カテゴリー「旅行・地域」の記事

2017年5月16日 (火)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 109  革命軍の分裂、そして リサールの運命

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第18章  フィリピン革命」 

Img_2759

p240

「マグディワンとマグダロの議会」

革命が勃発した時に、カビテ州では、ふたつのライバルとなった

カティプナンの州議会があったことに留意すべきであろう。

―― バルドメロ・アギナルド(エミリオ・アギナルドの従兄)が

率いるイムスを州都とするマグダロ議会と、マリアノ・アルバレス

(ボニファシオの妻であるグレゴリア・デ・ジーザスの叔父)を

代表とする、ノベレタを州都としたマグディワン議会である。

ボニファシオがカビテに到着するとすぐに、マグディワン議会は

以下の役員をもって再組織された:

King (王)…………………………………………….Andres Bonifacio

Vice-King(副王)…………………………………Mariano Alvarez

(以下省略)

・・・・・

これに負けじとばかり、マグダロ議会は同様に以下の役員で

組織した: 

President(大統領)……………………………Baldomero Aguinaldo

Vice-President(副大統領)……………….Edilberto Evangelista

Lieutenant General(中将)……………….Emilio Aguinaldo

(以下省略)

=== この時点では、エミリオ・アギナルドはふたつの議会の

    一方の中将に過ぎなかったわけですね。

    まあ、軍の大臣ということでしょうが。

    しかし、一番上の地位を キング(王様)ってするのって

    どういうことかな? 革命軍なのに・・・

    スペインに対抗して、こっちだって王様だ~~いって

    言いたかったのかな?

 

p241 

ボニファシオがカビテ州に来る前までは、これらのふたつの

カティプナン議会は、ライバルではあったものの、お互いに

協力して共通の敵に対していた。 ・・・・・ 

カビテにボニファシオが到着すると、この・・・良い関係は

終わり、不和が自由論者の依って立つところを弱体化させた。 

・・・・ 

p241

「リサール博士の処刑」 

1892年以来、リサールはミンダナオ島の寂しいスペインの

辺境の地であったダピタンに流刑の身となっていた。

彼はそこで、医療行為を行ない、町の水道設備を造り、

少年たちの為の学校を開き、文学の著作や科学的な研究を

続けていた。 

4年間の静かな生活の後、彼はキューバにおけるスペイン軍の

外科医の職に希望を出した。その当時、キューバでは革命の

嵐が吹き荒れていた。  彼の陳情は認められ、マニラに向け

出航し、1896年8月にマニラに到着した。

フィリピン革命はその時勃発した。

少々遅れて、彼はスペインへ行くことを許可された。

スエズ運河で、船長はマニラから電信を受け取った。

それは、船長にリサールの逮捕を命じるものだった。

バルセロナに到着すると、リサールは囚人とされ、

マニラに送り返された。 そして、そこでフォート・サンチャゴに

投獄された。 

==== さあ、さあ、さあ、皆さま お立ち会い。

     いよいよ、かの有名な ホセ・リサールの処刑ですよ。

     この処刑がフィリピンの歴史の中でどのような

     意味をもっているのか、実に興味のあるところです。

     しかし、キューバで外科医の職に就きたいって、

     そんなエピソードがあったんですね。

     リサールはどんなことを考えていたんでしょうか。

・・では、次回 シリーズ 110 をお楽しみに・・・

 

 

 

 

 

 

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2017年5月12日 (金)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ 105  暴力革命を目指すカティプナンとボニファシオ

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

 

さあ、いよいよフィリピン革命の始まりです・・・

 

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p227

「カテイプナンの結成」

アンドレス・ボニファシオは リガ・フィリピナのメンバーであったが、

Compromisariosには参加しなかった。 それは保守的な知識人

(マビニやアンブロシオ・リアンザレス・バウティスタのような)

や、裕福な商人(ドミンゴ・フランコのような)のグループであった。

そして、ボニファシオは、貧しくて、行動の人であり、過激

考え方をしていたからだった。

彼は、フィリピンの人々の幸福と福祉は、改革への平和的な請願

では達成できず、暴力革命によるしかないと確信していた。

 p228

1892年7月7日の夜、彼と数人の、彼と同様に過激な愛国的な

友人が、・・・秘密裏に集まった。

この秘密会合で、彼らは秘密の革命共同体を結成した。

これは 

Kataastaasan Kagatanggalangang Katipunan ng mga Anak ng Bayan 

(Highest and Respected Soiety of the Sons of the People)  

(人々の息子たちの最高にして尊敬さるべき共同体)と呼ばれた。

あるいは、 K.K.K. 又は 簡潔に カティプナンとして知られている。 

K.K.K.の目的は、 

(1) フィリピン人を団結させる、 

(2) フィリピン独立の為に戦う

であった。

カティプナンの出現はフィリピンの歴史において顕著なものであった。

第一に、それは改革の為の平和的なキャンペーンの終焉であり、

武力革命運動の幕開けであった。

そして、第二に、フィリピンの人々は、絶望の中にあって、

もはや単なる改革を望まず、完全な独立を熱望したのである。

 

「カティプナン政府」

単なる秘密の共同体を超えて、カティプナンはそれ自体で

政府であった。  それは二つの憲法を持った。

最初の憲法は1892年に広められ、二番目(最初の憲法の

置換え)は1894年に公布された。

カティプナンの中央政府は最高協議会の中に、代表、

法務、書記長、財務そして監査を置いた。

それぞれの州には、州議会を置き、町ごとに民政議会を

置いた。 

カティプナンの初代の代表は、デオダト・アレラノで、

彼はマルセロ・H.・デル・ピラールの義理の兄弟であり、

ボニファシオの友人でもあった。

・・・・

 

p230

「カティプナンの文学」

カティプナンの3人の著作者は、ボニファシオ、ジャシント、 

そしてピオ・ヴァレンズエラ博士であった。

彼らは人々の愛国心を盛り上げる為、愛国的精神を起こす為に

扇動的文学を書いた。

・・・・・・ 

エミリオ・ジャシントは、サント・トーマス大学の若い法学部の

学生で、一番若く(19歳)そして最も知的であり、

最高の作家でもあった。

彼は、ボニファシオへの助言者となり、カティプナンの文書の

ほとんどを作成し、これによって、「カティプナンの頭脳」と

して知られるようになった。・・・・

ヴァレンズエラ博士はボニファシオやジャシントを助けて

KalayaanLiberty 自由)というカティプナンの新聞

編集した。

・・・・・

「 「Kalayaan(自由)」、カティプナンの機関誌」

1894年、カティプナンは、ビサヤ地方の愛国的フィリピン人

二人からの寛大な寄付金で、古い手動印刷機を購入した。

・・・この二人はオーストラリアで数年働き、その国で

福引の賞金を獲得したのだった。

・・・

 

印刷機の存在は極秘とされた。

ジャシントの監督の下で、二人の印刷者、ファウスティノ・ドゥクゥ

とウルピナオ・フェルナンデスは、カティプナンの機関誌である

Kalayaanを印刷した。

この革命的新聞は社会の理想を広めるために、ジャシントによって

創設された。 創刊号は1896年1月に出来上がった。

スペイン当局の眼を欺くために、発行人欄を偽り、編集者は

マルセロ・H.・デル・ピラールとし、横浜で印刷された

ことにしていた。

 

p231

「フィリピン独立の産声」

1895年の聖週間に、ボニファシオとKatipunerosの一団は

Montalbanの山々を偵察し、秘密会議を開く為の良い隠れ家を

探した。・・・・・

=== Katipunerosの意味は、こちらです:

Katipuneros

http://en.wikipilipinas.org/index.php/Katipuneros

List of Notable Katipuneros

これから判断するに、カティプナンのメンバーのことを

カティプネロスと呼ぶようです。 

1895年4月10日、ボニファシオと彼の仲間は

Bernardo Carpioの洞窟に入り、そこで秘密会議を開いた。

その会議の後、アウレリオ・トレンティノが炭の一片を

拾って、洞窟の壁にスペイン語でViva  la  Independencia Filipina!

(フィリピン独立万歳?)と書いた。

これがフィリピンの歴史に於ける フィリピン独立の産声であった。

 

==== さあ、いよいよフィリピン革命に向けての

     産声があがり、これから革命に向けて動きだします。 

・・・・ 次回 シリーズ 106号では 日本との関係も出てきます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 104  フリーメーソンとホセ・リサール One Like All

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

 

 

=== さあ、フリーメーソン(あるいはフリーメースン)が出て来ました。

    私のイメージは、秘密結社、世界的、陰謀論・・程度なんですが、

    フィリピンのバギオ市に来たら、フリーメーソンの看板が

    掛かった建物があって、おおっぴらだったんで驚きました。

    ちなみに、私にフィリピンの歴史を教えてくれている

    元大学教授もフリーメーソンだそうです。

    全然秘密でもなんでもありません。

 

フリーメイソン

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%82%BD%E3%83%B3

フリーメイソン: Freemasonry)は、16世紀後半から17世紀初頭に、判然としない起源から起きた友愛結社
現在多様な形で全世界に存在し、その会員数は600万人を超え、うち15万人はスコットランド・グランドロッジならびにアイルランド・グランドロッジの管区下に、25万人は英連邦グランドロッジに、200万人は米国のグランドロッジに所属している。

なお本項目は「フリーメイソン」と表記しているが、日本グランド・ロッジは「フリーメイスン」と表記している。

===それでは、さっそく本題にはいりましょう。

Img_2755


 

p225

 

「フリーメーソンとプロパガンダ運動」

 

フリーメイソンはプロパガンダ運動で著しい役割を演じた。

多くのフィリピン人愛国者がフリーメーソンになった。

その中には マルセロ・H.デル・ピラール、G. ロペス・ジャエナ、

 

リサール、ポンセ、等がいた。 なぜなら、彼らは

改革の為に戦う上で、スペインやその他の海外のフリーメーソンの

助けが必要だったからである。

 

最初のフィリピン人フリーメーソン・ロッジrevolucionと呼ばれた、

はロペス・ジャエナによってバルセロナに設立され、1889年

4月に ドン・ミゲール・モライタが率いる グランデ・オリエンタル・

エスパノールによって認められた。

残念なことに、この最初のフィリピン人フリーメーソン・ロッジは

長くは続かなかった。

それは、1889年11月29日に尊敬すべきマスターの地位から

ロペス・ジャエナが退いた後に消滅した。

 

翌月、M.H.デル・ピラールは、ジュリオ・ロランテの助けを得て、

マドリードに ロッジ・ソリダリダッドを組織した。

・・・・やがて、ロッジ・ソリダリダッドは成功し、

他のフィリピン人たちも参加した。 そこには、リサール博士、

 

ペドロ・セラノ、バルドメロ・ロハス、ガリカノ・アパシブルなど

がいた。

スペインとフィリピンの全てのフィリピン人フリーメーソン・ロッジ

はプロパガンダの拠点となった。 彼らはスペインでの

改革のキャンペーンを支える必要資金を調達した。

 

=== このフリーメーソンですけど、日本ではかなり

    秘密結社で、陰謀がらみの話が多いようですけど、

    幕末ごろに日本でもフリーメーソンが関与して

    いたんじゃないかという話もあるみたいですね。

    確かに、誰が黒幕になって、資金を提供していたのか

    という点では気になるところです。

 

ちなみに、こんな本も出版されているんですねえ。

龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン (祥伝社文庫) 文庫」

https://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E9%A6%AC%E3%81%AE%E9%BB%92%E5%B9%95-%E6%98%8E%E6%B2%BB%E7%B6%AD%E6%96%B0%E3%81%A8%E8%8B%B1%E5%9B%BD%E8%AB%9C%E5%A0%B1%E9%83%A8%E3%80%81%E3%81%9D%E3%81%97%E3%81%A6%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3-%E7%A5%A5%E4%BC%9D%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8A%A0%E6%B2%BB-%E5%B0%86%E4%B8%80/dp/4396335067

 

 

 

p226

「ヒスパノ-フィリピナ協会」

 

フィリピン人のプロパガンディスト及びスペインの協力者たちは

フィリピンの改革を確実にするために 1889年1月12日に

マドリードで ヒスパノ-フィリピナ協会を組織した。

・・・・

 

 

p226

「リガ・フィリピナ」

香港に住んでいる間に、リサールはフィリピン人によって構成

される市民団体を設立するアイデアを考え出した。

彼はそれを リガ・フィリピナ(フィリピン・リーグ)と呼んだ。

・・・・

 

 

1892年7月3日の夜、リサールは リガ・フィリピナ

(フィリピン・リーグ)をトンドのイラヤ通りにある家で

 

設立した。 その規約によれば、リーグの目的は次の

ようなものである:

 

1. 諸島をコンパクトで、強健な、均一な体制に統合する。

2. 緊急の必要があるいかなる場合にでも相互に助け合う。

3. すべての暴力や不正義に対して防戦する。

4. 教育、農業、商業の推進。

5. 改革の為の学習と実践。

 

 

このフィリピン・リーグのモットーは  Unus Instar Omnium

 

One Like Allであった。

その役員は以下の通り:

代表 アンブロシオ・サルバドール、

財務 オーガスティン・デ・ラ・ロサ

・・・・

(ここで、fiscalを財務と書いたんですが、スペイン語だと弁護士の

 意味があるようです。 財務のteasurerは別の人がいるので

 職務の内容が団体内部の規律を保つための役職のよう

 なので弁護士というか監査役のようなものかもしれません。)

 

 

 

p227

会員の中には次の名前があった、

アンドレス・ボニファシオ、アポリナリオ・マビニ

・・・・・・

 

リーグ・フィリピンはフィリピン人の市民団体であった。

その規約には、フィリピン全土の為の最高裁判所の設立

各州ごとの州議会、そして町ごとの民政議会

規定されていた。 ・・・・・

 

しかし、リーグの設立後3日で、リサールは逮捕された。

1892年7月14日、リサールは ミンダナオの

ダピタンに流刑となり、1896年まで刑に処された。

 

 

=== モットーの「One Like Allってのはどういう意味

    なんでしょうね。

    「一人はみんなの為に」ぐらいの意味になるん

    ですかね???

    「一人がみんなのように」???

 

リガ・フィリピナについては、こんなサイトがありました:

Today in Philippine history, July 3, 1892, Dr. Jose Rizal founded the La Liga Filipina

https://kahimyang.com/kauswagan/articles/735/today-in-philippine-history-july-3-1892-dr-jose-rizal-founded-the-la-liga-filipina

 

 

こちらのサイトでは、英語でのモットーが

http://worldfactsandknowledge.expertscolumn.com/article/filipino-reformist-movement-called-la-liga-filipina

 

The motto of La Liga Filipina is “Unus instar omnium” or “one like the others”.

 

One Like All ではなくて、 One Like The Others になっています。

しかし、その意味の解説は残念ながらありません。

 

こちらのサイトには以下のような文面があります:

https://www.pressreader.com/philippines/manila-bulletin/20160704/281878707690955

 

La Liga Filipina whose motto was Unas Instar Omnium – “One Like All”

- Involved  the people directly in the reform movement, through mutual

Aid, self-help, and setting up of cooperatives.

 

これが団体の趣旨に近いとするならば、改革運動に直接的に

人々を関与させる、そして、相互に助け合う・・・ということの

ようですので、「一人は皆のために」ぐらいの訳がいいかもしれません。

(自信はないですよ・・教えてください。)

 

=== この市民団体のメンバーの中に

    将来武力革命の立役者になるアンドレス・ボニファシオ

    入っていたんですね。

 http://ph-inside.com/site/hero/profile/07.htm

 

 

 

 

・・・では、次回は 「カティプナンの結成」を読みます・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月11日 (木)

フィリピンの歴史教科書から学ぶ - 102  ホセ・リサール と プロパガンダ運動

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

 

 

Img_2755

 

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」

p221

「プロパガンダ運動が願った改革」

 

プロパガンダ運動は革命的でもなく、又治安を乱すようなものでも 

なかった。 その運動を率いた者たちはスペインに忠実であった;

彼らは単に改革を望んだだけで、独立を求めたわけではなかった。

彼らが求めた改革とは以下のようなものであった;

1.法の下にフィリピン人とスペイン人が平等であること。

2.スペインの正規のいち地方としてのフィリピンの融合。

3.スペイン議会でのフィリピン代議員の復帰。

4.フィリピン教区教会のフィリピン化と修道士の排除。

5.言論の自由、出版の自由、苦情への補償について集まり

陳情をする自由などの、フィリピン人の人権。

 

p222

「プロパガンディスト(運動員)」

プロパガンディストは良家の子弟たちであり、高い教養があり、

教育を受け、愛国的で、そして勇敢であった。 彼らは

フィリピンの成人男性の精華のシンボルであった。

これらのプロパガンディストの中でも、偉大な一人は

ブラカンの マルセロ・H・デル・ピラールで、彼は

法律家でありジャーナリストでもあり、雄弁なタガログと

修道士の虐待に対して恐れずに貧乏人を守ったことで、

多くの人々に愛されていた。

その他のフィリピン人プロパガンディストで言及すべきは、

医師―小説家で多くの輝きをもつ天才 ホセ・リサール

プロパガンダ運動の最高の演説家 グラシアノ・ロペス・ 

ジャエナ; 医学生で伝記作家の マリアノ・ポンセ

・・・・

 

「プロパガンダ運動の海外の友人たち」 

フィリピン人プロパガンディストたちは改革の為のキャンペーンを

自分たちだけでやったわけではなかった。 彼らは自由と正義を

愛する海外の人々にも支えられていた。 その中の一番は、

オーストリア人教授、学者、そしてリサール博士の友人であった

フェルディナンド・ブルメントリットだった。

彼はリサールの二つの小説(ノリとフィリ)を称賛し、Morga

Sucesos de las Islas Filipinas(1890年パリ)の リサールの

注釈版に「序章」を書いた

 

=== さて、上記のMorgaについての関連記事はこちらです。 

Antonio de Morga

https://en.wikipedia.org/wiki/Antonio_de_Morga

He was also a historian. After being reassigned to Mexico, he published

the book Sucesos de las islas Filipinas in 1609, considered one of the most

important works on the early history of the Spanish colonization of the Philippines.

このモルガが書いたフィリピンに関する歴史書に

ホセ・リサールが注釈版を出したようです。

このシリーズの36号でこのように書かれていました:

36 フィリピン植民地は赤字経営だった」

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2014/06/36-95aa.html 

多くのスペイン人の著者とは異なり、Morgaは偏見無しに書いています.
フィリピンの最大の英雄であり学者であったホセ・リサール博士は、
Morga
の本に感銘を受け、1890年にパリで、彼自身が注釈を
 
付けて、その本を再出版しているのです.

=== おお、素晴らしい. そんな本があったんですね.
    このホセ・リサールによる注釈というのがここにありました:

    「http://joserizal.info/Writings/Other/morga.htm

    その元になった、Morgaの本の英語版はここにありそうです:    「http://www.gutenberg.org/ebooks/7001?msg=welcome_stranger

 

=== しかし、上記の「偏見無しに」というのは やや疑問も

    あるようで、インターネットで検索してみると

    「偏見や間違いがあったから リサールが注釈版を書いた」

    と観る向きもあるようです。

 

Rizal's annotation of Sucesos De Las Islas Filipinas by Princess Siasit ...

https://prezi.com/.../rizals-annotation-of-sucesos-de-las-islas-filipina...

2013/09/26 - Spanish conquistador, gov't official, and historical anthropologist; author of Sucesos De Las Islas Filipinas ... Modern historians (including Rizal) have noted that Morga has a definite bias and would often distort facts or even ...

=== 原典を読めばわかるんでしょうけど、私に能力はありません。
あしからず・・・
フィリピン人の歴史の教授に聞いてみることにしましょう。

p223

「1888年の 反―修道士・宣言」 

1888年3月1日に、マニラは騒々しい出来事で封鎖された。

これは数百人のフィリピン人愛国者たちによる反修道士のデモで、

マニラの愛国的法律家であった ドロテオ・コルテスによって

率いられたもので、背後には M.H.デル・ピラールと、ロンドンで

教育を受けた裕福な商人でありフリーメーソンの指導者である

ホセ・A・ラモスがいた。

・・・・

この「1888年の反修道士宣言」は、反フィリピン人大司教の

ペドロ・パヨと悪徳修道士を非難し、運動への干渉、清貧への

修道士の誓いに反する彼ら自身の蓄財、フィリピン人への

スペイン語教育への反対、そしてフィリピンを反啓蒙主義に

維持しようとすることを告発した。

このデモは、フィリピンから修道士たちを追放することを

求めた。

この1888年の反修道士のデモと宣言の結果として、

権力を持つ修道士たちは宣言の指導者や歌手たちを迫害によって

報復し、彼らを逮捕させ、牢獄に放りこませた。

幸いにも、スペイン女王Regentは、1889年に愛国的デモ

参加者たちの恩赦を発令した。

 

=== 実に国際的なプロパガンダ運動ですねえ。

    もちろんスペインの植民地政策にたいする

    改革運動ですから、国際的にならざるを得ないの

    ですが、日本史で学ぶ日本国内の様々な出来事

    とはかなり雰囲気が違いますね。

 

・・・では、次回 シリーズ 103号を 宜しくお願いします・・・ 

 

 

 

 

 

 

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フィリピンの歴史教科書から学ぶ 101 プロパガンダ運動とカティプナン

 

 

HISTORY OF THE REPUBLIC OF THE PHILIPPINES

WRITTEN BY GREGORIO F. ZAIDE

 

フィリピンの大学などで教科書として使われているフィリピンの歴史

の本を読んでいます。 要点のみを引用して翻訳しています。

今日は記念すべき「第101号」なんですが、随分とさぼって

しまいました。 昨年の11月以来のカンバックです。

前回の100号は こちらです

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2016/11/100-f238.html

 

さて、今日からは新しい章に入ります。

いよいよ、ホセ・リサールの登場です。 

Img_2758

「第17章 ポロパガンダ運動とカティプナン」 

p221

GomBurZaの殉教は、フィリピン人愛国者を脅かす代わりに、

スペイン支配の悪と闘うことをさらに決意させた。

ホセ・リサール博士、M.H.デル・ピラール、そしてグラシアノ・ロペス・ 

ジャエナに率いられたillustrados(フィリピン人の知識階級)は、

プロパガンダ(主義の宣伝)運動を組織し、それによって改革への

平和的な聖戦が始まった。

これらの愛国者たちはプロパガンディストと呼ばれた。それは

彼らが、フィリピンに於けるスペイン支配の欠陥と、それを

治すための改革が急務であることを暴露しする為に、ペンと弁舌の

手段で運動を遂行したからであった。

プロパガンダ運動は失敗に終わった。 しかし、自由と正義の思想は、

1896年8月にBalintawakの丘で、カティプナンとアンドレス・

ボニファシオが始めたフィリピン革命への道を開く種をまくことと

なった。 

=== illustradoについて、詳しくはこちらでどうぞ:

https://en.wikipedia.org/wiki/Ilustrado

The Ilustrados (Spanish for "erudite,""learned”, or "enlightened ones"])
constituted the Filipino educated class during the Spanish colonial period
in the late 19th century.

They were the middle class who were educated in Spanish and exposed
to Spanish liberal and European nationalist ideals.

p221

「プロパガンダ運動の興隆」

1872年以降、フィリピンの状況はさらに悪くなった。

フィリピン人指導者たちのスペインの流刑地への国外追放、知識人への

迫害、そしてスペイン人の主人たちによる虐待は衰えることがなかった。

1872年のフィリピン人亡命者たち及び多くの海外の愛国的学生たちは、

香港、シンガポール、バルセロナ、マドリード、パリ、ロンドン、そして

その他の外国の都市で集まった。 共通の理由に触発され、彼らは

連帯し、父の国の福祉と幸福を増進する為の仕事に身を捧げた。

果敢に、しかし平和的に、著述と弁論を通じて、スペインの植民地

制度の悪を正すための改革運動を実施した。

この改革のための平和的なキャンペーンは、フィリピンの歴史の中では、

プロパガンダ・ムーブメント」として知られた。

それはGomezBurgos、そしてZamoraがルネタで処刑された1872年

に始まり、1896年、リサールがDapitanに流刑された年に

終わりを迎えた。 

=== 今回は短いですが、ここまでです。

    久しぶりの翻訳なんで、乗りが悪いんです。

ホセ・リサールさんが書いた著書については、こちらのページに

紹介してありますので、ご参考まで。

http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2005/09/post_a44c.html

なんと、2005年に読んだんでした。

もう12年も前なんですねえ。

忘れるわけだ・・・・

・・・では、次回 シリーズ 第102号をお楽しみに・・・・

    

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年5月 7日 (日)

「浄土三部経ー観無量寿経」を読む-その3- あの世と冥土は何が違うのか??

では、今回は、観無量寿経のメインである 観想のマニュアル
部分を読んでみます。

まず、極楽浄土に行きたい人は、こんなことをしなくちゃいけない
って言う、条件が書いてあります。

p15
かの仏国土に生まれたいと思う者は、三つの福利を修め
なければならない。

一つには、
父母に孝養をつくし、師につかえ、慈しみの心を持って
生けるものを殺さず、十種の善行を行なうこと、

二つには、
仏法僧の三宝に帰依し、多くの倫理的規定を守り、
誇りを失わないこと、

三つには、
覚りに向かうという願いをおこし、深く因果の道理を信じ、
大乗経典を読誦し、他の人たちにもこの道を勧めること、

=== う~~ん、極楽浄土への道は遠いなあ・・

p17
世尊はヴァイデーヒー(大王の奥さんですね)に告げられた
ーー「あなたと、そして、生ける者どもは、心を一筋にし、
思念を一処に集中して西方を観想するのだ。 さて、どのように
観想するかというと、・・・・・正座して西に向かい、はっきりと
太陽を観るのだ。 心をしっかりと据え、観想を集中して
動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空に
かかった太鼓のようであるのを観るのだ。
すでに太陽を観終わったならば、その映像が目を閉じている
ときにも、眼を開いているときにもはっきり残っている
ようにするのだ。 これが<太陽の観想>であり、
<最初の冥想>と名づけるのだ。

=== へえ~~~。要するに、日没の太陽をじっと見て、
    その残像を瞼の中に観るという雰囲気でしね。

Img_2615_2

p17
次には<水の観想>を行なう。
清らかな水を観たならば、その映像がはっきりと残って
いるようにし、想念がかき乱されないようにするのだ。
水を観終わったならば、<水の観想>をおこさなければ
ならない。 

氷の透き通ったさまを観終わったならば、<青玉の観想>を
行なう。 この観想をなし終えたならば、青玉の大地の
内も外も透き通っているさまを観るのだ。
下にダイヤモンドなどの七種の宝石に飾られた黄金の幢幡(はたぼこ)
があって青玉の大地を支えている。

・・・・そこには百の宝石から成る千万の楼閣があり、・・・
八種の清風が光明から吹きおこり、この楽器を鳴らして、
苦・空・無常・無我についての教えを聞かせる。
これが<水の観想>であり、<第二の冥想>と名づけるのだ。

=== この辺りから、極楽浄土の描写みたいな感じなんですが、
    書いてあることをCGの画像にでもしないことには
    理解不能です。

    しかし、「宝石に飾られた黄金の旗が青玉の大地を支え」   
    ってどういうこと???

    青玉の大地って、もしかして地球のこと???
    宇宙飛行士みたいな描写じゃないですか。

p18
この観想ができるようになったら、その一々をきわめて
はっきりと観られるようにするのだ。 眼を閉じているときにも、
眼を開いているときにも、その映像が散ってなくなったりしない
ようにする。

・・・このような観想に到達したら、ほぼ、<幸あるところ>
という世界を観たと言えるであろう。
さらに進んで精神集中ができるようになったら、かの仏国土を
はっきりと観ることになる。・・・これが<大地の観想>であり、
<第三の冥想>と名づけるのだ。

=== ここまで読んだだけで、凡人には無理・・と思って
    しまいますね。

p19
師はアーナンダに告げられたーーー
・・・この大地を観想する者があったら、その人は八十億劫の
間、かれを生と死に結び付ける罪から免れ、死後にはかならず
<幸あるところ>という世界に生まれるであろう。・・・

=== ああ、安心しました。
    こんなことが出来る人は特別な人みたいです。

p19
大地の観想ができたならば、次には宝石の木を観想するのだ。
宝石の木を観想するときには、七重に並ぶ七種の宝石の木の
一々を観想する。
・・・大光明は、無数の幢幡を吊るした宝石の天蓋と化し、
この宝石の天蓋の中に三千大世界の仏たちの一切の所作が
映っており、十方の仏たちの仏国土もまたその中に現れている。
この木々を見終わったならば、それらの一々を次々に観想
しなければならない。
幹・茎・枝・葉・花・果実を観想して、それぞれの映像を
はっきりとさせておく。 これが<林の観想>であり、
<第四の冥想>と名づけるのだ。

=== まあ、そういう木が極楽浄土には生えているって
    ことみたいですけど・・・
    かなりの想像力がないと無理ですね。

p20
次には池水の観想を行なわなければならない。・・・
<幸あるところ>という世界には、八つの功徳のある池水がある。
一々の池水は七種の宝石でできている。
・・・溝の下には、さまざまな色をもつダイヤモンドが
底砂となっている。 一々の水の中に六十億の七種の宝石の
蓮花があり・・・・・
・・・珠宝からは美しい黄金いろの光が流れ出し・・・
相和して鳴く声は甘美優雅であって、常に仏を思念し、
教法を思念し、僧団を思念することを讃える。
これが<八種の功徳ある池水の観想>であり、<第五の冥想>
と名づけるのだ。

=== いや~~。 こりゃあ現代のCGで映像にするって
    いうのも無理みたいっすねえ。
    六十億の七種の宝石だもの・・・・

p21
・・・国土の一々の境界の上に五百億の宝石の楼閣があり、
その楼閣の中に無数の天人たちが居て、天上の音楽を奏でる。
・・・・音楽はみな、仏を念じ、教法を念じ、僧団を念ずべき
ことを説いている。 この観想に到達したら、ほぼ、
<幸あるところ>という世界の宝石の木・宝石の大地・宝石の池
を見たと言えるであろう。
これが<総てを観る観想>であり、<第六の冥想>と名づける
のだ。 この観想を行なう者は、無量億劫のきわめて思い悪業
から解放されて、命が終わったのちかならず、かの仏国土に
生まれるであろう。

=== ああ、やっと、6つの観想の方法が終わりました。
    ところで、今頃気がついたんですけどね、
    「瞑想」じゃなくて「冥想」なんですね

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9E%91%E6%83%B3
瞑想(めいそう、英:Meditation)とは、心を静めて神に祈ったり、
何かに心を集中させること、心を静めて無心になること、目を閉じて
深く静かに思いをめぐらすことである。この呼称は、単に心身の
静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、
絶対者(神)をありありと体感したり、究極の智慧を得るような
ものまで、広い範囲に用いられる。」

上のサイトでは、同じ意味のようなんですが、
こちらのサイトで 意味が異なることを述べています。
http://www.the-world-meditation.com/entry120.html
「瞑想は静かに座って精神を集中させることに対し、冥想は普段
から自分の内面を見ることという違いがあります
。ただ動かない
ことだけが“めいそう”ではないのです。」

しか~~し、私が漢字から受けるイメージとは違うんだなあ・・・

おお、やっとこちらにイメージしていた答えがありました:
http://www.horakuji.hello-net.info/dhyana/meisou/about.htm
「瞑想
〈冥想〉とも書く。〈冥想〉は漢語としては、目を閉じて深く
思索するという意味
。東晋の支遁(あるいは支道林、314-366)の
「詠懐詩」に「道会冥想を貴び、罔象 玄珠を掇る」とあり、
大道に合一するために冥想が貴ばれいる深い精神集中のなか
で根源的な真理と一体化することを「冥」の字を用いて表す
ことは、
『荘子』およびその郭象の注にしばしば見られる。」

「以上のように、瞑想あるいは冥想という言葉自体は、支那に
おいて主として道教から発せられたものです。しかも、日本では、
西洋のMeditationの訳語として近代において当てられたもの
であって、
伝統的にそのような言葉が使われてきたわけではありません。」

・・・ありゃりゃ、って感じの漢字ですねえ。

ところで、漢文とその書き下し文ではどう書かれているかって
いうと、以下のとおりです。

ー和訳ー
これが<八種の功徳ある池水の観想>であり、<第五の冥想
と名づけるのだ。

ー書き下し文ー
これを<八功徳水の想い>とし、<第五>と名づく。

ー漢文ー
是為八功徳水想、名第五

=== な~~んだ、そもそもの漢文には「観」としか書いて
    ないんじゃないの。
    和訳の、それも明治時代ぐらいからの日本の漢字
    みたいですねえ。

    私のイメージで言うと、極楽浄土=冥土だから、
    冥土を想って観るんだから「冥想」でいいんじゃないかって
    思ったんだけど。

    おっと~~、ここで私の大きな誤解を発見
    http://www.manaka-net.com/glossary/detail-367-7.html
    「冥土 (めいど)
    死者が行く迷いの世界
。あるいはそこまでの道程を意味する。
    生前、この世において仏道修行を怠ったものが、死後さま
    よい行く世界。この迷いの世界は、地獄、餓鬼、畜生、
    の三悪道で、そこは暗く、苦しい世界なので冥土と呼んだ
    道教の冥府信仰の影響もあります。盂蘭盆会、施餓鬼法要は、
    すべての冥土の 苦しみから逃れたいという表れという。」

私は、「あの世」=「冥土」だと思い込んでいたんですが、
上のとおり「冥土」は死後に行く「迷いの世界」で、「三悪道」。

こちらのサイトで類語辞典をみると:
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%82%E3%81%AE%E4%B8%96

「あの世」は 「極楽浄土」から「地獄」までの全部を含むもの
みたいなんですねえ。

「あの世」の意義素 
「死んだ後に人が行くといわれている世界のこと。」

類語:
「黄泉 ・ 黄泉の国 ・ 黄泉比良坂 ・ 天国 ・ あの世 ・ 向こう ・
彼岸 ・ あっち側 ・ 死後の世界 ・ 冥府 ・ 陰府 ・ 冥界 ・
常夜の国 ・ 極楽浄土 ・ 浄土 ・ 天上世界 ・ 天界 ・ 天上の楽園 ・
後生 ・ 後世 ・ 来世 ・ 未来世」

浄土宗のお寺さんのサイトにこんなのがありました:

十六観行浄土宗坐禅 ~静の瞑想(メディテーション)~http://www.ennouji.or.jp/event/a-practices/posture.html

「浄土宗の三部経である観無量寿経という経典に書かれた瞑想法として「16観法」と言われるものがあります。 極楽浄土の様子を順々に観想していくことによって最後には魂が浄土に生まれて見仏します。」

「数ある瞑想法の中でも最も具体的な対象を観想するので、初心者には分かりやすい方法です。」

・・・本当に初心者にも分かりやすいのかなあ・・・・

 

=== 私の今までの大きな誤解を発見したところで、   
    次回 その4 に参ります ====

 

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2017年4月13日 (木)

バギオの神社? 戦時中の神明神社の痕跡を探して - PAGASA周辺を歩く

前回は、こんなことを書いたんですが、今ひとつすっきりしないままでした。http://baguio.cocolog-nifty.com/nihongo/2017/04/post-05b1.html

前回は、二つ目の予定があったんで、気象観測所の周辺をじっくり見て廻る時間がなかったんで、今日は 2回目の探索をやったんです。

2img_0002_2

昭和19年3月8日に造営されたという「神明神社」です。

まさに戦時中にバギオ市の今のバギオ・コンベンション・センターの裏山に造られたという神社なんですね。

昭和20年の1月から3月ぐらいの間には、米軍による絨毯爆撃があったそうですので、その間に破壊されたものと思いますから、およそ1年間ぐらいしかなかった幻の神社と言えるかもしれません。

2img_edited213

神明神社の写真は、この本「第七十四平坦病院」の中にあるとの情報をいただきました。

この本は非売品だそうですが、この本の編集をされた宍倉公郎氏が 「イフガオの墓標」という本の著者でして、その本の中の 「神山信雄著「病院の自活態勢と患者の練成」の章より」 というところに神明神社のことが書かれています。

Img_2147

これが 「イフガオの墓標」 なんですが、この本には戦時中のバギオ市周辺の出来ごとがかなり詳しく書いてあります。

Img_2143


・・・そして、この本のこの写真に、

裏山から望む分院全景」というのがあるんですねえ。

「中央松林の向こうの凹地にバギオ市街が展望された」 とあります。

・・・この裏山に 「神明神社」があったんですが、その場所を探しているわけ。

5img_2048

さて、そこで、まずは前回 確認できなかった、バギオ・コンベンション・センターの裏側あたりからつぶさに見ながら歩いてみます。

5img_2050

これはコンベンションの裏通り

左側に松林があって、右側には手前が最高裁判所、その向こう側からPAGASA(気象観測所)の入口の長い坂道、さらにその先に最高裁関係の住宅地があります。

その又先には、右側にビクトリー・ライナーのバス・ターミナルが続いています。

5img_2052

・・で、これは右側にある 最高裁の敷地の中にある立派な屋敷。

この家の裏側には、山と言えるほどのものはなさそうなんですよねえ・・・

5img_2055

・・・で、この最高裁の屋敷の右側に廻ってみます

ちょっと丘みたいに見えるんですが・・・・

5img_2056

ちょっと不法占拠しました・・・みたいな建物があって、この上に登ってみたいんですが、他人の家に侵入しなくちゃいけない感じなんで・・・・

5img_2057

裏山の右側をぐるりと廻って、登る道がないかを探します・・・

5img_2059

・・・で、左方向に登る階段があったんで、登ってみたんですが、こちらも民家でどんずまり。 そこのお兄さんに山に登る道がどこかにないか・・って聞いたら、「PAGASAの方からしか入れないよ。 グリーン・ゲートから入るしかないよ。」 ってことでした。

5img_2060

・・・で、前回と同じ PAGASAの入口から 長い坂を登ります。

5img_2063

そして、前回はこの道の左の測候所の建物の方はみたので、今回は右に最高裁の建物を見ながら真っすぐ進んでみることにしまして・・・・

5img_2065

こちらも 測候所の建物なんですが・・・

5img_2070

これは 仕事の場じゃなくて ゲスト・ハウスみたいな感じでした。

5img_2067

ここで「裏山」が終わっています。 この写真の右側に 最高裁やコンベンション・センターがあるんです。

5img_2068

左側を見まわしても 裏山はここで終わり・・・・

・・・ってことは、裏山というのは 今は気象観測所の敷地だけ・・ということになりそうです。

5img_2072

そこで、前回にも見て廻った 測候所の建物の周囲で この山っていうか丘を下る道があるかどうかをチェック

5img_2073

測候所の建物の正面に こんな階段があるんです・・・・が・・・

5img_2074


この階段の下の道は、民家の敷地で どんずまり・・・・

5img_2080

・・・もうひとつの階段を辿ると・・・・

5img_2082

こちらも この先は 民家の敷地で どんずまり・・・・

・・・つまり、測候所の敷地に出入りする道は、最高裁の並びの長い坂道しかないってことになりました・・・・

イフガオの墓標」の中には、この神明神社の参道について、以下のような記述が残っています:

p339

「一方では、室井隊より山頂に至る、表参道、裏参道も、軽症患者の手に依って併行して建設が進められた。

・・・社殿、石垣、柵、表参道、裏参道、一の鳥居から三の鳥居まで建設され・・・」

・・・・ってことは、つまり、少なくとも二本の道があったわけです。

その表参道かあるいは裏参道が、今のPAGASAの正門からの道だとすれば、少なくともその反対側にもう一本の参道がある筈なんですがねえ・・・

 

5img_2084


・・・で、今度は、PAGASAの入口を出て、右側。

つまり、裏山に向かって 左側から廻ってみることに・・・・

5img_2087

するとすぐ右の角に 「最高裁判所」の表示のゲートが・・・

5img_2088

・・・これがゲートで、この中にたくさんのコテージが並んでいます。

おそらく最高裁関係者の住宅になっているのではないかと思います。

・・・昔、戦時中には、ここに一時期住んでいた日本人もいたと聞いた記憶があります。

5img_2090

その角を右に廻ると 左がビクトリー・ライナーとガソリン・スタンド。

右側は 最高裁の住宅地です。

5img_2094

ジプニーのたまり場にもなっています。

5img_2097


・・・さて、裏山を左側から廻るんでした。

最高裁の住宅がしばらく続きます。

5img_2099

この写真の右上に 最高裁住宅の敷地の塀があって、ここで終わり。

5img_2107

お隣は 小学校が続いています。

裏山に登る道は 左側にもありませんでした。

5img_2102

・・・つまり、結論的には、神明神社があった裏山というのは、今は気象観測所PAGASAの敷地になっていると考えてよさそうです。

5img_2106

・・・で、ひとつだけ 気になるのは、その位置関係なんですねえ。

Img_1899

裏山から撮ったとされる この写真。

この写真のどの位置に 今のコンベンション・センターがあるのか・・ってこと。

もし、今のコンベンション・センターが、この写真の中の 左側の方にある 空き地みたいなところに建てられたのであれば、イメージは合うような気がします。

つまり、写真手前の立派な建物は 今は最高裁の敷地なんじゃないか

ってことは、この写真の中心部の庭園みたいになっているところは、今は フィリピン大学バギオ校の入口の正面にある松林のところであれば、裏山との位置関係が納得できそうな感じです。

5img_2109


そんなことを考えながら、小学校の前の車寄せを通り過ぎ・・・・・

5img_2112

汗を拭きふき こちらの有名店へ・・・・

5img_2115

ここには たま~~にしか来ないんですが、

ワインとスパゲティーを食べに来るんです。

5img_2123a

スパゲティーのイメージとはちょっと違う海鮮パスタ。。。

このちょっと平たい麺は なんて言うんですかね?

きし麺じゃないことだけは確かだけど・・・・

こちらのサイトでチェックすると、

https://matome.naver.jp/odai/2139648914408533601

”切るという意味のtagliareをその名の由来とする幅が5mmから10mm前後の平麺タイプのパスタ。

・・これに一番近いかな?

メニューに書いてあった名前を忘れた。

私はこの麺よりも、丸棒タイプのスパゲッティが好きなんで、

そのつもりで 「スパゲッティにしてね」 と頼んだつもりだったんだけど・・・・・

やっぱりね。

次回、またチャレンジしてみっかな?

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ワインの酔いを グリーン・マンゴ・シェークで醒まして・・・・

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バタンガスの地震の記事をちょっと読み。

しかし、最近、フィリピンも地震が多くなったよなあ・・・・

マニラから南が多いようですね。

5img_2130

ガードのお兄ちゃんは 真面目に仕事をしてんのかな?

一所懸命 携帯をいじっていたけど・・・・

5img_2131


・・と思っていたら・・・・

マネジャーみたいな人が 水が落ちて来ていたのに気づき、

ガードのお兄ちゃんに、「ここを ちゃんと拭いて・・・・」 などと指示しちゃって・・・

しかし、天気はいいのに、なんで上から水が落ちてくんの??

5img_2135

遅いランチを終わって・・・・

5img_2137

多分、宗教系のバンドだと思うんですが、賑やかな演奏と歌が 近くの体育館みたいなところから流れてくるのを 聞きながら、ふらふらと・・・・

5img_2138

ロアカン・ロードの入口。

ミリタリー・カット・オフ通りと サウス・ドライブが交わるロータリー。

5img_2139

これは インディアンではありません。

イゴロットの雄姿。

5img_2141

・・・・ってことで、一応 「裏山の神明神社」 は一件落着ということにしました。

この記事の最初に掲載した 神社の写真を見ると、今の気象観測所の広さと ほぼ感覚的には一致するので、いいんじゃないかなと思います。

・・・・・

ところで、最近 こんなニュースを見たことはありませんか?

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/50609?page=3

「2016年12月19日、フィリピンの地元紙に小さな記事が掲載された。

山下財宝を探しているフィリピン人男性が、バギオ市内にあるトンネルの発掘許可を市当局に申請したというのだ。戦後71年を経てもなお山下財宝は「ニュース」であることを改めて印象付けた。」

実は、このニュースにある現場というのが、バギオ・コンベンション・センターからフィリピン大学バギオ校の辺りだという地元紙の報道があったんです。

・・・で、私が思い出したのが、上記の「イフガオの墓標」にあるこんな文章です。

p339

「分院の裏には五十米足らずの丘があった。 山の頂上から見渡す、バギオの町は美しく、ボルハンパーク、セッション通り、ハリソン通り、市役所が一望に見える。 此の裏山には既に拡大な地下防空壕が構築されていた。」

・・・ なんと、今の気象観測所の山っていうか丘の下に 巨大な防空壕があったっていう話なんです。

上の地元紙の中では、当時の地元の若者が日本軍が何かを運ぶのを手伝わされたというような話が今回の山下財宝の噂になっているようです。

フィルスター新聞:

http://www.philstar.com/nation/2016/12/18/1654658/treasure-hunter-asks-govt-permission-search-yamashita-gold

Treasure hunter asks gov't permission to search for Yamashita gold

BAGUIO CITY — A treasure hunter asked the local government to allow him to dig up alleged truckloads of gold believed to be part of the World War II loot supposedly left by Japanese forces in a tunnel between the Baguio Convention Center and the University of the Philippines-Baguio residence hall for girls.

But Cabusao argued that a 90-year old Baguio-born half Japanese man who has been a US resident since the mid 70’s had pointed to him the alleged location of the treasure. 

“We have explored and detected around the convention center using different detecting tools and equipment and all converged on a small grassy area five meters from the concrete sidewalk toward the UP ladies dormitory,” Cabusao claimed.
 
 
インクワイアラー新聞:

http://newsinfo.inquirer.net/881131/hunt-for-yamashita-treasure-in-baguio-on  

Hunt for Yamashita treasure in Baguio on

The permit would allow Cabusao to first drill 10-centimeter wide holes in six key areas near the Baguio Convention Center (BCC) in front of the University of the Philippines Baguio campus.

The man of Japanese descent, who was born in Baguio, was in his teens when he and several others were ordered to hide the treasure, Cabusao said.


この新聞記事では、バギオ生まれの日系人、当時十代が、財宝を隠すのを手伝わされたという話になっているようですが・・・・・

・・・・・・

どこの範囲まで 裏山の防空壕が広がっていたのか知りませんが、フィリピン大学の近くまで地下通路が延びていても不思議ではない距離かと思います。

・・・ 断っておきますが、山下財宝を探しなさいって言っているわけじゃないっすよ。

あはははは

 

 

 





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2017年4月 9日 (日)

バギオの神社?散歩: 気象観測所、最高裁、コンベンション・センター、フィリピン大学、公園、博物館

最近かなり運動不足なんで、以前から噂に聞いていた 第二次世界大戦中にバギオ市に日本の神社があったって場所を探しに、散歩に行きまして。

5img_1961

PAGASAというのは Philippine Atmospheric, Geophysical and Astronomical Services Administration の略号で、日本で言うなら気象庁なんです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E5%A4%A7%E6%B0%97%E5%9C%B0%E7%90%83%E7%89%A9%E7%90%86%E5%A4%A9%E6%96%87%E5%B1%80

設立年月日は 1972年だそうです。

・・・

・・・で、なんでここに来たかって言うと、実は バギオ・コンベンション・センターの裏山にこんな話があるんです。

http://janl.exblog.jp/10965319/

p339
分院の裏には五〇米足らずの丘があった。 山の頂上から見渡す、バギオの町は美しく、ボルハンパーク(注:バーンハムパーク)、セッション通り、ハリソン通り、市役所が一望に見える。 この裏山には既に拡大な地下防空壕が構築されていた。

此の山上に神社の建設が開始されていた。 ・・・軽症患者の中より、大工、宮大工、製材者が選び出された。 
(略)
社殿、石垣、柵、表参道、裏参道、一の鳥居から三の鳥居まで建設され、流石の難工事も、昭和十九年三月八日完成した。 同日未明バギオ地区司令官荒木少将列席のもとに鎮座祭が施行された。

当時の模様をマニラ日系新聞は・・・・(略)
バギオ陸軍病院(注勿論兵站病院のこと)の白衣の勇士たちが勤労奉仕によって造営した「神明神社」は・・・・(略)・・・
バギオ市内の邦人も参詣し、勇士達の相撲や演芸なども奉納された。

p340
当時バギオ市及びその周辺には多数の邦人が居った。 市内では大商店を経営し、 トリヌダッドには多数の農業経営者が住んでいた。 日本人学校、日本人墓地はあっても、神社はなかった。

=== 上の記事の中で、「分院」というのは、今のバギオ・コンベンション・センターの場所には、戦前に ガバメント・センターと呼ばれたフィリピン政府機関の建物が集まっていて、戦時中には 日本軍の病院がそこを接収していたんです。 それで「分院」と呼ばれたわけです。

Img_1899

これは、1910年に撮影された ガバメント・センターなんですが、

向こう側にバーンハム公園やバギオ市役所があって、写真の手前側が

「裏山」という方角になるんです。

で、現在のPAGASAは、この写真でいうと、手前の右の方向にあります。

5img_1962

・・・で、そのPAGASAの入口に戻りますと、ご覧のように長い坂道が続いています。

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まっすぐ登った頂上に 気象観測の測候所の建物がありました。

8img_1945

いくつかの機器類が設置されています。

8img_1942

周りを眺めてみると、こちらの方角は、上記のガバメント・センターが前方右側にあったことになります。

8img_1947

こちら側は、裏山のさらに裏側方向の眺め。

ここから下には民家があって、階段もあるようでした。

ここに神明神社があったとすると、こちら側が参道で、今の測候所の建物あたりに本殿があったのかもしれません。

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足元には かなり年代を感じさせるコンクリートが・・・・・

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では、PAGASAのゲートに戻り、昔のガバメント・センターの方角へ歩いてみましょう。

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道路の左側に、立派な建物があるんですが、ゲートの外側には何の表示もありません。

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ゲートから離れた建物の壁にある表示板を望遠で撮影すると、

1964年に建設が始まった最高裁判所の建物だと書いてあります。

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左に最高裁判所を見ながらまっすぐに進むと、右前方にバギオ・コンベンション・センターが見えてきます。

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コンベンション・センターの横には、大型バスが駐車していましたが、これは私が昔働いていた会社の シャトル・バスですね。

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振り返って最高裁の並びを見ると、立派なお屋敷みたいなのがあるんですが、その後ろには裏山と言えるほどの小山は見えません。

ってことは、やっぱり「別院の裏山」と書かれていた場所は、PAGASAの測候所がある場所じゃないかなと思うわけ。

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・・・さて、コンベンション・センターを抜けて、フィリピン大学バギオ校の方へ進みましょう。

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これがフィリピン大学のシンボルの像です。

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大学の入口を見ながら前進。

この辺りは、松林が多く残っています。

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フィリピン大学の正門に向かって右隣りにあるのが、この公園。

サンシャイン・パークと呼ばれています。

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ひまわりは、バギオのシンボルみたいな花になっているようです。

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おそらく、フィリピンの中でも、こういう温帯系の花が見られるのは、標高1500メートル前後のバギオ市ならではなんでしょうね。

それを代表するのが 2月のフラワー・フェスティバルです。

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モンシロチョウみたいなのもよく見かけるんで、松林と相まって、日本にいるような気持ちにさえなる町ですね。

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・・・かと思うと、南国らしく、こんな花もあります。

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この公園には、こんなステージもありまして、ここでは、よく近くの大学生と思しき若者たちがダンスの練習をしています。

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公園のステージの横を出ると、こんな看板がありまして。

右前方に見える建物は、 コーディリエラ大学の校舎です。

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左角を廻ると、バギオ博物館

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実は、今日の散歩のふたつめの目的は、この絵画展だったんです。

この写真のアーティストは、日比友好月間イベントの美術制作を過去6年間に渡って担ってくれた Vince Nabarro君

ビンス君はフィリピン大学在住時代から、七夕祭なんかを手伝ってくれたんですが、昨年2016年に、アメリカの財団から招聘され、武者修行を目前にして、突然の病に倒れてしまったんです。

その彼の作品を、大学時代の仲間たちが、追悼展として開催しているわけ。

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バギオ博物館の4階。 8月一杯開催中みたいです。

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RETROSPECTIVEってのは 回顧展という意味のようです。

ビンス君への追悼文・・・ですね。

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フィリピン大学の美術学部の教授らしき人が 何やら解説をしていました。

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彼が最後にやっていた作品は、コーヒー豆を煮出した後のガラを使ったユニークなものでしたが、どうも売れてしまったようで、ここには展示されていませんでした。

Baguio Beans という回顧展のタイトルは、コーヒー豆のことを言っているのかも。

個人のコレクションとなっている作品もいくつか展示されていました。

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バギオ博物館の1階では、別の若いアーティスト達のグループ展がほぼ同時にオープンしていました。

ちょっと覗いてみましょう。

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私は、美術が分かるというレベルの人間じゃないんですが、観るのは割と好きな方で、特に若いアーティストの面白い作品に出会うのがいいですね。

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多くの若いアーティスト達が 成功してくれるといいなあ~~と思いつつ、お金はありません。 悪しからず。

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仮に買ったとしても、飾る部屋もありません。

重ねがさね悪しからず・・・・

・・・・・

なんで、最近 「散歩」をことさらやっているかって言うと

最近とみに体力の低下をひしひしと感じておりまして、

4月17日から日本語教室が始まるもんで、

ヤバイなって思ってんです。

「散歩」はタダだしね。

写真を撮って歩いていれば、苦痛にはならないし・・・・・

昔っから、身体の為だけ、健康の為だけにことさら運動をするってのが嫌いなタチで、

なんか理由がないと身体を動かさないという意固地な、天邪鬼なんです。

・・・ああ、厄介だな。

 

 

 

    

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2017年3月30日 (木)

バギオ市ケノン・ロード散歩: 1904年の沖縄移民慰霊碑を探して Camp7からCamp6へ

Walking in Baguio :  from Camp7 to Camp6 along Kennon Road

バギオ市高原保養地開発の為の山岳道路ケノン・ロード(当初はベンゲット道)の建設工事に日本人労働者が多数関わったことはバギオ市民にも広く知られているんですが、その関係資料の中には沖縄からの労働者のことはほとんど触れられていないんです。

山岳道路が完成したのは1905年。 本土の日本人労働者が入ったのは1903年、そして今回の沖縄からの労働者が参加したのは1904年とされています。

沖縄からのお客様から、ケノン・ロードの有名な観光スポットであるライオン・ヘッドの近くに、沖縄から工事に参加して犠牲になった人たちの慰霊碑があるという話をつい最近になって聞きまして。

それは探さなくては、ってことで、写真撮影を兼ねて、ぶらぶらと散歩してきました。

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出発地点は この キャンプ7 の野菜・お土産屋が並んでいるところ。

7:30amのスタートです。

なんでこの時間に出たかって言うと、昼間は帰りのジプニーが少なくなるという話を聞いたからなんです。

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道路の右側は こんな感じ。

丘の向こう側には セント・ルイス大学バカケン・キャンパスがあります。

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ケノン・ロードは、あちこちで 道路拡幅や下水管の埋設工事などが頻繁にあります。

お陰で、交通渋滞。

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ここは、ケノンロードから ロアカン・ロードへの分かれ道。

ロアカン・ロードは、フィリピン・ミリタリー・アカデミー(日本の防衛大学に相当)や、キャンプ・ジョンヘイへの道です。

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さて、ここから目的地への距離は・・・

ライオン・ヘッドまで3キロありますね。

沖縄移民の慰霊碑は、ライオン・ヘッドの近くということなので、2.5キロから3.5キロぐらいの範囲を入念に見て歩くことにしました。

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ケノン・ロードを見下ろす 展望台が見えて来ました。

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展望台に とうちゃこ!!

ここの施設は 日系人会の北ルソン比日基金(通称アボン)が管理しています。

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展望台からの ケノン・ロード。

ジグザグ・ロードとも呼ばれています。

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これが記念碑。

アメリカ、フィリピン、日本が協力して作ったという絵になっています。

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谷底を覗くと、真ん中あたりに黄色いライオン・ヘッドの岩が見えます。

近そうなんですが・・・・・それが、なかなか・・・

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沿道にこんな果樹がありまして・・・

ちょっと柿に似ていなくもないんですが・・・フェイスブックで友達に聞いてみたところ、これは 地元では Chesa と呼ばれているそうで。

wikipediaで調べたところ、こんなことが書かれていました:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AB

「一般的なフルーツの芳香や酸味、ジューシーさがなく、食べると口の中の水分を吸うため喉が渇く。食べ頃を判別するのが難しく、完熟にならないと非常に不味である。」

カニステルは栽培されている台湾や沖縄でもほとんど市場に並ばないマイナーな果実である。近年まで栽培しても売り物にならなかったことから、「蟹捨てる」、「金捨てる」など沖縄の農家の間で揶揄を込めた駄洒落で呼ばれることがあった。」

・・・なんだか、渋柿に似ているような・・・

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結構な坂なもんで、ジプニーもバイクも ぜいぜい言いながら登っております。

私は、帰りは絶対歩きません・・・笑

ただ、帰りのジプニーがあるかどうかが心配。

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バギオで名産品に入るらしい箒・・・・・

日本のホウキよりも柔らかくて細い植物の茎で作ってあるので、赤ちゃんのいる家庭で、静かに掃除をするのには向いているって話です。

日本にも輸出されているようです。

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こちらは家具屋さん。

手作りの家具です。 ケノン・ロード沿いには、いくつか骨董品になりそうな家具を作っているお店があります。

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沿道の民家は、石垣と花で彩られたところがあって、趣があります。

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こちらは 狭い 段々畑・・・・

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実は、こんな谷底の 段々畑なんです。

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山肌は かなり崩れ易そうな土質に見えます。

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坂道を サイクリングで登っていく人たちもいます。

山の麓からは およそ30キロあるんです。

山岳レースにでも出る人たちなんでしょうかねえ・・

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ここは、2年ほど前の台風で、大規模な土砂崩れが発生。

道路が完全に流されてしまった場所です。

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片側通行なんで、ここも渋滞のボトルネックですね。

今でも崩れ易い道路なんで、1905年の完成までの困難な工事が推測できます。

それに、台風なんかでちょっと大雨になったりすると、すぐに通行止めになったり、重量級の車両は 日頃から通行が禁止されています。

なので、バスなどは、マルコス・ハイウエイを使っています。

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これは、闘鶏のにわとりさんです。

趣味か商売か・・で、育てているんですね。

闘争心を育てるのがなかなか大変なんだそうです。

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ここは、家具屋さんというか、彫像みたいな置物なんかのお店。

このワンちゃん達、おとなしく寝てりゃいいのに、私が近付くと、俄然元気に吠えだしちゃって・・・ちゃんと仕事をしていました。

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はい、こんな感じの ジグザグ・ロードですね。

日本の「いろは坂」みたいな・・・・

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道路を造る為に削られたんでしょうね。

根っこがむき出しになって、それでも地面にしがみ付いています。

向こう側に ワンちゃんの姿が・・・・・

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上を見上げると、木が必死に手を広げているんですが・・・

枯れているのかな?

絵的には いい感じなんだけど・・・・

・・・で、一匹だけ姿が見えていたワンちゃんですが・・・

数匹が盛大にお出迎えしてくれまして・・・

おまけにその中の一匹が熱烈歓迎で、飛びついてきてくれました。

まあ、どっちかって言うと、嬉しさのあまり・・という感じの飛びつき方でしたが・・

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・・・う~~ん??

なんだか正体不明の造形物がありました。 なんだろな??

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さて、いよいよ、ライオン・ヘッドが目の前に現れてきました。

・・で、その手前に マリア像が・・・・

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こんなマリア様でした。

この小さな公園は、個人というか家族のプロジェクトで造ったと書いてありました。

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道路脇には、十字架も建ててあります。

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・・・で、カーブを廻ったところが ライオン・ヘッド。

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ここは、まだ キャンプ7 なんですねえ。

とうちゃこ時間は 9時・・・ 

3キロを1時間30分でぶらぶら歩いて降りてきたことになります。

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ここで、朝ごはん。

小さいカップ・ラーメンにお湯を入れてもらいまして、35ペソ(およそ85円)。

久々のカップ・ラーメンは 旨い !!

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・・・さて、沖縄移民労働者の慰霊碑なんですが・・・

このお店のお姉さんに尋ねてみたんですが、

「知らない」という答。

お姉さんが、周りにいた男たちにも聞いてくれたんですが、誰も知らない

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はい、ライオンさんの 正面です。

ちょっと前までは、色が真っ黒に塗ってあって、ライオンと言うより、ゴリラって感じだったんですが、今は この色なんで、まあ 大丈夫ですね。

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この近くに 「元祖ライオン・ヘッド」がある筈なんですが、発見できず。

元々は、これよりも小さい自然の岩が ライオンの頭に似ていたってことらしいんですが。

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こちらは、お店に並んだ 馬さん。

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さて、ライオン・ヘッドから さらに ゆるりと下ります。

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この辺りで、車を洗っていたお兄ちゃんにも 尋ねたんですが、

不発に終わり・・・・

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このお店に通りかかったところ・・・・標識に 「キャンプ4」 とある・・

なに・・・?????

キャンプ7 から いきなり キャンプ4 ってか???

ところで、このキャンプって意味なんですが、

このベンゲット道を建設中に 労働者がご飯を食べる飯場があったんです。

その飯場がキャンプでして、山の麓から Camp1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8 と 

キャンプ8まであるんです。

キャンプ8は、バギオ総合病院のちょっと下にあります。

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おかしいなと思って近づいてみると・・・・ 4 の上から 6 と訂正してありました

ここからが バランガイ キャンプ6 だそうです。

(バランガイっていうのは 「地区」ぐらいの意味で、れっきとした行政単位です。)

この辺りが、バギオ市とベンゲット州の境になるわけですね。

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このお店の前に座っていた 爺さんとお姉さんに 沖縄移民労働者の慰霊碑のことを聞いてみたんですが、ここでも「知らない」という答でした。

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・・・悲観的な気持ちが胸を覆い尽くし、谷底を覗きこむ・・・・

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岩がごろごろ・・・・

谷底に吸い込まれそうな・・・・なんてことはありませんでした・・・笑

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はい、ここでやっと バギオ市とベンゲット州の 州境っていうか、県境っていうか、はっきりとした標識が立ててありました。

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さらに下っていきますと・・・・・

村の「お肉屋さん」です。

お兄ちゃんたち二人が、それぞれに 鶏さんたちをぶらさげて出て行くところでした。

正に フレッシュ 鶏肉・・・・です。

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ベンゲット州 ツゥバ町 キャンプ6地区・・・・・です。

確か このちょっと下辺りだったと思うんですが、サリサリ・ストアの小母さんに、慰霊碑のことを尋ねました。 4人目の証言です。

その小母さんいわく:

「そうねえ、昔はそういうのがあったかもしれないけど、道路の拡幅工事をやったりしたから、もう取り壊されてしまったんじゃないかなあ・・・」

・・・という返事。

もしかしたら、この付近にあったのかもしれないんだけど、

はっきりと 「あった」 とは言わない小母さん。

おそらくこの周辺に日本人が来たりしていたんでしょう。

もしかしたら、第二次大戦の戦没者の慰霊碑と誤解しているのかと思ったんで、道路建設労働者の慰霊碑だよ・・って念押ししたんですが・・・

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・・・そして、さらに よたよたと坂を下って、サリサリ・ストアの横に 猫ちゃん発見。

ここまでで、目的の慰霊碑は発見できず・・・

我泣きぬれて 猫とたわむる・・・・・状態。

しかし、フィリピンで、猫が「繋がれて」いるってのは 初めて見たな。

私がこの横のベンチで、一服している間、一度も目を覚まさなかったし。

余程 この世に希望を見出せない生活をしているんだろうな・・・・涙

・・・・さて、ライオン・ヘッドから この最終地点までが 30分でした。

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・・・一服したお店の ちょっと下にあるお店の看板。

そこで3~4名の人たちがたむろっていて・・・・

ジプニーが登ってきたら それに乗り込んだ。

私も一服したお店を動かず、それが登ってくるのを待つ。

ジプニーに後ろから乗ろうとしたら、

セカンド・シートに廻りなさい

って言われて、前だ前だと言うので、助手席に行ったら、

「違う、違う、セカンド・シートだよ」

運転・助手席の後ろに横に一列の席があって、4名が座れるようになっていた。

こういうタイプのジプニーの座席は初めてだった。

・・・・

ジプニーが ブイブイとエンジンを唸らせ、息を吐きながら、急坂を登って・・・

キャンプ7の下宿に辿りついたのは、15分後だった。

とうちゃこ時間は 10:15amだったかな。

もうぐったり・・・

1時間半ばかり午前中の昼寝・・・・・

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2017年3月13日 (月)

from Trancoville to Lower Brookside : Walking & Photo taking in Baguio city

普段はめったに行かない、バギオ市のトランコビルとブルックサイド。

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トランコビルに チャイニーズ・ホスピタルという中国医療の病院があって、その院長さんが チャールズ・チェン医師だったんですが、2013年9月に亡くなられまして。

http://www.baguiomidlandcourier.com.ph/front.asp?mode=archives/2013/october/10-6-2013/front3.txt

Dr. Cheng was known as the doctor for the poor who offered fruits or whatever produce they had as gratitude for the free treatment the doctor offered them. They will miss him after he succumbed to complications at a Baguio hospital on Sept. 26. He was 81.

Born in Baguio on May 7, 1932 of parents from mainland China, Dr. Cheng will be mostly remembered for his extensive practice and expertise in acupuncture and traditional Chinese healing methods.

バギオ市の中国系フィリピン人のコミュニティーを代表する人でもありました。

バギオ博物館での日比友好イベントなどにも参列していただいたものです。

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その院長ご夫妻が出版された 中国系フィリピン人の北部ルソン島に関する歴史本。

資料として使わせていただいたお礼に行ったんです。

このドクター・チェンは、毎年12月に開催されている 平和慰霊祭の時にスピーチをされまして、「日本の戦前のスローガンは良かった。しかし、そのやり方がまずかった」とおっしゃっていました。

 

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要するに、この1930年代のバギオ地図の完成のお礼に行ったんです。

でも、残念なことに、チャイニーズ・ホスピタルは、スーパーみたいなお店に改装中でした。

院長の奥さまの秘書なる人が後で来るってことで、完成品の地図をお渡しして・・・

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しみじみしながら、ちょっと散歩しました。

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名も知らぬ花々。。。。

うちの下宿のお婆ちゃんの庭にもあるんですけど。

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「ここで洗車をするな!」

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なるほど・・・・井戸水かなにかがいつも使えるわけですな・・・

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これって、紫陽花の一種なんでしょうか?

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この周りは、傾斜地に民家がびっしり。

まあ、私の田舎の長崎あたりも似たようなもんですけどね。

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道路が狭いんで、歩行者は歩きにくい。

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PUROKと言うのは、街区ぐらいの意味でしょうか。

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Green House for Transient の看板。

トランジエントと言うのは、短期滞在の旅行者という意味でして、バギオにはたくさんあります。

まあ、一言でいえば安宿みたいなものです。

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こういう石積みは何と呼ぶんでしょうね。

バギオ市のいたるところで見られる崖の石の積み方です。

なかなか風情があります。

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JPComCares ジャパン・フィリピン・コミュニティー・アンド・コミニケーションと書いてあります。

ここは、随分前に一度見学したことがあるんですが、障害児のケア・ホームのような施設です。 どちらかと言えば、障害児の親に対する教育をしているようです。

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これは何と言う花でしょう。

日本でも鉢植えのものを見たことがあるような・・・・

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こちらでは、道路脇に たくさん植えてありました。

棘がたくさんあるから、もしかして泥棒よけの意味もあるのかな??

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時々思うのは、バギオ市では ここに見える5階建ての民家が結構見られることです。

日本では、普通の民家で3階建てとか5階建てとかはあまり見ないですよね。

建築基準はどうなってんの? と不思議に思うことも多いです。

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この急な、無理やりな坂。

こんな坂を見ると、我が故郷の長崎・佐世保を想いだすんです。

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石垣、このいい加減に見える石積み。 いいなあ~~~。

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これ、調べてみたんですけどね。

黄色いコスモスみたいに見えます。

日本では、ピンクや白が多いように思いますけど、黄色もあるんですね。

http://ameblo.jp/hitotarou0818/entry-12199736075.html

「キバナ・コスモス」というのがあるみたいです。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%90%E3%83%8A%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%82%B9

「原産地はメキシコで、標高1600m以下の地域に自生する。18世紀末にスペインマドリードの植物園に送られ、ヨーロッパに渡来した。日本には大正時代の初めに輸入された記録が残っている。」

・・・ メキシコとフィリピンは、スペインの植民地で昔から強いつながりがありますから、フィリピンにこのコスモスがあっても不思議じゃないわけだ。

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この配色、なかなかいい感じじゃないですか?

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この花が一輪だけ ひっそりと開こうとしていたんですけど、満開になるとどんな花になるんだろうなあ・・・・

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下の看板。

「清潔さ。 規律正しさのシンボル」

まあ、言いかえれば、「散らかすな」ってことだと思います。

フィリピンの人たちは、このディシプリンという言葉が好きなようなんですけどね。

よく、「日本人はディシプリンがある」と言われます。

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「清潔好き」で思い出したんですけど、

最初に書いた 中国系フィリピン人のお医者さんが言っていました。

100年前にバギオに通じるケノン・ロード建設に携わった日本人は、建設工事中の飯場の近くにある自然の温泉によく入っていた。

あまりに綺麗好き、清潔好きだったんで、病気に弱くて、たくさん死んでしまった。

人間は、そこそこ汚い所で免疫をつけないとダメなんだよ。

まあ、「水清ければ、魚棲まず」・・・なんていいますもんね。

意味が違うかな???

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ここも、マニラから253キロの地点でした。

この前行った TIPTOPも同じ距離でしたね。

さて、お散歩はここまで・・・・・・

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穴倉に潜り込んで・・・・・

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ジョニー・ウォーカー・ブラックのコーラ割り。

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昼の盛りから 酒盛りです。

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なんでかって言うと・・・・

下宿が9AMから5PMまで停電だったもんで、パソコンも使えず、

ここで映画監督としみじみやったわけです。

フラワー・フェスティバルのパレードで、ビデオ撮りをお願いしたもんで。

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このバーは、バギオ市の中でも一番雰囲気のあるバーなんですよ。

昨年のミッドランド新聞の年末のノミネーションにも入っていました。

http://www.baguiomidlandcourier.com.ph/nominations2016.asp

ご覧のとおり、 Bar of the Year -  Rumours と掲載されています。

ちなみに、 インデックスの I のところを見ますと・・・

Institutionalized  Japanese Community Festival of the Year

7th Tanabata Festival

とあります・・・・

これは、バギオ市の年中行事としての年間賞ノミネート:

「制度化された日本人コミュニティーの祭り - 第七回七夕祭り」

・・・ってことなんですねえ。

嬉しいです。

しみじみ お酒も美味しいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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