、

もはや単なる改革を望まず、完全な独立を熱望したのである。

 

「カティプナン政府」

単なる秘密の共同体を超えて、カティプナンはそれ自体で

政府であった。  それは二つの憲法を持った。

最初の憲法は1892年に広められ、二番目(最初の憲法の

置換え)は1894年に公布された。

カティプナンの中央政府は最高協議会の中に、代表、

法務、書記長、財務そして監査を置いた。

それぞれの州には、州議会を置き、町ごとに民政議会を

置いた。 

カティプナンの初代の代表は、デオダト・アレラノで、

彼はマルセロ・H.・デル・ピラールの義理の兄弟であり、

ボニファシオの友人でもあった。

・・・・

 

p230

「カティプナンの文学」

カティプナンの3人の著作者は、ボニファシオ、ジャシント、 

そしてピオ・ヴァレンズエラ博士であった。

彼らは人々の愛国心を盛り上げる為、愛国的精神を起こす為に

扇動的文学を書いた。

・・・・・・ 

エミリオ・ジャシントは、サント・トーマス大学の若い法学部の

学生で、一番若く(19歳)そして最も知的であり、

最高の作家でもあった。

彼は、ボニファシオへの助言者となり、カティプナンの文書の

ほとんどを作成し、これによって、「カティプナンの頭脳」と

して知られるようになった。・・・・

ヴァレンズエラ博士はボニファシオやジャシントを助けて

KalayaanLiberty 自由)というカティプナンの新聞

編集した。

・・・・・

「 「Kalayaan(自由)」、カティプナンの機関誌」

1894年、カティプナンは、ビサヤ地方の愛国的フィリピン人

二人からの寛大な寄付金で、古い手動印刷機を購入した。

・・・この二人はオーストラリアで数年働き、その国で

福引の賞金を獲得したのだった。

・・・

 

印刷機の存在は極秘とされた。

ジャシントの監督の下で、二人の印刷者、ファウスティノ・ドゥクゥ

とウルピナオ・フェルナンデスは、カティプナンの機関誌である

Kalayaanを印刷した。

この革命的新聞は社会の理想を広めるために、ジャシントによって

創設された。 創刊号は1896年1月に出来上がった。

スペイン当局の眼を欺くために、発行人欄を偽り、編集者は

マルセロ・H.・デル・ピラールとし、横浜で印刷された

ことにしていた。

 

p231

「フィリピン独立の産声」

1895年の聖週間に、ボニファシオとKatipunerosの一団は

Montalbanの山々を偵察し、秘密会議を開く為の良い隠れ家を

探した。・・・・・

=== Katipunerosの意味は、こちらです:

Katipuneros

http://en.wikipilipinas.org/index.php/Katipuneros

List of Notable Katipuneros

これから判断するに、カティプナンのメンバーのことを

カティプネロスと呼ぶようです。 

1895年4月10日、ボニファシオと彼の仲間は

Bernardo Carpioの洞窟に入り、そこで秘密会議を開いた。

その会議の後、アウレリオ・トレンティノが炭の一片を

拾って、洞窟の壁にスペイン語でViva  la  Independencia Filipina!

(フィリピン独立万歳?)と書いた。

これがフィリピンの歴史に於ける フィリピン独立の産声であった。

 

==== さあ、いよいよフィリピン革命に向けての

     産声があがり、これから革命に向けて動きだします。 

・・・・ 次回 シリーズ 106号では 日本との関係も出てきます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 104  フリーメーソンとホセ・リサール One Like All

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

 

 

=== さあ、フリーメーソン(あるいはフリーメースン)が出て来ました。

    私のイメージは、秘密結社、世界的、陰謀論・・程度なんですが、

    フィリピンのバギオ市に来たら、フリーメーソンの看板が

    掛かった建物があって、おおっぴらだったんで驚きました。

    ちなみに、私にフィリピンの歴史を教えてくれている

    元大学教授もフリーメーソンだそうです。

    全然秘密でもなんでもありません。

 

フリーメイソン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3

フリーメイソン: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社
現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。

なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド・ロッジは「フリーメイスン」と表記している。

===それでは、さっそく本題にはいりましょう。

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p225

 

「フリーメーソンとプロパガンダ運動」

 

フリーメイソンはプロパガンダ運動で著しい役割を演じた。

多くのフィリピン人愛国者がフリーメーソンになった。

その中には マルセロ・H.デル・ピラール、G. ロペス・ジャエナ、

 

リサール、ポンセ、等がいた。 なぜなら、彼らは

改革の為に戦う上で、スペインやその他の海外のフリーメーソンの

助けが必要だったからである。

 

最初のフィリピン人フリーメーソン・ロッジrevolucionと呼ばれた、

はロペス・ジャエナによってバルセロナに設立され、1889年

4月に ドン・ミゲール・モライタが率いる グランデ・オリエンタル・

エスパノールによって認められた。

残念なことに、この最初のフィリピン人フリーメーソン・ロッジは

長くは続かなかった。

それは、1889年11月29日に尊敬すべきマスターの地位から

ロペス・ジャエナが退いた後に消滅した。

 

翌月、M.H.デル・ピラールは、ジュリオ・ロランテの助けを得て、

マドリードに ロッジ・ソリダリダッドを組織した。

・・・・やがて、ロッジ・ソリダリダッドは成功し、

他のフィリピン人たちも参加した。 そこには、リサール博士、

 

ペドロ・セラノ、バルドメロ・ロハス、ガリカノ・アパシブルなど

がいた。

スペインとフィリピンの全てのフィリピン人フリーメーソン・ロッジ

はプロパガンダの拠点となった。 彼らはスペインでの

改革のキャンペーンを支える必要資金を調達した。

 

=== このフリーメーソンですけど、日本ではかなり

    秘密結社で、陰謀がらみの話が多いようですけど、

    幕末ごろに日本でもフリーメーソンが関与して

    いたんじゃないかという話もあるみたいですね。

    確かに、誰が黒幕になって、資金を提供していたのか

    という点では気になるところです。

 

ちなみに、こんな本も出版されているんですねえ。

龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) 文庫」

https://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95-%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%A8%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E9%83%A8%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8A%A0%E6%B2%BB-%E5%B0%86%E4%B8%80/dp/4396335067

 

 

 

p226

「ヒスパノ-フィリピナ協会」

 

フィリピン人のプロパガンディスト及びスペインの協力者たちは

フィリピンの改革を確実にするために 1889年1月12日に

マドリードで ヒスパノ-フィリピナ協会を組織した。

・・・・

 

 

p226

「リガ・フィリピナ」

香港に住んでいる間に、リサールはフィリピン人によって構成

される市民団体を設立するアイデアを考え出した。

彼はそれを リガ・フィリピナ(フィリピン・リーグ)と呼んだ。

・・・・

 

 

1892年7月3日の夜、リサールは リガ・フィリピナ

(フィリピン・リーグ)をトンドのイラヤ通りにある家で

 

設立した。 その規約によれば、リーグの目的は次の

ようなものである:

 

1. 諸島をコンパクトで、強健な、均一な体制に統合する。

2. 緊急の必要があるいかなる場合にでも相互に助け合う。

3. すべての暴力や不正義に対して防戦する。

4. 教育、農業、商業の推進。

5. 改革の為の学習と実践。

 

 

このフィリピン・リーグのモットーは  Unus Instar Omnium

 

One Like Allであった。

その役員は以下の通り:

代表 アンブロシオ・サルバドール、

財務 オーガスティン・デ・ラ・ロサ

・・・・

(ここで、fiscalを財務と書いたんですが、スペイン語だと弁護士の

 意味があるようです。 財務のteasurerは別の人がいるので

 職務の内容が団体内部の規律を保つための役職のよう

 なので弁護士というか監査役のようなものかもしれません。)

 

 

 

p227

会員の中には次の名前があった、

アンドレス・ボニファシオ、アポリナリオ・マビニ

・・・・・・

 

リーグ・フィリピンはフィリピン人の市民団体であった。

その規約には、フィリピン全土の為の最高裁判所の設立

各州ごとの州議会、そして町ごとの民政議会

規定されていた。 ・・・・・

 

しかし、リーグの設立後3日で、リサールは逮捕された。

1892年7月14日、リサールは ミンダナオの

ダピタンに流刑となり、1896年まで刑に処された。

 

 

=== モットーの「One Like Allってのはどういう意味

    なんでしょうね。

    「一人はみんなの為に」ぐらいの意味になるん

    ですかね???

    「一人がみんなのように」???

 

リガ・フィリピナについては、こんなサイトがありました:

Today in Philippine history, July 3, 1892, Dr. Jose Rizal founded the La Liga Filipina

https://kahimyang.com/kauswagan/articles/735/today-in-philippine-history-july-3-1892-dr-jose-rizal-founded-the-la-liga-filipina

 

 

こちらのサイトでは、英語でのモットーが

http://worldfactsandknowledge.expertscolumn.com/article/filipino-reformist-movement-called-la-liga-filipina

 

The motto of La Liga Filipina is “Unus instar omnium” or “one like the others”.

 

One Like All ではなくて、 One Like The Others になっています。

しかし、その意味の解説は残念ながらありません。

 

こちらのサイトには以下のような文面があります:

https://www.pressreader.com/philippines/manila-bulletin/20160704/281878707690955

 

La Liga Filipina whose motto was Unas Instar Omnium – “One Like All”

- Involved  the people directly in the reform movement, through mutual

Aid, self-help, and setting up of cooperatives.

 

これが団体の趣旨に近いとするならば、改革運動に直接的に

人々を関与させる、そして、相互に助け合う・・・ということの

ようですので、「一人は皆のために」ぐらいの訳がいいかもしれません。

(自信はないですよ・・教えてください。)

 

=== この市民団体のメンバーの中に

    将来武力革命の立役者になるアンドレス・ボニファシオ

    入っていたんですね。

 http://ph-inside.com/site/hero/profile/07.htm

 

 

 

 

・・・では、次回は 「カティプナンの結成」を読みます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月11日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 102  ホセ・リサール と プロパガンダ運動

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

Img_2755

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

p221

「プロパガンダ運動が願った改革」

 

プロパガンダ運動は革命的でもなく、又治安を乱すようなものでも 

なかった。 その運動を率いた者たちはスペインに忠実であった;

彼らは単に改革を望んだだけで、独立を求めたわけではなかった。

彼らが求めた改革とは以下のようなものであった;

1.法の下にフィリピン人とスペイン人が平等であること。

2.スペインの正規のいち地方としてのフィリピンの融合。

3.スペイン議会でのフィリピン代議員の復帰。

4.フィリピン教区教会のフィリピン化と修道士の排除。

5.言論の自由、出版の自由、苦情への補償について集まり

陳情をする自由などの、フィリピン人の人権。

 

p222

「プロパガンディスト(運動員)」

プロパガンディストは良家の子弟たちであり、高い教養があり、

教育を受け、愛国的で、そして勇敢であった。 彼らは

フィリピンの成人男性の精華のシンボルであった。

これらのプロパガンディストの中でも、偉大な一人は

ブラカンの マルセロ・H・デル・ピラールで、彼は

法律家でありジャーナリストでもあり、雄弁なタガログと

修道士の虐待に対して恐れずに貧乏人を守ったことで、

多くの人々に愛されていた。

その他のフィリピン人プロパガンディストで言及すべきは、

医師―小説家で多くの輝きをもつ天才 ホセ・リサール

プロパガンダ運動の最高の演説家 グラシアノ・ロペス・ 

ジャエナ; 医学生で伝記作家の マリアノ・ポンセ

・・・・

 

「プロパガンダ運動の海外の友人たち」 

フィリピン人プロパガンディストたちは改革の為のキャンペーンを

自分たちだけでやったわけではなかった。 彼らは自由と正義を

愛する海外の人々にも支えられていた。 その中の一番は、

オーストリア人教授、学者、そしてリサール博士の友人であった

フェルディナンド・ブルメントリットだった。

彼はリサールの二つの小説(ノリとフィリ)を称賛し、Morga

Sucesos de las Islas Filipinas(1890年パリ)の リサールの

注釈版に「序章」を書いた

 

=== さて、上記のMorgaについての関連記事はこちらです。 

Antonio de Morga

https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_de_Morga

He was also a historian. After being reassigned to Mexico, he published

the book Sucesos de las islas Filipinas in 1609, considered one of the most

important works on the early history of the Spanish colonization of the Philippines.

このモルガが書いたフィリピンに関する歴史書に

ホセ・リサールが注釈版を出したようです。

このシリーズの36号でこのように書かれていました:

36 フィリピン植民地は赤字経営だった」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/06/36-95aa.html 

多くのスペイン人の著者とは異なり、Morgaは偏見無しに書いています.
フィリピンの最大の英雄であり学者であったホセ・リサール博士は、
Morga
の本に感銘を受け、1890年にパリで、彼自身が注釈を
 
付けて、その本を再出版しているのです.

=== おお、素晴らしい. そんな本があったんですね.
    このホセ・リサールによる注釈というのがここにありました:

    「http://joserizal.info/Writings/Other/morga.htm

    その元になった、Morgaの本の英語版はここにありそうです:    「http://www.gutenberg.org/ebooks/7001?msg=welcome_stranger

 

=== しかし、上記の「偏見無しに」というのは やや疑問も

    あるようで、インターネットで検索してみると

    「偏見や間違いがあったから リサールが注釈版を書いた」

    と観る向きもあるようです。

 

Rizal's annotation of Sucesos De Las Islas Filipinas by Princess Siasit ...

https://prezi.com/.../rizals-annotation-of-sucesos-de-las-islas-filipina...

2013/09/26 - Spanish conquistador, gov't official, and historical anthropologist; author of Sucesos De Las Islas Filipinas ... Modern historians (including Rizal) have noted that Morga has a definite bias and would often distort facts or even ...

=== 原典を読めばわかるんでしょうけど、私に能力はありません。
あしからず・・・
フィリピン人の歴史の教授に聞いてみることにしましょう。

p223

「1888年の 反―修道士・宣言」 

1888年3月1日に、マニラは騒々しい出来事で封鎖された。

これは数百人のフィリピン人愛国者たちによる反修道士のデモで、

マニラの愛国的法律家であった ドロテオ・コルテスによって

率いられたもので、背後には M.H.デル・ピラールと、ロンドンで

教育を受けた裕福な商人でありフリーメーソンの指導者である

ホセ・A・ラモスがいた。

・・・・

この「1888年の反修道士宣言」は、反フィリピン人大司教の

ペドロ・パヨと悪徳修道士を非難し、運動への干渉、清貧への

修道士の誓いに反する彼ら自身の蓄財、フィリピン人への

スペイン語教育への反対、そしてフィリピンを反啓蒙主義に

維持しようとすることを告発した。

このデモは、フィリピンから修道士たちを追放することを

求めた。

この1888年の反修道士のデモと宣言の結果として、

権力を持つ修道士たちは宣言の指導者や歌手たちを迫害によって

報復し、彼らを逮捕させ、牢獄に放りこませた。

幸いにも、スペイン女王Regentは、1889年に愛国的デモ

参加者たちの恩赦を発令した。

 

=== 実に国際的なプロパガンダ運動ですねえ。

    もちろんスペインの植民地政策にたいする

    改革運動ですから、国際的にならざるを得ないの

    ですが、日本史で学ぶ日本国内の様々な出来事

    とはかなり雰囲気が違いますね。

 

・・・では、次回 シリーズ 103号を 宜しくお願いします・・・ 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 101 プロパガンダ運動とカティプナン

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

今日は記念すべき「第101号」なんですが、随分とさぼって

しまいました。 昨年の11月以来のカンバックです。

前回の100号は こちらです

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/11/100-f238.html

 

さて、今日からは新しい章に入ります。

いよいよ、ホセ・リサールの登場です。 

Img_2758

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」 

p221

GomBurZaの殉教は、フィリピン人愛国者を脅かす代わりに、

スペイン支配の悪と闘うことをさらに決意させた。

ホセ・リサール博士、M.H.デル・ピラール、そしてグラシアノ・ロペス・ 

ジャエナに率いられたillustrados(フィリピン人の知識階級)は、

プロパガンダ(主義の宣伝)運動を組織し、それによって改革への

平和的な聖戦が始まった。

これらの愛国者たちはプロパガンディストと呼ばれた。それは

彼らが、フィリピンに於けるスペイン支配の欠陥と、それを

治すための改革が急務であることを暴露しする為に、ペンと弁舌の

手段で運動を遂行したからであった。

プロパガンダ運動は失敗に終わった。 しかし、自由と正義の思想は、

1896年8月にBalintawakの丘で、カティプナンとアンドレス・

ボニファシオが始めたフィリピン革命への道を開く種をまくことと

なった。 

=== illustradoについて、詳しくはこちらでどうぞ:

https://en.wikipedia.org/wiki/Ilustrado

The Ilustrados (Spanish for "erudite,""learned”, or "enlightened ones"])
constituted the Filipino educated class during the Spanish colonial period
in the late 19th century.

They were the middle class who were educated in Spanish and exposed
to Spanish liberal and European nationalist ideals.

p221

「プロパガンダ運動の興隆」

1872年以降、フィリピンの状況はさらに悪くなった。

フィリピン人指導者たちのスペインの流刑地への国外追放、知識人への

迫害、そしてスペイン人の主人たちによる虐待は衰えることがなかった。

1872年のフィリピン人亡命者たち及び多くの海外の愛国的学生たちは、

香港、シンガポール、バルセロナ、マドリード、パリ、ロンドン、そして

その他の外国の都市で集まった。 共通の理由に触発され、彼らは

連帯し、父の国の福祉と幸福を増進する為の仕事に身を捧げた。

果敢に、しかし平和的に、著述と弁論を通じて、スペインの植民地

制度の悪を正すための改革運動を実施した。

この改革のための平和的なキャンペーンは、フィリピンの歴史の中では、

プロパガンダ・ムーブメント」として知られた。

それはGomezBurgos、そしてZamoraがルネタで処刑された1872年

に始まり、1896年、リサールがDapitanに流刑された年に

終わりを迎えた。 

=== 今回は短いですが、ここまでです。

    久しぶりの翻訳なんで、乗りが悪いんです。

ホセ・リサールさんが書いた著書については、こちらのページに

紹介してありますので、ご参考まで。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/09/post_a44c.html

なんと、2005年に読んだんでした。

もう12年も前なんですねえ。

忘れるわけだ・・・・

・・・では、次回 シリーズ 第102号をお楽しみに・・・・

    

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月 7日 (日)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その3- あの世と冥土は何が違うのか??

では、今回は、観無量寿経のメインである 観想のマニュアル
部分を読んでみます。

まず、極楽浄土に行きたい人は、こんなことをしなくちゃいけない
って言う、条件が書いてあります。

p15
かの仏国土に生まれたいと思う者は、三つの福利を修め
なければならない。

一つには、
父母に孝養をつくし、師につかえ、慈しみの心を持って
生けるものを殺さず、十種の善行を行なうこと、

二つには、
仏法僧の三宝に帰依し、多くの倫理的規定を守り、
誇りを失わないこと、

三つには、
覚りに向かうという願いをおこし、深く因果の道理を信じ、
大乗経典を読誦し、他の人たちにもこの道を勧めること、

=== う~~ん、極楽浄土への道は遠いなあ・・

p17
世尊はヴァイデーヒー(大王の奥さんですね)に告げられた
ーー「あなたと、そして、生ける者どもは、心を一筋にし、
思念を一処に集中して西方を観想するのだ。 さて、どのように
観想するかというと、・・・・・正座して西に向かい、はっきりと
太陽を観るのだ。 心をしっかりと据え、観想を集中して
動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空に
かかった太鼓のようであるのを観るのだ。
すでに太陽を観終わったならば、その映像が目を閉じている
ときにも、眼を開いているときにもはっきり残っている
ようにするのだ。 これが<太陽の観想>であり、
<最初の冥想>と名づけるのだ。

=== へえ~~~。要するに、日没の太陽をじっと見て、
    その残像を瞼の中に観るという雰囲気でしね。

Img_2615_2

p17
次には<水の観想>を行なう。
清らかな水を観たならば、その映像がはっきりと残って
いるようにし、想念がかき乱されないようにするのだ。
水を観終わったならば、<水の観想>をおこさなければ
ならない。 

氷の透き通ったさまを観終わったならば、<青玉の観想>を
行なう。 この観想をなし終えたならば、青玉の大地の
内も外も透き通っているさまを観るのだ。
下にダイヤモンドなどの七種の宝石に飾られた黄金の幢幡(はたぼこ)
があって青玉の大地を支えている。

・・・・そこには百の宝石から成る千万の楼閣があり、・・・
八種の清風が光明から吹きおこり、この楽器を鳴らして、
苦・空・無常・無我についての教えを聞かせる。
これが<水の観想>であり、<第二の冥想>と名づけるのだ。

=== この辺りから、極楽浄土の描写みたいな感じなんですが、
    書いてあることをCGの画像にでもしないことには
    理解不能です。

    しかし、「宝石に飾られた黄金の旗が青玉の大地を支え」   
    ってどういうこと???

    青玉の大地って、もしかして地球のこと???
    宇宙飛行士みたいな描写じゃないですか。

p18
この観想ができるようになったら、その一々をきわめて
はっきりと観られるようにするのだ。 眼を閉じているときにも、
眼を開いているときにも、その映像が散ってなくなったりしない
ようにする。

・・・このような観想に到達したら、ほぼ、<幸あるところ>
という世界を観たと言えるであろう。
さらに進んで精神集中ができるようになったら、かの仏国土を
はっきりと観ることになる。・・・これが<大地の観想>であり、
<第三の冥想>と名づけるのだ。

=== ここまで読んだだけで、凡人には無理・・と思って
    しまいますね。

p19
師はアーナンダに告げられたーーー
・・・この大地を観想する者があったら、その人は八十億劫の
間、かれを生と死に結び付ける罪から免れ、死後にはかならず
<幸あるところ>という世界に生まれるであろう。・・・

=== ああ、安心しました。
    こんなことが出来る人は特別な人みたいです。

p19
大地の観想ができたならば、次には宝石の木を観想するのだ。
宝石の木を観想するときには、七重に並ぶ七種の宝石の木の
一々を観想する。
・・・大光明は、無数の幢幡を吊るした宝石の天蓋と化し、
この宝石の天蓋の中に三千大世界の仏たちの一切の所作が
映っており、十方の仏たちの仏国土もまたその中に現れている。
この木々を見終わったならば、それらの一々を次々に観想
しなければならない。
幹・茎・枝・葉・花・果実を観想して、それぞれの映像を
はっきりとさせておく。 これが<林の観想>であり、
<第四の冥想>と名づけるのだ。

=== まあ、そういう木が極楽浄土には生えているって
    ことみたいですけど・・・
    かなりの想像力がないと無理ですね。

p20
次には池水の観想を行なわなければならない。・・・
<幸あるところ>という世界には、八つの功徳のある池水がある。
一々の池水は七種の宝石でできている。
・・・溝の下には、さまざまな色をもつダイヤモンドが
底砂となっている。 一々の水の中に六十億の七種の宝石の
蓮花があり・・・・・
・・・珠宝からは美しい黄金いろの光が流れ出し・・・
相和して鳴く声は甘美優雅であって、常に仏を思念し、
教法を思念し、僧団を思念することを讃える。
これが<八種の功徳ある池水の観想>であり、<第五の冥想>
と名づけるのだ。

=== いや~~。 こりゃあ現代のCGで映像にするって
    いうのも無理みたいっすねえ。
    六十億の七種の宝石だもの・・・・

p21
・・・国土の一々の境界の上に五百億の宝石の楼閣があり、
その楼閣の中に無数の天人たちが居て、天上の音楽を奏でる。
・・・・音楽はみな、仏を念じ、教法を念じ、僧団を念ずべき
ことを説いている。 この観想に到達したら、ほぼ、
<幸あるところ>という世界の宝石の木・宝石の大地・宝石の池
を見たと言えるであろう。
これが<総てを観る観想>であり、<第六の冥想>と名づける
のだ。 この観想を行なう者は、無量億劫のきわめて思い悪業
から解放されて、命が終わったのちかならず、かの仏国土に
生まれるであろう。

=== ああ、やっと、6つの観想の方法が終わりました。
    ところで、今頃気がついたんですけどね、
    「瞑想」じゃなくて「冥想」なんですね

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3
瞑想(めいそう、英:Meditation)とは、心を静めて神に祈ったり、
何かに心を集中させること、心を静めて無心になること、目を閉じて
深く静かに思いをめぐらすことである。この呼称は、単に心身の
静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、
絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るような
ものまで、広い範囲に用いられる。」

上のサイトでは、同じ意味のようなんですが、
こちらのサイトで 意味が異なることを述べています。
http://www.the-world-meditation.com/entry120.html
「瞑想は静かに座って精神を集中させることに対し、冥想は普段
から自分の内面を見ることという違いがあります
。ただ動かない
ことだけが“めいそう”ではないのです。」

しか~~し、私が漢字から受けるイメージとは違うんだなあ・・・

おお、やっとこちらにイメージしていた答えがありました:
http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/meisou/about.htm
「瞑想
〈冥想〉とも書く。〈冥想〉は漢語としては、目を閉じて深く
思索するという意味
。東晋の支遁(あるいは支道林、314-366)の
「詠懐詩」に「道会冥想を貴び、罔象 玄珠を掇る」とあり、
大道に合一するために冥想が貴ばれいる深い精神集中のなか
で根源的な真理と一体化することを「冥」の字を用いて表す
ことは、
『荘子』およびその郭象の注にしばしば見られる。」

「以上のように、瞑想あるいは冥想という言葉自体は、支那に
おいて主として道教から発せられたものです。しかも、日本では、
西洋のMeditationの訳語として近代において当てられたもの
であって、
伝統的にそのような言葉が使われてきたわけではありません。」

・・・ありゃりゃ、って感じの漢字ですねえ。

ところで、漢文とその書き下し文ではどう書かれているかって
いうと、以下のとおりです。

ー和訳ー
これが<八種の功徳ある池水の観想>であり、<第五の冥想
と名づけるのだ。

ー書き下し文ー
これを<八功徳水の想い>とし、<第五>と名づく。

ー漢文ー
是為八功徳水想、名第五

=== な~~んだ、そもそもの漢文には「観」としか書いて
    ないんじゃないの。
    和訳の、それも明治時代ぐらいからの日本の漢字
    みたいですねえ。

    私のイメージで言うと、極楽浄土=冥土だから、
    冥土を想って観るんだから「冥想」でいいんじゃないかって
    思ったんだけど。

    おっと~~、ここで私の大きな誤解を発見
    http://www.manaka-net.com/glossary/detail-367-7.html
    「冥土 (めいど)
    死者が行く迷いの世界
。あるいはそこまでの道程を意味する。
    生前、この世において仏道修行を怠ったものが、死後さま
    よい行く世界。この迷いの世界は、地獄、餓鬼、畜生、
    の三悪道で、そこは暗く、苦しい世界なので冥土と呼んだ
    道教の冥府信仰の影響もあります。盂蘭盆会、施餓鬼法要は、
    すべての冥土の 苦しみから逃れたいという表れという。」

私は、「あの世」=「冥土」だと思い込んでいたんですが、
上のとおり「冥土」は死後に行く「迷いの世界」で、「三悪道」。

こちらのサイトで類語辞典をみると:
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%81%AE%E4%B8%96

「あの世」は 「極楽浄土」から「地獄」までの全部を含むもの
みたいなんですねえ。

「あの世」の意義素 
「死んだ後に人が行くといわれている世界のこと。」

類語:
「黄泉 ・ 黄泉の国 ・ 黄泉比良坂 ・ 天国 ・ あの世 ・ 向こう ・
彼岸 ・ あっち側 ・ 死後の世界 ・ 冥府 ・ 陰府 ・ 冥界 ・
常夜の国 ・ 極楽浄土 ・ 浄土 ・ 天上世界 ・ 天界 ・ 天上の楽園 ・
後生 ・ 後世 ・ 来世 ・ 未来世」

浄土宗のお寺さんのサイトにこんなのがありました:

十六観行浄土宗坐禅 ~静の瞑想(メディテーション)~http://www.ennouji.or.jp/event/a-practices/posture.html

「浄土宗の三部経である観無量寿経という経典に書かれた瞑想法として「16観法」と言われるものがあります。 極楽浄土の様子を順々に観想していくことによって最後には魂が浄土に生まれて見仏します。」

「数ある瞑想法の中でも最も具体的な対象を観想するので、初心者には分かりやすい方法です。」

・・・本当に初心者にも分かりやすいのかなあ・・・・

 

=== 私の今までの大きな誤解を発見したところで、   
    次回 その4 に参ります ====

 

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2017年4月13日 (木)

バギオの神社? 戦時中の神明神社の痕跡を探して - PAGASA周辺を歩く

前回は、こんなことを書いたんですが、今ひとつすっきりしないままでした。http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2017/04/post-05b1.html

前回は、二つ目の予定があったんで、気象観測所の周辺をじっくり見て廻る時間がなかったんで、今日は 2回目の探索をやったんです。

2img_0002_2

昭和19年3月8日に造営されたという「神明神社」です。

まさに戦時中にバギオ市の今のバギオ・コンベンション・センターの裏山に造られたという神社なんですね。

昭和20年の1月から3月ぐらいの間には、米軍による絨毯爆撃があったそうですので、その間に破壊されたものと思いますから、およそ1年間ぐらいしかなかった幻の神社と言えるかもしれません。

2img_edited213

神明神社の写真は、この本「第七十四平坦病院」の中にあるとの情報をいただきました。

この本は非売品だそうですが、この本の編集をされた宍倉公郎氏が 「イフガオの墓標」という本の著者でして、その本の中の 「神山信雄著「病院の自活態勢と患者の練成」の章より」 というところに神明神社のことが書かれています。

Img_2147

これが 「イフガオの墓標」 なんですが、この本には戦時中のバギオ市周辺の出来ごとがかなり詳しく書いてあります。

Img_2143


・・・そして、この本のこの写真に、

裏山から望む分院全景」というのがあるんですねえ。

「中央松林の向こうの凹地にバギオ市街が展望された」 とあります。

・・・この裏山に 「神明神社」があったんですが、その場所を探しているわけ。

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さて、そこで、まずは前回 確認できなかった、バギオ・コンベンション・センターの裏側あたりからつぶさに見ながら歩いてみます。

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これはコンベンションの裏通り

左側に松林があって、右側には手前が最高裁判所、その向こう側からPAGASA(気象観測所)の入口の長い坂道、さらにその先に最高裁関係の住宅地があります。

その又先には、右側にビクトリー・ライナーのバス・ターミナルが続いています。

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・・で、これは右側にある 最高裁の敷地の中にある立派な屋敷。

この家の裏側には、山と言えるほどのものはなさそうなんですよねえ・・・

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・・・で、この最高裁の屋敷の右側に廻ってみます

ちょっと丘みたいに見えるんですが・・・・

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ちょっと不法占拠しました・・・みたいな建物があって、この上に登ってみたいんですが、他人の家に侵入しなくちゃいけない感じなんで・・・・

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裏山の右側をぐるりと廻って、登る道がないかを探します・・・

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・・・で、左方向に登る階段があったんで、登ってみたんですが、こちらも民家でどんずまり。 そこのお兄さんに山に登る道がどこかにないか・・って聞いたら、「PAGASAの方からしか入れないよ。 グリーン・ゲートから入るしかないよ。」 ってことでした。

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・・・で、前回と同じ PAGASAの入口から 長い坂を登ります。

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そして、前回はこの道の左の測候所の建物の方はみたので、今回は右に最高裁の建物を見ながら真っすぐ進んでみることにしまして・・・・

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こちらも 測候所の建物なんですが・・・

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これは 仕事の場じゃなくて ゲスト・ハウスみたいな感じでした。

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ここで「裏山」が終わっています。 この写真の右側に 最高裁やコンベンション・センターがあるんです。

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左側を見まわしても 裏山はここで終わり・・・・

・・・ってことは、裏山というのは 今は気象観測所の敷地だけ・・ということになりそうです。

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そこで、前回にも見て廻った 測候所の建物の周囲で この山っていうか丘を下る道があるかどうかをチェック

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測候所の建物の正面に こんな階段があるんです・・・・が・・・

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この階段の下の道は、民家の敷地で どんずまり・・・・

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・・・もうひとつの階段を辿ると・・・・

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こちらも この先は 民家の敷地で どんずまり・・・・

・・・つまり、測候所の敷地に出入りする道は、最高裁の並びの長い坂道しかないってことになりました・・・・

イフガオの墓標」の中には、この神明神社の参道について、以下のような記述が残っています:

p339

「一方では、室井隊より山頂に至る、表参道、裏参道も、軽症患者の手に依って併行して建設が進められた。

・・・社殿、石垣、柵、表参道、裏参道、一の鳥居から三の鳥居まで建設され・・・」

・・・・ってことは、つまり、少なくとも二本の道があったわけです。

その表参道かあるいは裏参道が、今のPAGASAの正門からの道だとすれば、少なくともその反対側にもう一本の参道がある筈なんですがねえ・・・

 

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・・・で、今度は、PAGASAの入口を出て、右側。

つまり、裏山に向かって 左側から廻ってみることに・・・・

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するとすぐ右の角に 「最高裁判所」の表示のゲートが・・・

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・・・これがゲートで、この中にたくさんのコテージが並んでいます。

おそらく最高裁関係者の住宅になっているのではないかと思います。

・・・昔、戦時中には、ここに一時期住んでいた日本人もいたと聞いた記憶があります。

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その角を右に廻ると 左がビクトリー・ライナーとガソリン・スタンド。

右側は 最高裁の住宅地です。

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ジプニーのたまり場にもなっています。

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・・・さて、裏山を左側から廻るんでした。

最高裁の住宅がしばらく続きます。

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この写真の右上に 最高裁住宅の敷地の塀があって、ここで終わり。

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お隣は 小学校が続いています。

裏山に登る道は 左側にもありませんでした。

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・・・つまり、結論的には、神明神社があった裏山というのは、今は気象観測所PAGASAの敷地になっていると考えてよさそうです。

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・・・で、ひとつだけ 気になるのは、その位置関係なんですねえ。

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裏山から撮ったとされる この写真。

この写真のどの位置に 今のコンベンション・センターがあるのか・・ってこと。

もし、今のコンベンション・センターが、この写真の中の 左側の方にある 空き地みたいなところに建てられたのであれば、イメージは合うような気がします。

つまり、写真手前の立派な建物は 今は最高裁の敷地なんじゃないか

ってことは、この写真の中心部の庭園みたいになっているところは、今は フィリピン大学バギオ校の入口の正面にある松林のところであれば、裏山との位置関係が納得できそうな感じです。

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そんなことを考えながら、小学校の前の車寄せを通り過ぎ・・・・・

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汗を拭きふき こちらの有名店へ・・・・

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ここには たま~~にしか来ないんですが、

ワインとスパゲティーを食べに来るんです。

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スパゲティーのイメージとはちょっと違う海鮮パスタ。。。

このちょっと平たい麺は なんて言うんですかね?

きし麺じゃないことだけは確かだけど・・・・

こちらのサイトでチェックすると、

https://matome.naver.jp/odai/2139648914408533601

”切るという意味のtagliareをその名の由来とする幅が5mmから10mm前後の平麺タイプのパスタ。

・・これに一番近いかな?

メニューに書いてあった名前を忘れた。

私はこの麺よりも、丸棒タイプのスパゲッティが好きなんで、

そのつもりで 「スパゲッティにしてね」 と頼んだつもりだったんだけど・・・・・

やっぱりね。

次回、またチャレンジしてみっかな?

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ワインの酔いを グリーン・マンゴ・シェークで醒まして・・・・

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バタンガスの地震の記事をちょっと読み。

しかし、最近、フィリピンも地震が多くなったよなあ・・・・

マニラから南が多いようですね。

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ガードのお兄ちゃんは 真面目に仕事をしてんのかな?

一所懸命 携帯をいじっていたけど・・・・

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・・と思っていたら・・・・

マネジャーみたいな人が 水が落ちて来ていたのに気づき、

ガードのお兄ちゃんに、「ここを ちゃんと拭いて・・・・」 などと指示しちゃって・・・

しかし、天気はいいのに、なんで上から水が落ちてくんの??

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遅いランチを終わって・・・・

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多分、宗教系のバンドだと思うんですが、賑やかな演奏と歌が 近くの体育館みたいなところから流れてくるのを 聞きながら、ふらふらと・・・・

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ロアカン・ロードの入口。

ミリタリー・カット・オフ通りと サウス・ドライブが交わるロータリー。

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これは インディアンではありません。

イゴロットの雄姿。

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・・・・ってことで、一応 「裏山の神明神社」 は一件落着ということにしました。

この記事の最初に掲載した 神社の写真を見ると、今の気象観測所の広さと ほぼ感覚的には一致するので、いいんじゃないかなと思います。

・・・・・

ところで、最近 こんなニュースを見たことはありませんか?

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50609?page=3

「2016年12月19日、フィリピンの地元紙に小さな記事が掲載された。

山下財宝を探しているフィリピン人男性が、バギオ市内にあるトンネルの発掘許可を市当局に申請したというのだ。戦後71年を経てもなお山下財宝は「ニュース」であることを改めて印象付けた。」

実は、このニュースにある現場というのが、バギオ・コンベンション・センターからフィリピン大学バギオ校の辺りだという地元紙の報道があったんです。

・・・で、私が思い出したのが、上記の「イフガオの墓標」にあるこんな文章です。

p339

「分院の裏には五十米足らずの丘があった。 山の頂上から見渡す、バギオの町は美しく、ボルハンパーク、セッション通り、ハリソン通り、市役所が一望に見える。 此の裏山には既に拡大な地下防空壕が構築されていた。」

・・・ なんと、今の気象観測所の山っていうか丘の下に 巨大な防空壕があったっていう話なんです。

上の地元紙の中では、当時の地元の若者が日本軍が何かを運ぶのを手伝わされたというような話が今回の山下財宝の噂になっているようです。

フィルスター新聞:

http://www.philstar.com/nation/2016/12/18/1654658/treasure-hunter-asks-govt-permission-search-yamashita-gold

Treasure hunter asks gov't permission to search for Yamashita gold

BAGUIO CITY — A treasure hunter asked the local government to allow him to dig up alleged truckloads of gold believed to be part of the World War II loot supposedly left by Japanese forces in a tunnel between the Baguio Convention Center and the University of the Philippines-Baguio residence hall for girls.

But Cabusao argued that a 90-year old Baguio-born half Japanese man who has been a US resident since the mid 70’s had pointed to him the alleged location of the treasure. 

“We have explored and detected around the convention center using different detecting tools and equipment and all converged on a small grassy area five meters from the concrete sidewalk toward the UP ladies dormitory,” Cabusao claimed.
 
 
インクワイアラー新聞:

http://newsinfo.inquirer.net/881131/hunt-for-yamashita-treasure-in-baguio-on  

Hunt for Yamashita treasure in Baguio on

The permit would allow Cabusao to first drill 10-centimeter wide holes in six key areas near the Baguio Convention Center (BCC) in front of the University of the Philippines Baguio campus.

The man of Japanese descent, who was born in Baguio, was in his teens when he and several others were ordered to hide the treasure, Cabusao said.


この新聞記事では、バギオ生まれの日系人、当時十代が、財宝を隠すのを手伝わされたという話になっているようですが・・・・・

・・・・・・

どこの範囲まで 裏山の防空壕が広がっていたのか知りませんが、フィリピン大学の近くまで地下通路が延びていても不思議ではない距離かと思います。

・・・ 断っておきますが、山下財宝を探しなさいって言っているわけじゃないっすよ。

あはははは

 

 

 





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